はじめに
ウクライナ戦争が長期化し、しかもロシアの攻勢とウクライナの劣勢が報じられるなか、ウクライナを支援する北大西洋条約機構(NATO)とロシアの対立が強まっている。現時点で米国はじめNATO加盟諸国はロシアと直接戦闘を交える事態を回避しているが、今後ウクライナの戦況悪化に伴い両者が直接戦闘をすることにでもなれば、第三次世界大戦を引き起こす危険性が一挙に高まる。
そうしたなか、7月にワシントンでNATO創設75周年を記念する首脳会議が開催された。その首脳会議に日本の岸田首相も参加し、日本とNATOの協力関係強化をうたいあげた。また外務・防衛各レベルの交流も進むなど近年NATOと日本の接近が急速に進んでいる。大西洋地域を主に西欧諸国が形成するNATOと、遠く離れたアジアに位置する日本が何時頃から関係を深めるようになったのか。また両者が急接近するようになった背景や理由は何か。
この問題を考えるにあたり、まず今回は創設75周年を迎えたNATOという集団防衛機構に焦点を絞り、その誕生から冷戦後における機能や役割の変化、さらにロシアの脅威が高まるなか、NATOの現状や課題などについて考察する。
1.NATOの誕生:冷戦が生んだ集団防衛機構
北大西洋条約機構(NATO:North Atlantic Treaty Organization)は1949年4月、米、加、英、仏、ベネルクス三国、デンマーク、アイスランド、イタリア、ノルウェー、ポルトガルの西側12か国によって調印された北大西洋条約に基づき、旧ソ連の軍事的脅威に対抗するために結成された集団防衛機構である(図表1「北大西洋条約機構の概要」参照)。
第2次世界大戦後の1947年、英仏両国はダンケルク条約を結んでドイツの再脅威化に備えたが、やがて西欧への脅威はドイツからソ連へと変わり、48年3月にはダンケルク条約にベネルクス三国を加えたブラッセル条約が締結された。前月にチェコで起きた共産党の政変がヨーロッパの危機意識を高め、条約締結を急がせることになった。しかしアメリカが加わっておらず、欧州防衛を担保するには未だ不十分であった。
その後、米上院でバンデンバーグ決議(「継続的かつ効果的な自助及び相互援助を基礎とし、かつ、アメリカの国家的安全に影響を与える地域的その他の集団取極に、アメリカが憲法上の手続きにしたがって参加すること」:同決議第3項)が成立(48年6月)、これを受け同年7月から米欧間の防衛協議が開始され、翌年アメリカをメンバーに加えての北大西洋条約締結へと漕ぎ着けたのである。
その後52年にギリシャとトルコ、55年には西独が加わり、同条約加盟国は15か国となった。NATOの初代事務総長イスメイはNATOの役割を「アメリカを引き込み、ソ連を締め出し、ドイツを抑え込む(America in, Russia out, Germany down)」と定義したが、ドイツをNATOという集団防衛機構の中に組み入れ、その再軍備を制限し、軍事脅威の再来を阻止するという隠れた目的もNATOは帯びていたのである。西独参加の9日後、ソ連はNATOに対抗すべく、ワルシャワ条約機構(WTO)を立ち上げている。
北大西洋条約は、加盟国の一国ないし複数国に対する武力攻撃は全加盟国への攻撃とみなし、国連憲章第51条の規定によって認められている個別的又は集団的自衛権を行使して被攻撃国を支援すること(第5条)、対象となる北大西洋地域とは、具体的にヨーロッパもしくは北米の締約国の領域及びトルコ領土または北回帰線以北の大西洋地域におけるいずれかの締約国の管轄下にある島(第6条)であること等を定めている(図表2「北大西洋条約概要」参照)。
発足当初、軍事機構を持たなかったNATOだが、朝鮮戦争を契機として統合軍事機構を構築、極力ヨ−ロッパの東側で共産勢力の西侵を食い止める前方防衛を戦略の基本とし、その後、アメリカのアイゼンハワ−政権が採用した大量報復戦略を受入れ(MC-48:1954年11月)、さらにケネディ政権が打ち出した柔軟反応戦略をNATOの軍事戦略として導入した(MC-14/3:67年12月)。
冷戦の激化に伴い、ギリシャ、トルコ、西独、さらにスペインが加わった反面、60年代における多極化の進展を背景に、英米と対立したド・ゴール治下のフランスが軍事機構から脱退(66年)、またともに加盟国であるギリシャとトルコがキプロスの領有を巡り軍事衝突を起こし(64、74年)、ギリシャも一時軍事機構から脱退した(74年)。
加盟国間の軋轢が表面化する一方、東西デタントの進展を受け、1967年のNATO外相理事会ではいわゆる「アルメル報告」(「同盟の任務に関する報告」)が採択され、「軍事的安全保障とデタント政策は矛盾するものではなく、補完し合うものであ」り、軍事力によってソ連を押さえ込むだけではなく、「抑止と対話」を基本に東西の安定をめざすとの方針が打ち出された。
だがその後、再び東西対立が激化、新冷戦の時代(70年代末〜80年代)に入ると、ソ連が欧州に配備を進める中距離核ミサイルSS-20の脅威がヨーロッパで俄かに高まった。これに対抗すべく、NATO諸国はアメリカの中距離核戦力(巡航ミサイル及びパーシング2 )の導入を検討し実行に移した(INF問題) 。
2.冷戦の終焉とNATO :領域防衛から地域安定化の機構へ
ロンドン宣言と新戦略概念
1970年代半ば以降、アフリカや中東、中南米への進出に続き、アフガニスタンに侵攻するなど対外膨張と軍事的な脅威を高めたソ連だが、経済体制が行き詰まり、アメリカや西側諸国の軍備強化に対抗する力は失われていった。1985年3月ソ連共産党書記長に選出されたゴルバチョフは、東西関係の緩和を進めることによって社会主義体制の建て直しを目ざし、87年からペレストロイカを実施、同年12月にはINF 全廃条約の調印が実現した。
しかしゴルバチョフの思惑は狂い、ソ連を含む社会主義陣営の崩壊を加速させる結果となった。即ち89年には東欧革命が進展、ワルシャワ条約機構の形骸化が進み、同年11月にはベルリンの壁も崩壊、翌12月のマルタでの米ソ首脳会談で冷戦の終結が確認された。さらに91年12月にはソ連が崩壊し、文字通り冷戦構造は終焉を迎えた。
こうした国際情勢の変化を受け、かつ、統一後ドイツのNATO残留に難色を示すソ連を説得するため、90年7月、ロンドンでの首脳会議でNATOは「ロンドン宣言」を採択した。それは、ソ連をそれまでの「敵対国」から「安全保障上のパートナー」と位置づけた点で画期的なものであった。翌91年11月、ローマでの首脳会議では、従来の東西対立対応型の体制を緊急対応型に移行させ、ポスト冷戦時代の新戦略に転換することが決定された。前方防衛や柔軟反応戦略等従来の基本戦略を根本的に見直した「新戦略概念」は、1989年以降の欧州安全保障環境の激変に対応したもので、ソ連の脅威に代わる新たな脅威対象として、中・東欧諸国の民族問題等を含む深刻な社会・政治問題や湾岸戦争等周辺地域の紛争を挙げ、NATO域外地域における紛争予防や危機管理(非5条任務)に重点を移した。
そして集団防衛能力を維持しつつも「対話と協力」を重視する幅広いアプローチを採ることを明らかにし、NATOの政治的役割の強化が唱われた。さらに将来の危険性に対応すべく柔軟性と機動性を重視する一方、欧州正面への重装備師団の大量集中配備はもはや必要がなくなったとして既存戦力の縮小・再編成が進められた。また欧州戦術核兵器の80%削減、地上発射ミサイルの全廃も決まった。95年12月には、フランスが30年ぶりにNATO軍事機構に部分的復帰を果たした。
非5条任務の明記と域外(out of area)派遣問題
もっとも冷戦終焉の直後は、将来に向けたNATOの存在意義について否定的に捉える見解が支配的だった。だがユーゴ内戦の激化(92年春から始まったボスニア紛争、99年のコソボ紛争)やロシアの政情不安定などの影響で国際情勢に対する楽観的な見方が影を潜めるにつれ、冷戦後もNATOの意義を再評価する動きが強まった。特にボスニア紛争では当初期待された国連保護軍の限界が露呈し、代わってNATOの軍事力が紛争解決に重要な役割を担い、これを契機としてNATO軍の域外派遣に途が開かれた(域外における平和執行機能)。
99年3月、NATOはコソボ紛争に軍事介入し、ユーゴへの空爆を実施した。コソボを巡る紛争では、新ユーゴスラビアのコソボ自治州で内戦が激化し、ユ−ゴ連邦軍とコソボのセルビア治安部隊がアルバニア系住民の武装組織コソボ解放軍(KLA)と戦うだけでなく、アルバニア系住民全般に虐待、殺戮を行っており、それを阻止するのが介入の目的だった。
しかし、この時のNATO軍の介入は国連安全保障理事会の決議や委任無しに行われたため、こうした軍事行動が「人道的介入」として正当化できるか否かの問題を提起することになった。また安保理で反対するロシアの意思を無視する形で介入を強行したことは、ロシアとの関係を悪化させた。
さらに99年4月には、ユーゴ空爆が続行されるなか、50周年記念の首脳会議がワシントンで開催され、21世紀に向けたNATOの方向性を示す「99年版戦略概念」が採択された。この新たな戦略概念は、冷戦終結後の戦略環境(ソ連・WTOの崩壊、ユーゴ紛争に見られる域外活動の重要性、NATOの拡大化等)に適合するため、91年に採択された「新戦略概念」を早くも見直したものである。そこでは集団防衛をNATOの基本的任務としつつも、欧州・大西洋地域の安全保障と安定に寄与するため、民族紛争など域外紛争を対象とした紛争予防、危機管理及び危機対応策に取り組むこと(「非5条危機対応活動」)が新たな任務として明記され、域外対処能力および危機管理体制の一層の強化を求めるものとなった(1)。
NATOが冷戦型集団防衛機構から地域紛争対処型への脱皮をめざす動きの一つにCJTF(Combined Joint Task Force)構想がある。これは平和維持活動等を主任務とする新たな共同統合任務部隊を創設するもので、アメリカが提案し、94年1月の首脳会議(ブラッセル)でその構想が支持され、96年6月の外相会議(ベルリン)で承認された。CJTFと呼ばれる共同統合任務部隊は、欧州NATO諸国が欧州の地域紛争へ対処することを目標にしたもので、NATOに加盟する任意の複数国が参加(Combined)し、陸・海・空・軍が統合され(Joint)、目的・期限等が明確に設定された形で任務部隊(Task Force)が展開される際に、NATOがその司令部機能、指揮・通信系統、衛星情報、長距離輸送能力等のインフラを必要に応じて貸与・提供するという構想である。CJTF構想はNRF へと発展していく。
国際テロへの対処と人道支援任務
地域紛争への対処に加え、冷戦後国際社会の脅威として、国際テロと大量破壊兵器の拡散問題が浮上した。NATOは2001年9月の同時多発テロ事件に対し、当該攻撃を米国に対する国外からの攻撃と認定し、その創設以来初めて北大西洋条約第5条(NATOの集団防衛条項)を発動するとともに、アメリカの要請に基づき8項目の対米支援活動を行った。
さらにNATOは、国際テロに対処可能な即応部隊の創設にも乗り出した。02年9月の非公式国防相会議(ワルシャワ)でラムズフェルト米国防長官は、テロ攻撃に備えた即応部隊の新設を提案。これを受け同年11月の首脳会議(プラハ)では、国際テロや大量破壊兵器の拡散をNATOが直面する重大な脅威と捉え、これに対処できる軍事力の強化並びに域外派遣できる「NATO即応部隊」の創設が決定された(プラハ宣言)。
NATO即応部隊(NATO Response Force:NRF)は、単一指揮官の下に組織され、地理的制限なく展開可能な陸海空の統合部隊で、規模は約2万人。5〜30日以内に展開でき、敵対環境でも30日間の軍事行動ができる能力をめざし、04年10月までに創設、06年10月までに完全な作戦能力を有する部隊とすることが目標とされた。03年10月、NRF の初期作戦能力部隊(NRF1)が創設され、11月には初の実働演習を実施し、12月には多国籍化学生物放射線核防衛大隊(CBRN)が発足している。
一方、非5条任務の取り組みを見ると、03年8月、NATOは新生アフガニスンにおける国際治安支援部隊(ISAF)の総指揮権をドイツ、オランダから継承した。これはNATOが欧州・北米以外で行う初めての活動であった。同年11月には国連のマンデート(安保理決議1510:03年10月)を受け、治安維持の任務をカブール以外の地域に拡大することを決定、その後04年6月のイスタンブール首脳会合での合意により、ISAFの指揮の下にクンドウス等5箇所で地域復興チーム(PRT)を立ち上げた。
また06年7月、ISAFはアフガニスタン南部6州の指揮権を駐留米軍から引継ぎ、NATOの展開地域はアフガニスタン全土の75%に拡大、展開兵力は約1万9千人になった。さらに同年9月には、アフガン東部の指揮権も米軍から引き継ぐことが非公式国防相対会議で承認された。米軍主導の「不朽の自由」作戦に参加している米軍約2万人のうち1万人がISAFに繰り入れられ、NATOの展開兵力は3万人となる。
このほか先のイスタンブール会合では、イラク暫定政府アラウィ首相から要請のあった治安部隊の訓練への支援を決定した。さらに05年にはパキスタン大地震の際、初の被災民救援活動を行ったほか、スーダンのダルフール地域の紛争鎮化のためにAU加盟国が結成した治安維持部隊の空輸業務を引き受けた。NATOにとって「域外」はいまや東欧に留まらず、中東から中央アジアへと広がりを見せていった。
3.NATOの東方拡大
平和のためのパートナーシップ(PfP)
領域防衛から地域安定をめざす非5条任務へとNATOの主要な機能が変化したことに加え、冷戦後、NATOに変容をもたらしたもう一つの大きな動きが東方地域への拡大だった。 冷戦構造が崩れソ連が崩壊、さらにワルシャワ条約橋構も解体(91年7月)され、NATOを構成する西欧諸国に対する社会主義勢力の脅威は大きく減殺した。その一方で、NATO域内とソ連の後継となったロシアの間のいわば“安全保障の真空状態”に取り残された危機感から、かってソ連の衛星国だった中・東欧諸国からNATOへの加盟を要望する声が相次いだ。当面ロシアから攻撃を受ける危険はないにせよ、ロシアが再び影響力拡大を図ることへの懸念は払拭できず、またロシアの政情不安や共産党の復権、さらに統一ドイツの出現という事態も加わり、言い知れぬ不安感を抱いたからである。
冷戦後、政治的機能の強化を模索していたNATOの側も、中・東欧諸国の民主化と市場経済化を支援し、これら地域の政治的安定を図ることはヨーロッパの安全保障確立のうえで重要な意義を持つとの判断から、NATOを東方に拡大させようとの気運が生まれた。
1990年のロンドンでの首脳会議以来、NATOは旧ソ連諸国との交流を提案、実施していたが、91年11月、ローマでの首脳会議で安全保障に関する協議と協力の制度化を決定し、旧ワルシャワ条約機構加盟国との協議機関「北大西洋評議会(NACC)」 が創設された。しかしNATOとNACCの関係が明確でなく、中・東欧諸国のNATOへの期待を満足させるものではなかった。また西側の影響力拡大を警戒し、ロシアは93年秋以降NATOの東方拡大に強く反対するようになった。
そこでロシアとの妥協点を求め、1994年1月の首脳会議(ブラッセル)でNATOは、東方拡大の方針を表明するともに、旧東側諸国との協力関係強化を目的に、NATOと中・東欧諸国が個別に協力協定を結ぶ「平和のためのパートナーシップ(PfP:Partnership for Peace)」を採択した。PfPはロシアの反発を考慮し、中・東欧諸国のNATO加盟要請を直ちに受け入れることを避ける一方、NATOと非加盟国が特別の協定を基に情報の交換や共同演習等を行うことで政治経済情勢の不安定なロシアに隣接する諸国の不安を和らげようとするものだった。94年1〜3月にかけて中・東欧諸国は相次いでPfPに参加、中立政策を取っていたスウェーデンやフィンランドもその国防方針を転換してこれに加わった。さらにロシア自身も94年6月には参加に踏み切り、PfP参加国は27か国に達した(図表3「NATOの拡大」参照)。
NATOとロシアの妥協点探し
だがPfP には参加したものの、ロシアのエリティン政権はNATO拡大そのものには反対の姿勢を崩さず、中・東欧諸国のNATO加盟に向けた道筋は開けなかった。97年3月の米露首脳会談(ヘルシンキ) でも対立は解けなかったが、東方拡大を受け容れる条件としてロシアが求めていた、NATOとロシアとの協力関係を規定した文書を制定することでは合意が成立。またロシアはアメリカから、国際経済機構への加盟支援や対露投資の拡大等の約束を取り付けたほか、97年6月のデンバー・サミットをロシアが参加する「8か国サミット」として開催することも決まった。これを受け協力文書制定に向けた交渉が開始され、97年5月にはエリツィン・クリントン両大統領以下NATO加盟16か国首脳がパリに参集し、「NATOとロシアの相互関係、協力及び安全保障に関する基本文書(Founding Act)」の調印式が行われた。
この文書は21世紀に向けたNATOとロシアの新たな協力関係の基礎と位置づけられるもので、NATOとロシアは互いを敵と見做さない旨うたうとともに、平和で安定した自由なヨーロッパを築くための両者の共同歩調が明記され、ロシアがNATOと可能な限り安全保障の分野で協力することが確認された。また相互信頼関係の基礎として(1)民主主義と複数政党制、人権尊重(2)自由主義経済の維持(3)武力不行使(4)あらゆる国家が安全保障の手段を選ぶ権利の保障(5)防衛軍事政策における透明性(6)紛争の平和的解決の6原則を掲げた。さらに欧州安保協力や安全保障のあり方を協議するため、NATO・ロシア常設合同理事会(PJC)やロシアのNATO常駐代表部の設置等が決定された。
この基本文書でNATOは、新規加盟国に核兵器を配備しないことを明記してロシアに配慮を示した。またロシアが固執したNATOの軍事行動に対する拒否権は認めなかったが、常設合同理事会は「可能なら共同行動、共同決定を行う」と規定し、NATO事務総長とロシアの協議が何時でも開催できるメカニズムが築かれ、ロシアがNATOの政策決定プロセスに一定の発言権を確保することが可能となった(2) 。
この結果、ロシアはNATO拡大を事実上容認し、NATO創設50周年にあたる99年3月、チェコ、ポーランド、ハンガリーの3か国がNATOへの正式加盟を果たした(第1次拡大:加盟国数は19か国)。続く4月の首脳会議(ワシントン)では、第2陣の加盟希望国としてスロベニアとルーマニアを筆頭に、バルト三国、ブルガリア、スロバキア、最後にマケドニア、アルバニアの名がコミュニケに列挙された。以後、同会議で採択された「加盟の向けての行動計画」に基づき、これら諸国との個別交渉が始められた。
NATO・ロシア理事会の新設
その後、米同時多発テロ事件を契機に米露関係は好転し、対テロをキーワードにNATOとロシアの接近も続いた。02年5月の外相理事会(レイキャビク)は、新たにNATOとロシアの合同意思決定機関を創設することで合意、5月28日、ロシアのプーチン大統領を招いたNATO特別首脳会議(ローマ)で「新たなNATO・ロシア関係に関する宣言」(ローマ宣言)が署名され、NATOとロシアが対等の立場で協議、意思決定を行う「NATO・ロシア理事会(NRC)」の新設が決定された。
新理事会は97年5月発足の常設理事会に代わるもので、(1)対テロ(2)危機管理(3)不拡散(4)軍備管理・信頼醸成措置(5)戦域ミサイル防衛(TMD) (6)海難・災害救(7)軍事協力・ロシアの軍事改革への支援(8)民間非常事態(9)新たな脅威・課題といった双方の「共通の利益」に関わる9分野が協議の対象事項とされ、NATOにロシアを加えた「20か国体制」で各テーマについて協議・決定を行う。その際、ロシアはNATO加盟19か国と同等の発言権を持つが、議事運営は「合意の原則」に基づくものとされた(集団的自衛権の発動や新規加盟国の決定等軍事機構の根幹に関わる分野は、従来通りNATO理事会に委ねられている)。
NATOが既設の理事会とは別に新たな理事会を設置したのは、さらなる拡大を控え、その前にロシアをNATOに取り込んでその抵抗を削ぐとともに、予定されている東欧地域へのミサイル防衛システムの配備に反対するロシアを宥め、しかも対テロ戦争や核不拡散で協力を取りつけるための見返り措置であった。一方ロシアのプーチン政権は、NATOの東方拡大に反対する姿勢に変わりはなかったが、ロシア自らがNATOの政策決定に参画することで影響力を発揮できること、また米欧との経済協力を拡大させたいとの判断も働いた。こうしたそれぞれの思惑が、新理事会の設置となったのである。NATO・ロシア関係の改善を背景に、02年11月の首脳会議(プラハ)でバルト三国、スロバキア、スロベニア、ルーマニア、ブルガリア7か国の加盟招請が決定され、04年3月、これら諸国は正式加盟を果たす(第2次拡大)。
4.続くNATO拡大とカラー革命:強まるロシアと欧米の対立
その後もNATOの拡大は続き、09年にはアルバニアとクロアチア、17年にはモンテネグロ、2020年には北マケドニアが加わり、NATO加盟国数は30に増加した。さらに黒海沿岸からコーカサス地域の国々までがNATO入りを希望するようになる。常設理事会の設置などの対応措置で一旦はNATOと妥協する姿勢を見せていたロシアも、留まることのないNATO拡大の動きに対し態度を硬化させていく。ロシアがNATO、特に米国と強く対立する契機となったのが、カラー革命であった。
ソ連の崩壊に伴い、ロシアと旧ソ連邦構成諸国との間には様々な地域協力の枠組みが構築されたが、その核となったのが独立国家共同体(Commonwealth of Independent States:CIS)だ。CISはソ連邦を構成する15か国のうちバルト3国を除く12か国が連邦崩壊時に結成した緩やかな国家連合体である。しかしロシアから距離を置く4か国(アゼルバイジャン、ジョージア、ウクライナ、モルドバ)は、CIS集団安保条約に参加せず、それぞれの頭文字をとってGUAMというグループを結成する(97年。99年にウズベキスタンが加わりGUUAM となるが、05年にはロシアとの関係悪化を恐れてウズベキスタンは脱退)。
GUAMは、シルクロードの復興と経済発展、旧ソ連諸国の主権と独立の強化等を目的とし、紛争解決、テロ対策等の安全保障、エネルギー供給、欧米との協力等ロシアの影響力を排除しつつ多方面での協力推進を目指した。アゼルバイジャンとジョージアはNATO入りの意思を表明し、NATO主導のコソボでのPKO 活動に40人余の派兵を行う等関係強化に努めた。アメリカやEU諸国もGUAM創設を歓迎し、多額の経済援助を行った。対露牽制に加えて、加盟国がロシアとイランを避けた石油パイプラインの建設に関わる地域であるからだ。
21世紀に入ると、ロシアから距離を置く国々で政権交代や政治変動が相次いだ。俗にカラー革命と呼ばれるが、まず2003年11月、ジョージアでは議会選挙の結果は偽りだったとする集会の圧力で、シェワルナゼ大統領が退陣に追い込まれ(バラ革命)、翌年1月の大統領選挙ではバラ革命を主導したサアカシュヴィリが新大統領に選出された。彼は国内に残る露軍基地の早期撤退を要求する等前政権の親欧米路線を継承した。
04年11月にはウクライナで任期満了のクチマ大統領に代わり、親露派のヤヌコヴィッチ候補(当時首相)が選出された。だが開票の不正を糾弾する大規模な抗議運動でやり直し選挙が行われ、12月には親欧米路線をとる野党のユーシェンコが大統領に選出された(オレンジ革命)。ジョージアとウクライナに続き、05年3月には中央アジアのキルギスでも政変が起こり、14年間政権を担当したアカーエフ大統領が失脚、ここでも親米派のバキーエフが新大統領に当選する(チューリップ革命)。5月にはウズベキスタンのアンディジャンで反政府暴動が発生している。
ロシアはカラー革命を主導した反体制勢力の背後に米政府の関与・支援があったと強く反発。当時のブッシュジュニア政権のコーカサス〜中央アジアに対する政策が、対アフガン作戦やテロ掃討戦の後方支援基地確保に加え、(1)(中東での民主化を拡大する形で)域内諸国の民主化と市場経済化の促進(2)エネルギー利権への接近(開発とパイプライン建設の参加)、さらに(3)この地域の親米化を進めロシアの牽制とその影響力減殺にあったことは間違いない。
これに対しロシアは、ジョージアやモルドバの最有力輸出品であるワインの全面禁輸等経済制裁を強めた。また反露親欧米路線を進めるウクライナやジョージアとロシアの間で軍事紛争が勃発、関係は一層悪化する。2008年8月、ジョージアがロシア連邦北オセチア共和国との統合を求め分離独立を主張する南オセチア自治州に軍隊を進めるや、露軍が軍事介入に踏み切りジョージアを制圧、ロシアは南オセチアやアブハジアのジョージアからの独立を承認する。
一方、親欧米政権ができたウクライナはNATO加盟に積極的となり、NATOの側も2008年にルーマニアの首都ブカレストで開かれたNATO首脳会議で「ウクライナの将来的な加盟を支持」した。米露関係が悪化するなか、プーチン大統領は2007年ドイツのミュンヘンでの演説で、初めてNATOの拡大を公に批判し、反対の姿勢を明確にさせた。
東西の接点ウクライナ
ウクライナは旧ソ連邦でロシアに次ぐ第2の大国で、住民の8割近くはウクライナ人、南部を中心に2割がロシア系。1986 年に大事故を起こしたチェルノブイリ原発が北部にある。13世紀まで存在したキエフ公国は、ロシア、ウクライナなど東スラブ諸民族共通の国家発祥地である。だがその後は複雑な歴史を辿り、1667年にはウクライナ西部がポーランド、東部がロシア領となる。18世紀には大半がロシアに入ったが、リビウなど最西部が旧ソ連に編入されたのは第2次世界大戦後と遅い。
長くポーランドのカトリック文化圏にあった西部では「欧州の一員」意識が強く、住民の大半がウクライナ語を話す。一方、ロシア系住民が多い東・南部はロシア語使用率が高く、ロシア正教で親露派が主体だ。こうした歴史や民族、宗教などの違いから、一つの国でありながら国を南北に流れるドニエプル川を挟んで、ウクライナは西部と東部の2つに大きく分かれ、あたかも東西文明接点の様相を呈している。ロシアと対立関係になりやすいのもそのためだ。ウクライナはキエフ・ルーシを源流とする兄弟国でありロシアと一体化すべきだと捉え、親西欧派を抑えウクライナのEU、NATO加盟を阻止するとともに、ロシアに対する欧米の影響力東進を食い止める緩衝地帯となすことがプーチン大統領の狙いである(3)。ウクライナはエネルギーの大半をロシアに依存している。そこでプーチン政権はウクライナ向け天然ガスの値上げや供給を停止するなどの圧力を加えていった。
ロシアのクリミア併合と東部ウクライナへの介入
2010年の大統領選挙では、「革命」に幻滅した国民の支持を集め、親露派のヤヌコビッチが当選した。エネルギー、経済、政治の三大危機脱却の期待を背に、ヤヌコビッチ大統領はNATO加盟棚上げ、クリミア半島に駐留するロシア黒海艦隊の基地使用延長に合意するなど対露関係の修復に動いた。またユーシェンコ政権のティモシェンコ前首相を職権乱用容疑で逮捕する等親西欧派への圧力を強めた。
さらに13年11月、ヤヌコビッチ大統領がEUとの経済連携を強化するための連合協定の締結を見送ると、これに親欧米派が反発、大規模な抗議デモが起り、14年2月にヤヌコビッチ政権は崩壊に追い込まれた。ウクライナではヤツエニユクを首相とする親欧米の暫定政権が誕生したが、ロシアはこれを認めず、ロシア系住民が多く住むウクライナ東部やクリミア半島では、暫定政権への警戒と反発が広がった。
こうしたなか、ロシアは軍隊をクリミア半島に展開し、空港、議会など主要な建物を占拠しウクライナ軍を武装解除した。3月にはロシアへの編入の是非を問う住民投票が行われ、圧倒的多数の賛成を得たとしてクリミア半島を一方的にロシアに併合する(4)。このロシアによるクリミア半島併合がNATOにとっての大きな転機となる。現在に至る10年間、NATOの果たすべき役割が冷戦後の非5条事態対処や地域安定から再びロシア脅威への対処へと舞い戻ったのである。
国際社会はロシアの行動を強く批判し、国連総会はクリミア併合を無効とする決議を採択、欧米諸国は対露経済制裁を発動し、ロシアはG8から追放された。ウクライナでは14年5月の大統領選挙で、親欧米のポロシェンコ政権が誕生したが、ウクライナ東部のドネツク州、ルガンスク州では親露派武装勢力が政府庁舎などを占拠、クリミアと同様の住民投票の手法を踏襲してウクライナからの分離独立を宣言、ウクライナ政府軍と激しい戦闘に入った。
2014年9月にはウクライナ政府と親露派武装勢力の間で停戦合意が成立したが守られず、その後、プーチン、ポロシェンコに加え独仏の首相も交えた首脳会議の結果、停戦に向けた合意文書が纏まり(ミンスク合意)、15年2月に再び停戦が実現した。だが、その後も親露派武装勢力とウクライナ政府軍が断続的に交戦を重ねる状態が続いた。
一方ウクライナでは、厳しい緊縮財政や汚職問題、それに東部地域の紛争終結にめどが立たないためポロシェンコ政権に対する支持率が低迷し、19年4月の大統領選挙ではコメディアン出身のゼレンスキーが圧勝した。ゼレンスキー大統領はロシアとの直接対話で紛争解決を目指す考えを示し、19年12月には露独仏との4か国首脳会議を3年ぶりに開催し、完全停戦や和平のための政治プロセス再開に号した。しかし、東部地域に広範な自治権など特別な地位の付与を求めるロシアと意見の一致が得られず、またロシア寄りの姿勢を見せることには国内の反発も強いため、次第に強硬な反露姿勢を見せるようになる。
5.ウクライナ戦争の勃発:対露脅威増大に直面するNATO
2022年2月24日、ロシアのプーチン大統領はウクライナ東部で特別軍事作戦を発動し、ウクライナとの戦争を開始した。プーチン氏は演説で、親露派武装集団が一部を実効支配しているウクライナ東部で、ウクライナ政府軍による「ジェノサイド(集団殺害)」が起きていると主張し、軍事作戦の目的は市民を保護するためだと説明。「ウクライナの絶え間ない脅威に、ロシアは安全と感じることができない」と作戦の正当性を強調した。またプーチン大統領は、北大西洋条約機構(NATO)はロシアの度重なる抗議にもかかわらず、拡大を続けてきたと非難し、NATOの継続的な拡大はロシアの生死にかかわる脅威だとの認識を改めて強調した。ロシアは21年12月以降、ウクライナをNATOに加盟させない確約などを「根本的な要求」として、米国とNATOに受け入れを迫り、2月17日の米国宛て文書では、要求を受諾しない場合、「軍事技術的な措置」をとると警告していた。
ロシアのウクライナ侵略に対しNATOのストルテンベルグ事務総長は「無謀で挑発的な攻撃を行った」と非難する声明を発表。アメリカを始めNATO諸国は、ロシアとの直接軍事対決を避けつつもウクライナへの軍事支援に乗り出す。加盟国の危機感が高まる中、2022年6月に開催されたNATO首脳会合では、2010年以来12年ぶりに新たな戦略概念が採択された。前回の戦略概念では、欧州・大西洋地域は平和で、NATO領域への攻撃の可能性は小さいとしていたが、新たに打ち出された戦略概念では、加盟国の主権・領土に対し攻撃が行われる可能性は軽視できないと改めた。そして、前回の戦略概念ではロシアと「真の戦略的パートナーシップ」を目指すとしていたが、今回の戦略概念では、ロシアを加盟国の安全保障及び欧州大西洋地域の平和と安定に対する「最も重大かつ直接的な脅威」と位置づけた。東の強大な軍事的脅威に対処する集団防衛機構としての機能発揮が再びNATOに求められることになったのである。またロシアの脅威に備えるためスウェーデンとフィンランドがNATO加盟を申請し、承認された(図表3「NATOの拡大」参照)。
創設75周年を祝う首脳会議 ウクライナ支援継続を表明
24年7月、ワシントンでNATO創設75年を記念する首脳会議が開かれた。加盟32か国によって採択された首脳宣言では、ロシアを、依然として加盟国の安全保障に対する「最も重大で直接的な脅威」であり、その脅威は「長期的に続く」と指摘、そのうえで「ウクライナ領土の違法な併合は決して認めない」と強調し、ロシアの侵攻を受けるウクライナに対し、年間400億ユーロ(約7兆円)以上の支援を来年も継続することで各国が合意した。ウクライナのNATO加盟問題については、「不可逆的な道」と従来より踏み込んだ表現が首脳宣言に盛り込まれた。ただ時期は明記されず、具体的な道筋についても、昨年の首脳会議と同様に「加盟国が同意し、条件が整えば加盟招待する」と述べるにとどめた。
またウクライナに安定的な支援を継続するため、兵士への訓練や兵器供与の調整を担う新司令部をドイツに設置することや、ウクライナ政府との意思疎通を円滑化する目的で、NATOの文官である上級代表を首都キーウ(キエフ)に初めて常駐させることも決まった。核戦力の近代化推進にも言及し、核兵器使用を示唆するロシアをけん制した。さらにウクライナとの間で長期の安全保障協力を約束する2国間協定を締結した日米など26か国・機関による枠組み「ウクライナ・コンパクト」も同日、創設された。
このほか、バイデン大統領は米国と同盟国がウクライナに戦略防空システム5基を新たに供与すると発表。また米国、オランダ、デンマークの首脳は共同声明を発表し、F16戦闘機のウクライナでの運用が今夏に始まるとの見通しを示した。
冷戦後の国防力削減と伸び悩む国防費
NATOがウクライナへの軍事支援を続けるのは、ウクライナがロシアに敗北した場合、NATO加盟国の領域がロシアとの新たな戦場になる危険があるからだ。ロシアとNATOの直接軍事衝突は第三次世界大戦を誘発する恐れが高い。だが、ロシアの西への侵略を抑止するための十分な軍事力や長期戦を戦い抜くための武器弾薬の生産能力を大部分のNATO加盟国は有していない。冷戦の終焉やソ連の崩壊で大規模紛争が生起する恐れがなくなったこと、また領域防衛から地域の安定確保に任務の比重を移したことから、加盟各国は軍備の削減縮小に動いたからだ。
1980年代半ば、当時のNATO加盟16加盟国は500万人以上の兵力を誇り、冷戦のピーク時には100個師団、300万人弱の兵士がヨーロッパに配置されていた。さらに30個師団、170万人の兵士が厳戒態勢に置かれていた。しかしウクライナ戦争勃発当時、加盟国は30カ国に増えたものの、NATOの兵力は民間人を含めても約350万人。アメリカがヨーロッパに駐留させている兵力はドイツの3万5千人、イタリアの1万2500人を含め合計約9万人に過ぎない。米軍は第2次世界大戦中に約190万人、冷戦ピーク時の1962年には約40万人をヨーロッパに駐留させていた。削減の大きさがわかろう。ロシアの動向を警戒し、NATOはロシアとその同盟国ベラルーシに面するポーランドやバルト三国に計5千人を常駐させ、4万人の即応部隊を配していたが、それでもウクライナ侵攻を抑止できなかったのである。
国防力の削減や更新近代化の遅れは、国防費の減少となって表れている。ロシアのクリミア半島併合などロシアの脅威が欧州で強まったことを背景に、2014年9月、英国南西部ウェールズのニューポートで開かれた首脳会議において、加盟各国は今後10年間で国防予算を国内総生産(GDP)比2%以上にする目標の達成を目指す方針を確認した。但しこれは正確には再決議であり、既に2002年に「紳士協定」ではあるが2%の目標達成が確認されている。
しかし各国の国防費の伸びは低く、12年後に再決議されたものの、2014年の時点で国防費のGDP2%を達成していたのは米英、エストニア、ギリシャの僅か4カ国に過ぎず、欧州側加盟国の平均は1.45%という低率でほとんどの加盟国はで未達成のままであった。国連安保理の常任理事国であるフランスは1.9%に留まり、さらに経済大国でありながらドイツは1.2%に留まっていた。冷戦当時の西独は、実にGDP比3.3%(1984年)を国防のために支出していたのとは様変わりであった。
そして2014年の再決議以降も加盟国の国防費の伸びは依然緩やかで、ウクライナ戦争勃発の当時、NATO目標のGDP比2%の国防費を達成していたのは10カ国と加盟国の三分の一程に過ぎない状況であった。ウクライナ戦争の勃発を受け、改めてNATO各国は国防費GDP比2%目標早期達成への真摯な努力が求められている(図表4「NATOの国防費」参照)。
「もしトラ」の不安と国防努力改善の動き
ロシアの脅威に対処することに加え、西欧のNATO諸国は米国のトランプ前大統領の動きにも神経をとがらせている。トランプ氏は大統領在任当時から、西欧のNATO加盟諸国の国防努力不足を激しく非難し、各国がGDP比2%以上の国防費を負担しない場合には米国のNATOからの離脱や欧州防衛の義務を果たさないなどの対抗措置に出ると仄めかしているからだ。
現下の大統領選挙運動でもトランプ氏は同様の公約を打ち出しており、11月の選挙で4年ぶりに大統領に返り咲いた場合、西欧諸国への圧力は一挙に高まることが予想される。高まるロシアの脅威がNATOにとって前門の虎であるならば、国防費増大を強く迫るトランプ氏の動向はまさしく後門の狼となっている。
トランプ氏の大統領復帰の可能性が高まる中、危機感を抱く西欧NATO諸国は国防費増額に向けた努力を進めている。その結果、24年6月、NATO創設75周年を記念する首脳会議を前にして、加盟32カ国のうち23カ国が今年国防費GDP2%を達成することをストルテンベルグ事務総長は明らかにした。
一歩前進と言えるが、国防費増に加えて、NATO諸国には冷戦後衰退が進んだ防衛産業の再活性化も急がれる。5月のマンスリーレポートで指摘したように、ウクライナ戦争の長期化を受け、EUやNATO加盟各国は武器生産体制の強化に乗り出した。しかし、一朝一夕に対露抑止力が確保できるものではない。さらなる努力が加盟各国に求められる。7月の首脳会議でNATOは、加盟国の防衛産業の基盤を強化するための計画を策定することで合意した。欧州各国は今後、米国の軍需産業に依存しない体制の構築を進めるとみられる。
中国の脅威
さらにいま一つ、NATOが警戒を強めているのが中国の脅威だ。中国はウクライナ戦争を続けるロシアを支援し、欧米の対露経済制裁を無力化するとともにロシアの継戦能力を下支えしている。中露の一体化は欧州の安全保障にとって重大な脅威となっているのだ。
また習近平政権が進める一帯一路政策や安価な中国製品の流入、さらに中国のレアアースへの依存など欧州の経済が中国によって影響を受け、さらに経済的な威圧や従属を強いられる恐れも懸念されるようになってきた。
NATOは22年の戦略概念で初めて中国に言及し、中国が表明している野心と威圧的な政策は、NATOの利益・安全保障・価値観に対する挑戦であるとし、核戦力の急速な増強、透明性の欠如及び悪意あるハイブリッド・サイバー行動に懸念を示した。また中露関係の深化やルールに基づく国際秩序を損なう両国の試みは、NATOの価値観及び利益に背くものと指摘した。そのうえで、同盟の安全保障上の利益のため中国に関与し、国際社会において責任ある行動をとるよう中国に要請するとともに、NATOを分断するための中国の威圧的な取組を防ぐ旨言及している。
今般の7月の首脳会議で採択された首脳宣言では、中国は「無制限のパートナーシップと、ロシアの防衛産業への大規模な支援」を実施し、ウクライナ侵攻の「決定的な支援者になった」と指摘、これまでよりも強い文言で中国を批判し、「中国の野心と高圧的な政策は、我々の利益、安全保障、価値観に挑戦し続けている」と強調した。また声明では、軍事転用が可能な部品、機器、原材料が中国からロシアに提供されている実態を詳しくしめしたうえで、ロシアに対する「物質的、政治的な支援の停止」を強く中国に求めた。NATOが中露関係を批判する文書を正式に発表したのは初めてとなる。
かようにNATOはいま、ウクライナ支援によるロシアウクライナ戦争の早期終結とロシアに対する抑止力の回復に加え、中国の影響力拡大やその脅威にも対処することが求められている。バイデン大統領は設立75周年の記念式典でNATOを「世界史上最大にして、最も効果的な軍事同盟だ」と自賛したが、トランプ氏からの圧力云々に拘わらず、権威主義勢力の脅威に対応すべく、早急な国防力の強化と防衛体制の整備再構築が待ったなしの課題になっている。
(2024年7月21日、平和政策研究所上席研究員 西川佳秀)
●注釈
(1)ボスニア紛争では、1995年11月のデイトン合意成立後、和平合意の軍事面履行促進の任務を国連から委ねられたNATOは、多国籍軍IFOR(総兵力6万人)を率いて停戦遵守や兵力の撤退・引き離し、武装・動員解除等の任務にあたった。コソボ紛争では、99年6月にセルビアの和平案受諾を受け、安保理決議1244に基づき編成された国際安全保障部隊(KFOR)(総兵力約3万人)の指揮を執り、KLAの武装解除や人道支援等の任務を遂行した。また01年にはマケドニアにおける停戦監視等にもNATOは部隊を拠出している。
(2)もっとも、常設合同理事会の現実の運営に関しては、NATO加盟国により決定済みの事項をロシアに通知するだけというのが実態であった。1999年のNATOによるコソボ空爆に関し、ロシア側は事前の相談を受けず、同年6月、治安維持部隊参加のロシア軍がNATO軍の意表をついてプリシュティナ空港を占拠する事件を受け、双方の不信が募り、その後は形骸化していった。『朝日新聞』2002年5月29日。
(3)ウクライナとベラルーシは、ロシアにとっての生命線である。この二国がNATOに加盟すれば、ロシアは存亡の危機に立たされる。モスクワはベラルーシの国境から400キロメートル程しか離れておらず、ウクライナはボルゴグラードから300キロほどしか離れていない。ロシアはその奥行きを活かして、ナポレオンとヒトラーから身を守った。ベラルーシとウクライナを失ったロシアには奥行きもなければ、敵の血と交換出来る土地もなくなる。」ジョージ・フリードマン『100年予測』櫻井祐子訳(早川書房2014年)174頁。
(4)黒海に突き出たウクライナ南部の半島で、人口は約200万人。ロシア系住民が多数を占める。オスマントルコ帝国の勢力下にあったが18世紀末にロシア帝国に併合され、19世紀半ばには欧州列強とロシアの間でクリミア戦争が勃発、ナイチンゲールも従軍した。第2次大戦末期の1945年2月にはルーズベルト、チャーチル、スターリンの米英ソ3カ国首脳によるヤルタ会談が開かれた。1954年にロシア共和国からウクライナ共和国に編入されたが、1991年のソ連崩壊後ウクライナが独立すると、ロシア系住民によるクリミア独立運動が激化した。南西部のセバストポリにはロシア海軍の黒海艦隊が駐留する。
*図表の出所:外務省欧州局政策課「北大西洋条約機構(NATO)について」(2024年3月)