政策オピニオン

2019年1月24日

宗教と外交政策―宗教の関与による平和構築の事例―

米国・宗教と外交センター名誉会長 ダグラス・ジョンストン
米国海軍大学卒業、ハーバード大学で修士号(行政学)、博士号(政治学)を取得。政府および民間で多くの上級職を務めた。政府では米国海軍次官補代理、米国国防省政策事務局長などを歴任。ハーバード大学ケネディー行政大学院で国防・安全保障プログラムを開設、初代ディクターを務めた。その後、戦略国際問題研究所(CSIS)副所長兼チーフ・オペレーティング・オフィサーを務めた。CSISでは予防外交プログラムおよび海事研究プログラムの議長も務めた。編著書にReligion, the Missing Dimension of Statecraft (1994)、Foreign Policy into the 21st Century: the U.S. Leadership Challenge (1996)、Faith-based Diplomacy: Trumping Realpolitik (2003)、Religion, Terror, and Error: U.S. Foreign Policy and the Challenge of Spiritual Engagement (2011)など。

はじめに

 私が『宗教と国家』(*1)という編著書で明らかにしたのは、宗教や精神的要素が正義と和解に基づく社会的変化をもたらし、紛争の予防や解決に積極的な役割を果たし得るということだった。宗教が紛争の一因となってきたことは多くの文献で報告されているが、同書は宗教が肯定的影響を与えて紛争を平和に導いた事例を体系的にまとめた初の論文集であった。

1.宗教の関与による紛争解決:MRAの取組み

 宗教の関与によって良い結果が生まれた事例の一つが、MRA(Moral Re-Armament、道徳再武装)の取組みである。MRAは日本でも長い活動の歴史がある。ルター派の牧師だったフランク・ブックマンがキリスト教系のグループを発展させる形で1921年にMRAを創設した。第二次世界大戦を契機として、ブックマンはフランスとドイツを何としても和解させなければ、歴史は繰り返して再び世界大戦が起こると考えた。そこで彼はMRAの同僚たちとともにスイスのジュネーブ湖(レマン湖)の東にあるコー(Caux)という村の大きな古いホテルを購入した。そのホテルは戦争中に多くの避難民を受け入れていて非常に荒廃した状態だったが、彼らは半年ほどかけて修理した。
 1946年から49年にかけて、約2,000人のフランス人と約3,000人のドイツ人がコーで開かれた国際会議に参加した。ブックマンらがこうした会議を開いたのは、政府、労働組合、産業界、聖職者など社会を構成するさまざまな人々に個人的なレベルで和解を促すためだった。参加者の中には独仏和解で重要な役割を果たしたドイツのコンラート・アデナウアー、フランスのロベール・シューマンらも含まれていた。この二人の尽力により、1951年に欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が発足し、それがのちに欧州共同体(EC)、さらに今日の欧州連合(EU)へと発展した。
 MRAはECSCの発足に関わったと主張しているわけではないが、スイスにおける彼らの数年間にわたる和解の取組みがなければECSCの発足は実現しなかったというのが我々の調査の結論である。ECSCのプランを起草したのは初代委員長を務めたジャン・モネだったが、発足に至るにはアデナウアー、シューマンらの努力が不可欠だった。そしてECSCの発足以降、ヨーロッパでは平和が維持されてきた。

2.宗教が伝統的外交政策を補完

 『宗教と国家』が出版されると、同書は非常に高い評価を受けた。控えめにもそのように言えるのは、この本の出版のプロセスに世界的に著名な多くの学者や活動家が関わってきたからである。最初の年にはニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、ワシントン・タイムズ、フィナンシャル・タイムズ、フォーリン・アフェアーズ誌など60以上の新聞や雑誌が同書を評価する記事を掲載した。日本の雑誌でも21世紀を迎える前に読んでおくべき必読書として紹介された。
 ではなぜそのように高い評価を受けたのか。日本には軍事的手段に頼らず意見の異なる人々が和解する方法を模索してきた長い歴史がある。しかし世界的にみると、同書が出版されるまでの7年間にベルリンの壁が崩壊し、冷戦時代に米ソ両国の影響下で抑制されていた民族・宗教間の対立が表面化するようになった。伝統的な外交手段ではそのようなアイデンティティに基づく紛争に対応できないことが明らかになり始め、宗教的和解が政府間・民間の外交を補完するという考え方が有望視されるようになったのである。
 次に、私は今こそそれを実践に移すべき時だと考えた。当時、私はワシントンにある戦略国際問題研究所(CSIS)で副所長兼チーフ・オペレーティング・オフィサーを務めていた。CSISは外交分野では世界でもっとも影響力のあるシンクタンクの一つと評価されているが、そこで私は予防外交のプログラムを立ち上げ、5年ほど活動した。
 最初のプロジェクトでは、バルカン半島の宗教者や女性たちを対象に紛争解決のプログラムを実施した。ところが当時は戦争状態だったため、あるときCSISの所長が私に交戦地帯からスタッフを退避させるよう指示した。現地で不測の事態が起きることを理事たちが心配したのだ。私は指示に従ったが、別の場所で何とかこのような活動を続けたいと思った。

3.「宗教と外交センター」の設立

 そこで私はCSISを離れ、1999年8月に別の組織を立ち上げた。「シンク(考える)タンク」ではなく、「ドゥー(行動する)タンク」が必要だと感じたからだ。その組織の理事たちは、我々が危険な場所にも行かなければならないということ―それも時々ではなく頻繁に―を最初から理解していた。それが「宗教と外交センター」(International Center for Religion & Diplomacy, ICRD)である。
 ICRDの主な目標は、米国が外交政策に宗教的視点を取り入れるよう促すことだった。それまで政策立案者が宗教にほとんど関心を向けてこなかったのは、宗教の重要性を軽んじる啓蒙主義的な偏見があったからだ。同時に、冷戦時代における米国外交の最優先課題はソ連を封じ込めることだったが、ソ連は神の存在を認めていなかったため宗教が議論の俎上に載ることもなかったのである。
 ICRDの目的をもっとも効果的に達成するため、我々はまず米国政府の戦略目標と一致する分野に集中的に取組むことにした。そうすれば政策立案者たちが世界各地で起きている紛争の宗教的要素に目を向けるはずだと考えたのである。
 『宗教と国家』の続編として2011年に『宗教、恐怖、錯誤』(Religion, Terror, and Error(*2))を出版した。この本には「米国の外交政策における宗教的関与の課題」という副題が付けられている。序文を執筆したアンソニー・ジニ・元海兵隊大将は米国中央軍司令官として中東地域などで活躍した人物だが、彼の次の言葉が我々の取組みを端的に現しているので、ここで引用する。

「これは先見の明のあるアプローチであり、政府のあらゆる取組みの先を行くとともに『スマート・パワー』の定義を拡大するものでもある。イスラーム世界で20年間過ごした私の経験から見ても、ムスリム(イスラーム教徒)の圧倒的多数の人々が彼らの信仰を明確に表現する手段として、また我々を理解する手段として、このアプローチを喜んで受け入れるに違いない。」

4.パキスタンにおける「マドラサ」指導者の教育プログラム

 過去20年間にわたり、我々は少なくとも14カ国でプロジェクトを行ってきた。そのうち二つの取組みについて紹介したい。一つはパキスタン、もう一つはサウジアラビアにおけるプロジェクトだ。興味深いことに、どちらのプロジェクトも教育改革に関する取組みであった。

「宗教的寛容」と「人権」を強調

 パキスタンでは、タリバンなどのグループを生み出した「マドラサ」と呼ばれる宗教学校の改革を行ってきた。このマドラサの優れた歴史は西洋ではほとんど理解されていないが、中世においてマドラサは他に類を見ない最高の高等教育機関であり、西洋および世界の大学の起源になったとも言われている。学界の標準や道徳のどれほど多くがマドラサから始まったかを知れば、誰でも驚くに違いない。卒業式で被る「モルタルボード」(角帽)と「タッセル」(飾り房)などもその一例である。
 しかし残念ながら、イギリスの植民地支配の影響が強まるとこれらの学校はムスリムのアイデンティティが失われることに危機感を抱き始め、世俗的あるいは西洋由来とみなされるすべての学問を排除するようになった。その結果、ほとんどのマドラサの教育内容は今日までクルアーンの記憶とイスラームの教えの学習に限定されるようになったのである。
 我々のプロジェクトには二つの目標があった。第一に、マドラサのカリキュラムを拡大して自然科学と社会科学を採り入れるとともに、宗教的寛容と人権―特に女性の権利―を強調する。第二に、教育方法を変えて若者に批判的思考のスキルを身に付けさせることである。
 伝統と深く結びついた部族的な文化の中で、若者たちは創造的思考をすることが許されない。そのためマドラサを卒業すると過激派組織の司令官がやって来て彼らをリクルートし、アフガニスタンなどで米国との戦争に参加するよう強いる。若者はそれに疑問を抱いたり拒否する力を持っておらず、言われるままに行動してしまう。
 我々は2004年からパキスタンで活動を始めたが、これまで5,000校以上のマドラサから約8,000人の指導者がプログラムに参加した。数が多いようにも思えるが、実はマドラサは20,000校以上もあり必ずしも多くはない。しかしマドラサの指導者の多くは地元のモスクのイマーム(イスラーム教指導者)でもあるため、彼らが新しい考え方や思想を学べば金曜日に行われる礼拝の説教でそれを何千もの人々に伝えることができる。このプロジェクトは現在も進行中である。

マドラサ改革の成功要因

 我々はなぜパキスタン政府を含め他の誰にもできなかったプロジェクトを成功させることができたのだろうか。いくつか理由がある。第一に、このような形でプロジェクトを進めることで、マドラサの指導者たちは外部から押し付けられることなく自分たちが改革を進めていると感じることができた。新聞報道でマドラサに関する記事を読むと、マドラサはテロリズムの温床になっており、学んでいる若者たちも正気ではないと誤解する人が多いが、それは事実ではない。マドラサでジハード(聖戦)に関心を持っている生徒はおそらく全体の15%程度に過ぎない。
 ここで教師対象の研修プログラムで使用されている教科書の序文を紹介する。この文章はあるマドラサ指導者が書いたものである。

「私がたどり着いた恐るべき結論は、教室では私自身が決定的な役割を担っているということでした。私が生徒たちにどのように働きかけるかによって教室の環境が決まり、私の気持ちの持ち方によって日々の雰囲気が決まるのです。教師が持つ強大な力によって子供たちは不幸にも、幸福にもなります。拷問の道具にもなれるし、インスピレーションのきっかけにもなれます。子供たちに屈辱を与えることも、彼らを満足させることもできます。傷つけることも、癒すこともできます。あらゆる場面において、生徒に対する教師の反応次第で危機的な状況が悪化したり、良くなったりするのです。子供たちの人間性を高めたり、奪ったりするのです。」

 第二に、我々は彼ら自身の遺産を通じて彼らにインスピレーションを与えようとしてきた。遺産というのはマドラサの学校だけでなく、初期のイスラーム世界におけるさまざまな発見や芸術・文化の発展にまで遡る。かつてキリスト教徒が甚だ不寛容で優越を誇っていた時代に宗教的寛容さを失わなかったことも、彼らの遺産の一つである。
 第三に、これはもっとも重要な点だが、私たちが彼らに求めた変化はすべてイスラームの教えに根差していることを強調した。そのため彼らはプログラムに参加することでより良いムスリムになれると感じていた。
 第四に、あまり指摘されることのない重要な点だが、我々はプロジェクトの運営に際して常に謙虚さを保つように意識した。そもそもマドラサにジハードの種を植え付けたのは米国の責任でもあるからだ。アフガニスタンから神を否定するソ連を追い出すため、米国はジハード戦士を育てた。ソ連が去り、米国が去ったあとも、彼らは我々が望んだとおりにしていただけだったが、いつしかその標的が変わったのだ。

タリバン指導者との会合

 ここで二つの出来事を紹介する。ある時、ワークショップに一人のタリバン指導者が参加していた。彼は元気がなく、とても落胆している様子だった。米軍との戦闘で二人の息子を亡くしていたのだ。そして彼は「私はアメリカ人が何を望んでいるのかわからない」と言った。この言葉がきっかけとなり、私は2カ月後にパキスタンの山間部でタリバン指導者たちの会合に招かれ、米国が何を望んでいるかを説明することになった。
 会合に先立ち、私は国務省、国防総省、CIAなどを訪問し、私が話す内容が米国の政策と一貫していることを確認した。そしてアフガニスタン国境に近いマラカンド地区を訪れ、ある施設の部屋でタリバンの57人の司令官、部族長、宗教指導者との会合に臨んだ。私に会うことを快く思っていない者もいたようだったが、彼らのほとんどは会合に参加するためアフガニスタンから国境を越えてやってきた。地元にいる我々のパートナーがそれまで1カ月近くかけて彼らに参加を呼びかけたのだった。
 私は彼らに、「ICRDは政府機関ではなく、政府から資金も受け取っていない。私がここに来た唯一の目的は、私たちが共有する宗教的価値観に基づいて平和に向けた信頼関係を構築することだ」と伝えた。そして彼らにも西洋の考え方を理解して欲しいと言って米国が何を望んでいるかを説明した。簡単に言えば、武器を捨ててアルカイダと距離を置き、カルザイ政権と和解するということだ。
 2時間半ほどやり取りした後、アルカイダの一員と思われる一人の屈強な男性が立ち上がり、私を指さして「お前が改宗してムスリムにならない限り何も話すことはない」と言った。私は一瞬間をおいて「それは問題ない。ムスリムになるということは神に従うことではないか。私たちは神に従っているので、皆ムスリムだ」と言うとその場にいた全員が笑った。それから数カ月後にプロジェクト・リーダーや現地のパートナーにこの話をすると、彼らはとても緊張した様子だった。普通であれば、改宗するか、さもなければ死ぬしかないというのだ。私はそれを知らなかったが、言葉を間違えずに答えられたことを振り返ってほっとした。
 会合が終了すると、祈祷の時間を挟んで再び少人数のグループで信頼醸成措置について話し合った。そこで考え出されたのは、近隣に位置するアフガニスタンのヌリスタン州に協力を求めてマラカンド西部の非戦闘地域に安全地帯を設定し、村々の開発を促進するというものだった。タリバンの指導者たちは、アフガニスタンに米国などから何十億ドルもの資金が投入されているにもかかわらず、その恩恵がまったく村に届いていないことに憤りを感じていた。
 残念ながら、この信頼醸成措置はNATOの賛同を得られず実施されなかったが、それから数カ月後の2007年、この取組みは思わぬ形で実を結ぶことになった。ワシントンの駐米韓国大使から電話があり、タリバンの人質になっている21人の韓国人宣教師を救うためICRDに協力を求めてきたのだ。我々はマラカンドでの会合をきっかけとして構築した人脈を活用し、人質解放に貢献することができた。

テロ組織メンバーの証言

 もう一つの出来事を紹介する。タリバンは2007年頃からパキスタンの山間のリゾート地だったスワート渓谷を支配下に置いた。そこでは多くの犠牲者が出ていたが、我々は当時、渓谷の周りにある16のマドラサでワークショップを行っていた。ワークショップの終わり頃にある男性が立ち上がって発言した。あとで分かったことだが、彼は単にマドラサの指導者であるだけでなく、ムンバイ列車爆破事件などを起こしたラシュカレ=トイバというテロ組織の指導者でもあった。彼は「私がここに来た理由はただ一つ、あなたの嘘を暴くためだった。しかし今、私は怒りに震えている。なぜなら、これまで26年間クルアーンを学び、教えてきたが、私は間違った教育を受けていたことに気付いたからだ。今回のワークショップに参加して人生で初めてクルアーンの魂を感じることができた。イスラームの教えを広める正しい方法がようやくわかった。それは闘争ではなく、平和を通して広めるということだ」と述べた。そしてこれからは生徒への教え方を変え、またなぜ変えるのかも教えるという。
 彼の発言はとても勇気のいるものだった。ワークショップにはさまざまな人が参加していて、タリバンによる住民の締め付けも厳しい時期だった。もしかすると彼がテロ組織のメンバーだったため、大目に見てもらえたのかもしれない。
 この出来事からわかるのは、敵意や怒りを乗り越えれば、人は正しいことに心を動かされるということだ。そしてここで紹介した男性のように、たとえ自分が難しい立場に置かれても我々と同じ考え方で行動したいと思うようになるのだ。最初から人がどう反応するかを予想して排除してしまうのは、賢明なことではない。

マドラサの制度改革

 さらに我々は状況を改善するためにマドラサの制度的な改革にも取組んでいる。それまでマドラサには何の資格制度もなく、誰でも容易にマドラサを開校することができた。そこで我々はマドラサの指導者たちが正式な資格を得られるように大学での教育プログラムを開始した。イスラーム諸国で使用されているもっとも優れた教育内容に基づいてマドラサのモデル・カリキュラムも作り上げた。カリキュラムの使用を強制するためではなく、あくまでも彼らが参考にするためのモデルである。
 またマドラサ監督委員会を組織して教育者をトルコやエジプトに連れて行き、各国のマドラサで行われているイスラーム教育を視察してもらった。マドラサ監督委員会はマドラサを運営している5人の宗教指導者で構成されているが、彼らは当初、世俗的な人々から一体何が学べるのかと非常に懐疑的だった。ところが実際に視察をしてみると彼らはとても謙虚な気持ちで帰ってきた。トルコやエジプトのマドラサの生徒たちがパキスタンの生徒たちより実に見事に宗教的な問題に答えていたからだ。数学や科学などの科目に関しても同様だった。そして彼らは帰国後、我々が望んでいた改革にとても意欲的に取組むようになった。

5.サウジアラビアにおける教育改革

 続いてサウジアラビアにおけるプロジェクトについて述べたい。1979年にシーア派のイランでホメイニ師が政権を握ったイラン革命が起こると、スンナ派のサウジアラビアはそれに対抗してワッハーブ主義の思想を積極的に世界に「輸出」するようになった。2011年、我々は米国国務省の委託により、サウジラビアの公立学校で使われている教科書に差別的な内容が含まれていないか検証するとともに、それが世界的にどのような影響を与えているかを評価するプロジェクトを開始した。
 他のシンクタンクにも同じようなプロジェクトがあったが、それらはどれも教科書の問題のある部分を指摘して「闇を呪う」アプローチであった。それに対し、ICRDは「光を称賛」して信頼関係を築くアプローチをとった。過激思想を排除するためのプログラムなど、サウジアラビア政府がすでに実施していた改革を評価しつつ、一方でまだ取組みが不足している部分については詳細に指摘した。
 我々は検証結果をサウジアラビア側に伝えたが、彼らは驚くほど素直にそれを受け入れた。彼ら自身も問題があることに気付いていたからだろう。その後、我々はサウジアラビアの教育専門家を米国に招待し、米国の専門家と同等の立場で公教育における偏見や不寛容の問題について議論する機会を設けた。最初の会合は2015年11月にジョージタウン大学、2回目は2016年5月にサウジアラビアのリヤドで開催された。これらの会合を通じて我々は両国の政府に対する提言もまとめた。
 これまでの努力によって我々は教師たちを直接教育する道を開くことができた。教育において重要な役割を果たしているのは教科書ではなく、教師たちだ。教師がどのような教材を使い、教室でどのような態度で生徒に接しているかが重要だ。今後もこのプロジェクトを継続する。サウジアラビアの約500人の教育者を米国やカナダに招待し、海外での教育実践を経験してもらう計画もある。そのうち25名はグローバリゼーションに関する授業を担当し、寛容や多元主義、宗教リテラシーなどのテーマを扱う。
 このようなプロジェクトには大きな戦略的可能性がある。目に見える効果が現れるまで時間はかかるかもしれないが、いずれ現状を転換することができるだろう。サウジアラビア政府には若者にグローバル市場で活躍できる教育を施したいという期待がある。我々もサウジアラビアの若者をISISやアルカイダに参加させるような過激な教育は一掃したい。この二つの目標が符合して両者の協力関係が深まることを願っている。

おわりに

 我々にとっての恐怖は、宗教的過激主義が大量破壊兵器と結び付く可能性である。弾丸や爆弾は復讐のサイクルを加速化させ、より多くのテロリストを生み出す。しかしテロや過激主義の泥沼から脱出するために必要なのは、銃の背後にある人びとの思いを明らかにし、彼らの心をつかむことである。それこそが、「信仰に基づく外交」(Faith-Based Diplomacy)を通じて我々が成し遂げようとしてきたことだ。これは政治と宗教を統合し、アラーが喜ばれる共同体を地上に築くことを目標とするムスリムの人々も共鳴できる考え方ではないか。

(本稿は、2018 年12 月11 日に開催した国際会議「ILCJapan 2018」における講演を翻訳してまとめたものである。)

 

*1 Religion, the Missing Dimension of Statecraft(Oxford University Press, 1994). 邦訳版『宗教と国家—国際政治の盲点—』(PHP,1997年).

*2 Religion, Terror, and Error: U.S. Foreign Policy and the Challenge of Spiritual Engagement (Praeger , 2011).