政策オピニオン

2019年5月10日

地球の環境と資源を守る次世代への責任―まやかしのリサイクル論を超えて―

京都工芸繊維大学名誉教授 奥 彬
1938年長野県生まれ。京都大学工学部卒業、同大学院工学研究科博士後期課程修了。京都工芸繊維大学教授、財団法人生産開発科学研究所を経て現在、京都工芸繊維大学名誉教授。専門は有機合成反応と環境資源科学。有機化学の基礎研究の後半から、資源と環境を消耗する科学技術のあり方に危惧を抱いて環境資源化学に取り組み、ダイオキシン、フロン、PCBの化学分解技術を発表。そのあとプラスチックのリサイクルに取り組む。2018年、瑞宝中綬章受賞。著書に、『バイオマス~誤解と希望』(日本評論社)、『化学と社会』(共著、岩波書店)、『グリーンケミストリー~持続的社会のための化学』(共著、講談社サイエンティフィック)など。

1章.プラスチックはリサイクルによって生き返る[1]

1.1 はじめに

 いま関心を集めているマイクロプラスチック汚染、その発生源である廃棄プラスチックを正しくリサイクルして問題を軽減しようとする熱意と活動は、産業界と行政の障壁に阻まれている。このままでは世界中が直面するこの環境資源問題を緩和できるとは思えず、持続型社会へ近づこうとする流れは滞ってしまう。急増する廃プラスチックが起こしている量的被害を防ぐためには、量的な解決策にはつながらないマテリアルリサイクルの効果は小さく、ましてや焼却して熱回収する最終利用策に依存するようでは無責任すぎる。この熱回収策は、プラスチックがもともと持っている貴重な材料特性と製造エネルギーを無駄に捨てる技術であり産業責任の回避とも言え、廃プラスチック問題の根本的解決には決してなりえない。
 資源と生態系の持続的確保は未来社会にも欠かせない。ところがプラスチック関連の化学産業は消費者の利便性志向を取り込んで利益追求にばかり走り、人心と環境・資源を食い物にして次世代への負荷の積み残しを軽減しようとはしない。大量生産と大量消費を追いかけてきたこれまでの社会は、そのライフスタイルに根本的原因があるにもかかわらず、そこには手をつけずに表面的な持続目標を掲げるだけである。
 持続可能な社会におけるプラスチック問題に取り組む研究者と産業ビジネス界の間には、環境・資源問題の意識と責任観にかなりの乖離がある。とくに後者の資源・環境リテラシーの低さは目に余る。彼らは経済的利益を追究するあまり美辞麗句で飾った不要な商品を溢れさせ、商品が使われたあとの物質生涯にまで気を配らずに責任を持とうとしなかった。そのことが多くの環境問題の元凶になってきたことを今では万人が知っている。年輩の科学技術者たちは多かれ少なかれ自省の記憶を持っているだろう。彼等はもちろん一般生活者も、物質と材料への正しい理解と倫理観を持たないままリサイクル問題を放置すれば、持続型社会の形成はますます遠くなるだけである。
 プラスチック産業と社会はこれまで「プラスチックの物質生涯」という概念を持ってこなかった。政府は環境六法令を定めたが、これらの法令は環境・資源負荷を軽減するという視点から見ると経済性を最優先するものになっていて、“経済利益は現世に負荷は後世に”の色彩がにじみ出ている。
 環境・資源負荷の軽減は避けて通れぬ人類の宿題であるが、この命題から期待されるバラ色の気配は次世代からは見えないのである。そこで、次世代社会にとってプラスチックのリサイクルがなぜ必要なのか、理想に近いプラスチック社会とはどのようなものか、その反面でプラスチックのリサイクルを不都合とみる産業と技術の姿はどのようなものか、などについて考えてみたい。

1.2 社会と化学技術とプラスチックを結ぶ

 私たちがリサイクル問題に取り組もうとするとき、この問題を地球規模で考えながら自分のLife Styleに反映させる気概を持つことが必要である。政治や産業社会は本来大きな変化を望まない集団であるから、社会の原単位である個人が中心となって自己励起を行いLife Styleを変えなければ変革を牽引できない。
 視点を変えて、社会は富者と貧者で構成されており、そこでの富者とは少数派でも義務と観(nobles oblige)を持って活動するものとする考えをとりあげてみよう。その富者は環境・資源問題の根底にある個人のLife Styleを変革しようとする人達である。その成果を見て貧者の大衆は、一般に変化を望まない多数派ではあっても富者による変革の果実を受け継ぐことになる。そして彼ら個人のわずかな変化が全体として大きな効果を生むことにつながり、環境・資源負荷という負の遺産を修復する力になるであろう。そこでの科学技術者と研究者は間違いなく少数派の知的富者である。

1.3 プラスチックをリサイクルするのはなぜか

 プラスチックとは、モノマーと呼ばれる有機化合物を重合(数多く繋ぐこと)して得られるポリマーを素材とする有機材料であり、これをリサイクルさせるためには、重合の逆経路をたどる解重合反応を使ってモノマーに戻すのが早道である。しかしそう筋書きどおりには進まない。なぜなら、ほとんどのプラスチックはリサイクルを前提としないで作られているからだ。
 プラスチックをリサイクルするにはつぎのような問題を克服しなければならない。
 ①同じ使用目的なのに異なる素材が使われるため正しい分別回収を困難にする。
 ②複数の素材を混合しまたは積層しているものが多い。
 ③素材に様々な可塑剤、強度補強材、色剤、酸化防止剤などを練り込んでいる。
 ④同一用途でもユーザーやメーカーごとに使われる素材が異なる。
 ⑤汚れと経年劣化が加わって回収物の組成が複雑になる、など。
 このように様々な障害があるが、いずれも生産者と使用者の都合を優先したものばかりでありリサイクルの障害になっている。つまりプラスチック産業界は、製品の用途、製品設計、製造工程を考案するに際してリサイクルのことなど考慮してこなかった。彼らにとって廃プラスチックを同じプラスチックへ再生リサイクルすることは他人の仕事であり、いまだにその感覚から抜け切れていないと言ってよいだろう。だから彼らには是非とも図1(詳しい説明は出典[2],[7]を参照)か、または類似のプラスチック・リサイクル循環回路を机上の下敷きとして置いてほしいと願う。

1.4 ポリマーの種類とリサイクル反応の基礎知識

 プラスチック材料の素材になる新規ポリマーの開発研究は目覚ましく、新しい機能を持ったポリマーが次々と作られているが、廃プラスチック問題を解消するのと同時に現在の汎用プラスチックを置き換えるようなものは当分現れそうにない。
 いま使われている汎用ポリマーについて、製造と需要量をもとにプラスチック・リサイクルの必要度に順位をつけてみると、
1位: ビニル系ポリマーが主体になる汎用プラスチック、なかでも国内でさえ年産量がそれぞれ2~4百万トンに達するポリエチレン(PE)、ポリプロピレン(PP)、ポリスチレン(PS)、ポリ塩化ビニル(PVC)およびポリ(メタクリル酸メチル)(PMMA)などの連鎖成長ポリマー(chain-growth polymer:ビニル系ポリマーのこと)を素材とするもの。
2位: 機能性に特色のある国内生産量がそれぞれ数十万トンのポリ(テレフタル酸エチレン)(PET)、ポリ(炭酸ビスフェノールA)(PC)、ポリアミド(PA)、ポリウレタン(PU)など逐次成長ポリマー(step-growth polymer:重縮合・重付加系ポリマーのこと)を素材とするもの。
 つぎに、上の順位付けとは異なり、解重合技術の容易さから順位を付けてみると、
1位: 解重合反応で選択的に切断できる高分子鎖を持ち、反応が容易で解重合を調節しやすい逐次成長ポリマー.モノマー回収率は高いが一般に触媒と溶媒が必要。PET, PC, PA, PUなど。
2位: 解重合反応の官能基選択性またはもとのモノマーへ戻す回帰効率が一般に低い連鎖成長ポリマー.触媒と高温反応装置が必要でありモノマー回収率は高くないが、一般に溶媒が不要で対象となる廃プラスチック量は極めて多い。PE, PP, PSなど。
 この分類に加えてリサイクルした化学原料の受け皿になる市場の需要と持続型社会への貢献度を評価に加えてリサイクル技術を分類したのが図2である。

1.5 リサイクルとは呼べないもの

 リサイクル論を講じるまえに、持続可能な社会のリサイクル絵図から除外するのが望ましいと筆者が思う自称リサイクル技術をとりあげる。それは現在盛んに行なわれている使用済みプラスチックをゴミ同然に燃焼処理する最終利用技術である。この技術は終末利用または最終利用と呼んでリサイクルとは区別すべきものであり、決してリサイクルではない。このCO2を排出するだけにちかい低効率の燃料化をサーマルリサイクルまたはケミカルリサイクルと呼ぶ産業政策は犯罪的であると筆者は思っている。
 プラスチックを構成する元素は主に炭素と水素であるが、これが空気中の酸素分子を還元(すなわち酸素分子がプラスチックの炭素と水素を酸化)して熱を発するのが燃焼法であり、その反応熱を発電へ利用すれば偽称サーマルリサイクルである。一方、炭素と水素が酸素分子の代わりに鉄鉱石(酸化鉄)を還元すれば製鉄業界だけで通用する偽称ケミカルリサイクルである。いずれもプラスチックからみたらリサイクルとは呼べない暴力的な技術(terminator)であり“終末利用または最終利用”とでも呼ぶべきものである。そこではプラスチックは再生産されずにCO2とH2Oになり、熱(電力)または銑鉄は副生してもプラスチックの物質生涯には終止符が打たれてプラスチックの原料は再生しないのである。
 なぜこれをリサイクルと呼ぶのか。考えられる主な理由は、廃プラスチックをプラスチックとして再利用促進する法令であったはずの“容器包装リサイクル法”(容リ法と略す)が廃棄物処理法へ様変わりしたからである。そこには理念も倫理も持たない産業(製鉄業などの基幹企業を含む)が容リ法の推進奨励金ほしさに入札に参加し、正統派リサイクルの多くを排除している現状がある。

1.6 プラスチック・リサイクルとは

 ふたたび図2を見てみよう。リサイクル技術を評価するためのプラットフォームとして三つのタイプのリサイクル技術が示されている。
一. リユース
二. マテリアルリサイクル: これは物理的リサイクル(physical recycle)、機械的リサイクル(mechanical recycle)、材料リサイクル(material recycle)など異なる名称で呼ばれている。この工程には機械的分別と洗浄処理が必要であり、そのエネルギー等を削減するために汚れの少ない廃プラが求められるため排出源と供給量は限られる。
三. 化学リサイクル: 上記の二つに代わって、汚れた廃プラスチックでも解重合反応を用いて高純度の化学原料またはモノマーへ戻せるから、プラスチックの市場が大量に受け入れられる技術である。たとえばPETはテレフタル酸とエチレングリコールへ、PCはビスフェノールAと炭酸誘導体へ、PMMAはメタクリル酸メチルへ、PEとPPはナフサを経由してエチレンとプロピレンへ、と枚挙にいとまがない。
 リサイクルに適合したプラスチックとは、「大量に生産され消費されたあとの回収流通システムを備え、リサイクルして再生産した原料モノマーまたはポリマーを責任もって再使用する市場を備えたもの」と定義できるが、そこには4つの問題があり、これらがリサイクルの実施を困難にする。
1. 素材の多さ以上にプラスチックの種類が多すぎて分別回収のコストを押し上げている。
2. 必要以上に商品の差別化が進んだため単一素材と称していても添加物が混合している。
3. リサイクルを詐称する最終処理技術が現れて汚染除去と分別への関心を削いでいる。
4. 消費社会、教育界、産業界にリサイクルの大切さを啓発する場が極めて少ない。

1.7 生命体はすべてオートファジー機構を備えて生命物質をリサイクルしている

 大隅義典教授が“オートファジー現象の発見と解明”の研究業績で2016年度ノーベル医学生理学賞を受けたことは刮目すべきニュースであった[3]。
 “オートファジー現象”とは、生命の発生以降、酵母から哺乳類までの生物細胞内において繰り返されてきたタンパク質とアミノ酸のあいだの生化学的リサイクルである。この概念を社会が取り入れるなら“有機材料のオートファジー機能”を備えた持続型物質社会スタイルが成立するが、生物全般が備えているこの生命維持機能をなぜか人間社会は導入できていない。これは素朴な疑問である。
 ヒトはもちろん細胞で作られた生物はすべて、生命維持のために細胞が“自食”と“廃棄物の分解再生”をはたらかせている。驚くべきことに、微小生命単位である細胞がその原発生以来、地球の有限性を見通していたかのようにオートファジー機能を脈々と受け継いできた。そこでは自らの体内物質を繰り返し利用して“生命の維持と種の保存というリサイクル”を続けているのである。
 それと同様に、“プラスチックの化学リサイクル”は社会が備えるべきオートファジー機能である。これは、資源の有限性、ヒト生存の有限性という敷居を低くするために、使用済みプラスチック(~タンパク質)を化学原料(~アミノ酸)へ戻して市場(~細胞)が必要とする新しいプラスチックを繰り返し製造し、持続可能な社会(~生命体)の寿命を伸ばす手段であるといえる。因みに、人体のオートファジーは生命維持に必要なタンパク質の3/4量までを補っていると知って驚くが、悲しいことに人知はまだそれを社会へ導入できていない。

 

2章. リサイクル技術のネットワークを正しく使う社会へ

2.1 世界はいま国連のSDGsアジェンダを目標として

 2017年のG7イタリアサミットは「保護主義との闘い」を声明に盛り込んで自由市場を維持する決意をあらわし、パリ協定を離脱した米国政権への抗議を示した。とはいえこの声明を資源・環境問題の視点からみると、世界の政治家たちがいまだに近視眼的であり、行き過ぎた経済競争の拡大が近い将来引き起こす環境変動と資源枯渇にまでは言及していない。
 これと並行して国際政治から少し距離を置く国連(UN)は、持続可能な地球社会の形成(sustainable development)を目指して2030年を期限とする17項目のsustainable development goals(SDGsと略記)と名付けた行動目標を2015年に打ち出した(図3)。このSDGsの目標は、地球環境を護りながら国家間の貧富格差を詰めて、人類すべてが生存の権利を平等に分け合おうという素晴らしいものである。だが、その成果はあくまで経済活動の拡大・成長に依存するもので、自ずと限界があると筆者は見ている。なぜなら、そこには経済活動の総量と持続可能な発展の速さの枠となる地球の能力(terrestrial potency)が示されていないからである。SDGsがその指導スローガン“leave no one behind”を普及させるためには、SDGs第12項において経済活動には資源と環境の有限性から生じる高い壁があることを強く訴えるべきであろう。地球上の物理量はすべて有限であり、その内側で欲望を際限なく膨らますことは不可能であることを我々は学んでいるはずだから、leave no one behindのためには強い利他的な決意を、すなわち、持てる先進国が持てるものを手放す強い心を持たなければならないと力を込めて訴えるべきである。筆者は、G7宣言とSDGsからは保護すべき地球有限量への危機感を感じることができない。ましてや、言い古されたとはいえ珠玉の言葉である「もったいない」「節度ある消費」「足るを知る」や「リサイクル」「資源の保護」を普及しようとする意志を感じることはできない。もはやこれらの言葉が感覚的文言ではない時代になっているはずなのに。
 G7宣言中の標語「保護主義との闘い」にも問題がある。保護主義と自由経済活動との均衡を誤れば、気候変動防止や持続可能社会をめざすリサイクルや環境・資源の正しい利用にとっての障害になりかねない。もともと地球の環境生態系は地域ごとに気候、土壌、文化、歴史の違いに根ざす固有のライフスタイルを育んできた。だが非保護主義的経済はこの特異性を生かして尊重することは少ないだろう。それはこの主義がコストパフォーマンス(cost performance, CPと略記)つまり投入した資本の効率的回収という世界統一基準で地球を地ならしするからだ。この資本とはヒトや地球環境のことではなく金銭のことだから、このCP基準を満たさないところでは、地域固有のライフスタイルと生産活動は荒廃し、それを満たすところでは能力を越えた過剰生産が進んで土壌・水資源などの環境が衰える。このように保護すべき対象を誤ってはならないのである。
 同様にプラスチックの消費地は、同時にその素材と材料を必要とする化学品市場でもあるから、使用済み化学材料から元の材料を再生産する当事者責任(CSR:corporate ならびにconsumer social responsibility の二つ)を担っていると考えてよい。このCSR責任を果たせてはじめてプラスチックのリサイクルネットワーク回路は形成される。そこでは国際基準のCPとの間に差が生じてもそれを地域個性として尊重し、生産者と消費者の双方がCSRを分担する段取りを提供するのが政治の役割である。
 市民にとって一見清潔に見える都市生活も、ほとんどが臭いものに蓋をするメカニズムで動いている。一例として、家庭から排出される資源ごみの扱い方を見よう。自治体は廃プラスチックを名目上は資源ゴミとして集めながら、実際は燃やして燃焼エネルギーだけを回収し、これをサーマルリサイクルと呼ばせている。なぜか、その主因はプラスチック製造者と地方自治体が製品設計の段階から流通消費・リサイクルの回路までを一貫する「プラスチック材料の生涯を生かしきる」思想を欠いているからである。彼らにリサイクル可能な素材への統一、添加物の削減と除去容易なものへの置き換え、化学リサイクル回路の編成などを説いても馬耳東風であり、逆にCPに偏った産業論と資源無尽蔵論を吹き返してくるのである。社会とは臭いものに蓋をするところなのか。ライフスタイルの改革によって次世代を受益者にしようとする意志をもった経営者、為政者は出てこないところなのか。
 過去に次世代責任を標語に掲げた社会が生まれるチャンスはあった。それは環境基本法が成立した頃だが、その後、産業と行政はどれだけ熱心に取り組んだのであろうか。

2.2 SDGsアジェンダとプラスチック

 国連(UN)が掲げるSDGs目標(図3)[8]は、加速する世界経済の拡張が国家間の格差と貧富差を拡げ、それが地球環境の破壊と国際紛争の原因になっていることを憂慮したものである。これは2000年に掲げたGlobal Compactよりも規模の大きいアジェンダであった[5]。
 経済紛争に明け暮れる世界にこのSDGsがどこまで達成できるのだろうか。日本では全省庁挙げて取り組みこの壁を越えようとしている。しかしいかんせん、有限性の壁は統計値が少々書き換えられようと間近に迫っているのは真実であり、国際規模の資源争奪も激しく進行している。そのなかで、いまや金属以上の重要材料の地位を占めるまで膨れたプラスチックは、人々のライフスタイルに影響を与えるほど消費量を増大させているが、リサイクル問題への取り組みは金属と比べて著しく遅れている。民間におけるマテリアルリサイクルへの取り組みには見るべきものがあるが所詮規模は小さい。最近になって世界が騒がしくなったマイクロプラスチックの海洋汚染問題も20年以上も昔から指摘されていたことである。
 SDGs目標は17項目あるがその12番目に“持続可能な生産消費”の確立が謳われている。すなわち、モノを作る責任、使う責任、無駄にしない責任を拡張生産者責任(EPR)として集約しなければ、この地球的課題には対処できないことに気づいたのである。リサイクルを含めたプラスチック諸問題の対策がまさにこれに該当する。
 とはいえ、SDGs第12目標だけでなく17の目標全体を通じてSDGsが貧富と幸福度の格差を是正しようとする基本的手法は、国家間の経済的発展には上限を設けないで底上げしようとするものである。環境と資源が有限の地球上でそれは可能だろうか。

2.3 化学物質のリサイクル回路を持つことは社会の大義

 プラスチックは1種または複数の高分子素材(ポリマー)から作られる有機材料であり、積層され、添加物を混合され、着色されたものが多い。これをもとの化学原料へ戻してリサイクルする市場を確保するためには汚染と添加物の除去が必要であるから、添加物の使用が必須なら除去されやすいものの使用が望ましい。しかしこれまで産業界は製品の性能にだけ関心を払い、添加物によって生じるリサイクル負荷には注意を払わなかった。これを改めないとリサイクルコストが行政と消費者を圧迫することになる。
 現在はプラスチックのほとんどは石油から作られている。石油は主要エネルギー資源としてその供給を国が保障しているから、材料物質としてのプラスチックの一次資源は国によって保証されているに等しく、廃プラスチックの量も国が管理しているようなものである。ところが現実には、廃プラスチックの材料物質としての付加価値が石油より高いにも拘らず、国は廃プラスチックの国外への輸出を放任して産業界の拡大生産者責任の放棄を黙認し、国内では容リ法入札制度の合目的稼働がうまくゆかずに本来のリサイクル目的の供給量が確保されてこなかった。ここには不公平以上の問題が含まれている。それに加えて最近、中国が廃プラスチック輸入を禁止したためバーゼル条約に基づく輸出規制の動きが出てきたのは当然の成り行きであった。国は拡大生産者責任(extended producer responsibility, EPR)と軌を同じくする閉鎖型国内リサイクル回路の整備を政策として急がなければならない。
 グリーンケミストリーの学術分野でしばしば使われる指数に原子利用効率がある。これは化合物や物質の製造に必要な原料中の元素資源が目的とする生成物の中にどれだけ無駄なく取り込まれるかを化学反応式にもとづき割り出した数字である。これにしたがって大まかに言うと、廃プラスチックの原子利用効率はリサイクルなしで0%、リサイクル一回で100%、二回で200%のように増殖する。つまり廃プラスチックはリサイクルさせるのが正しいのである。それとともに、はじめに資源からプラスチックを製造するのに要した物質エネルギーと製造エネルギーが廃プラスチックの中にそのまま蓄えられているから、焼却処分するとこれらのエネルギーが失われることを忘れてはならない(図4参照)。

 廃プラスチックはプラスチックの製造資源に使われるのがよいか、または燃焼エネルギーの回収で締めくくるのがよいか、それをエネルギー収支と材料物質の収支として比較したのが図4である[9]。
 この図からリサイクル回路と燃料化回路を資源負荷の面で比較してみよう。石油からプラスチックを製造するためには、原材料の石油と製造エネルギー用の石油(合わせてE1)が必要である。一方、廃プラスチックを回収・輸送するStage 1のエネルギー(E0)は、燃料用途(Stage 3)でもリサイクル用途(Stage 2)でもほぼ同じだが、その後がちがう。Stage 2のポリマー再生エネルギー(E2)がE1よりも小さければリサイクルは有利となり、E2がE1と同じでも原料資源は節約できる。さらにE1 – E3 > 0なら当然リサイクルが有利となり、廃プラスチックのほとんどはこの要件を満たしているのである。
 対照的にStage 3では、発電効率の低さに加えて発電で得られるエネルギー(E3)も少なく、またプラスチックが保持している製造エネルギーE1と材料特性も失われてしまう。このように、廃プラスチックは、繰り返し材料特性を利用し尽くしたあとで最終的に燃料として利用されるのが好ましい。
 それにもかかわらず産業と行政は、正統派のリサイクル工程(Stage 2)は理想ではあっても現状を踏まえていないと言い、また廃プラスチックは本来複雑なものと言いわけする。これは生活衣料を洗濯しないで廃棄するようにすすめる繊維業界のようなもの。皮肉なことに、廃プラスチック問題を複雑にしている現状は彼らが播いたタネから育ったものである。彼等の念頭にはオートファジー回路の概念などかけらもなかった。
 消費者の立場から見ると、プラスチックは供給者から一方的に提供されて、そこに仕掛けられた消耗型生活スタイルのわなに深く考えもせず順応してきた。だから供給者の産業責任は重い。消費者のこの受け身の姿勢は基本的に変わらないから、責任を持つべき立場にある行政と供給者はリサイクル推進の指揮をとって、一方通行の材料設計をやめ、素材を統一し、不要な生産を控え、添加物の削減と代替を進め、同時に使用済み商品の回収再利用システムの再編成に取り組んでほしい。
 そこでは、製造と使用後の回収・リサイクルを同時に管理する「プラスチック総量管理システム」の立ち上げが問題緩和への近道になる(たとえば本節末尾に述べるPR3方式がそれ)。これは製造者がプラスチックの物質生涯について最後まで責任をもつべきことを定めるものである。消費量の多い汎用プラスチックは勿論のこと量が少ない機能性材料についても同じである。もしリサイクルが困難な材料があれば、それによって汎用プラスチックのリサイクルが妨げられないように自己回収回路を持つことを義務づける。結果的かつ必然的に動脈・静脈産業は融合することになって製造責任と回収再利用責任が同じ管理下に置かれることになり、廃プラスチック起因の問題はかなり整理できるはずである。
 人と環境に有害と疑われる化学物質はPRTR法(pollutant release and transfer register, 1999年施行)によって製造から移動、廃棄までを量的に記録して管理することがすでに義務化されている。その一方で、これまで環境毒性はないとされてきた化学材料のプラスチックは、たとえ大量に製造され廃棄されようと、生産者と使用者に量的管理義務はなかった。これがそもそもの間違いであった。すなわち、化学毒性のない物質でも生産量と廃棄量が一定の限界を超えると、“量の多さと廃棄”に起因する“社会毒性”および地表・海洋を汚染する“環境毒性”を生じて世界中に拡散することがわかってきたのである。それと同時に近未来の資源枯渇も予見されるようになった。これまでは法的規制のないまま野放図に生産と廃棄、焼却処理が行われてきたプラスチックについての大衆感覚は、その廃棄物が視野から消えてなくなればそれでよしと思う程度の意識レベルだった。だから最近のマイクロプラスチックによる環境汚染問題もストローやレジ袋の禁止くらいで改善できるとは全く思えない。結局は行政と製造者によるプラスチックの量的収支管理責任を法令で義務化する必要がある。
 プラスチックを化学物質として量的収支管理下に置くことの義務化は、世界への提案であって警告でもある。その記録式管理法であるPR3方式(plastic recycle rate and register)およびその規範になるIALS評価法(impact assessment on life style)またはその類似手法を筆者は以前から提唱している[4,7]。ここでは紙面の都合で割愛するが関心ある方は出典を参照していただきたい。

2.4 リサイクルは社会に資源を蓄積しエネルギーを物質へ変換することに等しい

 たとえシェール系や海底系などの新資源開発が進んで既存資源の消費量と同じだけ消費されることになっても、地球全体から見たら採掘可能な埋蔵量は減り続けて大気中のCO2は増加する。だから、開発者の美辞甘言に惑わされないように注意が必要だ。地球が誕生して以来、十億年単位の年月をかけて大気中の高濃度CO2は化石資源等に姿を変えて地下に封入され、それに代って酸素が放出された。その環境のもとに人類は出現できたことをどれだけの人が認識しているのだろうか。
 たとえ気候変動以外の要因がCO2の増加に関っていても、またはエネルギー資源がすべて再生可能なものへ置き換わっても、エネルギーを消費するところに必ず人間の欲望があり資源の消耗が伴う。再生可能な植物資源の利用がどれだけ進もうと、それに必要な時間、生態系、農産物・工業エネルギーのもとは有限であり、現状のままでは世界が求める需要量を賄えないのである。プラスチックの生産とその量的管理を改革してリサイクルを進めてもやはり地球は瘠せてゆくから、SDGsは「資源は有限なり」の標語を欠くべきではない。負の変化が目に見えて顕われてから動くようでは遅いのである。脱炭素を唱えるだけでなく、作りすぎない、使いすぎない、捨てない、無益に地球を動き回らない、争わない、の五つの「ない」を実践する世界へ変えてゆくことによってはじめて気候変動が防止でき、資源を延命し、コンパクトな生活スタイルを広めてSDGsに近づき、有限性の枠内で次世代のいのちを尊重する生活へ近づくのである。
 リサイクルの本道は“エネルギーを物質に変換して資源として蓄積すること”にある[2,4,6]。そこでは“物質とエネルギーを同じ用途に繰り返し利用”することでライフスタイルの改革が進行する。しかしそれに反して日本の産業と行政は“リサイクルは国境のない協働作業”と嘯いて多量の廃プラスチックを輸出する一方で、国内では“焼却エネルギーの回収”をリサイクルと詐称して廃プラスチックの焼却処分を続けている。この姿はまさに産業と行政の社会的責任CSRの放棄であり、日本が資源最貧国であることをまるで忘れたかのように、石油からのプラスチック製造を続けている。
 この無責任感覚の一因はプラスチック物質循環における“動脈産業と静脈産業の分業”にあると筆者は指摘してきた[6]。血液循環系に例えれば、動脈は毛細血管網を介して静脈とつながり血流を心臓へ戻す仕組みを持っているのに較べて、いまの産業主導型の物質循環社会は、心臓に相当する製造産業が送りだしたプラスチック生産物を、毛細血管網に相当する消費社会を通ったあと静脈を経て心臓へ戻す仕組みを持っていない。その結果、消費社会の出口で廃プラスチックの流れが滞って出血し、多くの地球環境問題と社会問題を生じることになった。このように、本来、一体であるべき循環系の動脈と静脈を切り離して経営すればどうなるか、その答えは明瞭に示されている。従来型の対症療法ではもはや手遅れなのである。心室と心房と肺が同調して健全にはたらく物質循環系を作り上げるために、国と自治体と産業界はすみやかに“産業の動脈と静脈の一体化”を実現して、持続可能な循環型社会を組上げる努力を惜しんではならない。

2.5 再生可能資源も石油資源もプラスチックになれば同じもの

 今日の産業社会が目先のコストパフォーマンス(CP)追求型に偏っていることがプラスチックの循環を妨げ、また生物の代謝循環系に比べて人間社会が著しく未成育であることを上に述べた。それと同じ未熟さが植物を資源とするプラスチック(bio-base plasticまたはbio-polymer, BBPまたはBPと略記)を売り込みたい産業と行政にも見られる。その偏執は行政と産業を巻き込み海洋汚染マイクロプラスチック問題でも社会を誤った方向へ導こうとしている。
 汎用プラスチックとしてのBBPは、出自(1次資源)が植物であっても用途はほとんど石油系と同じであり、資源の違いによるハンディキャップは製造技術がほとんど克服している。ところが関係する産業と技術者は石油系との差別化を急ぐがあまり、石油由来の廃プラスチックを焼却処理すると大気中のCO2は増加するが、BBPは植物から作られるからその廃プラスチックを焼却処理してもCO2は増えず(一見そう見えるだけ)、また土壌中に廃棄しても微生物が分解し消滅させる、と熱心に説いてまわる。これは使い終わればポイ捨てしてもかまわないと奨めているのと同じではないか。たしかにBBPには再生可能資源から作られるという優利性はあるが、その生産に必要なエネルギーとCO2放出量はむしろBBPが多いのである。なぜなら植物の育成には、年月、土地、土壌と水、そして耕作エネルギーが多量に必要であるからだ。
 とくに問題となるのが、研究者を含めた関係者たちが土壌や水系へのプラスチック廃棄を奨めていることである。彼らは環境破壊問題のほとんどが安易に廃棄する行為から生じているということを学んでいるのだろうか。消費者には石油系・植物系プラスチックの見分けが無理であることを知りながら、“再生可能資源”と“生分解”の二つのキャッチフレーズを使って投廃棄をすすめるのである。“使用後は微生物が分解処理する”だけでなく“BBPは環境にやさしい”、“ポイ捨てしても土壌と海が分解する”、“CO2を排出しない”といった誤った言葉が、BBPの正しい利用を伝えずにどれだけ消費者の怠け心を助長していることか。同様にマイクロプラスチックの海洋汚染にも悪乗りしてBBPを救世主であるかのように吹聴するから、消費者は廃PE、PPも分別せずに棄てることになる。その結果、これらがBBPと共に海に流れ出て海洋汚染は止まらない。
 さらに深刻な問題は、廃棄されたBBPが回収された汎用プラスチックに紛れ込むとリサイクルが致命的に妨げられるから、その結果、再利用できなくなった廃プラスチックは焼却処理されてしまう。それでもBBPはSDGsに貢献するというのだろうか。
 ポリ乳酸(PLLAまたはPLAと略記)は再生可能な植物からつくられる代表的なBBPであり、エネルギーと人の知恵が注入された優れたプラスチックである。使用後にはこれをPETボトルのように正しく分別して化学リサイクルすれば、再び同じプラスチックを製造できるのだが、正しい基本知識と未来意識を欠くと人心を欺くことになる。
 全ての科学技術について言えることであるが、基礎となる科学的知識、技術、生産と消費、資源と環境への負荷、SDGsに沿ったライフスタイルへの調和、これらが重要であると言うのは易しいが実行は容易でない。その一因は、産業経済界がその生産活動と製品について陽の当たる面しか見せないことにある。そこで消費者は当然、その裏側にたまった不都合な真実を知りたいと目を向ける。やがて時代は移り、いまや産業経済が自ら不都合を明らかにして消費者と問題を共有する傾向がみられるようになった。プラスチックに関しても、環境と資源負荷の最たる課題である“量の多さと廃棄”による負荷の軽減にようやく目が向けられてきた気がするが、まだ本来の方向へは向いていない[4]。
 繰り返すが、プラスチックのリサイクルとは、石油系か植物系かに関係なく、廃プラスチックをもとの化学原料またはその類似物へ戻して化学材料として使用するという意味である。ところが国は、プラスチックの1次資源である石油の輸入は保障しても、石油よりも材料資源として高い付加価値を有する廃プラスチックを国産資源として位置付けないで供給を保障してこなかった(1.5節で前述)。その結果、廃プラスチックは国外へ輸出され、国内ではリサイクル詐称の焼却熱回収や高炉燃料としての利用といった廃棄物処理ビジネスが跋扈することになり、国費をつぎ込み育てたリサイクル化学産業は製造資源を断たれ閉業せざるを得なくなった。つまり納税者である国民の期待は容リ法によって裏切られたといえる。
 技術とその目標がどれだけ優れていても政策が貧しければ技術と国内資源は生かされないことを述べた。廃プラスチックを良質な国内資源として生かすことができない貧弱な思想と政策は、日本がSDGsの第12目標を重要視していないからであろう。この姿勢がポリマー素材、プラスチック材料、製品設計の段階で使用後のことを考えない産業体質を産み、オートファジー回路(1.7参照)を組み立てる勇気を削ぐ結果につながっている。

 

3章. 材料と持続可能な社会

3.1 現在を人類の再生期と呼ぶために

 長野県安曇野の地下には北アルプスの雪解け水が豊かに貯まっており、人々はその湧水または揚水を利用してきたが、生産と生活活動が活発になってきたので水不足を心配しはじめた。そこで平等に共有してきた水の恵みを今後は有限の水資源として保護するために、費用を利用者負担にしようと決めた。いまなら当然のことでもこれは20年も前のことである。
 産業と国民の関係も同様に考え直すべきときである。社会に張り巡らされた組織(産業を含む)とその活動は人々のためのもの、とむかしは教えられたが、いまは国のために組織があり、組織のために人があるという逆転した位置づけになっていることを肌に感じる。いつのまにか社会の価値基準が個人から組織に代わり、利益の還元先も組織へと変わり、日常生活でも組織の都合が優先されるように、人々が組織の利を中心とした価値観に巻き込まれ飼い慣らされている姿をプラスチックの物質循環を通して見ることができる。
 人類がとどまるところを知らぬ経済発展を追い求めて、そこから抜け出そうとしない姿に警告を発したローマ報告書「成長の限界」[6a]、その初版(1972年)から3版「人類の選択」(2004年)までの編者を務めたデニス・メドウズ博士は、日本国際賞受賞の挨拶で次のように語っている[6b]。
「持続可能な開発には人々の新たな理解と行動の変化が必要である。そのために私は活動の多くを情報発信と教育に捧げてきた。それによって人々が原因と限界とを理解して、いまの行動を変えることをお手伝いしたい」
 この言葉は、理念を空論で終わらせずに現実の社会に生かす、というメドウズ博士の意志を謙虚に表している。
 私たちはすでに物質的富裕さからは距離を置く時代へ移ったと言われるが、その代わりに便益性に偏ったパラダイムを膨らませてはいないだろうか。エネルギーの消費量、人と物の移動量と速さ、娯楽とギャンブルへの傾倒、生理的限界を越えた労働効率の追求など、ここまで問題にしてきた物質・エネルギー量とは次元の異なる“大きな量”へ欲求を膨らませる経済の歯車が回り始めている。そこには地域特性を葬ることにつながるグローバル化への加速が含まれ、このまま放置すれば“有限の地球を次世代へ継承する長期プロジェクトのゴール”は遠くなってゆく。この懸念を軽減するには、ただ叡智の言動にいやしを求めるのではなく、個人がすすんで生活スタイルを環境と資源の厳しさに曝してゆく必要があるのは言うまでもない。
 「成長の限界」初版では、4つの環境要素、大気・水・土壌・生命体の有限性が説かれたが、それから半世紀を過ぎたいま、そこに5番目の環境要素として“人が生きることの有限性への責任”を追加する時代になったと筆者は確信する。この新たな時代には、人の命は地球よりも重いとする教えよりも、万物の無常を説いて欲望をいさめ、命をめぐらせ継承することの重さを問いかける“吾唯足知”の四文字(図5)[7]を生かす営みが必ず求められるであろう。

3.2 量の拡大から削減へUp-Spiral Life のすすめ

 経済学の教授は統計と数式を使って私達の暮しをもっと豊かにできる術を教えるが次世代へそのツケがまわることを語ろうとしない。まして人間の欲望を抑える方程式などは持っていない。その結果、人々は次世代への責任を放棄して私利私欲へと自らを駆り立てる。
 それでも諦めないで実行可能な未来基準をつくろうではないか。その作業の一環として筆者は身の程もわきまえずに、プラスチック・リサイクルの推進を含めた新たな地球的作業基準を提案してきた[5,7]。それは地球資源(化石資源、バイオマス、金属資源など)と環境とを持続させるためのものである。その作業は“資源と環境の物理量(terrestrial potency)を推算して消費限度を設定し、人類の共有財産として登録管理する”ことにはじまり、その上にこの共有財産を守りながら利用する国際ルールを立ち上げ、その枠内で産業経済と科学技術を公平に競争・協演させることにある。これは途方もない作業のように見えても、いまでは人工頭脳科学(AI)が可能にするはずである。そこでは地球の気候変動防止作業のように協調しない大国が存在しても、賛同する国だけで協働すれば世界は動くことが見えてきた。
 そのために、2章で述べたUNのSDGs活動目標を参考にして、先進国のメンタリティーを利己的なものから利他的なものへ転換させる必要があり、この利他性が持続可能な社会にとっての不可欠な要素になる。環境対策のための技術移転や経済支援、さらに2.3で述べた環境・資源の管理記録義務(PR3方式)などの利他的作業とその行動を育成して進めるためには、先進国とその社会が手放さなければならないものがありその強い心を持たなければならないのである。この強さを育てる学びを筆者は“環境道”と呼び、その実践には国を挙げて“Up-Spiral Life”(USLと略)を生きる総意を築かなければならない。

 この持続可能な社会を築き生きるためのUSLの概念が図6に描かれている[7]。生活は昔には戻せないが、それに代わっていまの生活スタイルを改革し、資源環境負荷を軽減すれば次世代への負債は減ることが示されている。そのキーワードがUSL。この概念は、有限性の枠内で人類が生きるための挑戦と避けることのできない宿命を肯定的に受け入れる数少ない選択肢である。この図には人類が歩む有限の世界が円柱(カラム)で表されている。座標Xはエネルギー的、物質・資源的、空間的な要素とその欲望を示し、座標Zは時間と金銭的要素と欲望を示し、いずれも有限性に束縛されている。XとZが拡大する先には限界値の壁が立ちはだかり、持続可能な社会を維持するためにはこのXとZの限界値を超えることができない。
 いっぽう、座標Yは原則として限界値を持たない次元として開かれており、知性と心の成熟、生活の質的成熟度を示すものである。したがって人間の活動を自由に展開できるのはYに添った上方へ伸びる道だけである。その道は円柱の中を登る螺旋階段(スパイラル、spiral)である。カラムの水平断面を構成するXとZは有限性に束縛された平面内にあるから、その枠内で資源と環境の恵みを繰り返し利用しながら、そこに膨らむ欲望を垂直Y方向へ転向させて伸ばしてゆく。このYを高みへ導くUSLスパイラルは無限に伸ばすことができる。現世代は、まだ最初の螺旋階段を登りながら利己的価値観を1つずつ脱ぎ捨てて、上の段で待つ次世代を見上げている段階であろう。
 スパイラルを横から眺めると、螺旋階段は旋回しながらYの高みへと登ってゆき、XとZの要素は呼吸するように伸縮を繰り返しながら元には戻らない。我々はその一周目から次の周回へ入ろうとしているのである。その新たな周回へ入る前に、物量と金銭がすべてだったこれまでの価値観を捨てて有限性に基づく新たな価値観と置き換え、それに適応する生活力を育てなければならないことは言うまでもない。できるかどうかではなく始めなければならないのである。
 物質的豊かさをしあわせの基準に置いてきた社会の経済学は、資源と環境とカネは無限にあることを前提にしていた。その学問は、環境・資源の消耗を抑制するような社会発展には自信がなくても、物質と金銭的豊かさに幸せの尺度を置く数量的経済を得意にしていた、と庶民的に言えば誤りだろうか。人々がそのような豊かさをいくら手に入れてもさらに欲してやまないこの現実を予見していたのだろうか。
 有限の地球上で到達可能な地点といえば「倹約と節約の心」あるいは「知足の心」であり、そこまでの道程はそれほど遠くない。禅寺の手水鉢に彫られた「吾唯足知」の四文字(図5)はそれが修行目標の一つであることを語り、日常生活で実践できる環境道の教えでもある[7]。この生き方は持続可能な社会そのものであり、時代が進んでも錆びずに受け継がれ、プラスチック・リサイクルを推進する力にもなる。

3.3 材料開発と同時にリサイクルソフトの開発に取り組む

 旧型の都市ごみ焼却炉で焼却されていた廃PVC等フィルムからはダイオキシン類(DXNs)が発生していたので、それを抑制できる高性能焼却炉が法令によって全国に建設されたのはひと昔前のことだった。その結果、都市型社会では回収不可能な有機塩素系ラップフィルム(年産約5万t程度か)は一般廃棄物と混合して焼却処分されることになり、炉の高額な建設費と運転維持管理は住民の税金で賄われている。この廃フィルムには当面のところリサイクル技術がないために、焼却しか手段がないのであれば、生産者は焼却炉関連の経費を負担するかあるいはラップフィルムの素材を非塩素系に置き換えて炉の負荷を軽減すべきであろう。なぜなら非塩素系フィルムはすでに市販されており、消費者がフィルムに求めているのは包装機能であって生産者の都合ではないからだ。
 このことは、企業の社会的責任CSRの欠如だけでなく、技術が社会と環境にもたらす利益・不利益を長期的に見通す力が化学技術者から失われていることを示している。産業はある程度の盛衰をくり返すことはできても、失われた環境と資源はもとに戻せないのである。
 環境基本法という憲法のような法律がある。そこには企業が生産物の末流まで責任を負うべき拡大生産者責任EPRが記されていて、EPRの実践はいまや世界共通の認識になっている。大学カリキュラム中の工学倫理にも取り入れられ、EPRは産業技術者の修得要件であるが、その価値は産業現場に発揮されなければ意味がない。
 技術の国際競争が激しくなり巨額の研究資金が投入されるようになったが、持続可能な社会形成を阻害する産業的要素への監視度はかえって薄くなったようである。社会が短期的経済効果ばかりに顔を向けている間に、“過ぎたる量”と“便益への傾倒”が環境と資源そして生活スタイルを蝕み始めている。“持続可能な社会”と“経済発展への欲求”はもともと対立関係にあるから、一方が他方を顧みなければそれでおしまい。たとえそれが杞憂であっても科学技術と経済的豊かさへの過度の期待は危険である。

3.4 資源と環境を持続させるコストは世代を越えて皆で負担する

 完済のめどもなく国債発行を続ける国のおとぎ話ではなく、環境と資源を貪りながら次世代へ熨斗つけて渡そうとしている我々の世界の話しである。痛めつけられた地球は無言で人類へシッペ返しする奥の手を持っているが、次世代は黙ってこの負債を受け継ぐことしかできない。それを知りながら現世代は地球財産を食い逃げしたまま際限のない欲望と新たな科学技術の開発に夢中である。
 理念を持たずに探究心という好奇心だけですすめる科学的研究は、経済的期待とともに資本主義経済のメカニズムに飲み込まれてゆく。そこに新しい科学技術が生まれ、それがなくても暮らせる人々を“取り残され症候色”に染め上げてゆく。このように科学技術と市場経済はタッグを組んで次世代への負荷を積み増し、そこには次世代責任の自覚はおろか地球と現世代の間に橋を架けようとする姿さえ見ることは稀である。
 科学技術が社会と経済を動かすとはいっても、その歯車が次世代のものとかみ合うことは必ずしもない。資源の枯渇は元に戻せない不可逆過程の上にあり、バイオマス資源も生態系に束縛された有限量であるから、資源の枯渇はきっと気候変動よりも深刻な問題である。それにもかかわらず資源に乏しい日本の政治と経済の取り組みは遅々としていて、庶民は資源と環境の限界に気づいても、いつどのように行動したらよいのか指標も数字も示されていない。牽引者であるべき政治と経済は問題の顕在化を待って行動すればよいとでも考えているのだろうか。百年の計とは、先を夢見て計画するだけでなく、必要に先立つ百年前に行動を起こす必要があることを説くものである。
 図1のプラスチック再生循環回路は20年もまえに描いたものだが[2,7]、そのあと現在までどれだけの前進がこの社会にあったのだろう。それに加えて、次世代が環境と資源負荷の軽減を自覚できるまでにどれだけの世代交代をくり返さなければならないのか。またその時はやってくるのか想像を超えている。

(本稿は、2018年10月31日に共催した「新時代の日本を考える兵庫フォーラム」における発題を整理してまとめたものである。)

 

注釈と出典

[1] この論評はプラスチック化学リサイクル研究会ニューズレター、FSRJ, vol. 30~32 (2017 ~ 2018) に3部作として掲載されたものをまとめて改訂したものである.
ご感想ご意見はoku2038ak@future.ocn.ne.jpまで。
[2] 岩波講座「現代化学への入門」、18巻10章(2001).
[3] 朝日新聞2016年10月4日朝刊、pp. 1, 2, 11.
[4] 日本評論社“バイオマス・誤解と希望” (2005).
[5] a)“科学技術研究は有限性に新たな目標と元気を”、化学と工業 63, 410 (2010). b) Oku, A “Rekindle the True Concept of Environment vs. Chemical Technology”,日本化学会東北支部70年記念国際会議招待講演, 29H2 (2013)ほか.
[6] (a) D. Meadows “Limits to Growth. The 30-Year Update”, Earthscan (2004). (b) Japan Prize News, No. 42 (2009).
[7] “有限性のもとに無限に生きるUp-Spiral Lifeのすすめ”、ACADENIA、vol. 146, pp.11~21 (2014)ほか.
[8] a) www.jp.undp.org/content/tokyo/ja/home/sustainable-development-goals/  b) 「プラスチック化学の理解を深めるための有機化学II」、プラスチックリサイクル化学研究会ニュースレター、vol.31, pp.16~29 (2~17).
[9] 「グリーン化学製品・循環型炭素資源のプラスチック」、最新グリーンケミストリー、3章、講談社(2011).