大統領選挙後のロシア:プーチン独裁体制の展望と総括

大統領選挙後のロシア:プーチン独裁体制の展望と総括

2024年2月23日
1.はじめに

 ロシアの大統領選挙が3月15〜17日に実施される。プーチン大統領は、昨年12月8日に出馬を表明した。プーチンが大統領選挙に立候補するのは今回で5回目。与党・統一ロシアの候補者としてではなく、無所属での立候補だ。敢えて無所属で出馬することで、特定政党の政治家ではなく、国民全体の代表者であることを誇示する狙いがあると思われる。
 プーチンは今回の選挙で、投票率70%、得票率(支持率)80%の目標を掲げている。得票率80%という数値はこれまで取ったことがなく、今回の選挙に臨むプーチン大統領の強い決意の程が伺える。5期目を目指す自らへの信任獲得に加え、ウクライナ侵攻開始後初の大統領選であり、特別作戦と称するウクライナ戦争に対する国民の支持の高さを示す選挙にしたい意図があるように思える。そこで3月に実施される大統領選挙の予測及び再選後のプーチン政治の行方を考察するが、再選後の動きは過去二十余年のプーチン体制の総決算の段階と位置付けられることから、まずはプーチン大統領のこれまでの治績を概観しておきたい。

2.プーチン大統領のプロフィールと治績

 1999年12月31日、ロシアのエリツィン大統領は辞任を表明し、プーチン首相(当時)を大統領代行に任命するとともに、自身の後継者に推薦した。そして翌年3月の大統領選挙でプーチンは共産党のジュガーノフ党首を大差で破り、5月に第2代ロシア大統領に就任した。選挙による平和的な政権交代は、ロシアの歴史上初の出来事であった。
 ウラジミール・ウラジーミロヴィッチ・プーチンは1952年10月7日、レニングラード(現サンクトペテルブルグ)に生まれた。祖父はレーニンとスターリンの料理人、父は鉄道車両工場の工員で、母親も掃除婦、配達員等として働いた。家庭は貧しく、貧素な共同アパートの生活だった。75年にレニングラード大学法学部を卒業したプーチンはKGB(国家保安委員会)に勤務し、85〜90年には東独(ドレスデン)で北大西洋条約機構(NATO)の情報収集など諜報活動に従事した。ベルリンの壁崩壊後の90年1月故郷に戻ったプーチンはKGBを退職(予備役大佐に編入)、母校レニングラード大学の学長補佐(国際交流担当)となり、次いでサンクトペテルブルグ市の渉外委員会議長や副市長等を務め、国営企業の民営化や外国資本の誘致に取り組んだ。96年に市長が汚職疑惑で再選に破れるとクレムリンに移り、エリツィン政権に参加、大統領府副長官や連邦保安庁(FSB)長官、安全保障会議書記を経て首相に指名された。少年時代に始めた柔道は有段者の腕前で、76年にはレニングラード市のチャンピンになったこともある。
 革命家のエリツィンとは異なり、プーチンは現実主義的で実務に長けた能吏タイプの指導者であった。ロシア国民が彼に期待したのは、体制の移行に伴う社会秩序の混乱終息と経済生活の安定だった。プーチンもロシア経済の再生や貧困との戦い、国民生活の向上を最優先課題に掲げた。また「法の独裁」というスローガンの下、社会安定のための法治国家建設を打ち出すとともに、大国ロシアの復権と強い国作りの必要性を強調し、ロシアの伝統的価値を重視すると宣言した。プーチンのめざす“強いロシア”とは、単なる軍事大国志向ではなく、新生ロシアの経済発展と政治的安定を可能とする統治能力の高い連邦国家の実現を意味していた。

<集権体制の復活と経済成長>
 プーチンは、大統領を中心とする中央集権体制の強化に取り組んだ。それまでのエリツィン政権は保守勢力との支持獲得競争に勝利するため、地方自治体への大幅な権限委譲を進めたが、これは連邦国家の一体性確保を困難にするばかりか、統一された経済改革を進める上でも大きな弊害であった。強い国家を復活させるには中央と地方の関係を見直し、政治体制の集権化を復活させる必要があると考えたプ−チンは、自治体の上に全国7つの連邦管区を設け、そこに強い権限を持つ大統領全権代表を配置して中央の地方に対する統制を強めた。また首長公選制を廃止し、大統領が地方の行政首長を罷免できるようにした。
 さらにプーチンは、エリツィン時代に政権と癒着し、石油、ガス、電力、メディア等基幹産業を手中に収めロシアの政治・経済を左右する勢力となった新興財閥(オリガルヒ)の力を削ぐため、政商ベレゾフスキーや石油王ホドルコフスキー等の総帥を次々と逮捕・追放し、民間の手に渡った産業を国営企業に再編し国家統制の下に戻した。財閥の傘下で政府批判を続けるマスメディアの抑圧・統制も断行、KGBなどシロビキ(武闘派)と呼ばれる治安関係出身者や軍の幹部を重要ポストに登用する等権威主義的な体制の確立を進めた。
 そしてチェチェン紛争では、独立勢力との一切の妥協を排し領土不可譲の姿勢を誇示する一方、エリツィン時代に制定されたばかりの国歌を廃し旧ソ連時代の国歌を復活させた。プーチンは演説でノーベル文学賞受賞作家アレクサンドル・ソルジェニツィンの言葉をよく引用するが、それは愛郷心やロシアナショナリズムを重視するソルジェニツィンの姿勢を評価してのものだ。大国ロシアを意識し、愛国心を訴えた彼の政策には、国民から高い支持が集まり、エリツィンが苦労した議会との関係も、「統一」をはじめ与党勢力が過半数を確保したことで安定に向かう。
 こうしてプーチンは、短期間に地方(連邦管区の設置や連邦院の再編等)、議会(政権支持勢力の優位、上院の権限縮小)、財界・マスメディア(寡占資本家の政治的影響力排除)の掌握に成功し、安定した政権運営に途を開いた。“上からの改革”をめざす点、強力な国家権力・強い指導者を志向する点で、プーチン政治はロシア政治の伝統を継承するものといえる。
 経済も好調に向かった。過去10年間縮小を続けていたロシア経済だが、インフレは沈静化し、外貨収入源である石油・天然ガス等の国際価格高騰で彼が大統領に就任した2000年にはGDPの10%成長を達成、以後08年まで毎年平均7%程度のプラス成長が続いた。僅か1500ドルだった国民1人当たりの所得が、プーチン支配の10年間で1万ドルを上回るようになった。パイプラインを通してドイツをはじめ多くの欧州諸国に大量の天然ガスを供給することは、ヨーロッパの対露依存を高め、外交・戦略上もロシアにとって好都合だった。プーチン大統領は高い支持率を獲得していった。

<対米欧関係悪化と強まる東欧の勢力圏化>
 エリツィン政権末期、NATOの東方拡大やユーゴ空爆、チェチェン問題を巡りロシアと欧米の関係は冷却化し、露国内にも強い反米感情が溢れた。そのためプーチン政権初期の外交も、米国の一極支配に反対し世界の多極化を促し、ロシアがその一つの極となることが目標に据えられた。CIS 諸国との関係強化をはじめ、プーチンは戦略的パートナーでともに米国の一極支配に反対する中国との提携も緊密化させた。
 しかし2001年に9.11事件後が起きるや、プーチン大統領は対米関係改善に動き、ブッシュ政権が進める対テロ戦争に協力する過程を通して、イスラム過激派との戦いと称してチェチェンの独立運動を徹底的に弾圧した。ロシアが苦しんでいるチェチェン紛争を対国際テロ作戦の一環として世界に認めさせようとの作戦だ。事実、チェチェン問題に関する欧米のロシア批判は影を潜めた。
 プーチンは核弾頭の削減と引換に、それまで反対していたアメリカのミサイル防衛構想も容認するようになった。対米協力への外交方針転換の見返りにロシアが得たものは大きかった。NATOとの関係が修復され、その東方拡大(第2次拡大) を容認する代わりにNATOの意思決定に参画するようになった。ロシアは西側の一員となったのである。02年6月のG8サミット(カナナスキス)で、ロシアは念願のG8メンバーの地位を獲得、06年には自らの故郷サンクトペテルブルクでロシア初の主要8カ国首脳会議(G8サミット)を主催した。またWTO 加盟にも途が開かれた。
 政治の安定を取り戻し、また原油高を背景に経済も順調ななか、10年間でGDP を倍増させるという壮大な目標を打ち出したプーチン政権は高い支持率を維持、04年3月の大統領選挙は事実上の信任投票となり、70%を越える得票率で再選を果たした。こうしてプーチンは2000年から2期8年間大統領を務めたが、ロシア憲法では大統領の連続三選は禁じられていた。そこで後任の大統領にメドヴェージェフ第一副首相を送り込み、自らは首相職に就いた。そして2012年の選挙で勝利し再び大統領に就任(12年5月)。憲法改正で大統領任期が4年から6年に延長され、プーチンは2期12年(〜2024年)大統領職に留まる。
 その間、外交面では02年のイラク戦争を境に米露関係は冷却化した。中東〜東欧で米国の影響力が拡大することを警戒したことやロシアの非民主的な政策を米国が批判したことが関わっていた。民主化の美名の下に旧東欧諸国をNATOやEUに引き込もうと企てているとして西欧諸国を批判したプーチン大統領は、軍備の増強でNATO諸国を牽制しつつ、ロシアの勢力圏と捉えている旧ソ連圏での影響力と実効支配の回復に乗り出す。
 まず2008年にはNATO加盟への動きを見せるジョージアに軍隊を進め、その三分の一を占領し、ロシア連邦北オセチア共和国との統合を求めている南オセチア自治州やアブハジアのジョージアからの独立を承認した。次いでやはり親西側路線を進めるウクライナに圧力を加え、14年3月にはクリミア半島を一方的に併合、さらにウクライナ東部のドネツク州やルガンスク州の親露派武装勢力による分離独立運動を支援するようになった。その延長銭上にウクライナ戦争がある。
 かように大統領としてロシアを長期支配し大国への復権を目指したプーチンだが、ロシアを取り巻く経済環境は再び悪化した。ロシアは原油などのエネルギー資源が輸出の6割以上を占めている。プーチン時代の前半、ロシア経済が好況を呈したのは、中国や新興諸国の経済発展に伴うエネルギー不足による石油価格の高騰に支えられたものであった。しかし、その後の世界経済の停滞で石油価格は大幅に下落し、ロシア経済も国民の生活レベルも厳しさを増していった。
 この国が真の大国となるためには、石油、天然ガス等エネルギー資源(1次産品)の切り売りで外貨を稼ぐだけの構造から脱却し、露経済を牽引する魅力ある製品や新技術の開発、商業化を実現する必要があるが、プーチン政権はそうした経済改革を未だに実現出来ていない。しかも、ウクライナとの戦争でロシア経済はさらに苦しさを増している。

3.誤算だったウクライナ戦争

 ロシアの違法なクリミア併合やウクライナ東部の紛争を抱えるウクライナでは、2019年4月の選挙でコメディアン出身のゼレンスキー氏が大統領に就任した。ゼレンスキー大統領は当初、ロシアとの直接対話で紛争解決を目指す考えを示したが、その後、ウクライナ東部の親露派支配地域に特別な地位(高い自治)を与えることなどを内容とするミンスク合意(2015年)には縛られないと発言、またNATO加盟を強く主張するようになった。
 そのため、ウクライナの西欧接近阻止とゼレンスキー政権排除のためプーチン大統領はウクライナ侵略の意思を固め、東部ウクライナの住民保護を名目にウクライナを武装解除する「特別軍事作戦」を承認し、22年2月24日、露軍のウクライナへの全面侵攻が開始された。2月下旬の開戦は、戦争が長期化した場合、ウクライナの泥濘によって露軍の行動が制約される危険が高い。また露軍は前年から国境周辺で大規模な演習を長期間実施しており、侵攻するならば一旦部隊を戻し兵員の休養や補給、それに武器装備品の修理、メンテナンスを行う必要がある。しかしプーチン大統領はそうした軍事常識を無視して攻撃に踏み切った。なぜか?
 圧倒的に優位な露軍の攻撃にウクライナ軍は対抗できず、支持率の低迷するゼレンスキー政権は早晩崩壊しよう。ジョージア侵攻やクリミア併合時と同様、西側は経済制裁に出ても介入はすまい。そのうえバイデン大統領は米軍の不介入を早々と宣言していた。よって短期間で首都キーウを含むウクライナ全土を制圧、傀儡政権を立ててその西欧への接近を阻止できるとプーチン大統領は判断したのだ。だが露軍は期待したような戦果を挙げられず、一月余の戦闘で冷戦下10年続いたアフガニスタン侵攻を上回る戦死者を出した。露軍苦戦の原因は、準備不足から初戦において機動力の発揮に失敗したことや、ウクライナ軍の頑強な抵抗と国民の強い結束力、ゼレンスキー大統領の高い指導力を見誤ったためだ。欧米諸国によるウクライナへの大規模な武器支援も想定していなかった。突き詰めれば、自軍を過大評価し、対手を見下したということに尽きよう。
 短期間に終結させる目算が外れ戦争は長期化、しかも露軍の苦戦が続いた。自由諸国の経済制裁も加わり、ロシアもプーチン大統領自身も苦境に追い込まれた。更に23年6月下旬には傭兵部隊ワグネルを率いるプリコジン氏の武装叛乱が起きた際、その進軍を阻止できなかったばかりか鎮圧や首謀者の逮捕も行われず、動揺と混乱が続きプーチンの指導力は大きく傷ついた。
 ところが一転、23年夏頃から状況が変化する、6月から始まったウクライナの反転攻勢は失敗に終わり、時が経つにつれ、兵力人員ともに勝るロシアが長引く陣地攻防戦で地力を発揮するようになる。現在、戦局は一進一退が続く硬直状況にあり、ロシア側に好転したとは言えないが、戦争が長引けば長引く程国力で勝るロシアが有利となる。また中国や北朝鮮、イラン等の権威主義国はロシア支援に動き、インドも欧米に同調せず、これら諸国が西欧諸国に代わり露産石油を大量に購入したことで、対露経済制裁の影響は相当程度減殺できた。対露批判で欧米に追随するグローバルサウスの数もさほど増えなかった。開戦から2年が経過し、既に露軍の死傷者は30万人を超え、なおも戦闘地域に60万人以上の兵力を投入するなどウクライナ戦争の重圧は変わらないが、戦局がある程度持ち直し、また国際的孤立や経済危機を回避するなど一時の危機的状況から抜け出したプーチン大統領は、戦争継続の腹を固め2024年の大統領選挙出馬を決意したのである。

4.大統領選挙の動向と予測

 今回の大統領選挙には33人が立候補のため中央選管に書類を提出、このうち無所属で自己推薦のプーチンのほか、政権に協力的な体制内野党のロシア共産党、自由民主党、「新しい人々」の3候補の候補者登録を中央選管は認めた。自己推薦の場合は立候補にあたり有権者30万人分の署名が必要となるが、プーチンは31万人以上の署名を選管に提出、実際に集めた署名数は300万人分を超えたという。
 クレムリンがコントロールする議会は昨年8月、選挙監視団体の活動を大幅に規制する法律を制定した。またプーチンの政策に反対する者は左右両派を問わず拘束・弾圧され出馬を阻まれている。例えば主戦派でプーチンの戦争指導を弱腰と批判、その続投に反対する連邦保安局(FSB)元大佐で極右活動家のイーゴリ・ギルキン氏は昨年7月逮捕され、今年1月懲役4年の判決が下り出馬を阻まれた。ウクライナ侵攻反対を掲げ無所属で立候補を届け出た独立系のジャーナリスト、エカテリーナ・ドゥンツォワ氏も提出書類の不備を理由に選管が立候補登録を拒否、やはり戦争反対を公言する中道右派政党「市民イニシアチブ」に所属するボリス・ナジェージュジン元下院議員は立候補に必要な10万人余の署名を集めたが、選管は9千人以上の署名を無効とし登録を拒否、出馬断念に追い込まれた。
 服役中の反体制活動家アレクセイ・ナワリヌイ氏については、新たな裁判が実施され、過激派組織の創設などの罪で禁錮19年の刑が言い渡され、昨年末北極圏のヤマロ・ネネツ自治管区にある刑務所に移送された。永久凍土に覆われた同刑務所は、旧ソ連当時の強制収容所だ。ナワリヌイ氏は2012年の大統領選挙の際、反プーチン層を結集しプーチンの得票率を64%まで引き下げた。現在の世論調査ではウクライナ戦争支持が75%と多数を占めるが、戦争反対の声も20%程度存在する。ナワリヌイ氏を完全に封じ込め、2012年のような活動をさせないための移送で、同氏に対する政権の強い警戒感が読み取れる。2月10日公表の世論調査では、政権寄りの全ロシア世論調査センターの調べでも、プーチンに投票するとの回答は75%に留まり80%に達しなかった。その直後の2月16日、獄中からプーチン大統領以外の候補者への投票を呼びかけるキャンペーンを主導していたナワリヌイ氏が急死を遂げる。
 このような状況から、プーチン以外に有力な候補者は見当たらず、大規模な反プーチン運動も起きていない。目標とする80%の高い得票率達成が可能か否かはともかくプーチンが再選されることは間違いない。それゆえ選挙予測よりも、再選を果たした後プーチンがどう動くかが重要だ。以下、内政と外交に分けて、再選後のプーチン政治の展望を眺めてみたい。

5.プーチン権力支配の構造

<監視と抑圧・暴力と恐怖の統治スタイル>
 2000年に発足したプーチン政権は、首相時代の8年を含め24年続いている。今回再選を果たせば、最長で2期12年、2036年まで通算36年にわたりロシアを支配し、ソ連の最高指導者スターリンの29年を上回る“超”長期政権の誕生となる。そのスターリンについては、独裁者、多くの人を殺戮した極悪な指導者との評価が定着しているが、ウクライナ戦争の苦戦を背景に、大祖国戦争を勝利に導いた英雄として再評価する動きも出ている。そしてスターリンの下でロシア人が見せた強い団結と結束を、今度はスターリンを凌ぐ偉大な指導者プーチン大統領の下、ウクライナ戦争でも発揮しようと当局は国民に呼びかけている。
 かってのソビエト社会は、政治、経済、文化のすべてが国公有化され、それを共産党一党独裁と擬似選挙制で統治し、さらに秘密警察と軍隊が厳しく監視する一元的な社会だった。ロシア革命の当初、成立したばかりの脆弱な革命政権を守り、反革命勢力を撃退することが最大の課題だった。その任務を果たす機関として、1917年12月に秘密警察(チェカー)が設置された。この秘密警察の“暴力と恐怖”の権能を極大化させ、自らの統治に利用したのがスターリンだった。
 そのスターリンを超えつつあるプーチンはチェカーの後継組織KGBの出身で、秘密警察の人脈を礎とする監視と抑圧、そして反対勢力を暴力と恐怖で抑え込むスターリン流の統治スタイルをプーチンは受け継いだ。再選後もこの手法を変化させることは考え難く、ロシアにおける民主化の進展は今後も望めそうにない。こうしたスターリン以来の強権政治スタイルは、ロシア社会における民主主義成熟度合の低さだけでなく、強いものや強大な権力を憧憬する国民性とも深く関わっている(1)。それゆえ欧米の尺度でプーチン政治を否定しても、ロシアで同様の評価が下されることにはならないのだ。
 もっとも、生活水準の向上に伴いロシアでも初めて中産階級が育ちつつある。彼らが政治活動や言論・報道の自由を求め、またウクライナ戦争反対の声を挙げる動きは徐々に高まっている。これを警戒する政権側は、反プーチンの運動を対敵協力者や裏切り者を意味する「第五列」と称し、「内外の敵」が結託してロシアの攪乱を狙っているとのプロパガンダ(政治宣伝)に力を入れている。2012年には国家反逆罪の適用範囲が拡大され、同罪による実刑判決は増加。16年には国家親衛隊が新設された。プーチンは創設の目的を「テロとの戦い」というが、本音は政府批判を押さえ込むことにある。
 さらにプーチン体制下のロシアでは、政治的謀殺も相次いでいる。例を挙げれば、チェチェン過激派の犯行とされるモスクワのアパート連続爆破事件(1999年)への連邦保安局(FSB)の関与疑惑を追っていたセルゲイ・ユシェンコフ下院議員が2003年4月に何者かに射殺された。プロの犯行と警察は見ている。またロシアの元情報将校アレクサンドル・リトビネンコが06年11月に亡命先ロンドンで放射性物質で毒殺された。英国の独立調査委員会は16年1月、殺害はロシアの情報機関連邦保安局(FSB)の指示で実行された可能性が高く、プーチン大統領も「恐らく承認していた」と結論づけた報告書を公表している。さらに2015年2月にはリベラル派の旗手としてプーチン政権の対ウクライナ政策を厳しく批判したボリス・ネムツォフ氏がモスクワ中心部で銃撃され死亡し、プーチンが関与する政治的暗殺と指摘されている(図1参照)。

 昨年6月、傭兵部隊ワグネルの指導者プリコジン氏の武装叛乱が起きた時、日本の識者は「プーチン体制の終わりの始まり」と捉え、プーチンの政治基盤に動揺が起こるかに論じた。だがロシアの独立系世論調査機関レバダセンターによれば、武装反乱が起きた時の政権支持率は81%で、叛乱の前とほとんど変化がなかった。その後プリコジン氏は不自然な飛行機事故死を遂げ、またもプーチンによる謀殺かと噂されたが、この時もロシア社会は平静さを保った。ソビエト崩壊前後に政変や混乱を経験したロシア国民の多くは何より混乱を恐れ、安定をもたらす強い指導者を望む意識がいまも強い。敵対者を抹殺するような恐怖政治や強権支配であっても、政治と社会の安定を重視するロシア国民の声を背景に、プーチンの抑圧支配体制は今後も続くであろう。

<シロビキ中心の政策決定システム>
 秘密警察は、プーチンの政策決定システムにも大きく関わっている。独裁者と雖も全ての決定を自分一人だけで決めることは出来ず、案件の多様さに応じて権力内部には様々な側近グループが存在する。プーチンを取り巻く第一の側近グループは、警察や諜報機関などの治安関係者(シロビキ)や軍の幹部で構成される。第二が新興財閥、次いでメディア関係者だが、中でもシロビキが圧倒的に大きな役割を担っている(図2参照)。プーチンが大統領就任後、ソ連国家保安委員会(KGB)時代の同僚を政権に呼び寄せたことからサンクト派と呼ばれるシロビキ派閥が反欧米・愛国主義のインナーサークルとして力を振るうようになった。プーチンは重要な決定では信頼できる特定の人間の意見にだけ耳を傾け、それ以外の声は遮断する傾向がある。プーチンの相談に預かる者のほとんどがシロビキで占められており、プーチン再選後も政策決定に深く関わり重要な役割を果たすことは間違いない。

 その筆頭が安全保障会議書記のニコライ・パトルシェフ。タカ派中のタカ派で、プーチンが最も信頼を寄せる人物だ。1951年生まれでプーチンと同じサンクトペテルブルク出身、大学卒業後KGBに入り、栄転を重ねプーチンの後を継ぎ1999年から2008年まで連邦保安局(FSB)長官を務めた。プーチントパトルシェフは、ソ連の崩壊は悲劇であり、それは西側の陰謀であったという点で共通認識を有している。パトルシェフに次ぐ重要な存在は、アレクサンドル・ボルトニコフFSB長官とセルゲイ・ナルイシキン対外情報局長官。ともにKGBの出身。ポルト二コフはサンクトペテルブルクで勤務した後、メドヴェージェフ大統領によって露国内の情報収集・分析、工作活動を担当するFSB長官に任命された。サンクトペテルブルクの頃から長年プーチンと行動を共にしてきたナルイシキンは、外国の情報収集・分析、工作活動を担うほか、ロシア歴史研究会の代表でもあり、プーチンにイデオロギー面での助言を与える役割を担っているといわれる。
 この3人に次ぐ重要な補佐役はセルゲイ・ショイグ国防相だ。ショイグはクリミア併合の立役者とされ、軍参謀本部情報総局(GRU)のトップでもある。無骨な強硬派のショイグは建築技師として経験を積んだ後、ソ連崩壊後にエリツィン政権で非常事態相に就任。以後ロシア政府の要職に就き続けており、2012年に国防相に就任してからはプーチンの最側近の一人として存在感をさらに増した。ショイグはプーチンに極めて従順である。またプーチンの大統領就任に際しショイグが自分を推薦してくれたことにプーチンは恩義に感じており、ウクライナ戦争で失策を重ねてもショイグが更迭されなかったのはそうした理由からと言われる。プーチンは情に篤い一面があり、また部下には能力よりも忠誠心を重視する傾向も強い。欠点やミスがあっても、深く知っている部下と仕事をする方が精神的に楽だと感じているのだとロシア政治の専門家タチアナ・スタノバヤ氏は指摘する。こうした側近グループは、再選後のプーチン政権でも引き続き重要な役割を果たすと思われる。
 軍関係ではショイグのほかにスロヴィキン大将やゲラシモフ参謀総長らがいるが、前者はウクライナに侵攻する露軍総司令官の職を3カ月で解任されたほか、プリコジン氏叛乱への関与も指摘されている。ゲラシモフ参謀総長もプリコジン氏叛乱後は、消息が不分明で、いずれも影響力は低下している。
 このほか、イワノフ大統領府長官の解任に伴い副長官から昇格したアントン・ヴァイノ氏は外務官僚出身の知日派。対日政策に関わっていると思われるが親日派ではない。セルゲイ・ラブロフ氏は20年間外相を務めるが、政治色が弱く重要な決定には預かっていない。大統領や首相職を務めたドミトリー・メドヴェージェフ氏は安保会議副議長に転出、メディアで厳しい発言を繰り返すがクレムリン内での影響力は低下した。メドヴェージェフに代わり首相になったミハイル・ミシュスチン氏はロシア経済の立て直しを担うが、税務官僚出身で政治的な発言力は無い。新興財閥では、国営石油会社ロスネフチのトップ、セーチンや軍需産業のチェメゾフ、ロッテンベルグ、ティムチェンコなどが政策決定に関わっている。

6.プーチン支配を支えるロシア正教会 

 秘密警察を軸に据えた強権支配の体制を敷く一方、プーチンは正教会という宗教権威をも自らの支配力の源泉に取り込んでいる。9世紀後半、キーウを中心にドニエプル川を挟み南北に細長く伸びる地域に最初の国家を築いたロシア人が文明の恩恵を受け、また交易の相手としたのは西欧ではなくビザンツ、即ち東ローマ帝国だった。西欧に対しては南のビザンツと北のバルト海の諸民族を通して細々と繋がっていたに過ぎない。そしてロシア、ウクライナ、ベラルーシの源流となるキエフ・ルーシ(キエフ大公国)のウラジミール王子は988年にビザンツ帝国の国教である東方正教会を受容する。
 13世紀南ルーシはタタール人の侵攻を受けキエフ大公国は崩壊、キエフ・ルーシの中心はモスクワに移り、ウクライナ正教会はロシア正教会の管轄下に置かれる。15世紀、正教会の総本山コンスタンティノープルがオスマン帝国の手に落ちると、正教会の中心はモスクワとなる。さらにイワン3世は、滅亡した東ローマ帝国最後の皇帝の姪と結婚することでモスクワの宮廷をビザンツ化し、モスクワが「第三のローマ」であると国の内外に誇示した。一連の経緯から、ロシア皇帝こそビザンツ帝国皇帝の正統な継承者であり、かつキリスト教世界の守護者だとの高揚した意識がロシア人に生まれた。
 共産主義は宗教を否定するが、現実にはソ連時代も正教会の活動はある程度許容されていた。冷戦終結後、特にプーチンの出現後は、不安定化するロシア社会の安寧を図るためロシア正教会が人々の精神的な拠り所として重視され、宗教と政治の関係は深まっていった。プーチンは同性愛宣伝禁止法を成立させるなど正教会の主張に沿った政治を進め、一方、ロシア正教会の最高指導者キリル大主教は大統領選挙でプーチンの応援演説を行い、ウクライナ戦争開始後は、この侵略戦争を「祝福」し、プーチン大統領が進める軍事作戦を全面支持しプーチン体制を支えている。プーチン政権は、NATOの東方拡大を十字軍による東方世界の破壊に例えている。そして西欧のカソリックは堕落しており、その影響下にあるウクライナに対するロシアの戦争は「西洋の悪」に対する「善の戦い」だと説くのだ。
 さらにウクライナ戦争は正教会内部の闘争という側面もある。東方正教会ではモスクワを総本山とするロシア正教会が盟主的な立場にあり、17世紀後半、ウクライナ正教会の教区をその配下に組み入れた。しかしプーチン政権による恫喝や介入が強まるようになったため、ウクライナは自国からのロシア正教会の影響力排除に動く。そして2019年1月、コンスタンチノープル総主教庁はウクライナの要請に応じてウクライナ正教会のロシア正教会からの独立を認めた。だがロシア正教会やプーチン政権はこの独立を認めておらず、モスクワ聖庁派などを通じてウクライナに影響力を残そうとしている。昨年4月には、ロシアのウクライナ侵略を正当化した嫌疑で、キーウにあるロシア正教会系のペチェルシク大修道院のトップが自宅軟禁を命じられるなど両派の争いが表面化している。ロシアにとってウクライナ正教会の分離独立はロシア世界の解体に繋がりかねず、それを阻止することも今回の戦争の遠因になっている。
 かようにプーチンはスターリンを凌ぐ世俗的な最高権力者となるに留まらず、正教会の権威と正当性をも取り込み、ウクライナ戦争を聖なる戦いと称すると同時に自らをキリスト教の守護者と位置付けている。世俗的な力と霊的な権威の双方を手中に収めたプーチンは、ロシア史上最高の権力者とされるピョートル大帝とも並び立つ存在となりつつある。彼はまさに21世紀ロシアのツアーリなのだ。

7.どうなるウクライナ戦争の今後

<ウクライナに対するプーチンの拘り>
 ロシアのウクライナ侵略を正当化することは出来ないが、プーチン大統領がウクライナ侵攻を決断したのは、欧米に対する怒り、それにウクライナに対する特別の思いが影響していたことも事実だ。欧米への怒りは、EUやNATOが東方拡大を続け、旧ソ連や露帝国の勢力圏を次々と取り込み、ロシアを圧迫していることに起因する。ウクライナへの思いとは、ロシアとウクライナが一体のものとなり初めて大ロシアが成立するという考えをプーチンは持っている。そのためウクライナが西欧に接近し、ロシアから離れることはロシア世界の分裂崩壊にも通じ、絶対に認められないのである。
 しかし、プーチンのようにロシアと今日のウクライナを一体のものと捉えることには無理がある。13世紀まで存在したキエフ大公国は、ロシア、ウクライナなど東スラブ諸民族共通の国家発祥地である。だがその後は複雑な歴史を辿り、1667年にはウクライナ西部がポーランド、東部がロシア領となる。18世紀には大半がロシアに入ったが、リビウなど最西部が旧ソ連に編入されたのは第2次世界大戦後と遅い。長くポーランドのカトリック文化圏にあった西部では「欧州の一員」意識が強く、住民の大半がウクライナ語を話す。
 その一方、ロシア系住民が多い東・南部はロシア語使用率が高く、ロシア正教で親露派が主体だ。こうした歴史や民族、宗教などの違いから、一つの国でありながら国を南北に流れるドニエプル川を挟んで、ウクライナは西部と東部の2つに大きく分かれ、あたかも東西文明接点の様相を呈している。ロシアと対立関係になりやすいのもそのためだ。確かにロシアとウクライナはキエフ・ルーシを源流とする兄弟国で、ウクライナ東部はロシアとの一体感が強いが、伝統的に親西欧の西部は異なる。
 プーチンはウクライナ東部を支配下に収め、そこを拠点に国家としてのウクライナに揺さ振りをかけ続け、西部もロシアの勢力下に取り込み、ロシア帝国の一体化を実現するとともにウクライナのEU、NATO加盟を阻もうと考えている(2)。そうであれば、ロシアとの間で一時的な休戦や停戦を実現させても、それは一時凌ぎに過ぎず問題を先送りするだけで、ロシアのウクライナへの干渉や侵略は止むことがないと多くのウクライナ国民は受け止めており、ロシアとの停戦交渉に否定的なのである。とはいえ、ウクライナは今後もロシアと長く戦い続けられるのか、またその先に光を見出することが出来るのだろうか。

<プーチン再選とウクライナ戦争の今後>
 1月初め、プーチン大統領は「我々の敵は欧米であり、ウクライナそのものではない」とし、欧米がウクライナを利用してロシアを撃破しようとしていると非難、また「我々はできるだけ早く紛争を終わらせたい」とも述べ、露側の示す条件下であれば戦いを終わらせる用意があるとの考えを示した。しかし、現在の戦況や国際情勢に鑑みれば、プーチン氏が早期和平に応じる可能性は小さい。
 まず膠着長期化した戦局は国力で勝るロシアに有利である。一方、長引く戦争でウクライナは疲弊し切っている。厭戦ムードが高まり、ゼレンスキー大統領の支持率も低下気味だ。大統領と軍トップとの確執が表面化し、ザルジニー総司令官が解任されるなど戦争指導体制にも軋みが出始めている。兵員不足に加え、欧米諸国の支援が期待できなくなり武器弾薬の不足も深刻化している。そのような時にプーチンが急ぎ停戦に動くとは思えない。逆に攻勢をかけ反撃に出る、特に社会インフラやライフラインを徹底的に破壊し補給路を断つことで、ウクライナ国内の混乱と分裂を煽り、ゼレンスキー大統領の失脚を狙うであろう(3)。そのため偽情報の拡散など情報戦や心理戦、政治工作を活発化させることも予想される。
 再選を果たしたプーチンは、ウクライナ戦争に対する支持と賛同を国民から取り付けたものと解釈し、より積極的な戦いを進めることが可能になる。昨春、中国の習近平国家主席に「ロシアはこの戦争を5年間以上続ける」と伝えてもいる。こうしたことからも再選後プーチンが和平に舵を切るとは考えにくい。戦局を好転させ、あくまで東部4州やクリミア半島の支配、ウクライナのNAO加盟阻止を目指す、プーチンが認めるのはせいぜいウクライナのEU加盟だけであろう。
 それゆえウクライナが余程の譲歩でもしない限り、強気のプーチンを相手に停戦の実現は至難と思われる。一方、これ以上の戦争継続はウクライナ国家を崩壊に追い込む危険が高い。戦争での勝利や奪われた領土の完全奪還が望み難い以上、ウクライナとしては戦力の分散を避け、限られた軍事力をクリミア半島など一か所に集中し、戦術的局地的な勝利を掴むことだ。そしてそれを梃子に22年3月以来途絶えたままのロシアとの対話を再開させ、ある程度不利な条件でも受け容れ停戦実現のための和平協議に歩を進める覚悟が必要ではないか。

<衰えぬロシアの戦争継続力>
 戦争を続けるだけの経済力がロシアにあるか否かについても触れておかねばならない。ウクライナ侵攻を続け、国際的な制裁包囲網を敷かれながら、23年もロシア経済は崩壊しなかった。むしろロシア経済は回復基調にあり、23年の国内総生産(GDP)が3%強のプラス成長を記録することが確実視されている。国際通貨基金(IIF)も23年のロシアのGDP成長率を1.5%から2.3%に引き上げた。日本のGDP成長率が1.7%、ドイツがマイナス成長と予想されていることを考えれば、プーチンがその成果を誇示しても不思議ではなく、大統領選への追い風となっている。
 また24年のロシア連邦予算は前年を上回る36.7兆ルーブルが計上され、なかでも国防費が10.8兆ルーブルと大幅な増加で、これはGDPの6%に相当する。ロシアの国防費は22年まではGDPの3%程度だったから倍増となる。ロシア経済が予想外に好調なのは、戦争経済への依存が強いことによるものだが、その点を割り引いても、当面ロシアには戦争に耐えるだけ経済力は十分にあると言える。英国の国際問題戦略研究所(IISS)は過去1年だけでも露軍は3000台以上の装甲戦闘車両を失い、22年2月以降だと8800台近くを失ったと推計しているが、それでも露軍は現在の消耗率でもウクライナへの攻撃をあと2〜3年、あるいはそれ以上維持できる生産力を有していると分析している。
 欧米の経済制裁が期待した程の締め付け効果を挙げていないこともロシアに有利に作用している。先進7カ国(G7)は、ロシアの主要な収入源であるエネルギー輸出に打撃を与えるため、ロシア産石油の上限価格を設定した。しかし、ロシアは石油の輸出先を中国やインド、トルコなどに切り替える対抗策に出た。原油や石油製品の輸出のうち40%程度を占めていたヨーロッパ諸国向けが制裁で激減したが、中国とインドの2か国で輸出全体の80%以上を占めるようになった。ロシアのベロウソフ第1副首相は昨年12月、ロシアの原油輸出量がウクライナ侵攻前の2021年水準を7%上回り、約2億5000万トンに達したと述べた。米欧が制裁を強める中、友好国の中国やインド向け輸出が大幅に伸びたためである。
 また欧米の制裁に同調する国も増えなかった。22年3月、国連総会ではロシアのウクライナ侵攻に対する非難決議が採択され、国連加盟国193カ国中141カ国が賛成した。だがロシアとの通商規制などに踏み切ったのは40カ国程度に留まり、その大半は西側先進国で、新興国・途上国の多くは対露非難決議に賛成しながらも、取引の規制などには踏み切ってこなかった。しかもロシア非難決議に賛成する国の数も徐々に減っている。22年11月、侵攻するロシアへの損害賠償を求める国連決議に賛成票を投じたのは99カ国に過ぎなかった。
 財政が破綻しプーチンが戦争を続けられなくなるというシナリオは遠のきつつある。1930年代、ある欧州の政治家は「ロシアは見かけほど強大ではない。とはいえ、見かけほど弱体でもない」と発言したが、この観立ては今日もなお有効である。

8.プーチンの世界戦略 ロシアの影響力再建と多極化世界の加速化

<露中連携の強化で西欧に攻勢>
 再選を果たしたプーチン大統領は、どのような世界戦略を展開するだろうか。何よりもウクライナ戦争で落ち込んだロシアの影響力再建に全力を挙げるだろう。ドイツ大衆紙ビルトのインタビュー(16年1月)でプーチンは「ベルリンの壁は崩壊したが、ヨーロッパの分断は克服されて」おらず、冷戦の終結から四半世紀余りたった今もロシアとヨーロッパは対立状態にあり、しかも「見えない壁は東に移動している」と述べ、対立の原因は米国主導のNATOがロシア国境に向かい東方拡大を続けているためだと批判した。プーチンが目指すものは、欧米の東進を阻止し、冷戦下のソ連の如くロシアが国際世界で強い影響力を発揮することである。
 そのため引き続き中国との関係を重視し、東方の安全を固めたうえで軍備増強でNATO諸国を牽制するとともに、欧米諸国の分断切り崩しを図り、政治的な影響力の拡大をめざすであろう。ウクライナ戦争の長期化で、ロシアから石油ガス資源類を輸入出来ない西欧諸国は経済の悪化と高いインフレに悩まされ続ける。さらにウクライナ戦争の支援疲れや移民問題も加わり人々の不満が高騰、反移民・非米・親露的なポピュリスト右派(極右)政党が勢いを増す恐れがある。そのような状況をロシアは巧みに利用するであろう。

<グローバルサウスとの関係強化>
 プーチン大統領はグローバルサウスとの関係強化にも動くはずだ。パレスチナ紛争の処理に欧米が苦しむ隙をつき、シリアやイランに加え、ハマスなどアラブ過激派勢力への支援実施などアラブ諸国との関係強化に動き、後退する米国に代わり中東での影響力拡大を目指すであろう。NATOやEUの足並み混乱させる目的でトルコのエルドアン政権に秋波を送る可能性もある。
 アフリカ諸国の取り込みも活発化するだろう。アフリカにはソ連時代からロシアと経済・軍事面で繋がりの深い国が多い。アフリカ諸国の多くは小麦など穀物をロシアに大きく依存するほか、武器取引もロシアが米国を上回っている。ウクライナ侵攻をめぐる国連での非難決議に南アなどアフリカの多くの国々が棄権し、欧米のロシア非難の動きと距離を置くのはそのためだ。
 プーチンの世界戦略は、欧米の力を削ぎ世界の多極化を加速させることで国際社会におけるロシアの影響力を高めることにある。その目的実現のため、プーチンは中国やイラン、アラブ諸国、さらに北朝鮮との関係を強化し、ユーラシア大陸に位置する独裁権威主義勢力の結集と連合体の構築を目指すであろう。

<対米関係>
 今年の米国大統領選挙でトランプ前大統領が復権・再登板を果たすことにプーチンは期待を寄せている。トランプ候補は「大統領に再就任したら24時間以内にウクライナ戦争を終わらせる、最優先でウクライナ支援を停止する」と断言しており、米露ウクライナによる三者会談の枠組みを設け、ゼレンスキー大統領に強制的に停戦和解を促す意向と伝えられている。大統領再選を果たしたトランプが、政権1期目で実現に至らなかったプーチンとの劇的な和解に本腰を入れることも予想され、プーチンにとっては歓迎すべき動きである。

9.日露関係のあるべき姿

 ウクライナ戦争に対する日本の対露制裁を機に、日露の関係は戦後最悪となり、北方領土返還や平和条約締結交渉は完全に途絶えた状況に陥った。ロシアの軍事的な脅威も高まっている。またロシアがウクライナ戦争で優位を占める事態は、中国に台湾侵攻の誘因となる恐れがある。
 日本としては、北の脅威に備え防衛力を強化するとともに、ウクライナ支援を継続し、違法な侵略が大きな代償を強いることを悟らせねばならない。厳しい両国関係は当面続くであろうし、プーチン大統領を信頼できる交渉相手と見ることも難しいが、領土問題は国家主権にかかわる基本的な問題である。正当な権利や主張を放棄、断念したり、絶望感に陥ることがあってはならない。隣接する大国ロシアとの関係は経済やエネルギーに留まらず安全保障上も大きな影響を及ぼす。それゆえロシアとのコミュニケーションパイプだけは閉ざすことなく、ポストプーチンを見据えた長期的な視座を持ち、腰を据えて辛抱強く対露外交を進める覚悟が求められよう。

10.最後に プーチン体制の限界と脆弱性

 再選を果たしたプーチン大統領は、世俗的にはスターリンを凌ぎ、かつ霊的には正教会から統治と支配の正当性を得て、キリスト教の擁護者として振舞うことになる。プーチンは21世紀ロシアのツアーリとして君臨、その存在感はこれまで以上に高まると同時に、最長の場合今後の12年はこれまでのプーチン時代の総決算の段階に入ることになる。
 しかし、彼が手にする権力と権威が強大であればある程、皮肉なことだが、プーチン体制の弱点も大きくなる。独裁者プーチンの周囲はイエスマンで固められている。イエスマンの集団に囲まれ、多様な意見やプーチンにとって耳の痛い情報、真実は遮断される。その結果、政策判断が偏り、ウクライナ侵攻時の失敗のような誤った政策決定が繰り返される危険が高まろう。“独裁者のジレンマ”である。
 またプーチンの一身に全ての力が集中する独裁体制のため、権力の円滑な継承が危惧される。これまで癌やパーキンソン病などプーチン大統領の健康不安や体調不良が幾度も報じられてきた。さらなる長期政権の過程でプーチンが病に倒れた場合、実力ある後継者は育っておらず、またポストプ−チンを巡る権力闘争が激化し、ロシアの政治が不安定流動化する恐れもある。プーチン体制の最大の弱点は、体制そのものがプーチン氏個人が持つ絶対的な権力や彼に対する国民の圧倒的な支持に過度に依存していることにあるのだ。突然プーチンが倒れれば、ロシアの国家機能そのものが脆くも内部崩壊を来すであろう。

 

●注釈

(1)少し古いが、2008年のロシアの世論調査によれば、ロシアで欧米流の民主主義が「積極的に推進されている」と考える人は30%に過ぎない。一方、「停滞している」と考える人は30%、民主主義を「一度も学んだことがない」が19%、さらに欧米流の民主主義を知らないから答えられないとした人も18%おり、ロシア人の70%近くが欧米の民主主義はロシアとは無縁のものと受けとめている。中村逸郎『ロシアはどこに行くのか』(講談社、2008年)191頁。

(2)ウクライナとベラルーシは、ロシアにとっての生命線である。この二国がNATOに加盟すれば、ロシアは存亡の危機に立たされる。モスクワはベラルーシの国境から400キロメートル程しか離れておらず、ウクライナはボルゴグラードから300キロほどしか離れていない。ロシアはその奥行きを活かして、ナポレオンとヒトラーから身を守った。ベラルーシとウクライナを失ったロシアには奥行きもなければ、敵の血と交換出来る土地もなくなる。」ジョージ・フリードマン『100年予測』櫻井佑子訳(早川書房、2014年)174頁。

(3)2024年1月19日の英紙フィナンシャル・タイムズ電子版は、ロシア軍が夏にもウクライナへの大規模攻撃を仕掛ける可能性があると報じた。2022年にロシアが一方的に併合を宣言した東部(ドネツク、ルガンスク両州)と南部(ザポロジエ、ヘルソン両州)4州の完全支配が目的。首都キーウへの再侵攻も排除していないとの見方もある。同紙は、「ウクライナを征服し国民を服従させるというプーチン大統領の最終目標に変化はない」との米情報機関の見立てを伝えている。

(2024年2月20日、平和政策研究所上席研究員 西川佳秀)

 

●参考

国際情勢マンスリーレポート「プーチンの戦争で高まるロシアの脅威 —背後に潜む特異な安全保障意識—」2023年5月10日

国際情勢マンスリーレポート
2024年3月のロシア大統領選挙でプーチンが選ばれるのは既定となっているが、これまでの治績を概観したうえで、過去20数年の体制の総決算としての再選後の政権を展望する。

関連記事

  • 2016年2月10日 平和外交・安全保障

    ロシアの東アジア政策と露朝関係

  • 2021年4月8日 平和外交・安全保障

    朝鮮半島情勢に対するロシアの視点

  • 2016年12月29日 平和外交・安全保障

    緊迫する北東アジア情勢と日露関係の展望:ロシアの視点 ―日露平和条約の可能性と歴史的背景―

  • 2018年12月19日 平和外交・安全保障

    北方領土問題再考

  • 2019年1月15日 平和外交・安全保障

    米露・米中関係の悪化と日EU関係

  • 2015年12月25日 平和外交・安全保障

    北方領土交渉の展望