歴史認識問題のこじれや両政府間の排他的対応によって、ここ数年厳しさを増してきた。そのような日韓関係をどう解いていくか。真の意味で未来志向の関係を築くためにはどのような道筋があるのか。日韓における歴史認識問題においては、相互間に大きな認識の差が立ちはだかっている。政権担当者に民主化運動の経験者が多い韓国の現政権は、個人の人権や人間の尊厳などの抽象概念に照らし、歴史認識に未解決のことが残っているとの立場である。それに対し日本は、一度合意し決着したことなのに、韓国はなぜそれを蒸し返すのかと言い放ち、応じない立場である。このような日韓の歴史認識へのアプローチの差があるため、両国の間で合意点を見出すことは難しくなっている。30年近く日韓社会を観察して来た一市民の位置から、歴史的背景から見た日韓の認識の差と、どうすればその認識の差による葛藤を乗り越えられるかについて考えてみたい。
日韓における歴史認識の差が、なぜ大きく開いているかについて、両国の考え方や歴史展開の視点から示してみよう。議論の展開のため、歴史認識に係るある出来事や物事について、日韓が一度決めたとし、歴史上のその出来事や物事に、個人の人権や人間の尊厳などに絡む色合いが濃いと想定しよう。昨今の日韓間の徴用工に関する歴史認識問題が、その一例と言える。歴史認識問題は価値判断が介在しやすいため、それへの向き合い方も両国で異なる。きっぱりと合意点にたどり着き難い事柄が歴史認識問題である。
ここで、日韓歴史上のある決め事を巡って、大きな状況変化や政策路線の変更が、後になって生じたとしよう。すると、その決め事について、見直さなければならない時もあり得る。とくに、韓国では過去のものを引き継がず、状況変化などに対応しようとする傾向があるため、一度決めたことであっても再び変えようとしたりする。反面、日本は約束事をより重視するため、一度決めたことはめったに変えようとせず、そのまま一件落着としようとする。
以上のような日韓の考え方や対応の仕方の差が、相互間の摩擦の種になったりする。日本は韓国が以前とは違うことを言って来る態度に対し、「駄々をこねる」とか「ゴール・ポストを動かす」というふうに思うかも知れない。ところが、民主化運動にふけっていた今の政権担当の人たちは、日本が個人の人権や人間の尊厳などをあまり尊重しないと受け止め、日本側の対応には不充分さがあるとの立場である。
さてどうすべきか。経済学が専門である私が、日韓歴史問題に詳しく触れるのは、度を越すことでもある。以下は、日韓の歴史認識や考え方の差について、単に一市民の立場から見た見解に過ぎない。
1.日本の歴史教育への印象
個人的には、ある国や社会について理解するためには、その国や社会の歴史や文化について知っておく必要があると考えている。私が来日し、多大な時間をかけて読んだ本がある。日本の高校教科書『新詳説日本史』(山川出版社)という本である。初めて読むときには歴史の中身もさることながら、人名と地名の読み方に甚だ苦労した経験がある。
この教科書では初出のときだけ固有名詞のルビが振ってあるので、途中で読み方を忘れてしまうとどう読むのかが難しかった。四苦八苦してその本を何度か読みながら、日本の歴史について勉強した。また全ての漢字にルビが付けられ分かりやすいものとして、小学館の『少年少女日本の歴史』(全23巻)という漫画本も読んだ。イメージも浮かぶので大変参考になった。
白状すると、私の日本の歴史に関する知識は、これらの二つを通して勉強したくらいである。その程度の知識に照らしても、最近の日本の学生は自国の歴史について、あまり勉強しないムードであるようだ。ときに学生たちと歴史の話をしても、噛み合わないときが少なくない。
大学に身を置くものとして、日本人の学生たちに接しながら感じるのは、自分の身の回りのことについては関心が高いが、社会・時事問題や歴史問題については比較的関心が低いことだ。彼らの時事ニュースの習得は、ネットでの浅読みからで、新聞などの深読みからの習得はあまりしない。なので、時事的な政治・社会・歴史問題についての知識水準が、それ程高くない印象だ。ちなみに私の授業では、学生たちに新聞の切り抜きを時々配り、時事問題を取り上げその不足を補ったりする。
もし他国の学生と歴史に関し議論をする機会があるとすれば、日本人学生の多くが自分の主張を淡々と言えないかも、という危惧もある。とくに近現代史についてはさほど関心を示さない上、知識も充分でないために議論が深まらないだろう。危ういのは、事実・史実・事情も知らないまま、激しい感情論に入り込むときである。単に学生だけの問題というよりも、近現代史に関する教育もそれ程重視されないような気がする。憂慮される事柄ではないだろうか。今後近現代史の歴史教育にも力を入れる、という方針を立てたことに期待を寄せてみたい。
2.日韓の歴史的背景の差
自分なりに日本や韓国の歴史について勉強しながら起こる感覚は、日韓の歴史的背景が大層違うことである。古代から遣唐使の廃止(894年)までの日韓の歴史は、中国文化の影響も強く、日中韓の交流も活発であったと言える。遣唐使の廃止後、日本では「国風文化」が起こり、それ以降武士政権が成立し明治維新(1868年)まで続く。日本とは違って、朝鮮半島(韓国)では古代国家から王朝文化が続き、日本統治(1910年)になってその王朝時代は終わることになる。
韓国はアジア大陸と海洋を繋ぐ半島国家、日本は島国、という両国の地政学的位置関係の差は、人々の考え方に違いをもたらす。それに加え、両国の歴史展開の相違から出て来る思考形成の違いも大きいと言えよう。韓国は古代から朝鮮時代まで1500年以上の王朝の歴史があるが、日本は鎌倉幕府以来明治維新まで約700年間の武士政権の歴史がある。両国の歴史的背景の差は、同じ出来事についても、相互に異なる見方や反応を見せたりする。
王朝体制であった韓国と武士政権体制であった日本との間には、その文化や考え方にも大差が生じ得る。両国の歴史展開を見ると、「士農工商」という身分制度がある。今後の歴史教育においては、士農工商を身分制度というよりも、職域の差として捉えるというが、いずれにせよ、日韓における士農工商の中身はまるで違う。とくに支配階層の構成が相当異なる。両国における支配層は同じく「士」と表現しているが、文武の視点からすると、その「士」の意味や構成は対照的である。韓国の士は「・」という「文人の士」である反面、日本の士は「武士の士」であるからだ。
文人による支配という韓国と、武士による支配という日本との間には、支配層だけでなく被支配層における考え方も大きく違う展開となる。韓国では出世の登竜門として、日本にはなかった「科挙制度」(官僚登用試験)があり、出世志向の意識も強かった。科挙の種類には文科と武科があったが、文士が武士よりも重んじられた。それに対し、日本では「武家諸法度」による統制から見られるように、武士による統治が主だった。規範による縛りは、日本が韓国よりも厳しかったと言える。
3.両国の価値観の違い
出世志向が強かった韓国と法度による縛りが強かった日本との間には、政治への関心度にもかなりの差が出て来る。一般に韓国人は政治の話に関心が高く、日常でも良く政治談議をしたりする。普通の会話に政治の話をほとんど持ち込まない日本人とは、その趣向の差が大きい。両国の芸能人の政治への処し方もそうである。韓国の芸能人は別段恐れることなく政治談議をしたり、政治活動にかかわったり、社会運動をしたりするが、日本の芸能界では政治的発言や活動はタブー視される。
日本では政治界においても、家系として代々の家業とされている面々も窺える。日本が得意とする連続性が、政界にも現われているわけだ。その背景として、与えられた一所で命を懸けて(懸命に)やっていく、という歴史上の「一所懸命」の意識とも深く係わっていると言えよう。もちろん日本でも、一般の人々が政界に入門し活躍することもできるが、何の背景もない畑違いの新米が政界に旋風を巻き起こし、大物として影響力を発揮することは難しい環境である。
政界における日韓の環境の違いもあり、一般人の政治を見る目にも両国の間には大きな差が見られる。多くの日本人は自分が政治家になり、大なたを振るいたいと思うよりも、政治は政治家がやることだとさて置き、自分は自分の仕事をやっていけば良いと思いをめぐらしたりする。それに対し、流動性の高い韓国では、自分が何らかの影響力を発揮したいという人々が大方存在する。
全体の意思決定に強い影響力の発揮できるところが政治の世界である。そのことを念頭に置くと、指示されるよりも指示する立場への趣向の強い韓国人が、日本人に比べ政治に関心が強かろうことは理解できよう。影響力を発揮したいことは、それなりの地位に就きメンツを立てたいことでもある。歴史的に科挙試験への合格(及第)を熱望したことも、メンツを立てたい意気地の現われだったとも解釈できよう。
メンツを重んずる傾向の強い韓国人の立場を、日本統治の歴史に絡む国家レベルに拡張してみよう。すると、日本の植民地支配を受けたことについて多くの韓国人は、メンツが丸つぶれになったと受け止めたりする。心の奥底で大切にしていた自尊心が、日本統治によって傷つき踏みにじられたと憤慨する人もいる。
1945年8月日本の植民地統治から朝鮮半島が解放されたとき、一つ興味深い現象が起きた。日本の津々浦々には神社が散在する。そこまでには及ばないにしても、日本統治期に朝鮮半島にも多数の神社が建てられた。それが解放になるや否や、全土にあった神社は一気に撤去されたのである。つぶされたメンツを回復したかった韓国人の憤りが、一気に噴き出したのかも知れない。
「臭いものには蓋」ということわざに見られるように、日本では面倒なことなどについての議論を避けて通りたがる傾向がある。歴史認識問題もその「臭いもの」の範疇に入るかも知れない。ところが、韓国人の場合、日本との歴史認識問題になると、心の奥に沈潜していた思い「恨(ハン)」が、間歇泉のように込み上げて来る人も少なくないだろう。韓国人が歴史認識問題と関連づけて謝罪を求める背景には、そのような恨(ハン)という感情と結び付きが深いと解釈できよう。
4.日韓における擦れ違いの見方
昨今の日韓にまたがる歴史認識問題については、互いに擦れ違う隔たりが大きい。両国の現政権において、その隔たりが一層浮き彫りになり、互いに噛み合わないせめぎ合いが続いている。なぜそのような隔たりが生じているかについて、韓国の現政権の中枢に照準を合わせ掘り下げてみよう。
戦後の韓国においては、学生や市民らが立ち上がり、独裁政権に抗いながら民主化運動を強烈に展開し、民主化を勝ち取ったという自負がある。その民主化運動の際には、人間の尊厳、個人の人権や自由など、抽象概念としての価値を掲げて戦った。
とくに現在の文在寅政権を補佐する人たちの中に、民主化運動に係わった人たちが多い。彼らは人間の尊厳や個人の人権などの抽象概念に基づく価値観を打ち出したりする。韓国大法院の徴用工への賠償判決の奥底にも、これらの抽象価値を日本がより重く受け止めてほしい、という願望が潜んでいると言えよう。
日本の場合には、韓国の見方と違う。日本はどちらかと言えば、人間の尊厳や個人の人権などの抽象価値に目を向け深く言い争うよりは、具体的なこと、例えば自分の身の周りのことや相互の約束のことに、より重きを置いたりする。有力のマスコミや政治家が、徴用工問題は解決済みと言えば、多くの日本人は「もう決着したことなのに、韓国はなぜそれを蒸し返すのか」、「約束事を守らないのか」という反応を示したりする。
つまり、日本は韓国側の言う抽象概念に基づく議論にはそれ程関心がなく、「既に決着したのだからその約束を守れよ」という立場を取る。その反面、 韓国の現政権の座にいる人々は、人権や人間の尊厳などの抽象価値に照らし、日本がより積極的に対応してくれることを提起したりする。このように日本人と韓国人の見方や発想が擦れ違うために、相互の話しが噛み合わず合意に至ることが難しい現状だ。
5.どうバランスを取るか
海外の視線で日本や日本人を語るとき、日本の町は綺麗だし日本人は親切で秩序や約束も良く守る、などの誉め言葉も飛び交ったりする。そのような見方以外に、日本を警戒の目で見る視線も注目に値する。それは、日本が一旦ある偏った方向に社会全体が動き出すと、その動きを阻止する力、または元に戻す力が働かなくなるかもしれない、という恐れの視線である。
日本の歴史を振り返っても、偏った動きにブレーキが利かなかった前歴がある。その代表例が太平洋戦争に至る過程である。戦前の日本では、軍の力が強く真の政党政治はほとんど作動しなかった挙国一致内閣が1932年から始まり、ついに太平洋戦争まで突き進んでしまった。結局1945年の敗戦によって挙国一致内閣が解消された歴史がある。
批判を嫌う傾向の強い日本では、丁々発止の活発な議論を行うよりも事態が丸く収まることを好んだりする。戦国時代には、喧嘩になったとき、両方に罪があるとして両方を罰する「喧嘩両成敗」の慣習があった。「両成敗」は江戸時代に法的には廃止されたが、その考え方は残った(『広辞苑第六版』参照)。このような歴史的背景を持つ日本では、是非を問うことにまで踏み込もうとしない嫌いがあろう。
「両成敗」は、和を重視する一種のやり方かも知れないが、どちらが間違いだったかの判別をつけようとしないため、是々非々が隠されてしまう問題を孕む。和合によって喧嘩のわだかまりが溶けると良いが、そうでないと不満の種は潜在したままである。健全な批判を嫌うことの弊害は、本質的な争点から遠ざけてしまい、膿を出させないまま閉塞感に陥ることである。
昨今日本と韓国の政界やマスコミなどでは、非難合戦も飛び交っていた。感情や思い付きが先走ってしまい、その歯止めが掛からない時も往々にして起きたりした。悪感情交じりの非難合戦からは、何の生産的、創造的なことは生まれない。相手を傷つけるとともに善意な交流さえも妨げる。互いの理解を深めるには、なぜ相手が自分とは違う考え方なのかを探った方が良かろう。人々の考え方の形成は、その国の歴史展開と深層に係わる。歴史的背景の学習が、相手の考え方の理解に欠かせない所以だ。
本来ならば政治家や政策当局が、非難合戦を抑制させていくべきだが、彼らだけに頼り切るのはそもそも無理がある。国会議員などの政治家は、人気を集めないとその職を維持し難い集団であるからだ。近視眼的に人気取りに走りやすい彼らに、冷静な対処を期待することが難しい時も日常茶飯事である。そのため、民間ベースの意識の成熟が求められる。とは言え、首相や大統領のようなリーダーの意思決定は、社会全体に多大な影響を与えるだけに、良いリーダーへの期待が肝心であることは言うまでもない。
大きな社会の流れを個人の力で止めることは限界が大きい。個人の見方が一方の方向だけに傾いてしまうと、バランスが崩れてしまう。社会システムにおいても、片方だけに傾かずバランスを保つことが肝要だ。そのためには、より客観的な議論のできる雰囲気、健全な批判が自由に提示でき、それを包容する土壌をどう醸成していくかが鍵となる。最近日本で注目の人物として浮上する渋沢栄一も、「何をするとき極端に知らず中庸に適う」ことを打ち出す(『論語と算盤』)。
終わりに
一般人の認識水準を高めることが、相互理解への要であるとは言え、それがすぐ達成できることでもない。人々の考え方やその社会文化は、長い歴史の中で形成されるからだ。それ故に、日韓の歴史的背景の違いが、国民の考え方に差異をもたらすだろうことは容易に想像できよう。長年にわたって形成された考え方の違いやそれに根付く葛藤を、現代を生きるわれわれが、今すぐ短い期間に理解し乗り越えていくことは多難な道程であろう。
歴史認識の問題は、個々人においても違うし、国同士でも納得できる合意が得られ難い。そのため、日韓両国民の考え方の差に基づく歴史認識問題を、どう扱うべきかは至難の業である。考えられる問題解決の方法としては、文化交流や経済協力関係には、感情的に走りやすい歴史問題を持ち込まないことが望ましい。歴史認識問題を文化交流や経済活動の立場に持ち込むと、簡単にはまとまらずこじらせてしまいがちになるからだ。私としては、主に日韓の経済経営学者の集まりである東アジア経済経営学会を通じ、微力ながら両国の学術交流に励んでいる。
昨今の日韓関係がこじれた理由は、歴史認識問題を政治イッシュとして捉え、またそれがエスカレートし、経済問題にまで持ち込んだからである。そのため事態を複雑化させてしまい、ぎくしゃくしてきた状況となってしまった。絡み合った歴史認識問題に起因する日韓葛藤を解いていくためには、まず、専門家組織による討論の場を作り、そこでどのように歴史問題をアプローチするかを議論してもらうことが良かろう。
日韓の文化交流や経済協力を進める際には、歴史問題を持ち込まないことである。逆に両国の歴史専門家会議による議論を行うには、歴史認識問題を文化交流や経済部門までに拡張させない、という環境造りが重要だ。その環境造りには、両国首脳同士のリーダシップや決断が欠かせない。
より具体的な解決の糸口としては、金大中大統領と小渕恵三首相の時の日韓関係構築が一つの良いモデルであろう。金大中大統領は、日本国内での拉致歴などその来歴からすれば、日本に対して最も怨恨深くなりがちな立場だったかも知れない。それを克服し、日本との関係改善を進めたことは称賛に値する。今後、日本と韓国の指導者にとっても、1998年にあった金・小渕の「日韓パートナーシップ宣言」のような度量を示してほしいと思う次第である。
(2020年3月7日)