人間関係を切り、「個」を強調した憲法
私は家庭裁判所の調停員として20年以上、夫婦や子供、親族間の問題など家庭内の問題を扱ってきた。私の専門は教育学です。人間形成、教育にとって最も大切なのは家庭であると考えています。しかし、その家庭がこれほどおかしくなったのは、日本の歴史始まって以来、初めてのことではないかと思います。
人間は本来、家庭の中で無意識的に、自然に学び取るものがたくさんあります。しかし、ある年代より下の人たちは、それを学び取っていない。家庭が単なる宿泊所になっている。各々個室にこもって親子の対話も夫婦の対話もないような状況さえ珍しくなくなった。ましてや先祖とのつながりも薄い。家庭とは呼べない状況に陥っていると言えよう。
現在、私たちは誰でも大なり小なり悩みを持っている。ただ家庭・家族問題での悩みはどれをとってみても根が深い。その大きな原因の一つは、憲法、また民法が現実に合わないところに問題があるからである。現在の法律は人間関係を切り、「個」を過度に強調し「個」の権利を最大限強調している。
実は明治初期、民法法典を作る際に日本の先人たちは、この個人の権利の問題で非常に悩んでいる。当時は不平等条約の改正が急がれており、欧米のルールに従わなければ先進国の仲間入りができないという焦りがあった。
明治22、23年頃に大論争が起きている。不平等条約を解決するには欧米の法体系を取り入れるしかないという見切り発車的な考えが広がっていた。それに対して憲法学者の穂積八束は「民法出デテ忠孝亡ブ」と法による権利義務関係ではなく、日本伝統の家族道徳を根幹に据えるべきだと主張する。ドイツに留学した穂積は、民法を作ったら家族関係は消滅し、真っ平らな個人になってしまう、親兄弟と全く関係のない独りの人間という扱いになってしまい国家は崩れていく、だから日本の伝統の家族道徳を根幹におくべきだと訴えた。
これは穂積だけではなく、当時日本政府が招聘したフランス人の法学者ボアソナードもこう述べている。「民法はその国の伝統、文化の流れを受けて制定するもの。異国の人間がむやみに云々できる問題ではない」。
当時は江戸300年の歴史を経て、人間関係は比較的穏やかだったから、権利権利と騒ぐことはなかった。まして法律のお世話になることもないという意識が強く、それほど問題はなかったのである。
この歯車が完全に狂ったのは戦後憲法制定からである。「権利」が声高に叫ばれ、人間関係の前提が根底から崩れた。元々日本にはなかった“非常に厄介な理念”に、日本人が拘束されているからに他ならない。憲法に対する批判はすでに多くの専門家から出ているので深入りしないが、法律の改正問題はしっかり吟味する必要がある。歴史も古く、比較的穏やかな人間関係を作ってきた日本では、何かあっても法律で云々するような態度を一般人は嫌っているのだ。どんなに悩んでいても裁判に訴えようという人は多くはない。つまり、法律が歴史の連続である現実実生活に合致していないのだ。
最高裁の無責任な判断
最高裁判所は先日(2013年12月)、性同一性障害で女性から性転換して男性になった男性(?)に対して、妻が第三者の精子を使って妊娠し出産した子供の実父として認めるという判断を下した。憲法では男も女もない、あくまで一人の人格体を尊重する、差別するのはけしからんという論理であるから、最高裁はこの憲法に準拠して正しい判断を下したというのであろう。常識から考えれば、奇妙な話だと思う人が多いだろう。現行法が裁判官の逃げ道になっていると言わざるを得ない。非常に無責任な判断であると言いたい。
30数年前、福岡県北九州市では、当時は珍しかった淫行条例を制定し、淫行条例違反で30代の男を逮捕したことがあった。しかし男は、そもそも(条例はあっても)法律には淫行の規定がない、法律にないものを処罰するのは憲法違反だと、最高裁まで争ったのである。この時最高裁は、「社会通念上好ましい行為ではない」という一言で男の主張を退けたのである。これは一般国民の常識からも当然のことだが、今の最高裁、下級裁判所も含めて、このように言える裁判官がどれだけいるだろうか。むしろ、責められたら困る、法律の根拠がないと善悪が言えないという裁判官が多いのではないか。
「社会通念上、好ましくない」と断言できるほどでなければ法治国家ではない。今は法治主義と言って条文には従うが、法の精神は全く関係なくなっている。つまり条文から現実に降りてくるのである。こんな馬鹿な話はない。現実から法律を作るべきである。今は逆に法律によって現実をどんどん歪めてしまっている。
人間であるならば、特に日本のような歴史や文化のある国においては、法律よりもはるかに力を持ったものが存在している。にもかかわらずそれをどんどん排除しているのが現状である。
家庭の問題は法律だけでは混乱
本来、法律が入り込めないのが家庭であり家族の本質である。実際、穏やかで円満な生活を発展・維持させることこそ、全ての人間が望んでいることだ。家庭では法解釈を問題にしているのではない。家庭裁判所にしても、「裁判所」と言いながら、法律を乱暴に持ち出すわけではない。法律は最低限の道徳である。それをあたかも絶対であるかのように振りかざすために、人間の精神のほうが最低になってしまっている。
日本の家庭裁判所は、調停という形で話し合い、両方が納得する一つの着地点を見つける。このシステムは米ハーバード大ロースクールの関係者が見学に来て、「大変すばらしい制度」だと絶賛していた。ただしアメリカには導入できないとも言っていた。アメリカは訴訟の国だから、法廷で裁く。話し合いも本人ではなく弁護士同士が話し合って決めることが多い。
家庭裁判所はあくまで話し合いによる調停の場であった。調停が不調になったらやむを得ず地方裁判所に持っていく。しかし、数年前から家庭裁判所の中で、調停と審判とは全く別物であるにもかかわらず審判もやるようになった。そこで弁護士が関わってくる。弁護士費用は高額である。そして代理人としてどんどん口を出してくる。弁護士たちも簡単に答えが出るように方程式を作ってしまった。離婚訴訟に関して、夫の収入がいくら、支出がいくらだから、毎月の養育費はこれくらいという、フォーマットを作り出したのである。
しかし、私は調停員として、養育費は子供のためにあなたが最大限払える額を提示すべきではないか、相場がどうこうという質問自体不謹慎だと言った。弁護士から教わったのであろうが、愛情ではなく法律上ここまではしょうがないとか、ここまではごまかせるとかで決めてしまう。法律が先行すると家族関係は混乱を招く。
先ほどの淫行条例の例もそうだ。あなたの兄弟がどれほど恥ずかしいと思うか、本当に愛情からの行為なのか、それとも面白半分なのか、あなたが一番よく知っているのではないか。胸に手を当てて考えたら分かることだと。そのように考えることができなくなってきている。だから法律の世界にいろいろな意味でブレーキをかける必要があると思っている。
健全な家族、健全な家庭を確立する
それには、いわゆる健全な家族、健全な家庭とはどういうものかを確立したい。いろいろな立場から、これが本当の家庭の姿ではないかというものを作り上げていかなければならない。今の若い人たちは、家庭の作り方を自分で悩み考えたことはないだろう。好きな相手ができたら結婚するのが家庭だと思っている者もいるが、それではあまりにも動機が希薄である。
昔は家庭の雰囲気があった。祖父母と一緒に過ごしたとか親戚縁者と過ごしたとか、家にさまざまな人が出入りしたといったことがあった。法律の世界でもなく、言葉の世界でもなく、体で学び取ってきたのである。
教育で一番重要なのは「無意図的教育」だと私は考えている。雰囲気の中から学び取る。体験からいろいろなものを学ぶのは教育の原点であろう。ところが今の勉強は、目の前にある答えを早く無駄なく頭の中にしまうことが要求される。そうなると心が形成される時期がない。結論さえ成り立てば、プロセスなんてどうでもいいということになる。結論に早く無駄なく要領よくたどり着けばいいというのでは、人の心は崩れる。
生きることは、いろいろな問題意識をもって悩んだり、苦しんだり、喜んだりすることである。問題を真剣に考え、一歩一歩踏みしめていく。そして新たな問題が出てくるとそれをまた乗り越えていく。生きている以上は昨日とは違う自分になって、昨日とは違う問題を探究しようとする気持ちが必要だろう。
その視点で考えたいのは、家庭・家族とは人生そのものだということである。
若い世代の多くが、自分の人生を長く続くものだと考えてない。下手をすると今楽しければいいとしか考えない。人間は時間軸の中に生きている。過去・現在を持ち、そして将来を持つ。にもかかわらず、そういう時間軸を失っている若い世代が増えている。
今ここにいるという事は、必ずそこに歴史がある。歴史の結実として今、「私」がいる。それを若い世代に自覚させていない。親兄弟、親戚を全て排除してしまう。それ以上divideできないものをIndividualという。排除できる関わり合いはどんどん否定してもう排除できないIndividualを「個人」と訳した。
歴史も親兄弟もない「個」
憲法第13条には「国民は個人として尊重される」とある。全国民がIndividual、つまり歴史もない、親も兄弟も何にもない身軽な一個人だと位置づけているのである。そうなれば全ての人は皆平等だとなるので次の14条では、男女、役割、社会的地位など本来背負っているものを全て取り除いてしまえば、皆同じだと言う。しかし、実際にはそう言う人間などはあり得ない。
Individual=個というものをどう捉えるかに、明治の文化人は非常に悩んだ。たとえば夏目漱石は、当時の最先端の学問を学ぼうとイギリスに留学する。 ところが行ってみると、漱石は気が狂ったという記録すらあるほど、Individualに悩んでいる。日本では歴史を経て様々なものを背負っているのが個人だと考えられてきた。しかし海の向こうは全く違った。苦しんだ漱石は早々に帰国する。帰ってきてすぐ学習院の輔仁会で講演しているが、そのタイトルが「私の個人主義」である。各人は歴史を背負い、役割を背負っている個人である。それをしっかり認識しないとだめだという話をしたという。
また、「自由」で悩んだのは福沢諭吉である。自由というと、普通はフリーダムとしての自由だと考える。「from free(○○から自由になる)」ということである。しかし福沢は『西洋事情』の中で「元の意を尽くすに足らず」と書いている。「元の意」とは「Liberte」、つまり「Liberty(リバティ)」のことである。多くの日本人はリバティもフリーダムも同じだと思っているが、そうではない。リバティというのは「神の心をわが心とする」という意味の自由である。
例えば、「3分間、自分の言いたいことをしっかり言うことができる」人が果たしてどれだけいるだろうか。自由というのは、自分の思うことをきちんと書ける、話せる心の状態のことだ。自由に話し、書けるようになったら教育は必要ないのである。その意味で人間は常に不自由なのだ。だから教育が必要だし常に神を求め続ける必要があるのだ。「神の心をわが心とする」から何の抵抗もなく全き心になれる。これこそがリバティなのだ。それを学校で間違えて教えている。何でも思いのままがいいと言う。しかしその自由は意味が違う。
家庭には「人間をつくる」教材がある
家庭の中にはいろいろな教材がある。そういう場面に直面させればいい。私は家族の一員として「脇役」の時代を過ごす時期が必要だと言っている。例えば親にむかって一日の報告をしたり、会話を多くする。それでもう少し上手な言い方はないかなとか考えさせることもできる。それから家事への参加、協力、食事作りや後片付けなどを一緒にやってみる。生活体験をさせる。言葉にはならないけれども、協力する喜びなども生まれる。
それから、どこの地域にも家庭にも伝統的な年中行事がある。そこに参加させることによって、家族やご近所とのつながりを体験したり、日本文化が何たるものかを感じ取ることもできる。
家庭の経済状況を共有することも大切だ。今、共働きが増えたが、自分が稼いだから自由に使うと言って、家計という感覚が薄くなっているのではないか。家計という言葉が死語になっている。
親戚との関係性も薄くなっている。遠く離れていても、たとえば親戚の一覧表を作ってその誕生日でも記入しておけばいい。子供にその誕生日に何かさせることで、つながりがあることを感じられる。家族団欒の楽しみを知る、祖父母との交流、介護の手伝いなど、家庭の中には教材がいくつもある。責任と役割の自覚を形成しなければならない。まだ結婚しない世代、すなわち「脇役時代」には、「家庭を演出する準備」をさせてやる必要があるのです。このようにして、責任と役割の自覚を形成することが家族の大切な役割である。
私事で恐縮だが、私のところには96歳になる義母が同居している。義父は亡くなったが、人が老いていくことを私の息子たちに教えてくれた。言葉は悪いが、命をかけて見せてくれたというのは、すごいことだと思っている。
義母の介護は確かに楽ではない。どこかの施設に入れてしまえば気が楽だと、見方によってはそう言えるかもしれない。しかし失うものも大きい。いてくれることで得られることのほうが大きいと思う。私の孫も一緒に住むことで、人間が本当に衰えていくことを学んでいる。これは大事なことである。我が家に来客があった時にお茶を出したりして、おもてなしを孫たちも学び取ることができる。
いずれにせよ家庭・家族には「人間をつくる」教材が山ほどある。こういう「脇役時代」を体験した人間が、今度は自分で家庭を作っていく。これが家庭教育だが、残念ながらこの部分が今抜けている。
家庭でなければできない心の育成
法律や制度を整えることも必要だが、それだけでは十分ではない。教師ならば学校の中を整えなければならない。家庭の中に問題があると、政治が悪い、社会が悪いと言う人がいるが、いくら言っても良くならない。自分たちが一歩一歩自分の問題を解決するしかない。
今、教育は「教える」ことが中心になって、「育てる」ことができていないのではないかと感じている。正しいことを教えるだけでは、正しい心にならない。もっと正しいことを考え、求めるような雰囲気を作らないといけない。例えば、電車で騒いでいる連中がいたら、どうしたらいいかという意識を持たせる。その中で暴力は良くないという心になるかもしれない。まず原点を作らないといけない。
家庭についても、家庭とは何かということを淡々と述べるのではなく、家庭の中で人間がぶつかるような問題を全部洗ってみる。そうすると、そこから望ましい家庭環境や人間観はどういうものかが生まれてくる。
それによって、今度は家庭の「主役」、つまり夫婦として、親として何をやるべきなのかという出発もできるのではないか。家庭裁判所では、夫婦としての一体感が形成できていないケースや、私の思いが通るのが当然で違いを受け入れないあの人が悪いと相手を責めるケースを多く手掛けてきた。こうした人たちは「脇役」時代の経験が乏しい。
自分の思い通りにやることを「自主性」と呼び、児童・生徒の自主性・主体性を尊重せよと煽ってしまった。幼少時に教え込んだり体験させたりした後に発揮される自主性でなければならない。日本では家庭・家族でなければしえない心の育成を放置しておいて、ただ自主性の尊重と言うお題目を振りかざしてきたので、深刻な社会問題を招いているのだ。
家庭の中で、家庭教育でこのような問題を修正できるという、モデルをしっかりと整えていくというようにしたい。