日ソ・日露関係を振り返る

日ソ・日露関係を振り返る

はじめに 戦争と平和が織りなす日ソ・日露関係

 日本とロシアの歴史は、戦争と平和という交錯する巨大なベクトルと、その中で織りなしてきた日本人とロシア人の様々な人間模様によって構成されてきたと思う。
 日本とロシア両国が実際に接触し始めたのは、概ね18世紀であり、19世紀は日本では明治維新、ロシアではロマノフ朝の皇帝政治による激しい近代化が進められ、その中で両民族の記憶に焼き付けられた最初の国を挙げた大戦争たる日露戦争(1904〜05)が戦われた。
 ロシア敗戦の余波は、ロシア革命(1917)とソ連邦の成立に結実するが、同時にそれは、欧州における列強勢力の大激突たる第一次世界大戦(1914〜18)のただなかで起き、日本は、新生ソ連に如何に対処するかの難しい課題をつきつけられたのである。

1 日ソ基本条約の締結

 厳密にいうなら、日ソ関係を正常化した日ソ基本条約は、大正14年1月20日に署名されており、昭和元年と重なる大正15年と重なるものではない。しかし、1917年から1925年までの8年越しの大交渉は、大正のリーダーたちが全力を傾けて行い、昭和に入った日ソ関係の最初の基調をつくったものとして重要な意義をもったのである。
 日露戦争終了後の日露関係は、四次の日露協約の締結によって、それまで日本外交の基調をなしていた日英同盟に代わる新しい提携関係に発展していた。1917年のロシア革命は、日本にとっては、最大の提携国となりつつあった帝政ロシアを打ち砕き、天皇制に対する脅威ともなりうるものとして、少なからぬ衝撃を与えるものだった。
 欧米列強は概ねそういう認識で一致しており、そこから一連の「シベリア出兵」が始まった。日本は、米国と共同歩調をとることとし、1918年8月共同出兵、アメリカの要請をはるかに上回る大軍を、極東、東シベリアに派遣した。
 アメリカが出兵の目的としたチェコ軍救出の目的達成として1920年1月に撤兵した後も、日本は大軍を存置した。ちょうどそのころ、ニコラエフスクでパルチザンによる日本居留民虐殺事件(尼港事件)が発生した。
 混乱する状況の中で、ソ連承認のための交渉は、チタに設置された非共産主義を標榜する「極東共和国」とボルシェビキと日本の三つ巴という複雑な形をもって始められた。
 ついで日本は、1922年10月シベリアから撤兵、尼港事件に対する補償占領として北樺太に駐留し続ける形となった。民間の後藤新平主導で、ソ連代表ヨッフェを日本に招待、また北洋漁業問題が解決したのである。
 最後に交渉は、政府間の正式交渉に格上げされ、北京公使芳沢謙吉と同じく北京公使レフ・カラハンとの間で1925年1月20日、日ソ基本条約が締結された。尼港事件はソ連邦の謝罪、日本は北樺太から撤兵するが石油などの利権の保持、などが約束されたのである。1

2 張鼓峯・ノモンハンから日ソ中立条約へ

 第一次世界大戦とロシア革命という激動の時代が小康時代に入り、日ソ関係もまた落ち着きを取り戻したが、世界は間もなく次の激動の局面に入った。次なる時代の激震の目は、欧州及び東アジアであり、それぞれの焦点は、ドイツと日本だった。欧州でドイツの台頭を最も警戒したのはイギリスとフランスであり、東アジアでは中国であった。
 東アジアでの次なる戦端は、1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖における満鉄線の爆破によって始まった。関東軍の謀略によって始まったこの満州事変により、五か月後の1932年3月9日満州国が建国され、日本は、これに反発する国際連盟から同年3月27日脱退したのである。
 満州国の建設は、日ソ基本条約締結以来7年あまり平穏理に過ぎていた日ソ間に全く新しい緊張状態をつくりだした。
 張鼓峯事件は、1938年7月から8月にかけて、満州国南端にある「張鼓峯」の領有をめぐる日ソ両軍の衝突として始まった。重光駐ソ大使がソ連側と停戦協定を締結したが、日本軍にとって、日露戦争以来初めてのソ連を相手にした激戦となった。
 ノモンハン事件は、ソ連邦、その強い影響下にあったモンゴル人民共和国、満州国の合流地点における領土紛争をめぐって発生した日ソ両軍の直接衝突であった。1939年5月第一次衝突、6月末からの日本軍攻勢、8月後半からのソ連軍攻勢の三段階で戦闘が行われ、9月15日にモスクワで、モロトフ外務人民委員と東郷茂徳駐ソ大使の間で停戦協定が成立した。戦死者は、日本軍約8000名、ソ連軍約10000名と報ぜられ、その規模と影響において、張鼓峰事件をはるかに上回る熾烈な戦いとなった。2
 日本は、この戦闘においてソ連軍の強さを再認識し、北方進出に代わって南方進出へ針路を変更した。このことは、その後の日本の軍事・外交戦略に決定的な影響を与えた。3 1940年7月に成立した第二次近衛内閣は外務大臣に松岡洋右氏を起用、欧州における安定を確保するための基本策として同年9月27日ベルリンで日独伊三国同盟が締結された。
 南方進出へ舵をきるために最後に確認を取るべき相手はソ連邦ということになる。松岡洋右外相は、1941年3月、日ソ外交の調整を目的として欧州を訪問、日独伊三国同盟と緊張含みの独ソ関係の中で、仮に欧州動乱となっても日本がそれと距離を置くための策として、同年4月13日、モスクワで、5年の期間を有する日ソ中立条約を締結したのである。

3 1945年8月9日のソ連対日参戦

 南進政策に方向性をさだめたとはいえ、日本政府は、単純にそれを実行したわけではない。1941年に入り、何回かの対米(英蘭)戦争回避のための努力が進められたが結局どれも効果をあげず、同年12月8日、真珠湾攻撃にいたったのである。
 当初半年は陸海軍共に勝利をおさめるが、1942年6月のミドウェー海戦の大敗を転機として徐々に米国におされ、1945年4月7日に成立した鈴木貫太郎内閣は、開戦時戦争回避のために全力を尽くした東郷茂徳元外相を再び外相にすえ、「この内閣で終戦をなしとげる」という覚悟をもって終戦工作を始めたのである。
 この最後の終戦工作で「対ソ交渉」は重要な役割をはたした。内閣成立とともに、大本営の最高幹部を含む軍の要路は一斉に東郷外相の元をおとずれ、ソ連から来る脅威を最小限にするための外交努力を要請した。東郷はここに、かかる軍部の希望を利用して急速和平に導くことを決意した。4
 東郷は、軍側と本音で話すために、筆記者を入れない最高戦争指導会議(首相・外相・陸相・海相・陸軍参謀総長・海軍軍令部長)開催を提案、その第一回会合が、5月11日から三日間にわたって開かれた。議題はソ連問題であり、①参戦防止、②ソ連の好意的態度の誘致、③戦争終結ときまり、広田元総理からマリク駐日大使に交渉せしめることとなった。しかし、既に1945年2月のヤルタ会談で、ドイツ降伏後2〜3月での参戦を約束していたソ連側の反応はにぶいものだった。5
 そこから、広田・マリク交渉を見切り、「天皇は無条件降伏でない限り、なるべく早く平和の克復されることを望み、右趣旨をもって近衛特使をモスクワに派遣する」との電報が7月12日モスクワの佐藤尚武大使あてに発送されたのである。6
 7月12日電報は、ポツダム出席の首脳に伝えられ、7月26日、米英華三首脳名でポツダム宣言が発出され、全体の立て方は「われらの条件左の如し」とされ、無条件降伏は軍に対してのみ用いられていた。東郷茂徳は、慎重検討の余地があるとして、ローキーで扱うべしということで六巨頭の合意をいったんとるが、その後に起きた最高指導部内の混乱により、結局、8月6日広島への原爆投下、更に、9日に至り、長崎への原爆とソ連の参戦がほぼ同時に発生。もはや万事休すとなり、第一回御聖断により国体護持のみを留保条件としてポツダム宣言を受諾した。留保条件について米国は、「日本の取るべき政体は自由に表明された国民の意志による」と回答し、8月14日、第二回御聖断により、右回答受け入れが決まり、かくて太平洋戦争は終結したのである。
 外相東郷茂徳にとって、ソ連軍侵攻を最後の瞬間まで予知しえなかったことが痛恨の事態だったことは想像に難くない。茂徳は開戦責任を問われて東京裁判で禁固20年の刑をうけ巣鴨獄中で回想録『時代の一面』を記した。自らの外交指導に一点の曇りもないと述べているようにみえるこの本のなかで、ただ一箇所、ソ連参戦の可能性をもっと早く見抜けなかったことは「迂闊だった」という、苦渋の思いが述べられている。7
 その後、参戦したソ連軍は、8月18日、カムチャッカ半島から千島列島を南下し、31日までに得撫島の占領を完了、他方、樺太から進撃した別動隊は8月29日から9月5日までの間に北方四島を占領した。8
 日本帝国がいままさに降伏をしようという最後の瞬間に対日参戦し、サハリン、北千島のみならず、北方四島迄占拠、更に参戦地の日本人居留民の苦痛と抑留将兵に対する強制労働に至ったことは、日ソ・日露をめぐる昭和100年の最大の事件であり、現在に至るまで両国民は、その結果発生した事態の対処に苦しんでいると言っても過言ではない。

4 終戦処理外交

 1951年9月8日に署名されたサンフランシスコ平和条約2条(c)項は、日本が「千島列島(中略)に対する権利、権原及び請求権を放棄する」と規定した。この「千島列島」の範囲について、同年10月19日の国会答弁で西村条約局長は「千島列島は、北千島と南千島(国後・択捉を意味する)を含む」と答弁9
 しかし、ソ連は同会議に出席するも署名しなかった結果、領土交渉を含む戦後処理は1955年から56年に至る日ソ2国間交渉にもちこされた。1953年のスターリンの死去によりその後を継いだフルシュチョフ第一書記は「雪解け外交」を展開、1955年ロンドンにおけるマリク駐英大使と松本俊一代表との交渉で、歯舞・色丹を日本側に引き渡す用意があることが表明され、これをもって解決を見るかと思われた。10
 しかし、1956年に入り、四島返還を要求する国内世論、日本側交渉方針の混乱、冷戦激化の中で米国からの「2島解決」への異議、などが重なり、鳩山一郎総理を代表とする最終モスクワ交渉では、外交関係の回復、抑留者帰国、国連加盟などの諸懸案を解決するも、四島を要求する日本と2島以上は認めないソ連との対立は克服できないままに終わった。1956年10月19日に署名された共同宣言第9項は、「平和条約交渉の継続、平和条約締結後の歯舞・色丹の日本への引き渡し」を規定することで終わったのである。

5 冷戦期の日本とソ連の交渉

 世界情勢はこの頃から冷戦が進行した。それから約35年がたち、1989年12月、マルタ島のブッシュ・ゴルバチョフ会談による冷戦の終了と1991年12月、ソ連邦の消滅により大激動期が始まった。米ソ両国が核兵器の均衡によって世界の平和を担保していた時代から、一挙にアメリカの一人勝ちの時代に入るのである。
 日ソ関係もこの間、時代の激動にあわせるべく様々な試行錯誤が続けられた。次の時代に具体的成果をうみだすべき、胎動の35年となったと言える。
 米ソのデタント外交の余波の中から生まれた1973年10月の田中角栄総理のソ連訪問で「第二次世界大戦の時からの未解決の諸問題」を記載した共同声明が発出され、ブレジネフ書記長との交渉で口頭ながら「4つの島が未解決であること」が確認された。11
 ゴルバチョフのペレストロイカ政策が日本にも波及して行われた1991年4月の訪日で発表された共同声明で、歴史上始めて、国後・択捉を文書に明示して交渉対象であることが明記された(ただし60年安保の後にソ連が否定した56年共同宣言の有効性は確認されなかった)。12

6 エリツィン・ロシア大統領との交渉

 1991年12月ソ連の継承国家となったロシアは、脱共産党をめざし、民主主義と市場原理にもとづく国家形成を目標とした。モデルとするは、当然西側先進国であり、日本はアジアにおけるそのリーダーだった。
 国家間の大交渉は、ひっきょう国同士の力関係のいかんできまる。戦後の両国関係において、56年交渉がソ連最強・日本最弱の中で行われたとするなら、この時期こそ、日本最強・ロシア最弱の状況が現出していた。
 日本からの最大の協力をねらい、その対価として領土問題で最大の譲歩を行うべく、1992年3月コズイレフ外相、クナッゼ次官からなるロシア代表団が訪日し、3月21日渡辺美智雄外相との間で極秘会談が行われた。提案された「コズイレフ提案」は、以下のとおり。
①56年宣言で引き渡しが決まっている歯舞・色丹二島についての交渉開始。
②合意を得たら二島引き渡し協定を締結。
③これに倣った形で、国後・択捉についての交渉を行う。
④まとまったら、四島の問題について平和条約を結ぶ。
 このロシアから行われた戦後最大の譲歩案を日本側は「国後・択捉の影が不十分」として受け入れなかった。13
 エリツィンは9月訪日をキャンセル、その後1993年の「東京宣言」、橋本・エリツィン下での1997年クラスノヤルスク合意・98年の橋本総理からの川奈提案等の動きがあるが、いずれも大きな変化をうむことはできなかった。

7 プーチン・森喜朗総理間の交渉

 1991年末初代ロシア大統領となったエリツィンは、そのモデルとした急激な市場経済の導入に失敗し、ハイパー・インフレや政情不安を生み、21世紀への転換点で、後事をプーチン氏に託して退陣した。
 日本政府は、この若くて元気な新大統領と日露関係の打開をはかるべく全力をかけた。その先頭に立ったのが、2000年4月脳梗塞で倒れた小渕総理の後任として登場した森喜朗総理であり、4月末からの連休で最初の訪問地としてサンクト・ぺテルスブルグを訪問、9月3日からのプーチンの日本訪問が実現された。そこから7か月間の交渉をへて、2001年3月25日イルクーツクでの首脳会談が行われ、東京宣言に基づく四島解決と56年共同宣言の法的有効性を共に認める共同声明が発出された。更に森総理は、この声明を基礎に、消滅していたコズイレフ提案に連なる「国後・択捉と歯舞・色丹の並行協議」を提案、プーチンの事実上の了承をとったのである。14
 イルクーツク交渉から半年後の「9月11日」、イスラム過激派によるアメリカ東海岸への航空機自爆テロが発生、これに対処するアメリカを全面支援したプーチンの対応により、米ロ関係にかつてない温風が吹いた。それは日露交渉を温かく包むはずであった。

8 プーチン-安倍晋三総理間の交渉

 しかしながら、イルクーツク交渉の到達点を日本外交は生かすことができなかった。森総理退陣の後に政権についた小泉純一郎総理には日露関係についての関心はうすく、並行協議推進を主唱してきた鈴木宗男議員、佐藤優、東郷和彦はそれぞれ日露交渉から排除され、鈴木・佐藤は逮捕、東郷は国外に難を逃れるという事態が発生した。
 日露交渉はここでいったん頓挫し、それを、万難を排して再興しようとしたのが安倍晋三総理であった。
 奇しくもそれは2012年、プーチン氏がメドヴェージェフに譲っていた大統領職にもどり、安倍晋三総理が一回目の総理職から再び総理大臣に戻った時から始まった。三つの階段があったように思う。
 まずは、安倍総理は2013年4月強力な経済代表団を率いて訪ソ、安全保障面で外務・防衛大臣によるフォーラムも立ち上げあげた。
 つぎに、2014年2月に始まったウクライナ危機と日本の対ロシア制裁への参加は日露交渉のテンポを引き下げたが、2016年5月米国の反対をおしてのソチ首脳会談で交渉のテンポはあがり、結局12月15日・16日、長門と東京へのプーチン訪日が行われた。平和条約に繋がる四島における新たな共同経済活動が合意され、プーチン大統領は、最後の記者会見で、新しいアプローチによる平和条約締結の重要性を強調した。15
 しかし具体的成果は遅々としてあがらない。最後に、2018年11月14日、シンガポールにおける国際会議の際に両首脳は会談し、会談後安倍総理より「1956年共同宣言を基礎として、平和条約交渉を加速させることで合意した」との発表がおこなわれた。16 しかしその後、日露間の交渉は著しく停滞し始めたとの報道が頻発、その背景に米ロ関係の非常な悪化が報ぜられるようになった。安倍総理は、再び体調が悪化し2020年9月16日に辞職、2022年7月8日の選挙演説中に銃弾によって非業の死をとげた。
 安倍総理の8年の活動は、結局、1992年3月のコズイレフ提案を断り、2001年のイルクーツク合意で生まれた並行協議を自ら消滅させた日本外交のつけを払おうとした渾身の努力であったが、その成功を見ずに終わったのである。

9 ウクライナ戦争と日本

 2022年2月24日、ウクライナ戦争が始まった。安倍首相退陣のあと一年間政権をになった菅義偉氏をひきつぎ2021年10月4日以来政権をになっていた岸田文雄氏は、「攻め込んだプーチンが全面的に悪い。攻め込まれたウクライナを全面的に支持する」立場をとり、考えを同じくする「同盟国アメリカ及びGセブン」と、対ロシア制裁を始めとする共同行動をとり始めた。
 とはいえ日本は、紛争当事国への武器輸出はしない。その分だけ、プーチンの悪を世界に、特にアジア諸国に伝える役割を果たしたように思う。2023年5月にG7議長国として開催した広島サミットで「ロシアによる対ウクライナ侵略戦争を最も強い言葉で非難」し、ゼレンスキーを招待したのは、そういう政策の顕著な表れだったと思う。
 日本がかけている制裁は、分野ごとに若干の差異があった。経済産業省が所管するエネルギー政策では、液化天然ガスの輸入努力が続けられ、サハリン2・アークティックLNG2が代表的なものであった。17
 しかし政治面における制裁は、ロシア側からの対抗措置と相まって、日露関係を縮小させる強い影響を与えた。2022年3月1日、まずプーチン大統領個人へ制裁をかけ、これがラブロフ外相、ほとんどの下院議員へと拡大した。ロシアは3月21日、外務省声明をだし、平和条約交渉は現在の条件下では継続できないとし、ビザなし交流、共同経済活動を停止した。この声明の中に含まれていなかった漁業、墓参(人道上の考慮)もその後徐々に活動停止に追い込まれている。五月以降二回にわたって日本政府、有識者多数の入国禁止措置という例のない広範な措置がとられている。18
 岸田内閣の下でとられた諸政策によって、少なくともゴルバチョフの登場以来継続し蓄積されてきた日ソ・日露関係はほとんど廃塵に帰し、両国関係は、1956年の外交関係開設以来最低の水準になったといえよう。

おわりに 石破茂政権と日露関係

 岸田総理の退陣の後2024年10月1日石破茂氏が日本のかじ取りをになうこととなった。石破総理に、この最低の水準になった日露関係を抜本的に引き上げる方策がありうるだろうか。
 筆者は一つだけあると思う。筆者は、ウクライナ戦争について、戦争開始について多様な意見があっても、いまや、果てしない殺戮の継続をやめるためには、早期停戦に向けて関係者一同が衆知を集めるしかないと思っている。
 トランプ氏が選挙公約として「ウクライナ停戦」をあげたことは、戦争の早期終結のためには、稀有の「機会の窓」である。
 戦後日本外交の原点は、人の命を大事にし、平和外交を推進することにあった。外交ではタイミングが決定的に重要であり、日本は、トランプ次期大統領を支持し、停戦に全面的に協力すべきと考える。
 トランプの仲裁停戦が実現するためには、ウクライナ、ロシア双方の安全が担保されることが絶対必要条件である。日本がその二つの同時実現のために汗をかくことは、トランプから、ウクライナから、そして間違えなくロシアからの高い評価に繋がることとなる。
 更に、石破総理には、日本だから提起できる、貴重な視点があると思う。日本が太平洋戦争を、痛恨の遅れをとったにせよ終えることができたのは、米国が、種々の日本研究により、敵国日本の価値(国体護持)を知っていたことによる19
 トランプ大統領に対し、プーチンの論理をも斟酌することが公約実現のためには必須であることを、アメリカに救われた日本だからこそ、言えるのではないか。石破総理がぜひともウクライナ停戦の実現に実質的な寄与をされることを、心から望む次第である。

 

 以上の記述の基本は、池井優『三訂日本外交史概説』(慶応大学出版会、1992年)による。

 以上の記述も、池井優『三訂日本外交史概説』を基本としつつ、筆者が若干のネット検索により事実関係を補足したものである。

 この極めて重要な評価も、池井優『三訂日本外交史概説』(193ページ)と一致する。

 東郷茂徳『時代の一面』中公文庫1989年、471ページ

 長谷川毅『暗闘』中央公論新社2006年、164〜168、173〜175ページ

 長谷川毅『暗闘』204ページ、吉見直人『終戦史』NHK出版2013年、246ページ他

 東郷茂徳『時代の一面』499ページ

 外務省『われらの北方領土』(2012年版)9〜10ページ

 参議院常任委員会調査室藤生将治No428、2020.10

10 松本俊一『日ソ国交回復:北方領土交渉の真実』朝日新聞出版2012年、39~42ページ(『モスクワにかける虹』1966年の新規出版)

11 東郷和彦『北方領土交渉秘録』(新潮文庫、2011年)123ページ

12 同上196ページ

13 東郷和彦『返還交渉:沖縄・北方領土の「光と影」』PHP新書、2017年、197〜205ページ

14 東郷和彦『北方領土交渉秘録』447〜476ページ

15 東郷和彦『返還交渉』234〜241ページ

16 https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/actions/201811/14bura2.html 官邸HP。船橋洋一『安倍晋三政権クロニクル:宿命の子』下巻、文藝春秋2024年35~51ページ参照

17 アレクサンドル・パノフ&東郷和彦(聞き手)『現代の「戦争と平和」ロシア対西側世界』K&Kプレス、2024年、87ページ

18 東郷和彦『プーチンVSバイデン』K&Kプレス、2022年、155〜158ページ

19 本論考第三章の終戦に関する記述もこの点を略述している。

東郷 和彦 元駐オランダ大使
著者プロフィール
1968年東京大学教養学部卒。同年、外務省入省、条約局長、欧亜局長、駐オランダ大使などを歴任。退官後、ライデン大学、プリンストン大学等で教鞭を執ったほか、京都産業大学教授、同大学世界問題研究所長を経て、現在、静岡県立大学グローバル地域センター客員教授。Ph.D.(ライデン大学)。主な著書に『北方領土交渉秘録』『歴史と外交 靖国・アジア・東京裁判』『歴史認識を問い直す 靖国、慰安婦、領土問題』『返還交渉 沖縄・北方領土の「光と影」』他。

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