日本の中東政策と日本型国際協力の可能性 ―パレスチナ支援の経験を踏まえて―

日本の中東政策と日本型国際協力の可能性 ―パレスチナ支援の経験を踏まえて―

2018年7月30日

はじめに

 私は2018年3月末で65歳となり麗澤大学の教授職から退いた。大学教員になる前は55歳になるまでJICAに勤め、駐在した国は、シリア、イラク、エジプト、バングラデシュ、ケニア、パレスチナなど、海外出張期間も合わせると延べ約20年間に及ぶ海外駐在・滞在経験をしている。特に、JICA退職前の最後の約6年間はJICAパレスチナ事務所長としてイスラエルのテルアビブに駐在し、中東和平に資する日本のODA事業の企画・実施を行ってきた。それらは現在日本政府が推進している『平和と繁栄の回廊』につながっている。
 IPPからの依頼により、国際平和問題に関心のある若者達に話をする機会を得たので、ここでは、パレスチナ勤務での経験を踏まえて、日本型国際協力は大いに紛争解決・和解促進に寄与できる可能性について触れたい。

 

1.不安定な中東情勢

 中東地域は地政学上の観点から常に不安定な地域であり、その時々の大国の思惑や地域内のパワーバランスによって紛争の連鎖が続いている。近年、再びその兆候が顕著になっているが大きな要因として、①イスラエル・パレスチナ紛争、②アラブの春と謳われた中東民主化運動後の混乱、③シリア問題とISIS、④イラン核開発問題、⑤クルド問題、などをあげることができるだろう。ここでは①と④について触れたい。
 そもそもイスラエル・パレスチナ紛争とは土地をめぐる争いなのであるが、問題を複雑化させた責任は国際社会が犯した背信的で不公正な関わり方だったと云える。ナチス政権下で600万人以上のユダヤ人が大量虐殺されたことを見逃していた国際社会の責任。安全な地を求めて、19世紀末から始まったシオニズム運動によりユダヤ人がパレスチナへの移住を始めたことで、2つのコミュニティの対立は始まったが、これをコントロール出来なかった当時の宗主国と国連の責任。さらに民族間の対立が先鋭になった主要な原因はイギリスの自国利害を優先した多重外交にあった。すなわち、イギリスがアラブ人と交わした「フセイン・マクマホン協定」(1915年)、フランス・ロシアと交わした「サイクス・ピコ協定」(1916年)、ユダヤ人と交わした「バルフォア宣言」(1917年)である。これら相矛盾する協定(イスラエルとアラブ側から見れば背信行為)が民族問題を複雑にしてしまった。第二次世界大戦後、国連がパレスチナ分割決議を採択するが、ここでも不平等な裁定が行われ、パレスチナ・アラブ諸国は一斉に反発する。その後、イスラエルの独立宣言を以って第一次中東戦争へと至るが、イスラエルが辛くも勝利を収めたことで独立を果たすも、その後、三度の中東戦争を経て、現在のパレスチナ占領地が固定化された状況が続いている。
 その間、1993年オスロ合意、1994年カイロ協定などに基づき、パレスチナ自治政府が設立され、1996年にはアラファトPLO議長を大統領とする暫定自治が正式に始まったものの、最終的地域協定は締結に至らず、業を煮やしたパレスチナ人がインティファーダ(大衆蜂起)を起こし、和平協定は事実上頓挫してしまう。アラファト亡き後、2005年にはアッバース氏が次期大統領に選出され現在に至っているが、2006年には、総選挙でイスラム原理主義組織ハマスが過半数の議席を獲得し、パレスチナは内部分裂する。ハマスの武力によるガザ掌握を受け、事実上西岸とガザが分裂状態となった。一方、イスラエルでは2009年から、パレスチナに強硬姿勢を取る右派ネタニヤフ政権が続いている。
 一方、イスラエルが最も危惧しているイランの核開発問題では、2015年に米英仏独中ロ・EUとイランが包括的共同行動計画を合意したものの、トランプ大統領は2018年、イランが約束を履行していないという独自の理由から、このイラン核合意からの一方的な離脱を表明している。
 世界平和を脅かす核の脅威がイランと北朝鮮で顕在化しており、アメリカは2017年から北朝鮮の非核化実現に向けて本格的に乗り出し、2018年6月には歴史的な米朝首脳会談が行われ、一応の成果として北朝鮮は朝鮮半島の非核化に合意した。これだけ見れば、当面の北朝鮮の核の脅威は和らいだ様にも見えるが、実は、北朝鮮とイランは科学技術協定を結んでいる。果たして開発済の核弾頭と核生産技術はイランに持ち込まれることになるのだろうか。これを考えれば、北朝鮮だけの非核化では片手落ちであり、イスラエルにとって脅威となるイランの非核化を同時に進めなければならないことは自明である。しかし、アメリカの対イラン政策は妥当な選択肢なのだろうか。アメリカのイラン核合意体制からの一方的離脱が穏健派体制のイランを再び先鋭化させる危険性も十分ある。イラン核合意からの離脱というアメリカの選択について、背後にイスラエルの思惑があることを忘れてはならない。
 北朝鮮・イランの核問題について、トランプ大統領の外交が功を奏するかもしれないが、敢えて対立姿勢を極限まで高めて、相手の妥協を引き出すやり方は、まるで不動産ビジネスの地上げ戦略と同じ気がしてならない。上手くいった時はいいが、こじれた場合(勝機を読み違えた場合)は大きな禍根を残すことになるかもしれない。イランは大国であり、イスラエルはリスクを看過出来ない国である。

 

2.「平和と繁栄の回廊」構想

パレスチナの現状

 イスラエル・パレスチナ紛争の解決方法として、理論的には3種類が考えられる。①完全な2民族による混住・共存(2民族1国家)、②どちらかの民族による全面支配(ハマス、イスラエル右派などの主張)、③2国家の共存(土地の二分/2国家解決構想)。アッバース大統領や日本政府をはじめとする国際社会は③の解決策を目指している。①は現実的に考えられない。イスラエル・パレスチナ紛争地におけるユダヤ人とアラブ人の人口比を考えると、圧倒的にアラブ人の方が多い(国外避難民の帰還をカウントした場合)。イスラエルが①を容認することはありえない。
 パレスチナに住むアラブ人は70年に及ぶイスラエルの占領行政に苦しんできた所為もあり、「開発が進まないのはイスラエルの占領のせいだ」と、不都合なことは常にイスラエルの所為にしてしまうところがある。占領下でも、パレスチナ人の手でやれることは沢山ある。独立国家を目指すなら、彼ら自身の考え方を変えなければならないだろう。自助努力によって、パレスチナ経済を底上げできなければ、そして、自らの手で地方自治を司ることが出来なければ2民族2国家が実現するはずはない。

パレスチナJICA事務所長として

 私の第一回パレスチナ勤務は2001年8月から約1年間だった。当時は2000年9月に勃発した第二次インティファーダと重なったこともあり、パレスチナ支援を業務とするJICA事務所であるにもかかわらず、パレスチナ領に行くことを禁じられていた。事務所長と云えば聞こえはいいが、職員は私一人だけだった。要すれば、JICA事務所を閉じる為の後始末要員だったかも知れない。支援事業がなければ事務に追われることはないので、この時期は将来の支援業務再開を想定して、積極的にイスラエルと云う国を観察し、パレスチナとイスラエル双方への人脈形成に努めた。
 その後、イラク戦争の勃発で一旦帰国することになるのだが、先の赴任中に得た情報に基づいて、パレスチナ支援の再活性化の重要性を唱えて、2003年7月から第二回パレスチナ勤務が始まった。このときは赴任前に、対パレスチナ支援の再回に向けて以下の三点についてJICA本部に強く進言した。一人事務所体制の解消、防弾車の配備(支援再開の前提となる安全確保の為)、現地所長の判断による安全管理権限の拡大など。責任者として赴任するからには、中東和平に資する実のある仕事を進めたかったからである。
 パレスチナに対しては、様々なドナーがアプローチをかけるので、ある種の援助競争が生じていたが、当時のJICAは支援事業がほぼゼロの状態であったので、現地ドナー社会の中で最下位に等しいポジションだった。この頃は私一人の事務所体制で、目に見える支援事業は何も形になっていなかったが、私の中で事業再開後のパレスチナ支援のコンセプトはできつつあった。治安が不安定なガザの開発のために日本人専門家を入れるには時期尚早なので、ガザに対する支援事業はガザにいるJICA帰国研修員に協力を要請する。比較的治安が安定しているヨルダン川西岸に関しては、日本人専門家を入れることを前提として、西岸の中でも特に治安が比較的安定しており、ヨルダンとの交易の中継点となり得る西岸のジェリコから突破口を開いていくのが得策だろうと考えていた。
 このアイディアを実現する為にはパレスチナ側とのチャンネルを開くと同時に、イスラエル側とのチャンネルづくりも不可欠だった。パレスチナはイスラエル占領下にあるため、何をやるにもイスラエルの合意や許可が必要になる。許可なく造られた施設はときに容赦なくイスラエル軍によって壊されてしまう。第一回の赴任時に関係を築いていたイスラエル外務省に出向き、パレスチナ支援のコンセプトや日本とイスラエルが協力して途上国支援を行うアイディアを披露したところ意外なほどポジティブな反応が得られたのである。
 私の再着任から10ヶ月後に、ようやく企画調査員が一人つくことになった。人員が倍増したことで、具体的な案件づくりに取り掛かった。一年かけて、三件の技術協力プロジェクト(保健分野、地方自治分野、環境分野で一件ずつ)と一件の開発調査を形成することができた。
 保健分野では、パレスチナ保健庁と協議を重ねて、母子保健改善のための技術協力を行うことになった。このプロジェクトを通して、『アラビア語の母子手帳』を作成することができた。これは、パレスチナ人による、パレスチナ人のための母子手帳にやがてなって行く。パレスチナ人が所有しているIDに相当する身分証は、ほとんどが政治的なコントロールが目的で、イスラエルが発行している。シリア内戦が激しくなった折に、シリアからヨーロッパへ逃れたパレスチナ難民の女性が保持していた少ない携行品の中に、この母子手帳を『命のパスポート』と呼び、大事にしてくれていたことが日本でも報道された。
 環境分野に関しては、パレスチナ領内はゴミ問題が相当深刻である。ゴミを衛生的に捨てる場所がなく、取り敢えずのゴミ捨て場には捨てたゴミが山の様に堆積し、悪臭を放っている有様だった。その為に、パレスチナ住民が飲み水としている地下水の汚染も深刻化していた。これらのコミュニティの生活改善を主眼とした技術協力を行うことで大筋合意を得ることができた。いずれの協力もジェリコとヨルダン渓谷に集中して、シナジー効果を最大限あげることを目論んだ。要すれば、コミュニティの人々との信頼関係を構築することをまずは優先した協力を手掛けたのである。

「平和と繁栄の回廊」構想へ

 開発協力事業が始まっても、二件(地方自治改善・母子保健改善)の技術協力はわずかな投入内容だった。一方でごみ処理対策技術協力プロジェクトでは、民間のコンサルタントが数ヶ月間現地に駐在し、集中して取り組んでくれた。そのために、日本の協力が好印象を与え、他のプロジェクトも合わせたプログラム全体の活性が高まった。同じ頃、ガザからイスラエルの入植地が撤去されることが決定された。停滞していた和平交渉に希望の光が指し、パレスチナ支援に対する国際社会の後押しも一気に盛り上がりをみせた。
 しかし2006年には、情勢が再び大きく動いてしまう。パレスチナ国会に当たる立法評議会の選挙で、過激派ハマスが過半数の議席を奪い、大躍進をとげた。パレスチナへの最大のドナー国・アメリカは、ハマスをテロ集団に指定していることもあり、即座に対パレスチナ援助の停止措置を発表した。アメリカの強い意向を受けて、EU諸国、ロシア、国連も緊急的な人道支援以外の対パレスチナ支援を凍結せざるを得なくなった。
 日本政府も選択を迫られた。JICAは当然、日本の外交方針に従って事業計画を考えなければならない。私も意見を求められ次のように応えた。「JICAの協力は技術協力であり、それも地域社会の底上げを目的とした支援であるため、人道支援のカテゴリーと捉えることができる。日本政府が一時的に資金協力を当面凍結するとしても技術協力は継続すべきである」と。
 パレスチナ内外の大きな情勢変化により、ようやく立ち上がった三件の技術協力プロジェクトは半年も立たないうちに休閑状態に陥る瀬戸際であった。最終的には、日本大使館が現地事務所の意向を尊重して、「パレスチナ領に行ってもハマス関係者に会わなければ良い」と緩和策を提示してくれた。
 この日本の対応に、パレスチナ側の関係者は大変喜んだ。パレスチナが苦しんでいるときに、日本が欧米とは違う対応をとったからだ。パレスチナの保健省のカウンターパートたちが、日本人専門家を囲んで、日本の母子保健と母子健康手帳の効用を熱心に学んでくれた情景は今でも忘れられない。
 そして大きな転換期が訪れる。2006年7月、ハマス政権が継続中にもかかわらず、小泉純一郎首相がイスラエル、パレスチナ、ヨルダンを歴訪し、日本の中東和平外交について首脳会談を実施した。まさにその訪問中に、イスラエル軍がヒズボラ掃討を掲げてレバノンに進軍するというレバノン戦争が勃発したのである。予想外の非常事態ではあったが、小泉首相はイスラエル側とのトップ会談を中止することではなく、寧ろ、和平の仲介者として首脳会談を予定通り消化し、日本の平和外交の積極化を約束してくれた。この時を持って、私が推進しようとした地域間の経済的な連携を促進するアイディアは『平和と繁栄の回廊』構想と命名された。中東和平を促進するJICAプロジェクトが、日本政府の外交政策に確りと位置付けられたのである。

中東で示した日本のプレゼンス

 折から勃発したレバノン戦争は短期間にイスラエルが勝利し、ヒズボラは壊滅的な打撃を被るものと思われた。結果的に、戦争は国連の停戦決議を両者が受け入れる形で終結するまで約一ヶ月半続いた。事務所を構えるテルアビブにもミサイルが飛来する可能性はゼロでなかった。ヒズボラ指導者がテルアビブまで射程が届くミサイルの保持をほのめかし、テルアビブ市民の中にも不安は広がっていた。この状況を以って、JICA本部に意見具申すれば、すぐにでも国外退避は認められる状況だった。しかし、いったん避難帰国をすれば、次はどのタイミングで戻れるかもわからず、プロジェクトが完全に滞る懸念があった。私は戦況から、テルアビブへのミサイル攻撃はないと判断した。部下の日本人スタッフやその家族たちも皆冷静だった。
 実際に、避難しなかったことで、レバノン戦争後に各プロジェクトはスムーズに活性を取り戻した。日本からの専門家やコンサルタントの来訪も再開した。日本はハマス政権発足後も支援を継続し、レバノン戦争でも退避せず、戦争終結後にはすぐに支援を再開したとして、日本のプレゼンスを大いに示すことができた。
 2007年3月に日本で開かれた『平和と繁栄の回廊』構想に関する閣僚級四者協議の立ち上げ会合にオブザーバーとして参加した際に、発言の機会を与えられて次のように述べた。
 「JICAはモットーである人間の安全保障に重点を置きながら、パレスチナ国家建設のために主役である国民を啓発し、主体的な参加を促す協力をまず先行して行ってきた。なぜなら、真の和平を推進するためには国民の主体的な参加『ボトムアップのアプローチ』がまず重要であるからだ。住民との信頼関係が出来上がった暁に、中長期的な経済開発政策となる『トップダウンのアプローチ』(平和と繁栄の回廊)が提示されれば、平和の担い手である住民自身が政策の実施を渇望するようになり、結果として政治的な安定を求めるようになる。これが重要である。この日本のイニシアティブにより、パレスチナも、イスラエルも、ヨルダンも、すべての関係国に段階を追って順次メリットがあることをご理解頂きたい」と。実は、この会合にパレスチナ側代表として参加したエラカート和平交渉相が会議の発言の中で、何回も「JICAのミスター成瀬のイニシアティブに感謝する・・」と言ってくれたのであるが、彼の「ミスター成瀬」の発音は” Narus”(ナルース)だったので、誰も、それが私のことだとは気が付かなかったのは、今だから出来る笑い話である。

右派イスラエル政権さえ前向き

 パレスチナは主産業が農業で、生鮮野菜を栽培することができる。一方で湾岸諸国は生鮮野菜が少なく、「メイド・イン・パレスチナの野菜なら、ぜひ買いたい」という声も多く聞いていた。特に、ジェリコは昔からオレンジタウンといわれている。柑橘類・野菜などを、ヨルダン川を越えてヨルダン王国を経由して湾岸諸国へ輸出できるポテンシャルを有している。ヨルダン国王も日本のイニシアティブを大いに歓迎している。だからこそ、パレスチナ人が自らのイニシアティブでこのプロジェクトに取り組む、というところまで彼らの意識を高めたかった。
 2007年8月には、麻生太郎外務大臣がヨルダン、イスラエル、パレスチナの三国を訪問し、「平和と繁栄の回廊」構想に関する第二回閣僚級四者協議をパレスチナ自治領のジェリコで開催した。イスラエルからはリブニ副首相兼外相が出席した。イスラエルの閣僚がパレスチナ領のジェリコまで来たことにとても大きな意味があった。パレスチナの経済的自立を促すプロジェクトに、イスラエルが前向きだという証だった。イスラエルとしては、パレスチナが経済的に自立していけば紛争が縮小していくだろうと期待している。
 その後のイスラエル総選挙で政権を取ったネタニヤフ首相は非常に右派なので、イスラエル・パレスチナの和平は停滞状態が続いている。しかし、イスラエルとパレスチナの関係は昔から山あり谷ありだった。「今のイスラエル政権下では和平進展が見込めないので、一旦パレスチナ支援を中止しよう」となれば、次回のパレスチナ支援は再度ゼロから立ち上げることになる。私の経験から言わせて頂くと、現地のコミュニティを巻き込むにはかなりの時間と労力を要する。だから、情勢がどうであれ、日本は粛々とやれることをやるのが得策である。イスラエルがパレスチナとの和平に前向きな時は積極的に、消極的な時でも、やれることを粛々とやってきた。だからこそ、『平和と繁栄の回廊』構想がここまで進んだということができる。
 2018年5月に安倍首相が中東を歴訪した際に、ネタニヤフ首相をして「プロジェクトを推進しましょう」といわしめた。西岸からヨルダン川を渡って湾岸諸国まで、人と物の行き来を活性化させることについて、今までイスラエルはなかなか許可を出してくれなかった。人と物の出入りが活性化すれば、それだけテロに対するアラートレベルが高くなる。しかし、今や日本はイスラエルにとって信頼できるパートナー国として認められている。近隣国ヨルダン・エジプトとも長年に亘る友好関係が実を結び、日本は信頼関係を築いている。「平和と繁栄の回廊」構想の実現には、パレスチナ国内外で超えるべき課題はまだまだ多い。それでも、地域内の各国首脳が前向きに推進させようと合意している世界に誇れる和平イニシアティブである。

 

3.平和立国・日本として

ODAによる日本の外交戦略

 地域紛争は今も深刻である。経済が発展すれば格差が広がり、そこから新たな問題が生じることもある。日本は世界に冠たる平和立国として、経済支援を重視していくべきである。時に、「日本の支援は顔が見えない支援ばかりだ」と批判されることはあった。私が強調したいのは、地域の安定や平和構築を目的とした中長期的視点を以って、日本は人を介した経済支援・開発を推進していくべき、ということだ。
 政治問題を解決するための政治的イニシアティブをファーストトラックというなら、日本は政治的には中立でありながら、むしろ日本が得意とする経済や人的交流を使ったセカンドトラックによって、紛争当事者が歩み寄って話し合える構造をつくることもできる。政治や宗教問題など、イデオロギーに関する分野の対立では、双方の譲歩を引き出すことは簡単ではない。譲歩すれば、仲間内から裏切り者として命を脅かされることもある。しかし、経済・人的交流分野であれば「両者にメリットがあるなら話し合っても支障はない」と比較的なりやすい。日本の外交戦略として、地域の安定や平和構築という中長期的視点を持って日本のODAを展開できれば、日本のプレゼンスを世界に示すこともできる。
 特に中東では、日本だからできることがある。大切なのは、中立を維持することだ。プロパレスチナでもプロイスラエルでもない。情緒的な感情が物事をより深刻な方向に誘導することはよく起こりえる。例えば「70年も占領下にあるパレスチナは可哀想だ」。一方で、「ナチスに何百万と殺されたユダヤの歴史も気の毒だ」。しかし、可哀想や気の毒では紛争・対立は解決しない。日本は平和立国として、プロピースであってほしい。

若者に期待すること

 これからの日本や世界を担っていく若者には、実践を通してセンスを育んでほしい。コンテンツ重視の教育では、実際の紛争解決や平和構築の際に、最も重要な『人心を得る』ことにほとんど役に立たない。センスを学ぶには、若者自身が現実問題を直視する必要がある。私も失敗を通して学んだことが沢山ある。事例を挙げれば切がない。大学生達には失敗を通してセンスを育み、何時か国際人となって、国際社会の中で尊敬される日本人になってほしい。

(本稿は、2018年5月19日に開催したIPP-Youth政策研究会における発題内容をまとめたものである。)

 

参考文献:成瀬猛『マイウェイ 国際協力』(麗澤大学出版会、2013年)

政策オピニオン
成瀬 猛 元JICA事務所長
著者プロフィール
1953年名古屋市生まれ。法政大学工学部卒業。77年青年海外協力隊員としてシリア国に派遣。その後、イラク、エジプトにおける長期滞在を経て、85年国際協力機構(JICA)職員となり、90年からJICAバングラデシュ事務所(3年)に勤務。93年からJICA本部各部署を経験後、99年ケニア事務所次長(2年)、2001年パレスチナ事務所所長(1年)、イラク戦争勃発後一時帰国、03年から再度パレスチナ事務所所長(5年)を務める。08年にJICA国際協力客員専門員となり、10年JICAを退職後、麗澤大学外国語学部教授(18年3月まで)。専門分野は国際協力論、中東地政学、平和構築。研究テーマは国際的に通じる日本型道徳観と国際協力。著書に『マイウェイ国際協力:中東・アフリカ・アジア30年の軌跡』(麗澤大学出版会)、『紛争と開発協力』(開発政策研究機構)、『アフガニスタンに平和の礎を』(JICA研究所)など。

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