いじめを防ぐ「ピア・メディエーション」の試み ―学校・家庭・地域の連携と人格教育―

いじめを防ぐ「ピア・メディエーション」の試み ―学校・家庭・地域の連携と人格教育―

2016年6月3日

1.「自律尊重」には限界もある

 私は道徳教育を専門にしてきた。現在は大学や大学院で「臨床心理の法と倫理」という専門職倫理を教えている。その中でも道徳は重要なテーマである。法はいわば外からの矯正だが、倫理は心の中に砦を築いて自分を律していくということである。倫理がなければ、まさに「法には違反していないが、倫理的ではない」という、昨今相次いでいる不祥事を引き起こすわけである。 「倫理道徳とは何か」を考えてみたい。指針になるのが生命医療倫理の第一人者であるトム・ビーチャム博士(米ジョージタウン大学教授)が提唱した「四つの原理原則」である。その一番目は「自律尊重原理」(Respect for autonomy)である。autonomyは、言い換えると自己決定権である。自分で自分の人生を設計する。アメリカではこの自己決定権は非常に重要な概念である。 ただ、現在は「自律尊重」は必ずしも絶対ではなくなってきている。 「リビングウイル(Living will)」という考え方がある。例えば末期症状の病気になった場合、意思決定能力があるうちに医療の内容についての希望を伝えておく。自身の判断で延命措置を断ることもある。これは一種の自律尊重原理である。しかし、実際にそのような状況になると、家族が延命措置を望むことも多い。その意味では、人間の死というのは自分だけで決定できるものではなく、家族など「関係」の中にあると言えるだろう。 最近は「人間の尊厳」を重視する考え方もある。もともと人間は自分で自分のことを全て決められるほど強くはない、自分のことを自分で勝手に決めた時代は歴史始まって以来存在しなかった、お互いに助け合って生きるのが人間の本来の姿だという。人間は自由であるけれども依存している存在でもあるというわけだ。 アメリカとドイツのホスピスを比較してみると、人生観の違いがあることが分かる。アメリカでは病の痛みを緩和治療でできるだけ無くして、最後の瞬間まで日常生活を送ることができるようにするのが理想である。それに対してドイツは、死を受け入れ、人生最後に聞く音楽を決め、後に残る者にどんな言葉を贈るかを決める。死んでいく者は残る者をケアしながら死んでいくという考え方に立つ。つまり、死が文化によって決まるということであって、自律原理がすべてというわけではない。 また、大人の判断で子どもの意思に関わらず何かをさせたり勧めたりすることがある。教育とは自律する人間を育成するとともに、ケアし保護する行為でもある。 カウンセリングは自律尊重が基本である。ただ、クライアントの中には「この世は生きるに値しないから、私は死ぬことにしました」と言う人もいる。その時は「分かりました。あなたが自分で考えたことなら構わないでしょう」とは言わない。ここに自律尊重の限界がある。

2.共通の価値を作り直す時

 全ての法律には基本となっている理念がある。「世の中の善良な習慣に従う」ということである。 「世の中の善良な習慣」とは何か。私たちは幼少期、「他人に迷惑をかけるな」と教えられる。ただ、最近の大学生に「他人に迷惑をかけるなとか、人様を傷つけるなと教わったか」と聞くと、教わった者は半数しかいない。 しかも「他人に迷惑をかける」とはどんな行為かが明確ではないという問題がある。かつては黄金律があった。キリスト教では「汝の欲することを人に施せ」という教えが伝えられてきた。しかし現代社会では、この黄金律が不完全なものになっている。ルールが人によって、組織によって異なり、役に立たなくなっているのである。 ゆえに、21世紀は価値、ルールを再構築すべき時代だと言えよう。何が私たち人類の共通の価値、ルールなのか。対話によってもう一度作り直す必要がある。 20世紀は大量虐殺の時代だったと私は考えている。カンボジアのポル・ポト、ルワンダの虐殺をはじめ、世界で虐殺が起きたのが20世紀であった。 そして、21世紀はテロの時代である。私たちは大量虐殺の時代を生き抜いて、テロの時代を生きている。人類史から考えれば、そういうことになる。また、現代は価値が見えなくなった時代でもある。 このような時代にこそ、人間とは本来どのような存在であるかを考えるべきであろう。ヒューマニティとは、どのような争いが生じても、人間は和解できる、反省して秩序を回復できるという事実がそこにあるということである。 日本でも格差が広がっている中、自分が弱いから社会から取り残されているのではないか、自分の人生は自分で責任を持って生きなければならないではないかと言う人もいる。自分で責任を持たなければならないという点は、確かにその通りである。 ただ、現代社会のシステムを考えた時、全てを自己責任と言い切るのは酷だという気がする。実際、今の社会システムに問題はないのか。世界的に貧富の差が拡大し、社会がますます不安定になっている。 教育においても、現状では児童生徒全員に平等の機会が与えられているとは言えない。公教育プラスアルファがなければ、試験に合格できない。プラスアルファがなく、「落ちこぼれ」を運命づけられる子も少なくない。そういう連鎖が続いているのである。憲法の観点から言うと、平等の原理に反していると言えなくはない。しかし、平等とは何か、公正な機会を与えるとはどういうことかを考えると、それほど簡単に割り切れる話でもない。正義の実現には権利を擁護するという視点も必要となる。 また、自由と秩序について考えた時、誰もが「自由が大きいほうがいい」と考えるだろう。私たちは他人から縛られることを嫌う。 しかし、自由の高さが一定のレベルに達した時、秩序も高まるはずだが、秩序が一気に落ちると、自由度もなくなる時がある。これを「逆転ポイント」と言う。社会は自由と秩序とのバランスでできている。例えば、自転車が傾いたら逆に戻そうとする。その都度バランスを取りながら、自由と秩序を保ちながら生きていくことを教えるのが道徳である。現代は、この限界ポイントをどう求めるかという難しさがある。 そのような複雑さも考慮しながら、目指すべき社会への一つの方向性、プロセスを持つ。私は道徳においてそうしたプロセスを重視したい。というのは、「○○しなければならない」というだけでは現状に合わないことが出てくるからである。しかし、方向性が一定していれば、社会が不安定になってもその方向に向かうことができる。その方向性を教えるのが道徳教育だと私は考える。その意味では、従来より道徳はもっと複雑になるということである。

3.児童生徒学生自身が問題解決者になる

 では、いじめについて、私たちはどう捉えたらいいであろうか。 私たちは「いじめは悪い」と考えている。しかし、その前提として「いじめとは何なのか」「何がいけないのか」といった価値の合意は形成されていないのではないか。皆が自分と同じ価値観を持っていると想定しているに過ぎない。合意があれば、少なくとも相手に対して標準的な行為を期待することができる。これを始めたのがトーマス・リコーナ(前米ニューヨーク州立大学教授)という人格教育の先駆者である。 リコーナが語るのは「五つのR」についてである。学校教育は本来、道徳教育と教科教育で成り立っている。教科教育におけるRは「読み(reading)」「書き(writing)」「そろばん(Arithmetic=算数)」の三つ。これが学習の基本である。 それと共に、リコーナは道徳教育のRとして「リスペクト(respect=尊重)」と「リスポンシビリティ(responsibility=責任)」をあげている。例えば尊重とは「人を尊重し、歴史を尊重し、自分自身を尊重する」こと。リコーナはこれらを合意することの大切さを述べている。 では、どうすれば学校現場でこうした合意を作り上げることができるか。それを私たちは「ピア・メディエーション」という形で行っている。 ピア・メディエーションでは、児童・生徒・学生のコミュニケーション力を育成して、対話によってトラブルを解決する方法を学ぶことに主眼を置いている。児童・生徒・学生が問題の解決者となり、対話のプロセスというルールを設定し、平和な社会を建設できる能力を育成することを目指すのである。ここでは「予防効果」「児童・生徒・学生のエンパワーメント」「実際のトラブル解決」という三段階の効果を期待している。課題や問題、トラブルの解決に参加できるエンパワーメント(自分自身の力で問題や課題を解決していくことができる社会的技術や能力を獲得すること、そのような力をつけること)の教育ができるというわけである。また家庭では親がトラブルを解決するモデルになって、平和な家庭建設への一助にすることもできる。 例えばいじめが起きた時、学校ではいじめの原因を明らかにし、いじめた子に対してどのように対処するかを考える。それこそ学校、教育委員会、さらにマスコミ関係者なども加わって、大きな議論になる。この間、実はいじめられた子もいじめた子自身も蚊帳の外に置かれてしまいやすい。もちろん、いじめられた子はスクールカウンセラーがケアするが、それは心の傷に対するケアであって、どう生きていくかという力を授けるまでには至らないわけである。 また、60万人から80万人のひきこもりを生み出しているのが現代社会である。どうしたら問題を解決できるのか。現状では無理と言わざるを得ない。なぜなら、今私たちが生きている世界は「ポストモダンの社会」だからである。 学生たちの90%以上が第三次産業、つまりサービス産業で働きたいと考えている。サービス産業で必要な能力は第一にコミュニケーション能力である。しかし誰もがコミュニケーション能力を持っているわけではない。コミュニケーションが苦手な学生でも、そのような職種を希望する。 なぜか。一つの物差ししかないからである。コミュニケーション能力がないと落ちこぼれる。社会の仕組みが落ちこぼれを生み出すようになっていて、極端に言えば社会そのものがいじめを生む構造になっている。実際、会社組織ではセクハラやパワハラといったいじめが深刻である。 ゆえに、一つの物差ししかないという仕組みを変えなければならない。

4.学校に対話文化を形成する

 もう一つは、子どもたちがポストモダン社会の中で生きていく方法を教える必要がある。学校では「いじめは悪い」「絶対にしてはいけない」と一生懸命教えるが、残念ながらいじめがなくなる気配はない。 唯一いじめをなくすには、誰もいじめられないようにすることである。それをエンパワーメント教育で行う。そのために対話力をつける。それから対話の文化を学校に形成する。力が支配しない学校文化を築いていくのである。 ピア・メディエーションは、課題や問題、トラブルの解決に参加できる教育を行う。これまで私たちカウンセラーも学校も、いじめた子に対して「なぜいじめるの。いじめって悪いことでしょう」と言い続けてきた。これは、この子の内側の視点に立った言い方である。それを外側に出して、いじめた子といじめられた子が問題を共に見つめていく。これが対話である。ということは、いじめた側もいじめられた側も、いじめという問題を外に出して、それにどう取り組むかという形を作っていく。これを外在化と言う。外在化することで、「いじめとは何か」「いじめ問題にどう取り組むか」というように、いじめた子自身に取り組ませて関係の修復に努力させることが可能になる。 今までは、いじめられた子が転校したり、いじめた子に罰を与えるなどして、学校の安全を確保していた。もちろん罰を与えることは時によって必要である。しかし罰するだけでは、その子を悪人にしてしまう。それだけでは学校に平和の文化は築かれない。 現在の法律は大半が「復讐法」である。法を犯したら罰を受ける。物を盗んだら弁償しなければならない。 それに対して一方には「修復」の法律がある。関係性の修復を図るのである。人間の悪なる行為の中で最大の悪は、いじめの行為そのもの以上に二人の関係性を壊したことにあるから、関係性を元に戻しなさいと教える。そして二人がクラスの中で同じ仲間として過ごしていきましょうと教えるのである。 実際、児童・生徒間の問題は対人トラブルが大半であり、多くは大人の力を借りないで自分たちで解決しようとしているのが現状である。自分たちで解決できない問題もあるので、学校に対話の文化を構築して話し合いのプロセスを見えるものにするのは大人の責任でもある。

5.学校や社会のルールを確立する

 大阪のある高校は、当初卒業率がわずか50%であった。それが地元のNPOと協力して7年前にピア・メディエーションを導入し、95%まで上昇したのである。教師が教育委員会に提出する始末書も大幅に減少した。学校の文化が劇的に変わったのである。対話の文化が定着していったわけである。いじめられた子もいじめた子も問題に参画し、両方で問題解決に努力していくのである。 社会の様々な問題は、従来は裁判で解決してきた。しかし、社会が複雑化し、裁判だけでは解決できなくなってきた。そこで裁判ではなく話し合いで解決していこうという法律、ADR法(裁判外解決法)が世界中で出てきている。人類は裁判だけでは解決できない問題があることに気づいた。話し合って、問題が解決した後もクラスの一員として共に暮らせる社会を築いていくということである。 「いじめはいけない」と教えるだけでは難しい。どうやって解決するかを教えて、学校だけでなく社会の中にその文化を作らなければならない。 具体的にはどうするか。WIN-WINの解決を打ち立てなければならない。そのために同意を形成するプロセスを教えて、学校や社会のルールを確立する。アメリカの学校で最初にやるのは、クラスのルール作りである。そのルールに沿ってクラスのことを決めていくと、子どもたちには一般的な行動を期待できる。 リコーナは、1年目に「尊重」を取り上げる。どうすることが先生を尊敬することになるか、親を尊敬することになるか、そして自分自身を尊重することになるか。1年かけて合意を作り上げて、2年目にその合意を洗練して、3年目になると「今のあなたの言動は先生を尊重している言い方ではないですね」「自分自身を尊重している言い方ではないですね」と教えることで、子どもは初めてそれを理解できるようになる。また、尊重することの標準的な行為を期待できるようになる。 今、合意を形成しにくい大きな原因はグローバリゼーションにある。世界に開放された日本が、底流に流れる道徳を見据えて、どのようなものを作っていけるかを考える。これが合意の形成である。

6.多様な意見から合意を形成する方法

 そして、今子どもたちに最も教えるのは「複眼的物の見方」である。自分の立場、人の立場、社会の立場。そしてもっと大きな地球という立場、宇宙という立場でも構わない。あるいは人間の精神性という立場もある。さまざまな視点で物を見ることを教えていく。人の話を聞くということはどういうことか。そのルールを作っていくのである。 例えば、親が学校に抗議にやってくると、教師も自身の言い分をぶつける。これでは3時間経っても解決しない。 それに対して、親が学校に来ると、「話を聞かせていただきましょう」と教師も応じて3時間も話を聞くと、親はよく聞いてくれたと感謝する。これが合意である。これができるようになると、学校が変わる。社会もそっくり変わる。 単なる話し合いではなく、ルールを作って話す。そのルールを徹底させるのが方向の一貫性である。話し合いのルールができれば、一貫した方向に向かってプロセスを明確にしていく。 そして、平和な学校文化を作っていって、さまざまな創造的な複数の解決策を考え出すブレーンストーミングの方法などを教えていく。このようにして意見の違いを乗り越えて同意を形成する能力を育成できるようにする。そして事実を客観的に理解する能力だけではなく、人はどのように事実を認識するかを理解できるようにする。「道徳はこうなっている」というだけでなく、この人は道徳をどのように理解しているのか、どういう感情を抱いているのか、そこまで理解させるのである。つまり、現代社会の課題は多様な意見があるということを問題にするのではなくて、それにどのように対処して合意を形成するかを問うのである。 二つ目は、共感しながら、激高することなく、自己の感情をコントロールできる人間の育成である。三つ目が、自己の意見や気持ち、何に関心があるかを相手に理解してもらえるように的確に表現できる人間の育成。四つ目が、難解な問題を粘り強い態度で解決に向かって努力し、創造的なひらめきによって解決できる人間の育成。そして五つ目が、具体的なレベルだけでなく、抽象的なレベルでも内省して考える力、未来への信頼などができる人間の育成である。 ピア・メディエーションは、現在いくつかの学校で導入していて、対話教育、コミュニケーション能力の育成をして、ソーシャルスキルトレーニングも同時に行っている。

7.「未来からの教育」

 私は震災被害のあったある市の教育委員会とタイアップして活動してきた。東日本大震災から5年が経過したが、子どもたちは仮設住宅から学校までバスで1時間かけて通学している。周囲には遊ぶ場所もない。この状態が続くと大きく社会資源が欠けたコミュニティで成長する子どもたちになる。一人ひとりを「価値ある人間」として、どうサポートしていくことができるか。これを「未来からの教育」と呼んでいる。お互いに支え合って一人も落ちこぼれることなく、一人ひとりの価値が実現して、地球全体に広がる持続可能な教育を実現するという意味である。 学校現場では、ピア・メディエーションクラブを作った。そして対話とは何か、同意を得る方法とは何かを教えた。クラブで育った子どもは、例えば社会に出ると、職場でも争いの仲裁に入ったりする。家庭の中でもピア・メディエーションが始まったのである。最初は人前で話もできなかった子が、そのように技術とプロセスを学んで、最後は生徒会長をやるまでになった例もある。つまり子どもの生きる力が生まれ、社会でも要にもなることができるわけである。 私は「新しい徳」と言っているが、日本が受け継いできた、あるいは人類が受け継いできた文化の中で、底流に流れる道徳を見据えて合意を形成する。それが道徳教育になるわけである。昔の時代に戻るという意味ではなく、新しい時代に生かしていける形はどういうものなのか。具体的な方法を提示するのが、私たち大人の責務であろう。

(2016年4月16日に開催した人格教育フォーラムにおける発題内容を整理してまとめた)

政策オピニオン
水野 修次郎 立正大学特任教授
著者プロフィール
愛知県名古屋市生まれ。米シートン・ホール大学、ジョージワシントン大学卒。高校教諭、麗澤大学教授、公益財団法人モラロジー研究所道徳科学研究センター教授等を務める。専門はカウンセリング、発達学。教育学博士。臨床心理士。日本の中学や米国の高校でカウンセラーを務めた。日本カウンセリング学会認定カウンセラー会会長。著書に『カウンセリング練習帳』『争いごと解決学練習帳』他。編集翻訳書に『人格の教育』『「人格教育」のすべて』(いずれもトーマス・リコーナ著)『ゆるしの選択』(ロバート・エンライト著)他。

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