親露か親欧米か 揺れる旧ソ連圏諸国の動向(上)  ―勢力圏回復を目指すプーチン大統領の思惑と現実―

親露か親欧米か 揺れる旧ソ連圏諸国の動向(上) ―勢力圏回復を目指すプーチン大統領の思惑と現実―

2025年1月23日
はじめに

 2022年2月にロシアの侵略で始まったウクライナ戦争はまもなく3年目を迎える。1月20日新政権を発足させたトランプ大統領は、大統領選挙中からウクライナ戦争の早期終結を目指す考えを明確にしてきた。最近の戦局はロシア優位で推移しており、停戦講和に向けた動きも、露軍占領地の絶対確保やウクライナのNATO加盟拒否などロシア主導で進むとの見方も呈されている。
 クライナへの侵略を開始したロシアに対し、欧米諸国は経済制裁を課した。しかし制裁に加わらない中国やインドに天然ガスなどを供給することでロシアは制裁の打撃を回避しており、当初期待されたほどの制裁効果は上がっていない。相当な落ち込みが予想されたロシア経済も、インフレ懸念はあるものの、戦争特需の影響で表面上は好況を維持している。さらにプーチン大統領は中国との関係強化に努めており、中露の権威主義枢軸が一体となってグローバルサウスの取り込みを図るなどロシアの基盤は強固盤石であるようにも見える。
 だが、果たしてそうであろうか。ロシアの真の国力や国際世界に及ぼす影響力の大小を知るには、経済通商の現状やウクライナ戦争の動向・推移だけでなく、ロシアとロシアが自らの勢力圏と考えている周辺諸国との関係がどのような状況になっているかについても詳しく知る必要がある。ここで今月と来月の2回にわたり、この問題を取り上げてみたい。

1.勢力圏回復をめざすプーチン大統領

 ソ連の崩壊後、ロシア共和国がその後継国となったが、エリツィン大統領の時代は経済の混乱や疲弊が続き、新生ロシアの国際政治における影響力は旧ソ連当時と比べ大きく落ち込んだ。だが、その後を継いだプーチン大統領は石油天然ガスの輸出を軸に経済状況を回復に向かわせた。またエリツィンの進めた地方分権の政策を中央集権へと180度転換させたほか、国歌をソ連当時の曲に戻すなど“強いロシアの復活”をめざした。そして20年以上にわたるプーチンの長期独裁体制を通して、ロシアは大国としての存在感を次第に取り戻していった。
 現在のロシアをかっての帝政ロシアや冷戦当時米国と世界を二分した旧ソ連のような強国にすることがプーチン大統領の目標であり、強国に戻る以上、以前有していた勢力圏の回復とその維持も絶対に実現しなければならない政治命題なのである。
 何処までをロシアの勢力圏とみなすかについては、ポーランドやハンガリー、ルーマニアなどソ連の衛星国であった東欧諸国もプーチンの視野に入っているだろうが、少なくとも旧ソ連を構成していた15の共和国を再結束し、ロシアが中心となって束ねていきたいとの思いがあることは間違いない。ソ連を構成していた各共和国の多くはソ連崩壊後に独立国家共同体(CIS)を結成したことから、CISを軸にロシア周辺国の動きを振り返ってみよう。

2.CISの創設と揺らぎ

 ロシアと旧ソ連邦構成諸国との間には、様々な地域協力機構が存在するが、その核となる枠組みが独立国家共同体(Commonwealth  of  Independent States:CIS)である。
 CISはソ連崩壊直前の1991年12月8日、エリティン・ロシア共和国大統領、シュシュケビッチ・ベラルーシ最高会議議長、それにクラフチュク・ウクライナ大統領の3人がミンスク郊外でソ連の解体と独立国家共同体の結成を宣言した。その後、12月21日にアルマータ宣言に署名して、ロシア連邦などソ連邦を構成した11か国が参加してCISが正式に発足した。
 CISの目的や機構等を規定するCIS 憲章(1993年)によれば、政治・経済・環境・人道・文化、その他の分野における協力、加盟国の全体的かつバランスの取れた経済的・社会的発展と国家間協力及び統合、国際平和と安全保障のための協力、非核化・軍縮、各国市民の自由な移動と交流等が目的に掲げられている。CIS の最高意思決定機関は、加盟国大統領からなる国家元首評議会で、その議長はロシア大統領が務めてきた。このほか、分野別の大臣級評議会や50以上の部門別協力機関、また2000年にはテロ対策センターが設置された。
 ところで、CIS はもともとソ連の平和的解体とその事後処理のために応急的に作られた枠組みで、将来における加盟国の主権委譲や国家統合等が目標に掲げられているわけではなく、地域協力機構としてのビジョンは不透明である。また旧ソ連時代から、連邦を構成する各共和国とロシアとの緊密の度合いは濃淡様々で、それが今日も尾を引いており、加盟国の間にEUのような共通の理念や一体感が伴っているとは言い難い。
 そのためCIS には足並みの乱れが目立っている。例えば発足当初、ロシアは旧ソ連軍をCIS 統合軍として一元的に継承する考えだったが、ウクライナやアゼルバイジャン等が独自軍の創設に着手したため、ロシア自らも露軍の創設を決定する。結局CIS は統合軍の建設を断念、集団安保機構作りに構想を転じ、1992年5月、タシケントで集団安全保障条約が締結された。
 当初の加盟国は6か国(アルメニア、カザフスタン、クルグスタン、ロシア、ウズベキスタン、タジキスタン)。名称は集団安全保障条約だが、実際には共通の敵に対する加盟各国の集団防衛を目的としている。その後、ベラルーシ、ジョージア、アゼルバイジャンが加わったが、アゼルバイジャン、ジョージア、ウズベキスタンが99年に脱退した。独立志向を強めるウクライナや中立政策を標榜するトルクメニスタン、モルドバは最初から参加していない。現在の集団安全保障条約の加盟国数は発足当初と同じ6か国(アルメニア、ベラルーシ、カザフスタン、クルグスタン、ロシア、タジキスタン)である。
 またエリツィン政権は当初大西洋主義外交を進めたが、国内の批判、反発を踏まえ旧ソ連圏重視に方針を転換、それに伴いロシア主導のCIS 運営が前面に押し出されるようになった。

二分化が進むCIS

 そのためロシア中心での 運営に同調する国(ベラルーシ、カザフスタン、キルギス、アルメニア、タジキスタン等)と、ロシアから距離を置こうとする国(アゼルバイジャン、ジョージア、ウクライナ、モルドバ、トルクメニスタン、ウズベキスタン等)にCIS は事実上二分され、ジョージアとウクライナはCISを脱退する(トルクメニスタンはCISの原加盟国だが、永世中立を宣言したため加盟資格を停止し、客員参加となった)。
 経済的自立が困難か、防衛力が不十分等の理由でロシアの支援を不可欠とする国々が前者に属し、主に集団安保条約加盟6か国が該当する。後者は黒海艦隊や統合軍創設を巡り対露関係を悪化させたウクライナや、ロシアのアルメニア支援を不満に思うアゼルバイジャン等分離主義運動や民族問題等でロシアとの関係が緊密ではなかったか敵対してきた国々で、その多くは欧米に目を向け北大西洋条約機構(NATO)や欧州連合(EU)への参加をめざしている(図表1参照)。

 前者の親露派諸国の動向を見ると、96年にロシアとベラルーシ、カザフスタン、キルギスが「経済及び人道領域における統合深化に関する条約」に調印した。各国は関税同盟を結成し、98年にはタジキスタンを加え、2000年には「ユーラシア経済共同体」を創設している。これにアルメニアを加えた6カ国は、集団安全保障条約のメンバーでもある。
 ロシアと緊密な関係を維持しているベラルーシは、ロシアと「連合国家創設条約」を締結している(1999年)。ロシアにとって、中央およびバルト諸国と国境を接し、またロシアの飛び地カリーニングラード゙からも近い距離にあるベラルーシの地政学的価値は大きい。ロシアとベラルーシの「連合国家」は、自国の領土主権、憲法を維持しつつも、共通の通貨、軍事ドクトリン、国家予算、国境政策等を持つことを予定している。
 ロシアのイニシアチブで02年5月、集団安全保障条約の機構化を決定、同年10月に改組に関する決定に署名(2003年9月発効)。集団安保条約機構(CSTO)が創設された。事務局はモスクワに置かれ、加盟国首脳会合、閣僚級会合を定期的に実施するほか、統合司令部、中央アジア地域緊急展開集団部隊などが設けられた。
 中央アジアでは、カザフスタン、キルギス、タジキスタンがロシアと緊密な関係を維持しているが、中でもカザフスタンがロシア最大の同盟国だ。ロシアとの国境線が非常に長く、また国内に多数のロシア系住民を抱えていること、ロシアが最大の貿易相手で対露経済依存度が非常に高いこと等のため、ロシアと友好関係を保つことはこの国の至上命題である。ロシアもウズベキスタンの影響力に歯止めをかけるため、カザフスタンを重視している。
 これに対し、ロシアから距離を置く4か国(ジョージア、ウクライナ、アゼルバイジャン、モルドバ)は、集団安全保障条約に参加せず、それぞれの頭文字をとって97年にGUAMというグループを結成する(1999年から2005年まではウズベキスタンも加盟していたためGUUAMという名称であった)。GUAMは、シルクロードの復興と経済発展、旧ソ連諸国の主権と独立の強化等を目的とし、紛争解決、テロ対策等の安全保障、エネルギー供給、欧米との協力等ロシアの影響力を排除する形で多方面にわたって協力することを目指した。なかでもアゼルバイジャンとジョージアはNATO入りの意思を表明し、NATO主導のコソボでのPKO 活動に40人余の派兵を行う等関係強化に努めた。米国やEU諸国もGUAMの創設を歓迎し、多額の経済援助を行ってきた。ロシアを牽制するとともに、この組織が、ロシアとイランを避けての石油パイプライン建設に関わる地域であるからだ。
 ソ連崩壊から30年を経た2020年、ロシアが盟主を自任する旧ソ連圏の中でも主にGUAM加盟諸国においてロシアの影響力低下を示すような出来事が相次ぎ、プーチン政権を揺さぶる事態となった(図表2参照)。そこで、まずロシアに最も近い国とされるベラルーシの政情に触れたあと、GUAM諸国の変動を眺めていきたい。

3.軍事面でロシアと一体化の動きを見せるベラルーシ

 ロシア周辺諸国の中でもベラルーシ、モルドバ、アルメニア、アゼルバイジャン、ジョージアは、ウクライナ戦争の影響を強く受けている。ロシアとの関係が強まった国もあれば、反対に弱まった国もあるが、ウクライナ戦争を契機に今まで以上にロシアとの関係が強まっているのがベラルーシだ。1994年以来、ルカシェンコ政権による独裁政治が続いており、「欧州最後の独裁国家」と非難されている。
 現在のベラルーシの領域は三度のポーランド分割を機に18世紀後半よりロシア帝国の支配下に入り、1921年からはソ連邦を構成する「白ロシア・ソビエト社会主義共和国」となった。その後、ソ連邦崩壊により1990年に独立宣言を行い、1991年に国名を「ベラルーシ共和国」へ変更した。
 先述したようにベラルーシとロシアは連合国家の関係にある。1999年12月にベラルーシのルカシェンコ大統領がロシアのエリツィン大統領との間で「連合国家創設条約」を締結。当時ロシアは国力が低下しており、イニシアチブはベラルーシ側が握っていた。そして、2000年1月の条約発効に伴い、ルカシェンコ氏が連合国家の最高指導者(最高国家会議議長)となるはずだった。
 だが、エリツィンの後継となったプーチン大統領がこれに反対、ロシアの国力回復に伴いベラルーシのロシアへの吸収合併を示唆したためルカシェンコが反発し、連合国家の構想は棚上げになっている。もっとも完全に統合構想が消えたわけではなく、ロシアが2030年までにベラルーシを吸収統合する具体的な計画を持っているという内容の文書が暴露された(23年2月)。とはいえ、現在のところロシアも直ちにベラルーシをロシアに統合したり、ウクライナ戦争に完全に組み込もうとする動きは見せていない。それによってルカシェンコの独裁体制を不安定化させることを警戒しているためだ。
 2020年8月の大統領選挙ではルカシェンコ氏が得票率80%で6選を決めたが、選挙の不正を訴えて辞任を求める大規模な国民の抗議デモが発生。反政権の機運が全土に拡大し、首都ミンスクでは10万人を超える大規模デモが続いた。ルカシェンコ氏は憲法改正後に権限を移乗する意向を表明し、翌年2月には22年に改憲の国民投票実施を約束するなど世論の辞任圧力回避に努めた。
 この事態に対し、ベラルーシに欧米寄りの政権が生まれたり、デモが飛び火したりする事態を警戒したプーチン大横領はルカシェンコ氏支持の立場を表明し、経済支援などを実施した。ロシアの後ろ盾を得たことでルカシェンコ政権は反政権派を徹底的に弾圧し、抗議デモは下火に向かったが、ルカシェンコ氏の長期独際体制は決して安泰ではない。
 そうしたなか、ウクライナ戦争の勃発に伴い、軍事や安全保障面でロシアとベラルーシの一体化が急速に進んでいる。2022年秋ベラルーシは露軍との合同部隊創設を発表、露軍部隊をベラルーシ国内に駐留させるなど参戦を示唆するかのような動きを見せた。ベラルーシはロシアとともに欧米諸国から制裁を受けており、ロシアとの軍事、さらには産業面での連携を強めることで西側諸国に対抗しようとしている。
 もっともルカシェンコ大統領は、自国が攻撃されない限りウクライナへの軍隊派遣は「あり得ない」とも述べている。ベラルーシ軍は小規模であり、また国民の反発をルカシェンコ氏は恐れており、ロシアに協力して関係悪化を避けつつも直接参戦は避けたいと考えている。
 一方のロシアは23年、べラルーシへの戦術核兵器の配備に踏み切った。核の共同運用でNATOに対抗する狙いで、昨年ロシアが実施した戦術核兵器の使用を想定した演習にはベラルーシも参加している。またプーチン大統領はベラルーシが侵略された場合は核兵器で反撃するとの「核ドクトリン」改定案を公表した(23年9月)。これを受けルカシェンコ大統領も、NATOの部隊がベラルーシに侵攻した場合にはロシアとともに核兵器で反撃すると述べている。ポーランドとの国境には米軍やポーランド軍が展開しており、「ベラルーシへの攻撃があれば第3次世界大戦になる」とルカシェンコ大統領は西側を強く威嚇している。
 さらに昨年12月、プーチン大統領とルカシェンコ大統領は、主権防衛のための核兵器使用を容認した安全保障条約に署名した。プーチン氏はベラルーシ領もロシアの核兵器で防衛するとして米欧を牽制。ウクライナ東部への攻撃で使用した新型の中距離弾道ミサイル「オレシュニク」を今年後半にもベラルーシに配備する可能性も示した。
 確かにベラルーシとロシアは同盟関係にあり、指導者の距離は近く、行動を共にすることも多い。だが互いに独裁者であるルカシェンコ氏とプーチン氏の間に人間的な信頼関係があるとは思えない。プーチンロシアの圧倒的な政治・軍事力の前にベラルーシが追従しているというのが実態である。そうすることによってルカシェンコ大統領は自らの体制維持を図り、他方、プーチン大統領はベラルーシを事実上の統制下に置き、西欧の東進を阻む防壁、あるいは勢力拡大やウクライナ侵攻の前身拠点として利用しているに過ぎない。

4.ナゴルノカラバフ紛争とアルメニアのロシア離れ

 次にコーカサスの状況に目を移したい。コーカサス(ロシア語の発音はカフカス)は、黒海とカスピ海を結んで連なるカフカス山脈の周辺地域で、山脈の北側にはチェチェンやイングーシ、タゲスタン、北オセチアといったロシア連邦共和国に属する共和国が、山脈の南側には3つの独立国アゼルバイジャン、アルメニア、それにジョージアがある。コーカサスはロシアとイスラーム圏の間にあり、黒海を経て東ヨーロッパにも繋がる交易の要衝である。領域的には広くないが、多様な民族や宗教が複雑に入り交じっているため、ソ連が崩壊し構成国が独立する前後から、各地で民族紛争が多発している(図表3参照)。

アルメニア系住民の飛び地ナゴルノカラバフ

 24年6月、アルメニアは、アゼルバイジャンとの紛争でロシアの支援が得られなかったとして、ロシアを中心とする集団安保条約機構(CSTO)から脱退の意向を表明し、7月には米軍との合同軍事演習を実施するなど西側諸国との関係を強めている。なぜそのような動きを見せることになったのか。経緯を振り返ってみよう。
 1917年のロシア革命で成立したボリシェヴィキ政権は、レーニン、そしてスターリンによる支配を通じて広大なソビエト連邦を作り上げたが、その過程で多数の民族を内部に抱えることになった。モスクワの強権的な支配で国を纏めていたものの、1980年代後半にペレストロイカの波が広まると、各地域でそれまで抑え込まれていた民族問題が一気に噴出した。アゼルバイジャンの領内にあるナゴルノカラバフ自治州の帰属を巡るアゼルバイジャンとアルメニアの紛争もその一つである。
 アゼルバイジャンとアルメニアはともに旧ソ連邦の構成国。ナゴルノカラバフ自治州の面積は4400平方キロで日本の山梨県と同規模。アゼルバイジャンの国土全体の約20%にあたり、アルメニア系住民が12万人程の人口の95%と圧倒的多数を占めている。ソ連がナゴルノカラバフをアルメニアに編入せずアゼルバイジャンの自治州に留めたのは分断統治策の一環で、民族どうしを対立させて連帯させないようにする狙いがあったといわれる。
 宗教も異なる。アゼルバイジャンはシーア派イスラム教徒であり、イランと繋がりが深く、民族言語的にはトルコ系に属しておりトルコの支援を受けてきた。一方、アルメニアは世界最古のキリスト教国家とも呼ばれ、人口の9割以上がキリスト教徒である。ただカソリックや正教会とは違い「アルメニア使徒教会」という独自の宗派(ロシア正教系)に属している。第一次大戦中、トルコ統治下で150万人ものアルメニア人が虐殺されたことから、いまもアルメニアとトルコは対立関係が続く。

第一次ナゴルノカラバフ紛争

 ソ連の支配が揺らぐなか、1988年2月、ナゴルノカラバフのスムガイトで、アルメニアでの迫害を逃れてきたアゼルバイジャン人がアルメニア系住民を虐殺した(スムガイト事件)。これが契機となり、アルメニアへの併合帰属を求めたアルメニア系住民とそれに反発するアゼルバイジャン人の対立が激化し、武力紛争へと発展した。第一次ナゴルノカラバフ紛争(1988〜1994)である(図表4参照)。

 ソ連は軍隊をバクーに派遣し、紛争の鎮圧を図った。アルメニア系住民は翌91年9月に「ナゴルノカラバフ共和国」(別称「アルツァフ共和国」)として独立を宣言(国際社会の承認は得られず)。12月にはソ連邦が解体し、アゼルバイジャンとアルメニアはそれぞれ独立国となった。紛争はロシアの支援を受けていたと見られるアルメニア側の圧倒的優勢で推移し、1994年5月にロシアの仲介で停戦が実現したが、アルメニアはナゴルノカラバフのみならずその周辺の地域を含めアゼルバイジャンの領土の14%を占領することになった。
 第一次紛争で3万人が死亡し、アゼルバイジャン人50万人が難民となっている。

第二次ナゴルノカラバフ紛争

 1994年の停戦後も散発的に小規模な衝突が繰り返された。2020年9月にはアゼルバイジャン軍とナゴルノカラバフ自治州に駐留する隣国アルメニアの軍隊が衝突し、再び大規模な紛争に拡大した。戦闘は44日間続き、トルコから攻撃型ドローン「TB2」など近代的な兵器の提供を受けたアゼルバイジャンが制空権を確保し、アルメニア軍が装備するロシア製の戦車や防空ミサイルを打ち破り、第一次紛争で失ったナゴルノカラバフを除く占領地をすべて奪還した。イスラエルが敵視するイランとアゼルバイジャンが隣接しているため、アゼルバイジャンはイスラエルからも高性能ドローンの提供を受けている。
 さらに第一次紛争以来、アゼルバイジャンがアルメニアの3倍以上を国防費にあて、軍事力の強化を続けてきたことも勝利に繋がった。国防力強化の原資になったのはカスピ海の巨大な油田の開発である。首都バクーからジョージアを通り、トルコの地中海に至る「BTCパイプライン」の建設は、トルコとの結びつきを強める効果もあった。
 ロシアはアルメニアなど旧ソ連邦構成5カ国とともに集団安全保障条約機構(CSTO)を結んでおり、加盟国のアルメニアが攻撃を受けた場合、集団防衛の規定に基づきアルメニアを助けねばならない義務がある。しかるにロシアはアルメニアを支援しなかった。集団安全保障条約は、あくまでアルメニア本国が攻撃されたときに防衛の義務が生じるもので、ナゴルノカラバフは「アゼルバイジャンの領内」であり正式なアルメニア領ではないというのがロシアの説明であった。アゼルバイジャンの側もロシアに介入の口実を与えないため、極力アルメニア本国への攻撃を避けていた。
 またロシアにとって武器やエネルギーの重要な顧客であるトルコとの関係を悪化させたくない思惑もあった。さらにアルメニアでは2018年、大統領退任に伴い首相に鞍替えしたサルキシャン氏の親露長期政権が民衆の抗議デモの中で倒れ、新たな首相となった野党「エルク」のパシニャン氏は親露政策の見直しと欧米との関係を深める多極化外交を推進していた。ロシアがアルメニア支援に出なかった背景には、この紛争でアルメニアの敗北が確実になれば必ずロシアの助けを必要とするので、アルメニアが親露の立場から離れることにはならないだろうとの計算が働いていたといわれる。中立の姿勢を崩さぬままロシアが仲介に入り20年11月に停戦が実現したが、双方の犠牲者は民間人を含めて5千人強に上った。

2023年の衝突

 先の停戦協定では、ロシアが平和維持のために2000人規模の軍隊を派遣すること、ナゴルノカラバフとアルメニア本国を結ぶ「ラチン回廊」を開放することなどで合意したが、この人道回廊が軍事物資輸送を疑うアゼルバイジャンによって封鎖され、双方の緊張が高まった。そして23年9月、アゼルバイジャンが「対テロ作戦」と称しナゴルノカラバフ共和国への侵攻を開始し、僅か1日で勝利を収めた。
 アゼルバイジャンの軍事行動により、現地のアルメニア系住民が建てていたナゴルノカラバフ共和国(自称)は武装解除に合意、アルメニアのサンベル・シャフラマニャン大統領は24年1月1日をもってナゴルノカラバフ共和国の全国家機関を解散する法令に署名し、ナゴルノカラバフ共和国が消滅。アゼルバイジャンはナゴルノカラバフの主権回復を宣言し、多数のアルメニア系住民が避難民としてアルメニア本国に逃れた。
 この時も2020年と同様、ロシアは紛争に介入せず、それがアゼルバイジャンの勝利に繋がった。ロシアは平和維持部隊を駐留させているが、傍観状態であった。ロシアが不関与不介入の姿勢に徹した背景には、ウクライナとの戦争が長期化し、兵力を割く余裕が無かったこともあるが、アゼルバイジャンとそれを支援するトルコとの関係を重視したことがある。ウクライナ侵攻後、ロシアはアゼルバイジャンと天然ガス分野などでの協力を強化している。またアゼルバイジャンはロシアからイラン、インドに通じる回廊上に位置しており、西側諸国からの経済制裁の抜け道になっているのだ。さらにアゼルバイジャンを支援するトルコはウクライナ戦争の仲介役としてロシアにとって重要度が増しており、関係悪化を回避するため介入を避けたと見られている。アゼルバイジャンが軍事行動を起こしたのも、こうしたロシアの事情を見越してのものと考えられる。
 アゼルバイジャンのイルハム・アリエフ大統領は国民に向けたテレビ演説で「主権を回復した」と勝利宣言を行った。 一方、敗北したアルメニアのニコル・パシニャン首相は「ナゴルノカラバフに住むアルメニア系住民は民族浄化の危機に直面している」として、ロシアの無策を非難した。チェチェン、ジョージア、クリミアと続いてきたプーチン大統領による勢力圏回復の試みも、後述するウクライナ侵攻作戦の失敗に続くこのナゴルノカラバフにおける同盟国アルメニアの敗退で、大きく躓くことになった。

アルメニアの対露批判とCSTOからの離脱

 紛争後、アルメニアのパシニャン首相は、加盟国支援の義務を果たさなかったとして露主導の軍事同盟「集団安全保障条約機構」(CSTO)とロシアを繰り返し批判、またアルメニアは23年9月に米国との合同軍事演習「イーグル・パートナー2023」を実施、一方でCSTOの自国内での演習を認めないと表明した。ウクライナ侵攻に絡んでプーチン大統領に逮捕状を出した国際刑事裁判所への加盟にも動いている。
 さらにアルメニアのパシニャン首相は23年10月の独立国家共同体(CIS)、11月の集団安保条約(CSTO)以降の両首脳会議をいずれも欠席。24年2月にはパシニャン首相が「アルメニアはロシアの同盟国ではない」とウクライナ侵攻に反対する立場を明言し、またCSTOへの参加凍結を表明した。さらに4月には「なぜ同盟にとどまる必要があるのかという国民の質問に私は答えられない」とアルメニアのCSTOからの離脱を仄めかした。アルメニア外務省はCSTOへの資金拠出停止を表明(5月)、翌月パシニャン首相はCSTOから「脱退する」と発言した。ただ具体的な時期は明らかにしなかった。
 アルメニアはエネルギーをロシアに依存しており、またロシアはアルメニア領内に軍事基地を展開させている。そうした事情に加えロシアを刺激する恐れも強いことから、アルメニアがCSTOから完全に離脱することはないともみられる。とはいえアルメニアはロシアから距離を置く一方で、欧米への接近を急速に強めている。ミルゾヤン外相は3月、同国が欧州連合(EU)加盟を将来的な選択肢の一つとして検討していると明らかにした。4月にはパシニャン首相がブリンケン米国務長官、欧州連合(EU)のフォン・デア・ライエン欧州委員長らとブリュッセルで会談。フォン・デア・ライエン欧州委員長はアルメニアに2024〜27年の4年間で約2億7千万ユーロ(約440億円)を支援すると発表した。
 またパシニャン氏がCSTO脱退の意向を表明する前日、オブライエン米国務次官補がアルメニアを訪問し、ミルゾヤン外相と会談。両国関係を戦略的パートナーシップに昇格させる方針が示された。7月には米軍との合同軍事演習を実施、同国を訪問したゼヤ米国務次官は、軍事協力の一環としてアルメニア軍に米軍の顧問が常駐することを明かした。
 こうしたアルメニアの対欧米接近の動きにロシアは反発している。外務省のザハロワ報道官はパシニャン氏の対露非難を「無根拠だ」と批判。アルメニアと欧米が軍事協力で合意したとの報道に対し「アルメニアはロシアに釈明すべきだ。理想は(合意の)取り消しだ」と述べた。ブリンケン米国務長官と会談したアゼルバイジャンのアリエフ大統領も、EUや米国によるアルメニア支援強化は地域の軍拡競争を助長すると懸念を表明している。
 だが今年に入った1月9日、アルメニア政府は閣議で欧州連合(EU)への加盟交渉の開始に向けた法案を決定した。議会が可決すれば、EUとの加盟交渉を始めるという。アルメニアはロシアが主導し旧ソ連5カ国でつくるユーラシア経済同盟(EAEU)の加盟国だが、ロシアのペスコフ大統領報道官はEUとEAEUの二つの異なる組織に加盟するのは「不可能だ」と指摘。今後この法案が可決されれば、アルメニアのロシア離れと欧米との関係強化の姿勢はさらに鮮明となろう。続いて1月14日にはアルメニアのミルゾヤン外相が訪問先の米ワシントンでブリンケン米国務長官と会談し、経済面や安全保障面などでの両国関係の強化を定めた「戦略パートナーシップ憲章」に署名した(図表5参照)。

 アルメニアがロシア離れを一層鮮明にするなか、アルメニアへの軍事支援を見合わせたことが契機となり、プーチン政権のロシア周辺地域に対する影響力は大きく低下している。アルメニアが欧米への傾斜を強めていることで、ロシアの裏庭である南コーカサスの戦略地図にも変化が起きている。
 実はアルメニア・アゼルバイジャン紛争が起きた前年の2022年、CSTO加盟国である中央アジアのタジキスタンとキルギスの間で小規模な国境紛争が生起した際も、ロシアは静観を続け紛争の停止や仲介に動こうとしなかった。CSTOの規定を反故にするロシアの姿勢を前に、CSTO加盟国のロシアに対する信頼感は揺らいでいる。いまやCSTOに加盟する6カ国の中で、ロシアの忠実な同盟国と言えるのはベラルーシ一国のみとの厳しい見方も呈されている。
 23年12月、アルメニアとアゼルバイジャン両政府は、主権と領土一体性原則の尊重に基づき、関係正常化と平和条約締結を目指す意思を再確認する共同声明を発表し、捕虜の交換や信頼醸成に向けた措置を講じることで一致した。しかしそれから1年が過ぎたが、平和条約締結に向けた交渉は難航しており合意に至っていない。
 交渉が長期化している背景にはアルメニアを通る輸送回廊などが課題になっているとの指摘がある。アゼルバイジャンにはアルメニアに分断される形でナヒチェワン自治共和国という西部の飛び地がある。アゼルバイジャンはアルメニア南部のイラン国境に沿って本土とナヒチェワンを結ぶザンゲルズ回廊の実現を目指しているが、アルメニア側は自国の主権を侵害するかたちでの回廊構想に抵抗しているためだ(図表6参照)。周辺国相互の紛争にロシアが日和り、積極的に仲介の役割を果たそうとしない状況が続く中、アルメニアとアゼルバイジャンの対立状況は沈静化しそうにない。

ロシアとの距離を縮めていたアゼルバイジャンだが・・

 アルメニアとロシアの距離が開いた一方、ナゴルノカラバフ紛争はアゼルバイジャンをロシアに近づけることにもなった。2024年8月、プーチン大統領はアゼルバイジャンの首都バクー近郊でアリエフ大統領と首脳会談を開催し、地域の安全保障や経済でアゼルバイジャンを支援する姿勢を強く示した。
 ところが、アリエフ体制の下で権威主義的傾向を強めるアゼルバイジャンとロシアの関係が安定に向かった矢先の24年12月、カザフスタン西部で乗客・乗員67人が乗ったアゼルバイジャン航空の旅客機が墜落した(図表7参照)。その原因は調査中だが、同機がチェチェン共和国の上空を飛行していた際、誤ってロシア軍の防空ミサイルシステムによって撃墜された可能性が高まったことから、良好だったロシアとアゼルバイジャンの関係が一挙に悪化した。

 当初、ロシア当局がバードストライクによる機材の損傷が事故原因との見解を公表したことに対し、アリエフ大統領は「事実を揉み消そうとした」と強く批判。その後プーチン大統領がアリエフ大統領と電話で会談し、ロシア領空内で悲劇的な事件が起きたとして「謝罪」した。だがミサイルによる誤射の可能性には触れておらず、これにアリエフ大統領が不満を示し、ロシアに対し罪を認め公式な謝罪をすることと責任者の処罰、そして賠償金の支払いを求めている。

5.プーチン大統領を刺激したカラー革命 

 南コーカサスのもう一つの国がジョージアである。冷戦後、コーカサス〜カスピ海〜中央アジアに至る地域で政権交代や政治変動が相次いだ。俗に「カラー革命」と呼ばれるが、2003年11月のジョージアでの「バラ革命」がその発端となった。04年12月のウクライナにおける「オレンジ革命」がそれに続いた。
 ジョージアでは2003年11月、議会選挙の結果は偽りだったとする集会の圧力でシェワルナゼ大統領が退陣に追い込まれ(バラ革命)、翌年1月の大統領選挙ではバラ革命を主導したサアカシュヴィリが新大統領に選出された。彼は国内に残る露軍基地の早期撤退を要求するなど前政権の親欧米路線を継承した。
 04年11月にはウクライナで任期満了のクチマ大統領に代わり、親露派のヤヌコヴィッチ候補(当時首相)が選出された。だが開票の不正を糾弾する大規模な抗議運動でやり直し選挙が行われ、12月には親欧米路線をとる野党のユーシェンコが大統領が選出された(オレンジ革命)。ジョージアとウクライナに続き、05年3月には中央アジアのキルギスでも政変が起こり、14年間政権を担当したアカーエフ大統領が失脚、ここでも親米派のバキ−エフが新大統領に当選する(チューリップ革命)。5月にはウズベキスタンのアンディジャンで反政府暴動が発生している。
 ロシアはカラ−革命を主導した反体制勢力の背後に米政府の関与・支援があったと疑っている。22年1月に開催された集団安全保障条約機構(CSTO)の緊急首脳会議でもプーチン大統領は「我々はカラー革命を容認しない」と述べ、外部勢力による政権転覆の試みだったとの見方を示し、ロシアが勢力圏とみなす旧ソ連地域への欧米による干渉を防ぎ、東方拡大を続ける北大西洋条約機構側と対抗していく姿勢を鮮明にしている。
 その真偽はともかく、当時のブッシュジュニア政権のコ−カサス〜中央アジアに対する政策が、対アフガン作戦やテロ掃討戦のための後方支援基地の確保に加え、⑴(中東での民主化を拡大する形で)域内諸国の民主化と市場経済化の促進⑵エネルギー利権への接近(開発とパイプライン建設の参加)、さらに⑶この地域の親米化を進めロシアの牽制とその影響力減殺にあったことは間違いない。
 民主化を阻むため、ロシアはジョージアやモルドバの最有力輸出品であるワインの全面禁輸措置に出るなど圧力をかけ対抗し、その後、反露親欧米路線を進めるジョージアやウクライナとの軍事紛争へと事態は悪化していく。南コーカサスに位置するジョージア、ついでウクライナの順に状況を見てみよう

6.ロシアと対立するジョージア

ロシア・ジョージア戦争

 ヨーロッパの最東端、コーカサス山脈の懐に位置するジョージアは黒海に面し、人口は400万人。国土は日本の約5分の1。19世紀初めにロシア帝国に併合され、その後ソ連邦に加盟していたが1991年に独立。しかし西部のアブハジアと北部の南オセチアには露軍が駐留している。バラ革命で失脚したシュワルナゼに代わり大統領に就任したサアカシビリは親西側路線を推進し、2008年にはNATO加盟への動きを加速させた。これに反発したロシアは、ジョージアの自治領でともに分離独立を主張する南オセチア自治州とアブハジア自治共和国への軍事支援を強めていった。
 南オセチア自治州に住むオセット人(オセチア人)は同胞の住むロシア連邦内の北オセチア共和国との統合を求めている。90年代初め、南オセチアの独立派はジョージアとの戦闘で州都など大半の地域を実効支配したが、国際的に独立は承認されず、92年のロシア・ジョージアの和平合意成立後も散発的な衝突が続いた。7万人の住民中7割弱がオセチア人(ジョージア人は3割弱)で、州内にはロシアの平和維持軍が駐留し、自治州政府の後ろ盾となっていた。
 08年8月、ジョージアはその南オセチアに軍隊を進め、州都ツヒンバリ等を制圧した。電撃作戦で一挙に主権の回復と分離派の弾圧を狙ったのだが、露軍が南オセチアのロシア系住民を保護するという名目で大規模な軍事介入に踏み切りジョージア軍を撃退。露軍はジョージア領内にも侵攻し領土の1/3を占領、軍の一部は首都トビリシに迫る勢いだった。
 米国のブッシュジュニア大統領は露軍の介入を非難し撤退を求めるとともに、人道支援を目的にジョージアに米軍を派遣し緊張が高まった。欧州連合(EU)を軸とする仲介により8月中旬和平合意が成立したが、ロシアは南オセチアとアブハジアの独立を承認し、以後ジョージアとロシアは冷却状態が続いている。このロシア・ジョージア紛争でサアカシュヴィリ大統領の求心力は低下し、2009年4月、首都トビリシでサアカシュヴィリ大統領に辞任を求める大規模な反政府集会が野党の主導で開かれた(図表8)。

対露関係改善を目指す与党「ジョージアの夢」

 ジョージア国民の約80%は西欧との統合を支持しており、他方ジョージアに侵攻し国土の約20%を占領しているロシアに強い敵意を抱いている。もっともジョージアはロシアとの経済的な繋がりが強いこともあり、両国の関係は一筋縄ではいかない複雑さが伴う。
 特に2012年10月の選挙では、ロシアとの関係改善を目指す野党連合「ジョージアの夢:民主主義ジョージア」が勝利を収め、同連合代表のビジナ・イヴァニシヴィリが首相に指名された。その結果、対露強硬派のサアカシュヴィリ大統領を事実上政界から放逐し、以後ロシアとの関係改善を目指す動きが進んでいる。
 翌年10月に行われた大統領選挙では、「ジョージアの夢」が推薦したギオルギ・マルグヴェラシヴィリ候補が圧勝し、サアカシュヴィリ大統領の後継者であるダヴィト・バクラゼ候補は惨敗した。これにより、反露・親欧米政策を推し進めてきたサアカシュヴィリ体制は終焉を迎えた。「ジョージアの夢」の創設者で首相を務めたイワニシビリ氏はロシアで財を成した大富豪で、首相を退いた今日もジョージア政界を牛耳っている。そうした事情もあって、ジョージアはウクライナ戦争には中立を保っており、ロシアへの経済制裁も見送っている。
 ただ「ジョージアの夢」も欧州連合(EU)加盟を目指す方向性は変えておらず、2014年6月、欧州連合(EU)と連合協定を締結し、7月1日正式に協定が発効した。政権与党である「ジョージアの夢」の支持者に「EU加盟に賛成」する者は多く、イワニシビリ氏も「2030年にEUの加盟国になる」と約している。だが、こうした「約束」は反政権運動の盛り上がりを防ぐための偽装に過ぎないとの指摘もある。イリア国立大学のチャールズ・フェアバンクス・ジュニア教授は「政権はロシア重視が明らかで、EUとの亀裂は深まる」と見ている。
 そうしたなか、2018年にはサアカシュヴィリの盟友で同政権の外相を務めたサロメ・ズラビシュヴィリが大統領に選出された。ズラビシュヴィリ大統領は対露強硬路線を唱える親欧米派で、対露制裁への不参加とウクライナ戦争に対し中立的立場を貫く与党との対立が強まっている。もっともジョージアの大統領は名誉職で政治的な実権は無く、現政権はこれまでの政策姿勢を変えてはいない。
 ロシアが08年にジョージアとの5日間の戦争に勝利して以来、現在も両国の外交関係は断絶したままだが、「ジョージアの夢」がロシアとの関係改善を模索していることもあり、23年5月、プーチン大統領もジョージア人にロシアへのビザなし渡航を認めるなど近年ロシアとジョージアの関係は改善に向かいつつある。

反スパイ法の制定

 ジョージアの野党は、イワニシビリ氏が力を持つ政権与党「ジョージアの夢」に対して、ジョージアをロシアの「勢力圏」に引き戻そうとしているとの疑念や懸念を抱いており、両者の対立が深まっている。そうした状況の下、野党を支持する勢力を牽制するため、与党は24年4月、外国から予算の20%以上の資金提供を受けるNGOやメディアを「外国勢力の利益を追求する組織」として登録し、その活動を規制する「外国の代理人」(反スパイ)法案を議会に提出した。野党の抗議を受け一昨年撤回した法案を再び提出したものだ。
 ジョージアでは、与党も含めてEU加盟を目指す勢力が多数派で、23年末には加盟候補国となった。だが欧州連合(EU)は「同法案が成立すればジョージアのEU加盟に悪影響を及ぼす」と警告しており、「反スパイ法案」への大規模抗議デモも発生するなど国内では混乱が起きた。
 与党は外部からの内政干渉を抑止することが目的と主張するが、ロシアで同様の法律が2012年に成立し、権力を監視するメディアやNGOなどへの弾圧に使われており、野党は「ジョージアのロシア化」を強く警戒する。与党「ジョージアの夢」はこれまでロシア側にも欧米側にもつかない「中立」路線を示してきたが、ロシアとの対立回避をより重視する姿勢へと転じているからだ。
 そして野党や世論の反発にもかかわらず24年5月に与党は同法案を可決。強権的と批判される現政権の親露路線が鮮明になった。EUは加盟への道が閉ざされるとして撤回を呼びかけ、ズラビシュヴィリ大統領は同法案に拒否権を発動した。だが与党は大統領が発動した拒否権を無効化すると決め、法案は再可決され6月に成立した。
 欧州委員会が公表したEU拡大に関する年次報告書は、「親露色を強める与党が現在の路線を転換しない限りEU加盟交渉を勧告できない」と表明し、事実上加盟交渉を凍結した。米国のブリンケン国務長官もジョージア政府を反民主的と批判し、9500万ドル(約140億円)超の支援を一時停止すると発表した。

不正選挙の疑いから大統領並立の異常事態に

 2024年10月に議会選挙が行われ、ロシアへの融和姿勢を強める政権与党「ジョージアの夢」が約54%の得票率を獲得、議席の過半数を得て2012年から続く政権を維持し、議会はイラクリ・コバヒゼ首相を再任した。「ジョージアの夢」の創設者で元首相のイワニシビリ氏は投票終了後、支持者らを前に勝利を宣言した。
 一方で、親欧米派の「統一国民運動」など野党は「盗まれた選挙だ」と非難、「不正選挙の結果を認めない」と議会のボイコットを表明し、不正の調査と選挙のやり直しを要求。国際的な選挙監視団も有権者への脅迫など違反行為を確認、「民主主義が後退する」証拠があるとして、米国とEUはジョージア政府に選挙違反の徹底的な調査を求めた。
 同様にズラビシュヴィリ大統領も「投票では巧妙な不正操作が行われた」と述べ、ロシアが選挙に介入したと指摘した。またズラビシュヴィリ大統領は、間接選挙で行われる12月の大統領選挙について、不正な選挙で選ばれた議員が新たな大統領を選ぶことはできないとして、同月中旬に自身の任期が切れた後も大統領として留まる意向を示した。一連の批判に対しコバヒゼ首相は、自由で公正な選挙だったと反論、ロシアも介入を否定する。11月に入ると、再任されたコバヒゼ首相はEU加盟交渉の開始を2028年末まで凍結し、EUからの資金援助も拒否すると表明。首都トビリシではこれに抗議するデモが行われ、参加者が警察と衝突する事態となった(図表8参照)。米国務省も「EUやNATOとの統合を目指すという憲法に刻まれた国民との約束を反故にした」と与党「ジョージアの夢」を非難する声明を発表した。
 同じく11月、ジョージアからの一方的な独立を宣言している親露派地域アブハジア共和国で、ロシアとの投資協定の批准に反対する野党支持者ら数百人が中心都市スフミにある大統領府や議会に乱入する事件が持ち上がった。ロシアへの接近が進むことへの反発が原因とされるが、リゾート開発等を巡ってのロシアと地元アブハジアの利権対立も騒乱の背景にあると言われる。アブハジア共和国のブジャニヤ大統領は協定を撤回すると発表したが反発は収まらず、辞任に追い込まれている。
 一方、大規模な反政権デモが続くジョージアでは12月、警察が野党事務所などを一斉に捜索し、指導者らの逮捕に踏み切った。メドベージェフ元ロシア大統領は、ジョージアで強まる反政府運動を「革命の試み」と形容。同国が「ウクライナと同じ道を辿り暗黒の深淵へと急速に向かっている。通常この種のことは非常に悪い結末を迎える」と警告した。
 また与党「ジョージアの夢」は、同国の元サッカー代表選手で極右のミハイル・カベラシビリ氏を新たな大統領に選んだ。これまでジョージアの大統領は国民の直接選挙で選ばれてきたが、今回から国会議員や地方議員らで構成する選挙人300人の投票で選出する方式に変更し、自派の人物を新大統領に据えて政権基盤の安定を図ろうとするものである。
 23年12月30日、カベラシビリ新大統領の就任式が開かれたが、親欧米派のズラビシュヴィリ大統領は退任を拒否し続けており、両氏がそれぞれ自らの正統性を主張する異例の事態に陥っている。
 政権与党がロシアに同調的な姿勢を強めるなか、ジョージア国民の多数はいまもEU加盟国となることを強く望むなど親欧米反露の意識を抱いており、国論の分裂は深刻化している。ロシアは選挙への介入などハイブリッド戦を仕掛けて与党を後押しするなど影響力の拡大を目論んでいるが、ジョージアとの距離を縮めることは難しいと言わざるを得ない。
 次回は引き続き、ウクライナ、モルドバ、それに中央アジア諸国とロシアの関係について眺めていきたい(続く)。

(2025年1月17日、平和政策研究所上席研究員 西川佳秀)

国際情勢マンスリーレポート
ウクライナ戦争後、欧米諸国を中心に対ロシア経済制裁を行うも期待したほどの効果はないようにみえる。今後のロシアの動向を考える上で、その周辺諸国との関係も見ておく必要がある。

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