現代の幸福論 ―人のつながり・家族・社会の視点から―

現代の幸福論 ―人のつながり・家族・社会の視点から―

2022年1月21日
ウェルビーイングを扱う意義

 幸福とは、古来より人類共通で追求されてきたものである。しばしば幸福は個人のものと考えられがちだが、社会全体の幸福と相互に影響し合うと考えられる。個人の幸福と同時に社会の幸福を考えることが、まわりまわって個人の幸福につながることを論じてみたい。
 幸福を表す概念でよく用いられるものには、ハピネス(happiness)とウェルビーイング(well-being)がある。私は、幅広い意味を包摂できるウェルビーイングを主な研究テーマとしてきた。なぜかと言えば、幸福は個人で完結するものではないからである。個人の幸せが周囲に伝播することもある。また、自分の幸せだけを考える人は実際にはあまりおらず、家族や友人など周囲の人の幸せを祈ったり、そのために活動したりする人が多い。さらには、自分の住む街や国、ひいては地球環境全体をより良い状態にするにはどうしたらよいかを考えることもある。ウェルビーイングは、そうしたより大きな範囲に関わる意思決定の材料となりうる概念である。そのため、測定したり、その要因について知っておいたりすることに意義がある。本稿でも、ウェルビーイングの意味で幸福という語を用いる。

幸福の文化差

 近年、ウェルビーイングを政策課題として見る動きが出てきた。ブータンやニュージーランドなどで具体的な政策判断に取り入れているし、日本でも教育や環境などの分野で重要な考慮事項になってきている。
 政策課題としての幸福に注目が集まると、次は幸福を増進するために何をすればよいのかが関心事となる。しかし、幸福の概念は単純なものではなく、社会・文化によってとらえ方や達成の方法に違いがある。
 北米では個人が幸せになることが重視され、1980年代から幸福な個人とはどのような人物なのかが盛んに研究された。その結果は、健康で、良い教育を受けており、収入が多く、楽観的な性格で、自尊心が安定している人が幸福であるというものだった。アメリカでは、一人ひとり幸福を追求する権利があり、選択の自由があると信じられている。自由に選び取った道に自分で投資し、競争の中でもまれ、上手く成功すれば寄付などをして社会に還元していく。そういう流れが社会を豊かにするという強い信念がある。ただし、選択肢や資源の限られた人々が幸福を追求することは容易ではない。アメリカの幸福観は、かなり獲得的なものだと言える。
 こうした幸福観は日本的幸福にはあまりフィットしない。日本で調査を行うと、人生では7割が良いことで、3割は悪いことがあるくらいがちょうど良いという感覚がある。また、良くも悪くも他者とのバランスを重視し、自分だけが幸せになることに引け目を感じる人が多い。それが転じて、人並みの幸せを手に入れればそれで良いということになりやすい。競争を経て獲得するというより、まわりまわって自分にも幸福がやってくるという信念がある。そのように、日本では「協調的な幸福観」が主なのである。
 そのため、日本の幸福感を北米的な幸福感尺度で測ろうとすると上手くいかない。世界各国でよく使われる「人生の満足感尺度」では、「大体において、私の人生は理想に近いものである」とか、「望んできたものは手に入れてきた」といった質問で幸福感を測る。そして、日本の大学生にこの尺度に答えてもらおうとすると、「20歳前後でこのような人生を集大成したかのような質問には答えられない」という反応が返ってくる。この尺度では、日本や韓国の幸福感は欧米に比べて低くなってしまう。

幸福の測定

 そういう中で、日本の幸福感を測定するために、調査や聞き取りに基づいて作成したのが、「人並み・協調的幸福」という尺度である。質問には、例えば「自分だけでなく、身近なまわりの人も楽しい気持ちでいると思う」、「まわりの人たちと同じくらい幸せだと思う」などの項目を含んでいる。
 この協調的幸福尺度を使うと、日本だけでなく、色々な国で同じくらいの水準の結果がでる。つまり、協調的な幸福感は色々な社会で理解されているが、従来の幸福感の定義では見落とされていたと言える。幸福を測定するならば、それぞれの幸福観の強みと弱み、価値観を理解して、幸福に関する共通理解をアップデートしていくことが必要だと言えよう。

個人の幸福と場の幸福の関係

 協調的な幸福感に表れているように、自分の幸福と周りの幸福の関係は切り離せない。例えば、職場で誰かが少しため息をつけば、それが周囲の同僚にも影響を与え、職場全体を暗い雰囲気にしてしまうということはよくある。逆に、自分が生き生きと働くことが職場の雰囲気を良くすることもある。自分の状態は、自分が思っている以上に他者に影響を与えている。日本ではこの循環関係はとくに強い。
 しかし、個人と社会、二つの幸福を全く関係ないものと考えている人は多い。幸せは自分の問題で、例えば政府に口を出される筋合いはないとか、社会の構造は社会が勝手に考えることだと思われることもある。
 この認識は変えていく必要がある。個人の幸福と社会の幸福は互いが互いを規定しており、時々コンフリクトを生じる。個人は自由にしたいが、社会は規制をかけなければならない。個人は自己実現したいが、全員が実現することはできず、自ずと格差が生じる。そして、個人は自分の権利を十全に保障してほしいが、社会は個人に義務的なことも果たしてもらわなければ維持できない。個人の幸福と社会の幸福のバランスは、どちらが強くなってもただのコンフリクトになってしまう。ちょうど良いバランスを考える必要がある。
 その際、しばしば積み上げ式に個人と社会のいずれかの幸福を優先し、残ったほうの幸福を後で考えようという議論が行われることがある。だが、私はこの二つを同時に考えてこそ、良いバランスを達成できると思っている。

多様性と開放性

 では、個人の幸福と場の幸福の良好な循環関係を支えているものは何だろうか。それは、多様性と開放性である。まず、色々な人の意見が存在できるという点が重要である。そして、多様性が成り立つためには、開放性が必要である。人々が一つの集団に縛られていると、ネガティブなループに陥りやすい。特に日本人は、迷惑をかけたくない、あるいは他者にどう思われるかを恐れる思いから、新しい意見を言わないでおこうという気持ちになりやすい。そうしているうちに皆が黙り込んでしまい、場全体の生産性や創造性も低くなる。その結果として成果が出なくなり、個人にも跳ね返ってくる。
 一方、人々が様々な場に出入りして、新しい知見を得てくることを繰り返していると、それぞれに居場所もでき、狭い集団における評価を気にしなくなる。後で触れるが、学校も閉鎖空間になりやすい。閉鎖的な学校において最もまずいのは、子供が自分のクラスで評価が下がると、もうそこにはいられない、という追い詰められ方をすることである。今話題になっているサードプレイス等の開放的な仕組みがこれから重要になってくるだろう。

ウェルビーイングを支える要素

 幸福の循環を支える多様性と開放性の重要性を裏付ける調査も存在する。科学技術振興機構(JST)の社会技術研究開発センター(RISTEX)が実施する「地域の幸福の多面的側面の測定と持続可能な多世代共創社会に向けての実践的フィードバック」というプロジェクトを2015年より5か年にわたり実施した。このプロジェクトでは、100世帯程度の集落レベルを調査対象とし、開放的コミュニティのあり方や、住民のウェルビーイングを支える要因について分析した。
 この調査からまず見えてきたのは、地域の人々のウェルビーイングが、人々の向社会的行動および社会関係資本と相互に高め合っているということであった。向社会的行動とは、地域の人や地域社会に対して主体的に提案を行ったり、祭りやPTA活動など地域への貢献活動を行ったりして、コミュニティにおける役割意識を持っていることを指す。また、そのことに前向きな感情を持っていることも含んでいる。そして、社会関係資本とは、地域の中にどれくらい信頼できる人がいるか、サポートを求めることができるか、あるいは持ちつ持たれつの感覚があるか、ということを表している。向社会的行動、社会関係資本が高い地域では、住民のウェルビーイングが高まり、それがさらなる向社会的行動と社会関係資本の形成を促すという循環関係があったと考えられる。
 ただ、仮説設定の段階では、これら三要素に循環関係があっても、外部に対して排他的になってしまう「自分たちさえよければよい」という地域は存在するのではないかというネガティブな意見があった。
 そこで、実際に調査したところ浮かび上がってきたのが、多様性と開放性の重要さである。本当の意味でうまくいっている地域では、予想とは異なり、地域外の人や、地域内でも年齢や職業、性別が違う人に対して寛容な空気があった。逆に、多様性と開放性に問題があると、自分達の中だけで評価懸念を抱き、新しい提案などが出てこなくなったり、先例主義に陥ったりする。新しいものが吹き込んでいくことにより、次世代のために何かしようという気持ちや、自分達の地域から良いものを発信したいという気持ちが生まれてくることが分かった。

橋渡し型の社会関係資本

 ここから見えてくるのは、社会関係資本の多様性が大切だということである。定義としては、社会関係資本には結束型と橋渡し型という二種類がある。結束型は集団の内側における信頼関係で、橋渡し型は自分とは違う集団に属する人との開放的な信頼関係を指す。RISTEXのプロジェクトからは、両方の型の社会関係資本が重要だということが言える。
 特に、橋渡し型の社会関係資本に支えられた開放的な社会づくりは、今後の日本のウェルビーイングにとって重要である。というのも、結束型が行き過ぎて同調圧力になると、地域社会は大変生きづらい場になりかねないからである。岡檀氏は著書(『生き心地の良い町』)で、自殺率がとても低い徳島県海部町(現海陽町)は、自殺率の高い同規模の町よりも開放的であることを紹介している。海部町の人々は、比較対象の町より見知らぬ相手に信頼感を抱きやすく、人間関係の風通しが良かった。それが「生き心地のよさ」に繋がっていると結論されている。
 要するに、地域の幸福を実現するためには、自分の幸せが周りにも上手くつながる状態が大切で、幸福の相互性に気づくことが肝要だということである。その相互性を維持するためには社会関係資本が重要であるが、結束型だけだと規範的な縛りに陥りやすい。結束型と橋渡し型の両方をもち、寛容さと開放性を備えた地域とすることが大切と言える。

教育におけるウェルビーイング

 多様性と開放性は教育環境においても重要である。私は、子供たちだけでなく地域全体で学校に関わっていくことが重要であると考えている。
 今の日本の教育現場では、大きな課題がある。子供たちは内向きになり、ウェルビーイングや自尊心は低下していることも多い。また、先に述べた幸福の循環という観点から見ると、今の学校は開放性に欠け、ネガティブループが発生しやすくなっている。通っている子供もしんどい。先生もしんどい。お互いのしんどさが伝播し合って、学校が「なんとなくしんどい」場になってしまっている。
 私は、次世代の育成やウェルビーイングについて考えることは社会全体の課題だと思う。しかし、社会全体でそういう考えが共有されているわけではない。例えば、子育てを終えた人や、学校教育から離れている人の中には、自分は教育や学校には関係ないと思っている人も多い。
 本来の学校は、子供たちだけでなく、学校教育と直接関係ない人にとっても、ウェルビーイングを高めるポテンシャルを持っている場である。例えば、子供たちの通学の安全を確保するために、道を整備したり交通状況を見直したりすれば、結果として地域の交通安全が増進される。また、学校は、様々な文化芸術活動に触れる場となったり、放課後教室や見守り活動を通じて多世代が関わったりする拠点となりうる。小学校が廃校となった地域では、そうした地域活動の拠点としての学校を失うことに大きな喪失感を抱いていた。
 だからこそ、地域全体で学校に関わり、次世代の教育やウェルビーイングについて考えていくことは重要である。従来から、学校教育を通じて、個人は様々なスキルやレジリエンス、社会貢献力などを養うことが想定されてきた。それに加えて、今後は学校がもたらす地域や社会といった場のウェルビーイングを考える視点も重要である。
 上手くいっている学校には様々な人の目が入っていくので、前述のサードプレイスのようなものが派生していくこともあり、子供たちが閉鎖性を感じずに済むようになる。あるいは、先生たちが時には地域の人の手を借りることで、先生たちのウェルビーイングも守ることができるだろう。学校には、様々な人のウェルビーイングを高める潜在的力がある。

家庭におけるウェルビーイング

 もう一つ、個人と学校を結ぶ場として、家庭におけるウェルビーイングを考える必要がある。従来は働くことが第一で、子供や家族のウェルビーイングを考えるにあたり、各自が役割を果たすという以上のことは考えてこられなかった。それが、現代では働き方の多様化を背景に、子供の有無、どれくらい忙しいか、親と同居しているかなど、それぞれの家庭生活の多様さが顕在化しうる時代になった。たとえ一人暮らしであっても、家で過ごす時間や離れた家族と話をする時間は個人のウェルビーイングと関わる。今後、働き方の多様化と共に、個人のウェルビーイングが職場や地域のウェルビーイングに与える影響が強くなっていくのではないか。男性の育休取得など、多様な家庭状況を支援し、家庭と地域の連携を進める必要がある。
 しかし、現在の日本では、働き方が多様化したのに人々の意識は固定化されているというアンバランスがある。スローガンとして家族との連帯感、地域活動への参加、持ちつ持たれつの寛容な関係が重要ということは認識されるようになってきた。一方で、「この仕事は今しかできない」という意識や、仕事への専念に対する上司の期待などを気にしてしまい、「迷惑をかけたくない」という感覚から仕事を優先するという行動様式が根深く存在する。結果として、他罰的な雰囲気が出来上がり、個人のウェルビーイングと場のウェルビーイングのコンフリクトはなかなか解消されていない。日本のウェルビーイングを考える上で、これが一番厄介な問題である。

日本社会における社会変化と幸福

 近年の日本社会では、グローバル化の影響により個人主義的な傾向が増加している。自分のことは自分でやるから放っておいてほしい、自分のやりたいことを優先するという考えも強くなってきた。
 日本文化は関係性を指向する「協調性」の価値観を土台としており、その上に、グローバル化の影響で欧米から個人やユニークさを重視する「独立性」の価値観を取り入れた。それゆえ、私は近年の日本における価値観の混在状況を「二階建てモデル」と呼んでいる。一階にあたる「協調性」の価値観のもとでは、個人は他者との協調的な関係を重視し、自分のウェルビーイングを多少犠牲にしても周囲のために努力するようふるまってきた。一方、二階にあたる「独立性」の価値観のもとでは、個人のウェルビーイングを追求することが優先されやすい。「独立性」の価値観の普及にともない、公平な競争や成果主義による平等な報酬、自分だけが追求できる喜びなどが価値視されるようになった。
 近年の日本社会では、こうした個人の「独立性」と、従来からある人間関係の和を重視する「協調性」のバランスが上手く取れない傾向にある。「協調性」を重視する立場からすると、「独立性」が強い振る舞いは身勝手に見え、「独立性」を重視する立場からすると、「協調性」を強調する考えは同調圧力に見えるようである。
 今の日本では、独立性が大切で、公平に多様な生き方を認め、同調圧力から解放されるために協調性をやめてしまおうという考えが強まっている。確かに、「協調性」を過剰に強調することは、多様性と開放性を狭めることがある。しかし、本当は「独立性」と「協調性」それぞれの良いところを生かしていくことが大切である。日本の協調型社会には良いところも多くある。身近な集団内で信頼関係を築けてこそ、多様な人や新しい考え方を受容できる部分もある。縛りや同調圧力にならないように多様性・開放性を生かしながら、人々の独立性を支えられる社会を形成できたらよい。それができれば、人々のウェルビーイングを良い形で循環させることができるのではないだろうか。

IPP政策研究会(主催=平和政策研究所、2021年11月18日)発表より

政策オピニオン
内田 由紀子 京都大学こころの未来研究センター教授
著者プロフィール
京都大学教育学部卒。同大学院人間・環境学研究科博士課程修了。博士(人間・環境学)。ミシガン大学客員研究員、スタンフォード大学心理学部客員研究員、甲子園大学講師、京都大学こころの未来研究センター准教授を経て、現職。専門は文化心理学・社会心理学。スタンフォード大学フェロー、文部科学省「中央教育審議会」委員、内閣府「幸福度に関する研究会」委員等を務める。著書に『これからの幸福について』、『「ひきこもり」考』(共著)、『文化を実験する:社会行動の文化・制度的基盤』(分担執筆)、『女性研究者とワークライフバランス』(分担執筆)他。
個人の幸福は、自分が思った以上に周囲に伝わる。逆に、個人の幸福は社会全体の幸福の状況から影響を受ける。個人の幸福を支えるためには、風通しが良く、寛容な社会を構築していくことが大切である。

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