「自由で開かれたインド太平洋」戦略の生成と変容

「自由で開かれたインド太平洋」戦略の生成と変容

2023年6月10日
1.「二つの大洋の交わり」演説が源泉

 2021年1月6日、民主党バイデン政権への交代を前に、共和党トランプ政権は、2018年2月に外交方針として決定し、機密指定していた「インド太平洋戦略枠組み(U.S. Strategic Framework for the Indo-Pacific)」の機密指定を解除させて、一部を黒塗りとしつつ、公開した。この文書の公開に当たって付したオブライエン大統領補佐官の書面は、アメリカ政府が認識した「自由で開かれたインド太平洋戦略」成立の経緯を明示している。それによれば、この戦略の源泉は、2007年8月にインド国会で行った安倍晋三首相の「二つの大洋の交わり」演説であり、さらに2016年8月27日、ケニアの首都ナイロビで開催されたアフリカ開発会議(TICAD VI)での安倍首相の基調講演であった 。これを敷衍したのが11月10日にトランプ大統領がベトナムのダナンで行った「自由で開かれたインド太平洋戦略」演説である。
 始まりとなった2007年8月、インド国会での「二つの大洋の交わり」演説で、安倍首相は、「インド洋と太平洋という二つの海が交わり、新しい「拡大アジア」が形をなしつつある今、このほぼ両端に位置する民主主義の両国は、国民各層あらゆるレベルで友情を深めていかねばならないと、私は信じております」と述べ、「インド太平洋」を一つの地域として描き、そこにおける民主主義の日本とインドの結びつきの重要性を語っていた。
 しかしそれからわずか一か月後の9月26日、体調不良により安倍首相が辞任したため、「自由で開かれたインド太平洋戦略」は、しばらく進展を見ることが無かった。それが2012年12月に第2次安倍政権が発足したことで息を吹き返した。

2.日本外交の新たな原則(2013年)

 同戦略を初めて体系的に表明したのが、2016年8月27日のアフリカ開発会議における基調演説だとされるが、実はそれより前、2013年1月18日にインドネシアのジャカルタで、第二次政権発足間もない安倍首相は「開かれた、海の恵みー日本外交の新たな5原則—(The Bounty of the Open Seas: Five New Principles for Japanese Diplomacy)」と題する演説を予定していた。ただしこの演説は、アルジェリアでの邦人拘束事案により安倍首相が急遽帰国したため、実際には行われなかった。
 予定稿で安倍首相は、日本の国益は万古不易であり、それは「アジアの海を徹底してオープンなものとし、自由で、平和なものとするところ」にあると明言していた。米国は「インド洋から太平洋へかけ2つの海が交わるところ」に重心を移しているとして、「日米同盟に、安全と、繁栄をともに担保する、2つの海にまたがるネットワークとしての広がり」を与えなければならないとし、日本外交の新たな原則の第一に、2つの海が結び合うこの地において、「思想、表現、言論の自由」という人類が獲得した普遍的な価値を実現することを掲げていた。第二が、この2つの海において、力ではなく法の支配を提唱することで、第三が、自由で開かれた経済、交易、人の流れの実現だった。
 以上のように、この演説は太平洋とインド洋という2つの海が交わる地域において、日米同盟を基軸として自由で開かれた、民主と法の支配を実現するという構想を、2つの海洋の結節点に位置するインドネシアにおいて述べるはずだったのである。
 この3年後に、ケニアのナイロビ、ケニヤッタ国際会議場で行われたアフリカ開発会議での基調演説で、安倍首相は、「太平洋とインド洋、アジアとアフリカの交わりを、力や威圧と無縁で、自由と、法の支配、市場経済を重んじる場として育て、豊かにする責任を」日本が担うと述べた。つまり両大陸をつなぐ海、太平洋とインド洋を、「平和な、ルールの支配する海とする」という「自由で開かれたインド太平洋」戦略だが、その実現のために「アフリカの皆さまと一緒に働きたい。それが日本の願い」であると表明した。アジアで根づいた民主主義、法の支配、市場経済のもとでの成長、それが生み出した自信と責任意識が「やさしい風とともにアフリカ全土を包むこと」が願いであると述べた 。ケニアでの演説では、安倍首相の「自由で開かれたインド太平洋」戦略は「アフリカ全土を包む」構想だったのである。

3.「日本発の戦略」への共感

 翌年、平成29(2017)年1月20日に米トランプ政権が誕生すると、3月中旬にティラソン米国務長官が来日、安倍首相と会談して、東シナ海・南シナ海の情勢についての懸念を共有し、フィリピン、ベトナム等ASEAN諸国と併せてインド、オーストラリアとの連携を深めていく事を確認した 。またティラソン国務長官との会談で岸田外相は、日本が視野をアジア太平洋からインド洋を経て中東・アフリカまで拡げ、「インド太平洋の自由で開かれた海洋秩序を確保する」ことでこの地域の安定と繁栄を支えていきたい、と「インド太平洋」に言及した。
 その後、9月18日にニューヨークで開催された河野外相、ティラソン国務長官、スワラージ印外務大臣の日米印外相会合では、三か国が自由、民主主義、法の支配という基本的価値と戦略的利益を共有するインド太平洋のパートナーであるとし、「自由で開かれたインド太平洋」の実現に向けて協力を強化していくことで完全に一致した。
 これらの土台の上に11月10日、ベトナムのダナンで開催されたAPEC首脳会議において、米トランプ大統領が、「自由で開かれたインド太平洋戦略」を発表した 。トランプ大統領は、ベトナムでのこの構想発表を、インド太平洋の心臓部そのものでの演説と自称し、初代大統領ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソンの時代からアメリカは太平洋地域の国々との緊密な交流があり、1817年から太平洋の安全保障と関わってきたと述べ、アメリカを太平洋国家と定義した。そしてアメリカはインド太平洋の国ぐにとの新たな友情と交易の関係を強化し、ともに繁栄と安全を創出するとして、「自由で開かれたインド太平洋」の実現を提唱した。
 日本では安倍首相が、平成30(2018)年1月22日の第196回国会の施政方針演説で、「自由で開かれたインド太平洋戦略」を日本外交の枠組みとして明示した 。基本的価値を共有する国々と連携して「米国はもとより、欧州、ASEAN、豪州、インドといった諸国と手を携え、アジア、環太平洋地域から、インド洋に及ぶ、この地域の平和と繁栄を確固たるもの」とすることを表明し、「太平洋からインド洋に至る広大な海」を「将来にわたって、全ての人に分け隔てなく平和と繁栄をもたらす公共財」としたいと述べた。
 安倍政権末期の2020年1月、第201回国会の外交演説で茂木敏充外相は、「自由で開かれたインド太平洋」における法の支配に基づく自由で開かれた秩序の構築は、この地域だけではなく世界の平和と繁栄を確保するためのものだと説明した。さらに、米国、豪州、インド、ASEANと欧州に加えて、中東、アフリカの国々と連携・協力を進めることを「自由で開かれたインド・太平洋」のコンセプトの中に包摂した。安倍構想には、当初からグローバルサウスへの配慮も含まれていたのである。
 2021年1月20日、民主党のバイデン大統領が就任すると、3月9日にアメリカ上院軍事委員会で、退任を前にしたフィリップ・デビッドソン(Philip Davidson)インド太平洋軍司令官が、中国は「6年以内に台湾侵攻の恐れ」があると証言し、3月23日には同じ上院軍事委員会で、次期インド太平洋軍司令官に指名されたジョン・アキリーノ(John Aquilino)太平洋艦隊司令官が、中国による台湾侵攻は「大多数の人たちが考えるよりも非常に間近に迫っている」と警告した。
 この両発言の中ほどの3月16日、バイデン政権で初の日米安全保障協議委員会(2+2)が開催され、茂木外相、岸防衛相とブリンケン(Anthony Blinken)国務長官、オースティン(Lloyd Austin)国防長官の四閣僚が、日米同盟がインド太平洋地域の平和、安全及び繁栄の礎であることを確認した。また共同発表において「自由で開かれたインド太平洋」の推進で一致したと表明し、これに加えて「台湾海峡の平和と安定の重要性」を強調した。
 その後、訪米した菅義偉首相は、4月16日のバイデン大統領との首脳会談で、「新たな時代における日米グローバル・パートナーシップ」と題する首脳共同声明を発して、インド太平洋地域の平和と繁栄の礎として日米同盟を一層強化することを確認するとともに、「台湾海峡の平和と安定の重要性を強調するとともに、両岸問題の平和的解決を促す」とした。
 続く6月のコーンウォールG7サミットでは、G7首脳コミュニケで、包摂的で法の支配に基づく「自由で開かれたインド太平洋」を維持することの重要性を表明するとともに、「我々は、台湾海峡の平和及び安定の重要性を強調し、両岸問題の平和的な解決を促す。我々は、東シナ海及び南シナ海の状況を引き続き深刻に懸念しており、現状を変更し、緊張を高めるいかなる一方的な試みにも強く反対する」と宣言した。日本発の戦略と日米の合意が、G7の合意となった。
 そして昨年、2022年5月23日、東京で岸田首相とバイデン大統領の日米首脳会談が実施されると、両首脳は「自由で開かれたインド太平洋」の実現に向けて、日米が国際社会を主導すること、豪州、インド、ASEAN、欧州、カナダ等の同志国と緊密に連携することで一致した 。また、「自由で開かれた国際秩序の強化」と題する共同声明において、「台湾に関する両国の基本的な立場に変更はないことを述べ、国際社会の安全と繁栄に不可欠な要素である台湾海峡の平和と安定の重要性」を改めて強調し、両岸問題の平和的解決を促した。
 日米首脳会談に合わせて、インドのモディ首相と、就任間もないオーストラリアのアルバニ—ジー(Anthony Albanese)首相も来日して、翌24日に日米豪印(Quad)首脳会合が開催された。四か国首脳は「力による一方的な現状変更を」「インド太平洋地域において、許してはならない」とし、「自由で開かれたインド太平洋」のビジョンが、ASEANのAOIPやEUおよびその加盟諸国においても進められていると認め、さらに各国・地域と連携・協力を進めることとした。

4.防衛力の抜本的強化へ

 同年10月3日に開会した第210回国会の所信表明演説で、岸田首相は、「ウクライナは明日の東アジアかもしれない」と強い危機感を訴え、我が国防衛力の五年以内の抜本的強化に必要となる防衛力の内容の検討、そのための予算規模の把握及び財源の確保を一体的に進め、予算編成過程で結論を出す決意を語った。また、新たな国家安全保障戦略等を年末までに策定するとし、「反撃能力」についても検討に含めると約束した。
 年が明けて令和5(2023)年1月11日、日米「2+2」会議がワシントンで開催されると、双方は、新たに策定されたそれぞれの国家安全保障戦略及び国家防衛戦略のビジョン、その優先事項及び目標が「かつてないほど整合している」ことを確認した。日本の反撃能力の効果的な運用に向けて日米間での協力を深化させるとともに、アメリカはより多面的で、より強靭で、より機動的な能力を前方に展開することで、日本を含むインド太平洋における戦力態勢を最適化する決意を表明した。
 そして1月23日、第211回国会冒頭の施政方針演説で岸田首相は、防衛力の抜本的強化を掲げ、「外交には裏付けとなる防衛力が必要」だと明言した。林外相も同日の外交演説で、「欧州とインド太平洋地域の安全保障を切り離して論じることはできない」としたうえで、「日本を守り抜く意思と能力を表す防衛力は、他の手段では代替できない」と述べた。
 岸田首相の「外交には裏付けとなる防衛力が必要」も、林外相の「日本を守り抜く意思と能力を表す防衛力は、他の手段では代替できない」も、世界では常識である。しかし、日本の首相と外相から立て続けにこれらの発言がなされたことに対して、特段の警戒の渦が湧き起こらなかったことは、日本がやや普通の国に近づいた証左かもしれない。
 本年5月19日から開催されたG7広島サミットでは、首脳宣言において「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指すとともにASEANの中心性・一体性への支持、ASEANアウトルックに沿った協力の促進、太平洋島嶼国の「ブルーパシフィック大陸のための2050年戦略」等の重要性を表明した。ASEAN諸国や南太平洋島嶼国と一致結束を図ろうとする姿勢の表れである。G7首脳は一致して、中国に対して率直に関与し、我々の懸念を中国に直接表明することの重要性を認識しつつ、「中国と建設的かつ安定的な関係を構築する用意がある」とし、デカップリングよりディリスキングを求める姿勢を表した。さらに、「国際社会の安全と繁栄に不可欠な台湾海峡の平和と安定の重要性を再確認」して、「両岸問題の平和的解決を促す」とした 。
 ここに示されたG7の一体的決意が、中国の台湾統一のための軍事力行使を、限りなく遠のかせることに期待したい。

政策オピニオン
浅野 和生 平成国際大学法学部教授
著者プロフィール
1982年慶應義塾大学経済学部卒業。88年同大学大学院法学研究科博士課程修了。博士(法学)。現在、平成国際大学法学部教授・副学長。(一社)日米台関係研究所理事も務める。専門は、日台関係、英国政治史。主な著書に『君は台湾のたくましさを知っているか』(以上単著)、『日米同盟と台湾』『アジア太平洋における台湾の位置』『東アジア新冷戦と台湾』『激変するアジア政治地図と日台の絆』『馬英九政権の台湾と東アジア』『中華民国の台湾化と中国』他、近著に『日台運命共同体―日台関係の戦後史』『「国交」を超える絆の構築』。
日本発の「自由で開かれたインド太平洋」構想は、米国をはじめとする諸国の理解と共感を得て国際的に認知されるものとなっている。G7広島サミットの首脳宣言では「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指すこと、中国に対してディリスキングを求める姿勢が表明され、台湾統一のための軍事力行使がけん制された。そのような状況下で、日本も防衛力の抜本的強化に向かっている。

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