政策オピニオン

2018年1月20日

検証北朝鮮危機の25年

日本大学危機管理学部教授 勝股秀通
1983年読売新聞社入社。新潟支局、北海道支社を経て東京社会部に所属。東京地検でリクルート事件を担当、その後警視庁などの担当を経て93年から防衛省・自衛隊を担当。民間人として初めて、防衛大学校総合安全保障研究科(97-99年)を修了、その後、防衛、安全保障問題の専門記者として編集委員、解説部長、論説委員、調査研究本部主任研究員を歴任し、2015年4月から日本大学総合科学研究所教授、16年4月から現職。主な著書に『検証 危機の25年』、『自衛隊、動く』ほか。

はじめに

 2016年以降、北朝鮮が日本にとって大きな脅威と認識され始めた。2017年11月にトランプ大統領は初めてアジアを歴訪したが、彼は各地で北朝鮮について言及した。私は2015年までの30年余りを記者として過ごし、そのうち25年間軍事・安全保障を担当した。最近の北朝鮮に関するメディアの報道には、日常の出来事を追いかけることで手一杯な印象を受けている。
 以前、北朝鮮の脅威を報道する際に、「日本は覚悟が必要だ」という言葉を新聞でよく目にした。「覚悟」と書くのは簡単だが、一体何を指しているのだろうか。切迫した状況であるからこそ、真剣に考える必要がある。
 私が読売新聞に入社したのは、米ソ冷戦が最も激しい時だった。核兵器が地上に七万発もあり、地球を何十回も破壊することができるという危機の時代だった。90年代に入り米ソ冷戦が終結して、世界は平和になると思われていた矢先に、湾岸戦争が始まった。クウェートに侵攻したイラクに対して、米国を中心とした多国籍軍が派遣された。その時、日本はお金を出すだけで一切汗を流さないと世界から非難された。当時の国内法は、自衛隊の国際活動をほぼ認めていなかった。その後、自衛隊をPKO活動に派遣するか否かで、国論が真っ二つに分裂した。しかし、当時のメディアには安全保障を専門とする記者がほとんどおらず、論理的な解説を提示することができずにいた。読売新聞では、私が防衛省・自衛隊を担当することになった。
 1990年代、自衛隊は初めてカンボジアで国際活動を経験した。日本が戦後初めて安全保障に目を向けるようになった頃、北朝鮮問題も同時に勃発した。それから四半世紀が経つ中で、北朝鮮の脅威や国際社会の評価は大きく変わった。今や日本の存立さえも脅かす存在になってしまった。北朝鮮危機における「覚悟」とは、絶対に核を使わせない覚悟だと私は考える。そのためには脅威を直視して、非核三原則を見直すなどの冷静な議論も必要だ。ここでは、日朝関係を多角的に考察したい。

1.北朝鮮の脅威に対する評価の変化

北朝鮮危機の浮上と嫌悪な日米関係(1993年頃)

 私が防衛省・自衛隊、外務省の取材を担当し始めた頃に、北朝鮮の危機が浮上した。1993年5月29日、北朝鮮の弾道ミサイル・ノドンが能登半島沖の日本海に初めて着水した。北朝鮮と能登半島を結ぶラインの延長には東京が位置する。日本の安全保障を脅かす大事件だったが、日本政府はこの事実を国民に公表しなかった。
 当時は自民党でも穏健派の宮沢喜一首相だった。宮沢政権がカンボジアへ自衛隊を派遣していた1993年4月に国連ボランティアの中田厚仁さんが殺害された。さらにノドンが着水する直前の5月4日、文民警察官の高田晴行さんが殺害された。すでに約50人の日本人ボランティアが現地入りしていたが、法的問題により自衛隊は彼らを保護することができなかった。
 カンボジアにおける国際活動を続けるか否かについて、国内では激しい議論が交わされていた。その真っ只中に、一発のノドンが飛んできた。米国や韓国は事態を非常に深刻なものと受け止めていたが、日本政府には対応する余裕がなかった。
 『二つのコリア』という本がある。北朝鮮の核開発に対する措置として、クリントン政権は1994年に北朝鮮への攻撃を計画した。しかし、想定される犠牲者が韓国人・米軍あわせて50万にも及ぶという数字が叩き出されたことで、計画は中止となった。
 この頃、米国は朝鮮半島有事を見据えて、同盟国日本がどれくらい戦闘に協力できるのかを確認すべく、1300項目にも及ぶ質問状を日本政府に送った。たとえば、米国の航空機が日本の民間の滑走路から離陸することはできるのか。米軍が自衛隊と同じ武器を使用している場合、自衛隊の武器を米軍に提供できるのか、など。日本からの回答はほとんどすべてに関して「協力できない」だった。
 1991年湾岸戦争で、日本は金だけ出して汗を流さない国だというレッテルを国際社会から貼られてしまった。その後名誉挽回を図るべく、日本は法整備が不十分ながらも、自衛隊をPKOになんとか参加させた。しかし、日本にとって最も身近な朝鮮半島有事の際に、同盟国日本が極めて非協力的だとわかったことで、日米関係はさらに悪化した。
 1994年アフリカのルワンダで内戦が勃発した。二つの部族が悲惨な殺戮を繰り広げ、同年9月から難民支援のために自衛隊も派遣されることが決まった。自衛隊は武器が使用できないなど法的に様々な制約があったが、米国が援護するという約束のもとで、日本政府は派遣に踏み切ることができた。
 しかし派遣の直前、自衛隊への支援は一切しないと、米国は一方的に約束を反故にした。日本政府は反論したが、「国際社会に対して、日本は難民支援をやらないと発表すれば済むことだ」と突き返された。当時、国連における難民支援活動のトップは緒方貞子さんだった。日本はその体面を立てる必要もあった。「米国の支援がないからルワンダにはいけない」と発表することなどできるはずもなく、自衛隊は現地入りした。結果的には、自衛隊の活動環境は比較的安全なものだった。規律正しい自衛隊の活動は現地のルワンダ軍隊をも正してくれると、評判は良かった。
 北朝鮮の危機を世界が認識し始めた頃、日本は国内外で極めて不安定だった。日米関係は嫌悪だった上、ノドン発射の翌月には自民党政権が崩壊した。日本国内における北朝鮮への脅威認識も極めて低かった。「日本が北朝鮮のことで第一に警戒すべきは、北朝鮮の特殊部隊が国内の重要施設を破壊するというテロ行為だが、すぐにそれを実行できる段階ではない」「北朝鮮が核開発や弾道ミサイルの量産に成功するなどありえない」という論調が日本国内では主流だった。

北朝鮮の工作船にさえ無力な日本の法律(1999年頃)

 1998年8月、北朝鮮の弾道ミサイルが秋田県と岩手県の上空を飛翔し、太平洋に着水した。99年3月には、北朝鮮の工作船が富山湾内で不法行為をしていることが判明した。工作船は日本漁船の名前を使い、たくさんのアンテナを立てて様々な情報を傍受していた。海上保安庁が取り締まろうとしたが、北朝鮮の工作船は50ノットで非常に速く、当時の海上保安庁の船では太刀打ちできなかった。そこで海上自衛隊に海上警備行動が発令された。ただし、海上警備行動では警察権を執行することでしか武器を使用することはできない。逃げていく工作船を取り締まることはできず、海上自衛隊は船上の角材を海にまいて進路を妨害することや、網を工作船のスクリューに絡ませることなどを試みるしかなかった。
 この事件を教訓として、朝鮮半島有事などの周辺事態にどう対処するかを明記した法律が作られた。当時は集団的自衛権を一切認めていなかったので、この法律は「できない」ことを数多く羅列していた。北朝鮮を攻撃しようとする米軍の戦闘機に燃料を給油することはできない。自衛隊の弾薬を米軍に提供することはできない。さらには、米軍と海上自衛隊が日本海で合同訓練をしている最中に周辺事態が発生した場合、海上自衛隊は日本海に米軍をおいて帰港すると定めていた。米国が呆れるしかない法律だった。
 2001年1月、森喜朗首相が「有事法制」の検討開始を宣言した。歴代総理として初めてのことだった。ところが同年9月、米国同時多発テロが発生した。貿易センタービルの倒壊による被害者は真珠湾攻撃と同じ三千人に及んだ。これ以後、米国の関心は一気にイスラムとテロ問題へと移ってしまい、北朝鮮には好都合だった。
 2003年6月、武力事態法など有事法制が成立した。創隊から半世紀を経て、ようやく自衛隊の活動を認めた法律ができたことになる。この50年間、自衛隊が活動できるのは演習場の中だけと言われていた。自衛隊は私有地を通ることもできない。陸上自衛隊の戦車には、世界の戦車にはない方向指示器がついている。ウインカーを出し、赤信号では停まらなければならない。世界から見れば異常な扱いだが、これは安全保障に対する国内の偏った議論を反映していた。2003年当時でも、有事法制に対して「戦争準備の法律、自衛隊は違憲、人権制限」など反対の声ばかりが目立っていた。

北朝鮮の核実験成功、日米関係悪化、中国の攻勢(2006~2010年)

 米国が対テロ戦争を繰り広げていた背後で、北朝鮮は核ミサイル開発を続けていた。国際社会は六カ国協議を通して北朝鮮に働きかけた。核開発を凍結すれば石油を提供するなど、北朝鮮に様々な条件を提示した。北朝鮮は要望に応じる姿勢を見せてきたが、結局核開発をやめることはなかった。
 2006年7月、米国の独立記念日に合わせて、北朝鮮が7発の弾道ミサイルを連射した。失敗も多かったが、初めて移動式の発射台が使われた。同年10月、北朝鮮がいよいよ核実験に成功する。日本国内ではミサイル防衛システムが全く整備されていなかった。2003年に石破茂・防衛庁長官(当時)が敵基地攻撃力の保有について言及したが、政府の要人としては50年前の鳩山一郎首相以来の発言だった。敵基地攻撃について議論されることはなかったが、防衛システムの整備が始まり、同年末には弾道ミサイル防衛システムの導入が決定した。北朝鮮がミサイルを発射すれば、10分以内には日本本土に届く。ミサイル防衛には日米の情報共有が要になるため、両国による共同開発が始まった。
 2001年から始動した小泉純一郎・自民党政権は国内で人気があり、日米関係も改善する。次期・安倍政権も出だしは良かったが、安倍首相が体調を崩してリタイアするなど、運がなかった。その後、自民党の支持率はどんどん下がり、2009年民主党政権が誕生する。日米関係は小泉政権以来ずっと良好だったが、異様なほど親中派だった鳩山由紀夫首相は「日米における問題を、日中関係を基盤に解決する」とまで宣言した。沖縄の基地移設問題では「国外、最低でも県外」などと発言し、日米関係は一気に悪化した。それをじっと見ていたのが中国だった。
 中国は1992年に領海法を制定し、尖閣諸島などを自国の領土だと一方的に宣言した。2010年3月に中国で島嶼保護法が施行され、同年9月には中国漁船が海上保安庁の船に激突するという事件が起きた。当時の菅直人・民主党政権の対応が非常に悪かったこともあり、安全保障における国民の関心は中国一辺倒になってしまった。

日本の存立を脅かす存在となった北朝鮮の脅威(2016年)

 2016年9月、北朝鮮は5回目の核実験に成功する。威力としては広島型に相当したが、国内外における北朝鮮への脅威認識はこの実験が大きな転機となった。実験後、安倍首相・オバマ大統領ともに、「北朝鮮の脅威は新しいレベルになった」と発言している。「北朝鮮が核の小型化に成功し、弾道ミサイルに搭載するのも時間の問題」と言及されるようになったのも、この頃からだった。
 2017年9月には6回目の核実験に成功する。これは広島型の100倍以上といわれる威力だった。日本にとって、深刻な核の脅威が現実となった。
 そもそも、北朝鮮はなぜ核開発を始めたのか。北朝鮮の政治・経済・軍事で長年後ろ盾となっていたのはソ連だった。米ソ冷戦の終結とともに、1990年ソ連は宿敵・韓国と国交を結んだ。北朝鮮にとってもう一つの拠り所であった中国も、1992年に韓国と国交を結んでいる。北朝鮮だけが孤立するというものすごい焦燥感の中で、強力な抑止力が必要だった。自国の生存をかけて核兵器とICBM(大陸間弾道ミサイル)を手に入れるために、特に金正日政権は核・ミサイル開発を最優先政策として取り組んできた。
 2006年に北朝鮮が核実験に成功し、対北朝鮮政策を真剣に考えるべき時期を迎えていた。日米が連携できた期間もあったが、民主党政権以後に日米関係が再び悪化した。そして尖閣問題により、日本の脅威認識から北朝鮮が大きく外れてしまった。
 北朝鮮は虎視眈々と核ミサイル開発を続けることができた。1993年から20年以上もの間、北朝鮮にとって都合が良い国際情勢だったと総括することができる。

2.北朝鮮が核を保有してはいけない理由

 現在、核兵器は強力な抑止力ではあるものの、使えない兵器として世界で認知されている。もちろん、当初は使うために造られた。
 1941年米国ではナチスを倒す目的で原爆開発が始まったが、45年7月に核実験が成功し、米国は3個の核爆弾を保有した。すでにドイツは降伏しており、米国は戦争を終結する目的で、2個の核爆弾を広島と長崎に投下した。沢山の人々を一度に殺戮できる兵器の開発は、戦争に勝つという目的のためには、当時、どこの国でも重要な問題だった。
 第二次世界大戦が終わったにもかかわらず、1949年9月にはソ連が核実験に成功する。その後、英仏が続き、東京オリンピックのさなかに中国も成功する。イスラエルの核保有は1970年代中頃だろうといわれ、インドやパキスタンも保有に至っている。
 使うために造られた核兵器がなぜ使えなくなったのか。そこにはいろいろな理由があるが、被爆国・日本の功績が大きい。1945年に被爆で亡くなったのは約30万人、その後も含めれば犠牲者は48万人と言われている。本当なら復讐に走ってもおかしくない被害を受けたが、日本は復讐を選択しなかった。むしろ、二度と原爆による犠牲者が出ないように、被害の残酷さを世界に訴えてきた。広島の平和記念館に行けば、核兵器は非人道的すぎると、主義主張を超えて誰もが痛感する。核兵器は絶対に使用すべきではないという国際世論の形成に、被爆国・日本の役割は非常に大きかった。
 この被爆国・日本に対して、北朝鮮は「日本列島の4つの島を核弾頭で海に沈めなければならない」と威嚇した。米国を始めとする国々が核を保有することも決して良いことではない。しかし、すでに核の作り方がわかっている現状で、核兵器を完全に廃絶することにどれだけの意味があるだろうか。公式的に核を完全にゼロにしてしまったら、「隠れて製造・保有しているかもしれない」という疑心暗鬼が消えることはない。核兵器は使うべきではないと今の核保有国間で合意を交わすことは可能であり、それが平和共存に向けた現実的な選択だといえる。ただし、今後望ましいことではないが、万が一、新たに核保有国が増えるようなことがあったとしても、北朝鮮のように被爆国・日本を威嚇するような国には核を持たせては絶対にいけない。

3.日本の対応

 現実的に、北朝鮮は核兵器開発能力を手にしてしまった。この状況の中で、日本が取り組めることは限られている。日本の対応として、「防衛力の強化」「国民保護」という二点を中心に取り上げたい。

(1)防衛力・抑止力の強化

 北朝鮮のミサイルをより確実に迎撃できるように、日米共同でミサイル防衛の精度を向上させる必要がある。特に、高高度発射によるロフテッド軌道で打ち上げられた場合、迎撃するのは簡単ではない。大気圏から日本に落ちてくるミサイルのスピードはマッハ20を越えるといわれている。現在、日米が共同開発しているSM3ブロック2Aというミサイルは、早ければ2018年には配備されるが、それでも迎撃できる高度は800km程度までが限度と言われている。今の技術力では、ロフテッド軌道で落下するマッハ20を超すミサイルを迎撃するのは簡単ではない。
 日本のH-IIAロケットの発射からもわかるように、マッハを越えるロケットも発射時はゆっくり上昇していく。この段階で叩き潰す技術も、遠くない将来十分可能だろう。
 あわせて、敵基地攻撃能力の可否について議論を深めるべきである。昭和31年の鳩山一郎首相の答弁には「座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とするところだというふうには、どうしても考えられない」とある。自衛のための必要最小限度の実力と解釈すれば、今の憲法解釈でも保有は十分容認される。
 今の日本は米国の核の傘に守られている。米国は北朝鮮に脅威を感じているが、ミサイルはまだグアムにしか届かないという認識でもある。むしろ、核の傘は本当に有効なのかという問題について、日本はよく考察するべきではないか。日本が核攻撃を受けた際に「核を持っていない日本に代わって、米国が北朝鮮を攻撃する」というシナリオは現実的なのだろうか。北朝鮮がサンフランシスコやワシントンに届く核ミサイルを手にいれた場合、下手に北朝鮮を攻撃すれば米国本土が報復されることになる。
 日本が独自に核を持つ可能性は極めて低い。むしろ独・伊やベルギーのように米国の核を持ち込み、共同で管理する手段が現実的かつ効果的では、とも考える。その場合、非核三原則を見直して「持ち込ませる」を容認する必要がある。

日米韓の北朝鮮への姿勢

 北朝鮮の脅威に直面しているのは日米韓の三カ国だが、置かれている立場が違う。それでも2017年前半まで基本的な歩調を同じくしていた。「北朝鮮の核開発をやめさせ、世界に核を拡散させない」という目的で、ともに国連へ働きかけていた。
 しかし、同年9月に北朝鮮が大規模な核実験を実施したことで、米国は圧力の延長に軍事オプションを真剣に考え始めたと言われている。米国が軍事行動をした場合、北朝鮮の核ミサイルの標的は日本になる可能性が高い。韓国は、首都ソウルが北朝鮮との国境から60~80kmのところに位置しているため、一斉攻撃を受ければソウルはすぐに火の海になる。韓国は米国の軍事攻撃に反対している。一方、米国世論では軍事攻撃に賛成する声が意外に多い。
 米国の姿勢について補足すると、米国が北朝鮮の核保有を認めることはおおよそ考えにくい。もし認めれば、日米同盟の信頼を失うことになる。「米国は同盟国を見捨てる」となれば、欧州を含めた同盟国の信頼をも失うことにつながる。その視点で考えれば、北朝鮮の核を認めることで米国が失う国益は計り知れない。米国内の世論調査の結果がどうであれ、北朝鮮を核保有国として認めるということはないだろう。トランプが異色な大統領であっても、その匙加減は理解していると考えていい。

(2)国民保護の視点から

不十分な訓練

 敗戦後、日本国民は戦争や軍を忌避する思いから、戦争について考えることをやめてしまった。半世紀以上にわたり有事における国民保護について規定した法律さえなかった。2004年に有事を想定した国民保護法がようやく成立したが、武力攻撃されることなどを念頭に置いた実質的な訓練はほとんどなされていない。
 弾道ミサイルを想定した訓練は2017年3月に初めて行われた。訓練内容は住民を最寄りの学校・体育館に避難させるというだけだった。日本でしばしば行われるこの種の訓練は警察主体で行われ、爆弾テロなどを想定したものが多い。わが国では今でも自衛隊が全面に出てくることに対してアレルギーが強い。もちろん近年自然災害が多発する中、自衛隊が被災者救出で活躍していることを国民は肯定的に受け止めている。最近は「自衛隊は違憲」などという声もあまり聞かなくなった。
 北朝鮮危機では、ミサイルを想定した訓練をしなければならない。米国では9・11テロの発生直後、さらなる被害を防ぐために「上空を飛んでいるすべての航空機は最寄りの飛行場に着陸せよ」という命令を出した。テロ発生から1時間以内にその命令は確実に実行された。
 日本は緊急事態に対して、極めて脆弱だ。憲法は緊急事態について触れておらず、どう対処するのかを規定した法律さえない。実際に弾道ミサイルが飛んできた場合、PAC3などが迎撃することになる。PAC3のレーダー画面には、民間機も含めてたくさんの航跡が映っている。弾道ミサイルが飛んでくれば、レーダー画面にはミサイルだけでなく民間機も映り、迎撃ミサイルが民間機に当たる可能性も十分考えられる。自衛隊の立場から言えば、民間機も含めたすべての航空機を止めてもらわなければ、発射ボタンを押すことはできない。さらに、新幹線も被害を受ける可能性がある。新幹線は高架橋を使用しており、ミサイルが直撃しなくても、破片が当たるだけでも脱線するかもしれない。1000人を超す乗客を乗せ、時速200kmの新幹線が脱線したらどれほどの被害になるのか、全く想定されていない。弾道ミサイル迎撃を想定した訓練は、電気ガス会社や通信事業者などはもちろん、多くの企業も参加して実施すべきだ。
 緊急事態における米軍の対応について例を紹介する。1998年に北朝鮮のミサイルが東北地方上空を飛翔したが、青森の三沢基地には米軍も駐在している。ミサイル着水から一週間以上の間、米軍兵士とその家族は水道水の使用を禁止された。ミサイルに乗じて、日本国内に潜伏している北朝鮮の工作員によって、ダムや水源地に毒が盛られる危険性も考えられるからだ。これらは米軍のマニュアルで規定されている。ミサイル発射は8月31日という夏の暑い時期だったが、洗顔やシャワーなどすべてにミネラルウォーターを使っている米軍兵士を見て、自衛隊員は不思議に思ったという。

戦後の国民保護システムの崩壊

 戦後、日本は戦争やテロに巻き込まれることがほとんどなかった。もともと自然災害の多い国なので、国民保護は災害からの救助という文脈で語られることが多かった。
 戦後の日本において国民保護を担ってきたのは自衛隊でも警察でもなく、消防と消防団だった。その中でも住民によって組織される消防団は市長村の管轄で住民から非常に近い組織であり、戦後の一時期は全国の団員が200万人を超えるほどだった。
 消防団が活躍した例として、1986年の伊豆大島三原山の噴火があげられる。噴火直後は噴火が美しいと観光客も集まったが、突如、一週間後には山肌から裾野にかけて次々と火を噴くという状況になり、当時の中曽根首相は全島民を島外に避難させることを決断し、夕方6時に発表した。海上自衛隊、海上保安庁、伊豆と東京を結ぶ東海汽船などが伊豆大島に集まり、次々に住民や観光客を運び出した。翌日の午前5時には最後の船が出港し、全島民と観光客の計1万1千人を無事に避難させることができた。
 この迅速な避難を実現させたのが、他でもない伊豆大島の消防団だった。伊豆大島には観光業や漁業などしか仕事がないため、多くの若者は東京などに出てしまう。それでも島に残った18歳以上40歳未満の男性495人は全員消防団に加入していた。島の世帯数は約5千世帯であり、495人の消防団が各10世帯をくまなく回った。寝たきりのお年寄りから障害者、病人に至るまで、一人が10世帯に責任をもつことで12時間以内の避難が可能となった。これが日本における国民保護の象徴だった。
 だが、現在も同じように消防団が国民保護の主体になれるかといえば簡単ではない。消防団員は全国で約70万人にまで減り続け、平均年齢も40歳を超すといわれている。山菜採りで行方不明になった人を捜索する際、昔は消防団が対応していたが、最近は自衛隊が出動することも少なくない。近年、消防団を軸とした国民保護システムは急速に崩れ始めている。
 では、自衛隊は国民保護の主体として十分に機能するだろうか。現状として、私は難しいと感じている。もちろん、災害などが起これば自衛隊はすぐに駆けつけようと努力してくれるが、物理的な問題として彼らは近くにいない。東京23区内には約700万人が住んでいるが、陸上自衛隊の部隊は埼玉県との境に近い練馬区内に第一連隊があるだけだ。以前は北区にもあったが、社会党や共産党が強かったときに埼玉の大宮に追いやられてしまった。彼らの主張は「平和な首都に自衛隊はいらない」というものだった。23区内にいる実働部隊は約2000人だが、戦闘服を着て現場に駆け付けることができるのは、せいぜい1000~1500人程度だろう。横浜市には約600万人が住んでいるが、実働部隊はほぼゼロという現状だ。南海トラフ地震が発生した場合、最大被害は30万人を越えるとも言われている。全国の自衛隊全体でも13~14万人という現状で、国民保護をどう実現させていくのだろうか。
 2004年に制定された国民保護法は、国民の役割について言及していない。法の欠陥であり、現実的な問題として、国民は国の保護に頼るだけでは間に合わない。国民保護における自助や共助について、議論を深める時を迎えている。

在外邦人の救出と保護:過去の主な事例検証

 1992年PKO協力法が成立する以前、日本は自衛隊を海外に派遣することさえできなかった。海外で起きた内戦に日本人が巻き込まれた場合は、彼らの救出をいつも外国に要請してきた。1971年印パ戦争では邦人15人が国連の救援機で脱出し、79年南米ニカラグア内戦では邦人18人がアルゼンチン軍機で脱出した。85年のイラン・イラク戦争では、テヘランに215人の邦人が取り残された。日本政府は日本航空にチャーター機を要請したが、危険過ぎると断られた。数時間後にはイラクが上空の航空機を追撃するという中、日本は彼らを助け出す手段がなかった。為す術なしという状況で、突然トルコ政府が二機の航空機を邦人救出に差し出してくれた。テヘラン空港にはたくさんのトルコ人も待機していたが、その二機は日本人を優先的に乗せてくれた。救出されて帰国した日本人に当時の状況を聞いたが、「なぜ助けてもらえたのか、わからなかった」と話していた。
 日本人の多くは知らなかったが、トルコ人は日本に恩義を感じていた。1890年紀州沖でトルコの軍艦エルトゥールル号が沈没したときに、紀州の漁民が命がけで救ってくれた。その時の恩返しとされるが、まさに時空を超えた奇跡と言っていいだろう。
 94年の中東イエメンの内戦でも、現地に取り残された邦人96人は仏独などの救援機で脱出することができた。当時の日米関係は最悪で、日本政府の救助要請に対し、米英は真っ先に「自国民優先」という理由で断っている。日本は長い間、自国民を自分たちで助けることをせず、他国に頼るだけだった。

在韓邦人を救えるのか

 イエメン内戦と同じ94年に自衛隊法が改正され、「在外邦人の輸送」が自衛隊の任務に位置づけられた。ただ輸送というだけで緊急時に武器を使うこともできず、実効性がどこまであるのか疑問視された。2015年に一部の学生らの反対もあったが、平和安全法制が成立したことで、ようやく「在外邦人の救出」が自衛隊の任務となった。必要に応じて、武器を使うこともできる。
 韓国には短期から長期まで含めると、在韓邦人は6万人を数える。北朝鮮問題がこれだけニュースになっていても、2017年のGWに日本人が一番訪れた外国は韓国で、12万人にも上る。それでも日韓関係は良好といえず、特に韓国には反日感情が根強い。自衛隊が韓国に上陸して在韓邦人を救えるのかといえば、おそらく簡単ではない。
 ソウルには在住の外国人が登録上でも30万人いる。中国・米国・台湾・ベトナム・日本という順になっており、約20カ国がソウルに千人以上の自国民を有する。朝鮮半島有事となれば、多くの国が日本に期待するだろう。日本はこれまで、多くの在外邦人を外国に助けてもらった。「日本人だけでなく、多くの在韓外国人を救出したい」ということであれば、韓国国民の反発も軽減されるだろう。過去の恩返しのチャンスにもなる。
 2017年11月のトランプ大統領訪日の際に、「朝鮮半島有事における邦人退避策も協議される」という記事を見たが、両首脳の間で踏み込んだ協議はなかったとされる。実は、米国は9月に在韓米人救出について試算している。米国は自国民保護を最重視している国だ。ベトナム戦争でサイゴンが陥落した際、自国民保護のために船や航空機を出したが、救出には困難を要した。朝鮮半島有事では、その150~200倍の物量が必要という試算となっている。もはや、まともに救出できるとは考えにくい。米国が武力攻撃を踏みとどまる大きな要因になるかもしれない。どちらにしても、自国民保護が大きな混乱を伴うことは避けられない。日米間で十分な協議が必要である。

日本に必要な覚悟とは

 日本は現実的な核の脅威にさらされている。万が一、北朝鮮が核ミサイルを打ってきたら、国民が逃げる場所はほとんどない。核シェルターを造るには膨大なお金がかかってしまう。助かったとしても、放射能被害が尋常ではない。日本には、北朝鮮に核を使わせない覚悟と具体的な政策が必要となる。
 参考になる国として、スイスをあげたい。人口一千万人未満の観光国だが、緊急事態を想定した国策を取っている。たとえば、有事における混乱を避けるため、年間の観光者数は800万人以下と定めている。かつてはソ連からの核攻撃という脅威にさらされていたこともあり、政府は『民間防衛』という冊子を各家庭に無償で配布した。そのため、自分の命は自分で守るという民間防衛の意識が浸透している。各家庭の備蓄量も決まっている。
 中長期的にみれば、日本は北朝鮮だけでなく、中国という脅威にも直面している。2017年10月に開催された共産党大会の直後、北京であるシンポジウムが開催された。2021年には共産党結党100年、2049年には建国100年を迎える。そのシンポジウムでは「建国100年を迎えるまでに6回の戦争が必要」とし、2035年に「尖閣奪取のための戦争」を取り上げていた。数年前、中国が想定する2050年の地図が話題になった。その地図では、名古屋よりも西側の日本列島が中国の「東海省」になっていた。名古屋より東側はモンゴルやウイグル、チベットのような「日本自治区」となっており、完全に日本を占領している想定だった。もちろん、中国政府が公認している地図ではないが、そうしたことを考える国であることを忘れてはならない

4.日本と朝鮮戦争の関係(1950~53年)

 1950年6月に朝鮮戦争が勃発した。7月にはマッカーサーからの指令で、警察予備隊が作られた。朝鮮戦争は北朝鮮からの奇襲で始まったこともあり、ソウルはすぐに陥落する。やがて国連軍が参戦するが、実は元日本海軍の特別海掃隊も参戦していた。1隻の掃海船が機雷で爆発し、1人が命を失い18人が負傷した。朝鮮戦争を機に自衛隊が誕生するが、日本は第二次朝鮮戦争に備え、今でも北部九州に自衛隊の基地や病院を集中させている。
 あまり知られていないが、韓国南部の釜山には、世界で唯一の国連墓地がある。そこには朝鮮戦争で亡くなった国連軍兵士の名前が刻まれた石碑があるが、約4万人とされる米軍犠牲者の中に多くの日系人の名前を見つけることができる。
 なぜ日系人なのか。朝鮮戦争では、韓国軍と国連軍は綿密に連携しなければならないが、当時の韓国軍で、英語を話せる者はほとんどいなかった。その代わり、少し前まで日本の植民地だったので韓国軍関係者は日本語が流暢だった。国連軍に韓国語ができる者はほぼおらず、日系米国人が通訳として活躍したとみられている。
 日本語と英語を話せる日系米国人は朝鮮戦争を戦ううえで欠かせない存在だったといっていい。彼らは明治期から大正期にかけて移住した人々の二世で、ハワイ州やカリフォルニア州から駆り出され、総数で約2千人だったともいわれている。日本と朝鮮半島には様々な関係があることを、私たち日本人は知っておくべきである。

(本稿は、2017年11月11日に開催されたIPP-Youth政策研究会における発題内容を整理してまとめたものである。)