政策オピニオン

2020年3月3日

香港問題の背景と行方―米中対立を踏まえて―

立教大学教授 倉田徹
1975年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。大学院在学中に在香港日本国総領事館専門調査員。金沢大学人間社会研究域法学系准教授を経て2013年から現職。専門は中国現代政治。著書に『中国返還後の香港―「小さな冷戦」と一国二制度の展開』(名古屋大学出版会)など。

はじめに

 中国では、西暦の下一桁が「9」の年は鬼門と言われている。1989年は天安門事件、99年は法輪功問題、2009年はウイグルの騒乱。2019年も懸念されていたが、香港が危機になるとは誰も想定していなかった。日本の清水寺で行われるように、香港では共産党系の政党・民建連が毎年、今年の漢字を選ぶ。2018年末、彼らが選んだのは順調の「順」だった。政府側から見て、香港は何もかもうまくいっていた。
 米中新冷戦の枠組みの中で、香港が「東アジアの火薬庫」になる可能性さえある。ここでは、香港問題を概観し、考えられる今後のシナリオについて触れたい。

 

1.巨大デモに到る過程

(1)「逃亡犯条例」改正の提案

 発端は2018年2月に起きた、政治と無縁の殺人事件だった。若いカップルが台湾へ旅行中に喧嘩となり、男性が女性を殺してしまった。男性は女性の遺体を台北に遺棄したまま、翌日には香港へ戻った。香港には逃亡犯条例があるため、この男性を台湾へ引き渡すことができなかった。
 逃亡犯条例は香港返還直前に作られたもので、刑事事件の容疑者を引き渡す国や地域について規定している。ほとんどの国との間で引き渡しが可能だが、「香港以外の中国には引き渡さない」と明記している。これは香港の人々が政治的理由で中国本土へ引き渡されるのを防ぐためである。「一つの中国」政策から解釈すれば台湾も中国の一部であるため、香港から台湾へ容疑者を引き渡すことができない。本件を理由に、香港政府は条例の改正を提案するに至った。
 しかし逃亡犯条例の改正について、市民の半数以上が「自分や家族の身にかかる危険」と感じた。2019年6月9日の103万人デモにおけるアンケートでは、デモに参加した理由の56.2%が「私、または家族・親戚・友達が実際に中国本土へ引き渡される懸念があると思うから」だった。この懸念は民主派だけでなく、親中的な保守層も抱いていた。

(2)親中派からも反対される理由

 チャイナビジネスで潤っている財界は政府を支持する親中派の典型だが、逃亡犯条例の改正については彼らも反対に回った。財界人は中国本土へ行き、共産党幹部と様々なコネクションを持つことが多いが、条例改正案では引き渡しの罪状の中に賄賂罪も盛り込まれている。経済活動中に北京の怒りを買えば、政治的理由で賄賂罪と認定されて中国本土へ引っ張られる危険性が出てくるだけでなく、この条例を脅しに使われることも考えられる。
 他にも、世界三大金融センターという香港の地位が脅かされるとの懸念もあがった。香港は中国と世界をつなぐビジネス拠点であるため、香港のエコノミストは日常的に中国経済の先行きを分析する。彼らが中立的な情報を発信することで、香港は世界から投資を集めることができる。しかし条例改正後には、中国企業の経営悪化や人民元の危機をエコノミストがレポートにした際に、中国政府が不愉快に感じれば「国家機密の漏洩罪」をエコノミストに被せてくるかもしれない。これは香港返還前に実際にあったことで、香港の経済記者がその罪状で禁錮10年を受けた。香港のエコノミストが北京の顔色を窺って中立的な情報を発信できなくなれば、香港の国際競争力は下がらざるを得ない。
 より本質的な視点では、逃亡犯条例の改正案が香港のDNAと相容れない。香港に住む多くの人々は文化大革命や大躍進政策の頃に、難民として中国本土から逃れてきた。彼らは中国本土ではできないことをやるべく香港に定住し、今の香港の街を作り上げてきた。本土でできないことをやった結果、中央政府に捕まるのであれば、香港の存在意義さえ危ぶまれる。今回の香港問題では民主主義や人権という高尚な話だけでなく、一般市民が生活に直結する自由の危機を感じている。

(3)条例以前から強まっていた米国の香港批判

 米国では香港政策法により、香港を中国本土とは別地域で扱うと規定している。その前提条件は「香港に十分な自治が保証されている」ことだが、香港返還以降一貫して“more than sufficient”(香港には十分すぎる自治がある)とされてきた。しかし2018年11月に米中経済・安全保障審査委員会が発表した報告書の中で初めて、“sufficient – although diminish”(自治は減っているが、今のところ十分)とした。翌月の林鄭月娥行政長官による職務報告の際に、李克強総理は「香港が独立した関税であることは『容易ならぬもの』(香港が別地域になっていることは非常に重要)」と伝えた。中国に対する米国の警告は、デモ参加者にとり大きな励みであり、デモの巨大化と継続に寄与している。

 

2.Be water-姿を変えるデモ-

 今回のデモを理解する上でキーワードは“Be water”である。これはブルース・リーが1970年代に、カンフーの極意を米国メディアへ説明した際に使った言葉である。頭をカラにして自分の形をなくし、相手の出方に合わせて水のように融通無碍に動く、すなわち「上善如水」が今回のデモの特性を端的に表している。ここではデモ発生直後を中心にみていく。

(1)巨大デモ発生直後の経緯

 103万人デモ(主催者発表)が6月9日に実施された。巨大な人の塊が午後2時から歩きはじめ、終わったのは午後10時過ぎだった。
 デモ終了直後の午後11時7分に、香港政府は「予定通りに条例改正の審議を進める」と声明を発表した。デモ終了から一時間も待たずに、民意を完全に無視することをわざわざ公言している。デモに参加した一部の若者は、その夜から警察と小競り合いを始めた。
 翌々日の11日、審議スケジュールが発表されたが、「12日審議開始、20日採決」という通例の香港議会でも考えられない強行日程だった。ここには政治的配慮があり、審議がずれ込んでも6月末大阪G20サミットで行われる米中首脳会談前に終わらせたい北京の意向があった。
 しかし12日、立法会は若者を中心とした4万人(警察発表)もの人々に包囲された。人の出入りさえできず、立法会は審議不能となった。警官隊は催涙弾やゴム弾を放ち、重傷者も出た。世界中のメディアは「香港警察が組織的暴動を発動」と発表し、立法会はその後も審議を開始することさえできなかった。
 林鄭月娥行政長官が6月15日に会見し、審議を「一時停止」すると発表した。撤回ではなく、あくまでも一時停止とのことだったが、香港議会における一時停止は経験的にみて「廃案」を意味する。デモ隊の勝利をニューヨークタイムズは“The biggest political retreat by the China under Xi”(習近平政権としては最大の政治的な敗北)と書いた。客観的に外からみれば、デモ隊の勝利にみえたが、香港の人々はむしろ強い怒りを感じていた。原因は林鄭長官のテレビ談話である。12日の衝突後、林鄭長官は目に涙を浮かべながらテレビで市民に訴えた。「例えて言えば、私は優しいお母さん。お母さんは子供が可愛くても、子供が間違ったことをしたときには、叩いてしつけなければならない」。これが香港市民の神経を完全に逆撫でした。「お前は息子に催涙弾を打てるのか」と誰もが思った。一時停止を発表した会見でも、謝罪の言葉はなかった。
 この会見の当日に、最初の自殺者が出た。偶然にも、6月15日は日本の安保闘争で亡くなった樺美智子の命日である。象徴的な犠牲を得て、翌16日は200万人という巨大デモへ発展した。このときに民主派が掲げたのが「5つの要求」である。

(2)和理非と勇武の分業と共闘

 6月9日から12日の3日間に、性質を異にする2種類のデモが発生した。非常に平和的で大量動員した9日の103万人デモと、過激に警察と戦った12日の抗議行動である。今回のデモの大きな特徴はこの2つの路線が共存していることである。
 平和的な合法デモは「和理非」路線とよばれ、「和平・理性・非暴力」の略である。主催者は古株の民主派連合組織・民間人権陣線で、7月1日には毎年デモを行っている。警察に許可をとって行うデモなので、親子連れやベビーカーなども目にする。
 一方、立法会に突入するようなデモを、「勇武」路線という。「勇敢に武力を使って」を意味するが、これが新しいスタイルである。勇武路線には、明確な組織やリーダーがいない。「香港の財界人や民主派、あるいは米国が勇武を裏で操っている」などの声を耳にすることもあったが、デモの動き方を見れば「リーダー不在」と考えたほうが合理的である。
 ネット上に香港版2チャンネルの「連登」という掲示板がある。もともとはみなが匿名で投稿できる雑多な掲示板だったが、近年は政治色が強くなり、勇武の決起に利用された。たとえば、掲示板に「私は夢を見た。明日、立法会に突入している夢を見た」と誰かが書き込む。「明日立法会に突入しましょう」と書けば違法集会煽動罪だが、夢を見るのは合法というわけだ。その書き込みに「いいね」が何千とつけば、この計画にはたくさんの支持者がいることがわかる。翌日指定の時間になれば、特定の場所に人がぞろぞろと集まる。首謀者が誰なのかは誰にもわからないが、全員が掲示板を通して何をやったらいいのかを理解している。これが勇武路線におけるデモの呼びかけである。
 勇武でもう一つ愛用されているのが「Telegram」というアプリである。これはLINEやWhatsAppと同じようなチャット機能をもつ。特徴としては、一つのグループに何万人も入れること、暗号化の程度が極めて高いことである。Telegramはロシア製だが、暗号化の精度が高すぎてロシアでは使用禁止となった。匿名の呼びかけで始まり、議論し、実行する。これをみても、特定の指導者が必要というわけではない。
 デモ当日の不測の事態は当然である。集合場所に警察がいて催涙弾を打たれたり、デモ隊が二つに別れたり、様々である。その時々、彼らは「Be water」で瞬時に判断し対応する。中でも重要な行動が「逃げる」ことだ。デモ隊と警察の衝突シーンが映像で流れることもあるが、これは素人の対応である。捕まっては元も子もないため、デモの強者は即逃げる。そのため、デモは何ヶ月も続いてきた。
 「和理非」と「勇武」の二つの路線は多くの面で異なる。前者の多くは比較的おとなしいエリートで構成され、平和的に民主化を求めている。後者は状況に応じて実力行使も辞さないと考える。この二つの路線は2014年の雨傘運動において分裂し、デモの弱体化を招いた。今回のデモは雨傘運動を教訓としている。双方のやり方は全く違うが、少なくとも相手を批判・邪魔しない。協調のスローガンが「兄弟爬山 各自努力」(兄弟で山登り、お互いに努力しましょう)である。双方の協調がうまくいっていることも、デモがなかなか弱体化しない要因としてあげられる。

(3)デモの拡散・継続の理由

 デモ発生からの半年間、様々な“Be water”のデモが発生した。巨大なデモや過激な行動だけではない。レノン・ウォール(思い思いの言葉を書いた付箋を壁に貼り付ける)は、雨傘運動では政府本庁舎前でのみ見られたが、今回は駅やバスターミナルをはじめ香港のあらゆるところに出現した。また、九龍デモも今回のデモの大きさを象徴している。九龍は豪華なペニンシュラ・ホテルがある観光地だが、ここがデモ隊で埋め尽くされたことは過去なかった。
 デモが拡散・継続している理由の一つとして、上述の「リーダー不在」が功を奏している。香港の人々は独立心が強く、リーダーに立った者を蹴落とす傾向がある。今回はいい意味で、ターゲットとなるリーダーがいない。
 また、中国共産党の組織原理が香港デモに対応できていない。9千万人の党員からなる中国共産党の巨大なピラミッド組織では頂点にリーダーが一人のみ、香港政府は末端である。今回のデモのような大きな事態が起これば、末端には判断できないため、上を仰ぎ見るしかない。林鄭月娥行政長官の上は中央政府の出先機関、その上は北京の香港担当、その上は政治局常務委員会委員の韓正だが、彼も決められない。最終的には習近平が決断しなければ全く進まない。この巨大組織が“Be water”のデモに全く対応できていない。
 林鄭行政長官の音声が9月2日、ロイターにリークされた。「私に選択肢があるなら、まっさきに謝罪して辞任したい。私には警察を使う以外に何もない」。私的な会合で話した内容と言われているが、香港の行政長官には自分自身の進退にすら決定権がない。
 デモが方方に拡散し、住宅街でも催涙弾が日常的に打たれてきた。デモが始まって、1万発を超える催涙弾が使われた。住宅付近で催涙弾が打たれれば、窓を閉めてエアコンも止めなければならないが、香港はとても蒸し暑く、エアコン無しではまともに暮らすことができない。催涙弾の煙を吸った人が100万人以上おり、香港の人々は衝突をかなり身近に感じている。
 『明報』が10月16日に行った調査では、暴力的衝突の責任の所在を「政府」としたのが52.5%に対して、「デモ参加者」が悪いと応えた割合は9.6%だった。デモ隊の過度の暴力を批判する割合が41.4%に対して、警察の過度の暴力を批判する割合は69%であった。香港の人々は警察や政府への反感を強めている。

 

3.デモ参加者の不満と要求の意味

(1)深刻なイデオロギーの対立

 200万人デモで提示された「5つの要求」で、残っているのは4つである。4つの要求のうち、3つを簡潔に要約すれば「デモ参加者を許して、警察を罰せよ」となる。デモ参加者には「政府は市民の要求に応えるべき」という民主主義的な価値観が土台にあり、民意に逆行する政府に反発している。
 一方、政府は「市民は統治に従うべき」という権威主義的な価値観が土台にあるため、法律に反したデモを鎮圧するのは当然と考える。双方には根本的な価値観の違いがあり、これは中間で妥協できる類の対立ではない。一国二制度は権威主義的な政府と欧米型の自由な市民社会が共存するために考案されたものだったが、もともと矛盾を抱えていた。香港で起こっている問題はイデオロギーの対立であり、一種の冷戦である。

(2)長期化は避けられない

 デモ発生以来、政府は和理非と勇武を分離させるべく、デモの暴力を批判してきた。「暴力を振る舞う人たちと、袂を分かちましょう」というテレビCMも打ってきたが、彼らの団結は継続している。平和主義の学生が前線で戦う過激な男性を仲間と捉えて、前線での犠牲者を義士とよぶ。
 さらに仲間意識の広がりは「香港人」という意識を深めている。英国の植民地時代には、反乱防止のため地元意識を育まないように統治された。香港返還後には中国への所属意識が育まれるとも見られてきたが、現実は真逆だった。返還後に生まれた若者ほど中国を嫌い、香港人意識への共感が強い。彼らはネット上で、「香港に栄光あれ」という国歌を作ってしまい、夜な夜なショッピングモールで歌うことも少なくない。
 彼らは「時代革命」という言葉を使う。辛亥革命のような政権打倒を目指すというよりも、IT革命のような刷新という意味合いが強いと考えられる。いずれにしろ、中央政府にとっては最悪のタブーだ。「これらは一部の香港独立派・暴徒の運動であり、米国が裏で糸を引いている」というストーリーで、北京は強い非難を続けている。
 彼らは、一連の行為が中央政府の逆鱗に触れていることも承知である。デモが収まれば、警察が隅々まで捜索して次々と捕まえていくことは明らかであるため、彼らはデモをやめるにやめられない。暴動罪は禁錮10年の重罪である。5つの要求にある「デモ参加者を特赦せよ」という要求を勝ち取るまで、デモをやめることができない。デモをやればやるほど罪状が増え、罪状が増えるほどやめられない。香港デモはデモ参加者にとり、悪循環に陥っている。
 彼らの頼みの綱は国際社会である。中央政府へ足かせをはめられるのは米国をはじめとした国際社会であり、国際社会にアピールするためには人目を引くデモを継続するしかない。
 理工大学の籠城戦では1377人の逮捕者を出し、勇武派はかなりの勢力を失った。しかし、これで香港デモが鎮静化に向かうとは言い難い。その翌月8日に平和的な合法デモが4ヶ月ぶりに行われた。主催者発表で参加者は80万人、警察は十数万人だったというが、大規模なデモが何事もなく起きる状態である。彼らへのアンケート調査では「デモをやめるべき」という意見は8%のみだった。デモ参加者に疲労感があり、状態の膠着化は見受けられるが、事態が解決や収拾に向かっているとは言い難い。

 

4.体制の危機と米中新冷戦の影響

(1)打ち砕かれた北京の威信

 中国では外国勢力との結託は大犯罪だが、香港デモは米国を味方につけたことが功を奏した。デモ参加者の「香港人」意識の高まりから、彼らは中国の国章や国旗をぞんざいに扱っている。これらを北京は絶対に許す事はできないが、中央政府の動きはとにかく鈍い。
 香港デモに関して、中央政府が天安門事件のように軍事力を使って制圧する可能性は低い。香港は天安門のように政治の中枢・北京ではない。香港には外国籍が数十万人住んでおり、デモ参加者を虐殺すれば、世界中の人を殺すことになる。また北京の記者会見では「テロの苗」や「テロの匂い」という表現を使っている。テロと断定すれば、中央政府は介入せざるを得ないが、威嚇だけで事態を収集させたいと考えている。香港の人々はそれを見透かしており、香港周辺に展開する人民解放軍や武装警察を恐れるどころか、むしろ馬鹿にしている。
 北京が決定的に敗北したのが2019年11月の区議会選挙である。過去最高の投票率は2015年の47%だったが、今回はそれを25ポイントも上回った(投票率71.2%)。「香港の人々は政治に無関心」という一昔前までの通説に鑑みて、驚くべき数字である。結果として、民主派が85%の議席を獲得した。これは小選挙区制ゆえでもあり、6割程度の票を取れば、地滑り的に議席を獲得できる。いずれにしても、香港政府の不支持率は8割を超えており、民主派の勝利は当然視されていた。また、香港のネット上の検索ワードにおける「区議会、選挙、投票」などのキーワードの使用頻度を統計した結果、ビックデータは選挙前夜に「投票率が7割を少し越える」と算出していた。
 他方、この選挙結果を全く予想していなかったのが北京である。中国メディアは親中派勝利という予定稿をすでに作成し、あとは数字を入れるだけだったという。中央政府はあらゆる個人情報を集めて監視社会を作り、ビックデータの最も優れた技術と情報を持っているはずだったが、習近平政権における情報体制の麻痺が露呈した。
 中国共産党という巨大なピラミッドでは、末端で収集された情報が上に報告される中で、情報の「不都合な部分」が削ぎ落とされることは少なくない。国家主席に報告される頃には、「すべてが上手くいっている」という耳障りだけがいい情報になる。古くは毛沢東の大躍進政策で顕著に見られた体質で、結果的に多くの国民が餓死した。政権への忖度は、中国共産党が根幹に抱える組織的問題である。
 習近平においては、反腐敗運動を推進してきたことがさらに裏目に出た。香港で情報収集する担当者が賄賂を受け取るなど不正を犯せば、その上司も断罪される。できるだけ香港にコネクションがなく、広東語ができない人を安全と判断し、ド素人の情報官が香港へ送られた。彼らは反中国的な情報に接触しないように心がけながら情報収集し、大公報や文匯報というプロパガンダ新聞ばかりを引用して報告書を作成した。つまり、共産党によるフェイクニュースをもとに作られた報告書は上に報告されていっそう濃縮された結果、「香港の人々はみな、デモの暴動に怒りを感じ、愛国心に燃えて政府を支持しています」と報告されたわけだ。習近平はまさに「裸の王様」となり、勝利を確信して区議会選挙を予定通り実行した。

(2)香港人権民主法

 香港人権民主法が2019年11月、トランプ大統領の署名を経て成立した。トランプ自身は香港の人権や民主主義に関心がないと思われる。トランプは同年8月、香港デモについて「あの暴動は中国が勝手に片付けろ」とコメントした。中国の外交部は「トランプ大統領は正しい。香港デモは暴動であり、香港は中国の一部である」と評価した。そのトランプが香港人権民主法に著名したのは、香港デモが米国世論を巻き込んだからである。米国は朝野をあげて対中強硬で、上下両院もほぼ全会一致で法案を通した。トランプは2020年に大統領選挙を控えており、トランプだけが習近平と仲良くして香港問題を無視するなど不可能である。
 同法により、米国は香港の人権や民主を圧迫する役人に対して、米国への入国を禁止し米国資産を凍結することができる。香港の役人は子供が米国へ留学していたり、資産が米国にあることが少なくない。
 同法は中国のハイテク戦略をも牽制している。軍事転用可能な技術について中国への輸出を規制しているか、国連などで決められた北朝鮮やイランに対する制裁を守っているか、「粤港澳大湾区」名義で大陸へ敏感な技術を輸出していないかなどを監視し、毎年報告書を作成する。香港政策法により、米国は中国と香港を別扱いにしているため、香港企業は敏感な技術についても容易に取引できる。香港に隣接する深圳にはファーウェイやテンセントの本社があるが、香港から深圳への密輸は比較的容易である。香港が制裁逃れの抜け穴になっていないか、米国は警戒している。

(3)北京の対応

 北京の打つ手には限界がある。上述のように香港へ人民解放軍や武装警察を入れることはできない。仕方なく覆面禁止法を作ったが、裁判所に違法とされて廃案になった。暴動罪は禁錮10年に対して、覆面禁止法違反は禁錮1年であり、デモをやめさせるほどの効果はもともと期待できなかった。
 香港人権民主法への対抗措置として、米国の軍艦を香港へ寄港させないと発表したが、すでに同年8月から寄港させていなかった。加えて、5つの米国NGO(フリーダムハウスなど)への制裁も発表したが、トランプには痛くも痒くもない。北京の対抗措置をみて、香港の人々は「米国が剣を抜いたら、中国は爪楊枝で対抗している」と揶揄するほどだった。
 北京の対応で、それでも効果をあげているのがデモを支援する企業への制裁である。空港内のデモに、キャセイ航空の職員が多数参加した。「暴徒が操縦する飛行機に対して、中国上空の通過を認めない」と圧力をかけて、結果的に多数の職員が解雇された。北京の圧力は香港内にとどまらず、香港デモを支持する海外企業(NBA、ティファニー、アップルなど)にも波及している。
 北京が香港経済をコントロールできれば、デモを制圧できる。すでに中国企業が香港への投資を増やしており、多くの民間企業に大陸出身の取締役が入っている。デモ参加者はこれを理解しており、中国を露骨に支持する企業には抗議の嫌がらせをしている。

(4)重要性が増す香港

 米中新冷戦が深化する中で、中国では香港の重要性が増している。香港は国際金融センターゆえ、米ドルを調達することができる。2018年だけで中国企業は1000億米ドル以上を調達した。上海や深圳の経済規模がどれだけ大きくなろうとも、香港の機能を代替することはできない。中国本土には資本の移動が認められていないからである。
 毛沢東の文革でも、中国は似た経験をした。文革で中国は鎖国状態となり外貨が手に入らなくなったが、香港が唯一の窓口だった。米中対立が深まる中で、WSJは「香港は中国の肺である」との表現をしていたが、その通りである。どんな大男でも、肺が潰れれば死ぬしかない。
 デモで混乱していた11月、アリババが香港で上場した。9月末に、NYで上場している中国株の上場廃止をトランプが検討しているとの報道が出た。実際にできるかどうかは別にしても、米国では中国企業にとって政治リスクがつきまとう。香港にも世界中のお金が集まるが、主権が中国であるため政治リスクがない。こんな市場は世界中に香港以外にない。デモ参加者は中国における香港の価値を理解しており、香港経済の破壊をも辞さない「死なば諸共」というのが彼らの戦略である。

(5)今後のシナリオ

 2020年9月には立法会の選挙がある。北京としては、そこまでには香港情勢を落ち着かせたい。万が一、立法会選挙で民主派が過半数を取れば、北京は香港議会をコントロールできなくなり、香港は「独立」を勝ち取るような状況になりかねない。
 ただし、選挙制度上、立法会選挙で民主派が過半数を取るのは簡単ではない。立法会選挙では、半数の35議席は普通選挙で選ばれるが、残り35議席は職能別選挙となる。金融界や教育界など、各職業で代表を選出することになるが、このシステムでは一票の格差が著しく、政府寄りの候補が有利になっている。この枠で民主派が取れる議席は「11」が限界、区議会を民主派が支配したので区議会枠も加えて「12」である。過半数は35なので、残り24議席を普通選挙で取らなければならない。比率では68.6%だが、区議会で獲得した得票率は6割弱だったので、これでは届かない。それなりに高いハードルである。
 ただし、区議会選挙は元来、政治化するはずのない選挙だった。それすら政治化してしまったので、立法会選挙で民主派の得票がさらに伸びる可能性はある。
 今後のシナリオは大きく3つ考えられる。1つ目は政府が弾圧を強化して乗り切るというシナリオで、やるとなれば、時期は台湾総統選挙や全人代の後などになる。しかし、弾圧に対する香港市民の反発が激化して香港情勢が収拾不能になる可能性もある。流血が激しくなれば国際制裁もありうるため、最悪のシナリオとしては鎖国を覚悟せねばならず、リスクは極めて大きい。
 逆に、民主派に妥協するというシナリオでは、デモ参加者を特赦するなどが考えられる。いずれにしても漸進的民主化の約束に立ち戻ることを意味し、民主派が確実に勢いづく。さらに事は香港にとどまらず、中国全土へ波及する可能性が高い。すでに香港デモの影響を伺わせるデモが本土で起きている。広東省で焼却炉・ゴミ処理場を建設するという計画をやめさせるべく、市民が11月末に「時代革命」を叫んでデモを行った。中国本土で反政府的な動きを画策している人々は香港を注視している。香港で妥協すれば、民主の勢いが中国全土に広まるというパンドラの箱を開けることになりかねない。
 そうなれば、選択肢は現状維持しかないともいえる。デモが疲れるのを待つという戦術だが、半年経っても民意は変わらず、政府の支持率は低い。2020年9月までに政府の支持率が回復する見込みもなく、むしろ経験則でいえば、9月までの間に政府側の失策で支持率が壊滅的になる可能性も十分ありうる。過去、行政長官の選挙中に候補者が突然不倫騒動に巻き込まれたこともあった。今回の逃亡犯条例も政府側の大失策だった。
 仮にそうなれば、政府は弾圧を強化し、候補者排除に出るだろう。立法会選挙で民主派が大量に排除されれば、「香港は民主主義を失った」と米国などが判断して国際制裁となるかもしれない。この展開は米国の出方次第となる。
 米中は第一段階合意に達したが、長期的な対立関係は継続するだろう。米中対立は戦略の衝突であり、貿易や人権というイシューだけでは解決しない。米中新冷戦の枠組みの中で、権威主義国家と自由社会の齟齬を抱えた香港は「東アジアの火薬庫」になるかもしれない。香港は長期的に問題が起きやすい場所というだけでなく、香港が米中対立に大きな影響を及ぼすこともありうる。香港デモはしばらく静かだとしても、香港問題が解決したとは考えるべきではない。

(本稿は、2019年12月18日に開催した「メディア有識者懇談会」における発題を整理してまとめたものである。)