21世紀のグローバル人材の育成

21世紀のグローバル人材の育成

2018年6月21日

「人工植林型」から「雑木林型」へ

 グローバル化に対応した人材育成をどう進めたらいいのか。
 これまでの日本の教育は学力偏差値、いわゆる知識偏重の「人工植林型」の教育だったと思う。「人工植林型」の教育とは、松、檜、杉というように建築材料を効率よく育てる促成栽培である。「ここは杉を植えよう」「ここには松を植えよう」というように、法学、農学、経済学、工学等の専門学部制に分けて、同じような能力を持った人材を画一的に育成するやり方である。
 しかし、自分の専門は深くよく知っているけれども、他の分野のことはよく分からないといった人材育成のやり方では、21世紀の社会に適応できないのではないか。日本の国、日本社会が成り立たないだろうと思う。
 私は、21世紀の人材育成は、リベラルアーツを重視した「雑木林型」の教育でなければならないと考えている(図1)。


 リベラルアーツの起源は、古代ギリシャの教育原理である「自由な市民になるための全人的技芸 アルテス・リベラーレス(artes liberales)の習得」にある。中世・近世ヨーロッパのアルテス・リベラ―レスでは、天文学、算術、音楽、幾何学、文法学、論理学、修辞学を「自由7科」と呼び、教育の場で教えた。
 リベラルアーツは一般に「教養」と訳されているが、その考え方は人によって様々である。リベラルアーツの定義は、イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルの大学教育論にみることができる。1867年2月1日、イギリスのセント・アンドルーズ大学学長就任演説でミルが語った言葉に「to know something of everything and everything of something 」(「すべてのことを広く知っている、そしてある特定のことについては深く知っている」)という一節がある。これが今日のリベラルアーツ教育の原点になっている。
 私は、リベラルアーツとは、「個人が習慣・束縛・偏見から一旦自分を解き放ち、新たな自分を構築していくもの」「自分の自分による自分のための学び」と捉えている。広い知識を学ぶだけでなく、知識の習得を通じて問題解決のためのスキルや意思決定力、発想力や思考力を養うということである。
 また、日本の大学進学率はここ数年、55%前後で推移していて、大学生の数が約240万人である。しかし20年後には40万人減って200万人を割る可能性がある。現実の問題として高等教育を受ける人口が激減する状況の中で、従来の人工植林型の人材輩出の仕方では社会が成り立たなくなるわけである。

「全人力」とは

 日本の未来を考えると、いわゆる「全人力」を持った、知識と同時に行動力を発揮できる人材を国内で育成していかなければならない。おそらく日本の総人口が1億人を切る状況になれば、海外からも高度な能力を持った人材を受け入れていく必要に迫られる。海外からの留学生を迎えていこうとすれば、英語で授業しながら、全人力を身に付けさせる「世界標準」の教育になっていかざるを得ないと思われる。
 では、「全人力」とは具体的にはどういう力なのだろうか。
 全人力は、英語の“whole person education(全人教育)”から来た言葉である。これは知識だけの教育ではない、知性、徳性、感性、体力を総合した力である。行きつくところは、先ほどのミルのリベラルアーツの定義につながると思う。「いろいろなことをよく知っている、しかしひとつのことを非常に深く知っている」。そういう人間を育成することである。そこにリーダーシップが備わっていかなければならない。
 リーダーシップはフォロワー(従っていく人)を率いていくわけで、自分の考えを説得力をもって伝えることができなければならない。またリーダーは明確な目的、目標を持っていないとリーダーシップを発揮できない。人格、体力、学識を含めて、総合的な“whole person”にならなければならない。それをもとに国家間や異文化間で意思決定し、調整できるのがグローバルリーダーである。
 ですから、実行力、他人への理解力といった、全人力と世界的視野を持った人格を育てることがグローバル人材の育成だと言えるのである。

世界標準の教育とは「世界において個を確立する」

 次に、「世界標準」の教育について述べておきたい。
 一つ明確にしておきたいのは、世界標準の教育と言っても、人材が世界標準になる、同質化することではないということである。人材とは「個」であるから、世界標準の教育とは「世界において個を確立する」教育である。世界で同質の人材を確立することではなく、その人その人の個を育てていく教育である。
 その際、知識としては物理、化学、数学等の標準化できる学問分野の教科を受講し、知識を世界標準にしていく。もう一方の、人格、あるいは国語や文化や道徳や歴史といったものは標準化できないから、それぞれの国が特色を持って責任をもって教育していかなければならない。標準化できる科目と合わせて、両方を統合して教えていかなければならないわけである。
 21世紀が一層グローバル化していく中で、その国の特殊性、特徴というものを維持し強化していくことが、人類全体の多様性を維持していくために、どうしても必要になってくる。
 世界が標準化に向かっていくと、同質化による脆弱性という問題が出てくる。例えて言えば、世界中が同じ食料だけを食べるようになると、何かのきっかけでそれが食べられなくなった時に大変困ることになる。何でも食べられるようにしていかなければならない。国々が多様性を保っていくことは、世界全体に対する社会の責任であり、国家の責任である。21世紀の国の役割は、他国と競争、対立することではなく、協調性をもって多様性を強化することである。
 個を確立するというのは、多様性を確立するための一番の基本である。その個までが標準化されたら全く話が逆である。世界標準の教育を進めると同時に、個を確立するための教育を別にやっていかなければならなくなる。
 グローバル化と個の確立は、一見矛盾しているように聞こえるが、グローバル化における個の確立とは一つとして同じではない個人を確立していくことである。交通手段、情報通信等による利便性によってグローバル化が進んでいる現代社会の中で、多様性を維持していく必要性は逆にますます強く認識されるようになっている。
 逆に言えば、グローバル人材とは多様性をきちんと理解し、受け入れることができる人材だと言えるであろう。
 英語ができなければグローバル人材ではないと言うのは、グローバル化を表面的にしか捉えていないことである。英語が使えるというのは、あくまで一つのコミュニケーションの手段に過ぎない。
 例えば、古代の日本人は朝鮮半島を渡ってきたわけだが、何千年も過ぎると言葉も考え方も文化、社会も大きく変わる。だからグローバル化は同質化のみに集中するということではなく、同質性と多様性の混在で世界を覆いつくすことである。
 先ほど日本独自の「雑木林型人材」と述べたが、日本という言葉の中には、他の国を排除するのではなく、日本が特殊性、特徴を持って存在していることが全世界に対する日本の責任だという意味合いが含まれていると私は思っている。中国は中国、韓国は韓国、日本は日本、お互いどちらが上ということではなく、全世界に対して責任ある多様性を保ちながら手を取り合うということが必要だと思う。

「個」と「個性」の違いが意識されない日本

 また、「個」と「個性」について、日本ではあまり意識されないのではないかと思う。
 「個性」(personality)は、個人の持ち味や特性、人柄を指す。これは他人と比較して感じられる相対的なものである。これに対して「個」(self)は、自己や自我といった「自分の核」、つまり自分自身の中にある絶対的なものを意味する。
 西欧人にとって個とは、神という絶対的な存在との関係が前提となっている。
 しかし、日本では一神教的な文化が根付いているとは言えない。そのため確固とした個を築きにくいのだと思う。そういう日本で、個の確立をできるのか。あるいは日本的なあいまいさを排除して、個の確立をすべきかどうか。大きな課題を突き付けられている。ただ、グローバル化が進む中では、日本人も個の確立を考えていかなければならない。
 あいまいさを持つ日本的なあり方は、自分の考えとか主義信条を前面に出して譲れないという程度が他の一神教的文化の人々と比べると、相対的に強くないということだと思う。あまりに強く個と個がぶつかって、譲れないという状態になってしまうと共存ができなくなる。
 人間というのは真ん中に固い個(private self)があって、周りに表に向って開かれた個(public self)があるわけだが、日本人のprivate selfの部分は広く、public selfの部分は狭い。一方、アメリカ人のprivate selfの部分は狭く、public selfの部分は広い。
 要するに個の確立と言った場合、日本的な意味での個の確立なのか、アメリカ的な意味での個の確立なのかで違ってくるわけである。日本では個の確立をする場合、private selfの部分がお互いに大きいのでプライバシーにはあまり入り込まないが、アメリカの場合はprivate selfの部分がお互いに小さいのでプライバシーの部分は小さいので自分の私生活まで入っても大丈夫というところがある(図2)。

 グローバルな人材を育成するという時、このような日本的な個の構造では確かに難しい。個が確立していなければ、自分を表現し、相手に伝えることができない。また一方で、自分の主張を伝えると同時に、相手の価値観や意見も受け入れなければならない。自分の文化や価値観の異なる人と対話を続けるためにはpublic selfの部分を広くして相手との共通理解の部分をお互いに広くして行かなければならない。

米では先生と学生が授業を相互評価

 ただし、アメリカが全て標準で、アメリカ的な人格になればいいというわけではない。
 アメリカと日本の大学の授業のやり方の違いについて紹介すると、アメリカの大学で教えていた時は、アメリカ流のパフォーマンス的な授業を行った。アメリカの授業においては先生は教壇でスターなのであり、学生は顧客であると同時に授業を盛り上げていく共演者と言える。講義ノートをただ見ながらの講義ではなく、絶えず学生の中に入ってディスカッションでクラスを盛り上げるわけである。学生にもクラスを盛り上げる責任がある。アメリカの大学の授業では先生が試験で学生の成績評価をするのと同時に、学生も先生の教育評価することで、クラスの中で双方向の授業構造と相互評価の構造が確立していく。しかも学生の評価が先生の給与に反映する仕組みになっている。近年では、日本でも学生による教員の評価が導入されている。
 一方、日本は学生が先生を先生として尊敬し、先生の言うことを聞く。これは日本の特徴であり良いところでもある。
 ただ、日本も授業スタイルを双方向の討議形式に改善していく必要があるだろう。
 授業においてディスカションが成り立つには、学生も「言うべきもの」を持っていなければならない。そのためには予習が大切であり、予習するにはこの授業で何をするか、シラバス(各科目の授業計画)が必要になる。シラバスがあって初めて、学生は予習をしてクラスに臨むことができるわけである。
 シラバスは日本の大学でも義務化されるようになった。先生と学生の相互評価、シラバスなど、小道具がいくつか整って初めてクラスがうまくいく。
 英語で授業をしても、レベルが落ちないように授業を補強するのがリーディング・アサインメント(課題図書)である。シラバスがしっかりあって、このクラスではこの参考図書の何ページから何ページを予習させた上で授業をする、といったことをやっていく必要がある。

大学より早い段階でリベラルアーツ的な教育を

 全人力の養成ということを考えると、本来なら大学ではなく、もっと早い段階でリベラルアーツ的な教育をするべきであろう。
 欧米では、家庭でも「あなたはどうしたいの?」「どうしたらいいと思う?」と問いかけて、個を確立させようと意識している。
 ちなみに、私の子供二人はアメリカで幼児期を過した。上の娘が通った幼稚園ではプロジェクト授業があって、園児が白衣を着て、ノートを抱えて各自がプロジェクトをやる。その結果を皆の前でプレゼンテーションをやる。幼稚園から個の教育が始まり、小学校、中学校になると成績別にクラス分けをする。IQが高いクラスを別にしたり、一人ひとりの能力を伸ばしていくという考え方が強い。そして、途中でつまづいても、高校あたりの段階で再チャレンジする機会がいくらでも開かれている。もちろんアメリカ社会は自由には責任が伴うと考えているから、それだけ厳しい社会でもある。
 日本でも個を確立する教育が必要であろう。例えば少人数であれば、クラス全員が同じ考えではなく、個を発揮させるということである。
 雑木林で一本一本の木がお日様を目がけて懸命に葉を伸ばしていく印象である。雑木林は雑然としているかもしれない。しかし、全体を見ると春は新緑、夏は濃い緑、秋は紅葉、冬は枯葉というように四季に溢れる。一本一本が地に根を張り、それが四季折々に形を変えながら、多様性を持った雑木林型。そういう教育になっていかないと、一人ひとりが成長し、グローバル人材の方向には行かないのではないか。

国際教養大学の取り組み

 さて、私たち国際教養大学は今学期29カ国・地域から交換留学生を迎えている(2017年4月現在)。3年生では1年間の海外留学を義務化しており、逆に3学年は海外から学生に来てもらう。このように3年次を中心に、本学学生が海外に留学し、海外からほぼ同数の学生が留学してくるという構造になっている。学生が出入りする中でも、必要な単位を取得できるよう、スムーズな世界基準のカリキュラムを考えている。本学を卒業するには4年間で124単位を履修しなければならず、そのうち3年生は留学先で約30単位を取得しなければならない。そのため4年で卒業できる学生は半分くらいで、だいたい4年半から5年かかる。しかし、学生達はしっかりとした内容の学びを達成している。
 授業を受けるために学生はお金を払っている。教授は授業料に見合う授業をしなければならない。特に米国のビジネススクールにおけるMBA(経営学修士)は学生が働いてお金を貯めてきている。平均年齢30歳位である。2年間のMBAを終えると4年生卒とはスターテングサラリーが違う。卒業の頃は貯金がゼロになる。そのため授業を見る目が非常に厳しい。そういう厳しい学生の対教員評価を学科長が評価する。そして昇進や昇給が決まっていく。
 国際教養大学のような大学が、20、30出来てこないと難しいと考えている。リベラルアーツの大学である。

教育の質を保証する

 教員の募集に関しては、クロニクルハイアーエデュケーションという、世界的な大学教員の人材募集雑誌を見て公募する。あるいは学会で情報交換する。
 この雑誌に求人広告を出すと、海外から60~70人の応募がある。アメリカはだけでなく、インドやイスラエルなどからも応募がある。最終的に3人程度に絞り込んでいる。
 それから教育の質を保証するという観点から、教科の国際ベンチマーキングを行なっている。一つはcollegiate learning assessment+(CLA+)という、アメリカの大学生の4年間の学びと成長を測っている民間組織を活用して、一人一人の学生を1年生の時と4年生の時に追跡調査する。4年間で個人がどれだけ伸びたか、また大学自体が4年間で学生をどれくらい伸ばしたかをアメリカの大学生と比較調査するのである。これによって国際間で比較ができるわけで、これを導入しているのは日本では国際教養大学だけである。今後、日本でもCLAを導入する大学が出てくると思う。
 もう一つは、アメリカの提携校とのベンチマーキングである。リベラルアーツの大学からジョージタウン大学など三つの大学と教育課程、教育方法、教育成果などカリキュラムの比較をしている。
 生活面では1年生は全員寮生活を義務付けている。全人力を育成するという観点から、寮生活も単に生活を共にする「生活寮」から「教育寮」へ、転換をしている。共通の関心を持つ学生が共同生活しながら、お互いに学び合っていくわけである。テーマ別に、フィットネスハウス(健康科学ハウス)、日本自然文化ハウス、日本語ハウス、ロマンス諸語ハウスといった、ハウス群を導入している。小さい大学だからこそできる学びの環境を今後も生かしていきたいと考えている。

年間4、5万人のグローバル人材を

 私は1年間に4万人から5万人のグローバル人材を育てる必要があると考えているが、それは国をあげた取り組みというより、一つ一つの大学がそうした教育を行い、結果として全体で4万人、5万人になるようにすると考えなければできないのではないかと思う。

政策オピニオン
鈴木 典比古  国際教養大学理事長・学長
著者プロフィール
1945年栃木県生まれ。一橋大学経済学部卒。インディアナ大学経営学博士。ワシントン州立大学准教授、イリノイ大学助教授、国際基督教大学教授、学長等を経て、現職。中央教育審議会大学分科会委員なども務める。著書に『国際経営政治学』『なぜ国際教養大学はすごいのか』、共著に『グローバル教育財移動理論』他多数。

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