道徳教育に求められる人間像・社会像の構築 ―コロナ後を見据えた新しい道徳の創造―

道徳教育に求められる人間像・社会像の構築 ―コロナ後を見据えた新しい道徳の創造―

2020年9月21日
はじめに

 2019年、中学校において道徳の教科化が全面実施され、前年の小学校での全面実施と合わせて、道徳は義務教育の全期間を通して「特別の教科」として位置づけられることになった。道徳が教科化されたことにより、子供たちに自分のアイデンティティーや他者との関わり、社会の在り方に関わる道徳的価値を教える枠組みは整った。しかし、未だどのような人間を育て、どのような社会を構築するかという目標は不明瞭である。
 以下では、道徳教育の現状を概観するとともに、目標とする人間像・社会像を定めることの重要性を示したい。

道徳教科化の成果

 道徳教育は特別の教科として本格的に始動したことにより、大きな前進を遂げた。道徳教育は1950年代から教育よりも政治的なイデオロギー対立の争点とされ、中身の検討よりも道徳教育それ自体を「賛成か、反対か」の枠組みに押し込めてきた。私はその二項対立的議論を「道徳教育の55年体制」と呼んできたが、教科化によって、道徳教育の内容や方法の検討に関心が向けられ始めている。
 このように道徳教育の実施方法への関心が高まった背景には、二つの要因がある。第一の要因は子供たちをめぐる道徳に関わる問題が山積していることである。いじめや引きこもりが増加し、家庭に目を向ければ児童虐待が頻発している。それは子供の世界だけでなく、大人の世界でのパワハラやセクハラなど現代の大きな社会問題となっている。社会の「劣化」が進む中で、従来のような「賛成か、反対か」だけの中身のない議論では現代の課題に応えることができなくなったと言える。
 第二の要因は道徳教育へのステレオタイプの反対論に対する倦怠感の高まりである。道徳教育自体に反対してきた人々は、戦後75年もの間、子供たちの道徳性や人間形成の課題に対して有効な解決策を語ることができなかった。明確な処方箋がないまま道徳教育に反対だけの旧態依然とした姿勢に多くの国民は飽き飽きし、ウンザリしていた。今は学生には、「道徳教育の55年体制」や政治的イデオロギーからの反対論はほとんど通用しない。「道徳教育がなぜ悪いのか」、「人間のアイデンティティーや生き方が問われている時代に、道徳教育を語ることは当たり前ではないか」というのが学生の率直な思いである。私にはそれは当たり前の健全な感覚に思える。
 これまでの論議の大きな争点であった教科化が実現したことで、ステレオタイプの批判論は急速に色あせ、学校の教師たちは、教科化により子供たちをどう指導するのか、評価はどのようにしたらよいかなど、実践的な課題に関心を向けるようになった。これが、教科化がもたらした成果である。

本質的理解の欠如

 しかし、道徳教育が真に子供たちの心に道徳性を育む時間となるためには、大きな課題がある。先述のように、戦後75年もの間、日本での道徳教育論議は、「賛成か、反対か」の入り口論で頓挫し、道徳教育のあるべき姿を論じてこなかった。そのため、教科教育の基盤となる理論が欠けており、そもそも道徳や道徳教育が何を意味し、何を目指すものなのかが理解されていない。また、教師自身も小中学校時代に体系的な道徳の授業を受けたことがなく、良い授業のイメージを経験知として持っていない。保護者も同様であり、道徳の成績は入試に関係するのかという表面的な側面に関心が向きがちである。
 教育現場は教科化が実現し、授業がスタートしたことだけで満足してしまい、教科化以降は、道徳教育への関心が薄れている部分もある。道徳の教科化は2013年から大きな議論になり、教師たちも指導法や評価の仕方などに関心を持つようになった。しかし、いざ教科化してみると授業は週1時間から変わらず、教科書もある。評価も「認め励ます評価」であり、基本的に子供の欠点や悪い点を書く必要はないために、保護者からクレームが来る恐れはない。つまり、教師自身が試行錯誤しなくても済む状況となり、「この程度なら何とかなる」という妙な安心感が広がった側面もある。実際、道徳の研修は教科化開始時にはどこの会場も満員だったが、約2年が経過した2019年の夏には参加者がかなり減少した。
 そうした道徳教育への関心の薄さは、コロナ禍に伴って子供たちに課された家庭学習の内容にも反映されている。今回のコロナ禍では道徳について考えるための出来事が多くある。例えば、マスクをする、しないという選択の是非は全世界で切実な問いとなっている。加えて、医療従事者への偏見や感染者への差別などからは、戦う相手がコロナから人間にすり替わっている部分もあり、社会の至る所で道徳的な課題が表面化している。
 しかし、そうした出来事を家庭学習に生かしている学校はほとんど無い。コロナ禍に伴う家庭学習は、国語・算数・理科・社会といった主要教科の学習のみに集中し、道徳を家庭学習の宿題とした学校はほとんどないのが実態である。
 そのように道徳教育の機会が見落とされているのは、日本人の中に道徳と他教科の学びは別物だという考えが根強いからである。本来であれば、学校教育全体の中で人間の生き方や他者との関わり方、社会の在り方について総合的に考えられなければならない。しかし、道徳と学力は別物という考えが前提になっているため、各教科における知識の獲得が人間の生き方や社会の問題を考えるための基盤になることに思いが至らないのである。

道徳の専門免許創設

 そのような道徳教育の現状を改善するために、今後は質を高めていかなければならない。
 道徳教育の質を高めるにあたって、まず取り組むべき課題は道徳の専門免許を創設することである。その理由は二つある。
 第一の理由は、道徳教育の理論を構築する研究者を養成するためである。今まで道徳が教科でなかったことにより、大学の教員養成課程に占める道徳の履修要件は半期2単位しかなかった。この要件は道徳が教科化されても変わっていない。そのため、大学としても道徳の専門教員を抱えるインセンティブが薄く、我が国の道徳教育を専門とする研究者は諸外国と比べて圧倒的に少ない。結果として、道徳教育の理論的基盤も貧困になっている。
 第二の理由は、小中学校で道徳を教える教師の専門性を確保するためである。道徳の授業では、いじめや自殺、児童虐待に加え、脳死や出生前診断といった生命倫理に関わる専門的な問題も扱う。そのため、教師には幅広い知識と高い専門性が求められる。例えば、脳死を扱う場合には、「脳死とは何か」「生命をどのように捉えれば良いか」などについて正確な知識を持って授業を行わなければならない。諸外国では、大学で専門的な教育を受け、免許を取得した専門教員が週3、4時間の授業を行うことがスタンダードである。我が国でも、特に中学校において、教職員免許法の理念通り免許を持つ者が教科書を使って授業を行うことが望ましい。道徳の専門免許を創設することは、今後の重要な制度的な課題である。
 ただ、免許にもいろいろな種類がある。国語や算数のような一般的な免許もあるが、司書教諭などのように教員免許を持った者が取得する資格免許もある。道徳の場合も同様の免許制度を採用することは十分にありうる。例えば、大学の養成課程において、2単位程度ではなく8〜10単位の教育を受け、専門的な知識を持った教師が「道徳教諭」などの形で免許を取得する。その「道徳教諭」を地域に1〜2人は確実に配置し、地域の道徳教育の中核とすれば、かなりの効果があるはずである。
 また、自治体や学会などが免許や資格を付与するという制度も検討すべきである。例えば、自治体が資格を付与する場合、一つのモデルになるのは鳥取県鳥取市の道徳教育エキスパート教員制度である。この制度では、市の教育委員会が道徳のエキスパート教員を認定し、その教員たちを中心にして市全体の道徳教育の底上げを図るシステムを構築している。学会などが免許や資格を付与する場合は、学会が研修プログラムを計画し、修了者に認定するという形で免許に相当する資格を出す仕組みが考えられる。
 いずれにせよ、免許・資格の取得を通して教師が専門性を獲得できる仕組みが必要である。

学習指導要領の改善

 次に、道徳教育の質を高めるためには学習指導要領の内容も改善する必要がある。現在、道徳の指導内容は、自分自身に関すること、社会に関すること、自然や超越的なものに関すること、他者との関係という四つの視点に分けられている。しかし、その中身は誰もが良いと思われる項目が平面的に羅列されているものの、道徳的価値の序列が体系付けられていない。小学校で22項目程度、中学校で24項目の内容項目が文章化されているが、それぞれの項目には三つか四つの価値が含まれている。そのため、学習指導要領に記載されている道徳的価値の数は、数え方によっては40〜50個にのぼる。これは週1時間、年間35時間で充足するには多すぎる内容である。
 したがって、平面的に羅列されている道徳的価値の中から特に重要な価値を抽出し、それをもとに体系化を図ることが必要である。例えば、シンガポールではコア・バリュー(中核的な価値)として六つほど中心的な価値を選び出しており、その六つの価値に関連させながら他の価値も指導していく。日本においても道徳的価値の構造化と体系化を検討することが必要である。
 一方で、日本人にとって伝統的に重要な価値とは何かについても議論していくべきであろう。現在の学習指導要領に掲げられた内容は、西洋的な価値に偏重していると考えられる。プラトン、アリストテレスをはじめ、カント哲学を基盤とした近代西洋倫理が主流となっているのに対して、東洋的な価値はほとんど踏まえられていないのが現状である。例えば、我が国で古代や中世から重視されてきた「清明心」や「義」などは現在の学習指導要領には組み込まれていない。日本人として大切にしてきた道徳的価値を道徳教育の内容として組み込んでいくことを、今後の研究対象として考えていく必要がある。

家庭・地域との関係

 さらに、今後の道徳教育では、家庭や地域社会などとの連携・協力をより強く視野に入れて考えることが不可避の課題である。人間は生まれ落ちた瞬間から家族の中で生き、地域・社会へと活動範囲を広げていく。そして、生涯にわたって、人間形成の営みは継続する。したがって、より良い社会の構築という観点から考えると、家庭や地域における人間形成を無視することはできない。
 しかし、学校と家庭、地域の連携を強調するあまり、それぞれの役割が曖昧になることには注意が必要である。家庭と学校と地域社会が連携して子供たちの学びを支えることの必要性は、明治時代から繰り返し言われてきた。それにもかかわらず、いまだに効果的な連携・協力が実現しているとは言えない。
 連携を志向すること自体は間違いではないが、家庭・学校・地域それぞれの役割については整理して考えるべきである。天野貞祐元文相は家庭・学校・地域の連携に関して、それぞれ自分の持ち場で自分の役割に徹すればよいと語っている。オーケストラにたとえれば、トランペットはトランペット、チューバはチューバで自分の持ち場に徹して取り組む。それが全体としてオーケストラとしてのハーモニーになる。同様に、学校であれば、まず道徳の授業や学校教育全体を通して子供たちに何を身につけさせるのかという点に焦点化した議論をする必要がある。
 また、家庭は家庭で、しつけの中でどのように何を教育していくのかを突き詰めて考える必要がある。それぞれの役割に徹することで、結果的に家庭・学校・地域を包括する効果的な連携が生まれると言える。
 特に、家庭の役割を突き詰め、その価値を社会に共有することは極めて重要である。戦後日本では、家庭は封建的制度の象徴的な存在と見なされ、教育課程として積極的に取り上げることはなかった。教育基本法にも2006年の改正まで家庭教育への具体的な言及はほとんどなく、今回の教科化までは道徳の内容にも入っていなかった。
 その結果、ほとんどの人が親になって子育てを経験するにも関わらず、学校教育では子供を育てるとはどういうことなのかについて学ぶ機会はなかった。生殖があって子供が生まれるということは教えられている。しかし、生まれた子供をどう一人前に育てるのかが教えられていないのである。
 そのように子供の人間形成や成長に関する知識を教育していないことは、学校教育の欠陥であると言っても過言ではない。現代では、子育てに困難を抱える家庭が多く、児童虐待も増加・深刻化している。かつては祖父母などから継承されていた子育ての知恵が伝わっていないことも多く、家庭の子育てを支える地域社会も非常に弱体化している。そうした知識やサポートが欠如していることの意味を考えなければ、児童虐待を親のストレスとモラルの問題のみに矮小化してしまい、実質的な解決は得られない。学校教育は具体的な教育プログラムを提供するなどして解決の一翼を担う必要がある。

人間像と社会像の重要性

 ここまで見てきたように、我が国の道徳教育の課題は、何を重要な道徳的価値とするかという点に十分な関心が向けられて来なかったことである。すなわち、どのような人間を育成し、どのような社会を形成するのかという最も重要な教育理念が定まっていないのである。その評価は分かれるとしても、戦前までの教育には、修身科による教育方法と教育勅語という教育理念があった。現代においても教育理念を立て、目指すべき人間像と、その人間が構築する社会像を明確にすることが強く求められる。
 人によっては、望ましい人間像・社会像といった普遍的な価値を定めることに忌避感があるかもしれない。しかし、何が大切な道徳的価値かを無視して、「道徳に正解はない」という無責任な言葉を繰り返せば、「皆がそれぞれの道徳を持っていればよい」という相対主義に陥ってしまう。それでは道徳教育をしても意味がない。また、人や国、時代によって変化するのは価値そのものではなく、価値の実現方法としての価値観である。例えば、「誠実さとは何か」という価値観は変わりうるが、「誠実」という価値は普遍的である。社会の中で一般に承認される普遍的な価値は健全な社会の維持には不可欠であり、教育されるべきものである。
 今後は従来よりもそうした道徳的価値に根差した人間像・社会像が必要になる。コロナ禍の影響でテレワークやビデオ会議が推奨され、ICT化が進展することが予想される。そうした状況下で、人間は仮想的サイバー空間と現実的フィジカル空間にまたがって生きることが日常的になることが予想される。そして、仮想空間と現実空間の境界があいまいになればなるほど、私たちには複雑で困難な道徳的課題が問われることになる。自分のアイデンティティーとは何か、他者とつながるとはどういうことか、どのようにより良い社会・共同体を構築するかはより切実な課題となる。

教科化は出発点

 仮想空間と現実空間の境界線が見えにくくなっている現代社会では、むしろよりリアルな問題として死生観が問われることになる。自己が曖昧になりやすい社会で、どのように生き、どのように人生を終えるのか。それを考えることが道徳の基本的な問いとなる。そして、その死生観の基盤となるのは、自身と超越的なものとの関係を考える宗教の問題であり、最も身近な人間関係である家族の問題である。こうした課題に向き合い、より良い自身の生き方やより良い社会を築くためには、自分を内省し、他者と「考え、議論する」ことを繰り返しながら、新しい道徳を創造していかなければならない。
 学校教育において、道徳の授業だけが道徳的価値と正面から向き合い、「考え、議論する」ことができる場である。子供たちが自分の生き方や他者との関わり方、より良い社会のあり方を考える道徳教育を構築することが求められる。その意味で、道徳の教科化は決して終着点ではなく、出発点である。それを実りあるものにできるか否か。これからが本当の正念場である。

(本稿は2020年5月22日に行ったインタビューの内容を整理してまとめたものである。)

政策オピニオン
貝塚 茂樹 武蔵野大学教授、放送大学客員教授
著者プロフィール
1963年茨城県生まれ。筑波大学大学院博士課程教育学研究科単位取得退学。博士(教育学)。国立教育政策研究所主任研究官などを経て、現職。日本道徳教育学会副会長。文部科学省「道徳教育の充実に関する懇談会」委員、中央教育審議会専門委員などを歴任。専門は日本教育史、道徳教育論。著書に『戦後教育改革と道徳教育問題』『天野貞祐』『教えることのすすめ—教師・道徳・愛国心』『戦後道徳教育の再考』『道徳の教科化』『戦後日本と道徳教育』他。編著に『道徳教育を学ぶための重要項目100』他。
道徳が教科化され、子供達に自分自身や人との向き合い方を考えさせる制度的基盤が整った。今後は、理論の構築と教員の専門性向上が要請されている。

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