リビア情勢:イスラミストが蔓延する現状に至った国際社会の責任について

リビア情勢:イスラミストが蔓延する現状に至った国際社会の責任について

2019年12月4日

1.はじめに

 現在リビアは、ハフター(Khalifa Hafter注1)将軍と国家合意政府(Government of National Accord: GNA)のサラージ(Fayes al-Sarraj注2)首相が覇権を争って対立しており、ハフター将軍が率いるリビア国軍(Libyan National Army: LNA)注3とGNAを支援するリビア軍(Libyan Army: LA)注4がトリポリをめぐる攻防で衝突を繰り返し、リビア第三次内戦の様相を呈している注5。2016年のシルトの戦いでリビアにおけるイスラム国(Islamic State: IS)の拠点は失われたものの、IS戦闘員はリビア南部や東部に散らばって活動しており、イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ(Al-Qaeda in Maghreb: AQIM)分派の戦闘員も同様に活動している。彼らは、リビアの混乱に乗じて同地をテロの発射台として利用する懸念があり、地中海をはさんでリビアの対岸に位置するヨーロッパは、特にそのターゲットになりかねない。
 2011年2月17日に始まったリビア第一次内戦は、独裁者カダフィを追い出し民主政府に移行するハズだった。少なくともそれに介入した国際社会は、そう期待していた。しかし、リビアは、同年10月20日にカダフィが死亡してカダフィ独裁体制が崩壊した後、武装民兵が急増して治安は悪化の一途をたどり暴力沙汰が頻発するようになった。それでもリビア初の民主選挙は2012年7月12日に行われ、リビア国民議会(General National Congress: GNC)が発足した。しかし、結局のところ、GNCは、議場にイスラミストが押し寄せて彼らに都合の良い議論しかできない程度にまでイスラミストに牛耳られるようになった。GNCは、憲法制定を主要な任務として18ヵ月の任期を与えられていたのに、それを果たせなかった。そればかりでなく、イスラミストによる暴力沙汰も、2012年9月11日に起こった在ベンガジ米領事館襲撃事件以降、政府の権威は地に落ちて、日によっては軍人・警察官・人権活動家などを狙った殺人・誘拐事件が一日3件も起こって、「何をやるのも自由」といった無法状態に陥った。そのような状況の中で、GNCが一方的に任期を延長する旨決議すると、リビア人一般市民は、安全に対する不安からイスラミストの暴力沙汰に強烈な拒否反応を示と同時に、機能不全の政府に対する怒りを爆発させた。この一般市民の感情に応える形でハフター将軍が2014年5月16日に始めたのが、イスラミスト一掃作戦=Operation Dignityである。同作戦は、一方で機能不全のGNCに替えて新たな選挙を行うことにつながり、2014年6月25日の選挙で自由主義の世俗派が多数を占める代議院(House of Representatives: HoR)ができた。しかし、他方で、同作戦は、イスラミストの警戒を呼び覚ますとともに彼らの団結を促した。彼らは、HoRを認めずGNCの復活を宣言するとともに団結してDawn Forceを結成し、Operation Dignityに対峙する作戦=Operation Libya Dawnを始め、ここに、Dignity対Dawnが対決するリビア第二次内戦注5に突入したのである。
 ところで、イスラミストは、リビア第一次内戦を戦った主役であり、カダフィ体制崩壊後も治安維持機能の一翼を担ってその存在を増大させてきたが、彼らは、リビア第二次内戦でも、Dawn Forceを構成する他のメンバーから、「ハフターの侵攻を抑えることができる強力な戦士」との評価を得て、その影響力を増していった。Dignity対Dawnの衝突は次第にエスカレートしていったが、結局、2014年末ごろ、ハフターが、リビア東部の殆どの支配を回復し、リビア西部でもトリポリ制圧作戦の開始を宣言するまでに至ったが決定的勝利を収めることができないまま、2015年には膠着状態に陥った。
 そのような中で国連の和解工作によりHoRとGNC代表が2015年12月17日に署名したのがGNAである。GNAはサラージをトップに据えた暫定政府の合意で、2年以内に新たな選挙をして民意を反映した政権に移行することを予定していた。しかし、リビア人一般市民は、GNAを、「国際社会が押し付けた合意でしかない」と見ており、実際、Dignity対Dawnの衝突を実質的に収束させるべく双方の実力者同士が合意したものではなく、Dignityの実力者ハフターを蚊帳の外に置いたまま放置し、Dignityを支持するHoRとDawn Forceが後押しするGNCの従前の二極対立に、GNAを持ち込んで三極対立の構造にしただけのものだった。GNAも、山積する国内問題の解決をなおざりにして国際的承認を得ることに奔走した。そのためリビアは安定化するどころか、不満を持つハフターが2019年4月4日にOperation Flood of Dignityを開始してトリポリに向けて攻撃を始め、ここにリビア第三次内戦とも呼ぶべき状況に突入して現在に至っている注6
 リビアが現在のような状況に至るについては、国際社会の誤った判断に基づく軍事介入や政策が大きく関与しており、国際社会が正しい状況判断に基づいて適切な政策をとっていれば、避けられたハズのものである。現況を避けられたチャンス、換言すると国際社会の誤った判断に基づく軍事介入や政策ミスは大小様々多くあるが、特に重大なのは、①リビア第一次内戦を主導したのはイスラミストで一般市民によるアラブの春(民主化運動)ではないのに、そのように誤解してNATOが軍事介入してイスラミストを助けたこと、②カダフィ体制崩壊後には治安の回復が何よりも優先されたのに、治安の回復・維持を含む国家再建事業を経験のないリビア人に任せ、国際社会は小規模のUNSMILを派遣して彼らに助言する程度のことしかせず、その結果イスラミストの跳梁跋扈を許したこと、③Dignity対Dawnの対立が激しさを増し膠着状態に陥る中で、対立する両者の真の和解を図らず、机上の空論ともいうべきGNA和解案を両者に提示して吞ませるだけに終わったために紛争の解決はむしろ遠のいてしまったことであろう。
 本稿は、紙幅の関係で上記諸点を全て取り上げることは出来ないので、以下に、上記②について検討する。

2. カダフィ体制崩壊後、なぜイスラミストが跳梁跋扈するようになったのか

(1)カダフィ体制崩壊後の課題(治安の安定)
 リビア第一次内戦中に国を代表していたリビア国民評議会(National Transitional Council:NTC)は、内戦が終わると事実上の政府になり、2012年7月7日に行われたリビア初の民主選挙で出来たGNCに同年8月8日に政権委譲をするまで政権運営を担った。
 当時のリビアは、治安の維持を含め政府の行政サービスの全てが、カダフィ独裁体制崩壊とともになくなった状態だった(1)。つまり、カダフィは42年の治世をかけて独裁政権を築き、独裁者カダフィと彼を取り巻く一握りの者達による命令と支配の体制を創りあげてきたため、カダフィと一握りの取り巻きが居なくなった途端、国は動かなくなってしまったのである。
 リビア第一次内戦が終わっても、内戦を戦った武装民兵はそのまま居残っていた他、内戦後にも新たに武装民兵が生まれて、2012年はじめには有力な武装民兵団だけでも30を超え、リビアは武装民兵であふれていた。国の制度が崩壊・弱体化したのを受けて、地方や部族といった下部組織が、自分達の利益を自分で守ろうと動き出したからである。これら武装集団のうち、内戦を主導したリビア東部のイスラミストは、彼らが唱導するシャリア法に基づく国を創ろうとしていたため国家再建に対する脅威だったが、その他の多くの武装集団は、他の集団をあまり信用しておらず、又はNTCがリビアを自由な国に引っ張っていくことができるか疑問視しており、自分たちの安全を心配して自衛目的で武器を保有しているだけだったため、国家が治安維持機能を回復すれば解消するハズのものだった。
 ところで、およそ紛争後の国を再建するについて最大の問題は、治安の安定である。治安が安定しなければ、経済や行政も機能させることが不可能で、外国投資もやってこない。当時のリビアでも最重要な課題は、多くの武装民兵を動員解除・武装解除して社会に吸収し、武力を政府の手中に収めて、もっぱら政府が治安維持に当たる体制を整えることだった。リビア人も国際社会も、治安維持の重要性を十二分に理解していた(2)注7。それに、リビアは、人口は約600万人と少なく、石油収入は豊かで、内戦が経済インフラに対して与えた損害は比較的軽く、部族的・地域的対立もそれ程重症ではない等、国家再建が容易な条件にも恵まれていた。
 しかし、カダフィ亡き後のリビアは、リビア第一次内戦を戦った武装民兵は2~2.5万人だったのに、約半年後には約14万人にまで急増し、治安維持に失敗したのみならず、暴力沙汰が頻発するようになって治安は急速に悪化し、更なる内戦への扉を開いてしまった。

(2)なぜNTCは治安を悪化させたのか
 当時のリビアには、トリポリ、ミスラタ、ジンタン、サブラサなど地方毎に軍事評議会(military council)が存在し、多くはリビア第一次内戦を戦った武装民兵の司令官がその権威の下に武装民兵を集結させ、例えば、IDカードを発行し、兵器の管理を行うなど、指揮系統を強化して地域の治安維持に当たっており、まるで軍隊+警察のように行動していた。
 リビアが治安を維持し回復させるには、この軍事評議会の権限を排して、国家に治安維持権限を集中させ管理することが必要だった。しかし、そう出来なかった。何故だろうか。
 リビア暫定政権となったNTCは、選挙による裏付けもなく、リビア代表を自認していただけだったため、そもそも組織として力を発揮できる基盤がなかった。それに、NTCの幹部となったのは、内戦勃発後にカダフィ政権から寝返った者や1980年代に国外に逃亡した者らが中心で、反カダフィ勢力の中心である多くのイスラミストに信用されていなかった。彼らにとって、NTC幹部は、最近までカダフィのバックを得て片棒を担いできた者か、内戦を希貨として帰還した者で、いずれにしても個人的野心で反カダフィ勢力に加わった裏切り者でしかなかったからである。そもそも、リビア第一次内戦のヒーローは、アフガン戦争を戦った元アルカイダのベルハジ(Abdelhakim Belhadj)のような経験を積んだイスラミストのリーダーで、実際に戦ったのは彼らに率いられた武装集団の民兵であり、民兵は各々の武装集団の長に忠誠を誓っていた。
 NTCの幹部は、民兵からの信頼がなかっただけでなく、そもそも民兵をどう統率・指揮してよいか判らず、彼らをまとめるだけの力が元々なかったのである。その上、NTC幹部のジャリル(NTC議長Mustafa Abdul al-Jalil)とジブリール(NTC執行委員会委員長Mahmoud Jibril)は対立しており、それがNTC内部の分断を生んで暫定政権の指導力に影を落としていた。
 このような中で、リビア第一次内戦で功績のあったミスラタとジンタンの民兵リーダーは各々内務大臣と防衛大臣になり、カダフィ政権から寝返ったカダフィの下で大佐を務めたマンゴーシュ(Youssef al-Mangoush)は軍参謀長に就いた(5)。つまり、この人選は、治安問題に有効に対処するのを棚に上げて、互いに勢力を競い合うミスラタ民兵、ジンタン民兵、カダフィから寝返った旧カダフィ政権派にポストを配分した派閥均衡人事でしかなかった。さらに言えば、内務省と防衛省は、民兵の手に落ちたも同然で、マンゴーシュも、軍隊の長になったものの国の軍隊を創ることを好まず、民兵集団に金を回したのみならず、混乱・無法状態を利用して個人支配を打ち立てようと努力し、それぞれが民兵集団を囲い込んで民兵団大隊を形成して敵対した(6)。こうして、機能不全の暫定政権NTCは、彼ら、つまりはその配下の民兵に金を支払って治安維持を頼る他仕方のない状況に陥ったのである注8

(3)国連リビア支援ミッション(United Nations Support Mission in Libya: UNSMIL)
 国連は、2011年9月16日安保理決議2009を採択して、国連事務総長リビア問題特別代表マーティンの下にUNSMILを立ち上げた。UNSMILの任務は、リビア人自身による治安の立て直し・経済復興などを助け、国際社会の復興努力を調整することが主な仕事で、スタッフも200人と小規模だった。UNSMILは、何をすべきかの処方箋を描くべきだったが、一言で言うと待ちの姿勢で、リビア人に協力し調整することに限られ、移行政策の立案実施を経験のないNTC(リビア人自身)に任せた注9
 NTCが行政的決定権を持つことにこだわったのは、カダフィの圧政から解き放たれてリビア人自身で自分達の将来を決めたいという純粋な思いからだけではなく、選挙で選ばれてもいない自分達の正統性に自信がなかったからである。彼らは、「もし、UNSMILが政治的指導権を発揮し自分達が下働きをすることになれば、NTC=自分達の存在価値が問われる」と心配した。他方、2011~2012年にわたって世界の国や組織からは、多くのリビア再建プロジェクトの提案が寄せられた。しかし、外部から来る提案は、机上の空論に基づき治安の安定にはつながらないものが殆どで、しかもNTCの事務処理能力を超えて多かった(10)。そのためにUNSMILは非常に僅かな貢献しかできなかった。

(4)なぜPKOは派遣されず、国連憲章42条に基づく多国籍軍も展開しなかったのか
 リビア暫定政権たるNTCに行政能力がなく彼らに任しても治安回復を期待できないなら、国際社会がその任に当たればよかった。国際社会は、UNSMILではなく、PKOか若しくは国連憲章42条に基づく多国籍軍を展開していればよかった。RAND Corporationは、1万3000人の兵が2011年末までに展開していれば、リビアは治安を回復・維持して再建に取りかかることが出来たと見積もっている。
 なぜUNSMILですまされたのだろうか。
 それは、リビア第一次内戦の際に採択された国連安保理決議1973が、占領軍(occupying force)を特に否定していたこともあるが、最大の理由は、NTCが国連平和維持軍を拒否したからである。NTCは、リビア第一次内戦中も、外国の支援を求めながら地上軍派遣に反対し、空爆と武器の提供だけを要請したが、その姿勢は、内戦後も続いた。NTCら反カダフィ勢力の指導者らは、上述のとおり自分達の正統性に自信がなくNATOの捨て駒にされることを最も恐れていた。彼らは、もし、外国地上軍がリビアの地に展開して治安問題に有効に対処すれば、自分達の立場がなくなりその正統性を傷つけられ、マイナスだと考えていた。NTCが内戦後の平和維持軍の展開を拒否すると、国際社会におけるリビア再建の議論も立ち消えになっていった(11)
 PKOが無理なら、アフガン・テロ戦争開始後にアフガニスタンに展開した国際治安支援部隊(International Security Assistance Force:ISAF)のような国連憲章第42条に基づく軍事的強制措置(英仏を中心にした有志連合)も考慮すべきだった。それなら受け入れ国の同意は必要ではないのでNTCの拒否は問題でなく、武装民兵の動員解除・武装解除・社会復帰も強制的に行えるからである注10
 しかし、そのような措置はとられなかった。何故だろうか。
 ひるがえって考えてみると、国際社会は、リビア第一次内戦終了後のリビアについて一致団結して強い措置をとることができない状況だった。つまり、当時、ロシア・中国・南アフリカは、「NATOはSCR1973で認められた一般市民の保護を超えてカダフィの追放を目的に活動した」と非難し国連安保理には亀裂が生じていた注11。もっと言えば、ロシアをはじめとする諸国は、誤った行動をした仏・英・米などに責任を取らせたいというのが本音で、いやしくもロシアがリビア安定化に協力して仏・英・米などにその果実を摘ませるのは避けたいと思っていたのである。
 それに、仏・英・米など西側諸国も、本音では、リビアが国家再建を果たして中央政府の規制がしっかりと及ぶようになるのを望んでいなかった。つまり、VITOLなど西側諸国の石油会社は、リビアの石油を勝手にマーケティングすることでリビア第一次内戦中に莫大な利益を手にしていた。仏・英・米など西側諸国は、このような旨味のある商売を永く続けたいと思い、リビアが内戦中と同じように混乱している方が得策と考えていたのである。
 さらに、カダフィ体制崩壊後、間もなくのトリポリは、予想に反して平穏で、国際社会を強力な行動に駆り立てる状況ではなかったのも(14)、PKOや国連憲章42条の軍事的強制措置が考慮されなかった理由であろう。

(2019年11月20日)

 

注1)1978〜87年のチャド・リビア紛争ではカダフィ軍司令官として働いたが、捕虜になってカダフィに反旗を翻しアメリカに亡命した。リビア第一次内戦開始直後に帰国したが、権威主義的な態度が嫌われて反カダフィ勢力の司令官ではなくNo3のポストしか与えられなかった。カダフィ体制崩壊後も、望んでいた軍参謀長のポストは与えられず、しばらくの間アメリカに帰ったが、イスラミストの暴力沙汰が多くなり、ハフターへの支持と期待が高まる中で、後述のOperation Dignityを打ち上げた。

注2)カダフィ体制崩壊後にリビアの団結と再建を図るNational Dialogue Commissionのメンバーを務めた。実父もイタリアから独立後のリビアで国家建設に尽くした。政治的手腕があるからではなく、家柄・経歴と穏健な性格がかわれて首相になった。

注3)リビア国軍と言うと、リビア国家の正規軍のイメージが湧くが、そうではない。LNAとは、リビア東部の部族勢力と後述するHoR寄りの連邦主義者からなる民兵と元軍人からなるハフター勢力軍のことで、イスラミストの台頭を懸念するビジネスリーダーらからの財政的支援も得て、軍隊に等しい実力を備えている。

注4)リビア軍も、GNAの正規軍ではなく、GNAをそれぞれの思惑から支援する様々な民兵団の集まりである。

注5)リビア第三次内戦は、第二次内戦の延長だとして、リビア第二次内戦の中に含めて見る見方もある。

注6)ハフターは、リビアを軍事的に制圧して軍事評議会で治めたいと考え同案をアメリカに打診したが、アメリカにとって民間人による統治は譲れない一線で、一蹴された経緯がある。その時以降、ハフターは公式には選挙に興味を示しているが、Operation Flood of Dignityは、リビアに対するアメリカの関心が薄れているのを奇貨として、軍事統治案を実施に移すための第一歩とも評価できる。
 ところで、2018〜19年を通じてハフターとサラージを和解させる試みは多くなされたが実を結ばなかった。また、2019年4月14〜16日には、チュニジア国境近くの街ガダミスで、社会各層を代表するリビア人が集まってリビア大統領選挙と国会議員選挙を何時・どのような方法で行うかの勧告案を審議するリビア国民会議(Libyan National Conference)を開くことが予定されていた。同集会は2018〜19年にUNSMILの支援で準備され開催にこぎつけたものだった。さらに、2019年3月30日にはリビア地方議会議員選挙が5年ぶりに平穏に行われたばかりだった(投票率38%)。Operation Flood of Dignityは、このような状況の中で、ハフターがGNAに宣戦布告して始まった。
 なお、外国は、様々な思惑(リビア石油に対する利権・自国にリビアにおけるテロの脅威が及ぶことの防止・この地域に対する覇権拡大など)から、ドローンや高性能対戦車ミサイルなどの兵器を供与したり空爆するなどしてリビア内戦に干渉している。ハフター勢力を支援しているのはエジプト、UAE、サウジアラビア、フランス、ロシアであり、GNAを支援しているのはトルコ、カタール、イタリアである。
 アメリカはイタリアと共にGNA合意に導いた立役者であるが、トランプ政権は、ハフター勢力をテロとの戦いを行っているとして好意的に評価し、リビア情勢に対して無関心に近い。ロシアは、特にリビア第三次内戦が膠着状態に入った2019年9月ごろから良く訓練された傭兵を派遣してハフター勢力を支援している。
 現在、このような状況の中で、ドイツが国連と共にリビア和平を仲介しようとしている。ドイツはリビア第一次内戦当時からNATOの介入を導いた国連安保理決議1973を棄権しており中立的立場なのは良いとしても、それで事がうまく運ぶわけではない。つまり、ドイツと国連がリビア和平を仲介しても、実質的にハフターとサラージを和解させられなければ、GNAがうまく機能しなかったように、新たな和平案も機能するハズがない。また、上記のような外国によるリビア内戦に対する干渉やアメリカの無関心は、リビア内戦を燃え上がらせている原因で、これらを放置したまま和平を話し合っても実効性は疑問である。

注7)リビア第一次内戦後の国連の最初のレポートも、「内戦後の危うい状況から移行を確実にするにはカオスを避ける必要がある」と指摘しており(3)、UNSMILトップのマーティン(Ian Martin)も2011年12月にSCで、「治安問題に早急に対処しなければ、いろいろな係争関係者の利害が根を張って国の権威を脅かすことになる」と述べている(4)

注8)もっとも、武装民兵の武装解除と社会復帰も一部には試みられた。例えば、省庁間措置として戦士問題委員会(Warriors Affaires Commission)が創られ、民兵に武装解除と社会復帰の登録をさせ、それと引き替えに金銭賠償を行うことが試みられた。しかし、治安維持機能を国家に集中させるため、権限を削ぐべき軍事評議会を通じて手続きが行われた点に問題がある他、気前の良い支払・賠償のために2012年2月末には14万8000人もの応募があり(7)、数が多すぎて直ぐにさばききれなくなった上、応募者は若い失業者が殆どでベテランは少なかった。
 内務省も、警察の役割を補充し助ける最高治安委員会(Supreme Security Committee)を創って武装民兵を吸収する試みを行った。これに加わった者にも良い給料が支払われたため、数ヵ月のうちに10万人が集まった(8)。また、防衛省も、民兵に登録を促したが、登録の条件は無きに等しかったため、多くの武装集団は何度も登録し、登録料として支払われた金を複数回受け取った。
 このように、これらの措置は全体として統一がとれたものではなくチグハグだったのみならず、民兵に金をバラ撒くだけに終わった。そのため、逆効果で、更に新たな多くの民兵を生み、無政府状態を招来してリビアのみならず地域全体の治安を悪化させた(9)

注9)UNSMILは、リビア第一次内戦時に分担した役割にそって、米はカダフィの武器庫を探し、特にMANPAD(man-portable air defense systems)を追跡した。英仏伊も政治的アドバイスをする顧問団を送って混乱する省庁の立て直しを助けた。しかし、治安の維持・政治制度の立ち上げ・経済の立て直しという根本的な仕事はリビア人に任され、その費用もリビアの石油収入で支払われた。

注10)しかし、リビア第一次内戦を主導したフランスのサルコジは大統領選に敗北し、イギリスのキャメロンもカダフィ体制崩壊後にはリビアから関心をそらしてリビア社会を混乱から回復させ安定させることに真剣に取り組まなかった。オバマは、「歴史的地理的に近いヨーロッパを信頼し、英仏がカダフィ亡き後のリビア再建に力を発揮してくれると期待していたのに、キャメロンは他の雑事に気をとられて注意を払わなくなった」と述べている(12)

注11)ロシアのラブロフ外相は、「安保理決議1973で言うno-fly zoneは、カダフィ空軍が飛び立った時に必要なすべての措置をとるというものだった。カダフィの空軍は飛び立たなかったのに、NATO諸国はカダフィ軍を爆撃し、テロリストが多くいた反カダフィ勢力を助けて、カダフィを追放した。安保理決議は、NATO諸国によって踏みにじられダメにされた」と述べた(13)

 

〈参考文献〉

(1) Alison Pargeter, Oral Evidence: Libya: Examination of intervention and collapse and the UK’s future policy options, HC520, House of Commons, 13 Oct. 2015.

(2) House of Commons Foreign Affairs Committee, “Libya: Examination of intervention and collapse and the UK’s future policy options”, Third Report of Session 2016-17, p. 23.

(3) United Nations, “Consolidated Report of the Integrated Pre-Assessment Process for Libya Post Conflict Planning, Working Draft”, 5 Aug. 2011, p.6.

(4) UNSC, “6698th Meeting Transcript”, New York, UN Document S/PV/6698, 22 Dec. 2011.

(5) Robert M. Perito and Alison Laporte-Oshiro, “Libya: Security Sector Reconstruction”, United States Institute of Peace, 5 July 2015.

(6) Mohamed Eljarh, “Libya’s Fight for the Rule of Law”, Foreign Policy, April 4, 2013.

(7) UNSC, “Ian Martin’s Report at the 6728th Session of the UN Security Council on Feb. 29, 2012”, UN Document S/PV.6728, 29 Feb. 2012.

(8) Frederic Sehrey, “Libya’s Militia Menace: The Challenge After the Elections”, Foreign Affairs, 12 July 2012a.

(9) Esam Mohamed, ‘Libya’s Transitional Rulers Hand Over Power’, Boston.com, Aug. 8, 2012.

(10) House of Commons Foreign Affairs Committee, “Libya: Examination of intervention and collapse and the UK’s future policy options”, Third Report of Session 2016-17, p. 26. =Parliamentary Under-Secretary of State Tobias Ellwood’s observation on 9 Feb. 2016.

(11) Frederic Wehrey, “Libya’s Militia Menace: The Challenge After the Elections, ” Foreign Affairs, July 12, 2012.

(12) The Atlantic, The Obama Doctrine, April 2016.

(13) ‘Russian FM Sergey Lavrov slams “dishonest” NATO in Libya’, Libya herald, Oct. 16, 2017.

(14) Christopher S. Chivvis, “Toppling Qaddafi: Libya and the Limits of Liberal Intervention”, New York: Cambridge university Press, 2014, p.6.

政策レポート
多谷 千香子 法政大学名誉教授
著者プロフィール
東京大学教養学部卒業。東京地検検事、法務省刑事局付検事、外務省国連局付検事、総務庁参事官、最高検察庁検事、法政大学教授などを経て、現在、法政大学名誉教授。この間、1995年全欧安保協力機構マケドニア紛争拡大防止ミッション・メンバー、2001年~04年旧ユーゴ戦犯法廷判事を務めた。専門は国際刑事法。著書に、『ODAと環境・人権』『ODAと人間の安全保障』(以上、有斐閣)、『「民族浄化」を裁く―旧ユーゴ戦犯法廷の現場から』『戦争犯罪と法』『アフガン・対テロ戦争の研究』(以上、岩波書店)などがある。

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