“マルトリートメント”による子どものこころと脳への影響 ―親(家族)への支援、親子関係再構築の提言―

“マルトリートメント”による子どものこころと脳への影響 ―親(家族)への支援、親子関係再構築の提言―

2022年7月22日
はじめに

 私は小児科医として日々、こころの問題を抱えた子どもたちに接している。例えば神経発達症、愛着(アタッチメント)形成に困難が生じている親子、子育て困難を抱えている親の相談にあたっている。現在は小児科医、児童精神科医、公認心理師など、子どものこころの専門家と一緒に診療をしながら、脳の研究、神経生物学的な研究、特にエピジェネティクス研究に多くの仲間と共同で取り組んでいる。
 私は35年以上、臨床に携わってきた。その中で、ヒトの発達における連続の軌跡(トラジェクトリー)がどんどん変わっていくことを目の当たりにしてきた。
 標準的な発達を「定型発達」と言う。定型発達だから正常という意味で申し上げているわけではない。
 また、標準的な発達ではない子どもも多数診てきた。こうした子どもを総称して「非定型発達」と呼ぶ。ただし、こうした子どもの軌跡は変わり得る。
 例えば、親が宵っ張りの朝寝坊で子どもに良質な睡眠をとらせないことがある。そういった子どもは非定型発達になることがよくある。それから、この後詳しくお話しする「マルトリートメント」(マルトリ)の経験があると、定型発達の子が容易に非定型発達になったケースを診てきた。
 しかしながら、この時にしっかりと睡眠教育を行ったり、子どもの発達を促すような療育、そしてマルトリを無くすような子育て環境に変えることで、非定型発達から定型発達に戻った事例を数多く経験してきた。つまり、発達の軌跡には遺伝的要因だけでなく環境要因も重要である。本日はこのことをエビデンスに基づいてご紹介したい。

1.マルトリートメントとは

(1)「マルトリ」を使う意味

 さて、マルトリは「不適切な養育」とも言う。ただ、「不適切な」という言葉も親を責めるようなニュアンスを持っているため、最近は「養育者からの子どもへの避けたいかかわり」「避けたい子育て」という意味で使っている。

 マルトリートメントのマルは「悪い」、トリートメントは「良いケア、良い扱い」という意味である。世界保健機関(WHO)でも、マルトリートメントについて、虐待やネグレクトだけではなく、もう少し広義的に捉えていこうという指針を示している。「避けたい子育て」「虐待とは言い切れない、大人から子どもに対するよくない関わり」と定義している。
 私がマルトリを定義した理由は、「虐待」という言葉を使いたくなかったからである。虐待という言葉の響きに、虐待を繰り返す親を非難する意味合いが全面的に感じられるからである。時にはSOSを発している親、養育者が、虐待を疑われることによってこころを閉ざしてしまうと、介入や支援が困難になる。そして、医療者、心理支援、母子保健、精神保健などの公空間と、家庭という閉ざされた私空間の隔たりが大きくなれば、家庭の孤立は深まることになる。私は事態の悪化を招きかねないため、マルトリ(避けたいかかわり)という言葉を使っている。
 一方で、虐待と言うほどの行為でないということで、子どもへの避けたい行為が見過ごされると、自分には無関係だと考える親が増える恐れもある。マルトリという比較的新しい言葉を用いることで、誰もが相談でき、介入や支援が受けやすい環境を整えていきたいという私の思いを込めている。
 もう一つ、親自身にマルトリ経験があると、社会の支援制度をよく知らなかったり、他者に頼ることができない。つまり援助希求がないケースがよくある。
 WHOによると、全成人の4分の1が小児期に身体的虐待(激しい体罰を含む)を受け、女性の5人に1人、男性の13人に1人が小児期に性的虐待を受けている。こうしたマルトリの影響は、生涯にわたり個人の身体・精神の健康を損なうのはもちろん、国の経済発展と社会成長を遅らせることになる(WHO Fact Sheet revised 2020)。
 日本国内でもマルトリは過去最多に上っている。全国の児童相談所のマルトリ相談対応件数は2020年度に20万5029件と初めて20万件を超えた。少子高齢化が加速度的に進む日本のにおいて、30年間で186倍に膨れ上がっている。特に「面前DV」(これは児童福祉用語である)、家庭の中で両親間の激しいDVを見聞きさせる行為であるが、これを含む心理的虐待が12万1325件で、前年度から1万1249件増加して過去最多となった。これが現実の数字である。

(2)深刻な小児期逆境的体験(ACE)

 1995年から1997年にかけて、米国の疾病予防管理センターで行われたACE Studyについてご紹介したい。受胎してから死を迎えるまでの人生の展望について、1万7千人を対象に大規模調査が行われた。ACEとは小児期逆境的体験のことである。
 この研究で分かってきたのが、幼少期に逆境体験の一つであるマルトリを受けることによって、健康や寿命に影響を受けるということである。幼少期に心の傷(心的外傷、トラウマ)ができると、神経発達が早期に混乱することも分かってきた。そしてさまざまな疾病のリスク、心疾患、肺疾患、肥満、癌、脳卒中、さらには原因不明の自己免疫疾患、慢性の頭痛や疲労などが起こる危険がある。ありとあらゆる慢性疾患が、子ども時代のマルトリ経験によって発症率が急上昇するという相関関係を初めて明らかにしたのである。

 神経発達が混乱することで、社会的障害としてコミュニケーションの問題が起こりやすい。対人関係では暴力を振るう。また、集団行動が苦手、動物虐待を繰り返すといった傾向が見られる。また、情緒的な障害として不安や鬱などが早期に現れて深刻化する。症状が早期に現れるのも、マルトリの影響である。それから、認知の障害である。これは環境を改善したり、特別の学習支援を行っても、改善は困難であることが分かってきた。
 さらに深刻なのは、健康を害する行動によって順応しようとすることである。嗜癖、薬物乱用など、使用してはならない物質に手を出す。つまりセルフメディケーションに走るのである。幼少期に心の傷を負うと、それを自分で癒やそうとする。そのため非合法薬物に手を染めてしまう。そして、場合によってはその薬物が切れた時、犯罪に走っても手に入れようとする。つまり薬物依存に陥ることも分かった。このように、疾病のリスクが跳ね上がり、場合によっては社会不適応となる。
 最悪のシナリオは早世である。心疾患や肺癌に罹患するリスクが生涯3倍にも高まり、寿命が20年低下する。80代まで生きられるような人が、60代までしか生きられないということが起こり得る。それが1990年代半ばには明らかになったのである。
 私は研究者の一人として、早い時期に介入して、症状が悪化しないように、増幅しないようにするのが、私たちの世代の大切な役割だろうと考えている。

(3)マルトリ予防の有効性

 一方で、現在は次のような希望的エビデンスも明らかになっている。私たちの社会からマルトリがなくなると、うつ病の54%、依存症の65%、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の50%、自殺企図(念慮)の67%、薬物乱用の78%が消滅する。言い換えれば、税金で成り立っている医療費の削減にもつながるわけである。
 日本子ども家庭総合研究所が平成24年度、児童虐待の社会的コストは推計1兆6千億円に上るとの試算を発表した。また、名目GDPに占める社会的養護費用の割合は日本は0.02%にとどまり、国際的にはアメリカ(2.6%)などと比較すると最低ラインである。
 こうした点から見て、日本はマルトリ予防に対して後手に回っていると言わざるを得ない。

2.マルトリの実証的研究

(1)脳の損傷とこころの病気

 次に、マルトリの事例について紹介しておきたい。
 一つは、子どもを一人で留守番させることである。昭和の時代、両親が共働きで、現在のように放課後に子どもを預かるシステムが整っていなかった時は、小学生でも一人で留守番をすることは珍しくなかった。しかしアメリカでは、小学生以下の子どもを一人で留守番させるとネグレクトとして法律で罰せられ、場合によっては逮捕される。
 二つ目は、お風呂から出てきた父親が裸でウロウロすることである。もちろん文化の違いはあるが、アメリカでは親と思春期を迎えた子が一緒にお風呂に入ることは性的虐待とされている。年頃の子どもが嫌がっているのに、頻繁にこれを行うことはマルトリである。視覚野に障害が出ることが分かっている。一緒にお風呂に入ることがなぜ問題なのかと言うと、3歳と9歳の子どもでは同じ風景でも、見方や感じ取り方が全く異なるからである。思春期の子どもは、親が裸でいるところを見たくないという思いがある。
 では、マルトリを受けることで、どのように脳が傷つき、その傷がどのような影響をもたらすのか。特に、その脳の傷つきがどのように依存症などの精神疾患へと影響するのか。また、どのような支援をすればこのプロセスを防ぐことができるのか。そして、傷ついた脳でも回復が可能なのか。そのためにどのような支援をすれば良いのかを考えてみたい。
 小児期は脳がドラマチックに成長する。出生時に約300グラムだった脳が、1歳の時点で大人の平均値の約70%まで成長する。4歳になると大人の95%にまで成熟する。そして、前頭葉、ヒトが物事を判断する脳の領域は30歳頃までゆっくりと成長していく。そのためには栄養や睡眠、そして様々な活動や経験が脳を育てるのである。

 この期間にマルトリを経験する、あるいはマルトリの家庭で育つと、こころの病気や様々な疾病のリスクが大きく跳ね上がることが明らかになってきた。
 私は2003年から3年間、米ハーバード大学のタイチャー博士と、脳への影響について共同研究を行った。また、トラウマが心身に記憶されることを提示したボストン大学のヴァンデアコーク博士とも交流しながら、マルトリのメカニズムの研究を行っている。海外の研究、また国内で私の所属機関で行っている研究で明らかになってきたことをご紹介したい。
 小児期のマルトリ経験が、どのようにこころの病気に進展するのか。精神疾患に至るプロセスが明らかになっている。小児期のマルトリのタイプ、どのくらいの数なのか、重複して受けたのか。また、受けた時の年齢、マルトリの環境にどれくらいの期間いたのか。そうした要因によって、脳の発達にも影響を受ける。
 それに遺伝学(氏)、エピジェネティクス(育ち)があるが、後天的な環境要因も脳の発達に少なからず影響があることが分かってきた。こうしたファクターによって、うつ病やPTSD(心的外傷後ストレス障害)、統合失調症、依存症、解離、認知障害などこころの病気に進行することが臨床研究によって明らかになった。
 私はタイチャー博士と共同で、子どもの頃に虐待経験を持つ人たち1455名に協力をいただき、その中でPTSDなどの精神疾患を発症していない方々を調べた。それによって様々なマルトリ経験の影響で、脳が物理的に変形することを突き止めた。

(2)言葉による暴力

 言葉による暴力、最近は暴言マルトリとも呼んでいるが、日常的に養育者である親、あるいは祖父母から「おまえは生まれてこないほうがよかった」「死んだ方がよかった」といった暴言を浴びせられて存在価値さえ否定されるケースである。怒鳴られるわけではなくても、侮辱、非難、貶め、恐怖感を与える、卑しめる、あざ笑う、過小評価などである。それから、きょうだい間比較をする。こうした言葉の暴力を受けてきた人たちの脳について集団解析を行った。
 子どもの頃に養育者から暴言虐待を受け続けた人たちは、脳の聴覚野、コミュニケーションに重要な働きをする領域が物理的に変形していた。これは驚くべき結果であった。なぜなら、そうした人たちは語彙の理解能力が低かったからである。
 それだけではなく、耳から音は入ってくるが脳に会話や音としては感じられない状況になっていることが分かった。
 これはコミュニケーション能力に関わるので、対人関係にも影響を及ぼす。子ども時代に長年にわたって慢性的に暴言を受けると、聴覚野という大切な脳の領域が物理的に変形してしまうということを突き止めた。
 言うまでもなく、言葉の暴力は体に傷は残らない。しかし、この影響は重大であり、伝えなければならない。言葉の暴力は、家庭だけでなく、学校、地域、どこででも起こり得るからである。

(3)体罰の悪影響

 次に私が研究したのが、小児期の体罰である。小児期の体罰が脳の発達にどのような影響を与えるかである。愛の鞭とも言われ、親が子どもに愛の鞭を与えるのは是か否かが論議されてきた。2020年4月、日本は59番目の体罰禁止の国になった。
 私は2009年に報告したが、1455名の中からスクリーニングされた被厳格体罰者21名と健常者17名を調べたところ、脳が変形することが分かった。感情をつかさどる前頭前野の一部が変形してしまうと警鐘を鳴らしてきた。
 しつけと体罰の違いについて、厚労省がガイドラインを明確にしている。
 「口で3回注意したけど言うことを聞かないので、頬を叩いた」「大切なものにいたずらをしたので、長時間正座をさせた」「友達を殴ってケガをさせたので、同じように子どもを殴った」「他人のものを盗んだので、罰としてお尻を叩いた」「宿題をしなかったので、夕ご飯を与えなかった」といったことは全て体罰だと定義されている。子どもの体に何らかの苦痛や不快感を引き起こす行為は体罰だということである(厚生労働省「体罰等によらない子育ての推進に関する研究会」2019)。
 なぜ体罰を抑制しなければならないかと言うと、虐待に近い状況にエスカレートしてしまう可能性があるからである。
 また、過去のエビデンスからも、百害あって一利なしなのである。海外の約16万人の子どものデータを分析した研究によると、良かれと思った愛の鞭、体罰が、「ネガティブな親子関係」「精神的な問題(小児期・成人期)」「反社会的な行動(小児期・成人期)」「強い攻撃性(小児期)」など望ましくない影響を与えていることがほとんどであった。体罰によって子どもは親から強い攻撃性を学ぶ。感情に任せて相手に暴力を振るってもいいのだと誤学習をしてしまう。
 そして、強い体罰は子どもの脳に大きく影響する。体罰によって脳が物理的に変形し、容積が19.1%減少していることを突き止めた。
 先ほど、前頭前野が感情や気分に関わると申し上げたが、もう一つ、この内側前頭皮質(10野)は犯罪の抑制力にも関わっている。そのためこの部位に障害が起きると、素行障害になってしまう可能性がある。
 2020年から、家庭での体罰は禁止になった。体罰がなぜ問題なのか。繰り返すが、「子どもに暴力を教えることになる」からである。怒りを感じたら暴力をふるってもいいと子どもが誤学習をしてしまう。「子どもに傷みや恐怖心を与える」「しばしばエスカレートする」「他児にも心に深いダメージを与える」ことになる。そして最も深刻なのが、力と立場が優位な大人が感情を爆発させて体罰を行ったら、子どもに「取り返しのつかない身体的外傷に至る」可能性があるという点である。故に啓発が大切なのである。厚労省の「愛の鞭ゼロ作戦」のリーフレットにも、こうした私の知見が紹介されている。

(4)DVと子どもの健康の関連性

 それから両親間のDVの影響もある。DVは夫婦間の問題であるから子どもには関係ないと考える親がいる。しかし、夫婦間のDVを子どもに見聞きさせることはマルトリに含まれる。DVの割合は23.7%に上るとされる(内閣府、2016年)。DVには身体的暴力だけでなく、言葉の暴力など精神的暴力、性的暴力、支配行動がある。日常行動の監視や経済的圧迫といったこともDVと定義される。こうしたDVの応酬を子どもに見せたり聞かせることはマルトリになるということを、親に理解してもらわなければならない。

 そしてDV家庭に育った子どもの健康について、情緒・行動的発達の面において深刻な影響があることを多くの先行研究が明らかにしている。PTSD(心的外傷後ストレス障害)、うつ病、不安障害といったこころの病気、さらには攻撃的行動が見られる。いじめの加害者になるケースもある。また、自殺企図・自殺念慮、摂食障害・睡眠障害、認知・行動発達の遅れなど、多くの報告がある。
 子ども時代にDVを見聞きした経験がある大学生たちの脳を調べたところ、後頭部の視覚野(視覚的な情報を取り入れる部位)が変形し、容積が6.1%減少していることが分かった。視覚野が影響を受けると、視覚的な記憶力、視覚的な学習能力の低下を招く。
 また、視覚野は感情を司る扁桃体とつながっているため、視覚的な情報から怒りや不安で衝動的な行動に走りやすくなってしまうこともあり得る。視覚野はこのような感情処理に密接に関係している。子どもには影響がないと思われる両親間のDVを見聞きすることによって、子どもの脳に甚大な影響を与えるのである。
 私は、子どもが親同士の身体的なDVを見聞きする場合と、暴言のDVを見聞きする場合のどちらが子どもの脳に重大な影響を与えるのかを調べた。解析する前は身体的DVの影響が大きいと予想したが、実際には身体DV目撃の影響が3.2%だったのに対して、暴言DV目撃の影響は19.8%であった。つまり、暴言DVを目撃するほうが6倍以上も影響が大きいというわけである。
 このことから言えるのは、「DVを身体的DVに限定する理解は、被害を見えなくする」ということである。両親のいずれかの体に傷やあざがあると、その家庭でDVがあると気付くが、心理的DVも深刻な影響があるということである。

(5)愛着障害との関係

 ここまでのお話をまとめると、「子育て困難により傷つく脳」ということである。以前は「マルトリによって傷つく脳」にしていたが、そのタイトルを変えた。なぜなら、虐待する親を加害者扱いしても解決する時代ではないからである。
 私は、「マルトリ=子育て困難家庭からのSOS」だと理解した。そうした家庭の子どもたちに向き合って、しっかりと話を聞いてあげたり、希望を叶えるために一緒に考える。それとともに親に寄り添いたいと思うのである。
 最も大切なことは、そうした家庭の情報を様々な機関と共有し、つないでいくおせっかいを焼くことである。そうしなければ、現代は本当に危機的な状況にあると思う。
 もう一つ重要なことが「愛着(アタッチメント)障害」である。マルトリの経験があると愛着障害を呈する可能性が高い。
 平成の時代に発達障害がクローズアップされ、症状が理解されるようになった。愛着障害は似て非なるものであるが、症状がよく似ている。
 内向きタイプの愛着障害は、他人に対して無関心、用心深い、イライラしやすく学習に集中できない、学習の伸びが期待できないといった症状がある。
 一方、外向きタイプの愛着障害は、多動で落ち着きがない。これはADHDと症状がよく似ている。それから友達とのトラブルが多く、暴力をふるう。そして人見知りがない。初対面でも相手に寄っていき、人と人の距離感を保てないことが多い。
 私たち医師、そして学校現場でも大きな混乱を招いているのが愛着障害である。また、社会的養護の場でも混乱している。海外の統計によると、社会的養護を受ける子どもの中で愛着障害の有病率は40%に達している。これは社会的養護によって起こるのではなく、施設や里親に預けられた子どもたちの多くに幼少期のマルトリ経験があって、その影響によって愛着障害が起こっているのである。社会的養護施設や里親の苦労を物語る数字とも言える。
 以上、マルトリを受けることで、どのように脳が傷つき、その傷がどのような影響をもたらすのかを紹介した。

3.マルトリを防ぐ方法

(1)ほめること

 では、どういった支援をすればこのプロセスを防ぐことができるのか。脳科学の知見からご紹介する。私が所属している福井大学で得た知見である。
 褒められたり、ご褒美を感じるとき、脳にはドーパミンという神経伝達物質が放出される。これは目標に向けて私たちを動かすエンジンとなるものである。このことは子どもも大人も変わらない。
 私は、愛着障害の子どもはドーパミンが放出されにくくなっているのではないかという仮説を立て、2015年に実証した。愛着障害の子は、意欲・ご褒美への脳活動が弱かったのである。
 具体的には、子どもたちにお小遣いをもらえる簡単なゲームをやってもらい、MRIで脳の活動を調べた。健常群の子どもたちは、お小遣いがもらえるようになると、成功体験でドーパミンが放出される。それに対して、愛着障害の子どもたちは、同様の体験をしても、ほとんどドーパミンが放出されない。お小遣いの額に関係なく、ご褒美に反応する報酬系の脳活動が明らかに低下しているのである。
 こうした研究結果を見ると、愛着障害の子はほめても伝わらないのではないか、難しいのではないかと思われるかもしれない。そうではない。愛着障害の子どもたちの脳が物語っているのは、健常の子以上に褒め育てをしなさい、ということなのである。脳は必ず回復する。もちろん簡単ではないが、根気よく子どもに向き合い、信頼関係を築く。そして愛着関係を再構築することによって、必ず脳は回復するということを語っているのである。
 愛着障害の子どもは、ご褒美を感じる脳の領域の働きが弱いということを申し上げた。この場合、成長して思春期・青年期になると、薬物に手を染めてしまう危険性が出てくる。ご褒美を感じないため、外部から代替しようと薬物を手に入れて気分を高揚させようとするのである。
 どの時期のマルトリ経験で報酬を感じにくい脳になるのか、マルトリの影響を最も受けるのは何歳ごろなのか。という研究を進めた。これを「感受性期」という。
 驚くことに生後1歳ごろにマルトリ(ネグレクトなども含む)を受けると、ご褒美への脳活動が最も低下する脳になり得るということが分かった。
 つまり、妊娠期から出産、乳幼児期と切れ目のない支援が必要であることが、ここからも実証されていると思われる。早期のマルトリを予防することがいかに重要かをご理解いただけるのではないか。
 こうした研究成果を、私も様々な形で発信してきた。「マルトリ(避けたい子育て)が脳の発達に及ぼす影響」、「マルトリのタイプやタイミング(感受性期)との関連性」、「養育環境が社会的発達に及ぼす影響」などを研究してきた。

(2)癒されない傷は回復する

 次に「エピジェネティクス」という知見をご紹介したい。後天的な影響、DNAのスイッチのオンオフが入ってしまうということである。
 マルトリを受けた子どもは、愛情ホルモンと言われるオキシトシン(脳から放出される神経ペプチドホルモン)の受容体遺伝子の一部が同年代の子に比べてメチル化が進む。そうなると脳容積が小さくなるだけでなく、愛着に関わる症状に影響が出ていることが分かってきた。メチル化が進むことで脳の容積も小さくなり、愛着形成に大切な愛情ホルモンのオキシトシンの働きにも影響を与えてしまう。
 さらに、マルトリ経験はメチル化年齢を加速するということも2021年に報告した。マルトリを経験した国内の2歳から9歳までの子ども56名の頬粘膜からDNAを採取して調べたところ、健常な子どもに比べてメチル化年齢が加速していたのである。
 また、オキシトシン遺伝子メチル化と脳活動の関連を調べた研究では、身体的な虐待を受けた重症のマルトリ児は脳の領域で機能的な結合が強くなり、ヒトの顔が視野に入ると、罰を受けるかもしれないと嫌悪学習をして過剰に興奮してしまうことを明らかにした。しかもメチル化が多くなっていることが、過剰な興奮と関連していることも分かった。マルトリが様々な症状、問題行動と結びついていたのである。
 ただし、オランダの研究では、心理治療によってメチル化していたとしても脱メチル化が起こるという報告もある。成人のPTSDの患者に治療を行うことによって、寛解した群で脱メチル化が起こり、回復した(reverse)という。
 これまでお話ししてきたマルトリによる様々な症状も、回復が可能なのである。「癒されない傷は回復する」ということである。これは臨床の現場、私どもの研究からも少しずつ明らかになってきた。

(3)マルトリ児へのケア

 長い間マルトリの環境にいた子の事例がある。マルトリ経験をすると、成長ホルモンの分泌が悪くなり、身体の成長が停滞する。しかし、マルトリを無くし、安定した環境に置かれることで愛着が再形成され、成長の遅れが見事に回復する。小児科医は度々経験することである。
 また、愛着障害の12歳男児の事例である。この男児は実母から様々な虐待を受け、最後は捨てられてしまう。その後、生き別れていた実父に引き取られ、子育てのやり直しを行った。ただ、それがなかなかうまくいかない。例えば、この子がゲームを買ってほしいと言う。実父は、買ってあげるけれども来月の誕生日まで待つように言い聞かせる。しかし、この子は待つことができず、実父に包丁を向けてしまう。そのようにして何度か児童相談所に一時保護され、学校でも問題行動を起こす子であった。
 この子の脳を調べてみると、先ほどのお小遣いに響かない、ドーパミンが出にくい脳になっていた。初めて診察に来た時、父親も疲れ切った様子であった。
 そこで私が最初にやったのは、この父親を褒めることである。大変な子育てを頑張る父親をねぎらった。毎回、父親を「ほめ育て」したのである。実はこの父親は、幼少期に叩かれたことはあっても、褒められたことがなかったという。そのため、どうやって我が子を褒めたらいいのか分からなかったのである。
 私が父親のほめ育てを重ねていくと、徐々に父親の表情が明るくなっていった。そして父親は自信をもって我が子を褒めるようになっていった。学校での問題行動もなくなり、3カ月で薬物治療が終了した。7カ月後に子どもの脳を再検査すると、ドーパミンが出る部位の血流が増加し、回復していたのである。親と子の情緒応答性が見事に回復し、双方向で愛着の再形成がなされたのだと思われる。
 また、生後9カ月で来院した子の事例である。母親がおもちゃを見せても名前を呼んでも振り向かない。アイコンタクトがない。児童相談所からは自閉症の症状ではないかということで紹介された。
 しかし調べてみると、実は祖母から暴言虐待を受けていたことが分かった。不適切な育児を受けていたのである。そこで、この赤ちゃんを虐待の現場から引き離したところ、停滞していた発達が戻ったのである。視線が合わないどころか、笑顔が戻り、発達が急速に進んでいった。
 この事例からも分かるように、マルトリ児へのケアは、安心して生活できる場を確保してあげなければならない。そして愛着の再形成は可能である。非定型発達から定型に回復する。さらに、生活支援・特別の学習支援である。できるだけ個別の学習サポートを行う。また、フラッシュバックへの対応や解離に対する心理的治療を必要に応じて行わなければならない。

(4)子育て困難に対する対策

 私は「マルトリを防ぐ方法」だけではなく、「子育て困難に対する対策」の研究も行っている。「安全な暮らしをつくる新しい公/私空間の構築」養育者支援プロジェクトを進めてきた。2021年3月に大阪での社会実装を完結し、今はそれを全国に展開しているところである。
 就学前の子どもの養育者になることは、臨床域・抑うつ気分を引き起こすリスク因子であることが分かっている。アメリカの研究によると、母親7人中1人が抑うつを呈している。それだけ現代社会では子育て困難が起こり得るということである。
 日本でも養育者(母親)の育児の孤立化、「孤育て」が増加している。少し古いデータだが「子育て支援策等に関する調査」(厚生労働省委託・三菱UFJリサーチ&コンサルティング,2014)によると、「子育ての悩みを相談できる人がいる」は2002年に73.8%であったが、2014年には43.8%に減少している。「子どもを預けられる人がいる」は2002年の57.1%から2014年には27.8%に減少した。
 現代社会は、少子化・核家族化・地域のつながりの希薄化など、養育環境が変化する中で、子育ての悩みを相談できる人が12年間で半分近くに減少した。「子どもを預けられる人がいる」は2002年の57.1%から2014年には27.8%に減少した。待機児童やワンオペ育児に関わる問題である。また、「子を叱ってくれる人がいる」、おせっかいを焼いてくれる人がいるのは46.6%から20.2%に半減した。
 核家族化が進み、家庭の中で完璧な育児をしなければならないという“神話”がまかり通っているのである。そして子育てが孤立化し、閉塞感が増加している。場合によってはマルトリの悪化を招きかねない状況が垣間見られる。
 しかも2020年、COVID-19によるパンデミックが起こった。私たちはいち早く、休校措置と育児ストレスの変化について2020年4月に調査を開始し、6月に論文を発表した。353名の親を対象に調査したものである。
 調査では、休校措置によって親の養育ストレスは有意に増加した。属性別に見ると、女性、母親のほうが父親より養育ストレスが増加している。養育ストレスの中身は、「食事の準備等の家事負担の増加」「一人になる時間の減少」「子どもの学習の遅れへの不安」が休校措置下のストレス源であった。
 厚労省の速報値では、休校措置の期間中にDVが増えていた。虐待、マルトリが増えたということも報告されている。今後、こうした自粛が続く中では、女性(母親)だけに負担させるのではなく、家族・社会で協力し合う必要があるということを、この研究結果から感じさせられる。

(5)「とも育て®」(きょうどう子育て)の必要性

 マルトリ予防には「とも育て®」(きょうどう子育て)が必要である。今の子どもたち、これから生まれてくる子どもたちは、家族だけでなく社会で育てていくという視点が求められる。コロナ禍で祖父母が行き来できないということもある。そのような時は地域の保健センター、児童相談所、仕事の同僚・仲間、ご近所、学校の教諭や幼稚園教諭・保育園の保育士。皆がとも育ての担い手なのである。立役者である。そのような発想が大切である。
 もう一つ。予防的な養育者支援につながるエビデンスを見つけられないかというテーマで研究を行ってきた。そして、とも育て®に重要な社会脳の部位がしっかり働いていると、きょうどう子育てに向かう援助希求ができる。ただ、健康な子育てをやっている母親でも、気分が落ち込むとこの脳の働きが一時的に落ちることが分かった。
 そういう時は周囲に頼ることができない。そうなると家庭での子育てが空回りしたり、さらにストレスが蓄積すると臨床的な抑うつに進行するし、場合によってはマルトリがエスカレートし、虐待が起こることもあり得る。この脳の働きが落ちないように、周囲が早く察知する。つまり、とも育て®を推進して、さらなるストレスが蓄積しないように周囲がマルトリを予防する作業が重要であるということが、脳科学の知見から分かってきたのである。
 また、私はペアレント・トレーニングにも力を入れている。子育て教室である。親が空回りしないように、子どもとの接し方を学ぶ。自分のこころをコントロールできるようになることで、育児ストレスが軽減されるのである。
 安心して過ごせる家庭環境がいかに大切であるかを改めて申し上げたい。
 頑張りすぎなくていい。良い(母)親とは、「ほどほどに良い」親である。完璧である必要はない。子育ての場合、完璧であることは、逆にしばしば重大な問題となることさえある。こうしたことを知らせるために、子育て教室、オンラインによるペアレント・トレーニングなども支援者支援として実践しているところである。
 SDGsのターゲット16.2は子どもに対する虐待など、あらゆる形態の暴力をなくすことを目標に掲げている。
 費用対効果を考えても、マルトリ予防®に向けた社会教育活動の展開が大切である。マルトリが起こった後の再発予防や機能障害予防を考えると、最初に紹介したようにマルトリによってこころの病気など様々な病気で費用がかかる。また長期的影響が多岐にわたるため、分野横断的な予防措置が必要になり、膨大な時間と予算がかかる。

(6)福井大学モデル「マルトリ予防®」の普及活動

 マルトリの発生を予防するアプローチとして、「Universal approach(ポピュレーション・アプローチ)」と「Targeted approach(脆弱な家庭へのアプローチ)」がある。私は現在、社会教育的アプローチとして発生を未然に防止するための予防(ポピュレーション・アプローチ)に取り組んでいる。「みんながいるよ。とも育て®(きょうどう子育て)」でマルトリ予防をしようということである。
 2021年3月、「子ども虐待の低減にむけた養育者を支援する研修・啓発資材の開発」を、大阪の支援者、行政など様々な機関を巻き込んで完成させることができた。「マルトリ予防®」と「とも育て®」を知っていただき、脳科学から育むミライを知っていただくためである。大阪府豊中市保健センター、枚方市保健センター、さらに大阪府こころの健康総合センターなどにご協力をいただいた。大阪府の2都市で社会実装し、全国展開中である。
 そして、「脳科学から考える『マルトリ予防®のすすめ』」というマルトリ予防®のウェブサイト(marutori.jp)を開設した。私の講演動画や支援者のためのガイドブックを掲載している。無料で会員になっていただくと、資料をダウンロードし、どなたでも活用していただくことができる。また一般向けに、マルトリやほめ育てを紹介したチラシなども掲載している。福井大学モデルの「マルトリ予防®」を全国に普及させる活動を行っているところである。
 なぜこのようなおせっかいが必要なのか。ひとえに早期の予防が大切だからである。マルトリ(虐待)の低減には、厳重注意や批判、糾弾といった北風のような対応より、共感や励ましといった太陽のような養育者支援が効果的である。そして、マルトリ予防®やとも育て®の概念を普及して、全ての市民が子どもだけでなく親に対しても寄り添う風潮を作りたい。もしかしたら親も、幼少期にマルトリ経験があったかもしれない。そうした親にも寄り添う風潮を作っていきたい。そして、ほめ育ての連鎖を作っていきたい。私たちが積極的に親をほめる。親は自信を持って我が子をほめる。ママ友同士、パパ友同士で褒めあってもいい。そうして子どもが成長して親になり、我が子を褒める。虐待やマルトリの連鎖ではなく、ほめ育ての連鎖を次の世代に作っていきたい。そういう思いがある。「親が子どもをマルトリする社会のシステムを変える」こと。私はそれが可能だと思っている。
 最後に、今日のメッセージとして3点申し上げたい。
 一つは、マルトリが子どもの脳発達に及ぼす要因として、アタッチメント(愛着)や感受性期が複雑に絡みあうということである。
 二つ目は、「マルトリ予防®」と「とも育て®」はChildren Firstのための最重要課題である。
 三つ目として、子どもの活動依存的な神経回路変化の視点から、「養育者支援」は不可欠である。子どもの脳は回復する。そして大人の脳も回復するというエビデンスが次々に発表されている。養育者支援、親支援は今や欠かせないコンセプトである。

(2021年12月8日に開催されたIPP政策研究会における発題内容を整理して掲載)

政策オピニオン
友田 明美 福井大学子どものこころの発達研究センター教授、センター長
著者プロフィール
熊本大学医学部卒。米国ハーバード大学医学部精神科学教室留学、同大客員助教授、熊本大学大学院小児発達学分野准教授を経て、2011年より福井大学子どものこころの発達研究センター教授、2021年よりセンター長。また、同大学医学部附属病院子どものこころ診療部部長兼任。専門は小児発達学。医学博士。2009-2011年と2017-2019年に日米科学技術協力事業「脳研究」分野グループ共同研究の日本側代表を務める。著書に『子どもの脳を傷つける親たち』、『親の脳を癒やせば子どもの脳は変わる』、『最新脳研究でわかった 子どもの脳を傷つける親がやっていること』、『新版 いやされない傷』、『虐待が脳を変える―脳科学者からのメッセージ』(共著)他。
虐待やネグレクトをはじめ「避けたい子育て」をマルトリートメント(マルトリ)と呼んできた。「親が子どもをマルトリする社会システム」を変え、「ほめ育て」、「とも育て」の連鎖を作っていきたい。

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