コロナ禍と教育学
2020年に発生したいわゆる「コロナ禍」について、教育学は何が語れるのか。教育学者は、こう問われるなら、おそらく答えに窮してしまうだろう。教育学にできることといえば、せいぜい、授業や入試のオンライン化の方法と課題についてか、世界標準の9月入学の導入の可能性について、語ることくらいだろうか。コロナウイルスに対するワクチンや特効薬の開発にしても、医療体制の人員的・設備的な充実にしても、緊急事態宣言の発令・解除にしても、教育学に語りうることはほとんどないだろう。そして、喫緊の問題は、人びとの・自分たちの「いのち」を守ることであり、また収入収益の途絶、生産消費の縮小などがもたらす経済問題・社会問題に迅速に対応することである。
そもそも、教育という営みは、生存の維持・快復をめざす医療の営みだけでなく、収益の確保・増大をめざす経済の営みや、社会秩序の維持・再生をめざす政治の営みなどから基本的に区別されている。端的にいえば、教育学の語ってきた教育が、理念としての「人間性」(道徳性)を追求する営みだからである。現代の業績・収益競争のグローバル化のなかで、理念としての「人間性」は、あまり語られなくなっているが、それでも、それは、人が人間として生きるうえで看過しえない重要な理念である。教育学が、人が一人ひとりよりよく生きることへの支援を語り示す知的営為であるとすれば、教育学は、どんなに看過され、軽視されようとも、この「人間性」という理念を語らなければならないだろう。
そう考えるとき、教育学は、現下のコロナ禍を通じて、思考されるべき思考について語ることができる、といえるだろう。自然的であれ、人為的であれ、この厄災が、人はいかに人間的(道徳的)でありうるか、という問いを喚起するからである。コロナ禍であれ、震災であれ、危機的情況に対する人の対応は、さまざまであるが、そのなかには、規範(法律・習俗・通念など)とは無縁でありながらも、深い意味で人間的なものがふくまれている。それは、端的にいえば、危機的情況に対しけっして諦めず、無心に他者を支援しようとする行動である。何が、そうした無条件の支援を生みだすのだろうか。
自発的な連帯
無条件の支援をさす言葉の一つが、「コロナの時代の連帯」(Solidarity in the age of Corona)といわれるときの「連帯」である。この「連帯」は、しばしば「自発的」(spontaneous)と形容されている。たとえば、2020年5月31日に放送されたNHKの番組「世界同時ドキュメント——私たちの闘い」(nhk.or.jo/special/plus, 28/05/2020)でも、「自発的な連帯」という言葉が使われていた。同番組では、イタリア、フランス、アメリカ、そして日本で、人びとがコロナ禍のなかで、自発的に他者を支援する様子が紹介されていた。それは、たとえば、オペラ歌手が自宅のベランダで歌を歌い、人びとを勇気づけること、まったくの他人が失業し困窮する人に食料を贈ること、そしてカンザスやオクラホマから看護師がニューヨークの病院に支援に向かうこと、などである。
この「連帯」について、ドイツの国際的な公共放送機関であるドイチェ・ヴェレ(Deutsche Welle)のホームページに、ファーギン(Julia Vergin)が「連帯——コロナウィルスはいかに私たちを支援に向かわせるか」(Solidarity: How the coronavirus makes us more willing to help ?)という論考を寄せている(www.dw.com, Top Stories, 31/03/2020)。彼女は、そこで「コロナウィルスは、商品買い占めや自暴自棄の騒ぎなど、怯えと利己的な行動を生みだしたが、同時に、連帯、すなわち支援と共感を副次的に生みだした」と述べている。「自分第一」(me first)は、だれの心にもある傾きであるが、「支援の意思」(willingness to help)も、ごく自然に人びとの心のなかに生まれてくる、と。支援は、フェイスブックであれ、掲示板であれ、多様なメディアを通じて表明されている。その中身も、飼い犬の散歩の手伝いから、病院でのボランティア活動にいたるまで、さまざまである、と。
なるほど、見えるところだけ見れば、人は、利己的な人(egoist)と、愛他的な人(altruistに分かれるように見えるが、見えないところを見れば、人は、利己的でもあれば、愛他的でもある。どちらも、一人ひとりがもっている選択肢である。この記事は、「原社会性」(the prosocial)という、心理学の言葉を引きながら、「私たちは、[本来的に]だれかをよりよい状態にしようとし、その苦しみを減らそうとする」といい、この原社会性が「愛他的」と形容される動因である、という。愛他的を選ぶとき、人は他者の立場に立っている。それが「共感」(empathy/symathie)・「共苦」(compassion/souffrance avec)と呼ばれる、心のはたらきである。それは、人が基本的にもっている心のはたらきであり、他者とのつながりを深める契機である。共感・共苦のもとで、私は他者の思いを知ることで、自然に他者と協働するからであり、その協働の経験のもとで、他者は私の思いを知ることで、自然と私を支援するからである。つまり、「互酬性」(reciprocity)が生じるからである。
連帯と共存在
この「連帯」は、「国際社会はパンデミックの収束に向けて連帯するべきだ」という、もっともらしい政治的発言のなかの「連帯」ではない。すなわち、宣揚される規範としての「連帯」ではない。原社会性としての連帯は、所与の心の営みとしての「連帯」である。この連帯を生みだす共感・共苦の基礎を、ヨーロッパの古い思想・哲学のもとで語るなら、それは、原始キリスト教思想の「存在」である。すなわち、いのちあるものが生動的・力動的に生きている状態である。それは、ラテン教父のアウグスティヌス、スコラ哲学のトマス・アクィナスが用いた言葉でいえば、「エッセ」(esse)である。人は、この「存在」ないしエッセが、この人として限定された固有な状態であり、その限定された固有な状態は、「エンス」(ens)と呼ばれてきた。このエンスは「存在者」と訳されている。存在論で有名なハイデガー(Martin Heidegger)のいう「存在」(Sein)は、およそエッセに重ねられ、「存在者」(Seiende)ないし「現存在」(Dasein)は、およそエンスに重ねられる。
この「存在」は、基本的に他者とともに在ることをふくんでいる。人とであれ、他の生きものとであれ。ハイデガーは、『存在と時間』(Sein und Zeit, 1927)のなかで、このともに在ることを「共存在」(Mitsein)と呼んでいる。それは、協働作業や相互扶助のような、具体的に見える活動ではなく、私たちの何気ない「気遣い」(Sorge)の理由を考えるときに象られる生の様態である。すなわち、私たちの心のなかに生まれる、思わずだれかを助けよう・支えようとする意思から、その理由として思い浮かべられる、生の本来的様態である。なぜ私は苦しんでいるあなたを助けようとするのか、それは、私とあなたが深いところでつながっているから、すなわち、ともに一つの唯一の贈られ与るいのちとして生きているから、というふうに。この共存在という生の本来的様態は、実験によって検証されうる事実ではないが、遡及によって思考されうる事実である。
この共存在は、実効性とは無縁である。すなわち、何らかの成果(利益)をもたらす機能的な「協働」「共同」ではない。「パンデミックの収束に向けた連帯」は、実効的であるが、共存在の連帯は、無力的である。「希望の神学」を説いたことで知られる、モルトマン(Jürgen Moltmann)の『無力の力強さ』(Ohne Macht mächtig, 1981)に依りながらいえば、共存在の連帯は、人が自分の苦難を担うことで、他者とともに在ることである。それは、他者の苦難を軽減することではなく、他者の苦難を受容可能にすることである。苦難が受け容れがたいのは、それをたった一人で担わなければならないからである。
むろん、他者の苦難を軽減できたり解消できたりするなら、それに越したことはないが、人の能力は、きわめて限られている。「なすすべがない」という事態は、いくらでもある。規範として要請される「連帯」は、このなすすべがないという障壁を前にして、終了するが、存在として生成する連帯は、この障壁を前にしてこそ、開始される。いいかえれば、実効性を前提にした「連帯」を説く人は、どんなにもっともらしく成果主義・経済優先を批判していても、成果を挙げることができないと判断した瞬間に、苦難を生きる人を、簡単に見捨ててしまうだろう。「どうしようもありませんから」と。しかし、共存在を前提にした連帯をただ無心に行う人は、何も言わずに、実効性の多寡にかかわらず、苦難を生きる人に、寄り添い続けるだろう。何もできないという悔しさを押し殺しながら。
しかし、存在としての連帯は、他者の苦難に対し、それを慰撫することで応えることではない。いいかえれば、それは「憐憫」(compassion)ではない。多くの場合、「憐憫」は、苦難を生きる人とともに生きることではないからである。すなわち、だれかを憐れんだり同情したりする人は、しばしば、自分もまた「独り」であり、苦難を生きているという自己認識を欠いているからである。仕事がある、収入がある、家族がいる、財産がある、といった通念の豊かさによって、自分がいのちを贈られ、それに与り、「独り」生きているという事実を忘却ないし無視しているからである。
実際には、どんなに友だちがたくさんいても、家族に囲まれていても、人は、どうしようもなく「独り」である。人のいのちが唯一であり出来し消失するからであり、その事実に対し人がまったく無力だからである。自分が「独り」で在ることは、同じく他者が「独り」で在ることを深く知ることによってのみ受け容れられ、引き受けられる。端的にいえば、生のなかで死をまなざす人のみが、苦難を生きる人に寄り添い続けることができる。それは、ときに、かける言葉を失い、呆然と立ち尽くすことかも知れない。しかし、その無力さを「情けない」と嘲り誹ることは、実効性の論理、いいかえれば、強さの力に染まった思考のなせるわざである。
独りともに在る
ここでいう「独り」(solitude)は、「孤独」(loneliness)から区別される。語源についてふれておくなら、solitudeの語幹の意味は、ラテン語のsolus(ソールス[ひとり])であり、lonelinessのそれは、古英語のan(アーン[ひとつ])であり、ほとんど同じであるが、前者のsolus は「独力」「独特」といった肯定的意味ももっている。その意味は、フランス語の「ソリスト」(soliste 独唱者・独奏者)に引き継がれている。
先に述べたように、ここでいう「独り」は、唯一のいのちを贈られ、それに与り生き、死んでいくこと、その事実に対し無力であることを意味している。したがって、英語圏でいわれている「ひとりを楽しむ」(enjoy solitude)という意味の「ひとり」ではない。そして、この「独り」に対し、「孤独」は、人は「独り」であるという了解が欠如し、無条件に人を支え助けるという無心の営みが失われるときに、人が追いやられる情況である。存在としての連帯、人におよそ本来的に備わっている心のそのはたらきが、何らかの理由で看過され忘却されているときに、人は、人を「孤独」に追いやる、といえるだろう。
また、「独り」は、同質性とも異質性とも無関係であるが、「孤独」は、だれもが同質性を求めるなかで際だってくる異質性と一体である。同じ学校、同じ民族、同じ言語、同じ文化といった同質性は、「私たち」として人と人を結びつけるが、その同質性のなかで、違う学校、違う民族、違う言語、違う文化といった異質性をもつ人は、「よそ者」として「私たち」から遠ざけられたり、押しのけられたりする。同質的である「私たち」は、その結びつきのなかで安心するが、異質的である「よそ者」は、その結びつきを欠いて不安になる。一般に、同質的である「私たち」の結びつきは、自然なものと見なされ、たえず求められるから、そのなかに入れない異質的である「よそ者」の不安は、たえず昂進されていく。「孤独」は、このたえず昂進される不安と一体である。
心で象る力
こうした同質性/異質性という社会的区別から無縁である「独り」は、存在論的な生の様態である。今一度繰りかえすなら、いのちあるものがそれぞれに唯一であり、しかも自己の思惑を超えて生成し消滅することである。この存在論的な認識を分有するとき、人は、自分が他者と共存在していると了解する。この共存在は、あの社会的区別とは無関係に、人と人が無力の力強さとともに、まじわることを含意している。それは、いのちとして同等ないし同根であるものたちの、生き生きとしたまじわりである。
もしも人が、独り・共存在という存在論的事実を心で象る力を失うなら、人間性を語るための概念、たとえば、「愛他」「徳性」などは、時代遅れでうさん臭い規範か、教条主義的に強要されるそれにしかならないだろう。同じように、「歓び」「幸せ」なども、使い捨てられる泡沫的な快楽や、閉ざされた集団の微温的な慰撫にしかならないだろう。存在論的事実を象る力は、人がより豊かに生きるうえで、欠かせない力である。
しかし、現代社会おいては、有能性・有用性としての「能力」(capacity/ability)がつねに求められているが、学校や職場で求められるそうした「能力」のなかに、この独り・共存在を象る力はふくまれていないように思われる。それは、時代の趨勢だろうが、そうした趨勢に逆らっても、語るべきこともある。存在論的思考は、そうした反時代的に語るべきことである。ようするに、存在論的思考は、自発的な連帯を可能にする思考であり、より「人間的」(道徳的)に生きることを考えることそのものである。