“できちゃったクーデタ”後のニジェールは何処に行くのか

“できちゃったクーデタ”後のニジェールは何処に行くのか

1. はじめに

 ニジェールと聞いても、興味も関心もなく、何処にあるのか正確な位置さえ覚束ない人も少なくないだろう。
 しかし、「ニジェールは、世界有数のウラン生産国で、長らくフランスの原子力発電を支えてきたが(日本も、2005〜07年はニジェールのウラン・トリウム鉱のNo1輸出先)、2023年7月26日の軍事クーデタ(同クーデタは、“フランスの傀儡政権”と批判されたバズム政権に対するもので、十分な準備や計画もなく起こされたものの、強い反仏感情をたぎらせていた軍や一般市民に支持されて成功したため、“できちゃったクーデタ”と揶揄された)で政権を握ったjunta(軍幹部会 正式にはthe National Council for the Safeguard of the Homeland 本稿ではjuntaという)は、フランスなど外国企業に対するウラン採掘権免許の見直しを行っている」とか、「アメリカは、対テロ作戦の拠点としてNiger air base 201を巨費を投じて建設し、北アフリカからサヘル地域をカバーしてきたが、juntaは仏軍のみならず米軍も追い出した。替わりに入ってきたのはロシアで、Niger air base 201はロシアのアフリカ侵出の拠点になる可能性がある(アサド政権の崩壊によって、ロシアは、シリアに有するTartus naval baseやHmeimim air baseを失う危機に直面することになった。Tartus naval baseは地中海に展開するソビエト海軍第5作戦戦隊の補給基地として冷戦期の1971年に、Hmeimim air baseはシリア内戦に介入するために2015年に、それぞれ築かれた。両基地、特にHmeimim air baseは、ロシアが中東のみならずマリやリビアなどアフリカで影響力を行使するための重要拠点だった。Niger air base 201は、Hmeimim air baseに替わるものとして、プーチンが是非とも手に入れたい垂涎の的に違いない)」と知ったら、どうだろうか。今までニジェールに無関心だった人も、何故そんな事態になったのか、これからニジェールは何処に行くのか知りたいと思うだろう。
 本稿は、ニジェールという国の成り立ちから始め、現状に至った経緯、及びニジェールの今後について検討し、これらの疑問に応えようとするものである。

2. ニジェールという国(図1:ニジェールの行政地図)

 ニジェールは貧しい内陸国で(国土は約127km2=日本の約3.3倍、人口は2621万人(2022年世銀)、人口の99%はイスラム教徒、一人当たりGNIはUS$ 610(2022年世銀))、その特徴として挙げられるのは、①世界の最貧国の中でも貧しく(注1)、一人の女性が一生に生む子供の数は7.1人と人口増加率が極めて高いこと(注2)、②政治的・経済的にフランスに大きく依存してきたこと、③世界有数のウラン生産国であること、④西アフリカからヨーロッパに向かう移民の中継地であることである。
 このうち①の説明は注に譲り、②③④について次に詳しく検討しよう。

(1)ニジェールとフランスの関係(②についての検討)
 ニジェールは1900年ころ仏領西アフリカの一部になり(注3)、第2次大戦後にFrench Union(1946〜1958年)及びFrench Community(1958〜1960年)の一員となって限られた自治を認められ、1960年8月3日に独立した(注4、5)
 初代大統領になったのは、ニジェール独立のために当初は戦っていたものの、志を捨ててFrench Communityの一員として残る選択をして(1958年9月にニジェールで行われた第五共和制憲法に対する国民投票でNOの結果を得れば完全独立の道が開かれていたが、フランスの意向を汲んでYESのキャンペーンを張って 注4参照)フランスのお気に入りとなったHamani Diori(在職期間1960〜74年)だった。彼は、自分の主張が国民投票で多数を獲得した勢いに乗って反対政党を禁圧し(注6)1974年に軍事クーデタで倒れるまで単独政党で国を率いた(注7)
 Hamani Dioriは、主に植民地の治安維持に当たったcolonial troops(注8)を引き継いでニジェール軍(注9)を創設した他、ニジェール独立に当たってフランスがあらゆる部門に残していたフランス人アドバイザー(当時フランス人アドバイザーは数百人いた)の意見を尊重して政権運営に当たり、ニジェールの最も重要な資源のウラン鉱山開発をフランスに任せ、貿易(注10)やCFAフランの導入(注11)でもフランスと緊密な関係を維持して国家建設を進めた。端的に言えば、Hamani Dioriの統治は新植民地主義そのものだった(フランス植民地帝国(French colonial empire)時代、フランスは、植民地住民の反乱を抑止しつつ、できるだけ多くの資源を効率よく奪い去るための仕組みを打ち立てたが、Hamani Dioriは、似たやり方で独立後のニジェールを統治した)
 その後のニジェール歴代政権も、軍事独裁政権か民主的に選ばれた政権かにかかわらずフランスと政治・経済的に緊密な関係を続け、フランスによるウラン鉱山開発と資源の持ち去りを是認した。他方、フランスも、ニジェールとの防衛条約を根拠に何度も軍事介入して国内で不人気な腐敗した政権を支えてきた。
 このような状態は、「フランスは、自分が生まれたときから居て、ニジェールの国の資源を持ち去るので、大嫌いだ」と言うニジェール人青年の意見に象徴されるように、ニジェール人一般市民のフランスに対する根強い反感(注12)を生むと共にフランスの後押しを受ける歴代政権に対する不信感を醸成した。
 ニジェールが独立以来、5回の軍事クーデタ(1974年、1996年、1999年、2010年、2023年)を経験し、ニジェールの政権が不安定なのは、貧困が最大の原因ではあるが、一般市民の心の底に流れる歴代政権に対する不信感があり、それに乗って権力奪取を図る者が次々に現れてきたことによるのである。

(2)ニジェールのウラン(③についての検討)
 ニジェールは世界有数のウラン生産国で埋蔵国である(注13、14、15)。ニジェールで工業規模のウラン採掘がはじまったのは1971年からで、フランス国営企業オラノ(Orano)(注16)が現地に設立した子会社(注17)が、ニジェール政府の強い支援を受け、2007年より前(2006年鉱山法(注18)は2007年に施行され外国企業に門戸を開放した)は独占的かつ極めて有利な条件で、2007年以降も優遇された条件でウラン採掘に当たった(注19)
 ところで、2023年7月26日にニジェールで軍事クーデタが起こると、フランスやフランスから電力供給を受けるEU諸国では「フランスの原子力発電は大丈夫なのか」との懸念が示され危機感をもって語られるようになった。
 フランスは1973年の石油危機を契機に、当時の首相メスメル(Pierre Messmer)の方針で原子力発電に大きく舵を切り、1980年代の後半には総発電量に占める原子力発電の割合は約70%になり現在もその割合を維持している(それ以降も、総発電量は増加し続けて2000年代には500TWhをこえて2023年現在500TWhをやや上回る程度になったが、原子力発電の割合は約70%を維持している)。フランスの原子力発電に必要なウランの国別依存度を2022年までの10年間の平均でみると(ウランの輸入は年による変動がかなりあるので、単年で見るよりも2022年までの10年間の平均で見た方が正確な傾向をつかめる)、ニジェールへの依存度は約20%、総発電量の約14%(原子力発電70%×ウランのニジェールへの依存20%=総発電量のニジェールへの依存14%)で、ウラン輸入先の多角化が図られてきた結果、ニジェールへのウラン依存度は、一般に信じられているよりは低いものの、かなりの割合に上る(注20、21)
 そこで、上記の懸念が示されたわけであるが、しばらく危機は回避されてきた(注22)ものの、juntaは、フランスをはじめとする外国企業に対するウラン採掘権免許の見直しを2024年6月から始めており、イラン、ロシア、トルコ、中国などがそれを得ようと活動を活発化させているため(注23)、将来は予断を許さない。

(3)反移民法(Law 2015-36)の制定と撤廃(④についての検討)
 西側が、ニジェールに関心を寄せる理由は、ウランなど豊かな鉱物資源が存在することの他に、西アフリカからヨーロッパに向かう不法移民の中継地だからである。
 ニジェールは、アルジェリア及びリビアに国境を接する西アフリカで唯一の国で、アガデス(トゥアレグ人やハウサ人が住む人口約12万のアガデス州の州都で、サハラ砂漠で北アフリカと隔てられ、地中海から約1800kmに位置する)は、昔から西アフリカから北アフリカに向かう人の移動の玄関口だった(注24)。その後、リビア内戦の影響がサヘル地方に及んで同地が不安定化しだした2010年代に入ると、西アフリカからの移民は急増し、多くの人々がアガデスに流れて来て(2010年代中頃のピーク時には月1万人がアガデスから北アフリカに向かった)、移民輸送・仲介業務及び両替屋などの関連業務はアガデスの地場産業のようになって活況を呈し経済ブームを迎えた。
 このような中、ニジェール政府(イスフ政権)は、EUの要請で(注25)、2015年5月に反移民法(Law 2015-36 注26)を制定した。しかし、反移民法は、アガデスの地場産業に壊滅的な打撃を与え、移民を危険な道程に追いやり途中の事故や事件が増しただけで移民の減少には繋がらなかった(注27)。反移民法は「EUの要求をアガデス住民の必要より重要視した」と批判され、ニジェール国内では評判が悪かった。juntaは2023年11月に同法を廃止した。廃止は、アガデス住民のみならずニジェール人一般市民の幅広い支持を得た。

3. 2023年7月26日の軍事クーデタ(“できちゃったクーデタ”)

 2023年7月26日バズム大統領(注28)は公邸から出るのをチアニ(注29)が率いる大統領親衛隊に阻まれ、その後、同隊長のチアニら少数の軍人がテレビに出て、治安の悪化と経済政策のまずさを挙げて軍事クーデタを敢行したと述べた。
 突然の軍事クーデタに世界は驚いた。バズム政権は、選挙で選ばれたイスフ政権(注30)から再び選挙で権力の移譲を受けたニジェール史上初めての政権で、安定化に向かって順調に進んでいるように見え、しかもチアニは約2年前の軍事クーデタ未遂を放逐してバズムを無事に大統領宣誓に至らせた立役者だったからである。
 しかし、間もなく、多くの一般市民が軍事クーデタ支持を表明し(注31)、ニジェール軍も支持にまわってバズム政権は崩壊し、チアニを長とするjuntaが全権力を掌握して現在に至っている。このように、本件軍事クーデタは、マリやブルキナファソの軍事クーデタのように起こるべくして起こったのではなく(注32)、突然起こって成功したため、“できちゃったクーデタ”と揶揄されるようになった。
 そこで、本件軍事クーデタについては、「なぜ起こったのか」と「なぜ成功したのか(=なぜ一般市民や軍の支持を得たのか)」の疑問が起こり、次ぎにそれを検討しよう。
 前者の疑問については、バズムは大統領職に就くと軍の人事に手を出し、高官を退職させたり大使に追いやったりして幹部の入れ替えを行っていたところ、確証はないもののチアニも大統領親衛隊長を近くクビになることを感知し、先手を打ったと見られている。
 後者の疑問については、バズムは、“テロ対策の盟友”と西側から評価されていたものの、ニジェール国内では、“フランスの傀儡政権”と見られ嫌われていたことから話を始めなければならない。
 バズムは、イスフ前大統領の外務大臣をしていた当時からフランスをはじめとする西側と多数の軍事協力関係を推進し、大統領就任後は一層これを推し進めて、多くの外国軍兵士を受け入れていた(注33)
 ところが、一般市民は、独立以来のフランス・ニジェール関係によって育まれた根深い反仏感情を有し、多くの外国軍が駐留し外国軍基地があることを「主権を損なう」と日頃から苦々しく思っていた(注34)。三日月の砂丘作戦(マリなどサヘル5ヵ国から過激なイスラミストを掃討するためのフランスの軍事作戦 拙稿「フランスの軍事介入の失敗とマリ分裂の危機」IPP政策オピニオンNo.283参照)の失敗でマリから追い出されたフランス軍部隊をバズムがニジェールに受け入れると(注35)、一般市民は、反仏感情を爆発させ、ニジェール最大の市民団体M62 Movement(注40参照)の呼びかけに応じて数百人が集まり、2022年9月に数回「三日月の砂丘作戦は出て行け。フランスはくたばれ。ロシアとプーチン万歳!」と叫んでデモ行進した(注36)
 他方、軍は、多くの外国軍が駐留し外国軍基地があることを「ニジェール軍の存在価値を弱める」と捉え、一般市民以上に嫌悪していた。それに、バズムはニジェールでは少数民族のアラブ人で、軍は、彼が大統領となり軍最高司令官に就いたことに、大きな違和感を感じていた。多民族国家のニジェールでは、軍の構成・任命は国の民族構成を反映するよう常に配慮されてきた伝統があったからである(注37)
 さらに軍にはバズムを嫌悪し強く反発する別の理由もあった。その一つは、治安の悪化に対処するについて、バズムが過激なイスラミストとの話し合い解決を目指していたことで、軍は「話し合い解決の姿勢が過激なイスラミストを増長させた」と強く反対していた(注38)。もう一つはバズムが軍の人事に手を出し、(軍の構成・任命は国の民族構成を反映するよう常に配慮されてきた伝統があったのに)バズム色を出した人事政策を推し進めたことである(注39)。 さらに、バズム政権は、内から子細に見ると他にも不安定要因を抱えていた(注40)
 このような実情から、バズムに反旗を翻す本件軍事クーデタが起こると、一般市民も軍も反バズムで結束した(Juntaは、ニジェール国内で“フランスの傀儡”と批判されるバズムを首都ニアメの大統領公邸に軟禁し続けているが、それは、フランスの影響力を嫌悪する軍や一般市民を結束させる象徴的効果も発揮している)。Juntaがまず手を付けたのは、この強い反仏感情に乗ってフランス軍部隊のニジェールからの撤退を要求し(注41)、フランスと締結した5つの軍事協定を破棄し(注42)、仏大使を追い出すことだった(注43)

4. 西アフリカ諸国経済共同体による対ニジェール制裁の失敗

 西アフリカ諸国経済共同体(Economic Community of West African States:Ecowas 以下Ecowasという 注44)は、ニジェールで軍事クーデタが起こった直後の2023年7月30日にナイジェリアの首都Abujaで臨時サミットを開き、ニジェールのメンバー資格を停止すると共に、厳しい経済制裁を科して即時に発効させ、「1週間以内にバズムを大統領に復権させなければ軍事介入も辞さない」と言って脅かした(注45、46)
 Ecowasがニジェールに断固とした措置をとった理由は、①「マリの軍事クーデタに対するEcowasの対処が甘くかつ迷走したために(注47)、その後も軍事クーデタが続発した」との批判があった他(注48)、②Ecowasは2017年1月にガンビアに軍事介入して無事に民主政権へ移行させた成功体験から、ニジェールへの軍事介入に自信を持っていた上(注49)、③(一般市民が「治安の悪化に無能・無策だ」と民主政権を非難して大規模デモを繰り返したのを背景に軍事クーデタが起こったマリなどとは違い)“できちゃったクーデタ”と揶揄されるニジェールの軍事クーデタなら、Ecowasが断固とした措置を取れば、バズムを復権でき、将来の軍事クーデタも防止できると予想したからである。
 しかし、こうした読みや予想とは逆に、結果として生じたのは、Ecowas自体が組織として消滅する危機だった。その経緯は以下のとおりである。
 ニジェールのjuntaはEcowasからの最後通牒を受けてから一週間経ってもバズムを復権させないばかりか「軍事介入すればバズムを殺す」と挑戦的だった。一般市民も、「軍事介入すれば国のために戦う」と意気軒高で、最後通牒の期限が近づいた同年8月3日には首都ニアメにある3万人を収容できるスタジアムを一杯にしてjunta支持の気勢を上げた。経済制裁は、一般市民のjuntaに対する批判圧力になると期待されたがそうはならず、地域経済に打撃を与えて貧しい人々をさらに困窮させ、密貿易ルートを活発にして治安を悪化させた(注50)
 ところがEcowasは、最後通牒から一週間たった翌日の2023年8月7日にEcowas平和維持軍(その多くはナイジェリア軍兵士で総勢6万人)に軍事介入に備えて配備につくよう出動命令を出した。これに対し、ニジェール、マリ、ブルキナファソの三国は(マリ軍約4万人+ニジェール軍約3.3万人+ブルキナファソ軍約1.55万人=合計約8.85万人)、翌9月16日に相互安全保障条約(Alliance des État du Sahel:AES/Alliance of Sahel States:ASS 以下AESという)を結び、「Ecowasがニジェールに軍事介入すれば、マリやブルキナファソも自国に対する攻撃と見なして共に戦う」ことを約した(注51)。こうして軍事介入は、多くの難民を出すだけでは収まらず、地域の全面戦争に発展する蓋然性が高まっていった。
 こうした中、ニジェール、マリ、ブルキナファソのAES三国は、さらに対抗姿勢を一段と高めて2024年1月28日にEcowasから脱退すると発表した(注52)。この脱退要求を受けて、Ecowasは組織を維持するためあわてて宥和政策に動きだしたが(注53)、AES三国は態度を軟化させるどころか反対にEcowasと対抗する姿勢をさらに強めた(注54)。これに対し、Ecowasは、組織を維持するのが他のEcowas諸国にとっても利益なため、AES三国の脱退期限を6ヵ月延長して、セネガルなどがEcowasに留まるよう説得に当たっている。

5. 米軍のニジェール撤退とロシアの侵出

 アメリカのニジェールに対する軍事介入は、広い意味でアメリカをテロ攻撃から自由にするため(注55)、2013年2月5日にオバマが(この地域で対テロ作戦を展開するフランス軍部隊に情報提供するため)偵察活動に従事する約100人の米兵を派遣してから始まった(注56)。その後、アメリカとニジェールの両国は、偵察の他、過激なイスラミストの標的攻撃も共同して展開し、米兵によるニジェール兵の訓練も行われるようになった。このようなアメリカの活動は、当初、フランスが建設したNiger air base 101(注57)を拠点に行われていたが、首都ニアメから離れた比較的安全な場所に無人偵察機基地を設けるのが適切と考えられ、2016年からニジェール北部のアガデスでNiger air base 201の建設が始められた。同基地の建設は、厳しい地形・風土の中での一からの作業だったため、完成は2019年11月にまでずれ込み、建設費用も当初予定のUS$ 50 millionからUS$ 110 millionと大幅に増えた(注58)
 Niger air base 201は、アメリカがサヘル地域からアフリカ北部の広範囲をカバーして対テロ作戦を展開する唯一の米軍基地で(注59)、アフリカ大陸にある大規模米軍基地は、他にジブチのCamp Lemonnier(注60)とソマリアのBaledogle Airfield(注61)があるだけである。そのため、Niger air base 201は、この地域で対テロ作戦を続行するためのみならず、ロシアや中国のアフリカ侵出に対抗する意味でも、アメリカにとって極めて重要と認識されていた。

 そこで、アメリカは、フランス軍部隊がjuntaからの要求を受けて2023年12月に完全撤退したのを尻目に、将来にわたってNiger air base 201を維持して対テロ作戦を続行しようと種々模索を重ねてきた。
 まず、バイデン政権は、この目的を達成するため、軍事クーデタのラベリングを貼ることで生じる様々な波及効果を避けつつ、バズムを復権させようと試みた(注62)。しかし、バズム復権は成らず、2023年10月10日に公式に軍事クーデタと呼び、食糧・医薬品などの人道支援を除いて援助を停止した(注63)。しかし、その後も、アメリカ軍部隊の活動を低下しながらも、アメリカの説得に応じれば援助や対テロ作戦を全面再開する用意があるなどと提案してjuntaと交渉を重ねた(注64)。Juntaに対する説得内容は、「民主政権への移行を早めるよう、ワグネル(2023年8月以降はAfrica Corpsとなった 注68参照)に支援を求めるのは危険なので思いとどまるよう」というものだった。
 ところが、juntaは、治安を回復させて社会を安定させるよりも、自らの権力固めに懸命になっており(注46、65参照)、民主政権への早期移行などを説得するアメリカに次第に敵対的になり、ロシアやイランなどとの関係を強化するようになった(注65)。そして、アメリカ代表団が再度の説得にニジェールを訪れた後の2024年3月16日、juntaは、「どの国と協力するかを決めるのは(アメリカではなく)ニジェール国民だ」と啖呵を切った挙句、「アメリカとの軍事協力に関する合意を破棄する。これは直ちに発効する」と述べるに至った(注66)
 アメリカは、juntaの動きに当惑しながらも、2024年4月19日にニジェールからの米軍部隊引揚げに同意し、同年8月5日にニジェールから完全撤退した(注67)。替わって入って来たのはロシアのAfrica Corpsである(注68)

6. ニジェールは何処へ行くのか

 ニジェールは、近い将来、社会を安定させて発展に向かうことができるのだろうか。
 それには、①過激なイスラミストの暴力沙汰を抑えられるか(治安の回復)、②経済を順調に伸ばせるか、特に経済成長の柱である中国向け原油輸出を続けてその果実を国民生活の向上に還元できるか(経済の発展)、③juntaは、(国民から積極的に支持されていると言うより)反仏感情とEcowasの軍事介入の脅しで国民の結束を得てきたところ、早期に民主政権に移行するのは難しいとしても、さらなるクーデタを防止しつつ今後も継続して国民の支持を得られるか(政治の安定)、など、様々な要因が関係している。これらの要因は、独立ではなく相互に影響・依存し合う要因であるが、ニジェールの近い将来を見る上で一番重要なのは、過激なイスラミストの暴力沙汰を抑えて治安を回復できるかで、次は経済を発展させられるかで、両者ができれば、政治の安定はついてくると考えられる。
 そこで、治安と経済に焦点を当てながら、近い将来ニジェールがどうなるかについて、最もありそうなシナリオを見ると以下のとおりである。
 Juntaは、民主政権下で治安(注69)が悪化したことを軍事クーデタを起こした理由の一つに挙げたが、自らの権力保持のため兵をニアメに集め、フランスとアメリカの部隊も撤退したために権力の空白ができ(注70)、また、従来の過激なイスラミストの他にバズム復権を掲げる新たな反乱勢力が攻撃に加わるようになったため(注71)、軍事クーデタ後の治安は従前に比べ改善するどころか悪化している。しかし、(政権交替時には政情が不安定になり治安が悪化するのが常態のニジェールで)juntaが政権を掌握した後の治安状況とバズム政権が安定してからの治安状況とを比べるのは所詮無茶な話である。junta政権下での治安状況は、(比較することが相当な)バズム政権が発足してから2022年中頃に落ち着くまでの期間と比べれば同程度に過ぎず、マリやブルキナファソよりは安定しており軽傷に留まっている(注72)
 また、経済も、Ecowasの対ニジェール制裁が深刻な打撃を及ぼしたのは事実であるが(注73)、同制裁は2024年2月に解除され、それと同時にニジェールも(ベナンとの国境閉鎖を除き)国境閉鎖を解除して、正常に向かいつつある(注46参照)。また、ニジェール経済の成長は、中国向け原油輸出にかかっているところ、反乱グループThe Patriotic Liberation Front:FPLによる石油パイプラインの攻撃で輸出は一時ストップしたものの、2024年12月現在順調に続いている(注74)
 他方、①ベナンとの国境問題は近く解決するか(ベナンとの国境問題は高官協議が続けられており、近く解決すると期待されている、しかし、解決しなければ、海外貿易はトーゴの港を頼る他なく、ガーナなどアフリカ諸国との通商もトーゴを経由せざるを得ない。トーゴ・ルートは、遠回りでコストがかかる上、過激なイスラミストの攻撃が多発するLiptako-Gourma地域を経由する危険なルートである)、②石油パイプラインの安全性は今後も保たれるかなど、どちらに転ぶか不確定な将来の不安要素もある。また、ニジェールなどAES三国は、(図5の説明参照)猶予期間の後Ecowas統一市場から離脱しAES統一市場を創ると予想されるところ、後者は失敗して経済的苦境を迎えるのではないかとの疑問も呈せられている(注75、76、77 ニジェールなどAES三国は、Ecowasを離脱し、替わって創設されるAES統一市場が機能不全でも、いずれも西アフリカ経済通貨同盟やアフリカ大陸自由貿易圏のメンバー国なため、Ecowas脱退によって生じる関税やVISAなどのマイナスをバイパスすることがある程度可能で、AES三国の経済発展にはEcowasに留まった方が良いものの、経済苦境は免れることができる)
 したがって確定的なことは言えないが、総合的に考えると、ニジェールの治安は現在でも大方の予想に反しそれほど悪くはなく、経済は成長が期待でき、社会は安定に向かうのではないだろうか。

(2025年1月6日)

 

注釈

注1:ニジェールは、世界の最貧国の一つである隣国のマリより貧しく、一人当たりGNIはUS$ 610(2022年世銀)で、マリのそれ(US$ 850 2022年世銀)の約70%にすぎない。ニジェールと一人当たりGNIで同等の国は、スーダンUS$ 590(2019年世銀)、アフガニスタンUS$ 530(2019年世銀)などである。

注2:ニジェールの人口増とその要因(幼児婚の高さ)
 1960年から2021年の人口数及び人口増加率を1960年→2021年と(%)で示すと、ニジェール350→2525万人(3.7%)、チャド303→1718万人(3.2%)、マリ535→2190万人(3.2%)、リビア143→674万人(1.2%)で、ニジェールの人口は1960年の独立当時にはマリの65%程度だったのに、2021年にはマリを追い抜いてしまった。
 人口増加率の高さは、貧困・識字率の低さ・polygamy%・幼児婚など様々な要因が関係しているが、ニジェールは、幼児婚の比率が世界ダントツ1位で、貧困・識字率の低さ・polygamy%など他の要因で同等の国と比べても人口増加率が極めて高く、人口増加の最大の要因は幼児婚の高さと考えられる。
 幼児婚の比率が高い世界17ヵ国を調べた報告書“Report: Countries with highest numbers of chlid marriage, 2023”, The CEOWORLD magazine 2024によると、ニジェールでは18才未満で結婚する女児は75%にも達する。ニジェールに次いで幼児婚の比率が高いのは、チャド、中央アフリカ、バングラデシュであるが、これらの国でも18才未満で結婚する女児の割合は約60%である。これに続くのはマリ、南スーダン、インドなど数カ国で、いずれも約50%に留まる。その他は30〜40%にすぎない。
 ニジェールでは現在も幼児婚の比率が高く、ニジェール人の多くは、「もっと子供を持ちたい」と希望しているため、極めて高い人口増加率は今後も続くと予想される。

注3:仏領西アフリカと仏領赤道アフリカ
 フランスは、1895年頃アフリカ西海岸から次第に内陸を平定して仏領西アフリカを手に入れた。1900年7月ニジェール南部にZinder Military Territoryがつくられ、同地域も仏領西アフリカの一部になった。仏領西アフリカは、モーリタニア、セネガル、仏領スーダン(今日のマリ)、仏領ギニア(今日のギニア)、象牙海岸(今日のコートジボワール)アッパー・ヴォルタ(今日のブルキナファソ)、ダホメー(今日のベナン)、ニジェールの8つの地域からなる連邦で、首都は、1902年まではセネガルのSaint-Louis、それ以降はセネガルのDakarに置かれ、総督(Gouverneur Général)が常駐した。
 フランスは、西アフリカよりやや遅れて1910年頃赤道アフリカにも手を伸ばして同地を手に入れた。仏領赤道アフリカは、ガボン、中央コンゴ(今日のコンゴ共和国)、ウバンギ・シャリ(今日の中央アフリカ共和国)、チャドの4つの地域からなる連邦で、首都は、中央コンゴのブラザビル(Brazzaville)に置かれ、総督(Gouverneur Général)が常駐した。

注4:ニジェールの独立までの経緯
 ニジェールを含む植民地は、第2次世界大戦中、フランス植民地帝国(French colonial empire)の一部を構成していたが、フランス本国がナチに占領され、ナチに協力的なヴィシー政権(Vichy France regime)が植民地を傘下に収めると、自由フランス(Free France)を率いるドゴール(Charles de Gaulle)は、「自由フランスが生き残れるか否かは植民地の支持にかかっている」と考え、1944年はじめに、植民地に限定的な自治権を認めるブラザビル宣言(Brazzaville Declaration)を出した。
 ブラザビル宣言は、フランス植民地帝国(French colonial empire)からフランス連合(French Union 1946〜1958年)に移行し、植民地住民にも限定的な市民権を与え、植民地議会(Territorial Assembly)を設けて限定的な自治権を認めるものだった。同宣言は、植民地の独立を将来を含めて排除していたが、フランス植民地は、同宣言を受けて、次々に自由フランスの傘下に乗り換えていったのみならず、政党を創って独立に向けて活動するようになった。
 ニジェールでも1946年にNiger Progressive Party:NPPが創られ、独立に向けて活動を始めた。NPPの党首はセネガルの師範学校で教育を受けた教師のHamani Diori(1916年生まれ)で、No2のポストにはフランスで教育を受けた法律家で従兄弟のDjibo Bakary(1922年生まれ)が就いた。
 NPPは1950年代に様々に分裂した。分裂の理由は、NPPの志向するニジェール独立は、本国のフランス共産党から支援を受けていたところ、NPP指導者の多くは民族主義者ではあったが共産主義とは相容れない思想を持ち、本国からの独立に本国の政党であるフランス共産党の支援を受けるのを潔しとしない者が多数派だったからである。
 Djibo Bakaryは、社会主義者でNPP多数派とは意見を異にし、1954年にNPPを追い出されるや、NPPを飛び出した同志をまとめて新たな政党を創り、1956年に政党名をSawaba(sawabaは、ニジェールの多数民族ハウサ人の言葉で、「自由」を意味する)に改めた。Sawabaは、都市労働者から広い支持を得たのみならずニジェールの多数民族ハウサ人の農村有力者にも支持を広げて、ニジェール独立のために活動した。
 ところで、French Union(1946〜58年 第四共和制憲法時代)は、植民地と本国の同化を志向し、植民地を含めた全ての行政をパリが担っていた。しかし、アルジェリア独立戦争(1954〜1962年)の経験に学び、将来あり得べき植民地独立に備える方針に舵を切った。この新たな方針の下で1956年6月23日にフランス国民議会によって立法されたのが、多くの行政権をパリから植民地の地方行政府に移譲するLoi cadre(Reform Act)である。ニジェールでもLoi cadre(Reform Act)を受けて1956年にニジェール史上はじめて地方行政府選挙が行われ、Djibo Bakaryがニアメ市長に選ばれた。1957年には植民地議会(Territorial Assembly)選挙が行われ、ここでもSawabaが勝利してDjibo Bakaryが植民地議会の議長に就いた。Sawabaの勝利には、有力政党NPPの力を削ぎたいと願っていたフランス本国の後押し(この時点ではNPPもSawabaも共にニジェールの独立を志向していたが、フランスは有力政党NPPの力を削ぐためにSawabaに味方した)と、(Hamani Dioriは外交能力に長けフランス本国をはじめとする外国に人気があったものの)ニジェール国内ではNPPを率いるHamani Dioriの人気がなかったことが大きく寄与した。
 この選挙結果に強いあせりを感じたのがHamani Dioriである。彼は、フランス本国の支持を得る以外にDjibo Bakaryを凌駕して権力を掴む方法はないと考え、今までの独立志向を捨ててフランスが強く望んでいた植民地に留まる方向に転向することを決し、得意な外交を駆使してフランスに働きかけ、支持を得た。
 ところで、第四共和制憲法下のフランスは政権が安定せず(12年間に政府が21回替わった)、行政権を格段に強化した第五共和制憲法についての国民投票がフランス本国及び植民地で行われることになった。ニジェールでも1958年9月28日に第五共和制憲法についてYESかNOかを問う国民投票が行われた。
 この国民投票では、French Unionの植民地は、NOならフランスとの関係を一切絶って完全独立することができ、YESなら次の4ヵ月でフランスの海外領土(overseas territory)として残るか、フランス共同体(French Community)の国になるか、フランスの海外県(overseas department)となるか決めることができた。しかし、ドゴール(Charles de Gaulle)が率いるフランスが強く望んでいたのは、YESで、植民地がフランス共同体の国に留まってくれることだった。
 ニジェールの国民投票では、転向したHamani Dioriが率いるNPPが、フランスの後押しを受けて大々的にYESのキャンペーンを張った。他方、Djibo Bakaryは、Hamani Dioriと同じように権力志向の強い人間であったが(1956年の地方行政府選挙と1957年の植民地議会選挙で彼を支持した者達がNOを強く打ち出していたため、今更フランスにすり寄ってYESのキャンペーンを張るわけにはゆかず)、ニジェール人の中に独立を望む熱気が強く広がっていることを肌で感じ取って国民投票ではNOが勝利することを確信し、NOのキャンペーンを張った。
 ニジェールでの国民投票の結果はYESが約80%を占めた。それは、フランスが国民投票のプロセス全体、つまり、有力者の抱き込みから票計算の不正に至る全過程を操作したからと強く推測される。当時、ニジェールの治安維持=住民統制を担っていたのは、colonial troops(注8参照)で、そのような操作が可能だった。
 ところで、国民投票の後、ニジェールなどアフリカ12ヵ国(NOの結果を出して独立したギニアを除く 注5参照)は、フランス本国と共にフランス共同体(French Community)を構成することになった。しかし、これら12ヵ国全ては、1960年6月4日の基本法(the constitutional law of 4 June 1960 第五共和制憲法の「フランス共同体のメンバー国は、独立することができる」旨の規定を受けて制定された同趣旨の法)が制定されるや、国民投票から2年も経たない1960年6月から住民の圧倒的多数の支持を得て、次々に独立を果たした(ニジェールも1960年8月3日に独立)。この独立の歴史を見ても、国民投票の過程をフランスが不正操作したことは明らかである。
 なお、フランス共同体は、植民地の独立によって1960年に事実上消滅し、the constitutional law of 4 August 1995により公式に廃止された。

注5:French Unionの植民地の中でNOのキャンペーンを張った政党は、ニジェールのSawabaの他には仏領ギニアのthe Democratic Party of Guinea:PDGだけだった。
 ここでは仏領ギニアにおける国民投票と独立後のギニアの状況を見ておこう。
 Ahmed Sékou Touréは、PDGを率い、「豊かな奴隷よりも、貧しくとも自由を」というキャンペーンを張ってギニア人の圧倒的NO(投票率85.5%、内95%がNO)を獲得し、1958年10月2日にギニアを完全な独立に導いた。しかし、Ahmed Sékou Touréは、ギニアの完全独立を志向しながらも、「フラン圏に留まりたい」と述べると共に、ボーキサイトや金など豊かな鉱物資源を国際資本の開発にゆだねる意向を示して、フランスとの関係維持を望んだ。
 ところが、フランスは、国民投票前にドゴールが自らギニアを訪問するなど、国民投票の結果がYESとなるよう様々な努力をしたこともあり、Ahmed Sékou Touréのキャンペーンや国民投票の結果を、宗主国に対する大いなる侮辱を捉えて憤慨し、直ちに援助を打ち切った。
 そこで、Ahmed Sékou Touréは、フランスに替わる支援国を求めて、まずアメリカやイギリスに接近したが、両国ともフランスとの関係悪化を懸念して支援を断った。そこでソ連に接近すると、ソ連はこれを好機と捉えてギニア独立から僅か2日後の1958年10月4日に世界で最初にギニアと外交関係を樹立した。
 フランスは、宗主国フランスの意思に反して完全独立したギニアに対する感情的怒りも収まらなかったが、それ以上に、ソ連が大西洋に面した地政学上の要衝に位置するギニアを利用するのを懸念し、また、他のフランス植民地がギニアと同様の動きに出るのを防止するため、植民地時代に建設したインフラを全て破壊し、医薬品を焼却するなど徹底的な破壊工作を約2ヵ月間行い、現地に居たフランス人は電球1つまで持てる物は全て持ち、持てないものは窓ガラスに至るまで破壊して本国に帰還した。その他、フランスは、第二次世界大戦でフランスのために戦ったギニア人に対する年金の支払いも拒否した。フランスはギニアの国連加盟阻止も試みたが、アメリカのアイゼンハワーは1958年11月1日にギニアの独立を承認し、ギニアは1958年12月12日に国連加盟を果たした。なお、フランスも1959年1月21日にギニアとの外交関係を樹立した。
 ソ連はギニアとの外交関係を樹立すると、1959年終わりまでに同国と経済協力協定を締結し(“The rise and fall of the Soviet Model of Development in West Africa, 1957-64”, Cold War History, Alessandro Iandolo, 14 May 2012.)、ギニア人をソ連に招いて教育訓練する奨学金なども用意し、巨額な軍事支援も行って戦略的要衝の地ギニアを利用するようになった。ところが、①ソ連が援助したソ連製農機具は性能が良くない上、熱帯の風土に不向きで、ギニアは肥沃な土壌が広がっているのに農業生産を上げられず、②Ahmed Sékou Touréが導入した社会主義的な経済運営は成果が出なかった。その他、Ahmed Sékou Touréは、③ソ連からの援助をスポーツ施設やホテルなど見せびらかせる箱物建設に回して国民の生活改善や社会インフラの整備に向けず、④1962年のキューバ危機の際、ソ連から首都コナクリ空港に着陸許可を求められると、ギニアの中立性を盾にこれを断わり、さらに⑤1970年代にはソ連から軍事基地の建設と使用を求められたが要求に応じず、挙げ句の果てには⑥ソ連軍によるコナクリ空港の使用を差し止める挙に出るなどしてソ連の不興を買った。他方、ソ連も、Ahmed Sékou Touré政権転覆の企てに在ギニア・ソ連大使が関与するなどした。そのため、次第に両国関係は冷え込んでいった。
 一方、フランスは、1960年にも、秘密作戦Opération Persil(「汚いものは何でも全て洗い流す」と広告していた洗浄剤メーカーPersilから名付けられ、ギニア経済を破綻させAhmed Sékou Touré政権を転覆させることを目的にした作戦)を展開した。同作戦では、偽ギニア・フラン札を大量に印刷してばら撒き、ギニア経済を混乱させるのには成功したが、反政権側を組織化し武器を与えて政権転覆する企ては、多くの武器を登載してギニアに向かうフランス船舶が1960年5月にセネガル警察に見つかり差し押さえられるなどして失敗した。結局、秘密作戦Opération Persilは、Ahmed Sékou Touréが、同作戦を理由として、フランスとの外交関係を1965〜75年の間絶ち、政権反対者約5万人を殺害するなどして独裁色を強化する結果をもたらすだけに終わった。しかし、Ahmed Sékou Touréは、ギニアとソ連の関係が冷え込む中で、ギニア経済の立て直しを図るため、1978年に西側との経済貿易関係を公式に樹立し、ジスカールデスタン(Valéry Giscard d’Estaing)仏大統領も同年にギニアを公式訪問してギニア・フランス間の外交関係は完全に回復した。Ahmed Sékou Touréは、1983年にギニアのさらなる経済自由化を進めたが、1984年に心臓発作でアメリカで客死した。
 最後にAhmed Sékou Touréの人物像を見ておこう。彼は、中世マリ王国を築いた西アフリカの主要民族マリンケ(Malinke又はMandinka)族の出身で1922年に生まれ、単独政党PDGを率い、1958年のギニア独立から1984年死亡するまで24年間大統領としてギニアを統治した。敬虔なイスラム教徒で、早くから社会主義に傾倒して労働運動や政治活動に身を投じ、African Democratic Rally:RDA(脱植民地化を標榜し、仏領西アフリカ及び仏領赤道アフリカ地域の様々な政党からなる上位政党で1946〜58年まで存在した)の創設者の一人でもある。曾祖父はマリンケ族の強力なイスラム聖職者で、今日のギニアの地にイスラム国Wassoulou Empireを創り、フランスによる植民地化に抵抗して1898年に捕えられた。

注6:Hamani Dioriによる反対党Sawabaの禁圧
 1958年の国民投票の直後に行われた制憲議会(Constituent Assembly)選挙でも、Hamani Dioriの率いるNPPは、フランスの後押しを受けて60議席の内49議席(Sawabaは11議席)を占めて圧勝し、多数を背景に1959年3月に予定されていたフランス国民議会(National Assembly)選挙の前に反対党Sawabaを禁止した。
 こうして、ニジェールでは独立時から単独政党による支配となり、1993年に複数政党制の選挙が行われるまで一党支配が続いた。
 Sawaba が禁止された後、リーダーDjibo Bakaryや多くの党員は、国外に逃れてHamani Diori政権打倒運動を続けた。しかし、Sawaba党員7人がゲリア戦を仕掛けたとしてテロ容疑で1964年に公開処刑された。1974年の軍事クーデタでHamani Diori政権が倒れると、Sawaba幹部はニジェールに帰還したが、一部は逮捕され、その他は国外に逃亡することを余儀なくされ、リーダーDjibo Bakaryも1998年に死亡した。

注7:Hamani Diori政権は、汚職を蔓延させた他、1968〜74年にサヘル地域を襲った大干ばつによる食糧危機に対する有効な対策を打ち出せなかったため、1974年の軍事クーデタで倒れた。

注8:colonial troops
 ヨーロッパ諸国は、植民支配を行き渡らせようとした初期には、植民地の地に白人の軍を侵出させて反乱の防止や治安の維持に当たったが、一段落した1900年頃からはcolonial troopsが白人の軍に替わった。
 colonial troopsとは、本国及び植民地のフランス人+植民地の現地人から募集された部隊で、主に植民地の治安維持=住民統制の任務に当たった。colonial troopsには、主に狙撃兵から構成される特殊部隊もあり、第1次世界大戦で激戦地となったイーゼル川の戦いに投入されてドイツ軍と戦うなど、第1次世界大戦や第2次世界大戦の前線に投入された他、熾烈に戦われたアルジェリア独立戦争(1954〜62年)など植民地独立戦争でフランスのために戦った。
 なお、アルジェリア独立戦争では、リビアやエジプトがアルジェリアの独立を支援したのに、ニジェールはフランスのために戦った。

注9:ニジェール軍
 1960年7月28日のデクレ(大統領命令)で創設されたニジェール軍も、colonial troops(注8参照)を引き継いだものだった。兵士はcolonial troopsから100%募集された。士官もcolonial troopsの中でフランスとニジェールとの二重国籍を持つことに同意した者から募集されたため、将校の殆どはフランス人でニジェール人は10人にすぎなかった。その後、ニジェール軍でもニジェール人が次第に上級の職を務めるようになり、1965年に在外フランス人の雇用を止める法律ができた。しかし、フランス人将校の多くはニジェール軍に居残り、又はニアメ(Niamey)、ジンデル(Zinder)、アガデス(Agadez)などニジェール国内の基地に駐留するフランス本国の海外第四連隊(le 4e Régiment Interarmes Dʼoutre-Mer)に移って居座ったため、実態はあまり変わらなかった。Hamani Diori政権が1974年の軍事クーデタで倒れると、居残っていたフランス人軍人も一旦は本国に帰国した。しかし、1970年代の終わりになると彼らは再びニジェールに帰って来たため、元の状態に戻った。

注10:ニジェールの貿易(統計がとれる1995〜2022年)を見ると以下のとおりで、ニジェールは、独立後に社会主義政権が成立したマリや、奥地のため仏植民政策はなきに等しかったチャドに比べて、フランスへの依存度が高い(OEC World, Niger(NER), Exports, Imports, and Trade Partners, historical data, 1995〜2022.)。

ニジェールの輸出(1995〜2022年)
 輸出総額は1995年から2022年の間、$448Mから$3.24Bと約8倍になった。No1輸出品は、1995〜2017年は、放射性化学物質+ウラン・トリウム鉱で、概ね輸出総額の60〜35%を占め、これらの主要な仕向先のフランスが、輸出相手国1位又は2位を維持している。ただし、フランスは、2010年代中頃までは輸出総額の30〜40%を占めてダントツの輸出相手国だったものの、2016年と2017年には輸出総額の20%に落ち込んで輸出相手国としての相対的地位を下げた。ニジェールは金の産出国でもあり、金は、2010年代中頃にスイスからUAEに輸出先を替え、さらに2018年以降はNo1輸出品になって輸出総額の30〜70%を占めるまでに急成長し、他方では放射性化学物質+ウラン・トリウム鉱が輸出総額に占める割合は著しく下がった(輸出総額の10%に満たない年が殆どになった)。そのため、2018年以降の輸出相手国はUAEがNo1、主に油性種子の仕向先の中国がNo2となり、フランスは、ニジェールの主要な輸出相手国でもなくなった(フランスはかろうじて2022年に輸出相手国No2の地位を挽回)。しかし、放射性化学物質+ウラン・トリウム鉱の輸出に限ると、2018年以降も、フランスが輸出相手国No1の地位を堅持している。
 ところで、中国は、フランスに次ぐ第2の対ニジェール投資国で、中国石油天然気集団公司(China National Petroleum Corporation)は、ニジェールの油田(Bassin dʼAgadem)からベナンの港(Port de Seme)に至る1930kmのアフリカ最長の石油パイプライン建設を2019年に始め2023年に完成させた。ニジェールの石油は、従前はマリやナイジェリアなどの周辺国に輸出されていたが、(予定されていた2024年1月から遅れて)同年5月から石油パイプラインを通じた中国への原油輸出が始まった(“Niger and China sign crude oil MOU worth $400 mln, says Niger state TV”, Reuters, 13 April 2024.)。なお、juntaと中国石油天然気集団公司は、ニジェールが原油輸出で得る利益の内$400 millionを前払いで受け取る合意を2024年3月にしており、juntaはそれを債務の支払いに充てる予定である(注73参照)。
 中国への原油輸出が遅れた理由は、ニジェールのjuntaが、Ecowasが宥和政策に転じた後(注53参照)もベナン・ニジェール間の国境閉鎖を続けたため(注46参照)、ベナンが、対抗措置として、石油パイプラインからタンカーへの原油積込みを禁じたからで、対抗措置は中国の仲裁で2024年5月に解除された(“Benin gives green light for Nigerʼs oil exports to China”, DW, 15 May 2024.)。その後の石油パイプラインをめぐる攻防、及び中国向け原油輸出については注74参照。

ニジェールの輸入(1995〜2022年)
 輸入総額は1995年から2022年の間、$415Mから$3.5Bと約8倍になった。輸入品は、No1輸入品と呼べるようなものはなく、殆どが輸入総額の約1%を占める種々雑多な物品であるが、年によって輸入総額の約10%を占める米、包装医薬品、精製石油、セメント、事務機器の部品、ヘリ・飛行機、兵器などが主な輸入品である(2007年にアルジェリアから輸入した石油ガスは輸入総額の25.8%を占めたが、これは例外で、主な輸入品も輸入総額の約10%を占める年があるものの、通常は輸入総額の5%程度を占めるにすぎない)。また、輸入先は1995年から2022年を通じてフランスが1位又は2位を堅持しているが、概ね2008年まではフランスが1位で2009年以降は中国が1位である。

ちなみに2022年のニジェール、マリ、チャドの貿易の総額・品目・相手国は以下のとおりである。
 *マリ(輸出総額$7.56B・輸入総額$6.08B)
マリの主要輸出品は金($7.26B)がダントツに多く、綿花($105M)が続き、輸出先はUAE($5.57B)とスイス($1.26B)が他を大きく引き離しており、フランスは5位以内に入っていない。主要輸入品は精製石油($1.96B)がダントツに多く、綿織物($215M)が続き、輸入先はコードジボワール($1.46B)とセネガル($1.13B)が他を大きく引き離しており、フランス($367M)は4位でずっと少い。

 *チャド(輸出総額$4.39B・輸入総額$1.11B)
チャドの主要輸出品は原油($3.33B)がダントツに多く、金($876M)が続き、輸出先はドイツ($1.1B)、中国($993M)、UAE($883M)が多く、フランス($419M)は5位でドイツの4割に満たない。主要輸入品はワクチンなど($71.2M)や発電装置($61.4M)などと様々で、輸入先は中国($281M)とUAE($226M)が多く、フランス($82.3M)は3位でずっと少ない。

 *ニジェール(輸出総額$3.24B・輸入総額$3.5B)
ニジェールの主要輸出品は金($2.35B)がダントツに多く、放射性化学物質($150M)+ウラン・トリウム鉱($135M)と油性種子($291M)がほぼ横並びで金に続き、輸出先は金の仕向先UAE($2.23B 輸出総額の72.7%)がダントツに多く、放射性化学物質+ウラン・トリウム鉱の仕向先フランス($291M)と油性種子の仕向先中国($290M)はほぼ同じでそれぞれ2位3位を占める。主要輸入品は兵器($340M)、米($278M)、飛行機・ヘリ($185M)などで、輸入先は、鉄パイプや鉄骨の他様々な物品の輸入先の中国($783M)が1位、主に兵器の輸入先のフランス($491M)が2位、主に電気やセメントの輸入先のナイジェリア($287M)が3位、主にヘリや航空機の輸入先のドイツ($186M)が4位、主に巻きタバコの輸入先のUAE($185M)が5位である。なお、米の輸入先は、主にタイとインドである。

注11:CFAフラン
 CFAは元々Colonies Françaises dʼAfriqueの略とされる。CFAフランは、旧仏領西アフリカ諸国及び旧仏領赤道アフリカ諸国を中心に用いられている共同通貨で、西アフリカ諸国中央銀行発行のCFAフランと中部アフリカ諸国銀行発行のCFAフランがある。前者(西アフリカ経済通貨同盟 West African Economic and Monetary Union : UEMOAはセネガル、ギニアビサウ(旧ポルトガル領)、マリ、コートジボワール、トーゴ、ベナン、ブルキナファソ、ニジェールの8ヵ国で、後者(中部アフリカ経済通貨共同体 Economic and Monetary Community of Central Africa:CEMAC)はチャド、中央アフリカ、カメルーン、赤道ギニア(旧スペイン領)、ガボン、コンゴ共和国の6ヵ国で、それぞれ用いられている。
 1945年に導入され、1998年まではフランス・フランにひも付け(peg)されていたが、1999年からは€にpegされている。なお、pegは無償で行われているわけではなく、CFAフラン諸国は外貨準備高の50%をフランスの国庫に寄託(保管)することを義務づけられている。
 CFAフランについては、CFAフラン諸国の通貨を安定させ、輸入品の価格を安く抑えて経済の安定に資してきたとの評価がある一方、他方では、①「植民地政策の名残で旧宗主国フランスによる経済支配」、「CFAフラン諸国は、フランス中央銀行、次いでヨーロッパ中央銀行に金融政策を決定され、自国の経済政策をたてられず、主権を侵害されている」(“For West African juntas, CFA franc pits sovereignty against expediency” Reuters, 12 Feb. 2024.)と厳しい意見がある他、②通貨が割高に設定されているために、輸出競争力を下げ国内産業の発展を妨げられて長い目で見てCFAフラン諸国の発展にマイナスに作用していると批判される(実際、CFA諸国の中で最も経済発展の著しいコートジボワールも、一人当たりGNIのピークを1978年に迎えた後は落ちており、ニジェールも一人当たりGNIのピークを1965年に迎えた後は落ちていて、「本来伸びるべき発展を押さえられている」と批判される)。
 特に、「CFAフラン諸国は外貨準備高の50%をフランスの国庫に預託(保管)することを義務づけられている」点については批判が大きい。この点については、2019年6月ECOWAS加盟15ヵ国は単一通貨エコ(Eco)の導入を目指すことを決めており、同年12月に、エコが導入された時に義務を解除する旨、合意された(“West African Countries Take a Step Away From Colonial-Era Currency”, NYT, 21 Dec. 2019.)。なお、エコは2027年からの導入が検討されているだけで、未だ導入されていない。ただし、UEMOA諸国は、フランスとの交渉を重ねた結果、2021年から預託義務を解除されている(“Debate on ditching CFA begins as Burkina Faso, Mali, Niger forge new path”, Al Jazeera, 23 Feb. 2024;“France finally ratifies law ending use of CFA Franc in West Africa”, Frontier Africa Reports, 23 May 2020. CEMAC諸国は未だに預託義務がある)。 

注12:“Niger coup: Is France to blame for instability in West Africa?”, BBC, 6 Aug. 2023; “How France Fumbled Its Africa Ties and Fueled a Geopolitical Crisis”, Wall Street Journal, 9 Jan. 2024; “How West Africn public opinion turned against France”, Le Monde, 3 Nov. 2023.

注13:世界のウラン生産(生産量と埋蔵量の順位)
 各国が生産するウランは年変動がかなりあるため、生産量の順位は一定ではないが、2022年を見ると(%は世界生産を100とした場合の割合)、1位カザフスタン43%、 2位カナダ15%、3位ナミビア11%、4位オーストラリア9%で、これらが主要な生産国である。次のランクの生産国は、5位ウズベキスタン6%、6位ロシア5%、7位ニジェール4%である(“World Uranium Mining Production”, updated Aug. 2023.)。
 ウランの埋蔵量順位は(%は世界の埋蔵量を100とした場合の割合)、1位オーストラリア25%で、 2位カザフスタンと3位カナダはほぼ同じで約11%、4位ロシアと5位ナミビアはほぼ同じで約7%、6位南アフリカと7位ニジェールはほぼ同じで約5%である(“Uranium 2020: Resources, Production and Demand”, OECD Nuclear Energy Agency and International Atomic Energy Agency.)
 なお、埋蔵量とは、ウランは広範に存在する鉱物であるため、調査時点の技術で経済的に見合うコストで採掘可能なウランの量をいう。

注14:ニジェールのウラン鉱床
 ニジェールのウラン鉱床は、フランス鉱床調査局が銅鉱床を探査する中で1957年にはじめて発見され、それから1967年までの間、Agadez州のArlit、Akokan(別名Akola、Akouta)、Azalik、Dasa、Imourarenなどで次々に発見された。

注15:シンコロブエ鉱山(Shinkolobwe mine)
 ここでウラン鉱山として名高いシンコロブエ鉱山の開発及びウラン生産の歴史を見ておこう。
 シンコロブエ鉱山は、1915年にイギリス人によって発見され、1921年からUnion Minière(ベルギーのSociété Générale de Belgique持ち分70%とイギリスのTanganyika Concessions Ltd.持ち分の30%の合弁会社)よる開発が始まった。シンコロブエ鉱山は高純度(カナダ産のウランは純度0.03%に対し、シンコロブエ鉱山のウランは約65%)のウランを産するため、アメリカ軍はマンハッタン計画で用いるウランをUnion Minièreから購入し、高濃縮ウラニウム爆弾Little Boyを広島に、プルトニウム爆弾Fat Manを長崎に投下した。第2次世界大戦後から1950年代には、シンコロブエ鉱山のウランはアメリカによる核兵器生産に用いられた。
 シンコロブエ鉱山のあるベルギー領コンゴは、1960年6月30日に独立してコンゴ共和国(国名を1971年にザイール、1997年にコンゴ民主共和国に変更)になった。祖国を独立に導いたリーダーはPatrice Lumumbaで、1960年5月に行われた民主的な選挙で初代首相に選ばれた。Patrice Lumumbaは民族主義者で社会主義者でもあり、工業的なウラン生産を好まず、シンコロブエ鉱山の一部は独立前の1950年代末から閉じられたが、1960年の独立に当たって鉱山入口の全部がコンクリートで固められ、工業的規模のウラン採掘はそれ以降行われていない。
 しかし、アメリカをはじめとする西側諸国は、社会主義者のPatrice Lumumbaの統治下に入ったシンコロブエ鉱山のウランがソ連をはじめとする共産圏に渡るのを警戒した。そこで独立後間もなく軍参謀Mobutu Sese Sekoが軍事クーデタを起こすや、アメリカとベルギーはこれを支援し、Mobutu Sese Sekoはベルギー人遊撃兵の助力を得て1961年1月17日にPatrice Lumumbaを殺害した。Mobutu Sese Sekoはその後軍政をしき1965年に再びクーデタを起こして独裁政権を樹立した。なお、ベルギーは2002年になってPatrice Lumumba殺害に関与したことを公式に認め謝罪した。
 Mobutu Sese Sekoは、1966年4月にUnion Minièreが相談もなく勝手に銅の輸出価格をつり上げたのを契機に、輸出税を引き上げると共に1967年1月にUnion Minièreを国有化してその活動を引き継ぐGécamines(Société générale des Carrières et des Mines)を創設した。Gécaminesの実体は、Mobutu Sese Seko政権が、マルタ、中国、イラン、パキスタン、韓国などの外国企業と裏で手を組み、これらの外国企業が闇で雇ったコンゴ人採掘者がMobutu Sese Sekoの軍に警備されながらウランを採掘し、外国に密輸(シンコロブエ鉱山は、コバルトや銅なども産するため、ウランは銅などと偽って輸出)するものだった。つまり、Gécaminesは、同政権とその取り巻きの利益のために、高品質で豊富なウランの採掘を行ったのである。これに対しては、富の公平な分配を要求する一般市民のデモが度々起こったが、アメリカ、フランス、ベルギーは、Mobutu Sese Sekoを強力な反共主義者として軍事・外交・経済面から強力に支援し、デモを共産主義者による扇動として弾圧した。こうしてMobutu Sese Seko独裁政権は1997年まで30余年にわたって続いた。
 なお、Union Minièreは、Gécaminesの創設により鉱物資源の採掘からは撤退したが、国有化されずに残された資産を元に冶金に特化した会社としてコンゴ共和国に居残り、1989年に他の会社と合併して社名をUmicoreに変更して現在に至っている。
 ところで、1996年〜1997年に起こった第1次コンゴ内戦では、ジンバブエの支援を受けた反乱軍を率いたLaurent-Désiré Kabilaが勝利し、2001年に同人が暗殺された後には息子のJoseph Kabilaが跡を継いで2018年まで実権を握った。しかし、1997年〜2018年のカビラ政権時代も、シンコロブエ鉱山のウラン採掘に関しては、Mobutu Sese Seko政権時代と同じことが行われた。そして、ジャーナリスト等のシンコロブエ鉱山への立ち入りは規制され、実態は秘密にされた。しかし、多くのコンゴ人採掘者(2000年末現在15,000人)が放射性物質に対する防護手段もつけずにシンコロブエ鉱山で働いていることが外部に漏れて世界に知られることになった。そこで、Joseph Kabilaは2004年1月27日の大統領命令でシンコロブエ鉱山の閉鎖を命じたが、閉山命令は国際的批判をかわすために出されたにすぎず、その後も同じことが繰り返された(US-embassy diplomatic cable dated 11th July 2007, published by WikiLeaks.)。したがって、統計に表れない形で相当量のウランの生産及び取引が続けられているのが現状である。
 なお、Joseph Kabilaの跡を継いだのは2018年12月30日の大統領選挙で勝利した民主社会進歩連合(UDPS)党首のチセケディで、同人は2023年12月に再選された。

注16:オラノ(Orano)
 オラノの前身はアレバ(Areva)で、アレバは、フランス政府が約95%の株を有する総合原子力企業として2001年に発足した。しかし、アレバは、①福島原発事故後のウラン価格の低迷、②フランス国内での原子炉建設の遅れによる損害賠償、③フランス電力公社(Électricité de France:EDF)との確執など様々な要因で赤字が膨らみ、2016年から組織改編が行われた。こうして、ウラン採掘や核燃料製造事業は、2017年に新アレバ(new Areva)になり翌2018年に社名変更してオラノ(Orano)になった。また、原子炉事業はEDFに移転され、損害賠償など負の遺産は完全国有企業になったアレバ本体(Areva SA)に残すことになった。
 オラノは、ニジェールのArlitの他、カナダのCigar Lakeでも稼働しており、2022年現在、世界のウラン生産の11%を生産し、ウラン生産で世界3位の巨大企業で(“World Uranium Mining Production”, World Nuclear Association, 16 May 2024.)同社の株は、フランス政府(フランス政府が45.2%、アレバ本体が40%、フランス原子力庁が4.8%)の他、三菱重工と日本原燃がそれぞれ5%所有している。

注17:オラノの現地子会社SOMAIR:Société des Mines de l’Air
 ニジェールでフランス以外の外国企業に門戸が開かれた2007年以前にウラン採掘に当たったのは、オラノの現地子会社だった。オラノの現地子会社の中でもSOMAIRは最大で、1968年に設立され1971年からArlitで採掘を始めた。SOMAIRの株は、オラノが63.4%、ニジェール国営企業Sopaminが36.6% をそれぞれ保有している。SOMAIRは、2007年以前はもちろん、外国企業がニジェールのウラン採掘に参入するようになった2007年以降も、ニジェールのウラン生産の約60%(2021年は88%)を生産する巨大企業である(“Uranium in Niger”, WORLD NECLEAR ASSOCIATION, updated May 2023;“World Uranium Mining Production”, World Nuclear Association, 16 May 2024.)。

注18:2006年8月9日の法律No 2006-26(2006年鉱山法)
 ニジェールのウラン採掘に関する法規制は、2006年鉱山法(2006年8月9日の法律No2006-26)の制定・2007年の同法発効までは、1993年鉱山命令と1999年補充命令があるだけだった。1993年鉱山命令は、従前、戦略物資と位置づけられていたウランを通常の鉱物資源として扱うことにした。2006年鉱山法は、フランス企業のみならず他の外国企業にもウラン採掘に参入することを認め、採掘免許税(royalty)を従前のウランの市場価格の5.5%から12〜15%に引揚げた(“Actual Uranium Exploration and Mining Activities in Niger”, presented by Mamane Kache, Vienna, 23-27 June 2014;“Uranium in Niger (Updated May 2023)”, WORLD NUCLEAR ASSOCIATION.)。

注19:オラノの子会社SOMAIRなどに対する優遇措置
 オラノの子会社のSOMAIRなどは、2006年鉱山法が施行される以前は、独占的にウラン採掘に当たり、ウラン採掘に必要な機材を輸入しても輸入関税や付加価値税などの支払いを素通りし、ウラン輸出に当たっては輸出税は支払わず、ウランの市場価格の5.5%の採掘免許税(royalty)だけを支払う極めて有利な条件でウランの採掘を行った(Daniel Flynn and Deert De Clercq, Special Report: Areva and Nigerʼs uranium fight, Reuters, 5 Feb. 2014.)。
 2006年鉱山法が施行された2007年以降は、フランス以外の中国のSino-U:China Nuclear International Uranium Corporation(China National Nuclear Corporation:CNNCの子会社)やカナダのGlobal Atomic Corporation Canadian、GoviEx Uraniumなど多くの外国企業がウラン採掘に参入してオラノの現地子会社SOMAIRなどの独占は終わり、採掘免許(concession)も公式には2006年鉱山法に則って公平に付与されることになった。しかし、個別企業に与えられる具体的な採掘免許の条件は、交渉の中で決まり内容は公表されないため闇の中で、「ニジェール政府(バズム政権)は秘密裏にオラノの子会社には2006年鉱山法を緩めて特別な採掘免許を提示しているのではないか」との疑念が度々呈せられている。現に鉱業大臣Tchianaは「オラノは1年に23~30 million€の税の支払いを免れている」と述べている(Daniel Flynn and Deert De Clercq, Special Report: Areva and Nigerʼs uranium fight, Reuters, 5 Feb. 2014.)。
 このようなことから、ニジェール人一般市民は「ウラン採掘によるほとんどの利益はフランスが持ち去り、ニジェールが受ける恩恵は少ない」と反フランス感情をつのらせている。特に、ウランを産するAgadez州地域を中心に遊牧を行っているトゥアレグ人は、「ウラン開発の利益にあずかれないばかりか、牧草が枯れる環境被害や人や家畜の健康被害を蒙るだけ」と憤懣を爆発させて2007〜2009年にトゥアレグ反乱を起こした。2008年には反乱が激しくなって一時ウラン採掘がストップする事態に至った。
 それでもオラノは2023年5月4日にニジェール政府(バズム政権)との間で包括的パートナーシップ協定締結にこぎつけ、Arlitのウラン資源の枯渇が予想される2040年までSOMAIRの採掘免許を延長したが、juntaにより延長契約は破棄された(juntaによる外国企業に対する採掘免許の見直しについては、注23参照)。
 他方、オラノは「ベナンとの国境閉鎖でウランの積み出しができず、それが1150トン(年間生産量の約半分 損失額$200 million)も貯まっている」などとして2024年10月末にSOMAIRの生産中止を決めた(“Niger disputes closure of Somair uranium mine”, Nuclear Engineering International, 7 Nov. 2024.)。現在はニジェール当局がSOMAIRの経営について全権を握っている(“French company Orano loses control of uranium mine to Niger admin”, Anadolu Ajansi, 5 Dec. 2024.)。

注20:フランスのウランの国別依存度(2022年までの10年間の平均)
 カザフスタン27%、ニジェール20%、ウズベキスタン19%、オーストラリアとナミビアは共に約14%、カナダ4.5%である(“How dependent is France on Niger’s uranium?”, Le Monde, 4 Aug. 2023.)。

注21:ニジェールのウランの輸出先
 2022年までの10年間のニジェールのウラン生産合計3万2772トン、フランスへの輸出合計1万7615トンで、平均53%をフランスに輸出している(“How dependent is France on Nigerʼs uranium?”, Le Monde, 4 Aug. 2023;“World uranium Mining Production”, World Nuxlear Association, 16 may 2024.)
 なお、ニジェールからの放射性化学物質+ウラン・トリウム鉱の(両者を合算した)輸出先を見ると、輸出相手国は1995〜2022年を通じてフランスが1位又は2位を堅持している。その中身を見ると、放射性化学物質は、1995〜2022年を通じてフランスがダントツ1位の輸出相手国であるが、ウラン・トリウム鉱に限ると、輸出相手国1位は、1995〜1998年まではベナン、1999年頃にフランス国内でウランの採掘が終わったのを機に2000年代前半まではフランス(この間、日本は2位)、2005〜2007年は日本、2008〜2011年は日本とアメリカの両国が肩を並べ、2012年はウラン・トリウム鉱の輸出はゼロで、2013〜2018年はアメリカ、2020年と2021年はカナダ、2019年と2022年はフランスである(OEC World, Niger(NER), Exports, Imports, and Trade Partners, historical data, 1995〜2022.)。

注22:2023年7月26日の軍事クーデタから約1年間は(軍事クーデタ後、juntaは、様々な課題に直面し、ウラン採掘権免許の見直しや新たなウラン輸出先の発見にまで手をつける余裕がなかったため)、オラノの現地子会社は従前どおりウランの採掘を続け、ニジェールからフランスへのウランの輸出も従前どおり続いた。

注23:juntaによるウラン採掘権免許の見直し
 juntaはフランスとの関係悪化に伴って外国企業に与えていたウラン採掘権免許の見直しをしており、2024年6月末にSOMAIRやImouraren SAなどオラノの現地子会社に与えていた採掘免許を取消し(SOMAIRについては2024年までの採掘免許延長も取消し)、同年7月にカナダの企業GoviEx Uraniumに与えていた採掘免許を取り消した。ただし、各社とも取消しの有効性を争う姿勢を見せている。
 この採掘免許を獲得すべく奔走しているのがロシア(ロシアの国営核エネルギー会社Rosatom)で、その他トルコ、イラン、中国も獲得を狙っている(注65参照)。

注24:サヘル地方からサハラ砂漠を越えてリビアやアルジェリアに至る人の移動が始まったのは、リビアやアルジェリアで大規模開発が始まり労働需要が高まった20世紀中頃のことで、サヘル地域の干ばつによる食糧難が人の移動を加速させた。当時の人の移動は、労働需要が落ち込んだり干ばつ被害が回復すれば元の場所に戻る循環的なものが殆どで、人の移動は、サヘル地域の人々にとって紛争や干ばつを生き延びる手段だった。彼らを受け入れるアルジェリアやリビアも、時に移民の規制はしても問題視することはなかった。
 その後、アガデスを中心とした地域に多く住む少数民族トゥアレグ人の反乱が1995年の和平合意で収まると、サハラ砂漠を熟知した元兵士は移民仲介・輸送業務に乗り出した。しかし、北アフリアで時として移民の取締が行われるのは格別、アガデス州政府は取締を行うどころか、それによる経済的繁栄を歓迎し、移民仲介・輸送業務を行う者は州政府に替わって移民から税を徴収していた。中央政府も、関連業務(飲食店、宿屋、両替屋など)も含めて、地域住民の生活を豊かにしてくれる移民仲介・輸送業務を取り締まる気はなかった(“Crackdown in Niger fails to deter migrant smugglers”, NYT, 20 Aug. 2015 ; “Agadez traffikers profit from movement through Niger to Libya”, Wall Street Journal, 19 July 2015.)。そのため、移民仲介・輸送業務は次第に発展してアガデスの地場産業のようになり2000年代に入ると一種の経済ブームを迎えた。それと共に、西アフリカからの移民にとっても、北アフリカにまで至るルートの安全や費用も見通せるものとなって、移民の数も漸増していった。

注25:EUは、アフリカからの移民が漸増し始めた2000年代から移民問題に苦慮し、移民を減らすのに協力することを条件にサヘル諸国へ資金供与するEmergency Trust Fund for Africa in 2015やPartnership Framework with Third Countriesなどを立ち上げた。

注26:Law 2015-36は、「移民に輸送や便益を提供することを禁じ、違反者に10年以下の懲役及び5 million CFA(=€7600)以下の罰金を科する」としている。

注27:反移民法の効果
 西アフリカ諸国からの移民の数は、中継地点のニジェールやリビアでの統計はなく、中央地中海ルートを通ってヨーロッパに到着した移民の数で知る以外に適切な方法はない。また、同ルートを通る移民の数には、西アフリカ諸国からの移民のみならずチュニジアなど北アフリカ諸国からの移民も含まれるため、おおよその傾向しかわからない。
 その点を踏まえた上で、同ルートの2008〜2023年の間の変動を見ると、2016年に約18万人を記録して最高値に達し、2017年から3年の間は減少して2019年に1.5万人に最少値をつけ、2020年からは増加に転じて2023年に再び2016年当時の最高値に至っている(“Irregular arrivals to the EU 2008-2024”, Frontex and Spanish Ministry of Interior.)。

 中央ルート(イタリア・ルート)が2017年から3年の間減少したのは、(反移民法の制定が移民の減少に寄与した訳ではなく)、2017年にイタリア政府とリビアの国民合意政府(Government of National Accord:GNA)が密輸取り締まり強化の覚書を結び、GNAのリビア沿岸警備隊の能力が一段と強化され、(間接的に輸送業者などと取り締まるだけでなく)直接的に不法移民を取り締まったからである。また、2019年から増加に転じて2023年には再び2016年当時の最高値に至ったのは、2019年にハフタル軍によってGNAに宣戦が布告され(ハフタルによる尊厳の洪水作戦は2019年4月〜2020年10月)、GNAは不法移民取締りどころの話ではなくなると共に、サヘル地域のアフリカ諸国の政治情勢が一段と不安定さを増したからである。
 東ルート(ギリシャ・ルート)が2015年に高い山を形成したのは、シリアやアフガニスタンからの移民が急増したためである。

注28:バズム(Mohamed Bazoum)の経歴
 バズムは1960年生まれ。ニジェールの少数民族の中でも0.4%と少数のアラブ人。セネガルのダッカ大学で哲学を修めて帰国して教師となり、その後、イスフと共に政党Nigerien Party for Democracy and Socialism-Tarayya(Tarayyaとはハウサ語で集まりの意 本稿では単にNPDSという)創設にかかわり政治家となった。イスフの右腕としてNPDSの議長(在任期間:2011年3月〜2022年12月20日)を務め、イスフ政権の外務大臣(在任期間:2011年4月21日〜2016年2月26日)及び内務大臣(在任期間:2016年4月13日〜2021年4月1日)を務めた。
  バズムは、前任のイスフ大統領が、公約を守って次の大統領選には出馬しないことを表明して行われた大統領選(2020年12月27日第1回大統領選挙、2021年2月20日決戦投票)にNPDS政党から出馬し、その決選投票で当選して(第1回投票では39.33%しか得られず、決戦投票で55.75%を得た)、同年4月2日に大統領に就任した。

注29:チアニ(Abdourahamane Tchiani)の経歴
 チアニの生年月日は不明で1960年か1961年とされる。ニジェールで53.1%を占める多数民族ハウサ(Hausa)人。セネガルで軍士官学校を卒業。在ドイツ・ニジェール大使館駐在武官を経て、2011年にイスフ大統領によって2000人の兵士で構成される大統領親衛隊の長に指名され、2018年に将軍に昇進した。この経歴が示すようにイスフと親しい関係にある。バズム大統領になってからも大統領親衛隊長(在任期間:2011年〜2023年)を続け、大統領宣誓予定日の2日前の2021年3月31日に起こったクーデタ未遂を放逐してバズムを無事に大統領宣誓に至らせた。

注30:イスフ(Mahamadou Issoufou)の経歴
 イスフは1952年生まれ。ニジェールの多数民族ハウサ(Hausa)人。ニジェールの首都にあるニアメ大学で数学の学士号を取得した後、フランスで土木工学(鉱業専攻)を修めて鉱山技師の資格をとり1979年に帰国してオラノの子会社SOMAIRに就職した。1990年に政党(The Nigerien Party for Democracy and Socialism:PNDS-Tarayya)創設にかかわり、1992年にSOMAIRを辞めて政治家に転向して首相、議会議長、反対派党首などとして活躍した後、2011年の選挙で大統領になり2016年に再選された(大統領在任期間:2011〜2021年)。
 イスフ大統領の時代は、リビア内戦とマリ北部の紛争の影響がニジェール西部、ナイジェリアのBoko Haramの脅威がニジェール南東部にそれぞれ及んでイスラム過激派の脅威に晒されると共に、ヨーロッパに向かう不法移民が増えニジェールが通過点として利用されるようになった時代だった。ニジェールの少数民族トゥアレグ人は、第1次反乱(1990〜1995年)及び第2次反乱(2007〜2009年)を起こしたが、カダフィの仲介でニジェール政府とトゥアレグ反乱勢力の間で和平合意が2009年に成立し(“Nigerʼs government, Tuareg rebels pledge peace”, ReliefWeb, 7 April 2009.)、2011年にはイスフが、トゥアレグ人の永年の要請を入れて、パリのフランス国立行政学院で学んだトゥアレグ人Brigi Rafiniを首相に、第1次及び第2次トゥアレグ反乱のリーダーだったRhissa Ag Boulaを大統領アドバイザーにそれぞれ任命するなどトゥアレグ人を政権中枢に取り込むと共に、トゥアレグ人に自治を認める分権化を行ったため、それ以降ニジェールのトゥアレグ人は民主政権を支えるようになり、マリで2012年に起こった第4次トゥアレグ反乱はニジェールには波及しなかった。イスフは、外交的には、ニジェールの国力の限界を冷静に判断してフランスの関係を緊密にし、経済の向上と防衛強化に務めた。そのため、イスフは、大政治家(ハウサ語でライオンを意味するZakiというニックネームで呼ばれる)と評価される。他方、イスフは、彼の統治時代に、開発資金などの横領疑惑が増加すると共にニジェールで積年の問題である汚職が悪化したため、汚職政治家と批判される。
 公約を守って大統領職を二期で辞め、選挙で次期バスム政権を誕生させることに道を開いた。

注31:2023年7月30日に数千人のクーデタ支持者がニアメの議事堂前広場に集まり、「フランスはくたばれ。三日月の砂丘作戦は出て行け」、「プーチン万歳」などと叫んでフランス大使館に向かって行進し、その混乱の中で同大使館の壁や門が焼かれた(“Thouzands of Nigeriens take to the streets of Niamey to defend the coup plotters amid chants for Russia”, LA NACION, 30 July 2023;“French embassy in Niger is attacked as protesters waving Russian flags march through capital”, AP News, 30 July 2023.)。

注32:マリとブルキナファソの軍事クーデタとの比較

マリの軍事クーデタとその後の治安状況
 マリでは、フランスの軍事介入の失敗とケイタ民主政権の無策を批判して市民が大規模デモを起こし、軍もフランス軍とケイタ政権に不満をつのらせていたのを背景にゴイタ大佐が2020年8月18に軍事クーデタを起こした(元国防相ンダウを大統領、ゴイタを副大統領とするンダウ暫定政権誕生)。しかし、ンダウ暫定政権が内閣改造をすると、ゴイタは「内閣改造については何も聞いていない」と不満を表明して2021年5月24に再び軍事クーデタを起こし、全権を掌握した(ゴイタ暫定政権誕生)。ゴイタは、再度の軍事クーデタによって名目上も実権を握ったものの、2020年の軍事クーデタを起こした立役者で当時から事実上実権を握っていたため、実態は変わらず、一般市民も再度の軍事クーデタに対して暫定政権内部の人事異動のように捉えて大きな反応を示さなかった。ゴイタは、事実上実権を握った当時から、「無為無策なケイタ大統領に替わって、悪化する治安に有効に対処する」と述べ、一般市民が軍事クーデタを歓迎したのもそれを期待したからだった。しかし、マリの治安はゴイタが事実上実権を握った2020年8月から(2015年から年々悪化していたが)さらに悪化し、悪化のスピードは2021年末のワグネルの侵出で加速し、2022年2月のフランス軍の撤退宣言と2023年6月のMINUSMA(UN Multidimensional Integrated Stabilization Mission in Mali)の撤退宣言で急加速して今日に至っている(詳細は拙稿 フランスの軍事介入の失敗とマリ分裂の危機 IPP 政策オピニオンNo.283参照)。

ブルキナファソの軍事クーデタとその後の治安状況
 ブルキナファソでも、「カボレ大統領のイスラム過激派対策が生ぬるいため治安が悪化している」と一般市民の不満が高まる中で、訓練も装備も不十分な警察官らが過激なイスラミストに襲われて殺される事件が2021年11月に同国北部で起こったのを契機に、イスラミストと戦う兵士及び軍の怒りが爆発して、ダミバ中佐が2022年1月24日に軍事クーデタを起こした。これによってダミバを大統領とする暫定政権(Patriotic Movement for Safeguard and Restoration:PMSR)が誕生した。しかし、同政権になってからも過激なイスラミストの攻撃は増加し国土の約40%を彼らの支配下に奪われる始末で、特に前線で戦う若い兵士に不満が高まっていった。そこで、不満をためた若い兵士を率いるトラオレ大尉は、「ダミバはイスラミストの攻撃に正面から対峙するという当初の目的から逸脱してしまった」とし、ダミバに替わって暫定政権:PMSRの長に就いた。この再度の軍事クーデタは、暫定政権:PMSR内部の権力闘争(交替)でトラオレが勝利したというのがその実態である。ただ、フランス寄りと見られていたダミバがロシア寄りのトラオレに替わったことや、首都ワガドゥグーではロシア国旗を振って歓迎した一般市民がいたことから(ただし、多くの市民はトラオレが権力闘争に勝利したことには無関心で、「果たして治安は改善するのか」と将来に不安を示すだけだった)、ワグネルの支援があったと見られている。ブルキナファソではトラオレが権力を掌握して後もイスラミストの攻撃が増加し治安は悪化し続けており、マリやニジェールと比べても死者数が最も多い(“ECOWAS counterterrorism force not ready for action, analysts say”, VOA, 23 July 2024.)。

注33:バズムは、例えば、フランスが2014年8月に始めた三日月の砂丘作戦(IPP 政策オピニオンNo.283参照)に積極的に協力したのみならず、同作戦の失敗で2022年2月17日から同年9月19日にかけてマリから追い出されたフランス軍兵士約1500人を首都ニアメのNiger air base 101に受け入れた。また、バズムはEUにEU Military Partership Mission:EUMPMの派遣を要請し、EUは、ニジェールが豊富な鉱物資源を有する上、不法移民の通過点であることから、同国の安定がEUの利益に繋がると考えて要請を受け入れ、2023年2月からドイツ、イタリア、スペイン、ベルギーがニジェールに兵士を駐留させていた。その他、バズムは、イスフ政権の外務大臣として米国を訪問した際、「リビアでの軍事行動は、あらゆる種類のアクターを風の中に撒くことになる。砂嵐が我々を打ちのめす前にアメリカはニジェールを助ける必要がある」と述べてオバマ政権の幹部に警告を発して協力を要請し、その後、内務大臣なると、アガデスに米軍基地Niger air base 201を建設するについて主要な役割を演じた。

注34:調査会社Afrobarometerが2022年6月にした世論調査では64%が外国の軍事介入に反対で、フランスやEUからの軍事支援を支持したのは6%だった(“Terrorisme: Les Nigeriens sont satisfaits de lʼimplication de leur armee et ne veulent pas de lʼaide dʼune armee etrangere”, Afrobarometer, 18 June 2023.)

注35:バズム政権は、三日月の砂丘作戦の失敗でマリから追い出されたフランス軍部隊をニジェールに受け入れたが(注33参照)、軍事クーデタ後に実権を握ったjuntaは、2023年12月にフランス軍部隊をニジェールから完全撤退させた(注41参照)。三日月の砂丘作戦自体は同年11月9日に終わった。

注36:“M62 affiliated protesters march against French military in Niger”, VoA 19 Sep. 2022;“Protesters in Niger call for departure of French troops”, Anadolu Ajansi, 19 Sep. 2022.

注37:ニジェールは多民族国家で、ハウサ人が過半数の53.1%を占め、ハウサ人に続く2位はジェルマ・ソンガイ人21.2%、3位はトウアレグ人11%、その他の民族は10%未満であるが、中でもアラブ人は0.4%と極めて少ない。イスフもチアニもハウサ人であるが、バズムの先祖はリビアのフェザーンからやって来たアラブ人である。バズムは、一般市民からも”外国から来た人”と呼ばれ敬遠されていたが、軍は敬遠する程度では収まらなかった。

注38:バズムはイスフ政権の内務大臣だった頃から話し合い解決(outstretched hand政策)を目指していた。軍は、「過激なイスラミストは、outstretched hand政策によって、ニジェール国内を自由に歩き回り、新たなメンバーを募集し、装備を調え、ニジェール国外のマリなどで活動を活発化した」として、話し合い解決に厳しく反対していた(“Sidelining the Islamic State in Nigerʼs Tillabery”, International Crisis Group, 3 June 2020.)。
 バズムは大統領になると、軍が話し合い解決に従来から反対しているのに、過激なイスラミストの囚人を釈放して彼らを大統領官邸に招いて話し合い、「テロリストは軍よりも戦いに長けていて強い」などと述べた。軍は、軍を侮辱する発言と受け止め、バズムに強く反発した。
 なお、バズムは、ニジェール軍増強計画の実施に反対していたわけではない。
 ニジェール軍増強計画とは、「ニジェールでも、リビア内戦やマリの紛争の影響を受けてイスラム過激派の攻撃で治安が悪化していることに鑑み、広大な国土を防衛するためには兵員の増強が必要である」として、2020年当時2万5000人の兵員だった軍を、2025年に5万人、2030年に10万人に増強する法律のことで、イスフ大統領時代末期の2020年11月に可決された。

注39:バズムは大統領に就任すると、不適任と考える軍の高官を大使などに追いやり、適任者と考える者に置き換えていった。また、バズムは、マリやブルキナファソのjuntaを拒否・軽蔑する姿勢で臨み、マリのjuntaと2023年3月に会談したニジェール軍参謀長のModiを、数週間後に理由を告げずに解任した。

注40:例えば、①ニジェールは、マリやブルキナファソと比べれば軽傷だとはいっても、過激なイスラミストの攻撃が盛んなLiptako-Gourma地域(Tahoua州、Tillaberi州など)及びナイジェリアと接するDiffa州では本件軍事クーデタ当時にも非常事態宣言が出されており、②バズム政権下では、軍事クーデタを予兆させる一般市民による政権批判の大規模デモはなかったといっても、それはバズムが2022年2月の大統領令でNGOの活動を制限し、ジャーナリストを逮捕するなどして反対派を押さえ込んでいったからで、③バズムによる反対派抑圧にもかかわらず、M62 Movementによる反フランス・デモはかなり頻繁に行われていたなどである。
 M62 Movementは、三日月の砂丘作戦を戦うフランス軍部隊がニジェールに駐留するのに反対するため、独立から62年目の2022年7月に、15の組織がまとまって創設されたニジェール最大の市民団体で、「フランスは多くの一般市民を殺害し、資源を搾取した」と主張し、多くのニジェール人から支持された。

注41:フランス軍部隊の撤退 EU部隊の撤退
 Juntaは、軍事クーデタの直後にフランス軍部隊のニジェールからの撤退を要求した。当時、フランスは、約1000人の兵士をニジェールの首都ニアメに駐留させ、残り約400人の兵士をマリ及びブルキナファソとの国境地帯に展開していた。フランスのマクロン大統領は撤退要求受け入れに当初は消極的だったが、「フランスは出て行け」「ロシア万歳、プーチン万歳」などと叫ぶ一般市民のデモが連日のように繰り返されるのを見て、9月終わりに要求受け入れに転じ、2023年10月11日にフランス部隊の撤退を開始した。最後の一兵がニジェールを去ったのは2023年12月21日である。フランス軍部隊は、juntaからフランス航空機がニジェール領空を飛行するのを禁止されたため、ニジェール軍にエスコートされて1600kmもある陸路を9日間かけてチャドのンジャメナへ移動し、同地から空路パリに帰国した(“France closes embassy in Niger until further notice”, France 24, 2 Jan. 2024;“US officially Declares Niger Change a Coup, Cuts Aid”, VoA, 10 Oct. 2023;“Last French troops left Niger”, VoA, 22 Dec. 2023;“Military: First French Convoy Withdrawing from Niger Arrives in Chad”, VoA, 19 Oct. 2023.)。
 なお、フランスは、チャド湖周辺、サヘル地域、ギニア湾岸でのテロとの戦いのため、2024年現在も、セネガル、コートジボワール、ガボン、チャド、ジブチなどに仏軍基地を持ち、セネガルに350人、コートジボワールに600人、ガボンに350人、チャドに1000人、ジブチに1500人の兵を駐留させている。しかし、フランスは、反仏感情が高まっているのを考慮して駐留兵士をセネガル100人、コートジボワール100人、ガボン100人、チャド300人に減らす計画である(“Why does France have military bases in Africa”, BBC, 6 Nov. 2023;“France to reduce troops in West and Central Africa to 600, say sources”, AFP, 17 June 2024.)。
 また、ニジェールには、EUとニジェールの合意EU Civilian Capacity Building Mission(2012年7月に開始)及びEU Military Partnership Mission(2023年2月に開始)に基づいて、ドイツ、イタリア、スペイン、ベルギーからに派遣されていた外国兵もいたが、彼らも2023年12月にニジェールから撤退した。
 だたし、唯一イタリアは、ニジェールとの2国間条約(Missione bilaterale di  gainst nella Repubblica del Niger:MISIN)を締結しており、2018年9月からイタリア兵をニジェールに派遣していたが、イタリアは巧みな外交努力によってjuntaと良好な関係を維持し、MISINに基づいて派遣されたイタリア兵は、現在も約250名(65名減)がニジェールに駐留している(“The Misin Mission in Niger: an opportunity for Italy”, IARI, 28 May 2024.)。

注42:フランスとの軍事協定の破棄
 Juntaは、ニジェールがフランスと1977年〜2020年の間に締結した5つの軍事協定を破棄すると2023年8月3日にテレビ発表した。内3つはバズムが外務大臣当時に締結されたものである。

破棄された軍事協定は以下のとおり。
①Agreement of Technical Military Cooperation, 1977. (the military evicted French soldiers according to the Agreement of 19 February 1977 on Technical Military Cooperation, in accordance with its Article 12 and the three-month notice)
②Agreement of 25 March 2013 on the legal regime for the intervention of French military personnel in Niger for Security in the Sahel.
③Agreement of 19 July 2013 on the status of French soldiers present in Niger in the context of the French intervention for security in the Sahel determining the Statute of Non-French Detachments of the “Force Takuba”.
④Technical Agreement of 2 January 2015 on the parking and activities of the French Joint Detachment on the territory of the Republic of Niger.
⑤The Additional Protocol of 28 April 2020 to the Agreement of 25 March 2013 on the legal regime for the intervention of French soldiers in Niger for Security in the Sahel.

注43:フランス大使の帰任  在ニアメ・フランス大使館の閉鎖
 Juntaは2023年8月26日に、在ニアメ仏大使Sylvain Itteに「48時間以内にニジェールから去るよう」要求した。同大使は、9月27日にチャドのンジャメナからパリに帰任した。在ニアメ・フランス大使館も12月末に閉鎖された(“France closes embassy in Niger until further notice”, France 24, 2 Jan. 2024.)。

注44:Ecowasは、1975年5月28日にナイジェリア最大の都市Lagosで締結されたLagos条約によって創設された。当初の締約国は、旧仏領でフランス語が公用語のベナン、ブルキナファソ、ギニア、コートジボワール、マリ、ニジェール、セネガル、トーゴ、及び旧仏領でアラビア語を公用語とするモーリタニア(2000年に撤退し、2017年にassociate membership協定を締結)、 旧英領で英語が公用語のガンビア、ガーナ、リベリア、ナイジェリア、シエラレオネ、旧ポルトガル領のギニアビサウで、1977年に旧ポルトガル領のカーボベルデが加入した。
 設立当時の目的は、経済規模が小さく貧しい15ヵ国の経済・貿易の単一市場を創って経済統合を図り、地域全体の自給経済を達成し更に経済を発展させて人々の生活水準を向上させることだけだった。しかし、この目的は持続的な平和と政治的安定によってのみ達成可能なことに鑑み、①1981年に経済統合の基盤となる政治的安定の確保を目指してProtocol Relating to Mutual Assistance in Defenceが採択され、②1990年に平和維持同盟(Ecowas Monitoring Group:ECOMOG)を創って軍事クーデタや過激なイスラミストの攻撃には制裁や平和維持軍の派遣で臨むことにし(“Coups in Africa, Even in Ecowas”, Wilson Center, 27 Nov. 2023.)、国連やアメリカが介入をしり込みする中で、1989年から始まったリベリア内戦に実際に派遣されて和平に導き、③1993年7月にベニン最大の港町Cotonouで条約改定が行われて和平・治安の安定の推進も目的に含まれることになり、④2001年12月にはSupplementary Protocol on Democracy and Good Governanceが採択され、権力を握るには自由で公正な選挙によらなければならず、非憲法的手段で獲得された権力にはゼロ・トレランスで臨む旨が規定された。
 なお、Ecowasは、過激なイスラミストと戦うための部隊counter-terrorism forceを創ることを検討しているが未だ創設に至っていない。過激なイスラミスト殲滅作戦については、Multinational Joint Task Force:MJTF(注59参照)のように、個別のEcowas諸国とEcowas域外国間でcounter-terrorism forceを創り、協力して作戦を実施しているにとどまる。

注45:Ecowasの対ニジェール制裁
  軍事介入については、EcowasメンバーのうちトーゴとCape Verdeが反対し外交努力で解決すべき旨主張した(“As Nigerʼs crisis drags on, its West African neighbors are tested”, Washington Post, 23 Aug. 2023.)。フランスのマクロン大統領は「もし、Ecowasが軍事介入するならフランスはpartnership approachの範囲内で支援する」と述べたが(“Niger: Paris backs president Bazoum and ECOWAS’ military action should it be the case”, africanews, 29 Aug. 2023.)、partnership approachの具体的内容は明らかにされなかった。
 経済制裁は、ニジェールとEcowas諸国との国境閉鎖、ニジェールを往来する商業フライトについて飛行禁止区域の設定、ニジェールとEcowas諸国との商業・金融取引の停止、Ecowas中央銀行におけるニジェール国の資産凍結などを含み、医薬品や基礎的食糧を制裁から除外する人道的配慮もなされなかった。
  これに対し、Ecowasの対マリ制裁は、軍事介入への言及はなく、経済制裁についても人道的配慮から基礎的食糧、医薬品、石油、電気などが除外された(“ECOWAS Imposes Sanctions on Niger Junta, Calls for Immediate release, Reinstatement of President Bazoum”, The State House, Abuja, Press Releases, 30 July 2023;“ECOWAS imposes further sanctions on Mali”, Anadolu Ajansi, 10 Jan. 2022.)。
 なお、Ecowasの制裁は、その殆どが2024年2月に解除された(注53参照)

注46:ニジェールのjuntaによる対抗措置
 juntaも、以下のとおり、軍事クーデタ後、国境閉鎖と領空閉鎖を行った。なお、ニジェールは、チャド、リビア、アルジェリア、マリ、ブルキナファソ、ベナン、ナイジェリアの7ヵ国と国境を接している。
 まず、国境閉鎖については、juntaは、2023年7月26日の軍事クーデタ直後に上記7ヵ国との国境を閉鎖したが、同年8月2日に国境を開き、以降、ナイジェリアとベナンとの国境を除いて、他の5ヵ国との国境は開いている。
 ナイジェリアとの国境は、Ecowasの制裁が解除されて間もなくの2024年3月に開らかれた。
 ベナンとの国境は、2024年10月現在までのところ、閉鎖が続けられているが、ニジェールとベナンの二国間高官協議は続けられており、近く国境が開かれる可能性が高い。なお、ベナンもニジェールの国境封鎖に対抗して、ニジェール産原油をベナンの港でタンカーに積込むのを禁じ、中国の仲裁でその禁止措置が解除された(注10参照)。
 ニジェールにとってベナンは海外の国との貿易ルートでかつガーナなどアフリカ諸国との通商ルートでもあるため、ベナンとの国境閉鎖はニジェール経済にとって極めて打撃が大きい。
 それにもかかわらず、なぜ、juntaはベナンとの国境閉鎖を続けるのだろうか。それは、juntaが、Ecowasによる軍事介入の脅しを受けて、「ベナンはフランス軍基地を擁しており、いつ何時フランスなど外国軍の介入によって権力の座から引きずり降ろされるかもしれない」と恐れているだけでなく、「ベナンのフランス軍基地で、フランス軍訓練士が、バズム復権を要求する反乱グループ・メンバーを訓練し情報を提供している」と強く疑っており、反乱グループ(The Patriotic Liberation Front:FPL)は、現に2024年6月にニジェール・ベナン間の石油パイプラインを攻撃し、今後も攻撃すると脅かしているからである。
 ところが、フランスは「ベナンにフランス軍基地はない」と否定し、ベナンは「JNIM(注59参照)などの過激なイスラミストの越境攻撃に対処するため、フランス軍の駐屯地はあるが規模が小さく基地ではない」と主張している。しかし、以下のとおり、juntaの主張に理由がない訳ではない。つまり、ベナン軍兵士によれば「ベナンには秘密のフランス軍基地がある。ニジェール国境から50kmのフランス軍基地で破壊工作訓練をフランス軍訓練士から受けた。2023年末にはフランス兵と合同軍事作戦を行った」との証言がある上(“Witness Unveils Franceʼs Discreet Military Base in Benin”, TURDEF, 2 June 2024.)、ベナンはニジェールの情報収集に最適な場所で、フランスは未だに多くの利権を持つニジェールについて情報収集しFPLに提供した可能性もあり、juntaの主張も一概に否定できないのである。
 次に領空閉鎖については、juntaは、2023年7月26日の軍事クーデタ直後に上記7ヵ国との領空を閉鎖し同年8月2日に開いたが、「一週間以内にバズムを復権させなければ軍事介入する」旨の最後通牒の期限である同年8月6日に、バズム復権を拒否すると共に軍事介入の恐れを理由として再び閉鎖した(“Niger Closes Airspace as it Refuses to Reinstate President”, Reuters, 7 Aug. 2023.)。しかし、同年9月4日にcommercial flightについては再び開き、軍用機については事前許可を要することとして、領空閉鎖は短期間で終わり現在に至っている(“Niger Junta re-opens airspace to commercial flights, says national media”, France 24, 4 Sep. 2023.)。

注47:Ecowasの対マリ制裁の迷走
 Ecowasは、2020年8月にゴイタ大佐が軍事クーデタを起こして元国防大臣ンダウが暫定大統領、ゴイタが暫定副大統領についてンダウ暫定政権が発足した直後、人道的配慮から一部を除外した経済制裁をマリに科したが、ンダウ暫定政権が「18ヵ月後(=2022年2月)に選挙を実施して民主政権に移行する」旨を表明するや、2ヵ月後の2020年10月には経済制裁を解除した。
 しかし、2021年5月にゴイタが再度の軍事クーデタを起こして自ら暫定大統領につきゴイタ暫定政権が発足すると、①直後に、マリのEcowasメンバー資格を停止し、②ゴイタ暫定政権も、ンダウ暫定政権による民主政権への移行約束を引き継いだものの(2022年2月27日に選挙を予定)、次第に選挙実施は不可能なことが明らかになると、2021年11月にゴイタ暫定政権のリーダーらに対して旅行禁止や資産凍結などの制裁を科し、さらに同年12月にマリに対する経済制裁を復活させた(“West Africa bloc ECOWAS imposes sanctions on Mali leaders”, Al Jazeera, 7 Nov. 2021;“Economic Sanctions on Mali Tightened as West African Leaders Reject Proposed Timetable for Presidential Election, Special Representative Tells Security Council”, UNSC Press Release, 11 Jan. 2022.)。
 ところが、その後、ゴイタ暫定政権が「2024年2月に選挙を実施して同年3月には民主政権に移行する(=2022年3月から数えて2年後に民主政権に移行する)」旨の新たな提案を行い、新選挙法も公表すると、2022年7月にマリに対する経済制裁を再び解除した(“Mali political parties request elections after junta shuns transition promise”, Reuters, 1 April 2024.)。

注48:軍事クーデタの続発

 *Ecowas域内
 ギニアでは、コンデ大統領が、憲法改正によって3期目の大統領選挙に当選して間もなく、食料品価格の値上げや増税に踏み切ったのを契機に、ドゥブンヤ大佐が2021年9月に軍事クーデタを起こした。

 マリ、ブルキナファソについては注32参照。

 *Ecowas域外
 チャドでは、FACT(Front pour lʼAlternance et la Concorde au Tchad/ Front for Change and Concord in Chad)が、リビア内戦に傭兵として参加するなどしてイドリス・デビー独裁政権打倒の準備を重ねてきたが、リビアでの停戦合意を契機に2021年4月に帰国して戦いの狼煙を挙げた。同月21日に戦場に現れたイドリス・デビーは爆弾にあたって死亡し、30年余り続いた独裁政権に終止符が打たれた。しかし、息子のマハマト・デビー(Mahamat Deby 1984年4月4日生まれ)が直ちに実権を握り、2023年12月17日に大統領資格年齢を40才から35才に引き下げるなどの憲法改正を行い、当初は「父の跡は継がない」と約束していたのに大統領選に出馬して、2024年5月6日の大統領選挙で61%の得票をして第7代チャド大統領に就任した。従兄弟のジロ(Yaya Dillo Djerou)は、主な対立候補であったが、選挙投票日が発表された2024年2月28日に政府軍とジロの率いる反対政党がぶつかり、銃撃戦で死亡した。International Crisis Groupなどの国際人権団体は、大統領選挙は不公正で信頼できないと批判している。
 スーダンでは、約30年続いたバシール独裁政権に対する民衆の怒りを背景に2019年4月にスーダン軍がバシールを解任した。バシール解任後は民主化を要求する一般市民の要求で同年8月に暫定主権評議会が創設され、元外交官のハムドックが首相についたが、実際に暫定主権評議会を動かしていたのは軍だった。軍はさらに軍の政治支配を確固なものにしようと、2021年10月にスーダン軍トップのブルハンらが軍事クーデタを起こしてハムドックを解任した。しかし一般市民のすさまじい抗議が起こり、軍は暫定主権評議会を再開したが、その中身は軍幹部会(military junta)に入れ替えたものだったため、再び一般市民の抗議が起こり、軍は2022年12月5日に民主勢力との間で”民主政府に至る枠組み合意”を結ばざるを得なかった。この枠組み合意は、軍やハムダンの率いる即応支援部隊の他、各地の反乱軍など、物理的な力を持つ組織を統一して国軍だけにし、国軍は国の安全保障に専念して政治に口出ししないことを重要な柱にしていた。しかし、統一の具体的方法をめぐって軍を率いるブルハン参謀長と即応支援部隊を率いるハムダンが対立して2023年4月15日に両者の戦いがはじまり、スーダン内戦に発展して現在に至っている。
 これら一連の軍事クーデタの後、2023年7月にニジェールでも軍事クーデタが起こった。
 さらにニジェールに対するEcowasの制裁発動後にEcowas域外のガボンで軍事クーデタが起こった。
 ガボンは1960年にフランスから独立して以来Bongo家が大統領職を独占し続けてきたが、初代大統領Omar Bongoの息子Ali Bongoが三期目の大統領職を目指して2023年8月26日に選挙を行い、Ali Bongoの当選が公表されると、選挙の不正と長期独裁政権に対する民衆の批判を背景に軍事クーデタが起こり、オリギ准将(Brigadier General Brice Oligui)を暫定大統領とするjuntaが実権を握った。

注49:ガンビアに対するEcowasの軍事介入(以下のとおり、ニジェールとは事情を異にしていた)
 Ecowasは、1990年に平和維持同盟:Ecowas Monitoring Groupを創設して以降、Ecowas平和維持軍を合計7回加盟国に送っており、例えば、長年の内戦で揺れていたリベリアにEcowas平和維持軍を送って反乱軍を武装解除して1997年の複数政党制選挙へ道を開くなどした。最も最近の成功事例がガンビアの事例である(“Coups in Africa, Even in ECOWAS”, Wilson Center, 27 Nov. 2023.)。
 ガンビアの事例とは、2016年12月に行われた同国大統領選挙でAdama Barrowが3.7%の得票差で現職のYahya Jammeh(1994年の軍事クーデタで権力を掌握し1996年、2001年、2006年、2011年の選挙で勝利)に勝利したところ、Yahya Jammehは、選挙結果が発表される前には敗北を認めていたものの、選挙結果が判明して予想より得票差が僅かなことが判ると、選挙の不正を主張して権力の委譲を拒否したため、Ecowasは軍事介入を決め(“ECOWAS okays military intervention in Gambia, joint troops stationed at border”, Africa News, 12 Sep. 2019.)、Yahya Jammehの任期が切れる2017年1月19日にガンビアに侵攻して国境の村を支配下に治めた後、侵攻を一時停止して話し合いを続けたところ、同月20日にガンビア軍は「Adama Barrowに忠誠を誓いEcowas平和維持軍とは戦わない」と表明し、Yahya Jammehも敗北を受け入れ、同月21日にギニアを経て赤道ギニアに逃亡し、他方Adama Barrowは、逃亡先のセネガルにあるガンビア大使館で同月19日に大統領宣誓を行い、同月26日にガンビアに帰国したものである。
 上記のとおり、ガンビアの事例はニジェールとは事情を異にしていた。つまり、ガンビアでは、①一般市民の過半数が民主的に選ばれた新大統領を支持ており(ニジェールではjuntaを支持)、②選挙で落選した旧大統領も当初は敗北を認めており(ニジェールではjuntaが全権を把握し権力を維持することに固執)、③ガンビア軍は、Ecowas平和維持軍7000人に対して全軍を合わせても2500人の兵力しかなかった(ニジェールの場合はEcowas軍6万に対しAES軍8.85万人とAES軍の方が優勢)。
 したがって、ガンビアで成功したからと言ってニジェールでも成功すると考えるのはおかしい。
 また、ガンビアの成功事例でも、2016年12月の大統領選挙から翌2017年1月のEcowas平和維持軍侵攻の間、混乱を恐れた主に子供や女性約4万5000人が難民となってセネガルなどに避難し、その一部はそのまま残留して国外難民となるなど負の遺産を残した。

注50:ニジェールは、食糧や生活必需品をベナンの最大の港Cotonouやナイジェリアから輸入していたが、国境が閉鎖されて医薬品、穀物、砂糖、粉ミルク、野菜などが不足し、米の価格は8月には21%、10月には50%上がるなど高いインフレになって、食糧難に苦しむ人は軍事クーデタ前の330万人(人口の13.3%)から倍加した。特に、ニジェールは、電力供給の約70%を隣国のナイジェリアに依存しているところ、送電を止められて子供は学校に行けず、商売や工場は閉鎖を余儀なくされた。
 国境閉鎖はニジェールだけでなく地域経済にも大きな影響を与えた。特にニジェールと1600kmの国境を共有する隣国ナイジェリアは、ニジェールとの貿易が盛んでトラックが頻繁に国境を行き来していたところ(ナイジェリアはセメントやタバコをニジェールに輸出し、ニジェールは家畜製品や果物をナイジェリアに輸出)、Ecowas制裁後間もなくの2023年8月はじめには2000のコンテナを積んだ多数のトラックが国境で足止めされ、トラックドライバーは、生きるためにガソリンを売るのを余儀なくされる始末だった。
 ナイジェリアはEcowas制裁前にも石油補助金カットや通貨nairaの変動相場制移行で経済が混乱していたが、Ecowas制裁がこれに加わり、インフレが加速して多大な影響を受けた。ナイジェリアの中でも特に北部は、消費者や農場労働者がニジェールからやって来ることによって地域経済を回していた。国境閉鎖で彼らが来なくなると、ナイジェリア北部の人々は生活に困窮し、一部は武装密貿易者の支配する危険な脇道を利用して密貿易するようになった。また、Ecowasの制裁は、治安にもマイナスで、Boko Haramなどの過激なイスラミストの活動を活発化させ、農民と牧畜民との紛争も増えた。そのため、ナイジェリアの北部最大の都市Kanoでは、「ニジェールの人々は我々の兄弟だ。軍事介入には反対だ」と一般市民のデモが起こり、「国境を開け」という要求は、ナイジェリア議員からもなされるようになった。Ecowasメンバー国ではないもののニジェールと国境を接するアルジェリアやチャドも軍事介入に反対した。
 その他、ニジェールとナイジェリアは、チャドやカメルーンと共に、チャド湖周辺の過激なイスラミストの活動に対処するため、Multinational Joint Task Force:MNJTFの旗の下に2015年以来協力してきた(対Boko Haram共同軍事作戦 注59参照)。しかし、Ecowasの制裁で、ニジェールはEcowasの軍事侵攻に備えるのが先決でMNJFTに兵を割く余裕がなくなると共にMNJFT国間のコミュニケーションが減ってしまった。結果として、MNJFT国は、過激なイスラミストの攻撃や国境を跨いだ麻薬や人身売買などの犯罪に協力して対処できなくなり、地域の若者を過激なイスラミストの募集に応じやすくしてしまった(“Niger coup leaders warn against military intervention by ECOWAS”, Al Jazeera, 30 July 2023;“Thousands in Niger rally in support of coup leaders”, Al Jazeera, 3 Aug. 2023;“Niger coup: From North to West Africa, voices speak out  gainst ECOWAS military operation”, Le Monde, 7 Aug. 2023;“ECOWAS Poised for Possible Niger Intervention, Junta: ‘We’d Kill Bazoum’”, VoA Africa, 10 Aug. 2023;“ECOWAS leaders say all options open in Niger, including ‘use of force’”, Al Jazeera, 10 Aug. 2023;“Western officials: Niger junta warned they’d kill deposed president after any military intervention”, Africanews, 11 Aug. 2023;“Nigerians protest threat of military intervention in Niger”, Anadolu Ajansi, 13 Aug. 2023.)。

注51:AESは、Ecowasによる軍事介入だけでなく過激なイスラミストの攻撃に対して相互協力して戦うことを約しており、2024年3月6日には合同反テロ部隊(joint counter-terrorism force)を創ると発表した。しかし、マリ、ブルキナファソ、ニジェールの三国とも自国の過激なイスラミストの攻撃に対処するのに精いっぱいで既存の部隊を他国に回したり新たな部隊を創設する余裕はなく、今まで一度も三国が共同して過激なイスラミスト作戦を行ったことはない。
 なお、マリ、ブルキナファソ、ニジェールの三国はAES締結後、2014年に創設されたG5 Sahel(発展・治安の促進)及び2017年に創設されたG5 Sahel’s Joint Task Force(治安情報の共有)からは脱退することを表明した。残されたG5 Sahelメンバーのチャドとモーリタニアも、2023年12月6日にG5 Sahel解消を受け入れた。なお、G5 Sahel創設条約は、「メンバー国3カ国以上の請求でG5 Sahelを解消できる」としている。

注52:“Mali, Burkina Faso and Niger quit ECOWAS”, Deutsche Welle, 28 Jan. 2024;“Niger, Mali, Burkina Faso announce withdrawal from ECOWAS”, Al Jazeera, 28 Jan. 2024.
 マリ、ブルキナファソ、ニジェールのAES三国は、Ecowasからの脱退要求(口頭で行われた)は、直ちに効力が発生すると主張している。しかし、改正Lagos条約第91条は、「脱退の効力発生は、書面による脱退要求から一年後で、脱退要求から効力発生までの間はEcowasの規定を遵守しなければならない」としている。
 Ecowasは、AES三国をEcowasに留め置くため、セネガルなどによる説得工作を続けてきたが、2024年12月15日のEcowasサミットで、(脱退要求から一年後の2025年1月29日に脱退の効力が発生するのではなく)脱退の効力発生に6ヵ月の猶予期間を設けた。Ecowasは、この猶予期間(2025年7月29日まで)を利用して、「脱退を思いとどまり組織に残るよう」AES三国を説得することにしている(“Burkina Faso, Mali and Niger agree to grace period in ECOWAS withdrawal”, Al Jazeera, 15 Dec. 2024. )。

注53:ニジェール、マリ、ブルキナファソの三国が2024年1月28日にEcowasを脱退すると表明するや、Ecowasは、あわてて宥和政策に動きだした。Ecowasが宥和政策を取った理由は、三国が脱退すれば組織として一体性を保てずEcowas自体が瓦解し、統一市場を維持できなくなるからである。Ecowasの宥和政策の内容は、残っていた経済制裁を解除するもので、2024年2月25日にギニアとニジェールに対する経済制裁を解除した。マリ及びブルキナファソに対する経済制裁は、ゴイタ暫定政権及びトラオレ暫定政権が「2年後に民主政権に移行する」旨の約束をしたのを受けて2022年7月に解除していたため(注47参照 “West African leaders lift economic sanctions on Mali”, Al Jazeera, 3 July 2022;“West African bloc ECOWAS lifts sanctions against Guinea, Mali”, France 24, 25 Feb. 2024.)、そのまま維持された。なお、マリのゴイタ暫定政権は、ニジェールの軍事クーデタから2ヵ月後の2023年9月になると、「2024年2月に予定された選挙は実施不能」として延期し、民主政権への移行約束を事実上反故にしたので、本来ならEcowasは、マリに対する経済制裁をもう一度復活させるべきところ、制裁解除が維持された。
 Ecowasメンバー資格の停止(現在、Ecowasメンバー資格を停止されているのはマリ、ブルキナファソ、ニジェールの三国+ギニア)、及び暫定政権のリーダーらに対する旅行禁止や資産凍結の制裁は、「軍事政権は認められない」旨のメッセージーを送り続けるために残された。

注54:Ecowasの宥和政策を無視するように、
 マリのゴイタ政権は、①2024年2月に「三国で連邦国家を創りその共通通貨を決める予定」との声明(=Ecowasを抜けて三国だけの統一市場を創る声明)を出し(“Experts Doubt ECOWAS Easing Sanctions on Juntas Will Have Impact”, VoA, 26 Feb. 2024.)、②2024年5月に「民主政権への移行には5年を要し、ゴイタらは将軍に昇格し、ゴイタに大統領候補者資格を認める」旨の声明を出して軍事政権が無期限に居座り続ける意思を示した(“In Mali, democracy has been indefinitely postponed”, Le Monde 19 May 2024.)。
 ブルキナファソのトラオレ政権も、①三国だけの統一市場を創る声明を出し、②「2024年7月に選挙を実施する旨約束したが、治安が不安定では実施不可能で、治安の安定が優先課題だ」として、民主政権への移行には5年を要し、トラオレに大統領候補者資格を認める旨の声明を2024年5月に出して軍事政権が無期限に居座り続ける意思を示した(“Burkina faso extends military rule by five years”, Al Jazeera, 26 May 2024.)。
 さらに、マリ、ブルキナファソ、ニジェールは、2024年6月6日には相互安全保障条約を強化して三国を統合して連邦国家にする条約(confederation treaty)に署名し、マリのゴイタが一年間連邦大統領に就くことで合意した(“Niger, Mali and Burkina Faso military leaders sign new pact, rebuff ECOWAS”, Al Jazeera, 6 June 2024.)。
 なお、confederation treatyは、力を誇示するための名ばかりのもので連邦の実体はない。
 また、AES三国だけの統一市場の実現可能性、及びEcowasに残留するようAES三国に対する説得については注75参照。

注55:アメリカは、内陸国のニジェールを拠点に2013年から対テロ作戦を開始した。 
 アメリカのテロ作戦は、過激なイスラミストの大物を殺害するにはある程度の成功を収めたが、この地域のテロ攻撃はむしろ増加した。
 なお、アメリカは、2023年3月27日に、「過激なイスラミストの活動が内陸国から沿岸国に広がる(spillover)のを防止するため、及び拡大するロシアや中国の影響に対抗するために、ギニア、ガーナ、トーゴ、ベナン、コードジボワールの沿岸5ヵ国に対してUS$ 100 millionの治安援助をする」と表明した(“Kamala Harris begins Africa tour, announces security aid to Ghana”, Al Jazeera, 27 March 2023 ; “US announces $100 million dollar security assistance for Ghana, four others”, Ghana News Agency, 27 march 2023.)。

注56:アメリカ軍部隊の活動、及びその根拠となるアメリカ・ニジェール間の合意
 ①アメリカとニジェールは、2012年7月6日と2013年1月28日に、米軍の地位協定に関する交換公文を交わした(2013年1月28日発効)。同交換公文は、非武装無人偵察機を使った偵察活動に関するもので、米軍は偵察活動で得た情報を対テロ作戦を展開するフランス軍部隊やニジェール軍に提供することで合意した(US Department of State, Office of Treaty Affaires, 28 Jan. 2013;“US troops sent to Niger to bolster military presence in west Africa”, Guardian, 22 Feb. 2013)。
 ②アメリカとニジェールは、2015年10月に新たな軍事協定に合意した。この軍事協定は、アメリカが過激なイスラミストの標的攻撃やニジェール軍兵士を米空軍特殊部隊Green beretが訓練することについての合意で、これらの活動は2016年から始められた。しかし、米軍のニジェールでの活動は、1993年のモガディシュの戦い以来アメリカ最大の損失を出したとされる2017年10月4日に起こったトンゴトンゴ村待ち伏せ攻撃事件(Tongo Tongo ambush)まで、アメリカ国内では殆ど知られなかった。トンゴトンゴ村待ち伏せ攻撃事件とは、米軍兵士とニジェール軍兵士が、Islamic State in the Greater Sahara:ISGS(注59参照)司令官のDoundou Chefouを捕まえ又は殺す作戦を事件前日まで展開し、当日は基地に帰る予定でマリ国境に近いニジェールのトンゴトンゴ村で一時休息していたところ、ISGS戦士の待ち伏せ攻撃に会い、4人の米兵が殺された事件である。

注57:Niger airbase 101は、首都ニアメの南東9kmにある初代大統領Diori Hamaniの名を冠した民間空港Diori Hamani International Airportに隣接して、フランスが衛星通信ができるようKu band(ケーユー・バンド)を配備し新たな格納庫を2013年に建設した空軍基地で、同年からフランスとアメリカが対テロ作戦に使用してきた。

注58:Niger air base 201の建設は2014年にニジェール政府のOKを取り2016年に始まった。Niger air base 201は、世界の米軍基地の中でも、建設費用が最も高額な基地の一つで、滑走路と格納庫の他にレクリエーションセンターやカフェ(Dezert Café)も備えており、運用コストも年間US$ 30 millionかかる。UAEにあるAl-Dhafra airbaseより大きい(The US is building a drone base in Niger that will cost more than $280 million by 2024, The Intercept, 21 Aug. 2018.)。

注59:アメリカは、Niger air base 201を拠点に、MQ-9 Reaper Droneを使って、サヘル地域からアフリカ北部の広範囲をカバーして、過激なイスラミストの標的殺害及び情報収集を行っている。標的攻撃や情報収集は、本来なら戦闘地域外では各国の主権の問題があり勝手に行えないが、アメリカは、支配が行き届かない国(strike back capacityのある国は別論)の領域では事実上自由に行っている。
 サヘル地域からアフリカ北部でアメリカが主にターゲットにしている過激なイスラミストは、アルカイダの分派Jama’at Nusrat al-Islam wal-Muslimin:JNIM、及びIslamic State Sahel Province:ISSP及びIslamic State West Africa Province:ISWAP(又はProvinceを省略し、Islamic State West Africa:ISWAとも言う 本稿では以下ISWAPという)である。
 JNIMとは、AQIMのトゥアレグ人の分派Ansar Dine(defenders of Islamic religion)と他のAQIM分派が2017年3月に合流して創られ、様々なAQIM分派の足場を結び付け活動を一体化・活発化してサヘル地域最大の聖戦集団となった。なお、AQIM:Al Qaeda in the Lands of the Islamic Maghrevは、アルジェリア内戦後に生まれたアルカイダのマグレブ支部で、サヘル地域に活動を広げるため、2011年10月にトゥアレグ人の分派Ansar Dineを創った(拙著「アラブの冬」218〜221頁参照)。
 ISSPとは、前身のIslamic State in the Greater Sahara:ISGSが改名した聖戦集団。ISGSは、Al Mourabitoun(The Sentinels 歩哨・番人の意)の内紛が起こり、生き残った元MUJAO幹部が自分に従う者を引き連れてISのバクダディに忠誠を誓って2015年に結成された。なお、Al Mourabitounは、フランスの山猫作戦(Operation Serval)に対抗するため、MUJAO(AQIMのリーダーの殆どがアルジェリア人なのを嫌って黒人などが団結してできたAQIM分派)や覆面旅団(AQIMのリーダーであるドルクデルと敵対・反目するようになったベル・モフタールが創ったAQIM分派)が2013年に合流して創られた(拙著「アラブの冬」218〜221頁参照)。ISGSは、一時(2019〜2022年の間)ISWAPの一部となってISWAP-Greater Saharaと称したものの、2022年5月にISWAPと別れてISSPと称するようになった。ISGSやISSPは、フランスやアメリカの対テロ作戦に協力するニジェール、マリ、ブルキナファソの治安部隊をターゲットに攻撃を繰り返しており、トンゴ・トンゴ村待ち伏せ攻撃事件(注56参照)もISSPの前身ISGSの仕業である。
 ISWAPとは、2016年にBoko Haramから分かれISILに忠誠を誓い、ISILの分派と認められた聖戦集団である。
 Boko Haramとは、ナイジェリアのタリバンとも言われ、西欧式の教育・文化を汚職・堕落の根源、神への冒涜と捉えイスラム教で浄化すべきと考えるイスラム過激派で、2002年にMohammed Yusufがナイジェリア北東部Borno州の州都Maiduguriで創設した。それ以降、今日までの歴史は以下のとおり。
 2009年にBoko Haramメンバーが警察に暴行をふるわれたのを契機に、Boko Haramと警察の衝突が起こり、軍が動員されて700人のBoko Haramメンバーが殺害され、創設者のMohammed Yusufも警察に殺され、多数の銃弾を打ち抜かれた死体が公衆に晒された。
 これでBoko Haramは解体したかに見えたが、翌2010年にMohammed Yusufの副官Abubakar Shekauをリーダーとして復活し、復讐を誓って警察署、学校、教会などをターゲットに攻撃を始め、2011年8月にはナイジェリアの首都Abujaの国連ビルを襲撃して少なくとも23人を殺害し100人を負傷させた事件、2012年1月20日にはナイジェリア北部の都市Kanoで警察署などを襲撃して少なくとも185人を殺害する事件などを起こした。これに対し、ナイジェリア当局は2013年5月Boko Haramを力で押さえつける軍事作戦で臨んだ。
 その結果、Boko Haramは、都市部からは排除されたものの、ナイジェリア北東部のBorno州などで勢力を伸ばし、ニジェール、マリ、チャド、カメルーンなど周辺諸国にも広がっていった。特にニジェール南東部のDiffa州は、Maiduguriと地理的・文化的・経済的に強い結びつきがあり(Diffa州は、Boko Haram誕生の地Maiduguriに地理的に近く、Diffa州の若者はMaiduguriに学びに来ており、Maiduguriはニジェール産農産物の胡椒などの市場でもある)、経済的機会の少ないDiffa州の若者は、Boko Haramが盗んだり強奪した金品をメンバーに分配する経済的利益につられてBoko Haramのメンバーになっていき(“Niger and Boko Haram: Beyond Counter-insurgency”, International Crisis Group, 27 Feb. 2017.)、Boko Haramは規模を大きくし攻撃を増していった。Boko Haramが2014年4月にBorno州Chibokで起こした276人の女子学生を寄宿舎から誘拐する事件は、特に世界の注目を引き、轟々たる非難を呼んだ(2014 Chibok schoolgirls kidnapping)。また、Boko Haramが2015年1月はじめにBorno州Bagaを攻撃した事件では2000人余りが虐殺され、3万5000人余りが住む家を追われ、Borno州の約70%がBoko Haramの支配下に入った(2015 Baga massacre)。
 そこで、2015年2月からナイジェリア及びニジェールなど近隣諸国は共同軍事作戦(ナイジェリア、ベナン、カメルーン、チャド、ニジェールが共同してMultinational Joint Task Force:MNJTFを形成して行ったBoko Haram殲滅作戦)を行い、同年4月までにBoko Haramの支配地域の大部分を奪還した。Boko Haramの要塞拠点でChibokで誘拐した女子学生の大部分を閉じ込めた熱帯雨林の森Sambisa forestも、ナイジェリア当局が2016年末に奪還した(“Boko Haram ousted from Sambisa forest basin”, BBC, 24 Dec. 2016.)。
 当局の軍事作戦によってBoko Haramが弱体化する中で、リーダーAbubakar Shekauは、国際的な認知度を高めて存在感を向上させようと、2015年3月にISILに忠誠を誓い、その名をISWAPに変えた。ISILはこの時点でAbubakar Shekauの忠誠を受け入れたわけではないが、指導と助言を行うようになり、同人の残虐で超過激な手法(ムスリムの民間人もターゲットにし、女性や少年の自爆テロを使うなど)を批判して変更を求めるなどした。ところがAbubakar Shekauは頑として耳を貸さず、むしろISILのカリフであるバクダディに公然と不服従の態度を示した。
 このようなAbubakar Shekauの態度はBoko Haram内部からも厳しく批判され、創設者Mohammed Yusufの息子Abu Musab al-Barnawiは、Abubakar Shekauと袂を分かちメンバーの多くを率いて出て行った。他方、ISILは2016年8月にAbu Musab al-BarnawiをISWAPのリーダーと認めた(Abubakar Shekauの下に留まったグループは元のBoko Haramで呼ばれることになった)。ISWAPの分離独立でBoko Haramは弱体化し、他方ISWAPも組織を割って出て行ったため傷手を負ったが、両者とも次第に勢いを盛り返していった。特にISWAPは、その忠誠を上部組織ISILに認められて以降、自動車に積んだ即席爆発装置やdroneなどを使った戦闘手法をISILから学んで攻撃力を強め、2018年11月から2020年2月までチャド湖周辺の地をBoko Haramと協力して攻撃し(2018-2020 Chad Basin campaign)、MNJTFによる殲滅作戦にもかかわらず、同地の多くを回復して彼らの支配下に収めた。なお、ISWAPは、主に軍をターゲットにしてBoko Haramよりも複雑で統制のとれた攻撃をするが、チャド湖周辺の地に対する攻撃のようにBoko Haramと協力して攻撃することもあり、どちらが攻撃したのか不明な事件もあって、そのような場合には、両グループともBoko Haramで呼ばれることも多い。
 なお、ISWAPは、上部組織ISILから戦闘手法を学んだのみならず、政策方針でもその影響下に置かれるようになり、それが内部の権力闘争に発展してAbu Musab al-Barnawiは2019年にリーダーの座から降ろされた。他方、ISWAPは住民の安全を保障してその支持を得て税を徴収するなどして次第に支配地域を拡大してゆき、Boko HaramはそのようなISWAP支配地域の住民をISWAP協力者の烙印を押して襲ったため、ISWAPとBoko Haramの衝突が度々起こり、またリーダーAbubakar Shekauに対するBoko Haram内部の不満が高まっていった。
 ここにきてISWAPと上部組織ISILは、Abubakar Shekauを抹殺することを決め(“Report in Islamic Stateʼs al-Naba Newsletter on Destroying Abu Bakr Shekauʼs Group”, Aymenn Jawad Al-Tamimi, 2 July 2021.)、ISWAPは、Boko Haramが回復していた拠点Sambisa Forest森に攻め入った。この戦いの中でISWAPはSambia forestを奪い、Abubakar ShekauはISWAPに捕まるのを嫌って自殺した(2021 Battle of Sambia forest)。
 Abubakar Shekau亡き後、Boko Haramメンバーの多くが当局に投降し又はISWAPに鞍替えした。ただし、Boko Haramに留まったメンバーもおり、Boko Haramは活動を終息させたわけではない(“key Leader of West African Terrorist Group Is dead, Nigerian Army Says”, NYT, 15 Oct. 2021; “Boko Haram leader tried to kill himself during clash with rivals, officials claim”, Guardian, 20 May 2021.)。他方、ISWAPは、2022年1月にナイジェリア北東部のBorno州Gudumbali(Boko Haram最盛時にはその主要な拠点だった)を制圧し、同年6月にはOndo州Owoにあるカトリック教会を攻撃して少なくとも50人を殺すなどしてナイジェリア北東部で勢力を伸ばし、同年7月には首都特別区のKuje刑務所を襲撃して879人の囚人を解放するなど、ナイジェリア中心部にも活動を広げている。
 なお、上記のようにBoko HaramとISWAPとの争いが2021年半ばに終息すると、(Diffa州での攻撃はBoko HaramとISWAPの対立抗争のあおりを受けたものだったため)ニジェールのDiffa州はBoko HaramやISWAPから攻撃されることがなくなり、従前の攻撃で家を追われた人々は元の場所に帰還するようになった(“Niger Coup Reversing Hard-Earned Gains”, Africa Center for Strategic Studies, 13 May 2024 ; “Niger Crisis Response Plan 2022”, IOM Vision, 15 Dec. 2021 ; “Those Who Returned Are Suffering”, HRW, 2 Nov. 2022.)。

注60:Camp Lemonnierは、もともと仏外人部隊(French Foreign Legion)のために創られた駐屯地だったが、アメリカは2002年にジブチから同駐屯地を借り受け、近くの空港と港湾の使用権も有する恒久的な米軍基地にした。

注61:Baledogle Airfieldは、ソマリアの首都モガディシュから約90kmにあり、1970年代にソ連がソマリア空軍のために建設したものをアメリカが2010年代に拡張近代化した米軍基地で、ジブチのCamp Lemonnierと共に、イエメンのHouthiやソマリアのAl-Sababなどを監視し、紅海周辺の対テロ対策に当たっている。

注62:軍事クーデタとラベリングすることで生じる波及効果
 アメリカのSection 7008 of the Consolidated Appropriation Actは、選挙で選ばれた政権の長が軍事クーデタでポストを追われたときには、軍事・経済援助は禁止される旨定めている(禁止条項)。しかし、軍事クーデタの法的定義はなく、専門家の間でも定義が定まっていないため、軍事クーデタのラベリングは適当な運用がなされている。専門家は2009年以来世界で24件の軍事クーデタが成功したとしているが、オバマ、トランプ、バイデンの各政権の対応はマチマチで、8件はクーデタとされて援助もストップし、4件は従前クーデタのあった国で再びクーデタがあった事案で従前からの援助禁止が維持され、12件は軍事クーデタのラベルが貼られなかった。
 また、2023年の改正で、国務長官が議会に「禁止条項の適用除外がアメリカの安全保障に資する」ことを保証・確認すれば、適用除外が認められ、軍事クーデタのラベルを貼っても禁止条項の発動をストップすることが可能になった。

注63:“The US canʼt use its $110 million drone base in Niger”, Task & Purpose, 1 Aug. 2023;“US Officially Declares Niger Change a Coup, Cuts Aid”, VoA Africa, 10 Oct. 2023;“US Declares the Military Takeover in Niger a Coup”, NYT, 10 Oct. 2023;“US Resumes ISR Operations in Niger”, US Department of Defense, 14 Sep. 2023. ISR=intelligence surveillance and reconnaissance;“US cuts military presence in post-coup Niger as counterterrorism efforts stop”, STARS AND STRIPES, 13 Dec. 2023.

注64:軍事クーデタ後、アメリカ軍部隊の活動は、過激なイスラミストの標的攻撃やニジェール兵の訓練を休止し、駐留米兵の安全を守るための非武装無人偵察機による偵察に限られるようになった(“US Resumes ISR Operation in Niger”, US Department of Defense, 14 Sep. 2023. ISR=intelligence surveillance and reconnaissance)。また、アメリカはNiger air base 101に駐留させていた米兵をNiger air base 201に移動し、駐留米兵の数も従前の約1100人から648人に減らした(“US cuts military presence in post-coup Niger as counterterrorism efforts stop”, STARS AND STRIPES, 13 Dec. 2023.)。
  アフリカ担当国務省国務次官補Molly Pheeは、両国関係を回復するため、2023年12月13日にニジェールを訪問し、「ニジェールが早期に民主政権への移行を約束するなら、援助や軍事協力(=対テロ作戦での協力)を回復したい」と述べた(“US plans to resume partnership with Niger, diplomat says”, Reuters, 14 Dec. 2023.)。
 アメリカ上院も、Niger air base 201の重要性に鑑み、ニジェールからの米軍兵士の撤退には反対で、ニジェールから米軍兵士を撤退させる法案を86:11の圧倒的多数で否決した(“US Senate rejects bid to remove troops from Niger”, Reuters, 26 Oct. 2023;“After Niger Coup, US Scrambles to Keep a Vital Air Base”, NYT, 6 Jan. 2024.)。

注65:juntaとロシア、イラン、トルコとの関係

ロシアとの関係
 ロシアの代表団は2023年12月にニジェールを訪問した。ニジェール首相も2024年1月にモスクワを訪問して両国の軍事協力を強化する条約(Nigerien-Russian Military Cooperation Agreement signed in Dec. 2023 and Jan. 2024.)を締結した。同条約に基づいて、2024年4月10日、防空システムとその使い方をニジェール軍兵士に教える約100人のAfrica Corpsの訓練士がニアメ空港に着いた。ニジェールでは軍事クーデタ以降ますます治安が悪化しているのに、juntaが、ロシアからの協力の第一陣として防空システムの供与を受けたことは、過激なイスラミストを撲滅するよりもjuntaの生き残りを優先させている証である(“Russia and Niger agree to develop military ties, Moscow says”, Reuters, 17 Jan. 2024 ; “Russian troops arrive in Niger as military agreement begins”, BBC, 13 April 2024;“Russian military instructors, air defence system arrive in Niger amid deepening ties”, FRACE 24, 12 April 2024;“Africa File Special Edition: Russiaʼs Africa Corps Arrives in Niger. What’s Next?”, Institute for the Study of War, 12 April 2024)。

イランとの関係
 イランも、軍事クーデタから間もなくの2023年8月からマリの首都バマコなどでニジェールと秘密裏に交渉を重ね、2024年4月末、無人偵察機と地対空ミサイルと引き換えに、ニジェールから300トンの精製ウランを受け取った。300トンの精製ウランは2019年のイラン国内ウラン生産量に匹敵し、オラノの現地子会社SOMAIRがArlitで採取した特殊なタイプのウランとされる。
 イランは、juntaが外国企業に対するウラン採掘免許の見直しを行っている(注23)のに乗じて、ウラン採掘免許を得ようと奔走しているが、西側は、「イランがニジェールのウラン採掘免許を得れば、核開発に利用するのではないか」と懸念している。しかし、juntaとしては、武器売却に人権侵害を行っていないことを条件とする西側よりも、無条件で武器を売却してくれる国の方が好都合で、イランとの関係強化を図っている(“Iran and Niger Cement Alliance With Secret ‘Yellowcake’ Uranium Deal”, Iran International, 1 June 2024 ; “Iranʼs bid for Nigerien uranium mining licence triggers nuclear fears”, National Security News, 27 June 2024;“Afria File, July 25, 2024: Turkish Inroads in Niger”, Institute for the Study of War, 25 July 2024 ; “Update on the situation of the Imouraren mining project in Niger”, orano.group, 20 June 2024 ; “GoviEx loses rights to Madaouela Project as Niger revokes mining permit”, Nuclear Engineering International, 10 July 2024.)。

トルコとの関係
 トルコは、自国経済の浮揚とロシアや中国の侵出に対抗するため、旧仏領西アフリカおける反仏感情と中国製品は低品質との悪評を利用して、アフリカにトルコ経済圏を広げている。例えば、アルジェリア、セネガルなどに衣料、家具、鉄鋼などの大手企業を進出させ、アンゴラのCassinga鉄鉱山を再開発して西アフリカのトルコ経済圏と結びつけ、これをアフリカ南部にも拡大しようとしている。このような目論見の中で、ニジェールは、トルコがナイジェリア以南にも手を伸ばすための要の国と位置づけられており、トルコは、自国経済圏の拡大を確かなものにするため、ニジェールなどとの軍事協力を推進している。例えば、2020年にはニジェールとの軍事協力協定に署名し、2022年にはエルドワン大統領の娘婿が経営するバイラクタル社製の無人戦闘機Bayraktar TB2 drone 6機をニジェールに引渡した。
 ところで、トルコ航空Airbus A330-200は、juntaがニジェール領空を閉鎖していた2023年8月8日に、イスタンブール・ニアメ間の往復飛行をしており(Flight Radar 24の記録から明らか)、これから読み取れるのは、トルコとjuntaが実権を握るニジェールは両国間関係を深めていることである。現に、トルコの外務大臣、防衛大臣、情報機関の長官は2024年7月18日にニアメを訪問し、「トルコとニジェールは、エネルギー・鉱物採掘・防衛及び情報の分野での協力を強める」ことで合意しており、その他、トルコがSadat International Defense Consultancy(元トルコ情報機関職員が運営しエルドワンに近い民営軍事会社)を通じて募集・訓練したシリア人傭兵の一陣は、2023年12月はじめにニジェールに到着している。2024年5月現在、ニジェールに居るシリア人傭兵の数は、少なくとも1100人に上り、ニジェール経済の要である鉱山や石油生産施設の警備に当たっている。シリア人傭兵がトルコの募集に応じるのは、シリアでは職がなく現地で武装グループに入っても一ヵ月US$ 46程度しか稼げないところ、ニジェールに行けば一ヵ月US$ 1500が支払われるからである(“How turkey is gaining a foothold in West Africa”, Middle East Eye, 27 July 2024 ; “The Niger Coup and Turkey’s Military Industrial Complex in Africa”, Turkey Analyst, 23 Aug. 2023;“Relations between Turkey and Niger”, Republic of Turkey, Ministry of foreign affairs; “Turkish ministers head to Niger to boost ties”, daily Sabah, 16 July 2024;“Turkey Sends Syrian Mercenaries to Niger”, Africa Defense Forum, 18, June 2024.)。

注66:アフリカ担当国務省国務次官補Molly PheeとUS Africa Commandの長Michael Langleyに率いられたアメリカ代表団は、2024年3月にも、民主政権への移行について話し合うためニジェールを訪問した。ところが、juntaは「アメリカ代表団は、『ロシアやイランと密かに関係を持っている』とニジェールを非難した。そして、『両国との関係を絶たなければアメリカはニジェールに対して行動する用意がある。しかし、ロシアとイランとの関係を切れば援助を再開する』とニジェールを見下した態度で脅迫した」と述べて、アメリカを非難した。さらに、juntaは、「アメリカ代表団の構成や訪問の日程及び議題について事前に知らされなかったが、それは外交儀礼に反する。また、ニジェールが協力のパートナーとしてどの国を選ぶかは、主権を持つニジェールの国民なのに、アメリカ代表団がこれを否定したのは残念だ」と述べた。なお、Molly Pheeは国務次官補にすぎず、ニジェールを代表するjuntaの長チアニとは格が違うとして(ロシアのアドバイスを受け)面会を拒否した(“Niger suspends military cooperation with US: Spokesman”, Al Jazeera, 17 March 2024;“Did Russia, Iran provoke Niger walkout from US military pact?”, Al Jazeera, 19 March 2024.)。

注67:“C-17 Flies Last US Troops out of Air Base in Niger”, Air & Space Forces Magazine, 8 July 2024 ; “Pentagon Hands Over last Base in Niger as Extremism Spreads in the Sahel”, NYT, 5 Aug. 2024.

注68:Africa Corps
 ロシアの外務省と国防省は、ワグネルを率いていたプリゴジン(Yevgeny Prigozhin)が2023年8月23日に飛行機事故で死んだ直後、中東とアフリカの国々に「従前と変わらず活動する」旨を保証し、ワグネルを改称してAfrica Corps(第2次世界大戦でナチが北アフリカ作戦に遠征させた部隊Afrika Korpsにちなんで名付けられた)と名付け、彼らの活動を形式的にもロシア国防相の下に置くことにした。
 従来、ロシアは、国際的な責任をのがれるため故意にワグネルとの関係を曖昧にしてきた。しかし、従来のやり方では、①マリなどでのワグネルの活動に関し、プリゴジンやウトキン(Dmitry Utkin)とロシア国防相の間で指揮監督権でもめロシア国防相の制御が効かない場面があり、②プリゴジンやウトキンの独断専行で種々の人権侵害が生じてロシアの国益を損ねてきたと認識している。そこで、Africa Corpsをロシア国防省の指揮・監督下に置いて、Africa Corpsの活動に責任を持つと共にロシアの外交政策に沿うものにした方が得策との考えに至った。したがって、Africa Corpsの今後の活動については、Moura大量殺害事件に見られるようなワグネルの行き過ぎが是正される可能性もある。
 Moura大量殺害事件とは、2022年3月下旬、マリ中央部のMouraのマーケットで、村人が家畜や胡椒・野菜などを取引していたところ、「過激なイスラミストの会合がある」と聴きこんだマリ軍兵士とワグネルの契約民兵(PMCs)がいきなり数機のヘリで現れ、まず村の全ての出入り口を塞ぎ、次に村人を捕らえ、指や肩に日常の武器使用で出来る痕跡を調べて彼らを分別し、数百人の男たちを近距離から銃で殺害した事件である。同様の事件は他の地域でも起こっており、ワグネルのマリ侵出以降、このような被害は従前の10倍に増えた。このような被害を受けた地域住民は、ワグネルと協力するマリのjuntaにも信頼を失い始めており、マリ当局は地域住民からの情報提供などの協力が得られなくなった。現地の実情に合わない外国軍の活動に対する住民の反感は、フランス軍の軍事作戦当時から存在したが、ワグネルが活動し始めてから状況は極端に悪化し、イスラミスト掃討作戦は従前に増して難しくなった(“In Mali, the killings didnʼt stop : Civilian deaths spiked after Russian mercenaries began their operations”, NYT, 2 June 2022.)。
 また、ロシアとウクライナは、ロシア・ウクライナ戦争の対立をアフリカに持ち込んでいる(Africa frontを開いている)という別の懸念もある。
 例えば、マリのトゥアレグ人反乱勢力は、2024年7月25日にアルジェリア国境近くのマリ軍駐屯地を襲い、ワグネル(Africa Corps)傭兵84人とマリ軍兵士47人を殺害する事件は、ウクライナがロシアのアフリカでの活動を妨害する挙にでた事例である。同事件については、ロシア外務省が「ゼレンスキーは(ロシア・ウクライナ戦争の)戦場でロシアを負かせないのでアフリカでsecond frontを開いた」と非難したが、ウクライナ軍情報局も「トゥアレグ人反乱勢力は(Africa Corpsの活動を妨害するため)必要な情報を受け取った」と認めている。同事件後、マリとニジェールは、ウクライナとの外交関係を絶った(“Russia accuses Ukraine of opening ‘Africa front’ as Niger cuts Kyiv ties”, Al Jazeera, 7 Aug. 2024.)。
 ロシアがAfrica frontを開いた別件もある。アメリカは、ケープタウンに寄港したロシア船の船荷が、ウクライナ向けアメリカ支援の武器弾薬であること(アメリカがウクライナ向けに行っている武器弾薬の一部がトルコなどの闇市場に流れているところ、ワグネルは、マリのjuntaに金を支払ってjuntaが購入する旨の偽の書類を作成してもらって実際にはウクライナの戦場で使用するためにワグネルが購入し、ロシア船に搭載した)を発見し、事の次第を確かめるため南アフリカ当局に連絡したところ、2023年5月に南アフリカ当局から呼び出しを受けたロシア駐南アフリカ大使も、ロシア船にアメリカが支援した武器弾薬を積み込んだことを認めた(“US: Russiaʼs Wagner group moving weapons to Ukraine via Mali”, Bloomberg, 23 may 2023; “US says Russiaʼs Wagner force eyes Mali as route for war supplies”, Al Jazeera, 23 May 2023; “US says Russiaʼs Wagner tried to use Mali to arm itself in Ukraine”, Le Monde 27 May 2023.)。
 ところで、Africa Corps(2023年8月以前はワグネル)は、人の募集に難儀しており、減員目標(募集人員の目標を当初の4万人から2023年末までに2万人に減らした)にも達していない(“The Threat from Russiaʼs Unconventional Warfare Beyond Ukraine, 2022-24, RUSI Special Report”, Royal United Services Institute, Feb. 2024.)。また、応募者の配置先はウクライナを優先しているため、ニジェールなどアフリカ諸国への配置は思うように進んでいないが、2024年9月現在、マリには2021年12月に約1000人、ブルキナファソには2024年1月に約100人(その後約200人が続く予定)、ニジェールには同年4月に約100人が侵出するなどして、治安維持と政権の安定を保証する存在としてロシアの影響力を増しつつあり、リビアやスーダンなども含めアフリカ諸国で約5000人が活動している。(“Russiaʼs Africa Corps-more than old wine in a new bottle”, Institute for Security Studies Today, 7 March 2024;“Is Africa Corps a Rebranded Wagner Group?”, Foreign Policy, 7 Feb. 2024.)。

注69:ニジェールの民主政権下での治安状況
 ニジェールで過激なイスラミストの攻撃が一気に増加したのは2015年からで、南西部(Liptako-Gourma地域のTahoua州やTillaberi州 )をJNIMやISGS(後のISSP 注59参照)の攻撃に、南東部(ナイジェリアとの国境地域のDiffa州)をISWAPの攻撃に、それぞれ見舞われた。前者は、マリの混乱が、後者はナイジェリアの混乱が、ニジェールに及んだものである。そのため、イスフ大統領は(在任期間:2011〜2021年)、ニジェールの積年の課題である貧困の解決よりも過激なイスラミストの攻撃に対処するために、経済成長の果実の殆どを振り向けざるを得なかったが、ニジェール南西部に対するJNIMやISGSの攻撃は2017年から激化した。
 イスフ大統領から次の政権に移行する大統領選挙や地方選挙が行われた2020年末から2021年は政情が落ち着かなかったのにつけ込み(バズム政権は決選投票でかろうじて過半数を得て当選し、大統領宣誓式直前の2021年3月31日にはクーデタ未遂があった 注28、注29、注30参照)社会の不安定化を狙った攻撃が増え、攻撃毎の被害者数も多くなった。中でもクーデタ未遂のあった2021年3月にTahoua州で起こり137人の村人が殺された事件は、ニジェール史上最も多くの被害者を出した。
 バスム政権が2021年4月に成立した後も、過激なイスラミストによる攻撃は毎月のように続いた。しかし、次第に多数の被害者を出す大規模攻撃は影をひそめ、バズム政権が安定化に向かって行った2022年以降は、攻撃件数も次第に減少していった。バズム政権末期になると、それより前の半年に比べ、過激なイスラミストの攻撃件数は40%も減少した(“Thirteen Boko Haram fighters, four civilians killed in Niger, say military”, France 24, 2 July 2021; “12 soldiers, ‘dozens of terrorists’ killed in Niger attack”, Al Jazeera, 6 Dec. 2021; “Forty fighters ‘neutralised’ in drone strikes in Niger”, Al Jazeera, 16 June 2022; “Niger Army Says 20 Jihadists Killed at Nigeria Border”, The Defense Post, 22 March 2023; “Nigerʼs Army entered Mali in hunt for terrorists: ministry”, France 24, 25 March 2023; “A deadline arrives for Nigerʼs junta to reinstate the president. Citizens cheer and fear whatʼs next”, AP, 7 Aug. 2023.)。

注70:junta政権下で治安が悪化した理由は、次のとおりである(“Africa File Special Edition: One Year After Niger’s Coup”, Institute of the Study of War, 23 July 2024.)。
①バズム政権の時代には、地方の治安維持のために配備されていた兵が、軍事クーデタ後はjuntaの警備と政権保持のために首都ニアメに集められ、また、対テロ作戦を担っていたフランス軍やアメリカ軍が次々に去って行ったため、権力の空白ができた。この権力の空白を利用して、過激なイスラミストは、自らの影響力をニジェール南西部に拡大させ、ザカート(zakat イスラム教の貧者のための喜捨)を徴収し自由に歩き回って攻撃の拠点とするようになった。他方、juntaは、権力の空白地帯を自由に闊歩する過激なイスラミストに対処するについて、地上兵力の支援を欠いたdrone攻撃のみに頼っているため有効に対処できず、誤爆による一般市民の被害も多くなった。
②替わって入ってきたロシアのAfrica Corpsやトルコが連れてきたシリア人傭兵は、数も少なくフランス軍やアメリカ軍ほどの働きができない。
③ニジェール西部は、民族の異なる村落共同体間の争いが多く、それが過激なイスラミスト集団(特にISGS)の戦士募集に利用されてきた歴史があるところ、バスム政権の時代には、その点を考慮して、耕作地・放牧地や水をめぐる村落共同体の争いを平和裏に解決に導く努力が続けられた。例えば、Tillabery州のBanibangouでは、耕作地・放牧地の減少・人口増・遊牧民の定住化など様々な要因で、フラニ人とソンガイ・ザルマ人の両方の村落共同体が、異なる過激なイスラミスト集団の助けを借りて永年争ってきたが、バスム政権の約1年半の仲介努力によって2023年1月に村落共同体間の和平合意に至った(“HD brokers peace agreement by communities from Banibangou in Nigerʼs Tillabery region-Text and video”, Center for Humanitarian Dialogue: HD, 23 Jan. 2023.)また、バスム政権時には、過激なイスラミスト集団からの離脱を勧めて実施する政策も行われ、ある程度の成果を挙げてきた。しかし、juntaの時代になると、和平政策や離脱政策は行われなくなった。

注71:新たに創られた反乱勢力
 軍事クーデタ後、新たに創られた反乱グループには、Council of Resistance for the Republic:CRRやThe Patriotic Liberation Front:FPLがある。
 CRRは、軍事クーデタ後フランスに政治亡命を認められたRhissa Ag Boula が、亡命先のフランスで2023年8月9日に創った。なお、Rhissa Ag Boula は、ニジェールで起こった第1次、及び第2次トゥアレグ反乱のリーダーで、1996〜2004年まで観光大臣を務め、その後イスフ政権で大統領アドバイザーとなり、バズム政権でも国務大臣兼大統領アドバイザーを務めた人物である。
 CRRは2024年9月にthe Free Armed Forces:FAF(Coordination of the Free Force of Niger:CFLNとも言う。本稿ではFAFと言う)に名前を変えた(“Former Niger rebel creates movement to reinstate ousted president Bazoum”, Reuters, 9 Aug. 2023; “Former Niger minister launches movement to overthrow junta”, The Africa Report, 27 Sep. 2024.)。FAFは、JNIMと一緒にアルジェリア国境近くのAssamakaの軍事チェックポイントを2024年10月19日に攻撃し兵士6人と一般市民1人を殺害する事件を起こしている(“AFRICA FILE. OCTOBER 24, 2024: JNIM STRIKES NORTHERN NIGER”, the Institute for Study of War, 24 Oct. 2024.)。FAFとJNIMはこの件について共に犯行声明を出している。なお、両者共にトゥアレグ人の集団で、かつマリのトゥアレグ人反乱勢力と緊密な関係を有するため、協力することが容易な関係にある。 
  FPLは、主にテブ人から成りCRRと同時期に創られた。ニジェールの経済発展の要である中国への石油輸出を止めようと、2024年6月にニジェール・ベナン間の石油パイプラインを攻撃・破壊した。この攻撃の際、ニジェール軍に逮捕されたFPLのメンバー2人は(“Six Niger soldiers killed guarding pipeline to Benin”, AFP, 17 June 2024; “Niger confirms anti-junta rebels behind oil attack”, BBC, 23 June 2024.)、その後の取調べで「FPLは西側当局に関係する組織から直接に資金・武器・情報の提供を受けている」ことを明らかにした。専門家も、「西側は、juntaが実権を握るようになったニジェールなどで影響力を失い、替わりにニジェールの経済発展を阻害する目的で活動するFPLを使って地域を不安定化しようとしており、FPLに資金を提供している」と認めている(“Are New Attacks On The Niger-Benin Pipeline Imminent?”, Daily Trust, 26 Oct. 2024.)。

注72:junta政権下での治安状況
 Junta政権下でのニジェールでは、過激なイスラミストが多数のグループで性能の良い武器を使い10人以上の死者を出す大規模攻撃を起こすようになった。例えば、2023年10月2日Tahoua州で約100人のジハディストがカミカゼ車両に乗り即席爆発装置を使用して少なくとも29人の兵士を殺した事件はその好例で、軍事クーデタ後最悪の事件だった。そのため、軍事クーデタ後の1年間をその前の1年間と比べると死者数10人以上の大規模攻撃は約5倍、死傷者数は2倍を超えた。また、ISSPはTillaberi州北東部とDosso州北東部、及びTahoua州のマリ国境に至る地域に、JNIMもTillaberi州南西部からブルキナファソ国境に至る地域に、それぞれ大きな影響力を及ぼすようになって首都ニアメを取り囲むように勢力範囲を広げた(“Africa File Special Edition: One Year After Nigerʼs Coup”, Institute of the Study of War, 23 July 2024; “ECOWAS condemns killings of soldiers in Niger Republic”, Punch Newspapers, 16 Aug. 2023; “More than a dozen Niger soldiers killed in attack near Mali border, Al Jazeera, 22 Aug. 2023; “Niger attack: Soldiers killed by hundreds of jihadists in Kandadji”, BBC, 29 Sep. 2023; “Several Nigerien soldiers killed in ambush near Burkina Faso, Mali border”, FRANCE 24, 2 Oct. 2023; “Niger attack Jihadists kill dozen of soldiers in deadliest raid since coup”, BBC, 3 Oct. 2023; “Al-Qaeda affiliate JNIM claims attack near Niamey”, the africa report, 29 Oct. 2024;“Ministry: Eleven Villagers Die in Niger Attack”, VoA, 31 Dec. 2023; “At least 23 Niger soldiers killed in ambush, defence ministry says, Reuters, 22 March 2024; “At leas 20 soldiers, one civilian killed in western Niger”, Al Jazeera, 26 June 2024.)。
 しかし、そもそも軍事クーデタ前の1年間はバズム政権が安定した時期で、それ以前(バズム政権発足から安定までの2021年から2022年半ば)はjunta政権下での治安状況と大差がない。また、軍事クーデタ後間もなくの2023年8月から10月までは過激なイスラミストの攻撃が頻発したものの、2024年2月にEcowasの対ニジェール制裁が解除されてからは状況は徐々に改善している。
 さらに、Boko HaramとISWAPとの対立抗争の終息に伴って、2022年以降は(junta政権になって以降も含め)、ニジェールでの彼らによる攻撃は見られなくなり、従前の攻撃で家を追われた人々はニジェール南東部Diffa州など元の住処に帰還を続けている(注59参照)。

注73:juntaが全権を掌握してから、2023年予算は40%も削減され(ニジェールは国家予算の約40%を外国援助に頼っていた)、インフレが進行して(2023年6月1.7%→2024年6月15.5% 2024年平均8.5%)少なくとも110万人を新たに極貧extreme povertyに陥落させ人口の約54%が極貧になり、債務不履行額は$519 millionにも達した(“Niger cuts 2023 budget by 40 post coup sanctions bite”, Reuters, 7 Oct. 2023; “Niger defaults on debt payment again as post coup woes pile”, Al Jazeera, 19 Feb. 2024; “Niger Overview”, World Bank, 3 Oct.2024.)。2024年9月には気候変動の影響で豪雨災害にも見舞われた(“Floods force Niger to delay new school year”, BBC, 21 Sep. 2024.)。
 しかし、その後状況は改善しつつある。外国援助は、IMFが2024年7月に$71 millionの援助を決め(“IMP approves $71 million for Junta-led Niger”, AFP, 18 July 2024.)、EUも人道援助などとして2023年に€42 million、2024年に€37.6 millionの援助を行うなど回復しつつある。極貧人口の割合も、2024年には47.5%、2026年までには42.5%に減少すると見込まれている。GDPも2024年は5.7%で、2025〜2026年は中国への原油輸出などに支えられて平均6.5%が見込まれている。債務不履行に陥っていた負債についても、juntaは2024年6月までに約76%を支払った(“Niger Overview”, World Bank, 3 Oct.2024.)。

注74:中国向け原油輸出とニジェールの経済成長
 ニジェールの主要産業は農牧業と鉱業で、経済は気候変動や鉱物価格の変動などの影響を受けやすい。しかし、中国への輸出は、2017年から2022年までの5年間に年率2.5倍の早さで増え、ニジェールの経済成長を支えた。特に2024年5月からは石油パイプラインを通じた中国向け原油輸出が始まったため、中国への輸出は急拡大してニジェール経済全体を押し上げ、World Bankは、「ニジェールはアフリカで一番高い年率6.9%で経済成長する」と予想していた(“Niger considers routing oil through Chad after Benin dispute”, africanews, 13 Aug. 2024.)。
 経済成長の頼みの綱だった中国向け原油輸出は、2024年6月にFPLによる石油パイプライン攻撃で一時ストップしたが、中国向け輸出は同年8月に再開された(“Niger resumes oil exports via Benin after suspension”, Reuters, 22 Aug. 2024.)。FPLは「再び攻撃する」と脅かしていたが(“oil exports under threat as rebels warns of more pipeline attacks”, FRANCE 24, 3 Aug. 2024; “At least 20 soldiers, one civilian killed in western Niger”, Al Jazeera, 26 June 2024.)、juntaはFPLに対する警戒を強化し、FPLメンバーの一部は2024年11月になって当局に降伏し武器を差し出した(“Niger rebels fighting for ousted presidentʼs release hand over weapons”, VOA, 11 Nov. 2024.)。現在(2024年12月)までのところ、中国向け原油輸出は順調に続いている。

注75:セネガルなどによるAES三国の説得
 Ecowasを離脱しないようAES三国の説得に奔走しているのは、セネガル、トーゴ、トルコである。説得を主導しているのはセネガルで、2024年3月の大統領選挙の10日前に刑務所から釈放されて当選した(Ecowasの対ニジェール制裁に関与していない)新大統領Bassirou Diomaye Fayeが、公正中立の仲介者と認められる強みを生かして活動している(“Can Senegal’s Faye play peacemaker and help a splintered West Africa bloc?”, Al Jazeera, 3 July 2024.)。トーゴが説得に加わっているのは、Ecowasが対ニジェール軍事介入を決めたときに反対したため、AES三国から中立性をかわれているからである。トルコは、西アフリカ地域の全ての国と良好な関係を有しているのと、ソマリア・エチオピア紛争の仲裁をして解決に向かわせた実績(“Turkey says Ethiopia and Somalia have made ‘notable progress’ in talks to settle dispute”, AP News, 14 Aug. 2024.)があるので説得に加わっている。
 しかし、セネガルなどの説得はEcowas残留の条件として民主化の道筋を示すよう要請するもので、AES三国のjuntaは少なくとも当分の間権力を手放す気はなく(民主化の道筋を示す気はなく)、現在(2024年12月)までのところ成果を上げていない。

注76:Ecowas離脱後のAES三国は、AES三国だけの統一市場に閉じ込められて経済苦境に陥るか
 AES三国は、Ecowasを脱退してAES三国だけの統一市場を創ると主張している。
 AES三国だけの統一市場は、①AES三国は全て経済規模が小さく(AES三国の人口合計はEcowasの約1/4とかなりの比重を占めるが、AES三国のGDP合計はEcowasの約8%にすぎない)、②Ecowasの経済は主に内陸国と沿岸国の貿易で成り立っているのにAES三国は共に内陸国で、③フランスへの隷従からの脱却を強く主張するブルキナファソと比較的豊かでAES三国の統一市場には懐疑的なマリでは経済規模や考え方で差があるため、実現は難しく、仮に実現しても有効に機能しないと考えられる。
 AES三国がEcowasを脱退してAES三国だけの統一市場を創ると、「EcowasとAES三国の統一市場の二つの経済圏が対立すると共に、AES三国は機能不全のAES三国の統一市場に閉じ込められて人や物の流れが止まるか(AES三国は経済的苦境に陥るか)」と言うと、そうではない。
 なぜなら、AES三国は、いずれも西アフリカ経済通貨同盟(West Africa Economic and Monetary Union:UEMOA CFAフランを共通通貨とし低関税と人の自由な往来を保障する西アフリカ経済圏 注11参照)及びアフリカ大陸自由貿易圏(African Continental Free Trade Area:AfCFTA 物やサービスの90%について関税を撤廃して域内の貿易を盛んにすると共に就業の機会を増やすことによって経済を発展させることを目指すアフリカ経済圏)のメンバー国であるため、Ecowasに留まった方がAES三国の経済発展のためにより良いものの、Ecowas脱退によって生じる関税やVISAなどのマイナスをバイパスすることがある程度可能だからである。
 また、例えば、ニジェールとナイジェリア間には電気供給に関する複数の条約(ニジェール川上流に位置するニジェールが、ナイジェリアのニジェール川南岸にあるJebba及びKainji水力発電ダムへの水の供給を阻害しないことを条件に、電力をニジェールに供給する条約など)があるため、ニジェールがEcowasを離脱してもナイジェリアからの電力供給が止まるわけではないからである。

注77:AES三国以外のEcowas諸国にとってのEcowasの組織としての一体性を守ることの重要性
 Ecowasの経済は主に内陸国と沿岸国の貿易で成り立って来たのであって、AES三国以外のEcowas諸国の経済発展にとっても、Ecowasの組織の一体性を守ることが重要である。また、Ecowasの組織の一体性を守ることは、Multinational Joint Task Force:MJTFを創って協力してBoko Haram殲滅作戦を行ったように(注59参照)、増大する過激なイスラミストの暴力沙汰に協力して対処するためにも欠かせない。セネガルなどがAES三国をEcowasに留めるため説得に奔走しているのは、AES三国以外のEcowas諸国にとってもEcowasの組織としての一体性を守ることが重要なためである。仮にAES三国がEcowasを離脱しても「AES三国出身のEcowasスタフを雇い続けて、Ecowasの重要会議にはAES三国を招待し、AES三国が将来復帰するようドアを開いておくべき」などの意見が提示されているのも、そのためである(“Can Senegalʼs Faye play peacemaker and help a splintered West Africa bloc?”, Al Jazeera, 3 July 2024.)。

政策オピニオン
多谷 千香子 法政大学名誉教授
著者プロフィール
東京大学教養学部国際関係論分科卒業。東京地検検事、法務省刑事局付検事、外務省国連局付検事、国連社会権規約委員会委員、国連女子差別撤廃委員会委員、旧ユーゴ戦犯法廷裁判官、最高検検事などを経て退官後に法政大学教授となる。現在、法政大学名誉教授。専門は国際刑事法。著書に『ODAと環境・人権』(有斐閣)、『ODAと人間の安全保障』(有斐閣)、『民族浄化を裁く――旧ユーゴ戦犯法廷の現場から』(岩波新書)、『廃棄物・リサイクル・環境事犯をめぐる101問』(立花書房)、『戦争犯罪と法』(岩波書店、櫻田会奨励賞受賞)、『アフガン・テロ戦争の研究――タリバンはなぜ復活したのか』(岩波書店、櫻田会特別功労賞受賞)、『アラブの冬――リビア内戦の余波』、他がある。
ニジェールは、近い将来、社会を安定させて発展に向かうことができるだろうか。近い将来を見る上で重要なのは、過激なイスラミストの暴力を抑えて治安を回復できるか、経済を発展させられるかで、両者ができれば、政治の安定はついてくると考えられる。

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