ウクライナ戦争の行方とバイデン政権の狙い ―太平洋戦争終結の教訓から見たウクライナ戦争の終わり方―

ウクライナ戦争の行方とバイデン政権の狙い ―太平洋戦争終結の教訓から見たウクライナ戦争の終わり方―

2024年2月20日
はじめに

 2022年2月に始まったウクライナ戦争はすでに2年が経過するなか、当事国の被害のみならず世界への影響も大きく、この戦争をどう収束させるかが重要な段階になっている。戦争の収束に関して言えば、ロシアを知らずして、戦争を終わらすことはできないから、まず「攻め込んだプーチンの論理は何だったのか」について分析する必要がある。次に、戦争が今日までどのような経緯をたどってきたのかを振り返り、その上で戦争の現状と今後の見通しについて述べたい。最後に、太平洋戦争の開戦時と終戦時に私の祖父(東郷茂徳)が外相を務めていたことから、とくに終戦に至る経緯を説明した上で、ウクライナ戦争を終わらせるために、太平洋戦争での教訓をどう生かせるかについて話をしたいと思う。

1.攻め込んだプーチンの基本論理は何か

 プーチン大統領が、2022年2月にウクライナに攻め込んでしまったことにつき、なぜ攻め込んでしまったのか。軍事侵攻をしないでこの問題を解決するすべはなかったのだろうか。そのことを考えることは、この戦争の本質を考えるうえで、本質的重要性をもっている。
 同時に、戦争がはじまった以上、喫緊の課題は、一刻も早く「停戦」をいかに実現するかにあると考えるなら、そのためにも、戦争を始めたプーチンの論理を知る必要がある。
 戦争の終わらせ方にはさまざまなやり方があるが、第二次世界大戦(あるいは太平洋戦争)のように、敵を徹底的に敗北に追い込むことも一つではあるが、プーチンを完全に敗北させてこの戦争を終わらせることは極めて考えにくい。
 戦争の本質を知るためにも、一刻も早い停戦に到着するためにも、攻め込んだ側(プーチン大統領)の論理を知ることが喫緊の重要性をもっている。

(1)プーチンの根本意識

 ウクライナに関するプーチンの根本意識は、次の二つに集約されると思う。
<第一条件>ウクライナのNATO非加盟・中立化
<第二条件>ロシア系ウクライナ人の保護
 これら二つの条件が実現していれば、プーチンにとって、軍事行動を起こしてまでウクライナに攻め込む必要はなかった。
 プーチンが大統領代行に就任したのは、2000年1月1日だったが、それ以降、4〜6年間は、西側との関係は順調(協力的)であった。このころプーチンがウクライナに戦争をしかけることなど、想像だにできなかった。この関係が、その後も維持されていれば、現在のようなことにはならなかったに違いない。

(2)第一条件の崩壊

 2023年4月にフィンランドがNATOに加盟し、スウェーデンも加盟に向けて手続きが進められるなど、NATOの構造に変化が起きているが、その直接の原因はウクライナ戦争にあるわけで、プーチンにしてみれば自業自得と言わざるを得ない。
 プーチンが大統領に就任した2000年の前に、NATOに加盟した旧東欧諸国は、ポーランド、ハンガリー、チェコの3カ国で、就任後、2004年にはバルト三国、ブルガリア、ルーマニア、スロベニア、スロバキアが加盟した。更に旧東欧諸国のNATO加盟は進んできた。その動きをプーチンの立場から見ると、冷戦崩壊後、東西の境界線(NATO勢力圏)がどんどんロシアに接近してきているように見えた。
 そしてプーチンにとって、これ以上絶対にNATOが接近したならば、ロシアの存亡にかかわる重大な事態になるとされたのが、ロシアと直接国境に接する旧ソ連邦構成共和国のウクライナとジョージアだった。これについてプーチンは、キューバ危機のとき、米国の目と鼻の先のキューバにソ連の兵器を置くことは、米国にとって許されないことと同じことだと説明した。
 2008年、ブカレストで開かれたNATO首脳会議で、ウクライナ(およびジョージア)の原則NATO加盟が承認された。この会議のリーダーシップを取ったのが、ブッシュ第43代大統領(在任2001〜09年)だった。最初、ブッシュとプーチンの関係は非常によかったのだが、この会議を契機にその関係が崩れ始めた。ブッシュの背景には、共和党のネオコンがいて、彼らがこうした方向に進めようとしたのだった。
 このNATO会議の決定にプーチンは、レッドラインを完全に越えたとして激怒した。これが、今日のウクライナ戦争に至る、第一条件の崩壊であった。

(3)第二条件の背景

 第二条件について述べる前に、ウクライナの特殊な国内状況について踏まえておく必要がある。
 ウクライナという国は、簡単に言うと、まったく異質な宗教的・歴史的背景を持つ地域がいっしょになって国が構成されている。一つは、ウクライナの西側に位置するガリツィア地方で、ここはポーランドを旧宗主国とし、宗教はカトリックの一種、言語はウクライナ語だ。もう一つが中央・東部地方で、宗教は正教、言語はロシア語、モスクワと親和的傾向が強い。とくにクリミアとドンバスで、その傾向が著しい。大雑把に言って、ロシアに親和的なウクライナが五分の四、ガリツィア地方が五分の一程度を構成する。
 第二次世界大戦では、1941年6月21日、ヒトラーがソ連に侵攻し対ソ戦が始まった。このことが今日に至るウクライナに甚大な影響(ねじれ現象)を与えることになった。ドイツ軍は、中央部はモスクワを、北部方面はレニングラードを攻め、南部方面はウクライナ、即ちその西部に位置するガリツィア地方に攻め込んだ。
 当時、この地方はポーランドに支配されており、ポーランドに対して抵抗運動を繰り広げる人々がいたが、その勇士の一人がステファン・バンデラ(1909〜59年)だった。ナチス・ドイツ軍がガリツィア地方に侵攻してポーランド支配から解放されると、バンデラは、ナチスと協力してウクライナの独立を実現しようとした。
 しかしこの戦いは赤軍が勝利した。ナチスとの協力を企図したウクライナ愛国主義者は当然処刑の対象となった。かれらの大部分はカナダに亡命、バンデラ自身は西ドイツに亡命、1959年にミュンヘンでKGBによって暗殺された。カナダに亡命したウクライナ人は、ウクライナ人としてのアイデンティティを保った亡命生活を開始し、彼らは、いつかウクライナ(ガリツィア)への帰国を夢見る生活を始めたのである。
 第二次世界大戦後ウクライナでは、それまでソ連・ロシア領になったことはなかったガリツィア・ウクライナが初めてソ連領となり、中央・東部の親ロシア部とともに、ソ連領内のウクライナ共和国となったのである。

(4)第二条件の崩壊

 第二条件が崩壊した時点がどこかというと、私は2014年2月のマイダン革命だったと考えている。
 独立後のウクライナでは、独立を達成したクラフチュク、彼を引き継いだ2代目大統領のクチュマまでは、二つの要素からなるウクライナを一つにまとめていくために欧州とともにロシアにも配慮した政治をしていた。ところが、そのあとのユシチェンコ大統領(在任2005〜2010年)は、ガリツィア地方を地盤として出た人物であったから、欧州との経済連携を強化するなど親欧州政策を採った。
 次のヤヌコーヴィチ大統領(在任2010〜2014年)は親ロシア系で、ロシア系住民にも利益が回るような政策を進めようとした。EUとの政治・貿易協定の調印を見送ったことに対して、2013年秋ガリツィア系の若者たちが反発・激怒してデモを繰り広げた。その後、国内は騒乱状態に陥り、翌14年2月、ヤヌコーヴィチ大統領は国外に脱出し議会から解任された。
 ヤヌコーヴィチが追い出された背後に、バイデン副大統領(当時、オバマ政権)がいた。バイデンは、民主党のネオコンの指導者の1人であり、ビクトリア・ヌーランドなどを指揮しつつ、その考えに基づいてヤヌコーヴィチ追い出しを後押ししていた。
 こうした事態を見たプーチンは、このまま放置しておいたらロシア系ウクライナ人を保護することが出来なくなるとの危機感を抱き、ロシアによるクリミア併合へとつながっていく。
 クリミアは、現在に至るまで、そして今後の展望を考えたときに、極めて重要な意味を持っていると考える。1954年、ロシア生まれではあるが幼少期からウクライナで過したフルシチョフ書記長(当時)が、ロシア共和国からウクライナ共和国への友好の証として割譲したのだった。もしこのときクリミア割譲をやっていなかったならば、現在のウクライナ問題の解決も容易であったに違いない。
 クリミアでは、ヤヌコーヴィチ政権崩壊後、ウクライナ暫定政権へ抗議する親ロシア派と暫定政権支持派の衝突が発生し、14年3月に国民投票が行われ「クリミア共和国」が独立を宣言した。直に、ロシア共和国と「クリミア共和国」は、ロシア共和国がクリミア共和国を併合する二国間条約を締結。「クリミア共和国」及び「セヴァストーポリ市」はロシア連邦の構成主体の一部となった。(ウクライナ政府及び西側は、以上のロシアの手続きを認めていない。)
 14年6月にポロシェンコ大統領(在位2014〜2019年)が選出された。東部ウクライナのロシア系ウクライナ人の住むドンバス地域での紛争解決のために、独仏が仲介してウクライナとロシアの間で「ミンスク2」(2015年2月)協定が結ばれた。
 このときからウクライナ戦争が起きた2022年2月までの8年間は、ドンバス地域で戦闘が終焉したわけではないが、曲がりなりにも、一定の均衡が、成立したのである。

(5)外交から武力行使へ

 2019年の大統領選挙で、ポロシェンコを破ってゼレンスキーが新大統領に選出された。選挙期間中、ゼレンスキーはロシアとも仲良くやっていくという選挙公約を掲げていた。
 その後、2021年1月にバイデンがトランプに代わって米大統領に就任した。すでに述べたように、バイデンは民主党におけるネオコンの代表として、今後の米国のヨーロッパ政策の重点を、米国の価値を尊ぶウクライナに置く政策を推進し始めたと観察される。
 事実、バイデン登場後1年余りの間にゼレンスキーの態度が一変する。ゼレンスキーは、クリミア奪還運動を始めたほか、「ミンスク2」の完全放棄を明言した。プーチンにとってこれらの言動は、バイデンに背中を押されたウクライナによる許せない挑発(provocation)として見えたと思われる。その結果、2022年2月24日のウクライナへの武力行使「特別軍事作戦」が展開されたのだった。
 「特別軍事作戦」の範囲がどこなのかについては、さまざまな議論があって明確ではない。2月21日、ドンバス地域において親露勢力がすでに構成していた「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」と友好相互援助条約を締結している。特別軍事作戦は、この条約にもとづいて実施されている。
 それでは、キーウを含むウクライナ全体をどうするか。戦争目的としてもう一つ、ウクライナ政府によって虐げられた人々を保護するために、ウクライナの非軍事化と非ナチ化を図ることが明示されている。
 いずれにせよ、ロシアという強大な国が軍事行動を起こせば、ウクライナはがらがらと崩れて降伏するだろうと読んでいたように思われる。

2.ウクライナ戦争の遂行経緯

(1)最初の1カ月半あまり

 振り返ってみると、ロシア軍がウクライナに侵攻(2022年2月24日)してから1カ月半余りは、決定的に重要な期間だった。この期間に何が起きたのか、見てみたい。
 まず、プーチンは完全に見通しを誤ったと言える。2014年のロシアによるクリミア占領以来の8年の間に、ウクライナが強兵化したことを彼は十分理解していなかった。つまり兵力をウクライナに侵攻させればすぐに白旗を上げるだろうと考えていたようだが、そうはならなかった。
 そこでプーチンには、この戦争をだらだらと続けていくよりは、早めに停戦に持っていくことが賢明だと考える理由が生まれたのではないか。一方、ウクライナ側も、ロシアのキーウ攻略などの緒戦ではロシア軍に勝ったけれども、早期停戦によっていったんことを収めることに、なみなみならない関心をもったようである。
 最初の停戦交渉は、2月28日にまずベラルーシで行われ、その後も何度か行われたが、進展は見られなかったが、3月29日、イスタンブールで本格的な和平会議が開かれることになった。この会議でウクライナ側から、私の眼から見ても仰天するような和平案が提案された。
 ウクライナの提案は、停戦を実現し、ロシアとウクライナの平和的共存を可能にするもので、全部で10項目あったが、私は次の4項目に注目した。

①第一項目
ウクライナは中立国であることを宣言し、国際的な法的保障があるなら、いかなるブロックとも同盟を結ばず、核兵器を開発しないことを約束する。保証国としては、ロシア、イギリス、中国、アメリカ、フランス、トルコ、ドイツ、カナダ、イタリア、ポーランド、イスラエルを希望するが、他の国々も条約に参加することを歓迎する。

②第二項目
この国際的な保証は、クリミアやセヴァストーポリ、ドンバスの特定の地域には適用されない。協定の締結国はこれらの範囲について明確に合意するか、締約国がそれぞれの範囲について異なった解釈をしていることに合意しなければならない。

③第三項目
ウクライナはいかなる軍事同盟にも参加せず、外国軍の基地や駐在を受け入れないことを誓約する。国際的な軍事演習は保証国の同意がある場合のみ実施する。他方、保証国はウクライナのEU加盟を推進する意図があることを確認する。

④第八項目
締約国はクリミアおよびセヴァストーポリに関する問題を解決することを望み、15年間、ウクライナとロシアによる二国間交渉を行うことを約束する。ウクライナとロシアは、これらの問題を軍事的手段によって解決するのではなく、外交努力を継続することを誓約する。

<第一項目>
 このポイントは、その保証国の中にロシアも含まれていることだ。もしこの中にロシアが入らなければ、保証国は第二のNATOのような存在になりかねない。これではロシアが同意するはずがない。ロシアも保証国になるという提案なら、検討に値するだろう。

<第二項目>
 この項目のいわんとしていることは、中立条約の対象からクリミアとドンバスの一部を外すということだ。しかもドンバスのどの地域を外すかについて合意できるならば合意し、合意できないならばそれぞれの解釈をきちんと明記することが提案された。
 クリミアとドンバスを中立条約に含めるなら、保証国がこれらの地域に介入する余地が生じることになる。それではロシアが認めないだろうから、あえて中立条約の対象から外したわけだ。

<第三項目>
 第一項目の延長線上に位置づけられるのが、第三項目だ。ウクライナが中立の立場を取るなら、必然的に外国の軍隊の基地や駐留は認められないはずだ。軍事演習も保証国の同意がある場合のみに限るとするのは不自然ではない。

<第八項目>
 クリミアについてはロシアとウクライナで15年間交渉し、外交によって解決する努力を続けることを誓約するとした。ドンバスについては、この時点で戦闘が続いているために言及しなかったのだろうが、停戦が実現すれば、クリミア型の合意も可能というニュアンスも読み取れる。

(2)和平交渉を挫折させた要因

 このころゼレンスキーは必死に停戦に向けて取り組み、プーチンが信頼を置く人物としてドイツのゲアハルト・シュレーダー(第7代連邦首相、ドイツ社民党元党首)とイスラエルのナフタリ・ベネット(第18代首相)に仲介を頼んだのだった。しかしこれらの試みはうまくいかなかった。
 その障害となったのが次の二つだった。ブチャでの虐殺報道と欧米、とくに英国が主導してウクライナに対して停戦をせずに戦争の継続をするように後押ししたことである。
 イスタンブールでの停戦交渉がうまくいくように見えた段階で、ロシア軍は3月29日、キーウ周辺などにおける軍事作戦を縮小することを発表し撤退を始めた。その後、4月2日、ウクライナ政府はロシア軍がキーウ周辺から急速に撤退し、キーウ周辺の全域を奪還したと発表した。しかしこの3日間の空白期間に、現地ブチャの虐殺報道は一切なされていなかった。
 4月2日、ブチャ市長は、ブチャだけで280人の遺体を集団埋葬したことを明らかにし、同じころロイター通信などがその様子を世界に報道した。ゼレンスキーは「これはジェノサイドだ」とロシアを強く非難し、4月4日にブチャを視察した際には、「ロシア軍から解放された街に行くたびに、新たな犯罪の証拠が明らかになっていき、話し合いが難しくなっていく」と述べた。このころからロシアとの交渉に後ろ向きになっていく。事実、4月6日にウクライナ政府は、3月29日の和平提案から一変して新たな強硬提案を行い、ロシアは強く反発した。
 ロシアのラブロフ外相は、4月4日、「ロシア軍が3月30日にブチャを離れたあと、地元の市長が3日間テレビに出演していたが、その際に写し出された路上には遺体はなかった」と述べた。
 ニューヨーク・タイムズが衛星写真や関連映像などを分析したところ、3月11日以降、少なくとも11人の遺体が路上に放置されていたという。このときブチャを支配していたのはロシアだからラブロフ外相の発言とは食い違いがみられるが、西側のなかにもウクライナ政府の発表を疑問視する声もでている。
 それではブチャの虐殺は、一体誰がやったのか。これに関してはいろいろな情報源からさまざまな報道がなされている。最近の情報によると、ウクライナのアゾフ部隊がやったのではないかという説が多く出されている。ウクライナ軍の中の特戦隊のような立場にいるアゾフ部隊の立場からすると、ロシアが虐殺をやったとなると、戦争継続の正統性を得ることができる。
 さらに4月9日には、ジョンソン英首相(首相)がキーウを電撃訪問し、「いまロシアとは停戦交渉はするべきではない」とゼレンスキーに伝えと報ぜられた。このジョンソン首相の言葉がウクライナ側には非常に重くのしかかったという。この点については、先述したシュレーダーやベネットが明言している。
 いずれにしても、3月29日の和平交渉で停戦の一歩手前までいったのに、前述の二つの要因によって交渉が破綻した結果、戦争が今日まで継続している状況だ。ウクライナにしてみれば、欧米から戦争継続を促された以上、西欧諸国からの武器類の供与を求めて戦争を続けることになったのである。

(3)2023年前半までウクライナ(米英)有利

 2022年春以降、23年前半まではウクライナ、英米側に有利な形で戦争が推移した。以下、主な内容を記す。

①クリミア奪還への動き
まずクリミア奪還がウクライナの政策目標となり、22年8月9日にウクライナ軍は、クリミア攻撃を開始し、10月8日にはクリミア大橋を、23年6月22日にはチョンガル橋を攻撃した。

②モスクワへのドローン攻撃
23年5月ウクライナ軍は、モスクワへドローン攻撃を開始し、7月には大幅に増加させた。

③西欧諸国からの武器・軍事援助
2023年に入ると、ドイツからレオポルド2が、広島サミットでは米国からF16などの供与が表明された。軍事支援では、米国が22年5月に200億ドル、翌23年7月には700億ドルと、軍事予算を大幅に増やした。
 こうした流れを受けてゼレンスキーは、クリミアを含む全占領地からのロシア軍の排除を宣言した。クリミア奪還について米国は明言していなかったが、広島サミットにおいてはじめて、サリバン安全保障担当補佐官は、「クリミアは当然取り返すべき」と明言した。

(4)ロシアの対応

 それまでの戦況を判断してプーチンが戦略を大きく転換したのが、2022年9月30日だった。その日、ドンバス2州にザポロジア、ヘルソンを加えた4州で国民投票を実施、その結果を受けて4州をロシアに併合した。その結果、それまでまがりなりにも、国際法上の独立した「人民共和国」として承認するなどの手続きを踏んできたドンバス地域の二つの「人民共和国」が消滅し、ドンバス両州は、ロシアの直轄領になってしまった。
 なぜザポロジア、ヘルソンまで加えたのか。プーチンの意図としては、両州の南にクリミアがあるので、クリミアを担保するための措置であったように思われる。いずれにせよ、この時以降、プーチンは、ロシアは併合4州からの撤退は峻拒する旨明言するようになり、ウクライナ側からの攻撃に備えて、大型の塹壕陣地の構築に入ったのである。

(5)2023年後半からロシアに有利な展開

 23年後半からは、さまざまな理由により事態はロシアに有利な方向に展開しつつある。戦争が長期化する中で、最近になり22年3月29日の和平交渉で停戦を実現していれば、どれだけ多くの人命を失わずに済んだことかという、「血を絞るような声」があちこちから聞こえている。
 23年6月に開始されたウクライナ軍の反転攻勢は、欧米からの大量の武器弾薬供給を受けながら進めたものの思うような成果を挙げられず、しかも東部正面と南部正面のどこを主戦場にするかについての、ウクライナ軍の作戦の乱れもあったようである。
 それ以上に決定的なことは、23年10月にハマスとイスラエルの紛争が起こり、米国の余力と関心、さらには世界の関心が中東に注がれてしまったことである。
 さらにウクライナの内紛が顕在化した。その大きなものが、ザルジヌイ総司令官とゼレンスキーとの間の緊張関係だった。ザルジヌイ総司令官は、戦況について「現状は甘くなく、一進一退で、どちらが勝つかは軽々には言えない」と発言したのに対し(23年11月、ロンドン・エコノミスト誌)、ゼレンスキーは、「ウクライナは必ず勝てる」と強気の発言をした。一部の欧米誌は「ゼレンスキーは裸の王様になっているのではないか」という報道までなされた(TIME誌)。
 最近では、ゼレンスキーの最側近だったアレストビッチ(大統領府顧問)が、ゼレンスキーはもうダメだとはっきり言いだし、米国に亡命した。さらにウクライナ軍では兵士が不足しており、ときにはウクライナ人が拉致されて軍にいれられているという話も伝えられる。ゼレンスキー陣営のいろいろなところでひずみが起きている。
 また2023年12月ゼレンスキーは訪米して米上下両院で懇談し支援を訴えたが、議会の承認を得られず、支援は先延ばしされた。2024年に入りサリバン大統領補佐官(安全保障担当)は、2024年に600億ドルのウクライナ追加支援が出来なければ、負けるかもしれないと発言した。こうした発言を聞いてみると、現状はウクライナと米欧にとって、厳しいものがあると思わざるを得ない。

(6)プーチンの考え

 プーチンがウクライナ戦争をどう見てどう展望しているかを考える時に、最も重要な発言が、4時間ぶっ続けに語った年末記者会見・国民対話(23年12月14日)だった。メモなしで何時間にもわたって語り続けられるプーチンの能力は、世界中を見ても並外れていると思う。
 会合冒頭司会が「平和はいつ来るのか?」という内外の最大の関心事の問をだすと、プーチンは「戦争目的が終了したとき平和がなされる。戦争目的とは、非ナチス化、非軍事化、中立化だ」と答えた。
 まず非ナチス化とは何か。「英雄化されたバンデラの現代版であるアゾフ連隊が跋扈しており、彼らがウクライナ国内で蛮行を働いているので、彼らの非ナチス化は当然だ」。
 非軍事化とは何か。「22年3月29日のよくできた和平提案(パラダイム)を『ストーブに放擲した』のは英米ではないか。それゆえにウクライナの非軍事化を主張するのは当然だ」。更に、この見解に加えてもう一歩踏み込み「南東ウクライナは元来ロシア領で、黒海は露土戦争に勝利したロシアの果実であり、オデッサはもともとロシアのものだ」とプーチンは述べたのである。
 興味深いのは、司会から「米国との関係構築をする用意はあるのか?」との質問には、「関係構築の用意はあるが、米国が条件を満たしロシアの立場を理解すればだ」と答え、一歩含みを残したように見えたことである。

3.ウクライナ戦争の現状と今後の見通し

 すでに戦争開始から2年が経過しようとするなか、現状を見ると、プーチンは「交渉の用意もあるが」と言いつつも、『戦争目的』の堅持を主張し、ゼレンスキーは、基盤弱くとも『全領土を奪還するまで戦争を継続』と主張し、事実上双方譲らない状況にある。
 2024年の政治日程を見ると、3月にロシア大統領選挙があり、プーチンは再選されるだろう。また11月の米大統領選挙があるが、バイデンは、少なくとも大統領選挙までは「ゼレンスキーが事態を改善し、いずれ停戦交渉に備えるために武器支援はやめない」と言明している。サリバン大統領補佐官の米国からの武器追加支援零への警告発言のようなものはあるが、米議会からの最低限の妥協を得つつ、11月までの戦いは続くと予想される。
 さて、問題は、11月のアメリカ大統領選挙の結果である。共和党候補としてトランプ前大統領が急速に票をかためており、結局バイデン対トランプの一騎打ちの可能性がたかまっているようである。
 自分は、アメリカの価値の絶対化を基礎とするネオコンの代表であるバイデンに比べると、トランプの発想はディールという一種の現実主義にねざしているので、どのようなウクライナ政策をとるか興味をもっている。
 自分にとって一番望ましいのは、力のバランスに最重点を置く現実主義の大統領が生まれることであるが、今回の大統領選にそういう候補は生まれないようである。しかし、昨今の米社会からは、そういう健全な現実主義の声が寄せては返す波の如く聞こえていることを述べておきたい。
 最も重鎮といえるのは、ジョージ・ケナン、キッシンジャー(23年11月死去)、ミアシャイマー、エマニュエル・トッド、ノーム・チョムスキーなどである。
 次のグループとして、ジェフリー・サックス、ベンジャミン・アベロー、ゴードン・ハーン、セイモア・ハーシュなどがいる。ベンジャミン・アベローは、『How the West Brought War to Ukraine』というパンフレットのような短い書を著しているが、傑作だと思う。ゴードン・ハーンは、ブチャの虐殺について詳しく調査しウクライナ側が仕掛けた可能性を論証した。セイモア・ハーシュは、ノルドストリームの爆破にアメリカ国家機関が関わっていたことを、辛抱強く論証し続けている。
 最後のグループとして、エドワード・ロザンスキー、ジェレミー・クズマロフ&スコット・リッター、トマス・グラハム、パ・アームストロングなど、Johnson’s Russia Listに掲載された論客がいる。彼らはかつてネオコンのリーダーに仕えていたが、現在のようなことにならない方途はあったのではないかということについて、苦渋に満ちた回顧談を発表し続けている。
 現在の米社会全体の言論界ではマイナーではあるが、アメリカ民主主義の力強さを示すものとして、その考え方は傾聴に値するものと考えて紹介した。
 さて、米大統領選挙がどのような結果になるとしても、いずれにせよ、現時点で以下の二つを行うことは必須であると考える。

①プーチンとの対話のチャンネル構築
②プーチン研究

 この点についてとくに米国はしっかり取り組むべきだ。米国は、太平洋戦争終結に当たって、敵国であった日本についてこの二点をしっかり実行して対応し、最終的に日本を「救った」のである。
 最後にその点を述べたい。

4.太平洋戦争終結に向けた米国の取り組みとウクライナ戦争への含意

(1)太平洋戦争終結の経緯

 私の祖父・東郷茂徳(1882〜1950年)は、太平洋開戦時の東条内閣の外務大臣(1941年10月18日〜42年9月1日)と終戦時の鈴木貫太郎内閣の外務大臣(1045年4月9日〜8月17日)を務めた。この経験が、今日のウクライナ戦争の終わり方に向けて示唆することが多いので、この点について述べたい。時間の関係で開戦時の話は飛ばして、終戦時の話に焦点を当てて述べてみたい。
 東郷茂徳は、1945年4月9日に外相に就任すると、終戦に向けて二つの重要なことに取り組んだ。一つは、当時の戦争遂行の最高メンバーである、鈴木総理大臣、東郷外相、阿南陸軍大臣、米内海軍大臣、梅津参謀総長、及川軍令部総長の6人で構成された「六巨頭会談」(最高戦争指導者会議)の開催である(5月11日から開催)。この会議で、6人の間で阿吽の呼吸で「終戦しないといけない」という方向に導かれていった。
 もう一つは、ドイツ降伏後、ソ連が極東に向けてシフトし始めていたことなどソ連の対日態度がすこぶる警戒すべき状況にあったことから、陸軍参謀本部と海軍軍令部からソ連の参戦防止に向けてあらゆる努力を傾けてほしいとの要請があった。ソ連問題をとりあげ、軍を巻き込んで終戦工作を議論することを最適の話題としたことである。
 最終的に、近衛文麿元総理をソ連に派遣して、天皇が終戦の決断をすることをソ連経由でルーズベルトに伝えることになった。
 そのような中、7月23日にポツダム宣言が出され、8月6日広島に原爆が投下されて悲劇的な結果を招いた。8月9日には、長崎へ原爆が投下されソ連が満洲国に侵攻した。その日の深夜に昭和天皇列席のもと第一回の御前会議が開かれた。六巨頭間の議論が3対3に分かれたところで、鈴木首相よりご聖断を求め、天皇は、四条件でポツダム宣言受諾という継戦派の意見を退け、一条件でポツダム宣言受諾という和平派の意見に同意された(第一次御聖断)。
 こうして日本は、「天皇の国家統治の大権に変更を加ふるが如き要求は之を包含し居らず」という「了解の下に」ポツダム宣言を受諾することを連合国側に伝えたのである。
 これに対し8月12日早朝、国体護持に関して、「日本国政府の確定的形態は、……日本国国民の自由に表明する意志によって決定する」とのバーンズ回答が届き、14日午前、第二回の御前会議が開かれた。
 再び、これをもって皇室の安泰は保てるという和平派とこれでは不十分という継戦派の見解が3対3に分かれて決着せず、天皇は、これにて十分と判断され、第二次世界大戦はこれにて最終的に終了したのである(第二次御聖断)。

(2)日本を降伏させるための米国の取り組み

 バーンズ回答に、「日本国政府の確定的形態は、……日本国国民の自由に表明する意志によって決定する」との文言が出てきた背景には、何があったのか。米国側には、この表現であれば、日本の和平派は継戦派を説得して戦争を終わらせることが出来るに違いないとの知見があったと思う。
 その背景の一つが、米政府の知日派ジョセフ・グルー大使(1880〜1965年、駐日大使在任1932年6月〜41年12月、42年8月交換船で帰国)だ。彼は、米政府の中でも最も日本のことを理解している人の一人で、大使離任後帰国して国務次官となった。そしてポツダム宣言に天皇制の温存の文言を入れるべきだと努力したが、その通りにはならなかったものの、その後の経緯を見ると、バーンズ回答には彼の主張が取り入れられたのではないかと推察される。
 もう一つの背景が、日本でも知られた文化人類学者ルース・ベネディクト(1887〜1948年)だ。彼女は、戦争情報局の日本班のチーフを務め、その間、Japanese Behaviour Patternsという報告書を作成し、その内容は米最高指導部に伝わっていた。その報告書の中で、日本人の意思決定の仕方や皇室に対する日本人の考え方などが詳しく書かれており、これらの内容は、戦後『菊と刀』としてまとめられ出版された(1946年)。
 そこに記された日本人の行動様式などは、当時の米国人には理解しにくいものだったが、できるだけ被害を大きくせずに戦争を終わらせるために米政府は、このような作業をしたのだった。こうした米国の敵国に対する姿勢、パワーは、われわれは学ぶことが多いと思う。
 現在のウクライナ戦争に当てはめると、西側の視点に立てば、当時の日本はロシアであり、プーチンに当てはまる。太平洋戦争終結に向けた米国の取り組みを鑑とした場合、プーチンに関する知見を蓄積させておくことが肝要だという結論が自からでてくる。このことを日本として同盟国米国にきちんと伝えることが大切であり、これこそが日本にしかできない同盟国に対する責務ではないかと考える。

(3)日本外交への期待

 ウクライナ戦争開始以降、日露政治関係は一見すると最悪な状態だ。この間、日本は米国を含むG7と共同歩調を取りながらウクライナ支援を訴え、プーチン批判の急先鋒として特にアジア、グローバル・サウスに対する「反プーチン宣伝隊長」のような役割を果たしてきたと思う。本当の役割は少し横に置くとしても、メディアに写し出された日本の姿を海外から見ると、そのような印象は必須と思われる。
 2022年3月1日に日本政府がプーチン個人に対する制裁を科すと、3月21日にロシア外務省が声明を出し、その後、二回にわたる逆ペルソナノングラタを発表し対抗措置を講じてきた。これによってリストに挙げられた100人あまりの日本人が、ロシア入国が出来なくなっている。
 ただし、経済関係は少し緩やかだ。エネルギー協力はできるだけ堅持し、漁業はロシア側の開けた窓をできるだけ活かす努力がなされている。
 今後日本としては、殺傷性のある武器供与を控え続ければ、停戦に向けて貢献しうると思うし、佐藤優氏をはじめ、日本におけるロシアについての本当の知見を有する人たちの中にこのような見解は少しずつ広まっている。
 日本は、太平洋戦争終結における教訓に示された、プーチン研究とチャンネルの維持などの重要性を喚起して米国を説得することで、一刻も早いウクライナ戦争の停戦・終戦に向けた貢献ができるに違いないと思う。
 無益な戦争を終わらせるために一番行動すべきは米国だが、米国に物を申すことができるのは、太平洋戦争の経験を踏まえた日本ではないかと思う。

(2024年1月23日に開催されたIPP政策研究会における発題内容を整理して掲載)

政策オピニオン
東郷 和彦 静岡県立大学グローバル地域センター客員教授
著者プロフィール
1968年東京大学教養学部卒。同年、外務省入省、条約局長、欧亜局長、駐オランダ大使などを歴任。退官後、ライデン大学、プリンストン大学等で教鞭を執ったほか、京都産業大学教授、同大学世界問題研究所長を経て、現在、静岡県立大学グローバル地域センター客員教授。Ph.D.(ライデン大学)。主な著書に『北方領土交渉秘録』『歴史と外交 靖国・アジア・東京裁判』『歴史認識を問い直す 靖国、慰安婦、領土問題』『返還交渉 沖縄・北方領土の「光と影」』他。
ウクライナ戦争もすでに2年を経過するなか、この戦争をどう収束させるかが重要な段階となっている。そのためにプーチンの論理を理解したうえで、戦争の終わり方を考え必要があるが、あわせて太平洋戦争の終結に関する教訓を紹介しそれに資したい。

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