宗教と平和構築:今日の混沌に思う ―宗教、ナショナリズム、暴力が乱舞する世界―

宗教と平和構築:今日の混沌に思う ―宗教、ナショナリズム、暴力が乱舞する世界―

2014年9月12日

 今日の世界情勢は混沌としており、宗教、ナショナリズム、暴力が乱舞する世界との形容が可能だ。そこでこの「混沌」を、政治論は避け、文明論の観点から整理の上、5点問題提起したい。
 本論に入る前に、先ず、議論の前提となる問題意識を4点挙げておく。第1点は、広義の「宗教」を抜きにして現在の世界を語ることはできないという点。それも、伝統的な意味での「宗教」に絞るのでなく、広義の「宗教」に目を向けたい。例えば西洋世界が民主主義、自由、人権などの価値観を輸出する時のやり方も、宗教的情熱に駆られているように見える。第2は国際社会の営みを律するような「文法」について。この文法には普遍的なものから個別的なものまであるが、全体として見れば「普遍的文法」が徐々に神通力を失い、「個別的文法」がまかり通る時代に移行しつつあるという点。第3は「暴力」の問題。今日の世界では、広義の「宗教」を背負って「正義」を語る人々の間で、「正義」の名のもとに過剰な暴力が横行しており、これを排することが緊急課題となっている。第4は「新たなる普遍」の必要性について。国際社会全体として、個別の正義のみならず、より大きな正義としての「新たなる普遍」を考えていくべき時代が来ているという点。

視点1:多様な「カミ」の登場 

 今日の国際社会では多様な「カミ」が跋扈している。その最たるものは、「自由」「人権」「民主主義」に代表される西洋モダニズムである。この三理念は啓蒙思想の所産として、ひとつの「大きなカミ」(本稿では、便宜的に「民主主義教」と呼ぶことにする)を提供している。
 また、アメリカを中心とする「市場主義教」も「信仰」の次元に達している。30年前、在ニューヨーク総領事館で経済問題を担当していた時に感じたことだが、多くの米国人は「自由(主義)」という絶対的な「カミ」を信じている。日本人も自由主義を掲げるが、一方で農業を守る「カミ」、中小企業を守る「カミ」、地域などを守る「カミ」なども大切にする。一連の「カミ」のひとつとして「自由のカミ」を信奉しているに過ぎず、実際には他の「カミ」と同等にしか扱っていない。その意味で、我々は多神教的なアプローチをしていると解し得る。
 ところが、米国人の多くは多神教的なアプローチをされることを不愉快だと感じる。モーセが偶像崇拝に走った3千人を処刑したという話があるが、まさに多神教を罰すると言う話だった。米国人はその時にモーセが感じた苛立ちと同じようなものを(多神教的に振る舞った)日本人に対して感じていると、米国の評論家や経済人たちと議論しながら感じたものだった。
 更に、欧州には、動物にも人権を与えるべきだという考え方がある。すなわち、動物を殺傷することは正義に反するといういわゆる「動物権」を標榜する人々が増えている。特に欧州委員会にはそうしたリベラルな考え方を持つ官僚が多く、(彼らを通じて)「動物権」に基づく新しい「EU指令」が次々と出されている。かれらは、この「正義」に反する営為に強く反発する(反捕鯨論もその一環として出てきている)が、その言動には宗教的パッションが感じられる。 *1
 西洋が標榜する「カミ」は、どちらかと言えば普遍的な「カミ」であり、普遍的「文法」を志向している。ところが、近年国際社会全体を見ると、自分たちの民族が持つ「聖なるもの」を崇拝する「民族教」(ナショナリズム)が目立つようになって来ている(特に1991年のソ連の崩壊以降、顕著)。それらは、普遍的な「カミ」ではなく、特定の民族や部族を対象にした「小さなカミ」を指向する個別的、地域的宗教と言える。
 このように、普遍的な「カミ」を奉る信仰と個別的な「カミ」を奉る信仰が繚乱乱舞しているのが今日の状況である。

視点2-1「民主主義教」(西洋的モダニズム)の神通力低下

 普遍的な「カミ」の中でも最も強力なものは、「自由、人権、民主主義」を奉る西洋的モダニズムであるが、そのグローバルな意味での神通力は低下している。それは、その宣教師的な役割を果たしてきた欧米の人々の熱意が下がって来たためでも、民主主義的な価値観そのものに衰えが出てきたためでもない。かれらは引き続きこの「民主主義教」の宣教師を務めていくだろう(例えば、欧米諸国はODAを出す時、無条件ではなく、「民主主義教」に帰依することを求めている)。
 むしろ、変化が生じているのは、「受け手」の側だ。過去20~30年、世界各地でナショナリズムが活発になって来ているが、それは、第三世界の国々が実力をつけ、自信をつけてきた結果と言える(BRICSはその典型)。かれらのナショナリズムは次第に整備されつつあり、「第三世界」を中心に、民主主義に対抗する独自の論理を含むナショナリズムを持ち始めている。
 その典型がイスラムであろう。近年、イスラムは民衆レベルでの影響力を強め、(イスラム圏では)イスラムに対する自覚が高まって来ている。イスラムには本来、西洋的なリベラリズムと相容れないものがあるため、イスラム社会では、イスラムとしての自己主張が強化されるにつれ、「民主主義教」受容は困難になって来ている。
 ところで、「アラブの春」と呼ばれる近年のアラブ地域における混乱を経て、民主主義への信頼感は低下した。性急な「民主化」によって大きな混乱が引き起こされたためだ。厳蜜に言えば、「民主化」そのものが混乱に直結した訳ではないが、国内全体を抑えてきた強権を倒して民主化が行われれば、必然的に「権力の空白」が生じる。「重石」がなくなれば、異なる民族間、宗派間の抗争を招来し、暴力が高じて多くの犠牲者が出る。このような混乱は、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチアなど、1990年代初めに旧ユーゴスラビアで起こったが、現在のシリア、イラクの情勢でも同じことが起きている。
 なお、「アラブの春」の際気になったことの一つとして、「民主化」を支援する西欧の人達の声の中に、「『正義(大きなカミ)たる民主化』の実現のためであれば、多少の犠牲は仕方ない」という含意が感じられたことを、挙げておきたい。大きな犠牲が予見されるような場合、「民主化」プロセスを一時サスペンドするくらいの、冷静で覚めた視点が必要だ、と私には思えてならないのだが。 *2
 (イスラム圏と同様に)中国、ロシアも近年強気になって来ている。経済力に支えられた自信によるものだろう。かれらも、西洋的な普遍文法に対抗するような独自の「カミ」を開発整備しつつあり、(西洋的)民主主義と相容れない部分が強まっている。
 ところで、従来であれば、西欧諸国が、「『民主主義教』に帰依するなら、援助するよ」と言えば、資金がなかった開発途上国は従わざるを得ない時代が続いた。ところが、今日においては、中国が援助外交を活発化させている。中国は少なくとも「宗教」を押し付けることはない。第三世界から見ると、西洋に頼らなくても、「ひも付き」でない援助が得られるようになったことから、西洋に対し強気に転じつつある。つまり、西洋が掲げる「カミ」を奉らない事例が増えつつある。
 かくして、これまでの「普遍的な文法」は徐々に神通力を失いつつある。普遍文法がなくなること自体は自然の力学であり、仕方のないことかもしれない。ただし、そこに否定的な影響(後述)が伴うことがある点は要注意だ。

視点2-2:「政教密着」型文明が有力に

 一昔前には、まともな国家では、正教は分離するもの、との「常識」があった。この「常識」も、今日崩れて来ている。特にイスラム圏の国々では、政教が未分離である、或いは、密着している場合が多い。そして、近年イスラムの復権が進む中で、イスラム世界では「非世俗化(de-secularization)」が進行している。 *3 イスラムはキリスト教より6世紀ほど後に出てきた宗教であるが、類似の構造を持っている。この6百年の差を考えれば、現在のイスラムは、キリスト教の西暦1300年頃、すなわち中世の終わり頃に相当すると見ることができる。
 中世においては、キリスト教は科学、経済、学問、思想を含む全ての営みより上位にある「普遍的原理」であり、これを「重石」として秩序が保たれていた。宗教改革から宗教戦争までの時代になると次第にその秩序が崩れ、普遍的原理の神通力が低下する。近世になると、カトリックやプロテスタントを含めた「個別的正義」が対峙し、大混乱に陥った。今の中東が6世紀前にキリスト教が辿った道を辿っていると仮定すると、現在のイスラム世界は(欧州で言う)「中世的な世界」にとどまることを目指しているのか、或いは、「近世的な世界(混乱は覚悟する必要がある)」に移ることを目指しているのか、考察してみるのも悪くない。
 いずれにせよ、一言で言えば、イスラム圏では「非世俗化」が進み、その一方で西欧では「世俗化」が進んでいる。地中海を挟んで北と南でまったく逆方向の大きなベクトルが併存しているのが、今日の欧州から中東にかけた地域の姿である。
 つまり、両地域全体を貫く普遍的文法は存在しない。イスラム世界には、かつてはトルコやエジプトのように、強権の支配下「世俗的な文法」を適用している国があった。その限りで西欧との一致点はあったが、それも消滅し、普遍文法は不在になりつつある。

視点2-3:ナショナリズム、宗教絡みの抗争

 1989‐91年を境に、世界ではナショナリズムやそれと結びつく宗教の復活、台頭が顕著となっている。その結果、ナショナリズム間、宗教間の緊張関係が高まり、中には物理的抗争に発展するケースもある。簡単に言えば、国際社会においてナショナリズム或いは宗教は依然として「主役」なのだ。米国カトリック大学のジェリー・ミューラー教授は、『フォリン・アフェアズ』誌に発表した「我々と彼ら(Us and Them)」という論考で、そう喝破した。 *4 ナショナリズムは依然として国際社会を律する力を持っているとの教授の指摘は、正鵠を得た見方だ。
 教授によれば、「エスノナショナリズム(ethno-nationalism)」はモダニズムの申し子である。エスノナショナリズムは、この数百年にわたり大きな力を持ってきたが、欧州に限って言えば、近年それがかなり抑えられるようになって来たと言う。英国外務省の論客、リチャード・クーパーが言うところのポストモダンに入っているということだ。現象としては、特に西欧では、EUのような超国家的な機構が誕生し、ナショナリズムが抑制されている。
 しかし、欧州でこれだけナショナリズムが抑制されるようになったのは、ナショナリズムを超克した結果ではない(と教授は指摘する)。それまでの2‐3百年を見れば、欧州の歴史は血生臭い暴力の連続であった。戦争だけではなく、民族浄化や特定の集団の強制移住、国外への放逐を繰り返してきた。その結果、異民族間、異分子間の「棲み分け」が進んだのである。
 かつての欧州では、民族間の境界線と国家間の境界線が一致せず、国家の中にさまざまな民族が混在していた。ところが戦争や強制移住、国の分割などを通じてそれらが一致するようになって来た。第一次大戦、第二次大戦後の処理にしても、例えばソ連がドイツ人を放逐したり、ポーランド人を強制移住させたりした。更に冷戦が終結してからは、旧ユーゴ紛争などが起こり、欧州に限って言えば、民族間の境界と国家間の境界は、ロシアやベルギーなど一部の例外を除き、かなり一致するようになって来たのである。
 したがって、今日の欧州諸国は2‐3百年前と比べて民族的同質性が高まっている。その結果、民主主義や非暴力を享受する環境が整備され、社会は安定している。ただし、それは過去に暴力を使って人々を強制的に分離させ、民族主義の論理を貫いた結果なのである。民族主義は克服されたわけでなく、今日なお「隠れた勝者」だと、教授は述べている。
 それでは欧州以外の国々はどうか。教授によれば、中東~インド亜大陸を含む多くの開発途上国では、欧州と異なり、いまだに多民族が矛盾を抱えながら入り混じっている事例が多い。その典型がシリアである。かつてこの地域は、現在よりも民族的に分離していたが、フランスが植民地支配を効率的に行うために意識的に異民族を混在させたと言われている。その意味で、現在の中東地域は19世紀前半以前の欧州に共通する要素を持っている。そして多民族の混在する状況を解消するために、時として特定の民族や宗派の隔離を求めて紛争が起きている。異分子や少数派を国外追放したり、民族浄化したり、テロを起こしたりしている。今後もこのような血生臭い事態は繰り返されるだろう(と教授は述べている)。
 ニューヨーク・タイムズ紙のコラムニストであるロス・ドーサットが、2011年に同紙に発表した「民主主義の副作用(Collateral Damage)」という論考も注目に値する。 *5 曰く、シリアの事例にとどまらず、アフリカから中東、インドにわたる世界を見渡すと、強権政治が終焉した国が多いが、それらの国では今後、紛争や暴力が激化する可能性がある、と。
 ミューラーやドーサットの主張を翻訳すれば、フランシス・フクヤマが述べた「歴史の終焉」とは逆に、普遍的「カミ」は衰退し、ナショナリズムという個別的な「カミ」がそれを排する形で台頭している、ということだ。かれらの見方は、『文明の衝突』のハンティントン教授の見解に通じるものがある。多くの国が自分たちの「カミ」、すなわち国家的アイデンティティーの中核となるものを開発整備しており、普遍文法の不在化の流れは不可避のようだ。

視点3:多数の「正義」の対立が暴力を招く

 視点2-1~2-3では、普遍的文法の不在化、個別文法の台頭を確認した。ナショナリズム間の対立が目立つ今日、改めて問いたい。「個別的文法」を活かしながらも、全体を統べるような「新たなる普遍」を開発整備する必要があるのではないか(新たな「大きなカミ」を考えるべき時が来たのではないか)、と。
 しかし、その前に特に憂慮すべきこととして、「過剰な暴力」が横行しているという重い現実がある。「カミ」や「正義」(民主主義、宗教、宗派、民族、国家など)の名のもとに抗争が起きた結果として、不当な殺戮がまかり通っている。「正義」の犠牲になっている人がおびただしいという現実を直視する必要がある。「正義」と「正義」の衝突の結果、過去においてはバルカン半島で、現在はシリア、イラク、パレスチナ、ウクライナなど世界各地で、過剰な殺戮がまかり通っている。
 この問題については、考えるだけでは駄目で、早急に行動しなくてはならない。「正義」については誰もが論ずるが、暴力(或いは暴力に寛容な文明文化)と言う問題の深刻性につき指摘する人々は少ない。先ずは、「正義の相対化」並びに「暴力に不寛容な文明」の創造が急務だ。
 宗教は紛争の源になることもあるが、本来は「暴力の文化」を排することにこそ、宗教者の大きな役割がある。バチカンやローマ法王の役割もそこにある。例えば、ローマ法王は昨年9月2日、シリア問題について緊急に戦闘行為が停止されるべきだと訴え、世界で祈りを捧げるよう呼びかけた。そのような危機感を持つ人々が多数現れ、世界的な合意を形成する必要がある。「正義が暴力を招いている」というパラドックスを憂慮する国際世論を育てなければならない。

補足1:「アラブの春」失墜の意味

 最後に、補足として3点述べておきたい。
 第1点は、「アラブの春」が失敗したのはなぜか、と言う点。言うまでもなく、中東地域では、アラブ全体が「ひとつの民族」であり、シリアとかイラクといった民族は(現在は)存在しない。シリアやイラクなど個別の国家は、それぞれ人工的に作られた国であり、独自にして固有の「神話」は存在しない。
 アラブ圏では、国家としてのアイデンティティーが脆弱な国が多い。国を纏めてゆくためには、万人が成る程と思うアイデンティティーが必要だ。アイデンティティーを固めるには、イスラムに依拠するのが手っ取り早いが、イスラム勢力は概して統治能力がない。アイデンティティーを固めるためにイスラムに頼りたいが、イスラム勢力に統治を任せると国が混乱するというアンビバレントな状況によって、「アラブの春」は失墜した。
 他方、統治能力を持っているのは軍隊を含む世俗勢力である。結局、現実問題としては、統治面は軍隊に頼らざるを得ないことが多い。軍隊は開発途上地域においては唯一の「近代化」された勢力だからだ。つまり、軍隊とイスラムが「二大政党」なのであり、長期的に展望すると、中東ではこの世俗勢力(軍隊)とイスラムの両勢力の間で政権交代が繰り返されるのではないか。中南米で、長い間左派勢力と軍隊が5~10年ごとに政権交代を繰り返してきたことと、類似する面がある。
 特に深刻なのは、宗派間の抗争が強い国々だ。シリアやイラクのような国で、過剰暴力の根源を断つためには、国境の再編、再定義(国内の分割を含む)をはかる必要があろう。それはまさに欧州が経験してきたことでもある。決して「イスラム国(IS)」による行為を認めるわけではないが、何らかの意味で宗派間での分離、分割を含む、境界再定義が必要になって来るだろう。
 加えて、暴力回避の観点から言えば、「性急な民主化」より「節度ある独裁者」の方がましなことがある、という観点も必要だ。現在のシリアやイラクの混乱の根源はブッシュ(ジュニア)時代の米国が作ったと私は見る。シラクのフランスは先を見越して、米国の方針に強硬に反対したが、慧眼だった。

補足2:未熟、脆弱なアイデンティティーが少なくない

 第2に、アラブ、ロシア、インド、中国、韓国など多くの国々が、独自の「カミ(アイデンティティー)」を整備しようとしていることに関連して、一言。そのプロセスは現在なお進行中であるが、(アイデンティティーが)未塾な段階においては、国家的アイデンティティーは不安定であると言わざるを得ない。
 独自の「カミ」を整備する際に核となるものは、アラブ圏ではイスラム、歴史、過去の栄光などであろう。ロシアの場合、歴史、過去の栄光に加え、ロシア正教が核になる。それを象徴的に示した出来事が14年前にあった。ロシア正教会はボルシェビキ革命によって殺害されたニコライ二世を、殉教者として2000年に聖人に列した。これにより、ロシア正教会のパトロンを葬ったボルシェビキ革命は全面的に否定され、「旧来の世界」が復活を見た訳だ。中でも、最も難しいのは、共産主義の正当性が低下した中国だろう。中国々内には、公式に認められているだけで55の民族があるが、他方歴史や過去の栄光を賛美するとなれば漢族中心にならざるを得ない。それだけに、多数の民族を満足させるような普遍性のあるナショナリズムを作るのは非常に難しい。
 ここで注意すべきは、国家のアイデンティティーが不安定な中で応急処置的に「もっともらしいもの」を作るとなると、取り敢えずは、「他者」を利用するほかないという点だ。東アジアでは日本が「標的」となる。例えば、かつて胡錦濤政権が登場した時分、中国で勤務している日本の外交官は、「同政権は足元が極めて脆弱だ」と言っていた。文明論的に言えばアイデンティティーの整備が不十分だということであり、政治論として言えば、国内をうまく纏められるか定かでない、ということだ。折しも、小泉首相が靖国神社に参拝した。それによって胡錦濤政権は労せずして国内を纏めることが出来、政権は安定化した。「恩人たる小泉さん?」に胡主席が感謝を表したと言う話はついぞ聞かないが、まさに僥倖だった(感謝されても良いくらいだ)。なお、中国は、今なお確固としたアイデンティティーを生むに至っておらず、それが、近隣諸国との摩擦を生む遠因となっている。

補足3:西洋的モダニズムとの距離感

 第3は、西洋的モダニズムとの距離感。この距離感は民族、文明によってかなり差がある。非西洋的な国々は三グループに大別される。まず、西洋的モダニズムに対抗する「カミ」の開発を画している国々がある。イスラム、ロシア、中国などだ。第2はモダニズムを大枠で受容している国々で、韓国、フィリピン、インドなど。そして、第3は、両グループの間で揺れている国で、トルコやインドネシアなどだ。トルコについて言えば、これまでモダニズムのグループに入っていたが、最近はそこから抜けたいという衝動が感じられる。因みに、最近、中国が韓国に言い寄っているが、これは文明論的に言うと、中国が韓国を第1グループに取り込もうとしているということだと、私は見ている。
 なお、中国は、2010‐11年頃から、西洋(モダニズム)に対するスタンスを硬化させたようで、その結果、この頃から、「我々の近代化は西洋化ではなく、独自の近代化だ」という主張を前面に出し始めた。例えば、エリック・リーはニューヨーク・タイムズ紙やフォリン・アフェアズ誌で、中国は西洋型民主主義をベースとしない脱西洋路線を目指すと述べている。 *6*7 右タイミングは、劉暁波氏へのノーベル平和賞授賞に中国が猛反発した時期(2010年10月)、尖閣諸島で中国漁船が日本の海上保安庁の巡視船に体当たりした時期(2010年9月)、更には、バチカンとの間で続けてきた水面下の交渉の成果を(中国が)反故にした時期などと、奇妙に一致する。
 なお、アジアの独自性を強調する議論は、シンガポールなどからも聞かれる。たとえば、アジア屈指の論客として知られるシンガポールのリークヮンユー公共政策大学院のキショー・マブバニ院長は、「アジアにはアジアの道がある」と主張する。かれはこの10年、「西洋の作ったソフトウェア、ハードウェアは綻びが目立って来た。自分たちこそが、新たなものを作る。これからはアジアの時代だ」と言い続けて来ている。 *8
 このように、アラブ圏もロシアも中国も、新しい「カミ」を創造しつつある。しかしながら、その作業はスムースではないし、それに、彼らの作った「カミ」からは、(西洋が供与したような)普遍性は期待できないだろう。そこに大きな問題がある。

まとめ

 世界には様々な「宗教」「信仰」が存在する。世俗的なイデオロギーを崇める「宗教」も多い。その中で、欧米諸国は「民主主義教」の「宣教」活動を続けている。ただし、その浸透力は弱まって来ている。これまでは、伝える側も受け取る側も「普遍的文法」だと考えて来たが、近年非西洋圏での神通力は低下している。
 それは、世界の各文明圏において、独自性、個別性の強い「小さなカミ」が整備されて来たためだ(実のところ、その整備作業は、多くの国で、左程うまくいっていない)。それらの「カミ」は、個別性が高いため、世界全体に適用されるような「カミ」ではない。世界は文明圏ごとに異なる「カミ」を持つようになりつつある。
 第二次大戦前は世界が経済的なブロックに分けられ、それが大戦の遠因になった。今日においては、世界が文明的なブロックに分かれる危険性がある。例えば、EUは文明ブロックの最たるものだ。米国、英国、カナダ、豪州、ニュージーランドは、特殊な関係で結ばれており、これまたひとつのブロックを形成している。同質の文明とは言い難いが、BRICSもひとつのブロックになり得る。規模から言えば中南米も文明的ブロックである。
 そのように多数のブロックが出現すると、今度は異なるブロック間、文明間の相克、緊張が高まる。或いは大きなブロックの中のサブグループ間の対立が増す可能性がある。世界は全体として「風通し」が悪くなり、不確実性、不安定性が高まる恐れがある。
 そこで、各文明を貫くような「普遍的カミ」「共通文法」の形成が待たれる。だが、「普遍的なカミ」登場を待つ時間的ゆとりはない。多数の異なる「正義」の対立が、過剰暴力を横行せしめ、おびただしい数の犠牲者が出ているからだ。だから、先ずは、「正義の相対化」、「暴力排除に関する国際的コンセンサスの形成(世界共通モラリズムの構築)」を、強力に進めるべきだ。そのようなプロセスにこそ、宗教の出番があり、(相対主義に強い)日本の出番もある。
(2014年8月1日)

*1 上野景文.「反捕鯨を甘く見るなー神道関係者の出番到来ー」神社新報.2014年3月17日.
*2 上野景文.「『覚めた目』で民主化を捉えよ―『アラブの春』が宗教対立を再燃させるジレンマ」.毎日新聞.2012年5月17日.
*3 上野景文.「論点 『宗教復権』潮流直視を―外交力強化の条件」.読売新聞.2011年1月25日.
*4 Jerry Z Muller. “Us and Them: The Enduring Power of Ethnic Nationalism.” Foreign Affairs. March/April, 2008
*5 Ross Douthat. “Democracy’s Collateral Damage.” New York Times. October 15, 2011.
*6 Eric X. Li. “Where the new East parts from the West.” New York Times. April 28, 2011.
*7 Eric X. Li. “The Life of the Party: The Post-Democratic Future Begins in China.” Foreign Affairs. January/February 2013.
*8 Kishore Mahbubani. “End of Whose History?” New York Times. November 12, 2009.

※写真:Copyright Hang Dinh/Shutterstock.com

 
政策オピニオン
上野 景文 杏林大学客員教授、文明論考家、元駐バチカン大使
著者プロフィール
1948年東京都生まれ。70年東京大学教養学部卒、外務省入省。73年英国ケンブリッジ大学経済学部卒、同修士課程修了。OECD 政府代表部公使、国際交流基金総務部長、スペイン公使、駐グァテマラ大使などを経て、2006-10 年駐バチカン大使。11年4月より杏林大学外国語学部客員教授。11年度国際日本文化研究センター共同研究員、ほかに、立教大学兼任講師、14年度富山市文化デザイン懇話会座長。著書に、『ケルトと日本』(共著、角川選書)、『現代日本文明論(神を呑み込んだカミガミの物語)』(第三企画)、『バチカンの聖と俗(日本大使の一四〇〇日)』(かまくら春秋社)。

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