保育の量的拡大政策
「0歳児、1歳児は抱っこするな、話しかけるな。活き活きとしたら事故が起きる確率が高くなる」と言う園長がいる。保育の質は、なぜここまで落ちたのか。経済優先の道筋と、そこで失われた信頼関係と親たちの意識の変化が保育や学校現場を追い詰める。
「抱っこするな」の向こうに、経済財政諮問会議の元座長(経済学者)の「0歳児は寝たきりなんだから」という発言がある。子育てを「仕組み」で出来る、生産性向上を目的とした「飼育」くらいにしか考えていない。
2009年、政権が民主党に変わり、「子ども・子育て支援新システム」(後の「子ども・子育て支援新制度」)が発表される。保育者たちが「子育て放棄支援ではないのか」と反発した規制緩和と幼保一体化構想が乳幼児保育の量的拡大を目指して始まり、質を無視した拡大が自民党政権下で続く。
当時、幼保一体化ワーキングチームの座長を務めていた発達心理学者が『保育の友』という雑誌で述べている。「これまで親が第一義的責任を担い、それが果たせない時に社会(保育所)が代わりにと考えられてきましたが、その順番を変えたのです」。種の存続に関わる、親の第一義的責任を定めた幼稚園教育要領と教育基本法、および子どもの権利条約を否定する発言だった。
「抱っこするな」(現場)と「寝たきりなんだから」(経済界)の間に、当時の厚労大臣(政治家)の「子育ては、専門家に任せておけばいいのよ」という発言があった。「専門家」の質を低下させる施策を進めておいて、破綻した論理の犠牲になるのは幼児たちなのだ。保育は「資格」があれば出来るものではない。幼児たちは、周りの人間たちの「人間性」を問い、存在する。
保育という仕組みに第一義的役割を負わせることで保育崩壊が進み、並行して0歳児を長時間預けることに躊躇しない親が増えていった。しかし「仕組み」は、食い違う子どもたちと親たちのニーズに応えることはできない。
流れの中心に、待機児童が2万人だったにもかかわらず、「あと40万人保育園で預かれば女性が輝く」という首相の発言と、「保育分野は、『制度の設計次第で巨大な新市場として成長の原動力になり得る分野』」という保育を成長産業とみなす閣議決定がある(「日本再興戦略」:平成25年6月14日閣議決定)。
保育士不足と適性の問題
国の配置基準では保育士1人に0歳児は3人、1〜2歳児で6人、4〜5歳児で30人。乳児を増やせば当然保育士不足に拍車がかかる。募集倍率が出なければ人柄で保育士を選び難くなる。乳幼児保育は教育とは違い家庭的役割が求められる。子どもを包み込む温かな空気感、保育士たちの人間性が問われるのだが、不適格な人材を外すことが難しくなっていった。
政府は保育士不足を補うため潜在保育士を「掘り起こせ」と言う。倍率が出る地方公務員として採用されても、児童館など直接幼児と関わらない部署に「埋められる」保育士はいる。掘り起こせば保育室から健全な空気が失われ、1人の良くない保育士が、いい保育士たちを「保育士辞めるか、良心捨てるか」という状況に追い込む。乳幼児たちから信頼されるということはそういうことなのだ。
2014年、子ども・子育て会議は11時間保育を「保育標準時間」と定め8時間勤務の保育士に負わせた。担当が日に1度必ず交代し、交代要員は無資格者でも可とされた。政府が保育園に、親身になるな、親たちは子どもの過ごした1日を知る必要はない、と言っているに等しい。「この人に預ける」が「仕組みに預ける」という意識に変わっていった。
2021年に国は「短時間勤務の保育士の活躍促進」(新子育て安心プラン)で、各クラスに常勤保育士を1名配置する要件をなくし、2名の短時間勤務の保育士で代えられるとした。パートでつないでいいと規制緩和をし、一方で、多く預かる街が「子育てしやすい街」という奇妙な図式が首長の公約を介して定着する。「第一義的責任」が国の施策によって宙に浮いていった。
幼児にとって保育の質は保育士の「心(人間性)」という視点が政策にない。それが学級崩壊やいじめ、不登校に繋がり教師たちの負担が限界に近づいている。
保育士による虐待
2014年、千葉市で保育士が2歳の女の子の頭を叩いたり、食事を無理矢理口に詰め込んだりし警察に逮捕された。「食べろって言ってんだよ」と脅したという(NHK ONLINE、2014年7月)。
保育士の虐待は昔からある。問題なのは施設長が警察の取り調べに、「保育士が不足する中、辞められたら困ると思い、強く注意できなかった」と述べたこと。全国に報道されたこの証言で、個人の資質の問題が、国の政治姿勢の問題に変容する。学校で教師が児童虐待を繰り返して逮捕され、校長が「教員不足のおり、辞められたら困るので注意できなかった」と答えたら大問題になる。相手が2歳以下で、経済活動に必要な仕組みで起こると対策が取られないどころか、政府は待機児解消の名の下に保育士不足、保育士争奪に拍車をかけていった。3年後「保育園落ちた、日本死ね!」という発言が、もっと預かれという論旨で国会に取り上げられる。乳児が親と過ごす権利、「保育園落ちた、万歳!」と子どもが思う可能性、悪い保育士を排除できない現実については議論されなかった。
15年前、実習先で保育士の虐待を見たか、三つの養成校で学生に質問すると半数が見たと言う。保育士になる気がなくなる園が三つある、と先輩から申し送りされている大学もあった。実習生を受け入れる園の半数に虐待がある。受け入れない園では、と想像すると恐ろしい状況が見えてくる。他の子どもが虐待されている様子を見る子どもたちが相当数いるのだ。強者が弱者を威圧し配慮に欠ける仕打ちを繰り返す姿を数年見て育った子どもたちがやがて学校に入り社会人になり親になる。幼児期のトラウマは社会全体のモラルや秩序に影響し続ける。
教授たちは状況を知りながら、警告すれば実習生の受け入れ先が減り資格ビジネスが成り立たなくなる、と沈黙している。「資格」を囲む状況が矛盾を抱え破綻している。(保育崩壊の過程と、その意味を新著『ママがいい!』に書いた。多くの人に知ってほしい。)
政府の意図と親の意識
この状況を親たちが知らない。知ろうとしない。「安心して子育てができる環境づくり」という政府の言葉を鵜呑みにし、ますます預けるようになっていく。政府は女性を労働市場に駆り立て、その「壁」である子どもは保育園に預けるというメッセージを言い続け、保育のサービス産業化が進む。
2014年、厚労省は2歳未満児を対象に、短期間児童養護施設を利用する「子どもショートステイ」を薦めた。「育児疲れ、冠婚葬祭でもOK、二歳未満児一泊五千円、二千五百円、一回七日まで、子育て応援券、使えます」というチラシが幼稚園でも配られた。様々な事情を抱える児童がいる養護施設に、慣らし保育なしに突然7日預けられることが2歳未満児にどれほどの負担になるか。施設の子どもたちや職員にもその負担は及ぶのだ。ネグレクト、児童虐待と思えることを国が若い親たちに「受け皿」を作って薦める。
母子分離の流れにマスコミが追い打ちをかける。新聞に載った民間の調査に、「子育ても大事だけど、自分の人生も大切にしたい」と思うか否かを聞く恣意的な質問があった。「子育てをしていては、自分の人生を大切にできない」なら人類はとっくに滅んでいる。
保育士たちは悩み続けてきた。5日間いい保育をしても、月曜日、また噛みつくようになって戻ってくる。やっとお尻が綺麗になったのに、また真っ赤にして戻ってくる。48時間オムツを一度も替えない親を作りだしているのは自分たちではないか、と。最近言われる子どもの貧困は、親らしさの貧困なのだ。
以前は慣らし保育の時に園長から「あなたがいい親だから(子どもが「ママがいい!」と)叫んでいるんだよ。本当に預けてもいいのかい」と言われ、気づく親もいた。今、園長がそう言えば役所にクレームが行くのだ。子どもを共に育てている人間たちの心が一つにならない。0、1歳児を預けることを親たちに薦め、子育てがイライラの原因であるかのように国が宣伝した結果、人間が互いを生かし合わない。子育て放棄が増え、保育界がバラバラにされ修復不可能な状況になっている。
0歳児は喋れないし、歩けない。しかし私たちがいれば言葉を話し歩けるようになる。その過程に「ママがいい!」という言葉がある。それは人類の勲章であり利他という道筋への誘いだった。
愛着は市場原理と相反する
ユニセフの『世界子ども白書2001』に、3歳までの親や家族との経験や対話が、後の学校での成績、青年期や成人期の性格を左右するとある。WHO(世界保健機関)は、「人生最初の1000日間」がその時期に最も発達する人間の脳にとっていかに大切かを強調する。30年前にフランス議会が「両親が共働きになったとして、子どもの発達は大丈夫なのか」と問題提起した時、世界乳幼児精神保健学会は「ビジネスの原理では子どもは育たない」と警告した。
「アイデンティティー」の研究で知られる発達心理学者エリクソンは、乳児期に「世界は信じることができるか」という疑問に答えるのが母親であり、体験としての授乳があるという。それが欠けることで将来起こりうる病理として、精神病、うつ病を指摘する。子どもは一対一の人間関係の中で「人を信頼する」能力を身につけていく。
保育園では担当が毎日毎年交代する、愛着の継続性が不可能な仕組みなのだ。最近小1プロブレムや学級崩壊などを就学前の保育における「教育」(という名のしつけ)で解決しようとする動きがあるが、愛着関係が土台にあってこその教育。逼迫した保育現場で適性のない保育士に「しつけ」られた子どもは、4、5年生くらいに「キレる」という。義務教育に必要なのは親や家族(特定の人間)との継続的安定的な関係なのだ。3歳までの脳の発達は子どもの一生を左右する。だからこそ日本も批准している「児童の権利条約」に親(特定の人)を知り、その人と十分な時間を過ごすことの大切さが「権利」として挙げられている。
2017年、「新しい経済政策パッケージ」で「人づくり革命」と「生産性革命」が少子化対策の両輪と打ち出された。「人づくり」と「生産性」を重ねることに意図が現れる。だが、子育ては市場原理とは相いれない。保育を成長産業と見なすことで、抱っこするなという園長さえ現れている時に、人間性を無視した「人づくり革命」で一体どんな人間をつくるのか。乳幼児期に体験した扱いや虐待の影響は教育で消せるものではないのだ。弱者の権利が、強者の「利権(りけん)」の陰で蔑ろにされている。
子育てと保育の立て直し
0〜2歳児の保育をやめることは不可能だが、少なくとも政府が奨めるべきではない。保育界は受けきれない。これ以上質を落とす規制緩和をせず、乳幼児期の愛着関係の重要性について情報として親たちに入園時に知らせるべきだ。高校の家庭科の授業で教えてもいい。子育ては、経済的成功以上に幸福の証になってきたのだと。
家庭で子育てする一家には給付金を支給するという手段もある。始めた自治体もある。0、1歳児に使う税金を直接給付(応援券?)で親に渡す。保育園や児童館に併設した子育て支援センターに週3回、午前中通うことで孤立化を避ける。月々7万円くらいは出せる。それだけ支給すれば、自分で育てる親はまだ8割くらいはいるだろう。保育士不足は緩和される。
親の一日保育者体験がいい。ある保育園で、渋々参加した父親がお昼寝の時間に、息子の背中をトントン叩いて寝かしつけていた。すると、息子が小さな声で「おとうさん、ありがとう」と言った。父親の目に涙が溢れる。父親が自分自身を体験し、育っていく。帰り際、園長に、「やって良かった、やって良かった」と繰り返したそうだ。
子育ては親が自分の善性に気づき、利他の喜びを知り、夫婦が信頼関係を構築するためにあった。生かしあい共鳴することを園児たちが男たちに教えれば、「自立」という概念とは対照的な真の「強さ」が社会に満ちてくる。1人ずつ年に1日、全県で取り組んでいる自治体もあって、年に100日親の目が入ることで園における虐待防止にもなる。いつでも親に見せられる保育をする、それが条件でなければ保育における信頼関係を取り戻すことはできない。
児童福祉法で義務付けられていた保育園の現地監査が規制緩和されるという。世界の情勢を見れば、半数近くの子どもが未婚の母から生まれ、実の両親が揃って育てられる子どもが半数を切っている欧米に比べ調和を生む条件が最も揃っているこの国で、政府は一体何をやっているのか。「こども家庭庁」など推して知るべし。やったふり、隠れ蓑にならないことを祈る。
子どもと乳幼児の触れ合い
学校に通う子どもたちにも保育者体験が良い。「頼り切って、信じ切って、幸せそう」な人たちに混じることで、「自立」や「自己実現」などという競争社会に引き込む「罠」のような言葉には騙されなくなる。一番幸せそうな人たちが自立していない。信じ、頼らなければ生きていけない。そこに人類を持続可能にする美しい仕掛けがある。人生の質は、どれほど弱者に愛されたか気づくことで決まる。親が子に愛され、その確かさに感謝する。子どもたちは「信じること」が生きる力だと遺伝子のレベルで見極める。生きる力は、自立することではない。信頼の連鎖に身を置くこと。
いまの学校教育は、若者たちに生きるために必要な「哲学」を伝えきれていない。
保育体験に行く中学2年生に「幼児たちがあなたたちを育ててくれます」と授業で説明し一緒について行った。生徒が男女2人ずつ4人一組になり4歳児を2人ずつ受け持つ。世話をする人が幼児の倍の数、この組み合わせがよい。両親と子どものような関係になる。絵本を読んだり、ぴょんぴょんカエルをつくったりして1時間過ごす。
見ていると、男子はいきいきと子どもに還り、女子は母の顔、姉の顔になって輝く。保育士にしたら最高の、幼児に好かれる人になる。中学生たちが自分が「いい人」になっていることに気づく。男女が互いに根っこのところでは「いい人」だと感じる。そして本当の男女共同参画社会が生まれる。政府が進めているのは男女共同参画「競争」社会で、しかもそのために幼児を犠牲にしているのだから、真の「社会」とは言えない。
帰り際、幼児たちから「行かないでー!」と声が上がる。中学生たちが泣きそうになる。駆け引きをしない人たちからの人気は本物の人気で、大自然からのお墨付き。生きているだけで喜ばれるという実感が中学生たちの「生きる力」になる。
家庭科の時間を使い赤ちゃんやお母さんと触れ合うのもいい。「出産は大変だったけど、感動しました」「未熟児で危なかったんです」と語る母の優しさ、人間の弱さ、そして強さ、絆の原点を学ぶ。グループで触れ合う時間となり、中学生のところに赤ちゃんがくる。お母さんが「抱いてみて」と赤ちゃんを渡す。中学生が恐る恐る、しかし嬉しそうに抱っこする。お母さんは中学生を信じて大事な赤ちゃんを手渡した。信じてもらった中学生が誇らしげに友達を見る。何か不思議なものと一体になった自分を感じる。その一体感こそが「社会」なのだ。
こういうことを重ねていけば、10年後に親になるかもしれない人たちが、幼児と一緒にいることに特別な価値や充実感を見出してくれる。信頼の輪、伝承すべき物語がつながっていく。
子育ては信頼関係の源
0〜2歳児は預けないほうがよいと言うと、「子育てを女性に押し付けるんですか?」と非難めいた質問をする人がいた。その質問が、「子育てを男性に押し付け返しましょう」という方向に向かうのであれば素晴らしい。しかしその先に、子育てを制度でやればいい、専門家に任せればいい、そうすれば男女平等に子育てから解放されるという意識があるから困る。パワーゲームの裏返しのような「平等論」を「進歩」と言う学者さえいるのだ。保育崩壊を止め、子どもたちが安心して育つためには、哺乳類である限り性的役割分担は不可欠、そこから目をそらすことはできない。男女(ジェンダー)は相対的発達障害の典型で互いを必要とし欠陥を補う。こういう当たり前のことが言えなくなったのは、「機会の平等」という点で男女間に不公平があり過ぎたこと、経済優先になるほどそれが顕わになってきたことが要因だと思う。男たちは反省しなければならない。許してもらえないかもしれないが、かと言って男女の対立を煽る論争を続けていると子どもたちの安心が犠牲になる。男が荒れ、無責任になる。アメリカで少女の5人に1人、少年の7人に1人が近親相姦の犠牲になり加害者のほとんどが男性。最近話題になった「仏 ローマ・カトリック教会 聖職者による性的虐待 21万人超=NHKニュースウェブ」もまた地位を得た男性による。
本来、子育ては、弱者を可愛がり、寄り添うことで社会に信頼関係と絆を育てる「喜び」だったはず。子育てに不安を感じるのは子どもに関心があるからで、いい親だという証拠でもある。いい親になりたいと思った瞬間その親はいい親なのだ。結果で計るものではない。結果を求め正解を探せば子育てが学問の領域に入っていく。その危険性については新著に詳しく書いた。ぜひ、読んでもらいたい。絆で子育ての不安を解消しようとすることが温かい社会をつくる。子育ての過程で親身な絆と忍耐力がどう社会に満ちるかが、安定した社会を形成する上で大切なのだ。他人の子どもにも責任があると感じ、社会は鎮まる。
人間は乳児とのコミュニケーションを数年体験し、祈りの次元でつながる能力を得る。弱者の生死をかけて身につけるその能力が「社会性」を生み出す。だからこそ、人生の流れの中で乳児と過ごす時間をこの規模で意図的に飛び越すことは、未体験で危険な試みなのだ。幼児たちが利他という「幸せの見つけ方」を親たちに教える。そこからもう一度耕していくのが一番自然な営みだと思う。