平和構築・開発における宗教の役割

平和構築・開発における宗教の役割

2014年6月20日

はじめに

 私は「開発」の方面では学生時代からの研究実績と外交官時代の実務経験もあるが、こと「宗教」の面では研究実績はない。その意味で「開発と宗教」について論及するのに私が適任であるのか、私自身すこぶる疑問に思っている。ただ2012年に家内との共訳で『宗教と開発―対立か協力か―』(Jeffrey Haynes原著、麗澤大学出版会)という本を出版したこと、また、この訳書が国際開発学会の機関誌でかなりの紙面を割いて書評に紹介されたことなどから、その経験を踏まえて所与のテーマについて述べてみたい。
 幸か、不幸か、わが日本では宗教の力が国民の生活をあらゆる面で規制するというような伝統がない。極端に言えば、「苦しい時の神頼み」の信仰と言っても過言ではない。
 私自身の例で言えば、仏教徒でありながら、家には神棚を祀り、12月にはキリスト教徒でもないのにクリスマスを祝い、大晦日にはお寺の除夜の鐘に耳を澄まし、明けて元日には近所の神社で初詣をする。仮に、娘が「結婚式はキリスト教式でやりたい」というのであれば、とくに反対するわけでもなく、娘が一日信者になってキリスト教の教会で結婚式を挙げれば、結構よろこんで感涙にむせぶということになるであろう。
 それでは私が日本国民の中で「例外か」と言えばそんなことはない。こういうのが当たり前であるのが、わが日本国民の自画像なのである。
 ただし、こういう信仰を持つのは世界でも珍しい事例であって、学術用語を用いて表現すれば、日本人は「重層信仰」的である、ということになるだろう。これに加えるに、お盆などに見られる、中国渡来の祖先崇拝、「苦しい時の神頼み」などの言葉にみられる「現世利益主義」が日本人の信仰生活の大きな特徴である。つまり、神様、仏様を拝めば、この世でよいこと、例えば、受験に合格するとか、この間買った株が値上がりするとかといった、この世での、しかも近い将来での現実的な利益を求める傾向が濃厚なのである。
 これは、ミャンマーやラオスなど上座仏教諸国の仏教徒がパゴダの建設をはじめ、さまざまな「喜捨」を行うことがもっぱら輪廻の観念に基づく「来世」のためであるのとは、著しく異なっている。「来世」のためというのは、例えば、来世にはもっと金持ちに生まれるとか、女性であれば、来世はもっと美人に生まれる、あるいは男に生まれたいというようなことだ。
 日本人の間で広く見受けられる「苦しい時の神頼み」という傾向は、裏返して言えば、「苦しくないときは神様には頼らない」ということであって、毎日の生活の隅々まで神様の定める戒律に従って暮らさなければならないという訳ではない。
 そもそも、日本古来の信仰である神道には、宗教として最低限必要とされている「汝殺すなかれ」というようないわゆる「道徳律」(moral code)が存在しない。大きな樹木や滝、山などがアニミズム的な宗教の崇拝対象となっており、要するに拝んでおかないと「祟る」神々なのである。この拝まないと「祟る」という考えは、ミャンマーやラオスの仏教導入以前から今日まで続いている根強い「精霊信仰」にも共通してみられるものである。
 中世の日本では一向一揆にみられるような宗教的エネルギーもあったが、それとて徳川幕府の2世紀半に及ぶ統治下で仏教寺院が保護、監督下に置かれて、「葬式仏教」化し、今日では僧侶も妻帯、肉食するなど世俗の人々とほとんど変わらない生活をするようになっている。僧侶・神主が社会・政治問題に口出しする場合もあまり多くはなく、一般的に見てお寺のお坊さんやお宮の神主さんを政治・社会の指導者としようとする考えなどあまり見かけない。
 こういうわけで、近代日本において宗教が開発の障害になったとか、逆に、宗教のおかげで開発が大々的に進んだとかという事例は乏しい。
 このような状況の下では、そもそも「宗教と開発」、とりわけ、宗教が開発にとって対立的であるのか、それとも協力的であるのかなどという問題意識が出にくいのであり、これが拙共訳書以外に「宗教と開発」をテーマにしたまともな学術書が日本で生まれなかった理由ではないのかと考えている。

近代における開発モデル

(1)国家中心と宗教の排除 
 ヨーロッパ中世では宗教の力があまりにも強かったため、近代の欧米文明では国民国家の建設は国家の世俗化、すなわち宗教を国家から分離するのが「近代化」の上での大きなテーマであった。
 例えば、フランスは「大革命」以降大変な苦労をしてローマ・カトリック勢力から学校教育をもぎ取り、これを国家の下で運営して今日に至っている。フランスの公立学校にイスラーム教徒の女生徒がベールをしてくるのはいけないというのも、公立学校と宗教の分離の原則に反するというのが禁止の公的根拠である。 
 さて、近代の欧米式開発モデルにおいても、宗教には何一つ積極的な地位は与えられてはいなかった。いやそれどころか、むしろ開発の上で宗教は「邪魔者」として積極的に排除されてきたといってもよいだろう。
 第二次大戦後、非欧米文化圏に属する発展途上世界を西側につなぎとめるために、米国を中心とする西側諸国は、もっぱら、資本と近代的な技術を提供することによって発展途上世界をその後進性(backwardness)から救済しようと試みたのであった。ここには、宗教など入り込む余地は全くない。極端に言えば、一人当たりGDPを引き上げることが「開発」であったといっても過言ではない。
 例えば、私が大学生であった1950年代後半に都留重人教授が何かの論文で、当時の日本とマラヤ連邦の一人当たりGDPを比較して、日本はマラヤ連邦よりも一人当たりGDPが低いから「開発」の程度が相対的に遅れていると論じていたことを想起する。
 これなどは、国民の識字率、生存予想年数、工業技術水準などの社会生活指標を全く無視して、ひたすら一人当たりGDPにのみに着目するという誤りを犯した典型的な「唯経済論」的事例といえるだろう。
 他方、ソ連を中心とする「社会主義諸国」でも「宗教は阿片だ」として、宗教はもっぱら排斥されていたのであるから、開発政策における宗教無視は西側と結果においては同じことであった。
 日本の風土には、すでに述べたように、宗教的な圧力が元来乏しい中で、日本の「進歩的文化人」にはマルクス主義が浸透しているせいもあって、社会主義諸国における宗教的弾圧にはほとんど何の関心も示さなかった。彼らが国内では「自由・革新、人権擁護」の旗手であっただけに、国際的にみれば、特殊日本的な現象といえる。

(2)失敗―格差と貧困の拡大
 1950年代と1960年代に、西側諸国による多額の開発援助の投入が行われたが、一部の国々―韓国、台湾、シンガポール―を除き、多くの国々で開発は順調には行かず、1970年代のオイルショックにより韓国、台湾、シンガポールなどを除く大多数の石油非産出発展途上諸国が多大の対外債務に苦しむようになり、発展途上世界の二極分化ないし両極化が生じた。
 具体的に言えば、1970年代の西側開発目標であった浄化水の提供、基本的な保健ケア、初等教育などの「基本的ニーズ」(basic needs)の充足が、一つには冷戦イデオロギーの対立過程において資金の配分が同盟国中心になったこと、また一つには、多数の発展途上諸国の支配層エリートが貧困層に対する所要の金銭的移転を渋ったことが原因となって、思ったほど成果が上がらなかったのである。

国家中心の開発モデルの失敗と新自由主義(1980年代) 

 このような失敗は、結局のところ、国家が「あまりにも多くのことをやろうと試み、多大の努力と費用を費やしながら、その成果に乏しかったとの反省から、国家の介入を少なくし、民間の資本家や企業家のエネルギーを開発に持ち込もうという、レーガン・サッチャー流のいわゆる「新自由主義」が90年代に華々しく登場することになる。
 開発援助の分野では、市場の力と経済効率を重視する新自由主義的な「構造調整プログラム」が世界銀行やIMFの政策的な主流となった。
 この考えは、ソ連・東欧が崩壊した1989~91年に最盛期を迎えることになる。ソ連型の経済運営は市場の力を軽視し、経済効率に重きを置かないから崩壊した、これこそが新自由主義と構造調整プログラムの正統性を立証するものであるというわけだ。

2000年9月の8項目ミレニアム開発目標(人間開発)

 ところが、この「新自由主義」の開発戦略である構造調整プログラムを4半世紀やった挙句、うまく行かないことがはっきりした。 
 つまり、20世紀末の時点で発展途上世界の10億人以上の人々がまだ一日1米ドル以下で暮らし、20億人以上の人々が浄化水を入手できず、何億にも上る人々が適切な保健ケアを受けられず、初等教育を受ける機会もない有様である。
 要するに、経済優先の世俗的なアプローチは、失敗に終わったのである。
 ここで、新たに浮上したのが、2000年9月に国連で採択された「8項目ミレニアム開発目標」で、2015年を達成目標年とするというものだ。現状から言えば、この「開発目標」が達成されたとはとても言えないが、その内容は、以下の通りである。

1)極度の貧困と飢餓の撲滅
2)初等教育の完全な普及
3)ジェンダーの平等促進と女性の能力開発
4)児童死亡率低減
5)妊産婦の健康改善
6)HIV/AIDS/マラリアおよびその他疾病の蔓延防止
7)持続可能な環境確保
8)開発のためのグローバルなパートナーシップ発展

 この段階では、2001年の世銀『世界開発報告書』にみられるように、市場の改善と並行してガヴァナンス―公共の行政、法制、公共サービスの実施―改善のために、現在まだ活用されていない人的資源を活用する必要性が強調された。このような人的資源には、直接の言及はないものの、当然、宗教関連団体が含まれていると考えられる。
 このような中で、世銀のみならず、IMF、ILOおよび国連のいくつかの専門機関を含む世俗的な開発機構は、世界で最も貧しい人々のために開発の成果を改善しようというイニシアティブにおいて宗教との提携を重要視するようになってきた。いうなれば、これまでのやり方ではどうにもならないというので、これまで無視してきた宗教に「救い」を求めたということであろうか。
 2004年の国連開発報告書でアマルティア・セン(Amartya Sen、1933- )の主導の下に多様な文化の自律性が強調されるようになると、文化的な価値観と不可分な関係を有する宗教が開発との関連でさらに注目されることとなった。これは、発展途上諸国において、しばしば政府指導者や役人よりも宗教指導者のほうが社会的な信用があるという事実からしても、当然の帰結である。
 他方、グローバル化の進展は、貧困層の拡大をもたらし、これら貧困層は救済を宗教に見出そうとして、世界の各地域で宗教が勢力を増大させている。
 宗教の側でも、信者個人の人間開発の妨げになる貧困の拡大とそれへの対処にこれまで以上の大きな関心が寄せられるようになった。ここに世俗的な開発機関と宗教関連団体に共通なコンセンサスが生まれたので、両者の提携はより容易になったといえよう。
 具体的な事例をあげれば、キリスト教世界で始まった「2000年聖年記念運動」は、「神は苦しみにあえぐ民の叫びを聴き、キリスト教徒を鼓舞してより良き世界に向かって邁進させ、正義、慈悲および和解の行為を民に求めている」として、最貧困諸国―52の最貧困諸国の3/4がサハラ以南―の国際的債務救済運動を展開し、これは、債権者諸国の重債務貧困諸国に対する債務支払い救済イニシアティブ(国内的な諸条件を満たした20カ国が対象となった)となって結実したのである。
 ラテンアメリカのキリスト教世界で始まったペルー人カトリック司祭Gustavo Gutierrez(1928~ )の「解放の神学」は、ユダヤ教や仏教にも影響を与え、僧侶が社会正義実現のために積極的に活動すべきだという思想が広がっていった。
 イスラーム教世界でも、コーランには「富がお前たちの中の金持の間だけを巡り歩くことのないようにせよ」とあるから、イスラームでは、経済的正義に触れずに正しい教義の実践ができないことが理解される。
 現に、難民と戦争犠牲者のおよそ8割がイスラーム教徒であることに着目して国際イスラーム救援機構(IIRO)が国際NGOとして1978年に設立された。このNGOは、サウジアラビアにおける個人寄付を主な財源としており、ヨーロッパ、アジア、アフリカの数カ国で医療、教育、社会面での支援を活動内容としている。
 このほかにも、宗教関連団体が全世界的に行っている教育、医療、社会福祉事業は数えきれないほど多数にのぼっている。
 こうは言っても、開発における主体は国家であり、政府の役割はやはり圧倒的に大きく、宗教の役割は、それを補完するにとどまるのが実情である。ズバリ言って、宗教関連団体が逆立ちをしても、巨大ダムの建設はできない。こういうのは、やはり、国家なり、政府なりの仕事なのである。
 ただ、ガヴァナンスの公正さを求めるには、発展途上諸国において宗教はきわめて重要な役割を果たし得るように思う。

開発の前提たる平和の構築と宗教

 平和がなければ、開発の実現は困難である。Jeffrey Haynes教授が整理したところによれば、平和構築における宗教はプラスの面とマイナスの面の双方があり、簡単に記せば次の通りである。
<プラスの役割>
 宗教が社会的に、また紛争解決や開発の上で、建設的な目標を追求する市民の関与を動機付ける場合。
<マイナスの役割>
 宗教が①他者を排除しようとする、②紛争と暴力に訴えようとする気配がある、③総じて、社会的に、また紛争解決や開発の上で、建設的な目標の達成を大きく損なう場合。
 ここで問題になるのが一神教である。一神教の問題点は、その排他性にある。排他性が極端に走ると、常識では考えられないようなこともやる。
 最近マスコミで大きく取り上げられたナイジェリアにおけるイスラーム原理主義者グループによる約300名の女子生徒誘拐と政治犯釈放要求、そして要求が入れられなければ女子生徒を奴隷として一人1200円で売り払うという脅迫などなどは、まさに宗教的なテロといえるものだ。
 アフガニスタンでのアルカイーダ政権による女性に対する教育反対は徹底していた。アフガンでは女性が男性の医師にかかることができないので、女性が職業に就くことは禁止されていた中で唯一許されていた女医も、政権末期、つまり、米国の攻撃が始まる直前には禁止されてしまい、アフガンの女性は医者にかかれない状態に置かれていたのである。
 一神教による対立の集約的地域としての中近東ではイスラエルとアラブの対立に加えて、最近では、シリアの内戦が大きく報道されている。
 シリアでは、住民の多数が信奉するスンニ派とアサド大統領一派が信奉するシーア派との宗教的対立、アサド独裁政権と民主化運動との武力対立、アルカイーダ武装勢力の浸透、シリアを巡る欧米とロシア・中国との対立が交錯する中でアサド政権が反体制派の要衝たる北部のホムスを武力で掌握し、2014年6月3日に大統領選挙を強行し、再選、政権の正統性を訴えるシナリオを描いている。
 米・露は、ウクライナ問題で対立を深め、シリア情勢での協力は絶望的だ。
 米国は、反体制運動の対空兵器供与要請に対し、イスラーム過激派への武器流出を恐れ、防弾チョッキなど非殺傷型兵器を供与するだけである。
 情勢は混迷を深めているが、はっきりしていることは、シリアの避難民は国民の1割以上の270万人で、うち100万人もが隣国トルコに流入している。国内避難民も合わせると国民の半ばが自宅を追われたと言われている。死者は16万人を数えている。
 このようなシリア問題をどう解決するかは、全くの難問であるが、長期的には、教育において「宗教的寛容」精神を植え付けることが肝要であろう。
 また、国連内部に各宗教の指導者からなる特別宗教間委員会ないし評議会を速やかに設立し、紛争の平和的解決に資させるというのも良い考えかと思われる(Universal Peace Federation主催で2013年10月11-13日にヨルダンの首都Ammanで行われたThe Prospect for Dialogue and Reconciliation in Syria: The Role of Religion in International Relationsをテーマとする「宗教間対話の会議」アピール参照)。

日本の場合

 日本では冒頭で述べたように、宗教の国家、社会に対する「しばり」が比較的少ないこともあり、従来、国際開発論や国際政治学など社会科学の分野で開発における宗教の役割が本格的に論じられることはほとんどなかったといってよいだろう。
 近代の日本、とりわけ戦後の日本においては、「科学的な」態度で社会の問題を論ずることが客観的な、あるべき研究態度であって、宗教はいずれかといえば、非科学的で、理性的でない世界に属するものとして忌避される傾向になった。
 調査によれば、大部分の日本人が「自分は信仰心が篤くない」と意識している。このような社会的風土の下では、そもそも宗教を開発との関連において正面切って取り上げる社会的・文化的環境が存在しなかったともいえよう。
 例えば、日本人の中では比較的に熱心な宗教心を抱いてきたと思われる「隠れキリシタン」の間でも、カトリックに由来する神々(マリア、キリスト、デーウス、サン・パウロ、サン・ペートロなど。マリアは、「安産の神様」と位置づける指導者もいる)のほかに仏教や神道も信仰の重要な一部を形成している。先祖の霊も祭っている。
 極めつけは、口伝継承して約250年間こっそり隠し伝えて来た神話、新旧約聖書物語である。旧約聖書では、元来、蛇の誘惑に乗って禁断の木の実を食べたアダムとイヴが神の怒りに触れ、楽園から永久に追放される。ところが、隠れキリシタンの『天地始之事』では、日本で縄文時代から信仰され聖なる存在である蛇ではなく、ルシフェル(悪魔)がイヴを誘惑し、リンゴを食べさせ、イヴがアダムにリンゴの残りを食べさせるということになっている。二人は神の怒りに触れ楽園から追放されるが、二人が哀願すると神はアダムに対しては400年後悔を続ければ楽園に戻すと約束する一方で、イヴに対しては「中天の犬となれ」と蹴飛ばして、行方知れずになる。これではキリスト教にいう「原罪」がなくなってしまい、「隠れキリシタン」とは本当にキリスト教徒なのかという疑問も出てくる<長谷川(間瀬)恵美「長崎に伝承される聖書物語『天地始之事』現代語試訳(前編)「研究ノート」『桜美林論考.人文研究』No.4、2013年3月所収>。
 このような社会的環境の中では、宗教側での貧困撲滅対策はあまり活発とは言えないのが実情である。これは、一つには、日本が最近は格差の問題が出てきたとはいえ、国際的に見れば、富裕国に属し、しかも、比較的に貧富の差が少ない上、貧困問題などの社会問題解決は何をおいても政府(「お上」)が行うべきだという意識が日本人一般に共有されているので、宗教やNGOの出番が相対的に少ないということもあるだろう。逆に、将来、政府や官僚組織がもっとでたらめで、あてにならないようになれば、宗教やNGOの出番は増えてくるに違いない。
 ゆえに、国際的な開発問題で活動している日本の宗教関連団体がないわけではないが、他の国々、とりわけ西洋諸国のキリスト教関連団体に比べると、相対的に少ないと言わざるを得ない。
 また、日本国憲法では、国家と宗教の分離を厳しく定めている(現行憲法89条=「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」)ので、宗教活動への国費の支出が禁止されているという憲法上の問題もある。
 しかし、日本の外務省はジャパンプラットフォームというNGO組織を通じてODAから日本の国際NGOにその対外活動のための資金を提供しているが、その際、特定宗教が根っこにあるNGOでも組織が別であれば、宗教色を大して問題にせず、その人道的活動に対して資金を出している。ただ、憲法にこういう規定がある以上、世銀、アジア開発銀行など日本政府が大規模な資金を提供している国際開発機関が宗教と密接な関連をもつことに対し日本政府が自ら積極的に働きかけることは考えにくいように思う。

(2014年5月16日)

 
政策オピニオン
阿曽村 邦昭 「メコン地域研究会」会長・元駐ベトナム大使
著者プロフィール
1935年秋田市生まれ。東京大学農業経済学科および米国 Amherst 大学政治学科各卒業。駐ベトナム、チェコスロバキア、ベネズエラ各大使を歴任後、富士銀行顧問、麗澤大学外国語学部客員教授、吉備国際大学大学院国際協力研究科科長・教授、ノースアジア大学法学部教授、(特活)日本紛争予防センター所長、(特活)ジャパンプラットフォーム・NGO ユニット理事、(社)ラテンアメリカ協会理事等を歴任し、現在、岡山県公設国際貢献大学校教授、「メコン地域研究会」会長、日本教育再生機構代表委員、倉敷外語学院特別顧問。専門は、政治学、開発経済学。主な著書・共著に『アジアの開発を巡るメカニズム』『ベトナム-国家と民族(上・下)』、訳注書に『宗教と開発―対立か協力か-』など。

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