政策オピニオン

2018年8月13日

冷戦後アフリカの紛争と平和構築の課題―日本のアフリカ外交への示唆―

東京外国語大学 現代アフリカ地域研究センター長/JETROアジア経済研究所 上席主任調査研究員 武内進一
東京外国語大学外国語学部フランス語学科卒業。東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻博士課程単位取得退学。博士(学術、東京大学)。1986年アジア経済研究所入所。コンゴ共和国、ガボンでの在外研究を経て、日本貿易振興機構アジア経済研究所アフリカ研究グループ長、国際協力機構(JICA)研究所上席研究員、日本貿易振興機構アジア経済研究所地域研究センター長等を歴任。2017年4月より現職。日本貿易振興機構アジア経済研究所新領域研究センター上席主任調査研究員を兼任。専門はアフリカ研究(中部アフリカ仏語圏諸国)、国際関係論。著書に『現代アフリカの紛争と国家—ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』(明石書店、2009年)(第31回サントリー学芸賞受賞、第13回国際開発研究大来賞受賞)ほか多数。

1.現代の紛争はどこで起きているか?

 本日の講演では、1990年代以降のアフリカにおける紛争と政治の全体的な特徴について述べたい。アフリカの場合、紛争の話は必然的に政治のあり方と関わるが、まずアフリカの紛争と政治に関する事実を示して現状を説明した上で、さらにそれが何を意味しているのかを考える。
 図1は、1946年から2016年までの世界の紛争を網羅したスウェーデンのウプサラ大学のデータベース(ウプサラ紛争データプログラム、UCDP)をもとに作図したものである。UCDPの研究者が「紛争」とカテゴライズした数千件を地域別に整理している。ヨーロッパ、中東、アジア、アフリカ、アメリカの各地域における紛争勃発件数を縦軸とし、それが年代ごとにどのように変化してきたかを示している。
 この図をみると、第二次世界大戦が終わった直後はアジアで多くの紛争が起きていることがわかる。アフリカはそれほど多くないが、50年代に入る頃から徐々に件数が増え始める。全体的にも時代を追うごとに件数が増え、冷戦直後の1990年頃に一つの山がある。この時期は、他の時代は少ないヨーロッパでも紛争が増えており、ユーゴスラビアの紛争などもこれに含まれる。そのあと件数は減ってゆくが、2015年から16年頃に再び増えている。
 全体として、地域的には近年アフリカでの紛争勃発件数が増えている。アジアも多いが、アフリカの紛争の数はそれに匹敵、凌駕する水準である。ヨーロッパと南北アメリカは一貫して少ない。ヨーロッパは90年代初頭が多く、その他の時代は一貫して少ない。

2.アジアとアフリカの主要な紛争

アジアの紛争

 さらに具体的に見るために、アジアとアフリカの主要な戦争について比較してみる(表1)。1940年代から50年代にかけて、アジアでは大規模な紛争が起こった。中国の内戦、朝鮮戦争やベトナム戦争などである。インドシナ半島では、ラオス、カンボジアなどでも大規模な紛争が続いた。80年代以降になると、アフガニスタン、フィリピンのミンダナオ島、スリランカの内戦などが起こる。インドとパキスタンでは、それ以前から紛争が繰り返されている。90年代にはインドネシアでも民族紛争が起こった。
 しかしアジアについては勃発件数だけで紛争の全体像を掴みきれない。アジアの場合、多くの犠牲者を伴う深刻な紛争が頻発したのは1940年代から70年代くらいまでである。それ以降も紛争の数は多いが、大きな戦争は収束していった。アジアに紛争がなくなったということではないが、大きな紛争は収束したと言ってよい。

アフリカの紛争

 一方、アフリカでは1940年代、50年代にアルジェリア、ケニアで独立戦争が起きた。ケニアの場合、50年代に植民地解放闘争(いわゆる「マウマウの反乱」)があった。アルジェリアでも「アルジェの戦い」という映画で有名な対仏独立闘争があった。60年代になると、独立直後の国家において紛争が起こるケース、そして植民地独立闘争が継続するケースが目立つ。コンゴ民主共和国では独立直後、カタンガ州の分離独立宣言を発端としてコンゴ動乱が起きた。これには国連が平和維持部隊を送って紛争解決に努力したが、約3年にわたって深刻な状況が続いた。ナイジェリアではビアフラ戦争が起きている。アンゴラが独立するのは75年、ジンバブエは79年だが、いずれも独立に至る過程で解放戦争が起きている。
 アンゴラでは独立後も内戦が続いた。東西冷戦のなかで、米国は南アフリカを通じてアンゴラの反政府勢力を支援した。一方、ソビエト陣営はキューバが国軍兵士をアンゴラに送って政府軍を支援した。アンゴラでは東西冷戦の代理戦争が行なわれたのである。
 この時期、アジアでは大きな紛争が収束していったが、アフリカで大きな紛争が起こり始めた。それが顕著になったのが90年代である。エチオピアでは91年に内戦で政権が転覆した。ソマリアでは同じく91年に大統領が放逐され、その後、国連がアメリカ軍とともに介入したが紛争解決に失敗した。その不安定な状態は今日まで続いている。
 ルワンダについてはよく知られているように、90年から内戦が始まって94年に大統領の乗った飛行機が撃墜された。それをきっかけに大虐殺が起こり、100日間で少なくとも50万人が殺害された。アルジェリアではイスラム勢力が選挙で勝つが、その選挙を無効にするため軍部が介入した。その後、急進的なイスラム勢力が国内でテロを頻発させ、政府がそれを弾圧すると内乱状態に陥った。中部アフリカでも、90年代にはコンゴ共和国やコンゴ民主共和国で深刻な紛争が起きている。
 2000年代に入ると、前述のグラフにあるように紛争は収束傾向を示す。スーダンやソマリアでは紛争が続き、コートジボワールでは新たに紛争が起こっているが、それでも全体として数は減っている。
 ところが、2010年代に入ると再び紛争が目立つようになる。特にマリや中央アフリカ、2011年に独立した南スーダンなどで深刻な紛争が起きた。ウプサラ大学のデータベースの定義では、年間の戦闘関連の死者が25人以上出た場合に紛争としてカウントする。年間で1000人を超えると強度の紛争、25人から999人までは低強度の紛争として分類している。強度の紛争が多いのは80年代から90年代である。最近紛争の勃発件数は増えているが、低強度の紛争が増えていることが図2からわかる。

3.アフリカの紛争(1990~2016年)

 アフリカで90年代以降、どこでどのような紛争が起きたのかをさらに詳しく見てゆく。図3~図13は、それぞれの年にどこで紛争が起こったかを示している。赤色は強度の紛争、黄色は低強度の紛争である。1990年のデータ(図3)で赤になっている国を見ると、チャド、スーダン、エチオピア、ソマリア、アンゴラ、モザンビーク、そしてルワンダである。南部アフリカにあるアンゴラとモザンビークでは冷戦期の紛争が続いている。アンゴラは政府対UNITA(アンゴラ全面独立民族同盟)の内戦である。UNITAはアメリカがアパルトヘイト体制の南アフリカを通じて支援してきた反政府勢力である。アンゴラはマルクス・レーニン主義を掲げる勢力が政権を執っていたが、それに対抗するUNITAをアメリカが支援していた。これは冷戦期の構図である。

 モザンビークも同様である。アンゴラもモザンビークも独立時の政権与党が現在まで政権を握る体制が続いているが、モザンビークの場合はFRELIMO(モザンビーク解放戦線)がマルクス・レーニン主義を掲げて政権を握った。RENAMO(モザンビーク民族抵抗運動)はアパルトヘイト体制下の南アフリカが不安定化工作の一環として支援していた反政府組織である。
 アフリカ中央部の小さな国はルワンダである。RPF(ルワンダ愛国戦線)はのちに内戦に勝利し、現在に至るまで政権を握っている。ルワンダは1962年に独立したが、その直前に内乱があり、当時支配階層であったトゥチが放逐された。難民化した第二世代が北隣のウガンダの難民キャンプで武装組織としてRPFを結成し、ルワンダ本国に攻め込んだ。それが90年である。赤が多いのは「アフリカの角」と呼ばれている地域である。いちばん端のソマリアにはSNM(ソマリ国民運動)、SPM(ソマリ愛国運動)、USC/SSA(統一ソマリ会議/ソマリ救国同盟)といった武装勢力があり、内戦状態にある。この時期から北部のソマリランドは事実上独立した形になっている。今日まで世界の国々はソマリランドを独立国として認めていないが、その内政は安定している。ソマリアでは翌91年、前政権のモハメド・シアド・バーレが政権を追われた。
 エチオピアではEPRDF(エチオピア人民革命民主戦線)、1993年にエチオピアから独立したエリトリアではEPLF(エリトリア人民解放戦線)が、それぞれ今日まで政権を握っている。チャドは対MPS(愛国救済運動)となっているが、MPSは今も政権を握っているイドリス・デビィの出身母体である。この時期のアフリカの角の周辺では、のちに政権を握るグループが反政府武装勢力として内戦を戦っていた。この点では、ルワンダのRPFも同様である。

 95年の紛争地図で赤くなっているのはアルジェリアとスーダンとシオラレオネの3カ国である。スーダンは対SPLM/A(スーダン人民解放運動・軍)とあるが、このSPLMが2011年に独立した南スーダンの政権を握っている。SPLM/AのMはムーブメントで、最後のAはアーミーである。政治部門と軍事部門が分かれていて、それらを総称してSPLM/Aという。南部スーダンで第二次内戦が始まったのは83年で、SPLM/Aが戦闘主体となった。2005年に和平協定が結ばれるまで、激しい戦闘が続いた。アルジェリアのGIA(武装イスラム集団)はイスラム急進勢力で、国内でテロ行為を頻発させた。
 シエラレオネのRUF(革命統一戦線)は、村を襲って人々の手を切り落としてしまうような非人道的行為をしばしば指摘されたグループである。シエラレオネはいわゆる「紛争ダイヤモンド」で知られ、映画にもなった。

 さらに5年後の2000年をみると、中部アフリカのコンゴ民主共和国が赤色となっている。同国はモブツ政権末期の97年(当時の国名はザイール)から本格的な内戦状態に入った。その南のアンゴラは2002年にUNITA(アンゴラ全面独立民族同盟)の指導者であるジョナス・サヴィンビが殺害され、内戦が終結した。その後は安定して高度成長を遂げている。スーダンはこの図でも依然として内戦が続いていることがわかる。
 先に述べたように、93年にエリトリアがエチオピアから独立したが、98年から2000年にかけて両国間に戦争が勃発した。今日の紛争のほとんどは国内紛争であり、国家間戦争は非常に少ない。特にアフリカの場合は数えるほどしかない。そのなかでエチオピア・エリトリア戦争は数少ない大規模な国家間戦争の一つである。
 2000年以降も両国の関係は悪かったが、2018年6月に入って、エチオピア政府は2000年の停戦時に示された国境線を受け入れると表明。両国は緊張関係が続いていたが、それが転換する可能性が出てきた。(その後、両国元首が相互に訪問するなど、急速に雪解けが進み、7月9日正式に戦争が終結した。)

 2005年の地図には、赤色の国がない。先に述べたように、2000年代半ばは紛争の件数が減る時期で、強度の紛争はみられない。依然としてエチオピア、スーダン、中央アフリカ、チャド、アルジェリアなどで低強度の紛争が起こっているが、全体としてみれば紛争の強度は低下している。

 2010年になると、スーダンとソマリアが赤くなる。ただし、中身は少し違ってきている。スーダンのJEM(正義と平等運動)、SLM/A(スーダン解放運動・軍)、SSDM/A(南スーダン民主運動・軍)は、ダルフール紛争の主体である。ダルフールはスーダンとチャドの国境にある地域で、2003年~04年頃から紛争が激化した。スーダンの内戦はもともと南北で戦っていたが、この時期は南北は停戦協定が結ばれていて、ダルフールで紛争激化が見られる。この図ではソマリアも赤くなっている。Al-Shabaab(アルシャバーブ)はイスラム急進勢力で、2000年代後半に勢力を拡大した。

 ここからは1年ごとに見ていく。2011年になるとリビアが赤くなっている。これは「アラブの春」の動きに対応したもので、反政府勢力を武力で鎮圧したカダフィ政権に対して、「保護する責任」を掲げてNATOが軍事介入し、カダフィ政権の転覆につながった。その後、リビアは内戦状態に陥った。また、2011年には南スーダンが分離独立したが、北では依然としてダルフールで深刻な状態が続いていた。ソマリアではアルシャバーブが引き続き活発に活動している。

 翌年の2012年も状況はさほど変わらず、スーダンとソマリアは赤くなっている。2012年~13年にかけて特筆すべきは、ナイジェリア北部のイスラム急進勢力ボコハラムが強度の紛争を引き起こす主体として初めて登場する点である。
 2012年にすでにマリが黄色くなっているが、それは中央政権の転覆とともに北部から侵入してきたイスラム急進勢力によってマリ北部が占領されてしまったためである。彼らはトゥアレグ人を中心とする勢力で、もともとカダフィの傭兵としてリビアにいたが、カダフィ政権が倒れたあと、本国に戻った。そのときに大量の武器を持ち込み、アルジェリア出自のイスラム急進勢力と結びついて北部マリを占拠した。マリの不安定な状況は今日まで続いている。この時期になると、ボコハラム、アルシャバーブを含め、サヘル地域でイスラム急進勢力の影響が深刻化してくる。

 2013年にはコンゴ民主共和国が赤くなっているが、APCLSなど図10に示された勢力はすべて東部で跋扈しているグループである。コンゴ民主共和国の首都キンシャサは国土の西端にある。この国はきわめて広大で、首都キンシャサと東部の国境の間は1500キロほどある。東部地域では、内戦が公的に終了した2003年以降もずっと混乱状態が続いていて、現在も数十もの武装勢力が存在し、さまざまなグループが群雄割拠している。
 ところで、これらの地図はUCDPのデータを使って作図しているが、分析をしながらデータでは捉えきれない部分があることにあらためて気付かされた。すべて説明する余裕はないが、コンゴ民主共和国の場合は国全体が黄色(低強度紛争)と分類されていても、状況が深刻なのは東部だけである。
 中央アフリカは、国土全体がコンゴ東部のような状況にある。フランスが2013年に中央アフリカに軍事介入したのは、政治情勢の混乱が著しく大量虐殺が起きかねない状況だったためである。マリも同様で、2013年にフランスが軍事介入した。この時期、マリ北部、ナイジェリア北西部、中央アフリカ全域、コンゴ民主共和国東部、南スーダン、ソマリアなど、国家が統治機能を果しえないという現象がアフリカで目立つようになってきた。

 2014年も基本的に同じである。このデータでは中央アフリカは白になっているが、紛争の定義がかなり厳しいためである。ざっくり言うと、UCDPは紛争主体の少なくとも一方が政府で、お互いに武器を持って闘い、戦闘によって25人以上の死者が出た場合を「紛争」と定義している。中央アフリカの状況は、UCDPのデータでは紛争とカウントされていない。二つの勢力が相対峙して戦闘を行うというより、全般的な治安の悪化と人道状況の深刻化が起こっていると捉えるべきである。

 2015年もそれほど変わらないが、ニジェールやチャドにも黄色が広がっている。これはイスラム急進勢力がマリから広がってきたためである。ここで紛争主体としてIS(イスラミック・ステート)が出てくる。UCDPデータの作成者は、ナイジェリアの武装勢力をISとしてカウントしている。確かにナイジェリア北部でボコハラムはISに忠誠を誓っているが、ISがどこまで本格的に介入しているかは議論の余地がある。この辺りのイスラム急進勢力はローカルなロジックで活動しており、ISがそのまま中東から拡大したと捉えるのは妥当ではない。
 最も新しい2016年の地図でもISがいくつか出てくるが、リビアとナイジェリアを同じレベルで語るのは適切ではないだろう。

4.冷戦後アフリカの武力紛争

時代的変化

 ここまでアフリカの紛争の経緯を大まかに示してきたが、1990年代、2000年代、2010年代と時代ごとに整理して考えたい。1990年代の紛争は総じて大規模な内戦で、結果として多くの政権転覆が起こった。政権転覆が起こらない場合でも、アンゴラやモザンビークのように中央政権を脅かす勢力が内戦の主体になったといえる。
 2000年代になると紛争の勃発件数は減少するが、2010年代に再び増加し、地理的にはサヘル地域やコンゴ民主共和国の東部などに集中している。同じ紛争という言葉を使っていても、90年代のように中央政権を直接脅かす反政府勢力が内戦の主体となっているというより、治安が全般的に悪化し、国家の統治が十分行なえない状態にあることが2010年代の特徴である。犠牲者数でいえば90年代ほどの規模ではない。もちろん数百人でも大きな犠牲だが、90年代のルワンダの虐殺では100日間で50万人という巨大な人的被害が起きている。私が滞在していたコンゴ共和国のブラザヴィルでも内戦では約10万人が死んだと言われ、それに比べれば犠牲者数は減っている。
 2010年代の紛争のパターンとして、二つ指摘できる。一つは長期にわたって政治秩序が確立できない、中央政府の統治能力欠如が紛争の背景をなすことである。もっとも典型的な事例はソマリアであり、中央アフリカやコンゴ民主共和国、マリ北部などもこのタイプである。マリの場合、北部で始まった紛争が、最近では中部にまで広がってきている。南スーダンもこのタイプと捉えてよい。
 もう一つは、急進的イスラム主義勢力によるテロ活動が頻発していることである。ナイジェリア、アルジェリア、ニジェール、マリなどが該当する。ケニアの場合は特にソマリアから入って来たグループが北部地域でテロ活動をしている。ソマリアに対してAU(アフリカ連合)が平和維持部隊AMISOM(アフリカ連合ソマリア・ミッション)を送ったが、そこにケニアが参加したことに反発してテロを起こしている。2013年には日本人もよく利用するナイロビのショッピングモールでも大規模なテロがあった。

武力紛争の特徴と政治秩序

 ここで紛争を政治の問題とつなげて考えてみる。表2は近年の統治体制に基づいてアフリカ諸国を分類したものである。

 まず、①政党間で政権交代が生じている国が14ある。選挙によって政権が交代しており、民主主義が機能していると思われる国である。次に、②一党優位体制等のために政権交代が生じていない国が24ある。政権交代が生じていないからといって、すべて独裁国というわけではない。憲法上は野党の存在を認め、多党制民主主義体制をとっている国もある。そして、③紛争継続または非合法的政権交代後に選挙が一回以下しか行なわれていない国である。表2では、これらをさらに紛争経験国と紛争非経験国に分類している。要するに、表2の横の行では、選挙が行なわれて政権交代が起きている民主的な国、一党優位で政権交代が起きていない国、政治的混乱が続いている国に大きく三分類している。これに従ってアフリカ49カ国を分類すると、その約半分の24カ国が一党優位体制で、もっとも多いことがわかる。
 表の縦の列は自由度で分類しており、フリーダムハウスによる政治的自由度を指標にした。「Free」「Partly Free」「Not Free」の三つに分類している。たとえば、政党間で政権交代が生じている14カ国のうち、Freeの国はレソト、セネガル、ベナン、カーボベルデ、ガーナ、モーリシャス、サントメ・プリンシベの7カ国、残りの7カ国がPartly Freeとなっている。政権交代が起きている第1のタイプでは、政治的自由度指標でFreeと評価されている国が相対的に多いことがわかる。
 一党優位体制の国をみると、南アフリカ、ボツワナ、ナミビアのようにFreeと評価される国もあるが、24カ国のうちもっとも多いのはNot Freeで、アンゴラ、チャド、コンゴ民主共和国などが含まれる。つまり、一党優位体制の国々では、民主的な言論の自由が保障されている南アフリカのような国もあるが、政府を批判できないNot Freeの国が多い。
 一番下のグループは混乱が続いている。どの時点を取るかで違ってくるが、これらの国々は政治的不安定状態が継続していることが多い。
 このようにアフリカ諸国の政治秩序は三つに分類できるが、今日の武力紛争ないし深刻な人道危機は、上述の①と②の周縁部および③で生じている。たとえばスーダンは、1989年にアル・バシール大統領がクーデターを起こして政権を樹立した後、長期にわたって一党優位体制下にある。イスラム主義的な色彩を帯びていたが、中央政権の力が強く、周縁部のダルフールにおいて中央に反発する形で紛争が起こっている。
 ナイジェリアの場合はボコハラムの問題があるが、中央の政権はしっかりしている。この国で中央政府が倒れるような大規模な内戦が起こる可能性は当面考えられない。しかし、周縁部には統治が十分に及ばず、ボコハラムのような問題が解決できていない。一方、マリ、中央アフリカ、南スーダン、ソマリアの場合は全土で政治システムが確立できていない。このような国々では国家建設に関わる深刻な問題があるといえる。

 

5.武力紛争に対する国際社会の対応と課題

国連PKO

 それでは、このような状況に国際社会はどう対応してきたのか。国連PKOで部隊の規模が大きいのはマリのMINUSMA(国連マリ多元統合安定化ミッション)、中央アフリカのMINUSCA(国連中央アフリカ多面的統合安定化ミッション)、コンゴ民主共和国のMONUSCO(国連コンゴ民主共和国安定化ミッション)、ダルフールのUNAMID(ダルフール国連AU合同ミッション)、南スーダンのUNMISS(国連南スーダン共和国ミッション)などで、それぞれ約15,000人~20,000人規模である。いずれのPKO部隊もかなりの犠牲者を出している。
 アフリカ諸国もPKOに協力している。UNAMIDはAUと合同のミッションである。AUとしてはソマリアにAMISOM(アフリカ連合ソマリア・ミッション)を派遣している。これにはケニア、ウガンダ、ブルンジといった国々が兵力を提供している。西アフリカのテロ活動に対応するための組織として、G5サヘル(G5Sahel)がある。これはモーリタニア、マリ、ブルキナファソ、ニジェール、チャド、ブルンジの5カ国が組織した合同軍事部隊で、フランスが中心的に支援している。

中央アフリカの事例

 2002年にAUが設立されてから、アフリカ諸国は平和活動に積極的に関わるようになった。そして表3のように、ひとつの紛争に複数の主体が重層的に関与していることが特長である。中央アフリカの場合、2002年からCEMAC(中部アフリカ経済通貨共同体)の平和維持部隊が関与するようになった。CEMACは中部アフリカの旧フランス領諸国による経済共同体だが、その経済共同体がFOMUC(中央アフリカ多国籍軍)というPKOを派遣した。
 アフリカでは経済共同体がPKOを派遣することは珍しくない。ECOWAS(西アフリカ諸国経済共同体)もナイジェリアが中心となり、リベリアやシエラレオネの紛争に部隊を派遣した。
 FOMUCを引き継ぐ形で、CEEAC(中部アフリカ諸国経済共同体)がMICOPAX(平和定着ミッション)というPKOを約5年にわたり派遣した。しかし状況は全く改善されず、2013年にきわめて深刻な状況となり、AUとフランスが介入した。AUの部隊は約1年後に国連に引き継がれ、MINUSCAが派遣された。
 中央アフリカに派遣されているMINUSCAは、全土で紛争を抑止できていない。平和維持部隊は孤立し、周りの武装勢力から攻撃を受けて、かなりの犠牲者を出している。
 中央アフリカでは、2013年に紛争時の犯罪を裁く特別刑事法廷が設置された。これはシエラレオネと同じような形で、国内から選出された判事と外国人の判事がともに加わって容疑者を裁くというシステムになっている。最近、そこに専門家として雇われたフランス人弁護士が国外追放になるという事件があった。このフランス人弁護士は、PKO部隊の兵士による犯罪をこの特別法廷で裁けないのかとツィッターに投稿し、それをMINUSCAが問題視して追放された。中央アフリカに送られたフランス軍の部隊やMINUSCAの部隊については、これまでに現地の住民に対する性暴力や買春など様々なスキャンダルが報じられている。近年、同様のスキャンダルは他の地域でも目立っている。そうした流れのなかでPKOの兵士の犯罪にどう対処すべきかが議論されており、全体として非常に錯綜した状況になっている。

マリの事例

 一方、マリでは2012年のクーデターでアマドゥ・トゥマニ・トゥーレの政権が倒れた。この政権の国際的な評価は高く、民主主義の手本と言われるほどだった。ところが、前述のようにカダフィ政権の崩壊に伴い兵士たちが国に帰ってきたことや、北部に派兵されたマリ軍が惨敗して軍内部で不満が高まったことなどが影響し、政権が倒れた経緯がある。その後、イスラム急進勢力が北部を占拠し、ヨーロッパから見て非常に深刻な状況となった。そのためフランスが介入し、同時にECOWASも介入した。ECOWASの平和維持部隊AFISMA(アフリカ主導国際マリ支援ミッション)は、その後国連に引き継がれてMINUSMAになった。フランスは当初、単独で介入したが、軍事作戦は継続しつつも自国の負担を減らしながら、この地域を安定化させようとしている。G5サヘルの背景にはそうした思惑がある。
 しかし、マリの紛争解決は深刻な問題を抱えている。2015年にマリ政府と武装勢力の間で和平協定が結ばれたが、協定に署名した武装勢力はイスラム急進主義勢力を排除した世俗主義のグループであった。
 マリの北部地域の治安は依然改善していない。警察や行政の担当者が逃げてしまい、国家が機能していないことが、問題の根底にある。結果として、住民たちは自分たちで身の安全を図るため民兵を組織している。複数の民兵組織ができて紛争が激化し、北部の紛争が形を変えて中部に拡大しているのが近年の状況である。先ほど述べたように、国連のPKOにはかなり犠牲者も出ている。
 マリや中央アフリカもそうだが、コンゴ民主共和国や南スーダンにしても、総じて国連PKOが文民保護の役割を果たしていないという状況がある。地元住民からは、国連が来ても何も役立っていないではないか、という声が出てきている。一方、現地政府側には、国連PKOが入ると国際社会から監視され、批判を受けることが多いので、早く出て行って欲しいという思いがある。政府や地元住民との関係が悪化し、国連の部隊が苦しい立場に置かれている状況は、コンゴ民主共和国、マリ、中央アフリカなどで共通して観察できる。

 

6.日本の関与のあり方

 アフリカの現状を理解するとき、グループ化して捉えることができることは、すでに述べた。政権交代が起こっている国々は、周縁部に紛争を抱えている場合もあるが、中央政府はかなりのレベルで民主化していて、言論の自由も相当程度保障されている。ただし、こうした国々について懸念される点もある。90年代以降、アフリカに対してドナーが支援する場合、地方分権化に熱心に取り組んできた。それは先進国の経験に基づく民主化の文脈で進められたが、結果として伝統的権威(チーフ)の権力が強化された。中央で政権交代が起きるほど民主的な国々では、中央の政権が地方政治に深く関与してコントロールせず、地方の課題を伝統的権威に丸投げすることが多い。たとえば、ザンビアでは地方の土地の配分に関して国以上にチーフの権限が強くなっている。これによって民主主義の空洞化が起こることが懸念される。
 一党優位体制を維持している国々では、民主主義が制約され、言論の自由はあまりなく、強権体制になりやすい。ただし、このようなケースをどう評価するかは難しい面がある。たとえば、エチオピアやルワンダはここ十数年、非常に高い経済成長を維持している。強権的な体制のもとで政治秩序を確立し、国家建設を進めている。その意味で開発主義国家(Developmental States)であるという見方もできる。明らかに民主主義が制約されているというデメリットがある一方で、地方までコントロールが効いている。こうした国々では、政府が地方の権限をチーフに丸投げすることはあまりない。この状況を国家建設の観点からどう評価するかは、重要な問題である。
 政治秩序が確立できない国のグループについては、紛争が継続する理由はそれぞれ違うものの、いずれも状況が短期間のうちに劇的に改善することは望みにくい。こうした国々に集中してPKO等が派遣されてきたが、いずれの国もかなり苦しい状況に置かれており、深刻な問題を孕んでいることは共通している。90年代のPKOは、たとえばリベリアとシエラレオネは成功例といえるが、現在の中央アフリカやマリ、南スーダン、コンゴについてはとても成功例とは言えない。
 こうした状況を前提にして、日本や国際社会はどう関与できるだろうか。まず、民主主義が一定程度機能している国に対しては、国家の統治能力を高めることが必要である。前述のように、中央の統治能力が弱いため、伝統的な権威に地方の統治を丸投げするということが起こる。それは過渡的にはあり得ても、近代国家を形成するにはいつまでも続けられない。その意味で、行政の能力を高める必要がある。
 対照的に、二番目の国々は中央の権限が相当に強く、強権的な統治によってしばしば人権侵害を起こしている。一党制ではないものの、多くの場合、行政と政権、すなわち党と国家が一体化している。そのような国に外部から国家建設支援をするのは慎重に考えなければならない。政権と一体となって強権体制に加担することになりかねないからだ。民間部門をどう支援できるかだが、企業に対する支援や市民社会を育成が重要なテーマとなる。ただし、こうした国々では、企業グループやNGOに対しても政権からの影響がかなり強い。たとえば近年、エチオピアやルワンダは著しい経済成長を遂げているが、それを担っている企業グループを調べると政権与党や軍が所有している場合が多い。
 問題は三番目のグループをどう考えるかである。これはグローバルな課題である。かつて、peace enforcement(平和強制)というアイディアがあったが、ソマリアで実施しようとして失敗した。外部から和平を強制する働きかけをしても、うまくいかない。これらの国々については、時間がかかっても政治プロセスによる合意を追及することが不可欠である。
 その意味で、イスラム急進勢力を排除するアプローチの仕方は妥当なのか、考える必要がある。ISもそうだが、マリやナイジェリア、北アフリカのイスラム急進勢力を見ていると、それぞれがローカルな論理で動いている。
 マリの場合、北部ではもともとトゥアレグ人が分離独立を求めて紛争を起こしてきた経緯がある。最近マリの北部でイスラム急進派を名乗っている勢力は、10年前は世俗主義的な分離主義運動を推進していた。それが2010年代になると、指導者がイスラム急進主義に宗旨替えをして、イスラム急進主義を名乗るようになった。自分の都合でイスラム急進主義のラベルを利用したり、ネットワークを利用したりしている側面がある。テロリストはすべて排除すべきだという理屈で交渉しないアプローチは、再考する必要がある。いずれにしても、イスラム急進勢力の分析は、彼らの行動のローカルな論理を理解することが第一歩になると思われる。

(本稿は、2018年6月6日に開催した「21世紀ビジョンの会」における発題を整理してまとめたものである。)