1 自由で開かれたインド太平洋戦略の誕生とその後の経緯
セキュリティダイヤモンド構想
日本の歴代政権で、自らの外交政策の策定や遂行に当たって、明確なビジョンや戦略目標、特定の価値観などを高く掲げることは一般的ではなかった。それとは対照的に、「価値観」を重視した外交を打ち出すとともに、日本の国家戦略の指針となる構想を示したのが安倍晋三氏であった。病気のため2007年9月、第一次安倍内閣は退陣に追い込まれるが、その直前の07年8月、訪印した際にインド議会で安倍首相は「二つの海の交わり」と題する演説を行った。それは「海洋国家の連携」によるシーレーン防衛の重要性と南アジアの「大国インド」の存在とを戦略的見地から結び付けたもので、これが「自由で開かれたインド太平洋戦略」の基礎になった。
だが、アルジェリアで人質事件が発生したため安倍首相が急遽帰国を余儀なくされたため、この構想が実際に現地で語られることはなく「幻の演説」に終わった。そこで安倍首相は2016年8月27日、ケニアのナイロビで開催された第6 回アフリカ開発会議(TICAD VI)の基調演説で、自身の外交戦略構想を「自由で開かれたインド太平洋戦略」(Free and Open Indo-Pacific Strategy,FOIP)として発表した。これは、成長著しいアジアと潜在力の高いアフリカという「2つの大陸」と、太平洋とインド洋という「2つの大洋」の交わりによって生まれるダイナミズムを一体として捉え、法の支配に基づく自由で開かれた海洋秩序を維持・強化するとともに,自由貿易やインフラ投資を推進し、この地域全体の経済成長をめざす戦略と要約できる。
安倍首相のスピーチの中では“中国封じ込め”を意識させる表現は一切使われていない。政治的な配慮から中国牽制の狙いは慎重に伏せられていたのだ。アフリカでの講演よりも安倍構想の核心に触れていたものがある。第2次安倍内閣の発足にあたり、自身の外交戦略の指針として「セキュリティ・ダイヤモンド(Asia’s Democratic Security Diamond)構想」がそれだ。これは第2次安倍政権発足翌日の2012年12月27日,国際NPOであるProject Syndicateのホームページ上に安倍晋三個人名で掲載された英文のレポートである。その骨子は、東シナ海や南シナ海における中国の威圧的な海洋進出に対処するため、互いがダイヤモンドのように四辺形の頂点に位置する日米豪印4か国が海洋同盟として連携協力することによって、インド洋から西太平洋へと広がる海洋コモンズを防衛するというものである。
安倍氏はその中で、「東シナ海および南シナ海で継続中の紛争は,国家の戦略的地平 を拡大することを以て日本外交の戦略的優先課題としなければならな(ず)・・・私が描く戦略は,オーストラリア、インド,日本,米国ハワイによって、インド洋地域から西太平洋に広がる海洋権益を保護するダイヤモンドを形成すること」だと明言している。「セキュリティダイヤモンド構想」で述べられているこの主張こそが、第2次安倍政権の目指すグローバルストラテジー及び対中戦略の骨格をなすものであることは間違いない。
かって日本の安全保障政策を語る際、その範囲は「極東」であり、「アジア太平洋」に限られていた。安倍氏はその「アジア太平洋」と「インド洋」を初めて結び付けた。また「自由や民主主義」という価値観を日本外交に取り込んだ。いずれも画期的な試みであった。
そのうえで安倍氏はこの二つを併せ、「自由で開かれたインド太平洋戦略」(FOIP)の構想を打ち出したのである。日本の外交・国家戦略構築の形成におい、安倍氏の残した功績は大きいものがある。
日本の国家戦略から米国・自由世界の戦略へ
ダイヤモンド構想を実現するには、同盟国ないし準同盟国とも呼べる海洋諸国家間で認識の一致と共有、それに行動のシェアリングがなされねばならない。そのため安倍首相は早くも2015年4月、米議会上下院合同会議で行った「希望の同盟」と題する演説においてこの構想への理解と支持を訴えている。また豪州やインドにも熱心に働きかけた。その結果、「自由で開かれたインド太平洋戦略」は日本一国の戦略から、米豪と分かち合うグローバルな戦略へと発展していった。
2018年11月トランプ大統領が訪日し、日米首脳会談で両首脳は日米が共同で①法の支配、航行の自由、自由貿易等の基本的価値の普及・定着②経済的繁栄の追求③平和と安定の確保という3本柱からなる「自由で開かれたインド太平洋戦略」を推進することで一致した。これは、中国の一帯一路構想の進展や一方的な海洋進出を念頭に、安倍首相の唱える「自由で開かれたインド太平洋戦略」が米国の新たなアジア太平洋戦略ともなったことを意味している。トランプ政権はその後、相次いで発表した「国家安全保障戦略」や「国家防衛戦略」の中にも「自由で開かれたインド太平洋戦略」を盛り込んだ。ワシントンが世界戦略を決め,東京がそれをフォローし追随するという従来型の政策決定パターンが戦後初めて逆転し、東京がリードし、ワシントンがフォローするものであった。
QUADの実績
自由で開かれたインド太平洋実現に向け、日米豪印による協議の枠組み(QUAD:クアッド)が整えられていった。日米豪印の枠組みは2004年12月に発生したスマトラ沖大地震及びインド洋津波被害に際して、日米豪印の4か国でコア・グループを結成し、国際社会の支援を主導することが確認され、2007年5月には事務レベル会合を開催。2017年11月以降、局長級協議等を定期的に実施していた。
その後、FOIPの提言を踏まえQUADは日米豪印4か国による安全保障協力の枠組みと位置付けられ、FOIPの実現を支えるための具体的な協力体制として機能するようになる。2019年9月、国連総会の機会に、ニューヨークで初のQUAD外相会合を開催。2020年10月、東京で第2回外相会合を開催し、2021年2月には外相電話会談を実施。こうした積み重ねの上で、同年3月には初となる首脳テレビ会議を、9月にはワシントンDCにて初の対面での日米豪印首脳会合が開催された。2022年には、2月にキャンベラで外相会合、3月に首脳テレビ会議を実施し、5月には東京で首脳会合を開催。9月には国連総会の機会にニューヨークで外相会合を実施。さらに23年5月には広島でのG7会合の機会に首脳会合が開かれている。
2.自由世界防衛のためのさらなる寄与を目指して
順調な発展を見せてきたFOIP及びQUADだが、中国や北朝鮮の脅威は高まる一方である。またロシアのウクライナ侵略以後、中露イラン北朝鮮といった権威主義諸国の連携一体化が急速に進んでいる。そこで、ユーラシア大陸を東西に延びるこの“権威主義枢軸”に対抗するため、日本および日米豪印の連合が今後採るべき政策について幾つか触れておきたい。
①QUAD体制の強化:ミニラテラル同盟のコア機能を担え
トランプ政権からQUADの枠組みを引き継いだバイデン政権はその後、米英豪による軍事同盟の色彩が強いAUKUSを立ち上げた。さらにQUADの成功体験を基に日米韓、日米比といったミニラテラルな同盟関係を構築している。QUADはこれらミニラテラル同盟のコアとして機能するととも、同盟間の調整連携を図ることでミニラテラル同盟に結束と方向性を与え、相乗的な機能発揮に務める必要がある。ミニラテラルな同盟関係の連携調整役をQUADが担うためには、常設事務局の整備等体制の強化や各国が専門の大使級職員(QUAD担当大使)を配置する必要があろう。
②海上自衛隊の海外展開拠点の整備
海上自衛隊は「いずも」型護衛艦を長期間東南アジア・インド洋方面に派遣しており、さらに南太平洋にも派遣するようになった。この長期派遣活動は親善や平和構築支援が目的とされるが、実際には海軍艦艇による当該海域でのプレゼンス発揮の示威行動と大差ないものである。米軍の空母機動部隊の展開だけでは手一杯の現状から、その穴を海上自衛隊が埋めるものであり、西側同盟を担う一翼として海上防衛力を展開し、事実上中国海軍の行動を牽制する役割を果たしている。
海上自衛隊は米豪印海軍との共同訓練の充実強化に努めるとともに、今後さらに艦艇の海外派遣機会を拡大し、同盟国海軍との戦略的連携を深めていく必要がある。それに伴い、海賊対処行動のためにジプチに設けたような自衛隊の恒常的な海外拠点(定係港)をインド洋や米軍基地のあるグアム、さらに南太平洋地域にも立ち上げるべきだ。自衛艦の恒常的な海外展開は、プレゼンスやシップディの確保だけでなく、能力構築支援の強化、さらに各地域で起きる津波や地震など国際災害への迅速対処においても効果的である。
③日米豪印共同艦隊の創設
さらに、中国が露骨な膨張侵略を続ける南シナ海だけでなく、台湾周辺海域やさらに日本と中東アフリカを結ぶ重要なシーレーンでもあるインド洋での中国海軍の威嚇的行動に対処すべく、日米豪印による共同艦隊を編成し、現在米海軍が主に実施している「航海の自由作戦」を4か国が共同して行うようにすべきだ。米海軍だけでなく多国間作戦として自由諸国のシーレーン防衛のための「航海の自由作戦」を実施することは、日米豪印の決意の固さを示し、中国に対する強いメッセージとなるだけでなく、各国海軍の連携調整要領の慣熟にも大いに資するものである。
折から中東では、イエメンのフーシ派が紅海を航行する商船への攻撃を繰り返しており、これに対処するため、有志連合による多国間の連合艦隊が編成され、紅海の航行安全確保の任務に就いている。米インド太平洋軍はアフリカ西岸の紅海、アラビア海からインド洋、台湾海峡と広大な海域を守備範囲としている。しかし紛争が多発する中東周辺海域のシーレーン防衛や重要な海峡の安全を米海軍単独で守ることは難しいのが実情だ。そこで多国籍による連合海上部隊が編成されたのだ。インド太平洋方面でも、急速に高まる中国の脅威に対処するためには同様の施策が必要になっており、インド洋から南シナ海、台湾海峡・宮古海峡・東シナ海から日本海に至る海域で日米豪印の共同艦隊を立ち上げるべきだ。さらに近年中国の進出が顕著な南太平洋島嶼地域にも共同艦隊を展開させ、プレゼンスの発揮により中国を牽制する必要がある。その際、日米豪印共同艦隊編成の参考、手本となる中東での多国籍連合海上艦隊の概略を紹介しておく。
④海洋自由と法秩序維持に貢献する多国籍連合艦隊の創設
イスラエルによるガザ地区へのハマス攻撃に対する報復措置として、2023年11月からイエメンの反政府勢力フーシ派が紅海周辺を航行する商船やタンカーを弾道ミサイルや無人機で攻撃している。この脅威に対抗するため、オースティン米国防長官は12月18日、紅海周辺海域の船舶を守るための多国間安全保障構想「プロスペリティガーディアン作戦」(Operation Prosperity Guardian )の実施を発表した。
オースティン国防長官は、「プロスペリティガーディアン作戦は、英国、バーレーン、カナダ、フランス、イタリア、オランダ、ノルウェー、セーシェル、スペインなど複数の国を結集し、毎年約2万隻の商業船舶が紅海とアデン湾を通過している紅海南部とアデン湾における安全保障上の課題に共同で取り組むもので、全ての国の航行の自由を確保し、地域の安全と繁栄を強化することを目的としている」と説明した。「これは国際的な解決策を必要とする国際的な問題だ」と英国のシャップス国防大臣は述べ、イタリアのクロセット国防相も声明において「テロ行為が商品価格に与えるインフレの再燃を避けるためには、この地域でのプレゼンスを高める必要がある」とこの作戦の意義を強調している。
プロスペリティガーディアン作戦は、バーレーンに本部を置く「連合海上軍(Combined Maritime Forces:CMF)が統括している。2001年に11か国で設立された連合海上軍は現在39か国が加盟し、オマーン湾、インド洋、ペルシャ湾、紅海、アデン湾を守る様々な任務部隊から編成されている。連合海上軍司令官兼米海軍第五艦隊司令官のブラッド・クーパー中将は「中東地域はダイナミックで広大な海域だ。周辺海域を単独でパトロールできる海軍は一つもない」と述べ、この地域のシーレーンの安全を確保するには各国海軍の連携による多国籍艦隊が必要だと強調している。連合海上軍の任務部隊としては、紅海、バブ・エル・マンデブ海峡、アデン湾での海上警備と能力開発を行うための連合任務部隊CTF153やオマーン湾とインド洋の海上安全保障に重点を置くCTF150、地域の海賊対策を指揮するCTF151,アラビア湾の海上安全保障に特化したCTF152などがこれまで編成されている。
ところで、自由諸国海軍による海域の共同パトロールは、実は東シナ海や南シナ海でも既に一部実施されている。国連が課した制裁を破らないよう北朝鮮籍船に洋上で積み荷を積み替える違法な「瀬取り」の監視が、朝鮮国連軍を構成する米英豪仏韓カナダ、ニュージーランドと日本の8か国の艦船や航空機で行われているのだ。この枠組みは2018年1月、カナダでの北朝鮮関係外相会合で決まったもので、日米豪印のうちインド以外は既にこの監視活動に加わっている。監視の目的は北朝鮮の制裁破りの阻止にあるが、東シナ海や南シナ海への影響力を強める中国への牽制という隠れた目的もある。今後、インドもこの瀬取り監視に加わり、さらに日米豪印の共同艦隊は台湾海峡や南シナ海、東シナ海で「航海の自由作戦」を実施することで、インド太平洋の海洋自由の確保に取り組むことが肝要だ。一連の活動は尖閣諸島の防衛に資することにもなろう。
⑤インドを西側陣営に繋ぎ留める
FOIPやQUADの中で重要な位置を占めるのがインドである。インドは世界第一の人口と高い経済成長を背景に影響力を増しつつあり、また日本と中東・アフリカを結ぶシーレーンの中央に位置する戦略的要衝でもある。FOIP誕生以来の経緯からも窺えるように、日本は日印2国間に留まらず、日米豪印の連携と協力関係を発展させる大きな役割と責務を負っている。また今年は、インドと日本の外交関係が「特別戦略的グローバルパートナーシップ」に格上げされて10年の節目にあたる。強まる中国の覇権的行動を抑えるため、日本はインドとの戦略的連携をさらに推し進めていく必要がある。
もっとも、戦略的自律を掲げるインドはQUAD一員である一方、ロシアとも友好な関係を維持し、対露制裁に加わらず、ロシアから石油や武器を購入し続けている。またインドは昨年G20サミットの議長国を務め、グローバルサウスへの影響力拡大にも積極的だ。
こうした動きから、果たしてインドを西側同盟の一員と位置付けてよいのかとの疑問の声も聞く。だがインドが対露関係を重視するのは、中国の脅威に備える必要があるからだ。インドがロシアと距離を置くことで、中露の緊密化を加速させることを懸念しているのだ。そのようなインドの立場も斟酌し、日本は米国とも連携しつつ長期戦略的な視点から対印関係を強化し、またQUADの枠組みにインドをしっかりと繋ぎとめ、インドを権威主義勢力に取り込まれぬよう努める必要がある。
⑥インドとの防衛装備品共同開発の推進
今年8月、日本とインドの外務・防衛閣僚協議(2+2)が開かれ、宇宙・サイバー分野での連携や共同訓練の拡大など安全保障分野の関係を強化することを確認、また2008年に署名した「安全保障協力に関する共同宣言」を改定する方針で一致した。共同宣言は、外務・防衛当局の交流や海上輸送の安全確保など包括的な安保協力関係の構築を打ち出したものだが、海洋進出を強めるなどその後の中国の脅威の高まりに対処すべく、日本としては、宇宙・サイバーなど新領域での安保協力や「自由で開かれたインド太平洋」の推進などを宣言に盛り込みたい考えだ。
また今回の2+2会合では防衛装備品協力の促進でも一致し、艦艇搭載用の通信アンテナの日本からインドへの輸出について協議された。これはロシアに依存してきたインドの武器装備の体系を西側に転じさせることで、インドを西側に繋ぎ留めることに狙いがある。
日米豪印の間で武器装備体系の共有互換性(インターオペラビリティ)を確保することは、有事の際の戦闘力や抑止力の向上に寄与するなど同盟の結びつきを強固なものとする有力な手段である。一方のインドも、性能の低い露製武器への依存から抜け出し、日米の最新鋭技術にアクセス出来ることは自国防衛産業の育成に寄与するだけでなく、中国の軍事脅威に備えるうえでも大きなメリットがある。今後、日米は様々な防衛装備品の共同開発や技術協力を進め、インドを自由主義義陣営に繋ぎとめることが重要である。
(2024年8月29日、平和政策研究所上席研究員 西川佳秀)
〈参考文献〉
「公海航行の自由」Indo- Pacific Defense Forum,49巻2号,2024年
『朝日新聞』2019年9月22日