はじめに
国際社会における地球規模課題への対応を考慮した持続可能な開発目標(SDGs)が、政府、企業、大学、研究機関、市民社会など様々な場面で議論されるようになっている。教育分野においても、SDGsのゴール4において、「質の高い教育をみんなに」という目標が掲げられている。この目標のもとに具体的なターゲットが示されており、そこには、SDGs全体のテーマでもある「誰一人取り残さない」という基本方針の実現に向けた視点が含まれている。それは、社会とともに、そこで生きる個人の安心・安全な暮らしの実現に焦点をあてた「人間の安全保障」の観点とも重なる視点である。そこで本稿では、「持続可能な開発目標」(SDGs)の実現のために教育がどのようなアプローチをとることができるか、人間の安全保障の観点をふまえて考察する。
1.人間の安全保障と教育の役割
安全保障は、歴史的、伝統的には、「軍事力を用いて、国家の領土や政治的独立を外部からの脅威から守ること」が最も基本的な概念とされてきた。これに対して「人間の安全保障」は、「国家の安全保障」だけではなく、国際社会の秩序を人間・社会の延長として認識し、国家よりもむしろその最小構成単位である人間一人ひとり(個人)に注目した考え方である。個人の生存、生活、尊厳を脅かす様々な脅威─貧困、飢饉、感染症、災害、環境破壊、紛争、組織犯罪、薬物、人権侵害など─に対し、「人間」の「安全」を広く、積極的に守るための国際社会のコンセプトである。
SDGsが採択され、あらためて「人間の安全保障」が注目されている。外務省のホームページで指摘されているとおり、今日の多様な国際課題に対処していくためには「人間」に焦点を当てたアプローチが重要であるとともに、様々な主体及び分野間の関係性をより横断的・包括的に捉えることが必要とされている。政治・経済はもちろんのこと、文化や教育などそれぞれの分野においても「人間の安全保障」の実現に資する取り組みが期待されている。
では、教育はどのような役割が果たせるだろうか。アマルティア・センは、グローバル化する政治や経済、公共政策において「人間の安全保障」を考慮する必要があると述べた。経済と科学のグローバル化が進む中で効率性や社会の開放が重視されてきたが、一方でいかに公平な機会や利益の配分によって「人間の安全保障」を確保するかが課題として現れてきたのである。前述のように、「人間の安全保障」は国家を軸とした「安全保障」ではなく、市民生活の「安心保障」や個人の「安全保障」をも包括する概念だが、教育の分野では従来から「人間開発」(Human Development)や人間の尊厳の尊重などにおいて教育が果たすべき役割があると考えられてきた。
人間開発とは、人々の選択肢を拡大し、潜在的能力の発揮・拡大を促すことであり、国連開発計画(UNDP)は毎年、①健康(出生時平均余命)、②知識(成人識字率および平均就学年数)、③所得(一人当たりGDPや購買力)によって国の開発レベルを評価する「人間開発指数」(HDI: Human Development Index)を公表している。一般に、教育を受けることで知識を持ち、長く生きることができる環境にあり、ある程度の所得がある人ほど「人間開発」の度合いが高いと考えられている。人間開発は、消極的平和から積極的平和を目指すうえでの重要な課題でもある。
教育分野においては、1989年に「子どもの権利条約」が採択された後、1990年3月にタイのジョムティエンで「万人のための教育(EFA: Education for All)」をスローガンとして「万人のための教育世界会議」が開催された。この会議はユニセフ、ユネスコ、国連開発計画、世界銀行が共同開催したもので、各国政府代表やNPO・NGOなども参加して、すべての人に基礎教育を提供することを世界共通の目標とするという国際的コンセンサスが形成された。その後、90年代には教育開発あるいは国際教育協力の分野が大きく発展し、研究者も増えた。日本においても、1997年に広島大学に教育開発国際協力研究センター(CICE)が設立され、この分野で中心的役割を果たすようになり、筑波大学でも2002年に教育開発国際協力研究センター(CRICED)が設立されたのはこうした流れにおいてである。。
2000年9月には国連ミレニアム・サミットで「国連ミレニアム宣言」が採択され、それをもとに「ミレニアム開発目標」(MDGs)がまとめれた。その流れは現在の「持続可能な開発目標」(SDGs)へと継承され、MDGsで掲げられてていた目標はSDGsにも含まれている。
2.持続可能な開発目標(SDGs)と教育
(1)「持続可能な開発目標」(SDGs)とは
「持続可能な開発目標」(SDGs)は、2015年9月の国連サミットで採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」に記載された国際目標である。2030年までに貧困を撲滅し、持続可能な社会を実現するための先進国を含む世界共通の17のゴールと169のターゲットで構成されている。社会・経済・環境の3側面と5つのP(人間(People)、豊かさ(Prosperity)、地球(Planet)、平和(Peace)、パートナーシップ(partnership))を重視し、「誰一人取り残さない」(No one left behind)というキーワードが掲げられている。
教育と関連して注目したいのは、この「誰一人取り残さない」という象徴的な文言である。とりわけ「誰一人」という言葉には、深い意味が込められている。2000年に採択された「ミレニアム開発目標」(MDGs)では個人より途上国の支援に焦点が当てられ、さらに遡れば1990年代の「万人のための教育」(Education for All: EFA)も同様であったといえる。SDGsがこうして個人の視点を取り入れ、しかも先進国の取り組みも重要視するようになったことは意義深い。
教育については、前身の「ミレニアム開発目標」(MDGs)でも初等教育や女性の教育が目標に含まれていた。SDGsに先駆けて2015年5月に韓国の仁川で開催された「世界教育フォーラム2015」で2030年までの教育分野の政治的コミットメントをまとめた「仁川宣言」が採択されたが、この宣言では基礎教育を普及させて識字率を高め、男女の教育格差をなくすことなどが謳われ、MDGsでも掲げられていた内容があらためて確認された。
日本政府の取り組みにおいても、SDGs推進本部が2018年12月に策定した『SDGsアクションプラン2019』の中で「SDGsの担い手としての次世代・女性のエンパワーメント」「教育・保健分野における取組」が掲げられており、教育に関連する取り組みが推進されている。これらは2019年6月のG20関連会合や8月のTICAD7でも採り上げられ、、今後日本が果たす役割を考える上でも重要なポイントになっている。特に、アクションプランが掲げる「『人間の安全保障』の理念に基づき、世界の『国づくり』と『人づくり』に貢献」するという視点は重要である。「人づくり」には様々な視点があるが、女性に関する分野ではアフリカを含む途上国における女子教育支援、特に女子に対するSTEM(Science, Technology and Mathematics)教育が人材育成の世界的潮流となっていることに注目したい。
(2)SDGsにおける教育の目標:ゴール4「質の高い教育をみんなに」
SDGsではゴール4「質の高い教育をみんなに」で教育に関する具体的な10のターゲットを定めている。
4.1にある「無償かつ公正」な教育は、実現は容易ではないが重要な課題だ。無償教育は教育費を徴収しないという意味であり、義務教育と併せて導入されていることが多い。「公正」(Equity)は「平等」(Equality)とは異なる概念であり、両者の違いは教育学において根源的な課題となっている。これまで教育学においては、「平等」すなわち「機会の平等」を実現することが重要だと考えられてきた。しかし近年では、「機会の平等」を実現するだけでは不十分であり、個々人がおかれた様々な状況や条件を考慮し、各人が目指す目標の実現に向けたプロセスを重視するという点で「結果の平等」をいかに担保するかという「公正」に注目するようになっている。このことは、「人間の安全保障」でも重視される個人の視点をいかに配慮し、「機会の平等」だけではなく「結果の平等」もいかに保障するかを考えようとするものである。
教育における言語の問題を例にあげると、識字(読み書き)は基礎教育の中でも大きな目標のひとつであるが、実際にどの言語を教えるかは、各国の政策と密接に連動する問題となっており、平等と公正の問題を如実に反映している。たとえば東ティモールでは2002年の独立後、教育制度にポルトガル語が採用された。しかしポルトガル語の教科書は十分になく、ポルトガル語を話せる教員も不足している。独立前に使用されていたインドネシア語や現地語のテトゥン語、さらに遡ればオーストラリアとの関係で英語を採用する選択肢もあったと思われるが、東ティモール政府が国策として選んだのはポルトガル語であった。ここには、教育機会が提供されているという点では機会の平等があるといえるものの、すべての国民にとってポルトガル語を学ぶ機会が与えられているのか、あるいは与えられていたとしても、公正の観点から考えると、それが本当に生活に役立つ言語、将来の職業に結び付く言語なのかどうかといった点を考慮する必要がある。
4.2および4.3の教育へのアクセスも、平等と公正の問題にかかわる観点である。国によっては「アファーマティブ・アクション」というクオータ制を設けて優先的にマイノリティに教育機会を与える政策をとっている。しかしながら、多様性を重視することがかえって、マジョリティの側に逆差別であるという認識を生み、社会を不安定化する要素になる場合もある。
こうした多様性をめぐる議論は、4.7のターゲットとも相互に関連している。4.7では、今後の教育が目指していくべき方向性が示されており、いずれも人間の安全保障の実現に密接にかかわるものである。それは「持続可能な開発のための教育(Education for Sustainable Development: ESD)や、「グローバル・シチズンシップ」、さらに「包摂性(インクルージョン)」の問題である。以下ではこれら3つの観点について述べたい。
3.持続可能な開発のための教育(ESD)
(1)ESDをめぐる国際的な動き
「持続可能な開発のための教育」(ESD)は、2002年に開催された「持続可能な開発に関する世界首脳会議」(ヨハネスブルグサミット)で日本政府が初めて提案した。その後、同年の第57回国連総会本会議で、2005年から2014年までの10年間を「国連ESDの10年」(DESD)とする決議案が採択され、主導機関に指名されたユネスコが2005年にDESD国際実施計画を策定した。2009年にはドイツのボンでESD世界会議が開かれ「ボン宣言」が採択された。そして2014年11月、名古屋市と岡山市で「持続可能な開発のための教育」(ESD)に関するユネスコ世界会議が開催され、「あいち・なごや宣言」が採択されるとともに、ユネスコ/日本ESD賞が創設された。
その後、世界的にはポストESDの動きとして2015年~19年にかけてグローバル・アクション・プログラム(GAP)に基づくESDの推進がなされ、さらに現在はポスト・グローバル・アクション・プログラム(post-GAP)の流れの中で国際社会がどのような政策をとるべきかがユネスコを中心に議論されているところである。日本がESDを前面に押し出しながらpost-GAPの国際的な枠組みづくりリードしていくことが期待される。
(2)日本におけるESDへの取り組みとユネスコスクールの活動
図1は日本ユネスコ国内委員会が作成したESDの概念図である。日本の小・中・高校ではこれまでも国際理解教育を通じて行われてきた内容ではあるが、現在は防災教育、環境教育、気候変動などの持続可能な開発に関わる諸問題についての学びがESDの枠組みの中で個別の教科学習を越える形で行われている。日本ユネスコ国内委員会は、「個々のテーマに基づいて別々に実施していた学習をESDの視点で統合的に再構築することにより、より地域の課題に結びついた学際的で実践的な学びに発展させることができる」と説明している。
このような取り組みはぜひ諸外国の教師とも共有したい内容である。現場の教師も試行錯誤を繰り返しながら教材を開発したり、新しい教育実践に取り組んだりしている。例えば開発教育の分野では、学校教育だけでなく成人教育や生涯学習も含めたコミュニティ教育にNGO・NPOのスタッフが加わって活動を展開している。
日本は「国連ESDの10年」に大きく貢献してきたが、その推進に大きな役割を果たしてきたもののひとつにユネスコスクールがある。ユネスコスクールは、ユネスコ憲章に示されたユネスコの理念を実現するため平和や国際的な連携を実践する学校で、現在世界180カ国以上の国・地域で11,000校以上が加盟している。日本では文部科学省と日本ユネスコ国内委員会がユネスコスクールをESDの推進拠点として位置付けた。国内の加盟校数は10年ほど前には十数校で推移していたが、2018年10月時点で1,116校にまで急増し、世界最多となっている。
4.グローバル・シチズンシップ教育
ユネスコスクールなどが展開してきたESDが目指すものとして、SDGsの目標4.7に掲げられている「グローバル・シチズンシップ」という概念がある。もともと教育学においては、近代国民国家が成立する過程において、いかに国民教育(national education)を行うかが中心的な課題とされてきた。国民教育は、国家統合と経済発展のための人材育成という目的をもち、教育体制の中で国が定めたカリキュラムをいかに効率よく、より多くの人に伝えて国民を育成するかが重要な視点とされてきた。しかし、今日のようにグローバル化が進んで人の移動が活発になり、他国の国籍を取得する人、あるいは難民・移民として国籍が変わらないまま他国で暮らす人が増えてきた結果、「グローバル・シチズンシップ」の概念が注目されるようになっている。グローバル・シチズンシップのための教育とは、国民であるか否かは問題ではなく、同じコミュニティで生活する人々の多様性を尊重し、安心・安全な暮らしを守るために必要な教育を行うというものである。
グローバル・シチズンシップを育てる教育の具体例としては、国際学校の教育が挙げられる。国際学校では、どこかの国や特定の政治思想、宗教に注目した教育ではなく、いわゆる「国際益」を重視した教育が行われている。そこでは、文化的背景が大きく異なる生徒たちが、多様な宗教や言語の差異から様々な学びを得ている。たとえば、イスラーム教徒の生徒がラマダンの時期に何も食べないのをみて、他の生徒がイスラームに関する文化的関心を寄せるというのはその一例である。また指導する側にも相応の配慮が求められる。筆者が家族とともに赴任していた北京の国際学校では、2001年9月の同時多発テロ事件の発生時、イスラーム教やキリスト教を始め多様な宗教的背景を持つ生徒たちに配慮して校長が慎重に言葉を選びながら対応する姿がみられた。こうした国際学校での取り組みは、多様な学びを通じて将来の平和構築の担い手を育てることにつながる。
グローバル・シチズンシップに関し、教育現場ではそれをどのように教えるかということが模索されている。近年では、「グローバル・コンピテンシー」「21世紀型スキル」など、知識や思考力、態度をどのようにとらえ、それらをどのように学びを通じて学習者が修得するかが問われるようになっている。そこでは、具体的なスキルとして創造力、コミュニケーション能力、批判的思考などが含まれる。次の世代を逞しく生き抜く人材をどう育てるかは万国共通の課題であり、グローバル・シチズンシップを育てる教育における具体的な指標づくりが進められている。
5.インクルーシブ教育
「誰一人取り残さない」ことをうたっているSDGsにおいて、平等だけでなく公正性を重視して個人がもつ可能性を最大限に生かすには、インクルーシブ教育を通じて人々のエンパワーメントをどのように進めるかは大きな課題である。
ネパールは、ジェンダー格差、カースト制、民族、言語などの社会的要因、マオイストによる戦時混乱や政治体制の未整備といった政治的要因、農業中心の産業構造などの経済的要因、さらには都市部と地方の格差および地方間の格差という地理的要因が複雑に絡み合っており、国としてはまだまだ発展途上にある。そのため、就学率も高くなく、学校に通っていない児童も多いのが現状だ。しかしその一方で、障がい者と健常者の生徒が一緒に学んでいる学校の様子には、インクルーシブ教育がもつ意味を深く考えさせられる。
国立トリブバン大学の付属実験中等学校は、早い時期から障がい者を受け入れた教育を実践しており、幼稚園から後期中等教育にいたる普通教育の教育先進モデル校となっている。同校では、健常児と障がいを持つ生徒が共に同じ教室で学びながら、必要に応じて同じ学校内にあるリソースクラスを訪れ、そこで障がいに応じた対応を受ける、目の不自由な生徒はリソースクラスで点字に翻訳された教材を確認したり、あるいは教員から出された課題を点字に翻訳してもらうことでその課題に取り組む。逆に盲目の生徒が点字で作成した宿題を、リソースクラスで一般の文字に翻訳してもらい、教員に出すということが行われている。大変興味深いのは、そうしたリソースクラスの教員の中にも盲目の教員が勤務しており、生徒だけでなく教職員の組織にもインクルーシブという考え方が取り入れられているという点である。
インクルーシブ教育が提唱される一方で、統合教育やインクルーシブ教育の方向性が学校側や学習者の意識と異なることを指摘する例もある。たとえば聾唖学校の現場では、インクルーシブ教育の導入は、日ごろ手話でコミュニケーションをとっている生徒たちの生活に大きな影響を及ぼし、かえって効果がないという意見がきかれる。筆者が訪れたカトマンズ市内の特別支援学校の聾唖学校教員は、手話での会話は、ネパール社会にあるカースト制度を気にすることなく、相互に学校生活を送ることができるという利点を強調する。インクルーシブよりも、むしろ障がいの度合いを考慮した特別支援教育の方が望ましいとする意見もある。
こうした考え方は、ネパールでのインクルーシブ/特別支援教育が「障がい者(children with disability)」を対象としているだけでなく、「目に見える障がい(visible disabilities)」と「目に見えない障がい(invisible disabilities)」を含み、女子教育、先住民の子弟、孤児、紛争犠牲者、貧困児童、性的被害者、ストリート・チルドレン、犯罪者の子弟など、実に多様な人々を対象にしていることにもよる。この視点は、インクルーシブ教育の対象を「特別な支援を必要とする者」として幅広く捉えた「サマランカ宣言」(1994年)とも共通する考え方である。
SDGsではインクルーシブ(包摂的)な世の中を作っていくことが重要であると強調されているが、インクルーシブ教育を導入すべきか否か、導入するならどのようなものを導入するのか、あるいはそこで学ぶ人たちが何を学ぶのか、公正性と平等に鑑みて検討することが重要である。グローバル化の進展によって人の国際移動が活発化するにつれ、人々は異文化と接触する機会が増え、様々な変化に直面するようになった。これは日本も例外ではない。日本の学校ではすでに相当数の外国人の子どもが学んでおり、生徒数の半分以上が外国籍という学校も実際にある。2019年4月には改正出入国管理法が施行され、今後外国人労働者がさらに増える見通しである。こうした外国籍児童生徒の問題に対し、何語で授業を行い、どのような教育内容を教えるのかという問題は、多様性をどのように尊重するかという問題であり、インクルーシブ教育における平等と公正の問題である。
6.国際連携と国際高等教育
以上述べたように、SDGsの達成を考えるうえでは、多様化する社会とそこでの多様性の尊重を考えるなかで、それをいかに実現するかという点で複雑な課題がある。いずれの国においても、初等・中等教育は、国家の統合と経済発展のための人材育成という国家課題を担い、多様性の尊重という理念とは逆に、平等や公正の問題をめぐっては様々な葛藤が起きているのが現実である。これに対して、高等教育においては、国際化の進展とともに、他国との連携や協調という動きが進み、地球規模の課題解決を担う次世代を国際社会が協働して育てようとする動きがみられる。
高等教育においては、かつてエリート層を対象にしていたものが、経済発展に伴い、中産階級層へとその対象が移り、大衆化が進んだ。その結果、誰もが大学で学んで学位を得ることを希望する時代になった。こうした状況のもと、各国政府は、高等教育の拡充を図るようになり、自国の高等教育に重点を置くようになった結果、従来はアジアを含め途上国からの「頭脳流出」が問題になっていたのが、いかにして自国に留学生を呼び戻すか、あるいは優秀な人材を呼び寄せるかという「頭脳還流」現象がみられるようになった。
(1)国境を越える教育
こうした動きを可能にしているのが国境を越える教育(トランスナショナル教育あるいはクロスボーダー教育)と呼ばれるもので、今日では、国際交流という枠を超え、各国政府が政治経済的な戦略として展開するようになっている。この結果、留学制度やそれに伴う留学生移動は非常に多様化しており、かつてアメリカやヨーロッパ諸国を始めとする英語圏が世界の留学生の主な行き先であったのに対し、現在は新たな受け入れ国が登場するようになっている。
クロスボーダー教育を中心的に支えているのが、英語を教授言語とするプログラムである。英語のプログラムを導入することで学生だけでなく教職員の移動も活発化している。その結果、「ダブル・ディグリー」「ジョイント・ディグリー」「サンドイッチ・プログラム」「トゥイニング・プログラム」など、一つのプログラムに参加して二つの修士号を取得したり、2~3カ国の大学が共同で一つの卒業論文を指導したりする多様な形態の共同学位プログラムが登場するようになった。オーストラリアでは90年代からオフショア・プログラムという名称で労働人材や留学生を集め、国家の主要産業として「頭脳移民」の受け入れに力を入れてきた。
アジアでは、国境を越える教育を利用して自国の教育制度を拡充しようとしている国も多くみられる。例えば、マレーシアは「ブミプトラ政策」とよばれるマレー人優先政策をとってきたため、自国内では進学が制約される中国系やインド系の学生が海外留学を選択する例が多かった。それが今ではクロスボーダー・プログラムを積極的に導入し、国内に居ながらイギリスやアメリカ、カナダなどの学位を取得できる大学が増えている。もちろん海外にも留学生を送り出してはいるが、マレーシアは逆に、こうした海外のプログラムを利用するかたちで海外からの受け入れを積極的に増やす政策に転じ、今日では留学生受け入れ国のひとつに数えられるまでになった。
留学生を受け入れることは、留学生が使う諸費用によって外貨獲得につながり、GDPも増加する。こうして各国は優れたプログラムを提供して国際交流のハブになろうとしている。それは同時に、労働人材の確保を念頭に入れたものでもある。マレーシアの例ではスリランカやネパールなど南アジアの国々、あるいは同じイスラーム圏の中東諸国から留学生に加え、旧英連邦のアフリカ諸国出身の留学生も増えている。
(2)国際高等教育における協調の動き
一方、高等教育の国際化をめぐっては、競争だけでなく協力に向かう動きも出てきている。大学においては、二大学が協定を結んで交換留学を行う例は多数あるが、最近は政府あるいは地域機構が主導して国際交流プログラムを実施するケースも増えている。ヨーロッパのEU諸国が1980年代に始めた「エラスムス計画」という多国間の学生移動プログラムは有名である。
アジアでは、マレーシア・インドネシア・タイの三カ国の国家間協力により、各国の頭文字を取った「MITプログラム」が発足した。同プログラムはその後、東南アジア教育大臣機構・高等教育開発センター(SEAMEO-RIHED)に引き継がれ、「東南アジア国際学生モビリティプログラム(AIMS)」となった。AIMSはアセアン10カ国の主な大学が協力してプログラムを実施しており、日本の大学も、文部科学省の「大学の世界展開力強化事業~海外との戦略的高等教育連携支援~」を通じてそのネットワークに参加してきた。同事業は2017年度でいったん終了したが、その後もさまざまな形でプログラムが継承されている。
アセアンはこのようなプログラムを活発に展開していて、その他にも「アセアン大学連合(AUN)」やJICAが支援する「アセアン工学系高等教育ネットワーク(AUN/SEED-Net:シードネット)」などがある。さらに日本、中国、韓国の三カ国政府による「キャンパス・アジア」もユニークな取り組みを行っている。一方、南アジア諸国連合(SAARC)による「南アジア大学(SAU)」は、メンバーの8カ国からの学生をニューデリー郊外の一つのキャンパスに集める形で運営されている大学である。インドとパキスタンのような難しい国家関係もあるなかで、各国の学生が机を並べて学ぶいわば国際学校の大学版のような役割を果たしている。
図3は、アジア高等教育圏ネットワークを地図で示したものである。前述の「東南アジア国際学生モビリティプログラム(AIMS)」「アセアン大学連合(AUN)」「キャンパス・アジア」「南アジア大学(SAU)」のほか、1990年代初頭からある「アジア太平洋大学交流機構(UMAP)」にはアメリカやメキシコ、チリなども加盟している。また最近の動きとしては、図3で示した以外に、大メコン圏のCLMV(カンボジア、ラオス、ミャンマー、ベトナム)4カ国およびタイと中国(雲南省及び広西チワン族自治区)の大学が加盟する「大メコン圏大学コンソーシアム(GMS-UC)」が発足し、アセアンの支援を得ながら活動を展開しつつある。また2017年に発足した「アジア大学連盟(AUA)」は、中国の一帯一路政策に関連して選ばれたアジアの主要大学がから構成されている。
これらの例が示すように、高等教育における連携には、地域機構、政府、大学など、様々なステークホルダーが担い手となり連携が行われている。こうした高等教育の国際化が進めばSDGsが目指す「グローバル・シチズンシップ教育」を行う土壌も徐々にできていくことになろう。アジア高等教育圏は、各国が単に競争する場ではなく、地域化や人材育成を推進するための調整の場としての機能をもつことが期待される。
7.まとめ:人間の安全保障と平和構築に対する教育のアプローチ
以上述べたような世界的な共通目標と教育の動向を、今後はどのようにとりあげていくべきか。本稿でとりあげた国際教育は、「国際主義」(internationalism)の考え方に基づく分野であり、学問として成立したのは数十年ほど前に過ぎないが、その理念が提唱されたのは、ヨーロッパの30年戦争(1618~1638)後のウェストファリア体制の時代にまで遡る。当時、教育学者であり思想家でもあったコメニウスは、平和な世界を実現するには国境を越える普遍的な平和教育が必要だと考え、世界初の子ども向け絵入り教科書となった『世界図絵』(1658年)を編纂したことで知られる。ユネスコ憲章の前文にある「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という文章も、コメニウスのこうした考え方に基づいて作られたものである。19世紀にフランス「国際学校」(international school)が誕生した背景にも、国境を越えて様々な国籍の子供が一緒に教育を受けることを実現する国際主義の流れが息づいている。
国際教育のこうした流れを振り返る時、その理念は、今日、SDGsでもうたわれているESDやグローバル・シチズンシップ教育、さらにインクルーブ教育というアプロ―チに受け継がれているということができる。個々人の安心・安全な暮らしを考え、平和な社会を構築するという人間の安全保障は、「誰一人取り残さない」というSDGsの基本理念とつながるものであり、その実現に向けては、国際主義に基づく教育の取り組みが、今もなお大きな役割を担い続けているということができる。
(本稿は、2019年6月20日に開催した政策研究会における発題を整理してまとめたものである。)
<参考文献>
杉村美紀「教育からみた人間の安全保障と平和構築―ネパールにおけるインクルーシブ/特別支援教育が問いかけるもの―」『人間の安全保障と平和構築』日本評論社、2017年、139-156頁。
杉村美紀「アジア高等教育圏のダイナミクス」『リクルート・カレッジマネジメント』204号、2017年5-6月号、53-56頁。