昭和財政史を振り返る

昭和財政史を振り返る

はじめに

 昭和は1926年から1989年まで64年間続き、先立つ大正15年間や明治45年間の合計よりも長期にわたる激動の時代であった。昭和が続いたとすると2026年は100年目となるが、それにちなんで懐かしの歌謡曲をはじめ、昭和時代を回顧する多くの企画がある。平和政策研究所は、より良い世界を建設するために、現実の様々な問題を分析し最適策を提示することを使命としているが、そのためには昭和史の理解が不可欠である。この報告では財政の分野を担当するが、昭和の財政史はすでに大蔵省(財務省)財政史室編により『昭和財政史(戦前編)』全18巻、『昭和財政史:終戦から講和まで』全20巻、『昭和財政史 昭和27-48年(高度成長期)』全20巻、『昭和財政史—昭和49〜63年』全12巻により詳細に報告されている。この短い報告では財政理論の視点から、昭和の財政制度改革とその結果の意義を概観する。対象期間は昭和のみであるから、以下では昭和を省略し年度の数値のみを記述する。明治や大正の年度の場合にはその旨を明らかにし、必要と思われた場合には西暦も併記する。
 データを用いて、定量的な分析も行う。本文の中ではいちいち資料を明記する紙数の余裕はないが、長期統計がEXEL形式のデータとして利用でき、加工してグラフ等を作成する。原資料は大蔵省の『財政統計』、『大蔵省年報』,『財政経済統計年報』.『財政金融統計月報』、内閣府『国民経済計算』、自治省『地方財政統計年報』、『地方財政概要』、経済企画庁『国民所得白書』、日本銀行『本邦経済統計』、『国債統計年報』等である。

1 自由市場経済と財政の役割

 具体的な財政制度を論ずる前に、財政の基本的機能を概観しておこう。我が国は政治制度としては自由民主主義、経済制度としては自由市場主義を採択している。政治制度としての共産主義とその経済版である中央計画経済は1989年のソ連の崩壊とともに終焉し、東欧諸国をはじめとして多くの国々が自由市場経済体制に移行した。共産主義大国の中国も経済の基幹は市場経済であり、いまだ多数存在する国営企業や共産党による民間部門の強い統制に、共産主義の残滓を観察できるくらいである。
 アダム・スミスは重商主義を批判し、経済は民間の自由市場により最も効率的に運営されるとし、自由放任を提唱した。経済主体である個人は所得の制約のもとで効用の極大を図り、企業は生産関数の制約のもとで利潤の極大を図るが、製品市場でも要素市場でも価格がパラメータとして需要と供給を調整し、経済全体の最適化を達成する。私利の追求という強靭な誘引が経済制度に組み込まれているから、財サービスは自由市場を通じて効率的に供給される。しかしいかなる経済といえども100%民間部門や公共部門のみで運営されることはあり得ず、中央計画経済のもとでも最低限の民間部門は残されていたし、自由市場経済においてもかなりの規模の公共部門は不可欠である。

2 財政の機能

 さまざまな財サービスに対する人々の欲望は無限であるが、持続可能であるためには資源の希少性の現実に制約される。民間部門においては市場における価格がパラメータとしてその役割を果たすが、公共部門においては、無限の財政需要と限られた財源との均衡化が予算制度の課題である。毎年の予算編成を巡っては、大蔵原案に対して支出諸官庁から激しい復活要求が突きつけられ、折衝のすえ政府案が国会に提出される。国会の場でも野党議員から追加支出要求がなされるが、いかなる財源をもって予算の収支均衡を達成するかが、恒例の財政と政治の課題である。
 財政には配分機能、分配機能、安定化機能がある。経済は人々の必要とする財サービスを提供する課題を負っているが、財サービスの中には、消費における非競合性の特徴を有する公共財と呼ばれる財が存在する。私的財は消費における競合性のゆえに、代価を払う特定消費者にしか帰属しないから、便益を享受するには代価を払わざるを得ず、生産者は供給費用を回収できるから民間市場で供給される。しかし公共財は消費における非競合性の特性を有し、負担をしなくてもその便益から排除されることはないから、負担をすることなしに便益にタダ乗りするのが合理的であり、市場では供給されず市場の失敗と呼ばれる。国防を代表例とする公共財の供給には、公権力に基づいて強制獲得する財源に依存するしかないが、財政の最も重要な課題は、公共財供給に必要な財源の調達である。租税以外の財源も存在するが、現代国家は租税国家と呼ばれ、財源の殆どは租税収入からなる。租税をどこからどれだけ徴収するかが、財政学の最も重要な問題領域である。
 アダム・スミスの頃の財政の機能は資源配分機能に限定されていたが、福祉国家の理念の普及に伴い、財政の機能に分配機能が追加された。要素市場では消費者は労働や資本等の資源を提供し報酬を受け取るが、市場で決定される分配状態が社会的公正の観点から望ましくないならば、財政の分配機能により再分配されねばならない。
 また、1930年代の世界恐慌の後に、民間部門の有効需要の過不足を政府が補整する経済安定化機能が重視されるようになった。我が国の予算編成過程においても、その景気刺激効果や景気抑制効果が、予算規模やその内容の決定において重要な考慮事項となった。景気の悪いときには大型の積極予算を、景気が加熱しインフレや外貨不足が生じたときには緊縮予算を組んで景気を抑制した。また、年の途中で発生する景気変動に対応するために、補正予算が組まれた。戦後長い間にわたり、公債収入に依存しない健全財政が重要な予算編成原則であったが、40年に戦後初めて経常経費の不足分を補填する赤字国債が発行され、その後も建設国債と並んで恒常的に発行され続けた。
 専売も含めて市場を通じて販売できる政府の各種の財サービスが存在するが、それらの事業からの収入も財政収入を形成する。どの事業を公営とするか、消費者の支払う料金と一般財源負担との区分をどうするかも財政の問題領域である。

3 財政を取り巻く環境

 財政は国家の直面する政治、経済、社会の変化に対応せねばならないが、昭和はまさに激動の時代であった。2年金融大恐慌、4年ウオール街の株式大暴落と世界恐慌、6年満州事変、5年金解禁、8年国際連盟脱退、12年日華事変、14年第二次世界大戦、16年太平洋戦争と、国家存亡の大事件がつぎつぎと襲った。20年に無条件降伏したが、連合国による占領のもとで、日本国憲法の制定をはじめ、さまざまな抜本的改革が断行された。22年には内務省が解体され、地方財政委員会に引き継がれた。24年には大蔵省が設置され、地方財政委員会は改組され、地方自治省が設置された。占領下において、ドッジ・ラインやシャウプ勧告に基づいたさまざまな変革が断行された。
 27年のサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の調印により、占領政策は終焉し日本は独立国家となった。賠償問題が大きな課題となり、独立に伴って新たな制度が整備された。25年に勃発した朝鮮動乱と特需景気も、経済と財政に大きな影響をあたえた。26年には国際連合に加盟し、29年には自衛隊が設置され、34年には日米安全保障条約の改定をめぐる安保闘争が激しく展開された。35年には池田首相が所得倍増政策を提唱し、奇跡と言われる高度経済成長がつづき、活発な民間投資を補完するために、公共投資の充実が財政の大きな課題となった。経済成長が高度化するなかで、さまざまな公害問題が深刻化した。39年には東京オリンピックが、45年には大阪万博が開催された。40年には日韓基本条約が締結され、47年には沖縄が返還され、日中共同声明が交わされた。48年の第一次オイルショックや54年の第二次オイルショック、さらには60年のプラーザ合意を含む米国との経済摩擦が我が国経済に深刻な影響を与えたが、財政はこれらの我が国を取り巻く環境変化への対応を迫られた。

4 財政の民主化と財政法

 21年に交付された日本国憲法は第7章に『財政』を規定し、財政は天皇の財政から国民の財政へ改革され、財政法が新たにに制定された。予算が成立しない場合に対応した暫定予算や国庫債務負担行為の制度も整備された。国の財政状況の報告は新憲法によって初めて政府に課せられた義務であり、財政に関する議会主義が実現した。22年に成立した財政法では、財政の健全性の原則を確立するため、第4条で公債や借入金を財源として賄うべき経費を、公共事業等生産的又は資本的なものに限定した。この建設国債については限定的に発行を認める一方、財政赤字の補填を目的とする赤字国債については原則的に発行を禁止した。公債発行について日本銀行が直接引き受けると財政インフレにつながる恐れがあることから、第5条では日本銀行の公債引受けを原則禁止とした。しかしこの財政の規律は破られ、公債依存体質は存続し巨額の公債残高とその元利償還の支払いというつけを将来に残している。
 歳出予算において、新たに移用制度を設けた。会計年度独立原則にもかかわらず、経費の性質上年内にその支出が終わらない見込みのものに加えて、予算成立後の理由による繰り越し支出ができるように、繰越明許費として計上するようになった。財投計画のうち運用期間が5年以上にわたるものについては、その予定金額が国会の議決対象となった。予算は事前議決が原則であるが、予算を実際に執行する段階において、当初は予想できなかった事態の発生や、事情の変更等によって経費の不足や新たな経費の支出が必要となる事態に対して、憲法第87条は予備費制度を認め、財政法第24条等で所要の規定を置いている。

5 一般会計と特別会計

 財政法第14条は総計予算主義を明記し、予算の全体像を明らかにして予算の執行責任を明確にするために、歳入歳出の差額のみを計上することは認めていない。予算原則には単一予算の原則があり、一般会計に重点がおかれて編成されるが、国の行政活動が広範になり複雑化してくると、単一の会計では国の各種事業の状況や資金の運営実績等が不明確となるので、特定の歳入、歳出をもって一般会計とは経理を別にする特別会計を設置することとしている。どのような行政活動を特別会計として処理するかについて、改廃が繰り返されている。
 企業特別会計は、事業を企業的に運営しその健全な発達に資するため一般会計と区分して経理するためのものであり造幣局、印刷局等がある。公共事業特別会計には特定道路整備事業、道路整備等が、流通管理特別会計には食料管理、貴金属特別会計が、貿易・為替管理特別会計には米国対日援助物資等処理や外国為替資金がある。融資特別会計には資金運用部、産業投資等が、整理特別会計には国債整理基金や交付税及び譲与税配付金等が、保険特別会計には厚生保険、国民年金保険等が、信用保険特別会計には中小企業信用保険、簡易保険及郵便年金等がある。財政法第13条は例外的に特別会計を設置することを認めているものの、戦後の高度経済成長期にかけて数は増加し40を超える特別会計が設置された時期もあった。
 財政投融資は公共部門の投資的経費を分担し、経済情勢の変化に一般会計よりは敏感に対応する財政手段を提供する。財政投融資とは一般的に国による資本的な財政支出や貸付をさすが、郵便貯金や各種積立金、基金などの諸ファンド、債券発行による調達資金など主として金融的資金を原資として、資金運用部資金、産業投資特別会計、簡保資金制度、政府保証債などの諸制度や手段を通じて、もっぱら政府関係機関や地方公共団体などに出資ないし融資する仕組みであり、予算に準じて管理運営されるプログラムである。28年から予算とともに国会に提出されている。
 自由市場経済諸国においても、政府関係機関と呼ばれる、民間市場に任せずに政府が直接運営する部門が存在する。我が国では明治維新においては多くの国営企業が存在したが、経済の成熟とともに民間に払い下げられた。昭和においても公社には日本専売公社、日本国有鉄道、日本電信電話公社、公庫には住宅金融公庫や住宅金融公庫等、銀行には日本開発銀行や日本輸出入銀行などがあったが、日本専売公社や日本国有鉄道や日本電信電話公社は、55年の行政改革で民営化された。

6 財政規模の変遷

 財政が経済に占める比率は重要な変数であり、各時代の要請や政治的価値観の変化に伴い変化する。自由市場経済においても、福祉国家を志向する国と民間経済活動を重視する国では、財政の規模も歳出内容も大幅に異なる。政府の活動範囲は、行政改革などにより見直される。
 財政の規模は国の一般会計のみ、一般会計と特別会計の純計、国の一般会計と地方普通会計の純計、政府関係機関や財政投融資計画をくわえた規模などのさまざまな指標で表される。図1には元年から63年までの中央政府一般・特別会計純計の対国民支出比の変遷を描いてある。一般会計と特別会計の間には相互の資金の移転があり、それらの重複分を調整した合計額が純計と呼ばれる。データの関係で太平洋戦争中の16年から20年までは除いてあるが、元年から太平洋戦争の終焉まで満州事変、日華事変、第二次世界大戦と続いた戦費が財政の大きな課題となり、対国民所得比で見ても急上昇している。また、戦後処理も財政の負担となり、高い比率を示している。戦後は低下傾向を辿ったが、45年の19.3%から上昇傾向にあり、58年には30.8%に達した。


 図2には、一般会計と特別会計の相対的規模の変遷を描いてある。分母は単純合計額であるが、一般会計と特別会計の相対的規模は明確である。期間全体を通して特別会計の額のほうがかなり大きい。太平洋戦争中の16-20年の期間は除いてあるが、それに先立つ期間にも満州事変や日華事変と戦争状態が続き、戦争に必要な経費を一般会計から切り離して特別予算を組んで会計処理を行う必要性があった。支那事変(日中戦争)に関しては宣戦布告がなされていないにもかかわらず特別会計が設置され、第二次世界大戦におけるアメリカなどへの宣戦布告後にそのまま引き継がれた。

 図3には一般会計と特別会計の単純合計にたいする純計の比率を示しているが、純計の比率は低下傾向を示している。このことは特別会計の増加に伴い、一般会計からの移転が増加して、財政の多くが特別会計により処理されていることを反映している。

 特別会計歳出合計額に大きな占める特別会計を、図4に描いてある。食料特別会計が34年には49.7%に達したが、その後は顕著な低下傾向を示し63年には4.7%である。また福祉国家の建設に伴い、国民保険や厚生年金特別会計が着実な上昇傾向を示し、63年にはそれぞれ8.6%と12.7%を占めている。戦時国債の整理や戦後の公債発行再開に伴い、国債整理基金が戦後には35%前後を占めた。健全財政の堅持により40年には7.6%まで低下したが、その後は急速に上昇し63年には27.3%に達した。郵便貯金も大きな特別会計であり、63年には6.9%の比率を示す。地方自治とそのための地方財政制度は戦後大幅に整備されたが、地方団体間の財政力格差を緩和するために地方交付税制度が設置され、その管理のための交付税譲与税配付金特別会計が拡大し、いちばん高い56年には19.3%に達したが、その後低下し63年には12.1%となった。財政投融資は特別会計の一つであるが、特別会計支出合計額に占める比率は大きくはなく一番高い29年でも3.0%であった。

7 国の目的別歳出

 目的別歳出の長期的変遷を見ると、国の役割がどのように変化したかがわかる。図5には戦後の期間にわたる主要目的別歳出の一般会計総額に占める変遷を示してあるが、顕著な上昇傾向を示しているのは公債費である。戦後の健全財政の堅持により22年の3.6%から40年の0.3%まで低下したが、その後の公債依存財政により一貫して上昇し、60年には20.5%に至った。もう一つの顕著な上昇傾向を示したのは社会保障関係費であり、福祉国家の建設に伴い23年の4.1%から63年の21.1%までほぼ一貫して上昇している。
 終戦直後に特に高い比率を示しその後低下傾向に転じたのは、産業経済費と国家機関費である。戦後の荒廃から経済を再建するための緊急費用であった産業経済費は24年には45.3%にのぼり、40年代にも高い比率を示し高度成長を支えたが、その後は低下傾向をたどり63年には6.8%となった。国家機関費は戦後の20年代は高く27年には18.8%に達したが、その後は低下傾向を示し63年には4.8%となった。戦後の地方自治の尊重に対応して、地方財政費の比率は22年の12.1%から49年の22.1%まで上昇し、その後は低下し安定的に20%前後を維持している。国土保全及び開発費も戦後の経済成長を促進するために22年の7.2%から47年の20.8%まで上昇したが、その後は低下傾向を示し63年には9.2%である。教育文化は戦後20年代には大きな変動を示すが、その後は安定し低下傾向を示し50年の12.5%をピークに低下傾向にあり、63年には8.1%にとどまった。

8 国の歳入

 図6には、一般会計の歳入源の比率の変遷を示してある。現代国家は租税国家と呼ばれ、歳入の根幹は国家権力により強制獲得される租税収入であるが、最高値である45年の83.7%をはじめ70-80%を占めている。他の歳入源としては専売納付金が23年には20.1%と高い比率を示したが、その後低下傾向をたどり、60年の行政改革の民営化によりゼロとなった。戦後は戦前の戦時公債の累積を主要因とした激しいインフレを教訓として、公債に依存しない健全財政が堅持された。しかし40年の深刻な不況により大幅な財源不足となり、財政法第4条の規定に対する例外措置として赤字公債が発行された。その後は財政健全化の努力にもかかわらず、公債収入が一般会計の主要財源となり、第一次オイルショックが世界を襲った53年には18.1%に達し、うち12.4%は経常経費の財源不足を補填する赤字国債であった。印紙収入は最高値をしめす62年、63年でも3%にすぎない。

9 国税

 真の税源は経済循環により生み出される年々の純生産にあり、その一部が租税として徴収される。経済循環においては、要素市場と製品市場の二つの市場と、消費者と生産者の二種の経済主体が存在する。生産者は要素市場から労働や資本を購入し、製品を製品市場に供給する。消費者は製品市場で必要な財サービスを購入し、労働や資本を要素市場に提供する。経済循環を通してフローとしての所得や純生産が生み出され、それらは消費として支出されるが、消費されずに貯蓄された部分は資産ストックを形成する。租税は経済循環において様々な形態をとるフローやストックに課されるが、所得を稼得している事実や資産を保有している事実は課税物件と、その金額表示が課税標準と呼ばれる.
 租税は納税者にとり負担を形成し、いかなる税をいかに徴収すべきかに関して租税原則が定められている。アダム・スミスの4原則は公平の原則、明確性の原則、便宜性の原則、最低徴税費の原則であるが、これらの原則を考慮して様々な税制が制定され改正がなされる。所得税では最低生活のために当てられる低い所得は担税力が低いとみなされ、基礎控除、扶養者控除等の所得控除が課税標準からなされて課税所得が算出される。この課税所得に税率を適用して税額が算出されるが、税率には一定額、一定税率、累進税率等がある。さらに算出された税額から様々な税額控除がなされて、納税義務額が決定される。昭和の時代を通じてなんども税制改革が行われたが、課税標準、税率、課税標準(所得)控除、税額控除、租税徴収の方法に関する選択を巡るものである。
 昭和元年である大正15年と昭和15年には、かなり大規模な税制改革が実施された。税制の細部にわたる議論に立ち入る余地はないが、所得税は明治20年に創設され、分類所得税や源泉課税方式などが盛り込まれていた。対象は所得金額300円以上ある者として課税最低所得が規定され、明治32年には個人のみの課税制度が改められ、第1種(法人の所得)、第2種(公債社債の利子)、第3種(個人の所得)となった。15年には分類所得税と総合所得税の2本立てとなり、分類所得税では所得を不動産所得、配当利子所得、事業所得、勤労所得、山林所得、退職所得に分類し異なった税率を定めた。総合所得税では、5,000円以上の高額所得者に対して超過累進制を採用し、負担の均衡を図った。また扶養控除の中に同居の妻を加え、さらに所得税から法人所得課税を分離し法人税を創設した。22年には分類所得税と総合所得税が廃止され、超過累進税率を適用する所得税が課された。また、法人税に申告納税制度を導入した。
 『シャウプ勧告』の基本原則は、25年の税制改正に反映され、国税と地方税にわたる税制の合理化と負担の適正化が図られた。所得税を税制の根幹に据え、基礎控除額を引き上げて負担の軽減を図ると同時に、その減収分は高額所得者に対する富裕税で補完された。また、申告納税制度の水準の向上を図るための青色申告制度や、容易で確実な納付のための納税貯蓄組合制度も導入されるなど、シャウプ勧告は戦後の税制の基本となった。25年にはキャピタル・ゲインに全額課税し、利子所得の源泉分離選択課税を廃止した。45年には利子所得の源泉分離選択、申告不要制度の導入がなされた。
 間接税も数多く課されたが、何に対してどのような税率で課税するかについて頻繁に税制が改正された。63年には抜本的税制改革が実施され、消費税が創設された。また、所得税の税率構造の簡素化、株式等の譲渡益の課税化、法人税の基本税率の引き下げと配当軽課税率の廃止、法人の受取配当益金不算入制度の縮減、個別間接税の整理合理化、相続税の税率の緩和、控除引き上げ等による負担軽減が行われた。

10 直接税と間接税

 50年の主要国税の比率は所得税41.3%、法人税31.1%、相続税2.3%、酒税6.9%、砂糖消費税0.3%、揮発油税6.2%、物品税5.1%、関税2.8%であった。直接税とは税金を負担する本人が納める税金であり、間接税とは税金の負担者と納付者が異なる税金である。酒税や消費税などの間接税は、消費者が税金を負担するが、納付者は企業となる。また、直接税の税率は課税標準の額によって変わるが、間接税は一律に定められる。間接税の多くは財やサービスに対して税額分を上乗せすることで、いったん売り手側が徴収し、徴収した税金は買い手側ではなく、財やサービスの売り手が納税する。納税者の負担感が、直接税よりも間接税のほうが軽いという租税錯覚が存在するから、納税者の負担感と抵抗を最小限にして必要な税収を確保するために、間接税も重要視されてきた。
 図7には直間比率の推移を示してある。昭和のはじめには7年の70.5%を含めて間接税が極めて高い比率を示していたが、13年には逆転し直接税が52.5%、間接税が47.5%となり、22,33,34年の例外を除いて直接税の比率が上回り、間接税の比率は一貫して減少傾向を辿っている。直間比率は63年には73.2%と26.8%となっており、直接税中心税制となっている。

 図8には、各種直接税の占める比率の変遷を示している。直接税のなかでは所得税の比率が一番高く、25年には85.7%を占めていた。22年には源泉分と申告分に分離したが、申告分は22年の51.6%を最高値としてその後は減少し、26年頃から10%台を維持している。逆に源泉分は大幅に上昇し30年には44.5%に達し、その後も30%台を維持している。アダム・スミスの租税原則の一つは便宜性であるが、納税者が納税しやすい源泉徴収制度は、この原則に叶うものあった。15年に導入されてから急速に上昇しているのが法人税であり、32年には所得税を抜き去り57.9%を占めるに至り、その後も所得税と最大租税の地位を競い合っている。相続税は7年には10.9%と最高値を示したが、その後は一桁台の低水準で推移しており63年には4.8%であった。

 間接税の構成比の変遷は図9に示してある。昭和全期間にわたり酒税の比率が一番高く、26年には41.2%も占めたが、その後低下傾向にあり63年には15.8%である。関税の比率も戦前には高く11年には20.4%も占めた。戦後も30年代から40年代にかけて高い比率を占め、40年には17.1%であったがその後は低下傾向にあり、63年には5.3%となった。自動車の普及に伴って揮発油税の比重が20代後半から上昇し、40年代から50年代前半にかけて20%近くを推移したが、63年には10%まで低下した。自動車重量税も50年前後には5%に、地方道路税も3%以上の比率に上昇した。見にくくなるので図では省略してあるが、有価証券取引税が60年代には比率を高めて63年には15.2%を、印紙収入も50年代には10%を上回る比率を占めている。

11 地方自治と地方の事務

 公共部門は国と地方に分けることができ、各種公共財サービス提供の責任は、国と都道府県と市町村に配分される。どの事務をどの階層の政府に配分し、複数の階層の政府が同じ事務を提供する場合には、財源の負担割合をはじめとして、どのように責任を分担するかが問題となる。戦前は中央集権的官僚主導の国であり、内務省の役人が知事をはじめ地方の重要な地位を独占していた。占領軍は内務省が国内問題の諸悪の根源と見ており、22年に内務省は解体された。
 日本国憲法では、地方自治に関する1章を設け、4か条を規定している。シャウプ勧告の大きな柱の一つは、行政事務の配分は市町村に大幅に譲与するという画期的なものだった。行政事務配分の基準として国、府県、市町村の三段階の行政機関の事務は、明確に区別して、それぞれ特定の事務を割り当てること(行政責任明確化の原則)、能率的に遂行するため、その規模、能力、財源によって準備の整っている段階の行政機関に割り当てること(能率主義の原則)、市町村には第一の優先権が与えられる(市町村優先の原則)の3点が挙げられ、国優先の考え方から180度の転換を求めるものであった。また、府県の事務は市町村で処理することが著しく非能率又は不適当である事務とした。
 図10には、中央政府の一般会計支出額と地方財政支出の合計額に占める比率の変遷を示している。初期の10年代にはほぼ拮抗し、地方政府のほうが多少高い比率を占めていたが、12年から27年までは中央政府の比率のほうが大きくなり、とりわけ太平洋戦争中の19年には中央政府が83.7%で地方政府が16.3%と、中央政府の比率が地方政府の比率を大幅に上回った。しかし、27年からは地方政府のほうが上回る状況が続いている。

 地方がどのような役割を演じてきたかは、目的別歳出の構成比の変遷が示す。図11では明治12年(1879)から昭和9年までの戦前の長期期間をとってあり、横軸年度数値は明治が12から44まで、大正が1から14まで、昭和は1から9までが対応する。全期間にわたり高い比率を占める地方支出は教育であり、20%から30%を占めていた。土木費の比率も高く20%前後で推移した。行政費や警察消防費は明治時代には高かったが、その後低下している。地方事業勧業費が5%前後の比率で推移している。公債費は明治のはじめにはほとんどなかったが明治25年位から上昇し始め、昭和に入ってから急上昇して8年には43.6%に達した。明治27年には日清戦争(1894-95)、明治37年には日露戦争(1904-05)、昭和6年には満州事変(1931)が起こり支那事変へとつながる長い戦争の資金調達のために、公債の発行を余儀なくされた。

 図12には戦後の44年以降の都道府県目的別支出の総額に占める比率の変遷を示してある。教育費の比率が一貫して高く30%前後で推移している。ついで高いのは土木費であり20-25%位の比率で、農林水産業比は10%と15%位の間を推移している。民生費は5%位で多少の上昇傾向にあり、衛生費は5%前後で安定した比率を示した。

 図13には市町村の目的別支出の比率の変遷を示しているが、土木費が一番高く20%から25%の間である。ついで教育費が高く15%から20%の間を推移する。民生費は40年代には10%強であったが、50年代には15%と20%の間くらいに上昇した。総務費の比率も都道府県と比較すると高く、15%の上下を推移している。衛生費と農林水産業費は40年代前半には6-7%で拮抗していたが、40年代後半から衛生費のほうが大きな比率を占めるようになった。図12と図13を比較すると都道府県と市町村の役割分担の違いが明確である。

12 地方歳入

 事務配分とともに重要なのは、地方の歳入をいかに確保するかである。封建時代のように、中央政府が関わることなく地方の裁量に全面的に任せるという選択肢もあるし、中央集権で全国の地方団体を画一的に管理することもできる。地方自治をどの程度重視するかについても、昭和全体を通して様々な選択がなされ、一方では地方自治を尊重しながらも、ナショナルミニマムと呼ばれる単一国家としての全国的均一性の要請もあり、様々な制度改革が行われた。
 図14には明治12年(1879)まで大幅に遡り、戦前の地方歳入源の変遷を示してある。横軸の年は明治12年から44年まで、大正は1年から14年まで、昭和は1年から4年までを示している。明治時代全体をとおして間接税の比率が直接税よりも遥かに高く、大正7-9年の期間を除いては、その後も間接税の比率のほうが高かった。国庫支出金には国庫交付金、国庫補助金、国庫下渡金が含まれるが、明治時代には10%前後でかつ激変しており、明治後期から大正初期には低下したが、その後昭和初期にかけて上昇した。

 図15には戦後の45年から64年までの都道府県の歳入源の変遷を示している。税収の比重が一番高く30%から40%の間を推移しているが、次に高いのが国庫支出金である。国庫支出金はその使途が指定された特定補助金であり、地方自治の観点からは好ましくないとされるが、特定の事務を地方の事務として配分しても国も責任の一端を負うとともに、全国的最低限の質量を担保するために、20%から30%弱まで依然として大きな比率を占めている。次に大きな財源は地方交付税であり、交付される地方団体により自主財源の地方税と同じく自由に使用でき、地方団体間の大きな財政力格差を緩和する重要な財源である。15%から20%の間を安定的に推移している。我が国の地方団体は地方債の発行を許されているが、国と比べて外部に監視し抑制する上部団体の国の自治省などが存在するから国ほどの規模ではなく、5-10%くらいの比率で推移している。

 図16には市町村の歳入源の比率の推移を示しているが、地方税の比率が一番高く30-45%くらいあり、上昇傾向を示している。都道府県の場合と異なり国庫支出金よりも地方交付税のほうが上回っている。地方債も10%前後の比率を占めている。見にくくなるのでグラフには示さないが手数料や使用料や各種交付金が歳入減となっている。

 都道府県数は安定していたが、市町村の数は大幅に変化した。昭和20には市が205、町が1797、村が8517で合計10520あったのが、数度にわたる市町村合併の結果、60年には市651、町2001、村601、合計3253に減少した。問題はこれらの地方自治体の財政力が、著しく不均等であることである。地方公共団体の財政力指数は、基準財政収入額を基準財政需要額で除して得た数値の過去3年間の平均値であり、税収等が豊かで普通交付税の交付を受けない『不交付団体』の指数は1を超えることとなる。このような大きな財政力格差を緩和するために、中央政府は一般補助金と呼ばれる資金を地方公共団体に交付してきた。この資金は特定補助金とは異なりその使途についての制約はなく、地方自治体は自主財源のようにその裁量に基づいて支出できるが、この一般補助金制度が昭和時代に整備された。図15や図16で示したように、地方歳入の大きな比率を一般補助金である地方交付税が占めている。地方交付税額の算定はきわめて精緻であり団体ごとに基準財政需要額をさまざまな特殊条件を考慮して計算し、標準税率で課税した場合の税収の75%を基準財政収入としてその差額を国が交付する制度である。
 特定補助金はその使途が決められた補助金であり地方自治に反する財源と批判されることもあるが、国が特定の事務、事業に対し、国家的見地から公益性があると認め、その事務、事業の実施に資するため反対給付を求めることなく交付される金銭的給付である。補助金としての要件は、特定の事務、事業に国家的見地において公益性があると認められること、その事務、事業の実施に資するためのものであること、財政援助の作用をもつものであること、の三つをあげることができ、戦後においてもかなりの比率を占める財源である。

13 地方税

 図17には5年から63年までの期間にわたる国税と地方税の比率の変遷を示している。期間全体にわたり国税のほうが高い比率を占めるが、とりわけ戦前の戦争期間においては国税の比率が高く、16年には84.9%,20年には92.1%を国税が占めた。戦後はその差が縮小し、63年には国税が64.3%、地方税が36.6%である。

 大正15年(昭和1年)の税制整理により、直接国税は一般所得税を中軸として、地租、営業収益税及び資本利子税で補充するとともに、道府県税は府県税として長い歴史を有した戸数割を廃止し、家屋税を創設し所得税付加税の増率で対応した。家屋税の課税標準は賃貸価格とされた。また営業税には課税方法、課税標準等に関して統一的規定がなく雑種税とともに乱設増徴されていたが、詳細な規定が設けられた。雑種税についても課税方法や課税制限について統一的規定がなく零細な税収漁りがはげしかったが、大幅な整理により15種が認められた。そのなかには水草、電柱、牛馬、犬などに対する税も含められており、さらに2年予算においては40数科目が増加された。市町村税としては所得割付加税が廃止され、新たに戸数割が創設された。また府県家屋税および特別地租の創設に伴い、これらの税に対する付加税の賦課が認められた。この税制整理の結果独立税収の比率は殆ど変わらず50%前後であったが、市税収入は15.2%から26.6%へ、町村税収は2.6%から57.0%まで大幅に上昇した。
 昭和に入り地方財政需要は膨張し、地方は財源不足が深刻化した。昭和のはじめにおいて道府県は地租、家屋税及び営業税を中軸とし、所得税付加税と雑種税で構成されていた。市町村税は府県税たる地租、家屋税及び営業税の付加税を中軸とし、独立税たる戸数割と雑種税からなっていた。2年には道府県収入の49.1%は国税付加税、うち地租付加税が29.1%、所得税付加税が12.1%であった。市税収入は国税付加税29.1%、うち営業収益税付加税が15.6%、所得税付加税が9.1%、道府県税付加税が43.7%うち家屋税付加税が24.0%、独立税が26.6%で戸数割が10.3%、家屋割が6.5%である。町村税収入は国税付加税17.3%、うち地租付加税が13.2%、道府県税付加税が25.7%、町村独立税が57.0%でありうち戸数割が54.5%を占めていた。独立税の割合が低く上部団体の租税に対する付加税の比重が高かった。
 税制改革は何度か実施されたが、特に大きな税制改革は戦後のシャウプ勧告に基づくものである。日本における課題は国の支配を減じ地方団体の独立を増すことであると診断された。地方団体の発達上、強化を必要とするのは都道府県よりも市町村であり、地方団体の財政力を強化し、これとともに、富裕地方と貧困地方間の財政力を更に均等化することなくしては、地方自治の完成を望むことは困難であるという根本方針であった。地方税に関する勧告は、国は所得税を中心とし、府県に付加価値税、市町村に住民税・固定資産税を与える形で、付加税から独立税へ転換することにより、上部団体の下部団体の統制を抑制した。また、生活必需品に対する間接税の廃止も勧告された。
 21年は地方税の各税目についての税率の引き上げが行われたほか、府県の法定外独立税としての府県民税の創設がなされた。23年には地方税法が公布された。地租、家屋税及び営業税、鉱区税、遊興飲食税を都道府県の独立税とし、市町村が付加税を課すことができることとした。また、法定独立税目を拡張し、住民税を増税した。
 図18には、25年からの主要都道府県税の比率の変遷を示してある。期間全体を通じて事業税が最大の税であり、20年代後半には70%近くを占めており、その後低下したが40%前後を推移している。次に大きな税は29年から導入された道府県民税であり、上昇傾向を示し63年には29%に達している。自動車の普及に伴い自動車税が20年代の数%から50年代には10%を超える比率に上った。31年から導入された軽油引取税や43年から導入された自動車取得税など、自動車関連の税がかなり大きな税収をあげている。その他不動産取得税も5%弱の率を、料理飲食等消費税は44年までは遊興飲食税と呼ばれたが大きな税収源であり20年代には10%を超えるほどの比率を示したが、その後は5%弱で推移している。20年代には入場税が20%近くの高い比率を占めたが29年には廃止された。

 図19には、市町村税の比率の推移を示している。39年までは固定資産税が一番上位を占め30年には47.1%を占めたが、その後は市町村民税が上位に転じ上昇傾向を示し、63年には52.4%に達した。電気ガス税と市町村たばこ消費税が競い合っているが、10%前後を占め、63年にはそれぞれ3.0%と3.9%を占めている。戦前には既述のように多くの雑種税が課税されており、戦争直後の23年にも道府県税として船舶税、電柱税、漁業権税、狩猟税、電話加入権税等が、市町村税としては自転車税、荷車税、入湯税、金庫税、屠殺税、広告税、接客人税、使用人税、余裕住宅税、水利益税、共同施設税等が課されていた。

14 終わりに

 昭和の時代は、財政制度に関しても激動の時代であった。戦後には多くの財政制度が整備され、近代化が図られた。今後は急激な少子高齢化に対応する財政の課題は大きいし、いまや世界のホットスポットといわれる東アジアに位置する我が国の安全保障問題も深刻であり、財政の対応が求められている。さらに昭和の財政のもっとも大きな負の遺産は、公債依存の財政体質である。歴史上、多くの帝国が財政破綻を直接原因として衰退し滅亡していったが、財政の規律は社会全体の規律の低下の先行指標である。EUでは財政赤字の規模を、年々の財政赤字幅はGDPの3%以内、財政赤字の累積額はGDPの60%以内に抑制する財政規律を規則で定めているが、大国さえも維持するのは容易ではない。我が国も財政法第4条では明確に赤字国債は禁止しているのに、特例国債として毎年発行され続けている。すでに予算に占める国債費はかなりに上っているが、金利が上昇すれば予算の多くは国債費、とりわけ金利支払いに当てられ、緊急時の対応に大きな障害となる。昭和の財政運営は優れた近代化とともに大きな課題も残したのである。

林 正寿 平和政策研究所代表理事、早稲田大学名誉教授/横浜市立大学名誉教授
著者プロフィール
1942年千葉県生まれ。1966年国際基督教大学卒。1971年一橋大学経済学研究科博士課程修了。横浜市立大学教授等を経て、1996年横浜市立大学商学部長・大学院研究科長。1999-2012年早稲田大学社会科学総合学術院教授・大学院社会科学研究科教授。その間、ロンドン大学(LSE)在外研究員、仏・リヨン高等商学院客員教授、ベニス国際大学客員教授、米国デューク大学客員研究員、ヘルシンキ大学客員教授等を務める。2020年、瑞宝中綬章受章。現在、一般社団法人 平和政策研究所代表理事、早稲田大学名誉教授、横浜市立大学名誉教授。主な著書に『法人所得課税論』(同文館出版)『地方財政論』(ぎょうせい)『アメリカの税財政政策』(税務経理協会)『租税論』(有斐閣)など。

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