これからの教育を充実させる「体験活動」の可能性  ―「教えられること」と「教えられないこと」を考える―

これからの教育を充実させる「体験活動」の可能性 ―「教えられること」と「教えられないこと」を考える―

2022年1月21日
「早寝早起き朝ごはん」リズムの効用

 子どもたちの生活習慣の向上を目指した「早寝早起き朝ごはん」運動が始まって15年が経過した。継続した運動として国民運動になりつつあるが、実際にどこまで効果があるのかという点は、明確にはされていなかった。
 そこで、「早寝早起き朝ごはん」全国協議会が、20歳以上の青年世代を対象に幼少期の生活リズムと現在の状況などを調査した。私も参加して今年3月に報告書をまとめた(「『早寝早起き朝ごはん』の効果に関する調査研究報告書」)。
 調査で明らかになったことのうち、ここでは三つの効果をあげたい。
 一つは、「早寝早起き朝ごはん」の生活習慣があった人は、成人してからも自立して元気だということである。「元気」の意味は、何事にも意欲があり、規範意識も高く、仕事も比較的順調で、自己肯定感も高いということである。
 二つ目は、より興味深かったことだが、「早寝早起き朝ごはん」の実践をしていた人は、家庭の経済状況に関係なく元気だということだ。従来の研究では、経済格差が学力格差を生むことが示されてきたが、今回の調査では家庭の経済格差に関わらず、「早寝早起き朝ごはん」の生活習慣があった子どもは自立した人間に成長していることが明らかになった。これは今回の研究の大きな成果であると思う。
 三つ目が、これは意外だったのだが、朝の活動(朝活)をしていた子どもは、やはり自立して元気な大人になっているのである。ラジオ体操でも散歩でもお手伝いでも、あるいは宿題でもいい。早起きをして、学校に行く前に10分から15分の朝活をしていた子どもほど、成長していた。
 かつての子どもたちは早起きだったから、朝活が当たり前であった。手伝いをしたり、キャッチボールをしたり、読書をしていた。今回、朝活の重要性が浮き彫りになったわけである。もう一度、朝活を見直すことが必要ではないかと考える。
 今は忙しい子どもたちが増えた。それと共に、子どもたちの放課後が消えた。例えば、30年前の小学生の歩数は1日に2万数千歩、今の小学生は約9千歩である。行動半径が狭まり、運動をしないから体力は低下する。他人と関わる機会が減少し、独りぼっちの子どもが増えてきた。
 また、家庭の経済格差による学力格差が問題になるのはある意味で分かりやすいが、一方に見えにくい格差として体験格差も生じている。この格差を改善し、経済の差に関係なく取り組めるのが「早寝早起き朝ごはん」運動である。
 こうした点からも、生活リズムを立て直す「早寝早起き朝ごはん」運動を推奨したいのである。

急がれるナナメの関係の構築

 さて、今の子どもたちに足りないものは何か。人間関係には「縦(タテ)」「横(ヨコ)」「斜め(ナナメ)」の関係がある。縦の関係は親子関係や教師と生徒の関係である。家庭教育、学校教育はこの関係の上に成り立っている。また、横の関係には友人関係がある。
 一方で、最近は斜めの関係が消えている。この点を指摘する声は少ない。
 斜めの関係は第三者が入り得るのが特徴である。縦と横の関係は非常に濃密であり、不登校の子どもの場合、縦か横の関係がうまくいっていない可能性が高い。斜めの関係があれば、そこが居場所になる。最も身近な斜めの関係は、いとこである。今の子どもたちには、いとこがいない。また、かつて子ども会やボーイスカウト、ガールスカウトなどの青少年団体が元気なころは斜めの関係があった。これが放課後である。
 地域社会で子ども会が消え、放課後がなくなって、異年齢の関係が消えた。コミュニケーション能力や人間関係能力がないというのは、斜めの関係を幼児期、児童期に体験していないために不適応を起こしやすいということである。
 特にコロナ禍で斜めの関係がほとんどなく、現状は小学校5、6年で学校が楽しくないという子が増えた、というデータもある。その原因は、学校行事がなくなっていることが大きい。学校行事は斜めの関係をつくる好機なのである。
 孤独な子どもたちや家庭を支援する居場所づくりがさらに重要になってくる。それが教育において学校と家庭、地域社会が果たすべき役割であると私は考える。

「教えられないこと」の大切さを見直そう

 さて、これからの教育を考える上で、私は「教えられること」と「教えられないこと」を明らかにしていく必要があると思っている。
 一つの鍵はAI(人工知能)との共存である。学校教育は「読む力」「書く力」を育てることが基本だった。それは知識と技能の伝達である。学力の基礎基本が、まさに読む力、書く力である。それが、今後はAIが代行できるようになってくる。そうなると今まで教師が果たしてきた役割が大幅に低下することになる。
 教科指導で有効な発問もすぐに発信して、子どもたちはタブレットで受け取ることができるようになる。これは「教えられること」である。つまり「教えられること」はAIとは勝負できなくなるだろう。
 一方、「教えられないこと」は、「話す力」と「聞く力」である。明治以降の学校教育は、この点にあまり注力してこなかったと言っていい。実際、日本人は交渉や表現することが総じて苦手である。
 話す力、聞く力というのは、なかなか教えることができない。この認識が、文部科学省を含めて足りないのではないか。
 家庭教育と社会教育は、まさに話す力と聞く力を育成してきた。遊びはその有効な方法である。現在の社会で乏しいのは、口で伝える、体で表現するといった「非認知能力」である。読み書きは認知能力ということである。両方が必要だが、今は非認知能力を伸ばす手段が低下している。
 非認知能力の典型は「決断力」である。私はプロ野球で活躍した長嶋茂雄さんと野村克也さんを例にあげるのだが、一言で言えば野村さんは判断力、長嶋さんは決断力が優れている。
 判断力は学校教育に近い。様々な情報を集めて、呼びかけをして、問題解決のためにA案、B案、C案というようなシミュレーションを描いて、論理的に考える。判断力は学校教育で育成する力のチャンピオンである。
 そして、案の中から一本を選ぶのが決断力である。今の日本社会の最大の問題は、決断力が欠如していることではないか。決断力は学校教育では教えられない。
 家庭教育、学校教育では、これまで決断の機会をあまり与えてこなかった。指示待ち族が増えたのは、決断を促していないからである。決断できないのは、失敗を恐れているからだ。
 私が学長を務めている千葉敬愛短期大学は幼児教育の保育者を養成しているが、募集要項で「小さな失敗を重ねた人を求める」と書いている。失敗を通して保育者としての能力を伸ばすことができるからだ。
 学生に、才能と能力と学力はどう違うかを問うことがある。才能は教えることができない。チャンスを与えて引き出してあげる。それに対して、能力は身につけるものであるから教えることができる。学校で身につける能力が学力である。これは教師が教えることができる。このように、教えられることと教えられないことという認識が必要ではないか。
 大まかに言えば、AIは非認知能力を育てられない。教えることができないからである。ゆえに不登校やいじめへの対応は、決まった答えを教えられるわけではなく、皆で力を合わせてゆっくり目標に向かっていくという、集団を束ねるという体験が大切である。
 そこで期待される教師の役割としては、児童生徒一人ひとりの心をよく理解してあげることと、もう一つは集団を束ね、その体験の楽しさを伝えていくことにある。それが特別活動である。運動会や体育祭、文化祭、修学旅行、遠足などである。これはAIではできない。

遊び体験の「質」が大切になる

 さて、体験の中でも最も大切だと思うのが、「仲間と一緒に遊ぶこと」であろう。
 国立青少年教育振興機構が、体験活動の効果について研究を続けている。体験のエッセンスは遊びであるが、最近の研究では「遊びの質」も影響しているということが分かってきた。遊びを自分で考えた体験と、遊びに熱中したという体験が非常に大きい。そういう子は、成長して自立して元気な大人になっている。自分たちで遊びを考え、熱中できることが大切である。そのような環境を作ってあげなければならない、と思う。
 また、体験学習として参考になるのが、兵庫県が行っている「トライ・やる・ウィーク」であろう。これは中学2年生の職場体験で、トライには「試みる」(try)と「三角形」(triangle)の意味が込められている。教師だけでなく、地域の力を借りながら、学校と地域と家庭のトライアングルで職場体験の場を用意している。生徒からみれば、トライ・アンド・エラー(試行錯誤)である。
 これに不登校の子どもたちが参加する。教師が自宅に訪問して、本人が何をしたいのか、消防署に行きたいのか、幼稚園で働きたいのか、郵便局に行きたいのか、希望を聞く。それで1週間の体験を終えると、3分の1が学校に戻ってきた。学校だけで行うのではなく、地域が応援することで成功したのが、兵庫県の「トライ・やる・ウィーク」の事業である。
 この取り組みを当時の遠山敦子文科相が視察し、補助金を出すようになった。
 今や、職場体験は全国で取り入れられている。ただ問題は、大半が3日間程度で終わることだ。子どもたちは3日目あたりから面白さを感じ始める。体験を中途半端に終わらせては意味がない。兵庫県は昭和63年、小学5年生に5泊6日の自然体験を行っていた。子どもたちは馴れていないため初日に怪我をすることも少なくない。それでも3日目には適応して元気が出てくる。最終日に幸せになって帰る。このような経験があったのである。
 今は学習指導要領などで、教師が教える量が多くなっている。OECDの学習到達度調査(PISA)などで読み書きの結果だけに目を留めた場合、読み書きの力を伸ばすのであれば学校の授業時間数を増やすということになるが、それでは対応できないと思う。

個別最適な学びと協同的な学び

 そこで、「令和の日本型学校教育」の構築を目指しているわけである。これは今年1月に中央教育審議会が答申した。この中で思い切った提案だと思ったのが、「個別最適な学び」である。これは日本の学校が最も苦手だった。日本の教育は明治期から一斉授業で教えてきた歴史がある。そういう文化の中での個別最適な学びの型をあげるとすれば、通信教育であろう。
 通信教育のエッセンスは自学自習である。自分で時間割を決めて学ぶ。良い教材を準備し、子どものモチベーションを高めて、自学自習を進めさせる。
 一方、学校の長所は、教える教師がいて、良い教科書があって、皆と一緒に学べることである。質問も発表もできる。塾や通信教育にはそれがない。
 個別最適な学びでは、子どもたちが自分で考え、どんどん先に進む。教師は今までそのような指導は経験がない。もちろん先進的に取り組んでいる学校では成果をあげている。30人の子どもたちへの一対一の指導は容易ではない。個別最適な学びにおける教師の役割は何か。現場は試行錯誤しているというのが現実であろう。
 もう一つは「協同的な学び」である。例えば、授業で教師が発問し、子どもたちが様々な意見を出す。その意見をどう束ねて、次の問いをどう作るかというところに教師の力量が問われる。今の教師は、こうした“問答”の力が鍛えられていない。教科書通りに教えることはできても、子どもたちの意見を束ねることは容易ではない。従来の教員養成課程ではやってこなかったが、今後は全体の意見を集約して発問する能力を養成することが必要になってくる。
 そうすると、遊びの中で、仲間を集めて活動した経験がない人は難しい。「次は何をして遊ぼうか?」と皆の意見を聞きながら行動した経験がないと、授業でも次に進めなくなる。これは非常に大きな問題だと考えている。

求められるヒューマン・スキル

 大学3年生になると就活を行うが、人事課長は学生に対して、三つのスキルを求めているという。一つは専門的なスキル、二つ目はオピニオン・スキルである。リーダーシップ、人を引っ張っていく力である。これはサークル活動などの経験が大きい。
 そして三つ目にはヒューマン・スキルである。これは体験力と言語力である。実はこれが最も難しい。今までの人生でどのような体験をしてきたのかを自分の言葉で表現することができない学生が多い。そのような体験が少ないのである。私は、幼児期、児童期に体験活動が少なかったことのツケが来ていると思っている。
 そこで私が提案しているのは、「シングルエイジ」、つまり9歳までに様々な体験をさせていただきたい、ということである。10歳を過ぎると、教科教育をはじめ多くのことに取り組んでいかなければならない。スポーツや音楽、芸術もそうだが、子どもたちが豊かな幼児期、児童期を過ごせるようにしたいのである。
 ただ、シングルエイジで体験が少なかった人でも、学び直しできる機会はある。今はリカレント教育が広がっている。まさに学び直しの時代である。
 また、学び直した人が新しい職場でスタートするというような、社会の受け皿が少ない。働き方の柔軟性もあまりない。そうした点も検討していく必要がある。文科省に言っているのは、大学を卒業した後、教員免許を持っていない人が保育士や教員になりたいと希望している場合、大学で1年学ぶことで教職と幼稚園教諭の2種免許を取得できるような仕組みを作って欲しいということである。現在は2年間学ばなければ取得することができない。1年間で2種免許を取得できれば、社会人経験者を教育現場に招くこともできる。そうした免許制度の改善も必要ではないか。

ミッション・ビジョン・パッションを持とう

 このように考えた時、今後の教育に必要な教育観は何か。
 私はまずミッション(使命)を持つべきだと思う。教員であれば、子どもたちの成長のために働くということになるだろう。そのようなミッションを自分なりにまず作っていただきたい。
 次に、ビジョンを描いてほしい。政策や企画、プランニングである。
 三番目が最も難しい。パッション、情熱である。
 このうち、ビジョンは教えられる。ミッションとパッションは教えられない。教育もやはりパッションである。
 ビジョンを描くためには、仲間と議論をする。これは協同であるし、ある意味で教えられることである。それに対して、自分のミッションとパッションは教えることができない。それは幼児期、児童期の体験が基礎になる。
 各個人の最適な体験、それを「遊び」という。個別最適な学びは大切であるが、個別最適な遊びもあるはずだ。協同的な遊び。例えばドッチボールなどの集団での遊びである。そういうものを自分たちで考え作っていく。
 個別最適な遊びをもう少し豊かにしてほしい。これは自分で面白い遊びを考え作り出すのである。そのためには、放課後子供たちが夢中になる「三間」(サンマすなわち、遊び時間、遊び仲間、遊び空間)を用意してほしい。それがパッションを育てる近道である。

欠かせない特別活動

 大学院時代に、「顕在的なカリキュラム」(目に見えるカリキュラム)と「潜在的なカリキュラム」(目に見えないカリキュラム)があると言われたことがある。顕在的なカリキュラムは、学校の教科指導である。
 一方、潜在的なカリキュラムは、意図していなくても今振り返ると効果があったというものである。それが修学旅行の枕投げやキャンプファイアでのダンスである。そうした特別活動的なことによって集団的な力を養うわけである。そのような目に見えないもの、水面下のカリキュラムを見直そうということである。このカリキュラムは教えられない。
 国際比較調査を見ると、日本の子どもたちの体験は、学校行事が大きな割合を占めている。逆に学校外の地域活動への参加は少ない。一方、欧米は学校外の活動を地域の宗教団体が担っている。日本にはそれがなかったため、戦後は学校が引き受けて、特別活動という枠で行ってきた。アメリカもフランスも修学旅行はない。運動会や学芸会もない。その代わり、キリスト教会での発表会が行われる。
 私はかつて中央教育審議会の委員を務めていた頃、学校の日本固有の特別活動をどうするのかと問題提起をしたことがある。教員の研修会では、多くは教科の方に集まる。道徳と特別活動には人が集まらない。集まりが少ないから、指導力を持った教員も育ちにくい。
 協同的な学びは、教科指導だけでは難しい。その意味でも特別活動をもっと大切にすべきであろう。

政策オピニオン
明石 要一 千葉敬愛短期大学学長
著者プロフィール
大分県出身。奈良教育大学卒。東京教育大学大学院修士課程修了。同博士課程単位取得満期退学。千葉大学教育学部講師、助教授、教授を経て、現職。千葉大学名誉教授。文部科学省中央教育審議会委員、同生涯学習分科会会長、千葉県地域訓練協議会委員、千葉県地方創生総合戦略推進会議会長などを務める。専門は教育社会学、青少年文化論。著書に『キャリア教育がなぜ必要か』『子どもの規範意識を育てる』『生き方が見えてくるナガシマ学』『教えられること 教えられないこと』他。
子どもの体験活動や生活習慣の向上は、意欲や規範意識などを育むことが分かってきた。しかし、そうした活動は減少傾向にある。教育を充実させるためにも、幼少期や児童期の体験活動の意義を見直すべきである。

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