フランスの軍事介入の失敗とマリ分裂の危機

フランスの軍事介入の失敗とマリ分裂の危機

2024年1月26日
はじめに

 カダフィを葬ったリビア内戦の余波は最初にマリに波及した。カダフィ軍に雇われていたマリ北部の少数民族トゥアレグ人の傭兵が大挙してマリに帰国し、反乱(トゥアレグ第4次反乱)を起こしたのである。この混乱に乗じてマリに入った過激なイスラミストは、当初はトゥアレグ反乱に加担していたものの、間もなく国全体をシャリア法で支配しようと首都バマコを伺うまでになった。風雲急を告げる事態に及んで、宗主国フランスはマリの要請に応じ、軍事作戦を開始して彼らの掃討を試みたが、約10年に及ぶフランスの軍事作戦(2013年1月から山猫作戦、次いで2014年8月から三日月の砂丘作戦を開始したが、2022年8月マリから完全撤退)は大失敗に終わり、混乱は激化してサヘル諸国全域に広がってしまった。(フランスが山猫作戦から三日月の砂丘作戦に転じるに当たって)マリの治安の維持・回復を担った国連マリ多元統合安定化ミッションも(United Nations Multidimensional Integrated Stabilization Mission in Mali:MINUSMA 以下MINUSMAという)、多くの犠牲を出しながら任務を果たせないまま終了した。
 マリはこれで新たな局面に立ち向かうことになったが、トゥアレグ反乱勢力は再びマリ政府に宣戦を布告し、過激なイスラミストは(マリ政府が治安維持を依存するワグネルを違法な存在として)自らの攻撃を正当化すると共に、(フランス軍やMINUSMAの撤退による)治安の空白をついて支配地を広げようと活動を活発化させており、マリは国の分裂・解体の危機さえ叫ばれるようになった。
 マリがこのような現況に至った経緯と原因は何だろうか。また、将来マリはどうなるのだろうか。以下では、それを検討してみよう。
 なお、「サヘル地域の中央(世界の辺境の地)に位置する最貧国マリの情勢など世界の大勢に関係ない」と断ずるのは誤った見方である。マリの混乱は、逆流してリビアなど北アフリカ諸国に及んで対岸のヨーロッパにも危険が迫る可能性があり、また、中東にも飛び火しかねないからである(図1)。

1.マリという国

 まずはマリという国を見てみよう(図2)。

 マリは貧しい内陸国で(国土は約124万平方km、人口は2259万人(2022年世銀)、人口の約80%はイスラム教徒、一人当たりGNIはUS$ 850)、その特徴として挙げられるのは、①1992年に複数政党制の民主選挙を実施してから2020年の軍事クーデタで軍政に至るまで、選挙による政権交代を維持してきた西アフリカ最古の民主国家で(注1)、②金が豊富でその生産が国家経済の屋台骨を形成しており(注2)、③独立から数次にわたり北部の少数民族トゥアレグ人の反乱に悩まされてきたことである(注3)

2.マリに及んだリビア内戦の混乱

 カダフィはマリのトゥアレグ人を多く傭兵としてカダフィ軍に雇い入れていた。彼らは、リビア第1次内戦も半ばを過ぎると大挙してマリに帰還するようになった。彼らを率いたのが、トゥアレグ人傭兵で、リビア南部の街セブハーに駐留していた元カダフィ軍大佐Mohamed Ag Najemである(注4)。彼は、リビアから帰還したトゥアレグ人兵士を中心にマリ北部の若者やマリ軍を脱走したトゥアレグ人兵士も加えて(注5)アザワド解放民族運動(National Movement for the Liberation of Azawad:MNLA 以下MNLAという)を組織し、マリ北部(Azawad=アザワドとはマリ北部、具体的にはトンブクトゥ州、キダル州、ガオ州の3州全域)の独立を明確な目標として2012年1月17日に第4次トゥアレグ反乱に立ち上がった。
 MNLAは、第1次〜第3次のトゥアレグ反乱が失敗に終わった過去に学んで良くまとまっており、中心メンバーはリビア内戦で戦った経験を持ち、リビアから流れてきた多くの武器で武装していた。他方、マリ軍は、訓練も行き届かず装備も貧弱だった上、予想を超えた事態に驚愕してとまどった。そのため、マリ軍は、MNLAに上手を取られ苦戦した。さらに反乱が起こって間もなくの2012年3月22日、下士官兵士ら一部が、「政府の反乱鎮圧政策は手ぬるい」として騒動(小規模な軍事クーデタ)を起こし、一時、アメリカがこれを支持する挙に出たため、マリ軍は一層苦戦を強いられ、窮地に追いやられた。AQIMら過激なイスラミストは(注6)、この混乱を好機到来と見てマリ北部に入りMNLAと協力してトンブクトゥ(Tombouctou)、キダル(Kidal)、ガオ(Gao)などマリ北部の主要都市を占領し、2012年4月6日にマリ北部の独立を宣言した(Azawad独立宣言)。ところが、同年6〜7月になると、AQIMら過激なイスラミストは、MNLAの兵士に襲いかかった。彼らは、マリ北部に留まらずマリ全体を厳格なシャリア法によって支配することを目的にしており、穏健なイスラムを信奉しマリ北部に限った自治ないし独立を掲げるMNLAとは相容れず、MNLAに対する協力は、所詮、自己の目的達成のための手段でしかなかったからである。彼らは、ここに来て本領を発揮し、超過激なシャリア法に基づく支配を宣言してマリ北部を自ら支配し始め、さらにマリ南部を窺うまでになった。
 このような事態になるに及んで、マリ政府は自らの力だけでは鎮圧できないと判断して旧宗主国フランスに軍事介入を要請した。フランスはこれに応じて、2013年1月11日から山猫作戦(Operation Serval 2013年1月11日〜2014年7月15日)を始めた。フランスが軍事介入に踏み切った理由は、①過激なイスラミストの安全な避難場所がマリ周辺地域にできれば、そこを基地としてフランスをはじめとするヨーロッパ諸国がテロ攻撃を受ける恐れがあるので、避難場所ができるのを防止するため、及び②近時、この地域で影響力を増してきた中国やアメリカに対抗してフランスの影響力を維持するためとされるが、最も重要な理由は③フランスの原子力発電は、かなりの部分をニジェールのアガデスから産出されるウランに依存しているところ、それを守るためで、オランド大統領は山猫作戦の部隊とは別にアガデスで稼働するフランス国営会社AREVAを守るため特殊部隊(Special Forces)をアガデスに派遣した(注7)
 山猫作戦が始まると、フランス軍は、装備と戦闘能力など軍事力においてAQIMら過激なイスラミストより遙かに優れ、旧植民者としてこの地を支配した経験も豊かだったため、間もなく彼らを圧倒してトンブクトゥ、キダル、ガオなどマリ北部の主要都市を取り戻した。しかし、AQIMら過激なイスラミストの殆どは、山猫作戦で殲滅されたわけではなく、周辺のサヘル諸国に逃げ込んだだけだった。また、フランスが山猫作戦の協力者として(マリ軍ではなく)MNLAを選んだことは、後述のとおり禍根を残した。
 フランスは、過激なイスラミストをマリから追い出した後、マリの治安の維持・回復をMINUSMA(注8)に任せ、2014年8月はじめからG5サヘル諸国(チャド、ニジェール、マリ、ブルキナ・ファソ、モーリタニアのサヘル5ヵ国)を対象にした三日月の砂丘作戦(Operation Barkhane 2014年8月1日〜2022年11月9日)に転じた。フランスが三日月の砂丘作戦に転じると、周辺のサヘル諸国に逃げ込んでいたAQIMら過激なイスラミストはマリに戻ってMINUSMAを十字軍占領部隊(Crusader Occupation Forces)と呼んで激しいゲリラ攻撃のターゲットにし、多くの隊員を殺害した(MINUSMAは、国連レバノン暫定駐留軍に次いで史上2番目に危険な国連平和維持軍となった)
 三日月の砂丘作戦は、時期によって数にばらつきはあるものの、約5000人のフランス兵を派遣して戦ったフランス史上最大の海外軍事作戦で、無人偵察機によって過激なイスラミストを発見・殲滅する作戦の他、サヘル地域諸国の強権政権と組んで、G5サヘル諸国の兵士の対テロ能力向上を目指した訓練を行った。
 しかし、その成果として挙げられるのは、過激なイスラミスト集団のリーダーらの殺害に成功したことくらいで(注9)、過激なイスラミストによる報復テロ攻撃を多く招来した他、彼らの攻撃はむしろ増加して全体としては大失敗だった(注10)。そのため、フランスが軍事介入を始めたときには諸手を挙げて歓迎したマリ人一般市民も、軍事作戦の失敗で社会の混乱に拍車がかかってくると、「フランス軍は自国のために戦っている。出て行ってもらいたい」とケイタ大統領とフランス軍に対する失望と反感を示すようになった(注11)。マリ軍も、「ケイタ大統領は治安の回復に無為無策だ」と政権に対する批判を強めると共に、「フランス軍はマリ軍を差し置いてMNLAを山猫作戦の協力者として選んだ。そのためにMNLAとマリ当局の和解は困難になった。また、マリの実情に合わない作戦を上から目線で指図してくる」とフランス軍を嫌悪するようになり、ワグネル(Wagner group)の支援を望むようになった。このような一般市民やマリ軍の認識を背景に、アシミ・ゴイタ(Assimi Goita)大佐は、2020年8月に軍事クーデタを起して事実上実権を握り、再度2021年5月軍事クーデタを起こして暫定大統領に就任すると、フランス軍の引き揚げを要請しワグネルとの協力関係を模索し始めた(注12)
 ここに来て従来から悪化してきたマリとフランスの関係悪化は頂点に達し、2013年1月11日から始まったフランスの軍事作戦は、多くの犠牲を出しながら(注13)成果を出せないまま2022年8月15日にマリから全軍が引き揚げ、同年11月9日にG5サヘル諸国からも引き揚げて終了した(注14)
 MINUSMAに対しても、治安の悪化に伴って、マリ人一般市民は、「MINUSMAの部隊の近くで自分たちが過激なイスラミストの攻撃にあっても救援に来てくれない。むしろMINUSMAがいるために攻撃が起きている」と不満をもらすようになった。こうしてMINUSMAも多くの犠牲を出しながら、治安回復や一般市民の保護の任務を果たせないまま、2023年12月11日に全ての任務を終えた。

3.なぜフランスの軍事作戦は失敗したのか

 マリが混乱するようになったきっかけは、リビアからのトゥアレグ人帰還兵を中心に形成されたMNLAが第4次トゥアレグ反乱を起こして過激なイスラミストの侵入を招いたからである。それまでにもマリは度々トゥアレグ反乱に悩まされ混乱を経験してきた。したがって、将来とも国の治安を維持し、過激なイスラミストに付け込まれないためには、トゥアレグ人反乱勢力とマリ政府の恒久和平を実現することが必要不可欠である。
 ところが、フランスは、従来からくすぶり続けてきたトゥアレグ人とマリ政府の対立を内政問題として不介入の態度をとり、山猫作戦の協力者としてマリ軍ではなくMNLAを選んだ。フランスはトゥアレグ人と植民地時代から協力関係にあり、バマコの政府を牛耳る黒人より有能と見ており、トゥアレグ人のMNLAと協力するのが手っ取り早いと考えたからである。そこには、時間はかかっても、確実に目的を達して平和を永続させようという配慮はなかった。そのため、MNLAは山猫作戦後に勢いを増し、MNLAとマリ政府との関係は従前より一層こじれて両者の恒久和平を一層困難にした(注15)。これはフランスの軍事作戦が失敗した第一の理由である。
 第二の理由は、フランスの軍事作戦は、貧困や民族・部族対立など根本原因に手をつけず、むしろ悪化させていることである。例えば、この地域の住民は永年にわたって密貿易で生計を立てているのに、フランス兵がいきなりやって来て対テロ作戦と称して代替手段を提供することもなく国境警備の強化を行うなどしたため、地域住民は生活の手段を奪われ、イスラミストの新兵募集の誘いにのらざるを得えなくなる矛盾を生んでしまった。また、この地域では従来から放牧地や水資源をめぐる争いが絶えず、気候変動も手伝って争いが先鋭化しており、争いに負けて生活に困窮した民族・部族による報復攻撃が良く起こる。こうした報復事件の殆どは、過激なイスラミストが被害部族に接近して彼らに加担し彼らを率いて引き起こしている。そこで、フランス軍は、表面的に過激なイスラミストによる攻撃と捉えて撲滅作戦をとり、裏に潜む水資源などをめぐる部族間の争いを等閑視して放置するため、過激なイスラミストと被害民族・部族をさらに接近させ、新たなイスラミスト生んでいるなどである。
 こうして三日月の砂丘作戦を実施するため2014年に生まれたG5サヘル諸国の同盟も、マリに次いで、2023年12月2日にブルキナ・ファソとニジェールが抜けて解消した。解消に当たってG5サヘル諸国は、「三日月の砂丘作戦は、地域をより安全にするという目的の達成に失敗した。最悪なのは、植民地時代のように過大な影響力を行使しようとしたフランスの姿勢でダメになったことだ」と述べた(注16)
 その他、結婚式を過激なイスラミストの集会と誤認して攻撃する誤爆や(注17)、標的を間違わなくても副次的損害という名の一般市民の巻き添え被害を招くことも多く、それも新たなイスラミストを生む要因になっている。
 したがって、時間と手間がかかっても、マリ政府とトゥアレグ人の恒久和平に向けた支援をすること、過激なイスラミストが生まれる根本原因を軽減するよう手を差し伸べることが大事で、それ以外の特効策などない。
 そもそも広大なサヘル5ヵ国を動き回っている過激なイスラミストを一網打尽にすることなど無理な話で、むしろ副次的損害を多く出すなど逆効果である。それよりも、過激なイスラミスト集団のリーダーらに的を絞った殺害(targeting killing)にしていれば、リーダー殺害で部下戦士の集団からの離脱を招来することができ、過激なイスラミスト集団の勢力を削げたはずである。

4.軍事クーデタ後の急激な治安の悪化

 ゴイタは2020年8月に軍事クーデタを起こして事実上実権を握ると、「無為無策なケイタ大統領に替わって、悪化する治安に有効に対処する」と述べた。一般市民が軍事クーデタを歓迎したのも、それを期待したからだった。果たして軍事クーデタ後のマリの治安は改善したのだろうか。
 結論を先に言えば、マリの治安は2015年から年々悪化していたが、ゴイタが事実上実権を握った2020年8月からさらに悪化し、悪化のスピードは2021年末のワグネルの侵出で加速し、2022年2月のフランス軍の撤退宣言(注18)と2023年6月のMINUSMAの撤退宣言で急加速して今日に至っている。過激なイスラミストは、ワグネルを違法な存在と見て自らの攻撃を正当化し、フランス軍やMINUSMAの撤退によってできる治安の空白を利用して自らの勢力を拡大しようと勢いづき、いずれも攻撃をエスカレートさせているのである。
 現在(2023年10月)とゴイタが実権を掌握した2020年8月を比べると、過激なイスラミストの攻撃は、件数で3倍、一般市民を狙ったそれは5倍になっただけでなく、過去10年間ほぼ安全だったマリ南部さらには首都バマコの直ぐ近くにも及んでいる。特に、金採掘で有名なケーズ州の金採掘会社は、「資源を略奪している」と非難され、過激なイスラミストの攻撃に晒されている(注19)。現在トンブクトゥ州の主な街はJNIMの支配下にあり、ISGSもこの1年間で支配地域を3倍に増やしマリ東部を支配下に収めている(注20)

5.ワグネルのマリ侵出

 ワグネルは、撤退が予定されたフランス軍の間隙をぬうように、2021年12月から契約民兵(Private Military Contractors:PMCs)約1000人をマリに侵出させた。以来、ワグネルは、軍幹部会(junta)に係わる施設や人の警備・警護の他、治安の維持に当たっている。具体的には、過激なイスラミストやトゥアレグ反乱勢力と戦ってマリ北部や中部に当局の支配が及ばない地ができるのを防止し、マリ南西部の金採掘会社が安全操業できるよう活動している。しかし、上記4に述べたとおり、ワグネルの侵出で治安は改善するどころか反対に急速に悪化し、一般市民の犠牲者も著しく増加した(注21)
 ところで、ワグネルは、リーダーのプリゴジンの動静(2023年6月に反乱を起こし、同年8月23日に死亡)に係わらず活動を続けているのみならず、将来とも続ける見通しである(注22)。ワグネルは、ロシア政府から2023年5月までの1年間に約10億US$を得ており、それは、400もあるとされるプリゴジンの関連会社から得る合計額よりも多く(注23)、プリゴジンの率いる民間会社というよりも、ロシア政府の下で働くロシア軍別働隊であることの当然の帰結である。
 それにしても、なぜ、ロシアは、遠く離れ気候も風土も全く異なるマリにワグネルを侵出させて治安の維持に当たっているのだろうか。理由の一つは、割の良い仕事だからで、ワグネルは、現在、1ヵ月約US$10 millionの支払い(傭兵1人1ヶ月当たり1万米ドル)をマリ政府から受けており(注24)、それはロシア本国での兵士の報酬の約4倍に当たる。もっと重要な理由は、ワグネルが、軍幹部会(junta)にとって喫緊の最重要課題である治安の維持に関わることによって、ロシアがマリの政治にある程度の影響力を持てるからである(注25)
 しかし、ロシアは現状で満足しているわけではなく、経済的利益もマリに対する影響力も一層増大して確実なものにするのを切望しており、マリ経済の屋台骨を形成する金の採掘権を得ようと画策している(注26)

6.マリの将来:国家分裂の危機

 マリの将来を考えるとき、論点の一つは、一般市民の民意を反映した民政に戻れるか(特に多くの一般市民から支持された民主政府を創ることができるか)である。ゴイタは、2020年8月の軍事クーデタで事実上権力を掌握したときには「速やかに民主制に戻る」と約束していた。しかし、民政への移行を迫る国際社会に対し、ゴイタは、「その前に憲法改正が必要だ」として、大統領権限を大幅に強化した憲法草案を2023年6月18日に投票率38%の国民投票に付して憲法改正を断行し(注27)、2023年9月には「有権者リストの見直しが間に合わない」などとして大統領選挙を延期した(注28)。現在、ゴイタは権力の座に留まることと自らの権限拡大にもっぱら力を傾注しており、選挙の見通しは立っていない。
 次は最も重要な論点で、過激なイスラミストやトゥアレグ反乱勢力に打ち勝って、治安を回復できるかである。
 マリの治安はゴイタが事実上実権を握ってから悪化の一途で、ワグネルの侵出、フランス軍の撤退、MINUSMAの撤退と階段を上るように急速に悪化の速度を早めて今日に至っている。このような情況を転換するには、民意に支えられた強力な政府がことに当たらなければ無理なことは多言を要しないところ、上記のとおりゴイタは一般市民の信頼を失いつつあり、マリの治安回復をワグネルの支援に頼っている(ワグネルの存在はトゥアレグ反乱勢力や過激なイスラミストを勢いづかせるだけで彼らの攻撃を押さえ込むことには繋がっておらず、一般市民はワグネルの活動に反発し、その支援を受けるマリ当局に対しても信頼を失いつつあり、従来得られた情報提供などの協力も得られなくなっている)。このような情況では、将来、治安はさらに悪化し、国家分裂の危機が迫っていると言う他ない。
 その他、①現在のマリの情況(フランス軍もMINISMAも引き揚げた現在のマリの情況)は、第4次トゥアレグ反乱が起こり、その混乱に乗じて過激なイスラミストが入り込んでマリ軍と対峙していた当時の状況(2012年1月16日に第4次トゥアレグ反乱が始まってから2013年1月11日にフランスが軍事介入するまでの情況 以下、当時という)に似ているところ、現在は当時と違ってトゥアレグ反乱勢力(CMA)と過激なイスラミスト(JNIM)の両者が協力してマリ軍を共通の敵として戦っていること(注29)、及び、②戦いの帰趨は結局のところ武器弾薬の総量が物を言うところ、マリ軍はトゥアレグ反乱勢力や過激なイスラミストと比べ決して優位でないことも(注30)、上記の結論を裏付けている。
 マリ分裂の危機は、周辺国のブルキナ・ファソやニジェール、チャドなどにも波及してこの地域全体が不安定化すると共に、リビアなどにも逆流して対岸のヨーロッパにも悪影響を与える恐れがあり、今後の動向が注目される。

(2024年1月14日)

 

注釈

注1:マリは1898年にフランスに征服されて仏領スーダンの一部になり、1960年にフランスから独立した。マリに複数政党の民主制を導入した1992年憲法制定の経緯、独立後の政権交替の歴史は以下のとおりである。
 初代大統領には、中世に栄えたマリ帝国の基礎を築いたKeita王朝の直系子孫ケイタ(Modibo Keita 大統領在位期間1960/6/20〜1968/11/19)が就いた。彼は、アフリカ社会主義を掲げて国家建設に励んだが、貧しさから抜け出せず、経済運営に対する国民の不満がふくらんでいった。
 この国民の不満を背景に1968年にトラオレ(Moussa Traore中尉 大統領在位期間1968/11/19〜1991/3/26)が軍事クーデタを起こし、反対派を禁圧して大統領任期を2期に限る憲法を改正して独裁制をしいた。経済的には、ケイタのアフリカ社会主義の一部を修正し、ソビエトとの関係を維持しながらも、穀物市場の自由化や国有企業の改革などを行った。しかし、1970年から約20年間サヘル地域一帯を襲った干ばつの影響もあって、1980年代初頭を底に穀物生産は落ち込み(”Cereal production in Mali 1960-2007”, Data from FAO; “Malnutrition in Mali from 1961-2007”, calculated from FAO Data)、人口増加も手伝って貧困者が増えて国民の生活情況はケイタ時代より悪化した。そのため、次第に独裁制に対する批判と複数政党制導入の要求が高まっていった。1991年3月にバマコで起こったデモは大規模なものに発展し、約150人が殺されて大統領親衛隊長トゥーレ(Amadou Toumani Toure)がトラオレを逮捕する事態に至り、23年に及ぶ軍事独裁政権は終焉した。
 トラオレ独裁政権終了後トゥーレが臨時政府議長になり、1992年1月に複数政党制を導入した憲法が国民投票で圧倒的多数の支持を得て制定され、同年4月に選挙が行われて教育者兼研究者のコナレ(Alpha Oumar Konare 大統領在位期間1992/6/8〜2002/6/8)が大統領になった。
 コナレの後継選挙ではトゥーレ(Amadou Toumani Toure 大統領在位期間2002/6/8〜2012/3/22)選ばれたが、後述のトゥアレグ第4次反乱に対する政府の対処が生温いと不満を持つ一部の下士官兵士による騒乱(小規模な軍事クーデタ)により任期終盤で辞任した。他方、騒乱を起こした軍下士官らは、政権担当能力に欠ける跳ね上がりにすぎず、間もなく政権の座から降ろされ、再び2013年に複数政党制による選挙が行われた(この選挙に至るECOWASの活動については注9参照)。
 2013年の選挙で新たな大統領に選ばれたのが、パリ第一大学で教鞭をとったこともある研究者ケイタ(Ibrahim Boubacar Keita 大統領在位期間2013/9/4〜2020/8/18 IBKの略称で呼ばれることが多い)である。ケイタは2018年に再選されたが、治安の悪化などに対する国民の不満が噴出し(注11参照)、2020年8月ゴイタ大佐の軍事クーデタで辞職した。こうして、西アフリカ最古のマリ民主制を支えてきた1992年憲法は、2020年8月のゴイタによる軍事クーデタで終わりを告げた。
 ゴイタは2020年8月の軍事クーデタで事実上実権を握ったが、再び2021年5月に軍事クーデタを起こして自ら大統領になり、1992年憲法に替えて大統領権限を大幅に強化した2023年憲法を制定し(注27参照)、現在に至っている。

注2:金の主な生産国は、中国、オーストラリア、ロシアで、いずれも世界の約10%を生産し、次いでカナダ、アメリカが続いている。マリの他、南アフリカ、ガーナ、ブルキナ・ファソ、タンザニア、スーダンなどアフリカ諸国も2022年現在、世界20位以内の金生産国である。世界の金生産量は国毎・年毎に変化が激しいので一概に言えないが、マリの金生産量は、過去20年間に急速に伸び、2022年は世界15位・世界の約2%で(Gold production in Mali and major projects, Global Data, 28 June 2023)、金生産はマリのGDPの約9%、歳入の約1/2を占めている(Miners hope to keep ‘gold shining’ in Mali despite ownership law, Reuters, 23 Aug. 2023)。また、マリは、金鉱脈の多くが露天掘りで生産コストが極めて安く、金の埋蔵量もガーナに次いで西アフリカ第2位である。
 金の採掘は、工業的規模のものは、マリ全体の77%を生産するケーズ(Kayes)州の他、クリコロ(Koulikoro)州やシカーソ(Sikasso)州など南西部に集中しており(図2参照)、カナダのBarrick GoldやB2 Gold、オーストラリアのResolute Mining、南アフリカのAngloGold Ashanti、イギリスのHummingbird Resources)など外国企業が金採掘事業を独占している。北部の金採掘は、貧しいマリ人による小規模採掘が殆どで、そのような金鉱山はキダル州やガオ州に300〜350も存在し、2016年から急成長した。なお、キダルでは2000年代半ばからは工業的規模の金採掘も行われるようになった。金の採掘を生活の糧にしているマリ人は約200万人で、この内約40万人は小規模な金採掘に従事している。
 マリの金生産の歴史は古く、1300年代に栄えたマリ帝国(1230〜1672年)では金と塩はサハラ交易(TombouctouとDjennē間のTrans-Saharan Exchange)の最も重要な交易アイテムで、同帝国のMansa Musa 1世は金の交易で世界一の金持ちになったという。その後、サハラ交易はフランスの植民地支配によって途絶すると共に、灌漑設備を整備し綿花生産に重点を置いた政策がとられたために、金の重要性は減少したが、この間も小規模な金採掘は続けられた。なお、マリは2003年に綿花生産でアフリカ第1位になり、現在、綿花は金に次ぐ輸出品で農村人口の約40%が綿花栽培に携わっている。
 独立後のマリは、ケイタ初代大統領からトラオレ独裁時代までの独立から30年間、アフリカ社会主義を掲げて国家建設を進めた。そのため、ソ連と親密な外交関係にあり、ソ連は、首都バマコから300km南のKalana金鉱脈を開発し1984年には精錬工場も完成させて最盛期には500kg/年の金を生産した。しかし、1991年のソ連崩壊とともに資金・技術協力は終わり工場も閉鎖され、1990年代半ばまでにマリの金採掘の殆どは南アフリカの会社が行うようになり、その後カナダなどが進出して外国企業が大規模な金採掘事業を独占して現在に至っている。
 しかし、ソ連によって建設されたインフラは今でも概ね健在で、現在はイギリス海峡の島(英王室の属領)に本部を置くAvnel Goldがこれを再活性化しようとしている(Avnel sees Kalana as open pit mine, 29 April 2016;Russia: Gold Firm Revives Former Soviet Mines, Radio Free Europe Radio Liberty, 9 May 1997)。

注3:トゥアレグ人の反乱を見る前に、マリの民族構成をおさえておこう。
 マリの主要な民族は全人口の1/3を占めるバンバラ人であるが、マリは多民族国家でバンバラ人の次に多いのが中部のモプティ(Mopti)州や南部のケーズ(Kayes)州に多く住むフラニ人(フラFula又はフラニFulaniという。マリの全人口の約13%)である。フラニ人は、フラ語(西大西洋コンゴ語)が共通語の殆どがムスリムの人々で、ギニア中央部からニジェール川デルタに至る地域(マリ中央部を含む西アフリカ・サヘル地域)に最も多いが、サハラ南縁の大西洋岸から紅海に至る東西に帯状にまたがる広い地域に住み、世界で2500万〜4000万人いると推定され(図3)、約1/3が遊牧民、約2/3が定住農民であるが、その他に職人・商人など様々な職業についており、政治家や国連職員など多くの人材を輩出している。
 トゥアレグ人(Tuareg)は、マリ北部のトンブクトゥ、ガオ、キダルなどに多い少数民族で、ベルベル語に近いTamasheq語(アフロ・アジア語)を共通語とする遊牧民である。言語以外に共通項がなく、ベルベル人を先祖とする人々の他、少数ながらアフリカ南部の黒人を先祖とする人々を含む。アルジェリア、マリ、ブルキナ・ファソ、ニジェールに住み全体で約90万人いるが、最も多いのはマリの約59万人である(マリの全人口の1.7〜3.5%と資料により様々に推定されている)。なお、マリ北部にはトゥアレグ人の他にアラブ人を先祖とするムーア人(Moors)などが住んでいる。  次にトゥアレグ反乱の歴史を見ると、以下のとおりである。
 フランスは、マリを1898年に征服して仏領スーダンの一部に組み入れ、戦闘能力に秀でたトゥアレグ人、中でも伝統的にトゥアレグ社会の支配階級を形成してきたキダル州のIfosgas部族を利用して統治した。トゥアレグ人は当初フランスの統治に激しく抵抗したが、同化政策の対象にされなかったこともあって次第に協力的になり、フランスがマリ南部に居住する多数の黒人を支配するのを助けた。
 マリは1960年に独立したが、間もなく第1次トゥアレグ反乱(1962〜64年)が起こった。トゥアレグ人は7〜14世紀にかけて元々居住していたマグレブ地域から南部に移住していったが、これに伴って彼らと南部の黒人社会との間の紛争が時々起こり、1916年にもトゥアレグ人の国を創ろうとする反乱があった。第1次トゥアレグ反乱は、1916年の反乱が完全に収まったわけではなくその続編とも言え、組織化されずリーダーもいないゲリラ戦で、もっぱらキダル州のIfosgas部族が首都バマコのマリ政府に激しく抵抗して起こした。彼らは勝利を夢見たのではなく、「反乱を起こして国際的注目を引けば、アジェリアが仲裁に入って、フランス統治時代に享受していた特権的な地位を回復できるだろう」という甘い期待を持っていた(”Disputed Desert: Decolonization, Competing nationalism and Tuareg Rebellions in Northern Mali”, Leiden : Brill, 2010, p135.)。しかし、アルジェリアは仲裁に入らず、マリ政府と外交関係を樹立した。また、マリ政府も、軍を派遣して井戸に毒を投げ込み、女性を姦淫し、家畜を殺す等の暴挙にでた挙げ句、ソ連から供与された兵器で反乱を制圧し、反乱を起こしたIfosgas部族に限らずトゥアレグ社会全体(マリ北部全体)を軍の強権支配の下に置いた。
 ところで、マリのトゥアレグ人は、キダル州だけを見てもIfosgas部族と同部族に貢ぎ物を捧げて従属してきたImghads部族がおり、主な部族だけでも6部族いて、地域で社会経済的状況も異なるため、従来は部族で対立し民族としての一体感は希薄だった。しかし、トゥアレグ人全体を軍の強権支配の下に置くやり方は、第1次トゥアレグ反乱に参加しなかった多くのトゥアレグ人にもマリ政府に対する敵対感情を植え付け、北部のトゥアレグ人社会と南部の黒人社会(マリ政府)の対立は、悪化しながらくすぶり続けることになった。ただし、Imghads部族は、当初Ifosgas部族と共闘したものの、間もなくバマコの社会主義政権の反封建主義に共鳴するようになり、その後今日に至るまで一貫してマリ政府に協力している。
 1968年に軍事クーデタが起こってトラオレ軍事独裁政権(1968〜1991年)ができると、北部に対する軍の強権支配は厳しさを増し、開発政策からも一層取り残されるようになった。さらに、マリを含むサヘル地域一帯は、1970年から約20年間干ばつに襲われ、特に1984〜85年の干ばつは史上希に見る大干ばつだった。マリ政府に対する国際的支援も北部には殆ど届けられなかった。そのため、多くのトゥアレグ人は難民となってマリ南部の都市の他、国境を越えて近隣諸国に押し寄せた。中でもリビアに行った者が多く、彼らはカダフィ軍に入ってリビア・チャド戦(1978〜87年)で戦うなど、戦闘の経験を積んだ。
 第2次トゥアレグ反乱(1990年〜1995年)は、カダフィ軍で経験を積み、さらにマリのトゥアレグ人としての自己認識を確固なものにしてリビアからマリに帰国した若者が、1990年6月28日にメナカ(Menaka)のマリ軍基地を襲ったのをきっかけに始まった。当時、トゥアレグ人のマリ政府に対する不満は沸点に達しており、Ifosgas部族のIyad Ag Ghalyをリーダーとして、北部の自治ないし分離独立を求めた。トラオレは禁圧政策でこれに対処し、軍が応戦して実質的内戦に陥ったが、1991年1月になって反乱勢力と和平合意(Tamanrasset agreement)した。しかし、その2ヵ月後にトラオレ独裁政権は軍事クーデタで崩壊し、Tamanrasset agreementは実施されないまま終わった。また、トゥアレグ人の連帯も部族やカーストの割れ目に沿ってちりぢりに分裂していった。
 その後、複数政党制の選挙が1992年に行われ、コナレ政権が誕生した。ちりぢりに分裂したトゥアレグ人もその後アルジェリアの圧力を受けて一つにまとまった。両者は交渉を開始して、1992年4月和平合意(National Pact)を結んだ。しかし、トゥアレグ人とマリ軍の戦いも、トゥアレグ人の反乱勢力同士の戦いも完全には収まらなかった。こうした状況の中で、1995年にトゥアレグ人の反乱勢力同士の合意(Ouagadougou Accord)が成立し、翌1996年にはトンブクトゥで大量の兵器を焼却する催しも行われた。マリ政府も、トゥアレグ人の政府機関への採用と小規模事業を始めるトゥアレグ人に対する財政支援を1996年からスピードアップさせた。これらによって反乱は収束していった(Modibo Keia, “La rēsolution du conflit Tuareg au Mali et au Niger, Groupe de recherche sur les interventions de paix dans les conflits intra-etatiques”, Note de recherche 10 July 2002, p.23.)。
 なお、Tamanrasset agreementもNational Pactも、その後のマリ政府とトゥアレグ人との和平合意も、内容はほぼ同じで、①マリ軍など政府機関にトゥアレグ人をより多く採用すること、②北部の自治を認めること、③開発資金を北部により多く回すことの3点である(”National Pact between the government of the republic of Mali and the Unified Movements and fronts of Azawad dedicating the special status of northern Mali”, Bamako, 11 April 1992.)。
 しかし、その実施は、到底満足のいくものではなかった。新政権は、マリを連邦国家のようにしてトゥアレグ人に自治を認めたのではなく、当局に気に入られ”バマコの男”になったIyad Ag Ghalyに北部の支配をまかせただけだった。また、軍に採用されたトゥアレグ人も少数に留まり、しかもその多くは、Ifosgas部族の中でもIyad Ag Ghaly関係者だった。これらはトゥアレグ人社会に亀裂を呼び内部対立を生んだ。北部に多くの開発資金を回すことも、もともと手元不如意のマリ政府にとって無理な相談だっただけでなく、人口の多くを占める南部の黒人から「自分達も貧しいのになぜトゥアレグ人の要求に屈服するのか」と批判され、結局殆ど実施されなかった。
 そこで、不満な一派(Ibrahim Ag Bahangaに率いられたIfosgas部族の分派)が分裂してさらに反乱を続けた。しかし、反乱勢力は少数で力に欠け、2006年に再び同じ内容の和平合意が繰り返された。和平合意が実施されなかったのも従前と同じだった。そこで反乱勢力は、北部の軍駐屯地を襲って武器を盗み、兵士を殺害するなど先鋭化してゆき、北部は軍が踏み込めない地(no go zones for the military)になっていった。これがマリの第3次トゥアレグ反乱(2007〜2009年)である。
 隣国のニジェールでも、マリの第2次トゥアレグ反乱(1990〜1995年)と軌を一にしてトゥアレグ反乱が起こった。この反乱はマリと同様に、サヘル地域を襲った大干ばつで甚大な被害が出たのを遠因にし、軍など政府機関への採用、分権と自治、開発資金の供与など3点の和平合意が成立したものの、反乱のリーダー格の一握りの者らが政府の要職を得ただけで他は実施されなかったのも、マリと同じだった。ただ、ニジェール政府の対処は、トゥアレグ人の政治家Brigi Rafiniを大臣にするなど、マリ政府のそれに比べればはるかに妥協的だった。それは、ニジェールのトゥアレグ人はアガデスを除きバラバラに広がって住んでまとまりを欠き、国に対する脅威がそれほど大きくないからである。
 ニジェールでも、マリの第3次トゥアレグ反乱(2007〜2009年)に呼応して反乱が繰り返された。この反乱の主役は、ウランを産するアガデス(Agadez)のトゥアレグ人だった。アガデスはトゥアレグ人の居住地域なのに、当局がウラン開発の利益を独り占めし、トゥアレグ人は環境被害を蒙るだけだったため、憤懣を爆発させたのである。2008年には反乱が激しくなって一時ウラン採掘がストップする事態にまで発展した。
 ところで、2007年に始まったマリとニジェールにおけるトゥアレグ人の反乱は、マグレブのアルカイダ(Al Qaeda in the Land of the Islamic Maghreb:AQIM)がサヘル地域に活動を広げていた時期とも重なり、カナダ人外交官2人がニジェールで、ヨーロッパ人観光客4人がニジェールとマリの国境で、それぞれAQIMに捕まって世間の耳目を集めた。カダフィは、地域の混乱が大国の介入を招くのを懸念してトゥアレグ人反乱勢力とマリ及びニジェール当局の仲介に乗り出し、その結果2009年に和平が成立してトゥアレグ反乱は一応の収束を見た(”Niger’s government, Tuareg rebels pledge peace”, Reuters, 7 April 2009.)。しかし、この2009年の和平合意も、従前と同じ内容で、合意の実施不能を見通していた反乱勢力の一部は、当初から「和平合意に縛られない」旨、宣言していた。そのような中で、リビア内戦の混乱がマリに波及し、2012年から始まったのが第4次トゥアレグ反乱である。

注4:Mohamed Ag Najemはカダフィ軍大佐を辞め、MNLA軍事部門のトップになった(”Heavy Weapons Fire Rocks Town in Mali’s North”, Reuters Africa, 4 Feb. 2012.)。ただ、MNLAは、複数の集団のアンブレラ組織で幹部は約40人もいる(”The Causes of the Uprising in Northern Mali”, Think Africa Press, 6 Feb. 2012.)

注5:リビアから帰還したトゥアレグ人兵士約2500人を中心にMNLAの核が形成され、間もなくマリ北部の若者約500人やマリ軍を脱走したトゥアレグ人兵士約1500人が加わった(“Mali’s Tuareg rebellion: What next?”, Al Jazeera, 20 March 2012.)。

注6:AQIMは、アルジェリア内戦を戦った過激なイスラミストが2007年にオサマ・ビン・ラディンに忠誠を誓って誕生した。
 Ansar DineとMUJAOはいずれもAQIMの分派で、いずれも2011年に創られた。前者はサヘル地域にAQIMの活動を広げるため、AQIMリーダーのドルクデルが音頭をとって第2次トゥアレグ反乱を率いたトゥアレグ人のIyad Ag Ghalyをリーダーとしてトゥアレグ人をまとめて創られ、後者はアルジェリア人がAQIM幹部を独占しているのを嫌って黒人やムーア人などが集まって創られた。
 Macina Liberation Front(Katiba Macinaともいう。:FLM)はAnsar Dineの分派で、フラニ人の過激なイスラム伝道者Amadou KouffaがリーダーとなってAnsar Dineの中のフラニ人が集まって2015年に創られた。
 覆面旅団もAQIM分派で、AQIMサヘル地域大隊長ベルモフタールがトンブクトゥの聖廟を背教的だとして破壊する暴挙にでたのを契機に、このように過激で手荒なやり方を批判するAQIMリーダーのドルクデルとの権力闘争が表面化し、ベルモフタールがAQIM主流派から出て行く形で2012年に創られた。それから間もなく覆面旅団の精鋭を集めて創られたのが血書旅団で、2013年に日揮社員が犠牲になったことで知られるイナメナス人質襲撃事件を起こした。
 Al Mourabitounは、フランスの山猫作戦に対抗するためMUJAOや覆面旅団などが合流して2013年に創られた。
 ISGSは、Al MourabitounのリーダーとなったMUJAO幹部出身のAdnan Abu Walid al-SahrawiがAl Mourabitounを割る形で自分に従う者を引き連れてISのバクダディに忠誠を誓って2015年5月に創られた。
 JNIM(GSIMとも言う。GSIMはgroupe de soutien à l’Islam et aux musulmansの略語=support group for Islam and Muslims)は、AQIM、Ansar Dine、Al Mourabitoun、Macina Liberation Frontの4集団が合流し、トゥアレグ人のIyad Ag Ghaly がリーダーとなって2017年3月に創られたサヘル地域最大の聖戦集団である。だた、JNIMに合流した4集団は、JNIMに統合されて解消した訳ではなく、例えばMacina Liberation Frontとして活動することもあり、JNIMの中で最も活動的なのがMacina Liberation Frontである。
 これら聖戦集団の詳細は拙著「アラブの冬:リビア内戦の余波」218〜221頁参照。

注7:”France Is Increasing Security at Sites in Niger and at Home”, NYT, 24 Jan. 2013. Arevaは、アガデス地域にあるArlit鉱山及びImouraren鉱山で操業している。2010年9月にはArevaの作業員などフランス人5人を含む合計7人がArlitでAQIMに誘拐される事件が起こったばかりだった。

注8:MINUSMAは2013年4月25日の国連安保理決議2100によって創設され、西アフリカ諸国経済共同体(Economic Community of West African States:ECOWAS)が組織したアフリカ主導マリ国際支援ミッション(African-led International Support Mission to Mali:AFISMAの仕事を引き継いで2013年7月1日から展開を始めた。MINUSMAは、時期により増減はあるが、AFISMAの部隊の大半を引き継ぎこれを更に増強して軍人約1万2000人と警察官約2000人とその他要員から構成され、史上3番目の規模だった。投じられた費用も約12億ドルと国連平和維持部隊としては史上最高だった。しかし、創設の決議(4月25日)から実際に展開する(7月1日)までに時間がかかり、部隊が全てそろって活動し始めたのは2013年8月1日に三日月の砂丘作戦が始まってからだった。8月1日以降は、首都バマコに本部を置き、北部に8キャンプと中部に4キャンプ(キャンプは大きいもので1000人、小さなものは50人の隊員を擁した)を設けて治安維持に当たったが、全軍人+全警察官の約半数はバマコの本部に居て、北部・中部に展開したのは約半数に留まった。この消極的姿勢も手伝って、MINUSMAは2023年7月現在304人の隊員が殺されるなど多くの犠牲を出しながら治安改善・維持に貢献できなかった(注19参照)。そのため、軍幹部会(junta)はMINUSMAの撤退を要請し、2023年6月30日に採択された国連安保理決議2690で任務終了が決まり、同年12月11日にマリの首都バマコに設けられたMINUSMA本部の国連旗が降ろされた(”UN peacekeeping mission in Mali officially ends after 10 years”, Al Jazeera, 11 Dec. 2023.)。

注9:フランスは、AQIMリーダーのドルクデル(Abdelmalek Droukdel)、al-MourabitounリーダーのAhmed al-Tilemsi、JNIM副リーダーのBa Ag Moussa、ISGSのリーダーAdnan Abu Walid al-Sahrawiなどの殺害に成功した。

注10:2013年1月16日にアルジェリアで起こったイナメナス人質襲撃事件は日揮社員など日本人10人が犠牲になったことで知られるが、血書旅団は、「イナメナス事件は、アルジェリアがその上空をフランス軍の山猫作戦遂行に利用させていることに対する答えだ」との犯行声明を出した。
 また、同年5月23日にニジェールのアーリットのウラン鉱山とアガデスの兵舎で起こった2件の同時テロ攻撃事件について、MUJAOは、「ニジェール当局、フランス、アメリカを狙った」との犯行声明を出した。ニジェール当局が狙われたのはフランスの山猫作戦に協力しているためと、フランスの国有会社Arevaにウランを供給しているためであり、アメリカが狙われたのは同年にニジェール空軍基地建設に合意し署名したためである。アメリカは、アメリカの資金でニジェールのアガデスに無人偵察機の基地(Niger Air Base 201)を創りフランスに情報を提供して山猫作戦〜三日月の砂丘作戦を助けており、その他ニアメ(Niamey)にも協力基地(Niger Air Base 101)を持っている。なお、フランスは、ニジェールのニアメーとチャドのンジャメナ(N’Djamena)に軍事基地を持ち、後者には1000人のフランス兵が駐留しており、三日月の砂丘作戦の本部がある。

注11:ケイタは、2012年の騒乱を受けて行われた2013年の選挙で大統領に選出され、2018年の選挙でも67%の得票で再選された。しかし、汚職、フランスに対するおもねり、治安その他の政策遂行能力のなさを非難され、2019年12月にバマコで行われた世論調査では26.5%の支持しかなかった。ケイタ大統領批判の先頭に立って辞任を要求したのは、2020年5月末に反対党が組織した市民運動(June 5 Movement-Rally of Patriotic Forces 以下、M5運動という)で、M5運動が組織されて数日後に行われた街頭デモは、数千人にも膨らんだ。同じ世論調査で一般市民のフランス軍に対する意識も問われ、「フランス軍はマリの危機に対応しているか」にはNOが66%で、「フランスはマリから去るべき」は62%、「仏軍は自国のためのみの目的でマリにいる」は77%にも達した。

注12:一般市民は、経済の悪化と過激なイスラミストによる暴力沙汰を止められないケイタ大統領に対する不満を爆発させて、「軍事政権の方が社会の混乱に有効に対処してくれるだろう」と考えるに至り、歓呼の声を上げて2020年8月の軍事クーデタを歓迎した。また、一般市民はフランス軍に対しても否定的な評価を下し(注11参照)、ワグネルに替るのを望んだ。フランスはケイタ大統領の無能ぶりに従前から辟易していたので、この軍事クーデタを非難することはなく、ンダウ暫定政権の誕生を新たな関係構築の機会と捉えた。ンダウも2021年1月パリでマクロンに会って「2022年2月27日に大統領選挙を行う」旨約束するなど、民主化に移行する道筋を明らかにした(”Mali’s interim leader Bah N’daw meets with macron in Paris”, Africa News, 28 Jan. 2022.)。そのため、ンダウ暫定政権とフランスの関係はスムースに始まった。M5運動のリーダーらも、ンダウ暫定政権誕生を歓迎し、政治から身を引いた。
 ところが、この軍事クーデタを主導したゴイタらは、ゴイタが暫定大統領に就くのが当然と考え、ンダウ暫定政権の主要なポストは軍人が占めていたものの、同政権の人事に不満だった。そうした中、ンダウは2021年5月に「国防大臣と内務大臣が力を持ちすぎている」として彼らをクビにする内閣改造を発表した。その直後にゴイタらは、「内閣改造について相談を受けていない」と不満を口実にして、再度クーデタを起こしてンダウをクビにし、ゴイタ自らが暫定大統領になった。
 マリの一般市民の多くは、二度目の軍事クーデタをゴイタが暫定副大統領から暫定大統領になった内閣改造のように捉え、大きな反応を示さなかった。しかし、M5運動は、「変装した軍人支配だ」と批判した。批判を和らげるため、ゴイタ暫定大統領はM5運動の幹部の一人を首相ポストに就けたが、他の閣僚ポストは軍人が占めており、軍人支配の実体は変わっていない。他方、フランスは、ンダウ暫定政権との関係がスムースに始まった矢先に、ゴイタが再度軍事クーデタを起こしたことは受け入れ難く、フランス外相Jean-Yves Le Drianは「2021年5月のクーデタで政権を取ったゴイタ軍幹部会は制御不能。違法な存在」と非難した。

注13:2022年8月15日にフランス軍がマリから完全撤退した際、マクロン大統領は、「フランス軍は、サヘル地域の住民を攻撃しヨーロッパに脅威を与えていたテロリストと戦い、彼らがサヘル地域にカリフを樹立するのを防止できた。テロ集団の幹部の殆どを殺害した」と述べて成果を強調し、「59人のフランス兵が殺害された」と付け加えた(”France completes military pullout from Mali”, Le Monde, 15 Aug. 2022.)。フランスの軍事作戦(2013年1月11日〜2022年11月9日)で殺害された過激なイスラミストの数については、フランス当局は公表していないが、フランスのメディアMediapartは少なくとも2800人としている。
 また、三日月の砂丘作戦の結果、マリ、ブルキナ・ファソ、ニジェールの国内難民は370万人、主に隣国に逃れた国外難民は50万人に達する(Sahel Refugee Crisis, https://www.unrefugees.org/emergencies/sahel-)。

注14:2022年8月15日フランス軍はマリからニジェールに引き揚げた(”France says its troops have left Mali, remains committed to helping Sahel”, Reuters, 15 Aug. 2022.)。フランスは、2022年11月9日にG5サヘル諸国からも引き揚げたが、フランスは泥沼化する三日月の砂丘作戦からの出口を何年も前から検討しており、関係悪化は引き揚げの良い口実を提供してくれるものでもあった(”The End of Operation Barkhane”, International Institute for Counter Terrorism, 27 Nov. 2022.)。
 なお、フランス軍は現在でもセネガルやチャドなどサヘル諸国に駐留している。しかし、ブルキナ・ファソでは2022年9月30日にクーデタが起こってフランスとの関係が悪化し、フランス軍は2023年2月に同国から撤退し替わってワグネルが同年12月から侵出している。ニジェールでも2023年7月26日に軍事クーデタが起こってフランスとの関係が悪化し、同年12月にフランス軍はニジェールから撤退し、2024年1月に仏大使館も閉鎖された。

注15:未曾有の危機(MNLAは2012年1月17日に第4次トゥアレグ反乱に立ち上がってマリ当局と対峙したが、混乱に乗じてマリに入った過激なイスラミスは、超過激なシャリア法でマリ北部を支配し更に南部も伺うようになった)に当たって、マリ政府とMNLAは、敵対するのを改め話し合いで和平を実現しようと動き出した(”Mali government, Islamists and separatists agree on peace talks”, Reuters, 5 Dec. 2012.)。フランスが2013年1月11日に山猫作戦を始めると、MNLAは、「フランスやマリ政府とも協力してマリ北部=Azawadでのテロを終わらせるために戦う」 (“Mali Conflict: France has opened gates of hell, say rebels”, The Guardian, 14 Jan. 2013.)と述べる一方で、他方では「マリ北部のことは我々が最もよく知っている。我々はフランス軍と共に戦う」と述べ、マリ当局に対して「自治を認める和平合意が成立するまでマリ軍は北部に足を踏み入れないように」と警告を発した(”Tuaregs promise to help defeat Mali rebels”, Star Africa, 14 Jan. 2013.)。マリ当局は、過激なイスラミストを一掃することを喫緊かつ最重要課題としており、このような条件は受け入れがたく、和平の話し合いは立ち枯れになった。  山猫作戦が始まって間もなく過激なイスラミストはマリ(特に北部)から一掃され、マリ北部のガオやトンブクトゥなどにはフランス軍やマリ軍が入って過激なイスラミストに目を光らせた。他方、MNLAはマリ北部のトゥアレグ人の根拠地キダルに入って、フランス軍やマリ軍の傍らで(平和裏にside by sideで)、同地をその支配に収めた。
 ところで、2012年3月21〜22日に起こったマリ軍下士官による騒動(小規模なクーデタ未遂)の後、マリの混乱を収拾しようと動いていた西アフリカ経済共同体(the Economic Community of West African States:ECOWAS)は、マリ政府との間で、「(上記騒動で無能と批判され辞任を要求された)トーレ大統領は辞任し、新たに選挙を行って民主政治に戻る」旨の合意を取り付け、国際社会も、早急な民主選挙の実施に向けて強い圧力をかけた。マリ政府は、選挙実施のためにキダルも中央の支配に収める(MNLAに替わってマリ軍が進駐する)必要があったところ、2013年6月18日にMNLAとの間で(選挙実施のための)停戦合意にこぎつけた。これによって、マリ軍は徐々にキダルに入っていき、2013年7月28日と8月11に大統領選挙は無事に行われた。その結果、Ibrahim Bourcar Keita(IBKの略称で知られる。以下IBKという)が大統領に当選し、議会選挙も同年11月24日と12月15日に行われてIBKが2001年に創設した政党Rally for Maliが147議席のうち115議席を獲得して勝利した。
 この停戦合意は選挙実施のためのもので、選挙後には再びMNLAがキダルに戻っていたところ、マリ政府首相がキダルを訪問し、これに反対するデモが起ってマリ軍と衝突し数人の負傷者を出した。MNLAはこの事件をきっかけに停戦合意を破棄したが(”Mali’s Tuareg fighters end ceasefire”, Al Jazeera, 30 Nov. 2013.)、他方では大統領と議会が決まったことでMNLAとマリ政府との和平交渉も本格的に動き始め、2015年にアルジェ和平合意(Algiers peace agreement)の署名にこぎつけた。
 しかし、アルジェ和平合意は、形だけの署名に終わり実施されなかった。
 その理由の一つは、アルジェ和平合意自体の構造的欠陥で、主にマリで活動するトゥアレグ人の過激なイスラミスト集団Ansar Dineも和平交渉の当事者にしなければ和平の実施は不可能なところ、そうしていない点である。もっと重要な理由は、アルジェ和平合意後間もなくから過激なイスラミストがマリ北部に戻ってきて多くの一般市民を殺害したり追放したりしただけでなく、2020年8月と2021年5月に軍事クーデタが起こって、実権を握った軍幹部会(junta)とフランス軍やMINUSMAとの関係が悪化し、彼らの撤退が予定される中で、明け渡し予定の基地を支配下に収めようと過激なイスラミストとマリ軍が争いをエスカレートさせ、急速に治安が悪化したことである。
 なお、アルジェ和平合意の内容は、従来の和平合意と同様に三点セットであるが、①従来の要求だった独立や自治よりもトーンダウンしてマリ北部の広い分権をすすめること(キダルの支配をマリ当局に戻すこと)、③アルジェ和平合意に署名した武装集団の兵士をマリ軍に吸収すること(従来は一部兵士だけだったのをアップグレードしてアルジェ和平合意に署名した武装集団の兵士全員をマリ軍に吸収するように読めるが明確ではない)、及び③マリ北部の経済的発展を支えるため開発特別区を設けることである。
 また、主な当事者は、マリ政府とCMA(Coordination of Movements of Azawad)とPlatformである。CMAとPlatformは、両者ともアルジェ和平合意を多くの当事者を含んだ包括的なものにするために2014年に創られた。CMAは、Azawadの独立や自治に関心のある集団(MNLA だけでなく、話し合い解決を模索するトゥアレグ人の集団(High Council for the Unity of Azawad:HCUA)や世俗派のアラブ人集団(Arab Movement of Azawad:AMA))なども加えたアンブレラ組織で、Platformは、Azawadの独立や自治には関心がなく、もっぱら経済社会的に疎外された状況の改善を求める様々な集団の集りである。
 アルジェ合意署名後、実施するための話し合いは長期にわたって続けられたが、過激なイスラミストの攻撃は増すばかりで成果を見ることはなかった。そこで、CMAは、2022年12月に「マリ政府(軍幹部会junta)は和平を実施する意志がない。話し合いは無駄だ」としてアルジェ和平合意実施の話し合いを打ち切り、2023年2月8日に単なるアンブレラ組織から一つのまとまった集団に脱皮して、(アルジェ和平合意では従来の要求である独立や自治から分権に譲歩していたのに)Azawadの独立を明確に掲げ、「マリ政府(軍幹部会junta)とワグネルに対峙して戦う」と表明するに至った(”Observing the 2015 Mali Peace Agreement”, The Carter Center;”The French colonial designs in Mali”, Al Jazeera, 22 Aug. 2019;””Mali’s northern armed groups pull out of Algiers peace talks”, Reuters, 23 Dec. 2022 ; Mali’s Azawad movements unite in a bid to pressure the ruling junta”, Africanews, 2 Feb. 2023;“Mali: What the fusion of the Azawad movements will change”, The Africa Report, 14 Feb. 2023;”Mali: Former rebel group claims they are in time of war with ruling junta”, Le Monde, 12 Sep. 2023;”Mali army seizes key rebel northern stronghold Kidal”, BBC, 14 Nov. 2023.)。現在CMAは、JNIMと手を組んで共闘し、共通の敵マリ軍と戦っている。なお、CMAやJNIMはISGSとは対立している。この点に関しては注19、注29参照。

注16:G5サヘル諸国の同盟解消後、マリ、ブルキナ・ファソ、ニジェールの3ヵ国は、2023年9月16日に相互防衛協力を含むサヘル諸国協定(Association of Sahel States:ASS)を結んだ(”alliance”, Al Jazeera, 6 Dec. 2023.)。ASSは、2023年7月に軍事クーデタが起こったニジェールに対してECOWASが軍事介入をちらつかせたことに対し、3ヵ国が軍事協力して軍事政権を守ることを主な狙いとしている。ASSには、NATO条約5条の集団的自衛権に相当する規定があり、過激なイスラミストの攻撃に対して相互に軍事協力することも排除していない。しかし、3ヵ国とも弱小な軍事力しか有せず、ECOWASの軍事介入に対抗できるかは大いに疑わしいだけでなく、3ヵ国とも国内における過激なイスラミストの攻撃にすら対処できていないのが現状である。したがって、例えばマリ当局が直面するCMAとJNIMの共闘戦線(CMA+JNIM)やISGSの攻撃に対して、相互に軍事協力して攻撃を撃退することに関しては、その意思も能力もない。

注17:例えば、フランス軍は、2021年1月31日、モプティ(Mopti)で、結婚式に100人が集まっているのを、明らかに武器を携帯する者が1人いたため、事前の偵察情報と合わせ、武装戦士の集まりと誤認し、花婿の父を含む一般市民19人を殺害する誤爆事件を起こした。

注18:フランス軍とTakuba Task Forceは、2022年2月にマリから撤退する意向を表明し、三日月の砂丘作戦は同年11月9日に終了し、Takuba Task Forceも同年6月30日に撤退した。
 Takuba Task ForceはEUの特殊作戦部隊で、西サヘルで使われる刀Takubaから名付けられ、治安情勢の悪化に対処するためにマリとニジェール両政府の要請で2020年3月27日に設けられ、ガオ、メナカ、アンソゴ(Ansogo)、チャドのンジャメナに配備された。兵員は約600人で(内フランス人兵士約300人)、フランスの特殊部隊司令部の下で高い独立性を認められて、マリ軍の作戦アドバイスや支援を行った。

注19:山猫作戦でマリから追い出された過激なイスラミストは、フランスが三日月の砂丘作戦に転じると、逃げていた周辺地域からマリに帰ってきて、まずトンブクトゥ、ガオ、キダルといったマリ北部の中心地を取り戻し、次第に周辺地域にも入り込んでいった。彼らは、外国軍の上空からの偵察に備えて、多数で大きな攻撃をするのを避け、バイクに乗り少人数で素早く行動してゲリラ戦を戦った。
 ラディソン・ブルーホテル銃撃事件(2015年11月20日にマリの首都バマコにあるラディソン・ブルーホテルが銃を持った男たちに襲われ、20人が殺され、170人の人質がマリ軍特殊部隊に救出された事件)は過激なイスラミストがマリに帰ってきて互いに協力していることを象徴する事件だった(US Department of State, Case No. F-2015-09834, 29 Aug. 2019.)。なお、この事件については、Macina Liberation Front、Ansar Dine、al-Mourabitoun、AQIMが共同犯行声明を出したが、彼らは2017年に合流してサヘル地域最大の過激なイスラミスト集団JNIMを創った。
 過激なイスラミストの攻撃は2015年末から現在に至るまで増加の一途であるが、2020年8月の軍事クーデタ、2021年末のワグネルの侵出、2022年2月のフランス軍の撤退宣言、2023年6月のMINUSMAの撤退宣言のそれぞれの節目を超える毎に加速して増加した。それは、例えば、過激なイスラミストは、当初からMINUSMAをターゲットに攻撃し徐々に隊員の死者数は増えていったものの、2022年10月までの死者は181人だったのに、2023年7月になると304人に急増したことに如実に現われている。
 最近では首都バマコの近郊でも過激なイスラミストの攻撃が起こるようになり、例えば、2022年7月に大統領公邸から10kmでマリ軍本部がありゴイタ暫定大統領も住居を有するKatiの兵舎が攻撃されるなど、バマコから150km圏の攻撃は2023年前半に16件に達し、2022年後半の5件から急激に増えた(”Mali and Burkina Faso: Did the coups halt jihadist attacks?”, BBC, 30 July 2022;”Mali’s Militant Islamist Insurgency at Bamako’s Doorstep”, Africa Center for Strategic Studies, 29 Aug. 2022;” Mali MINUSMA Deaths Mount”, VOA Africa, 18 Oct. 2022;”Lavrov in Africa: Have Wagner mercenaries helped Mali’s fight against jihadists?”, BBC, 7 Feb. 2023;”Mali Catastrophe Accelerating under Junta Rule”, Africa Center for Strategic Studies, 10 July 2023.)。
 また、外国の金採掘会社に対する攻撃も目立っており、2021年9月にはマリ軍にエスコートされたオーストラリアの金採掘会社の車列がBamako-Kayes Roadで攻撃され、5人の憲兵が殺された(”Five gendarmes killed in attack on mining convoy in Mali-army”, Reuters, 29 September, 2021.)。同種の攻撃は2015年以来マリで少なくとも6件起こっている。
 ところで、過激なイスラミストは金採掘会社にザカート(zakat=イスラム教の貧者のための喜捨)を保護料名目で要求して収入源にしている。ザカートは、通常、生活費を引いた余剰利益の2.5%を慈善のために寄付するならわしであるが、金採掘会社に対しては全収入の約10%のザカートを要求し、十分に要求が満足されないときは攻撃に出ている。
 過激なイスラミストによる攻撃が最も多いのは、マリ、ブルキナ・ファソ、ニジェールにまたがるLiptako-Gourma地域で(図4 Liptako-Gourma地域とは、明確な定義はなく、広狭さまざまに用いられているが、ここではUNFPAの定義に習ってマリ中部・北部、ニジェール西部、ブルキナ・ファソ東部を含む地域を指す。名前の由来は、19世紀はじめに栄えたフラニ人のLiptako首長国の領域とほぼ重なり、歴史的にフラニ人とGourmantche人が主な住民だったことによる)、攻撃の大部分はJNIMとISGSが担っているが、中でも最も活動的なのがMacina Liberation Frontで、特にマリ南部の攻撃の殆どは彼らの仕業である。  2023年後半に入ると、同年2月にCMAがアルジェ和平合意を反故にしてマリ政府に宣戦を布告し(注15参照)、同年6月にMINUSMAの撤退が決まったのを受けて、同年9月には2日間でマリの中部、北部、西部にあるマリ軍駐屯地3ヵ所がCMAとJNIMに攻撃され、同年11月にはISGSがマリの東部を攻撃して避難住民がキダルに流れ込むなど、マリ軍、CMA+JNIM、ISGSの三つ巴の戦いが始まった。CMAとJNIMが協力している理由については注29参照。Mali: attacks on three army posts in past two days”, AFP, 29 Sep. 2023;”Daesh broke us: Displaced Malians find refuge in Kidal after fleeing jihadist attacks”, Africa news, 10 Nov. 2023.)。そのためマリの治安は極度に悪化し、砂漠化も手伝ってマリ人の4人に1人は飢餓状態に陥っている(”Analysis: What’s next for Mali after MINUSMA withdrawal?”, Al Jazeera, 3 July 2023.)。MINUSMAも、治安が急速に悪化しているので2023年12月末までの撤退期限を早めて11月第2週までに撤退完了の予定だったが、キダル基地撤退以来6件の攻撃を受けて少なくとも39人の隊員が負傷するなど撤退にてこずり、2023年11月18日現在12基地のうち9基地の撤退を終えるにとどまった (“UN peacekeepers leave Mali in a hurry and under threat”, Africa new, 27 Oct. 2023; “At least 22 UN peacekeepers injured in retreat from northern Mali base”, Al Jazeera, 7 Nov. 2023 ; ”UN Mission Leaves 9 of 12 Mali Bases in Forced Withdrawal”, VOA news, 18 Nov. 2023.)。なお、マリ軍はワグネルの支援を受けて2023年11月にキダル(トゥアレグ反乱勢力の要衝で過去10年来彼らの支配に置かれていた)を取り戻したが、完全にマリ政府の支配下に収めたわけではない(”Mali army seizes key rebel northern stronghold Kidal”, BBC, 14 Nov. 2023.)。 注20:”ISIL doubled territory it controls in Mali in less than a year: UN”, Al Jazeera, 27 Aug. 2023.  なお、ISGSは、2015年5月に創られ(注6参照)、2019〜2022年までIS-West Africa Provinceの一部だったが2022年に分離独立してIS-Sahel Province:ISSPとなった。ここでは従来どおりISGSという。

注21:一般市民の犠牲が著しく増加した背景には、ワグネルの一般市民の犠牲を厭わない慎重を欠く作戦があり、その典型例がMoura大量殺害事件である。
 Moura大量殺害事件とは、2022年3月下旬、マリ中央部のMouraのマーケットで、村人が家畜や胡椒・野菜などを取引していたところ、「過激なイスラミストの会合がある」と聴きこんだマリ軍兵士とワグネルの契約民兵(PMCs)がいきなり数機のヘリで現れ、まず村の全ての出入り口を塞ぎ、次に村人を捕らえ、指や肩に日常の武器使用で出来る痕跡を調べて彼らを分別し、数百人の男たちを近距離から銃で殺害した事件である。
 マリ当局はこの事件について、過激なイスラミストに対する主要な勝利だとしているが、目撃した村人は、「Mouraで殺されたのは300~400人で、その多くが一般市民だ」としている。同様の事件は他の地域でも起こっており、このような被害はマリ軍とワグネルとの共同作戦が始まってから従前の10倍に増えた。
 また、一般市民の犠牲者が著しく増加した背景には、JNIMら過激なイスラミスト集団側も、ワグネルのやり方に対抗して無差別攻撃に出ていることもある。JNIMは、従来、フランス軍やマリ軍を攻撃対象として一般市民を無差別に攻撃することはなかったが、近年は違っており、例えば、2022年6月にマリ中部で132人の村民を殺す事件を起こした。
 なお、マリ中央部にはフラニ人が多く住み、Mouraは家畜取引市で有名である。この地域は、2015年以来JNIMの中でも活動的なMacina Liberation Frontが勢力を伸ばし、税を徴収し男性に髭を伸ばすのを強制するなどして支配してきた。この地域のフラニ人は、従前から過激なイスラミストの被害に晒されると同時に彼らが提供・約束する便宜・利益にひかれて戦士募集に応じる者が多かったが、事件後は、「ワグネルは自分たちを過激なイスラミストから自由にしてくれると思ったが、彼らの方が危険だ」と話し、ワグネルと協力する軍幹部会(junta)にも信頼を失い始めている。そのため、マリ軍は、情報提供など住民からの協力が得られなくなった。現地の実情に合わない外国軍の活動に対する住民の反感は、フランス軍の軍事作戦当時から存在したが、ワグネルが活動し始めてから状況は極端に悪化し、イスラミスト掃討作戦は従前に増して難しくなった(”In Mali, the killings didn’t stop : Civilian deaths spiked after Russian mercenaries began their operations”, NYT, 2 June 2022.)。

注22:ロシア国連代表部次席大使は、プリゴジンが死亡した後、「ロシアは今後も幅広くマリを支援する」と表明した(”After Wagner chief death, Russia vows to keep helping Mali”, Reuters, 28 Aug. 2023.)。これを裏付けるように、ロシアは、バマコ郊外のModibo Keita国際空港に高性能武器の格納倉庫建設作業(2024年3月完成予定)を2023年12月現在も続けている(Base expansion in Mali Indicates Growing Wagner Group Investment, Center for Strategic and International Studies, 15 Aug. 2023.)。

注23:Wagner’s real money never came from diamonds and gold, vox.com, 2 July 2023.

注24:マリ当局は、ワグネルへの支払いに当てるため、マリ国の金採掘会社に対する持ち分を30%(2019年の旧鉱業法では20%だった)に引き上げる新鉱業法を2023年6月17日に制定した。同法は、より多くのマリ人を金採掘会社の高いポジションにつけることや技術移転をすることなども定めている(”Miners hope to keep gold shining in Mali despite ownership law”, Reuters, 23 Aug. 2023;”A change in Mali: the French out, Wagner in”, Universidad de Navarra, 2 July 2022;Malian State Security suspected of financing Russian Wagner mercenaries, Le Monde, 4 Feb. 2023.)。

注25:軍幹部会(junta)は、マリの治安の維持・回復のためにワグネルを招き入れたが、ECOWASの制裁を受けて一層ワグネルを頼るようになった。ECOWASは、2022年1月にマリに制裁を科し、空と陸のマリ国境を閉鎖し、セネガルにある西アフリカ諸国の中央銀行(Senegal-based Central Bank of West African States)にあるマリの財産も凍結した。しかし、「マリの軍事クーデタは一般市民から歓迎され、その要求に沿ったもの」との説明が了承され、軍幹部会(junta)が「24ヵ月後に民主制に移行する」として新たな選挙法を公表したのを契機に、2022年7月3日にECOWASの制裁は解除された(“Mali coup: How junta got Ecowas economic sanctions lifted”, BBC, 6 July 2022 ; “West African leaders lift economic sanctions on Mali”, Al Jazeera, 3 July 2023.)。

注26:ロシアのマリへの最大の関心は、金の採掘と販売にあり、ウクライナ戦争後ますますその関心を深め、工業的規模の金採掘の許可を得ようと種々画策している。それは次のようなロシアの動きを見れば明らかである。なお、小規模な金採掘は、ほとんどを貧しいマリ人が担っており、野放し状態で法規制されていない。
 まず、Serguei Laktionov(ワグネルのために中央アフリカ共和国でも同様の働きをしたロシアの地質学者)一行は、ワグネル傭兵がマリに展開する5ヵ月前の2021年7月にバマコを訪ね、金採掘の可能性を調査するとともに、軍幹部会(junta)と面会して「金収入から直接に報酬を得る条件で傭兵を展開する」などについて話し合った(Malian State Security suspected of financing Russian Wagner mercenaries, Le Monde, 4 Feb. 2023)。
 次ぎに、国防大臣のSadio Camaraと元鉱業大臣Lamine Seydou Traorēの助力を得て、Alpha DevelopmentとMarko Miningというペーパー会社を設立し、工業的規模の金採掘許可を得るための準備をした。
 しかし、マリ当局はワグネルが過大な影響力を持つのを警戒して未だ金採掘を許可していない。そこで、ワグネルは、工業的規模で行う金採掘許可を待ちながら、小規模な金採掘場数か所を既に手に入れ、地域の輸送業者の協力でドバイへの金輸送も行っている(”The Wagner Group’s golden goose in Mali”, The Rio Times, 7 July 2023.)。
 なお、Sadio Camaraは、ロシアで軍事訓練を受けたマリ軍大佐で、2020年8月の軍事クーデタに加わって国防大臣になったが、ンダウ暫定政権の内閣改造でクビになり、それが引き金となって起こった2021年5月の再度の軍事クーデタ後に成立したゴイタ暫定政権で再び国防大臣に復帰し、現在に至っている。アメリカは、ワグネルとの近さを理由に彼に制裁を科している。

注27:2023年憲法草案は、1992年憲法が「政府は国の政策を決め実行する」としていたのを改正し、「大統領が国の政策を決め、政府はこれを実行する」とし、大統領に議会解散権も与えて、大統領権限を大幅に強化し、1992年憲法下では一院制でNational Assemblyだけだったのを改め、Senateを設けて議会を上下二院制にした。
 2023年憲法草案の是非を問う国民投票は、治安を理由に数十の投票所は閉じられ、キダル州全域で投票が行われず、投票率は38%しかなかった。そのため、一般市民やM5など多くの反対党は、「憲法改正は、ゴイタらが権力の座に居座るための策略」と批判した。しかし、マリの憲法裁判所は、国民投票で97%の賛成が得られたとして、憲法改正を有効と認めた(”Mali’s military junta holds referendum on new constitution it calls a step toward new elections”, AP News, 18 June 2023;”Assimi Goita: President gets sweeping powers in new Mali constitution”, BBC, 23 July 2023;”Mali: constitutional Court adopts draft new Constitution”, Anadolu agency, 22 July 2023.)。

注28:ゴイタの軍事政権は、国勢調査を行うフランスの会社Idemiaの手違いなど、あらかじめ予防できる技術的問題を挙げて、2023年憲法の国民投票当時には2024年2月4日と18日に予定されていた大統領選挙を延期した。そのため、M5などの反対政党は「軍事政権は選挙の約束を守る意思がない」などと批判している(”Mali: several parties condemn junta’s ‘unilateral’ move to postpone presidential vote”, Africa news, 27 Sep. 2023.)。

注29:第4次トゥアレグ反乱が始まってからフランスの軍事介入前の情況をみると、三つ巴の戦闘と言っても、2012年4月6日のAzawad独立宣言まではマリ軍とトゥアレグ反乱勢力間の戦闘が主で、2012年6月以降は過激なイスラミストがマリ北部を占領しトゥアレグ反乱勢力に襲いかかって両者の戦闘が主だった。
 これに対し、現在は、マリ軍はトゥアレグ反乱勢力(CMA)と過激なイスラミスト(JNIM)が協力して戦っている共闘戦線(CMA+JNIM)とISGSに対峙して戦っている。
 トゥアレグ反乱勢力(CMA)と過激なイスラミスト(JNIM)が協力している理由は、共に共通の敵であるマリ軍と戦っているからだけでなく、第2次トゥアレグ反乱のリーダーIyad Ag Ghalyが、AQIMのトゥアレグ人の分派Ansar Dineのリーダーとなり、さらに2017年3月に結成されたJNIMのリーダーとなったことに示されるように、JNIMとトゥアレグ反乱勢力には民族的な繋がりがあるからである。また、この地域のアルカイダ系イスラミストの活動をリードしてきたAQIMリーダーのドルクデル(Abdelmalik Droukdel)が7年に及ぶフランス軍の追跡を受けて2020年6月に殺害されたこともある。つまり、ドルクデルはアルジェリア出身のアラブ人で、超過激なシャリア法によるマリ全土の支配を目指していたが、彼が殺害されたことによってJNIMリーダーのLyad Ag GhaliとMLFリーダーのAhmadou Koufaは、ドルクデルのくびきを離れこの地域のアルカイダ系のイスラミストの活動をリードすることになった。Lyad Ag Ghali はトゥアレグ人、Ahmadou Koufaはフラニ人で、中央政府の存在を認めている点ではCMAと主張が共通している。ただし、中央政府の存在を認めた上で、マリ北部をどの様に治めるのか(超過激なシャリア法によるのか少数民族の権利を認めた自治によるのか)についてはCMAと過激なイスラミストは意見が異なる。
 なお、ISGSは、西サハラ出身のアルジェリア人で元Al-Moubaritoun のリーダーだったAdnan Abu Walid al-Sahrawi(フランスの軍事作戦で2021年8月に殺害された)が2015年にISのバクダディに忠誠を誓い、Al-Moubaritounを割る形で創設したことに示されるように、ISGSは民族的にも信条的にもCMAやJNIMとの共通項はなく、互いに対立している。
 また、現在は当時と違ってワグネルが侵出しマリ当局を支援しているが、ワグネルの支援は逆効果でしかない点は本文に記載したとおりである。

注30:マリ軍の兵士の数は約7000人(ちなみに日本の自衛隊員の実員数は約23万人)で、これには第2次トゥアレグ反乱後の和平合意で組み入れられたトゥアレグ人兵士も含まれ、マリ軍の士気は高いとは言えない。それは第4次トゥアレグ反乱が始まってからフランスの軍事介入前の戦闘で投降したマリ軍兵士は約1000〜1500人(”Mali’s Tuareg rebellion: What next?”, Al Jazeera, 20 March 2012.)、捕虜になったマリ軍兵士は約400人で(”Des prisonniers crient leur dētresse”, El Watan, 8 April 2012.)、トゥアレグ反乱勢力や過激なイスラミストからの投降者や捕虜の数と比べ目立って多いことに示されている。また、マリ軍は、訓練も装備も貧弱である。
 トゥアレグ反乱勢力と過激なイスラミストの兵士の数は推測するしかない上、新入者や転向者など出入りが激しいので確定的なことは言えないが、トゥアレグ反乱勢力の兵士は約3000人で動員できる数も含めれば約6000人(”Mali’s Tuareg rebellion : What next?”, Al Jazeera, 20 March 2012; “Al-Qaeda unlikely to profit from Mali rebellion: expert”, The Daily Star, 2 April 2012.)、過激なイスラミストの数は約3000〜6000人(”Analysis: French early strike shakes up Mali intervention plan”, Reuters, 11 Jan 2013; “France’s African forever war”, UnHerd, 31 July 2020.)で、マリ軍と互角又はそれ以上な上、トゥアレグ反乱勢力と過激なイスラミストはフランス軍もMINUSMAもいない治安の空白を受けて勢力を拡大しようと勢いに乗っている。また、カダフィの武器庫から流出した武器を有し、戦闘経験が豊かな者も多い。

政策オピニオン
多谷 千香子 法政大学名誉教授
著者プロフィール
東京大学教養学部卒業。東京地検検事、法務省刑事局付検事、外務省国連局付検事、国連社会権規約委員会委員、国連女子差別撤廃委員会委員、旧ユーゴ戦犯法廷裁判官、最高検検事などを経て退官後に法政大学教授となる。現在、法政大学名誉教授。専門は国際刑事法。著書に『ODAと環境・人権』(有斐閣)、『ODAと人間の安全保障』(有斐閣)、『民族浄化を裁く―旧ユーゴ戦犯法廷の現場から』(岩波新書)、『廃棄物・リサイクル・環境事犯をめぐる101問』(立花書房)、『戦争犯罪と法』(岩波書店、櫻田会奨励賞受賞)、『アフガン・テロ戦争の研究―タリバンはなぜ復活したのか』(岩波書店、櫻田会特別功労賞受賞)、『アラブの冬―リビア内戦の余波』(法政大学出版局)、他がある。
リビア内戦の余波によりマリにおいても過激なイスラミストが活動を活発させている。マリは国の分裂・解体の危機に直面しているが、そのような状況に至った経緯と原因は何か。

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