隣国とどうつきあうか ―歴史の中の日韓関係と現代―

隣国とどうつきあうか ―歴史の中の日韓関係と現代―

2016年2月5日

1.中国の伝統的国際秩序観念-東アジア・システム

(1)「中華民族の偉大なる復興」 昨今の日中、日韓の緊張・葛藤状態については周知のところであろうが、それをもたらしている中国と韓国の国際秩序観念について考えてみたい。「観念」であるから、その淵源をはるか遠くにもつ伝統的なものであるが、これが現代にどのように繋がっているかを考えてみたい。 習近平総書記の登場以来、彼の演説のキーワードは、「中華民族の偉大なる復興」「中国の夢」である。2012年11月の共産党第18回党大会において、習近平が共産党最高指導者(党総書記)に選出されたが、私はその第一声に注目した。 天安門広場に隣接する国家博物院で習近平総書記は、他の中央常務員を左右に従えて、 20分くらいの演説を行った。党大会は予定より1カ月ほど遅れて開催されたが、それは次期党総書記に誰を選出するかなど、背後で重要な議論が行われたためだったらしい。習近平総書記が党大会に現れたとき、それまで彼については余り知られていなかったこともあり、彼の第一声には多くの注目が集まった。 その演説の要旨は次のようなものだった。 ――アヘン戦争での敗北以来、170年余にわたり、屈辱の歴史を背負わされてきたわが中華民族が、ついに偉大なる復興への道を探り当て、世界を瞠目させる成果を収めつつある。「中華民族の偉大なる復興」こそが、近代以来の中国人が最も強く待ち望んでいた「夢」である。現在、われわれは過去のいかなる時期よりも「中華民族の偉大なる復興」の目標に近づいている。・・・ これが今日に至るまでの彼の演説のキーワードになっている。アジアインフラ投資銀行(AIIB)設立に向けた会議での演説でもそうであったし、ウイグル地区で爆弾テロ事件のようなネガティブな事件が起きたときも、(こんなことでは「中華民族の偉大なる復興」の夢も遠ざかってしまうなどと)この言葉を使っている。 私がこの「中華民族の偉大なる復興」という表現を聞いて思い起こしたのは、フランス語の「ルネサンス(renaissance)」(復興・再生)である。復興・再生と言った場合、偉大なる過去がどこかにあってそこに回帰する、あるいは偉大なる過去を現代の文脈の中に再生・再現させるという言外の意味があるのではないかと直感する。そこで中国研究者等に私の直感を話してみたところ、大方は肯定的な受け止め方だった。 (教科書的に言えば)ルネサンスとは、中世ヨーロッパ全体を覆っていた神聖ローマ帝国(とキリスト教世界)という一元的権力の重苦しさから逃れんがために、北部イタリアを中心に勃興した文芸復興運動であり、つまりは、古典古代(古代ギリシア・ローマ)の復興、再生である。 もしこの解釈が正しいとすれば、習近平総書記は、中国の偉大なる過去に回帰し、それを現代に再現したいという強い意志を持っているのであろう。その「偉大な過去」とは、いつの時代をさすのか。結論的に言えば、大清帝国である。

(2)伝統中国への回帰とナショナリズム 英国の経済学者、アンガス・マディソン(Angus Maddison、1926-2010年、フローニンゲン大学名誉教授)の歴史推計に拠れば、18世紀半ばの大清帝国のGDPは世界全体の3~4割を占めていたという。2000年以上の中国王朝興亡史を振り返り、それぞれの王朝の版図を経年的に観察してみると、確かに清の時代の版図が最大である。この時代の清は、チベット、モンゴル、ウイグルをも併合した。当時の中国(清)は(国民国家ではないが)世界から仰ぎ見られるような一つの巨大な帝国であった。一方、同時代の西洋社会は市民革命や産業革命以前の時代であり、清の繁栄は世界の中でも唯一のきらびやかさを誇っていたのであろう。 非常にリアリスティックな中国人が「中華民族の偉大なる復興」という言葉からイメージするのは、秦や唐でもなく、明でもなく大清帝国のことではないかと思う。このような意識が、習近平総書記の頭の中にあるのではないか。そしてこの心情が、現代の中国のナショナリズムを構成する重要な要素の一つではないかと考えている。 一般社団法人・アジア調査会は、1989年以来、毎年、毎日新聞社と共同で「アジア・太平洋賞」を発表しているが、2014年度の第26回受賞者は中国・復旦大学文史研究院の葛兆光院長だった。原著は、『宅茲中国―重建有関「中国」的歴史論述』(2011年)という浩瀚なものであるが、辻康吾・獨協大学元教授がその内容を圧縮して監修され『中国再考―その領域・民族・文化』(岩波現代文庫)としてまとめられた。 その中に次のような表現がある。 ―――最近一部の中国の研究者は、過去数百年、西側が主導してきた世界秩序の後に、中国の「台頭」にともない、自らの伝統中国の「天下秩序」あるいは「天下主義」が近代世界秩序の新たな源泉としてとって代わるべきだと考えている。・・・ 中国の知識人は根深い「天下主義」と「天朝心情」を抱いている。現在「中国台頭」のスローガンに突き動かされている多くの人々は、近代以来、西側(とくにアメリカ)が世界秩序を主導していることに反感を抱き、「天下主義」、「天下システム」、あるいは「新天下主義」を大声で叫んでいる。・・・ さらに問題なのは、最近様々の言論がアカデミズムの範囲を越え、政治的言説の中に参入し、その背後にはかなり複雑な動機や背景が隠されていることである。・・・ 大変面倒なこと、つまり「天下」観念が激化され、「朝貢」イメージを本当だと思いこみ、「天朝」の記憶が発掘され、おそらく中国文化と国家感情は逆に、全世界的文明と地域的協力に対抗する民族主義(あるいは国家主義)的感情となり、それこそが本当に「文明の衝突」を誘発することになるであろう。・・・ 葛兆光院長は、国力と軍事力の増強に伴う中国の台頭を「慢心の心理状態」だとし、貧弱な時代の危機意識だと批判する。伝統中国への回帰、アイデンティティの淵源を伝統中国に求めようという「天朝心情」が国学ブームとなって、これが現代中国の歴史学やジャーナリズムの主流になりつつあるという警告は注目に値する。 考えてもみれば、無理もないとも感じる。中国は、2001年にWTOに加盟し、世界経済のステークホルダーとして国際的認知を受けた。その後、北京オリンピック(2008年)、上海万博(2010年)を相次いで開催し、同年GDPで日本を凌駕し世界第二位の経済大国に躍り出た。さらに2015年にはAIIB設立を呼びかけ、英独仏伊などG7のヨーロッパ諸国をはじめ、韓国・オーストラリアなど57カ国がこれに応じた。中国は昇竜のような気分なのであろう。 「中華民族の偉大なる復興」こそが「中国の夢」であり、この夢の実現に一番近いところに自分たちがいる、もう一息だから、党員・国民諸君、一層がんばろうではないかという訴えが、「天朝心情」であり、つまりは復古調のナショナリズムに他ならない。

(3)伝統中国の国際秩序観念とその変容 自国中心の国際秩序観念は、中国人エリートにおいて抜きがたい伝統になっているように思われる。中国人エリートは、国際秩序を伝統的にどう見てきたか。それを図式化したものが図1である。

図1 伝統中国の国際秩序概念図

 「中華(中原)」とは、黄河の中流域(河南省)から下流域(山東省)にかけての地域で(華北平原、洛陽盆地ともいわれる)、その中心都市が鄭州(洛陽)である。中国人が中華文明発祥の地と考えるところでもある。 この地域の中心で諸勢力が覇を競い争ってきた。「中原に鹿(=天子)を逐(お)う」という表現もあるように、中原での覇権争いに勝利した者が、天子となり王朝を打ち建て、そうして中国は王朝の反転・転覆史を繰り返してきた。多様な種族が争ってきた結果、諸種族は混淆してきたに違いない。漢族とはフィクショナルな種族概念である。 中華(中原)を中心にして同心円的に広がってできたものが「伝統中国の国際秩序観念」である。同心円的に外延が拡大していくのだが、どこかに境界線があるという認識はあった。その中ではっきりした境界線と言えば、(匈奴などの)北方遊牧・騎馬民族との境である。それが今日にも残る「万里の長城」であり、その向こう側の民族を「北狄」と称した。 また北方ほど明確ではないが、漢族の同心円の外に住む人間について、東方を「東夷」(農業、牧畜、漁労などを営む)、西方を「西戎」(遊牧民)、南方を「南蛮」(焼き畑農業、漁労を営む)とそれぞれ称した。「狄」「夷」「戎」「蛮」の四つの漢字はみな同じく「あらえびす」という意味を持つ(四夷)。さらに同心円の(図中、最も外側の)太線の外は、人間の顔をしているが人間とは思われないように考えられてきた(化外)。大まかに言えば、伝統中国の国際秩序観念はこのようなイメージであり、これが古代以来の「華夷秩序」である。 以上をまとめた最も簡単な「華夷秩序」の定義は、「中華を中心として同心円的に広がり、周縁に位置する人種や民族ほど文明度が低いとみなす古来の価値観念」である。 このような古代以来の価値観念が、大清帝国の時代になると図2のように変容していく。中華が中心にあることは不変だが、清は満洲族(女真族)が満洲地域で興した王朝であり、これが北京に攻め入ってつくられた征服王朝である。満洲族の故地である満洲地域は特別行政区域とされ、漢族の移住は禁止された。

図2 大清帝国の国際秩序概念図
(中華から見たイメージ図)

 華夷秩序は中華(中原)を中心に漢族社会が外延的に拡大していく構造を持つが、清朝中国にはモンゴル族、ウイグル族、チベット族も含まれている。これらの居住区域は非常に広大な地域を占めており、全体の枠組みは「大清帝国」と称された。

(4)分治的統治 ここで注意すべき点は、中華(中原)を支配する満洲族・漢族が中央集権的権力によってモンゴル族、ウイグル族、チベット族を支配したのではなく、「分治的統治」をやってきたことである。「分治的統治」とは、「冊封体制」とも称するが、中華の礼式に服させる見返りに各地の支配者に王位を与え、その王に領土と領民の統治を委ねるという伝統的な国際秩序観念である。 「冊」とは、地方の統治者に対して王位を与える旨を記した冊書(委任状)である。専制的な王を輔弼する官僚群に爵位を与える委任状でもある。「封」は邦土なり領土を意味する。各領土を伝統的支配者が統治することを許可し、その代わり中華の王朝に対して朝貢し礼を尽くすことを約束させる(朝貢システム)。搾取・被搾取の関係ではなく、各地の王が10捧げれば30のお返しをするというもので、それによって天子は中華の王朝(中央政府)の寛大な権威を示したのである。 (清の)天子は、チベット仏教やイスラームの保護者という立場を取り、他の民族を弾圧して同化政策を取ったわけではなかった。むしろ冊封体制といわれるように、分治的統治をやってきたというべきである。 塩野七生さんの『ローマ人の物語』によれば、ローマ帝国が巨大化した要因の一つに、ローマ帝国が隣国を占領するとその被占領地の支配者に統治の権力を与え、彼をローマとの連合軍に加えてともにさらに外延へと進出し、その繰り返しによって巨大な帝国を築いていったようである。あれほどの広大な地域と異民族を統治するには、そのような方法しかなかったのではないか。現代でもインドや米国の連邦制に見るように、人間の知恵として、異民族によって構成される広大な地域の統治には「分治的統治」が有効であり、その原型が大清帝国にあったのではないか。 国内の異民族に対して冊封体制で臨んだだけではなく、朝鮮やベトナム、琉球などに対しても、これらを冊封体制に組み込む形で君臨したという事実は一段と興味深い。強権による自国領土への編入というやり方ではなく、まさに(軍事力を背景にしながらも)イデオロギー、システム、体制によって組み込んだのが冊封体制である。 現在の東南アジア諸国に該当する海域諸国も同様であった。当時は(ここには国民国家体制はなく)茫洋とした境界によって存立した国々であり、各王朝によっても中華との関係の度合いに温度差はあっただろう。都市国家が多かったように思われる。そのような国々も(たとえ中国に抵抗していたとしても)中華世界から見れば、(広い意味で)中国を仰ぎ見る華夷秩序、冊封体制の中にいたのではないか。

(5)華夷秩序の外にあった日本と台湾 日本は華夷秩序の埒外であった。 日本の古代国家が誕生したとき、国づくりのテキストがなかったので、それを求めて遣隋使・遣唐使などを中国に派遣し、律令制度を導入して古代律令体制を築いた。この時代、日本に対する中国の影響には強いものがあった。しかし、日本が冊封体制の中に組み込まれたことはなかった。足利時代に明に対して朝貢貿易をしたことはあったが、それは例外的・一時的なものだった。基本的に日本は、中華文明とは別の道を歩んできた。 もう一つの例外的存在が台湾だ。台湾は日本よりも外延の「化外(けがい)」に位置していた。華夷秩序においては天子の徳が外延的に拡大しながら周辺を教化していく、その過程が「王化」であるが、その枠外にある存在を「化外」という。 台湾は、17世紀に明(南明)が最終的に滅亡すると(1662年)、「反清復明」を唱えて清に抵抗した鄭成功が、当時台湾を支配していたオランダ・東インド会社を追放して支配権を確立した(1662年)。しかし清は鄭成功政権を制圧して滅ぼし、その後、台湾は福建省の統治下に編入された。 当時台湾は清の関心の一部ではあっただろうが、せいぜい反清勢力の橋頭堡になっては困るという程度の関心であって、台湾を本格的に統治・経営しようと考えたことはなかったようだ。清は台湾の原住民を「蕃」と呼んで放置していたとみられる。西洋諸国が台湾統治をしたときにも、清はこれに異議を申し立てることもなく、清の官僚が一番行きたくない地域も台湾であったようだ。 日清戦争後の講和条約(下関条約)によって、台湾が日本に割譲されるようになった背景には、そのような清国の台湾に対する(華夷秩序的な蔑視)意識があったからではないか。講和条約の交渉において、清側の全権代表は李鴻章と李経方(駐日公使)、日本側全権代表は伊藤博文と陸奥宗光だった。外務官僚が取り囲む中、下関の春帆楼の2階で長い談判をやった。その決着がついたとき、李鴻章は伊藤博文に対して「あなたは(台湾統治で)苦労するよ」と言って去っていったという。当時の台湾は、土匪・匪賊が跋扈し、衛生状態が悪く、アヘンが蔓延する、まともな社会として機能していなかったからだ。

(6)現代とつながる伝統観念 「中華民族の偉大なる復興」というときの現代中国は、大清帝国の栄光を再生したいという観念であり、習近平総書記以前から中国人エリートの意識の中にはそのような観念が存在していたのだろう。そうでないと1992年に制定された国内法「領海法」の文言を理解するのは難しい。 領海法第2条:中華人民共和国の領地領海は中華人民共和国の大陸とその沿海の島嶼、台湾及びそこに含まれる釣魚島とその付属の各島、澎湖列島、東沙群島、西沙群島、中沙群島、南沙群島及びその他一切の中華人民共和国に属する島嶼を包括する。 南シナ海について中国政府は、九段線の内側すべてを自国の領海だと主張しているが、1932年に発刊された中華民国当時の南海地図にも同様の記載がある。現在の中国政府は、中華民国の領土概念を継承してそうしたのだと思う。中華民国のそれも、それ以前の観念を継承したのに違いない。 領海法第2条の最後の「その他一切の中華人民共和国に属する島嶼を包括する」という部分をどう解釈すべきか。 領海法の「台湾及びそこに含まれる釣魚島とその付属の各島」という表現に見られるように、中国政府は「尖閣諸島は台湾に属する」と見ている。つまり台湾は中華人民共和国に属するのだから、尖閣諸島は当然中国に属すると主張する。 「その他一切の中華人民共和国に属する島嶼を包括する」の解釈は、時間の経過と共にどんどん変化していく可能性が否定できない。つまり、私は日本の南西諸島のどこまで含むのかということを憂慮している。 尖閣諸島や南シナ海を中国政府は自らの「核心的利益」と主張する。2013年11月、東シナ海に「防空識別圏」が設定されたが、南シナ海には九段線を理由に支配権を主張しているから、それを根拠に今後そう遠くない将来、ここにも防空識別圏が設定されても不思議ではないと予想される。 中国古代から大清帝国を経て現代中国に至るこのような伝統的国際秩序観念の中に、現代中国の指導部も位置しているのではないか。

2.朝鮮の伝統的国際秩序観念

 近代の朝鮮と清との関係は、「清韓宗属関係」と言われる。清が宗主国で、朝鮮が属国であるという意味である。 朝鮮(李氏朝鮮、以下「朝鮮」と記す)は1392年に李成桂が建てた国であり、すでに彼自身「小を以(もつ)て大に事(つか)ふるは保国の道也」と言って対明外交を行った。朝鮮の北・西方には巨大な中華帝国があり、そのさらに北方には熊のような大国ロシアがあり、海洋に出て行こうとすれば鷲の翼を広げたかのように日本が立ちふさがっている。 半島のこのような地政学的環境の中で朝鮮民族が生き残っていくためには、大国に事(つか)えるしかないとの観念が古来作られてきたのではないか(事大主義)。朝鮮が誕生したころの中国は明(1368-1644年、南明は1662年まで)だったので、明から王位を冊封された。国号「朝鮮」も、いくつかの案の中から明の皇帝が選んで決められたものだ。 このような宗属関係の中で、朝鮮は慶弔使の派遣、中国使者の受け入れ(「迎恩門」)を度々行ってきた。例えば、北京からの明の使者を迎え入れるときには、迎恩門(注:漢城の西大門である敦義門のすぐ外、義州を経て北京に至る街道にある)の外側に出て朝鮮王が出迎え、朝鮮王はその門を(通らずに)迂回して城内に戻ったという。使者が帰国するときは、明の使者は迎恩門を経て出て行くが、朝鮮王は迂回して迎恩門の外に出て見送りをしたという。 臣下としてそれは、これ以上ないほどの忠誠を顕示する儀式である「三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)之礼」(注:清の敬礼法の一つで、皇帝に対して臣従を示す意味で行われ、三度跪(ひざまず)き、九度頭を地につけて拝するもの)がなされた。 明とこのような君臣関係を維持してきた朝鮮だったが、17世紀に満洲に興った清が中華を支配して清王朝が成立したことで、朝鮮は原理上、非常に難しい問題に直面するようになった。中国の伝統的秩序である華夷秩序からすれば、「東夷」=蕃族の一つである満洲族が興した清朝に事大することは、論理上の矛盾が出てくる。つまり、表面的には清に忠誠を尽くすものの、深層心理においては忠誠は尽くせない。そこに朝鮮民族の「鬱屈的心理」が生まれたのではないか。 しかし時間の経過と共に、朝鮮民族は、「中華文明の本流は清朝にあるのではなく、自分たち李朝の方にこそある」という考え方に変えていったのではないか。つまり、表面的には清に事大しながらも、民族心理の深層においては中華の伝統を正統的に継承するものは朝鮮にありとする考え方である。これが「小中華主義」と呼ばれるものだ。そしてこの「小中華主義」が時の経過とともに強化されていった。 朝鮮は伝統的に「東方礼儀之国」といわれてきたが、それはまさに「礼儀之国は朝鮮であって清朝ではない」という意味であろう。実際、朝鮮(韓国)は礼式の国だと思う。朝鮮は儒教の中でも朱子学を導入した。朱子学の基本は、あるがままの人間を認めず、朱子学の礼式を全うして初めて人間になるという考え方だ。人間社会を礼式化してその礼式を守らせることを基本に据えた。 「衛正斥邪」という言葉があるが、「正」(「正学」「正道」)は(朝鮮)朱子学を守ることであり、「邪」(邪道)の解釈は難しいが、(西洋キリスト教文明のほかに)清の儒学を含めて考えていたのであろう。 以上をまとめると、現実の国際関係において朝鮮は、清に服属し、君臣の儀礼を守りながらこれに「事大」する一方で、内面においては清を軽蔑する生き方を選択したのである。表層と内面の分離・葛藤。現実と思想の亀裂。このような深層心理状態に長いこと耐えてきたのだと思う。 日本のような世俗的国家と比べると、朝鮮は圧倒的にイデオロギー的社会だと思う。さらに言えば、朝鮮はイデオロギーのみで生存しえた王朝だと言うこともできよう。世俗にまみれて合理的に利益の追求にしのぎを削る日本に比べて、内外の「鬱屈」に耐えてイデオロギーのみで生きていこうという朝鮮は、ある面で見上げたものでもある。この生き方を見て思い出すのは、魯迅の小説『阿Q正伝』である。 阿Qは片田舎の作男のような人物だが、「精神勝利法」と自称する独自の思考法を身につけている。阿Qは人からどんなに罵られ小突かれても、結果を都合よく考え解釈して自分が勝利したと思い込むという人物であった。いくら侮辱されようが、人間生きていくためにはイデオロギーが必要だったということなのだろう。朝鮮は「阿Q正伝国家」だったのかもしれない。

3.朝鮮民族の深層心理から現代を理解する

 既に述べたように、朝鮮は(中華思想が凝縮したような)「小中華思想」の国であった。中華思想より一層「中華的」でもあった。(中華思想の)中国が日本を「取るに足りない卑小な国(東夷、蕃族)」と見ていたとすれば、(小中華思想の)朝鮮は中国以上に日本を(蔑んで)見ていたのは当然であろう。 中国にとって日本は、はるか海の向こうの島国だという感覚があるかもしれないが、朝鮮にとって日本は対馬海峡を隔ててすぐ隣にある国である。無視の対象にはなり得ない。ゆえに卑小、取るに足らないといった蔑視観が現実性をもって強く現れたのでもあろう。 日本が朝鮮半島を何度か侵略し、近代に至ってついには併合にまで至ったことは、朝鮮の両班階層にとって絶対に許せないという感覚・認識があったのだと思う。その思いが長いこと意識の下(潜在意識)に眠っていたのではないか。 前節で述べたような朝鮮民族の深層心理的分析と歴史的事情を合わせて考えれば、現代の韓国が歴史問題にこだわるさまざまな出来事も私どももよく理解できるであろう。 朴槿恵大統領が、日韓外交交渉の主たる議題として慰安婦問題をことさら取り上げている。国益全体を考えていくつかの課題の中の一つに慰安婦問題があるというのであれば理解できるが、このシングル・イシュー化は、日本人としては不思議に思われる。最近は、ダブル・トラックで慰安婦問題を考えようとする韓国の識者も出てきてはいるようだが、まだ少数に過ぎない。 それでは慰安婦問題について、平均的韓国人はどのように考えているのだろうか。それを言語化すれば、おそらく「文明において低く卑小なる日本が、礼を伝統的に尊んできた、価値において上位にある朝鮮の女性を犯したことは、絶対に許されることではない」という潜在的な意識なのだろう。従軍慰安婦の強制連行説に関して日韓の議論が全く噛み合わず平行線をたどる背景には、このような意識下(潜在意識)の問題があるように思う。 韓国では「過去史清算(注)」(盧武鉉大統領)、「歴史清算」(朴槿恵大統領)という言葉を使っているが、<歴史を清算する>という考え方は、日本人にとってはほとんど理解不能である。韓国の人は「歴史を清算できる」と考えているようだが、日本語としては意味を成さない。しかし、韓国人の間ではごく平均的に使われているという不思議さ。 また、2003年3月に与野党の賛成によって韓国国会で成立した「日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法」には、次のような文言がある。 「日本帝国主義の殖民政策に協力し我が民族を弾圧した反民族行為者が当時蓄財した財産を国家の所有とすることにより、正義を具現する」。 対日協力者本人は、現在生きていないわけだから、現在生存しているのはその孫・曾孫以下である。その世代の財産を国家所有にして正義を実現するという主旨である。 19世紀末にフランス人宣教師シャルル・ダレ(1829-78年)は、朝鮮の事情について次のように記述した。 「朝鮮では、父親の仇を討たなかったならば、父子関係が否認され、その子は私生児となり、姓を名乗る権利さえもなくなってしまう。子のこのような不孝は、先祖崇拝だけで成り立っているこの国の宗教の根本を侵すことになる。たとえ父が合法的に殺されたとしても、父の仇あるいはその子を、父と同じ境遇に陥れなければならず、また父が流罪になればその敵を流罪にしてやらなければならない。父が暗殺された場合も、同じ行為が求められる。この場合、犯人はたいてい無罪とされる。なぜなら、この国の宗教的国民的感情が彼に与するからである」(原著は1878年、金容権訳『朝鮮事情』東洋文庫、平凡社、1979年)。 韓国の憲法裁判所は2011年8月に、「元慰安婦の賠償請求権に関する韓国政府の不作為は違憲」との判決を下したが、憲法裁判所の判示であるから、行政府はそれに従わざるを得ない。慰安婦問題については、政治的主張に若干の変動はあるにしても、根本的解決はほぼ不可能なのではないか。 また元徴用工に対する賠償金訴訟でも、ソウル高等法院は「新日鉄住金元徴用工に対する賠償金の支払い」を命ずるとともに、釜山高等法院でも「三菱重工元徴用工に対する賠償金の支払い」を命ずる判決を出した(2013年7月)。 先日、世界を回っているジャーナリストの古森義久氏に「日韓ほど容易に和解できない二国関係は世界にあるだろうか? もし日韓関係に類似した二国(隣国)関係があれば教えてほしい」と率直に聞いてみた。彼はしばらく考えた上で、「やっぱり日韓関係ほど和解が難しい二国関係は他にないのだろうね」と答えていた。 日本の近代、すなわち開国・維新以来、明治の日本を終始悩ませ続けてきたのが、朝鮮であった。本稿で述べたように、中国と朝鮮の伝統的国際秩序観念を理解することは、現代の隣国(中国・韓国)との付き合い方を考える上で有益だと信ずる。

(2015年10月7日、「21世紀ビジョンの会」における発題を整理してまとめた)

注)日本のジャーナリズムでは「過去史」の漢字を当てているが、韓国語の辞書等では普通「過去事」と表記している。

政策オピニオン
渡辺 利夫 拓殖大学学事顧問
著者プロフィール
1939年甲府市生まれ。慶応義塾大学卒。同大学院修了。経済学博士。筑波大学教授、東京工業大学教授などを経て、拓殖大学総長・学長に就任、2015年12月総長を退任し、現在は同学事顧問。その他、第17期学術会議議員、山梨総合研究所理事長も務める。専門は開発経済学、アジア経済。主な著書は『成長のアジア 停滞のアジア』(吉野作造賞)、『開発経済学』(大平正芳記念賞)、『西太平洋の時代』(アジア太平洋賞大賞)『神経症の時代』(開高健賞受賞)、『新脱亜論』『放哉と山頭火―死を生きる』他多数。JICA国際協力功労賞、外務大臣表彰、第27回正論大賞等を受賞。

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