北朝鮮をどう認識すべきか —思想的考察からのアプローチ—

北朝鮮をどう認識すべきか —思想的考察からのアプローチ—

2022年1月26日
1.基本的な認識

(1)歴史的・構造的矛盾とどう向き合うか

 北朝鮮は、東北アジアの歴史的・構造的矛盾を一身に体現した国家である。
 この国家をどう認識し、理解するかということは、戦前から現在にいたる日本をどう認識し、理解するかということと緊密に関係している。ことは認識だけではない。実践において、日本は自らすべきことを放棄しつづけている。今こそわれわれは、この国をまともに認識し、この国とまともに関係を構築しようとすべきなのではないだろうか。
 本稿では、編集部からの依頼に則り、拙著『北朝鮮とは何か』(藤原書店、2015)で主張したことをかいつまんで述べることにする。原稿の性格上、上記の拙著と文章が重複することに関して、諒解を乞う次第である。
 拙著ではおおよそ以下のことを主張した。
 ①北朝鮮は、戦前の日本が東北アジアに遺した思想的風土を資源のひとつとして生まれた国家である。それが戦後の冷戦という構造のなかで強固に保全されることとなった。まずはこの認識、つまり北朝鮮という国家の本質と日本とは無関係ではない、どこかでつながっている、という認識を持つことが重要だ。
 ②東北アジアの歴史認識は、道徳と正統性という儒教的な性格を強く持つ。そして日本以外の国家はその起源において「抗日」という形で日本に強く依存している。したがって中国も韓国も北朝鮮も、「日本がもし歴史の清算を本当にしてしまったら、自分たちの存立の基盤が崩壊する」という恐怖心を抱いている。これもまた、日本に対する依存なのだ。この依存に対して、近年の日本の政権は「反・抗日」というリアクションの形で再依存してしまっていた。これは根本的な意味で、戦略の間違いである。中韓朝の日本への依存を解消するために、何らかの主体的アクションをすることができるのは、日本しかありえないのである。
 ③日本は北朝鮮と国交正常化の交渉を進めるべきである。韓国とは、これまで五十年以上にわたって和解と協力のプロセスを進めてきた。日韓関係は近年、悪化しているように見えるが、それは両国政府がこれまで五十数年間に自らがやってきた努力を過少評価してしまっているからだ。事実を直視すれば、この五十数年間の日韓和解プロセス(これを私は「日韓モデル」と呼んでいる)は世界に誇ってよいレベルのものである。しかし韓国がそれを誇れないのは、北朝鮮との正統性のたたかいにおいて、「日本との妥協」というマイナスのレッテルを貼られることを恐怖しているからである。戦後七十数年にわたって、植民地支配に関して朝鮮半島の北部とは平壌宣言(二〇〇二年)以外に一切和解のプロセスを進めていないという事実こそ、もっとも深刻な非対称性なのだ。これを解消することが、韓国にとってもよいことだということを韓国には理解してもらわないとならない。
 ④日本はこの五十数年間、韓国には幾度も謝罪し、サハリン残留韓国人や慰安婦など、具体的な問題に関してもかなり誠実に応答してきた。しかし、韓国はこのことを認めたがらなかった。もしこのまま韓国が日本の努力を認めないとすると、過去の清算に関する「日韓モデル」は失敗に帰するかもしれない。われわれは、この「日韓モデル」を真摯に反省しつつ、北朝鮮とは新たに「日朝モデル」を構築する必要があるのではないだろうか。

2.近代政治思想の実践主体たち

(1)日本とヨーロッパ

 戦後ずっと、北朝鮮とアメリカは真っ向から対立しているように見えるが、この対立の本質は、実は日本とヨーロッパの対立なのである。
 北朝鮮の国家体制を支える理念は、「チュチェ(主体)思想」と呼ばれる。二〇一二年以降に出現した別の言葉でいうなら、「金日成・金正日主義」である。この理念の原型はあきらかに戦前日本の国体論にある(ただしそれは原型であって、チュチェ思想と国体論は同じではない)。より正確にいうなら、一九三七年に日本の文部省が『國體の本義』で打ち出した国体論に近い。その根本は「忠孝一本」および「永生する非・肉体的生命」というふたつの柱である。後者の場合、日本の国体論では「歴史的生命」とか「国民としての真生命」などと呼ばれたが、北朝鮮では「社会政治的生命」と呼ばれる。呼称の違いはあるが、根本的に同質の概念である。モータルな「肉体的生命」よりも高次の「永遠に生きる生命」がある、それは全国民の親である天皇や首領によって与えられる、というパウロ的な世界観である。
 北朝鮮は、戦前の日本と同じく、自らの根本理念を根底から否定する西洋的な自由および個人という概念を徹底的に批判する。この批判の本質は、共同体の生命を否定し、生命は個人にのみ宿るとしたヨーロッパ近代の世界観(のひとつ)に対するものなのである。だがヨーロッパは二度の世界大戦を経て、「個人の自由」という世界観の伝道者たる立場を自ら放棄した。第二次世界大戦後にその使命を忠実に遂行しているのが、アメリカなのである。
 つまり、二十一世紀の東北アジアで繰り広げられている北朝鮮とアメリカの対立は、実は世界観史における最新のたたかいなのではない。むしろ日本と欧米が戦前に尖鋭化させた世界観の対立を、代理して継続しているのである。戦後、日本はいち早く欧米の側に自らを置くことによって、この世界観の対立から逃走した。隠遁したといってもよい。
 また老獪なヨーロッパはこのたたかいをアメリカに代理させることに成功した。若くて一本気なアメリカは、自分が考え出したわけでもない「個人の自由」という概念を、疲弊したヨーロッパに代わって世界に伝導する役割に邁進した。その結果、戦前に日本が次のようにいって欧米に挑んだ決死の対決を、いま、北朝鮮が日本に代わってアメリカに挑んでいるのである。「抑〻人間は現実的の存在であると共に永遠なるものに連なる歴史的存在である。又、我であると同時に同胞たる存在である。即ち国民精神により歴史に基づいてその存在が規定せられる。これが人間存在の根本性格である。この具体的な国民としての存在を失はず、そのまゝ個人として存在するところに深い意義が見出される。然るに、個人主義的な人間解釈は、個人たる一面のみを抽象して、その国民性と歴史性とを無視する。従つて全体性・具体性を失ひ、人間存立の真実を逸脱し、その理論は現実より遊離して、種々の誤つた傾向に趨る。こゝに個人主義・自由主義乃至その発展たる種々の思想の根本的なる過誤がある」(『國體の本義』、文部省、一九三七、一四五〜一四六ページ)。

(2)ヨーロッパとヨーロッパ

 しかしながら、視野をもう少し広くしてみると、別の風景も見えてくる。
 このような北朝鮮とアメリカの対決は、日本とヨーロッパの対決であるだけでなく、ヨーロッパ対ヨーロッパの対決ですらある。というのは、北朝鮮のチュチェ思想も、日本の国体論も、その原型はヨーロッパの有機体国家論およびコーポラティズム国家論にあるからである。国家をひとつの身体ないし有機体とみなして、その構成員である国民の個別の生・自由・個性を副次的なものとみなす世界観は、日本や東北アジアの独創ではなく、ヨーロッパの特殊な国家観と儒教的な国家観の融合であったといえる。
 とすると、国家がひとつの強固な生命体であるとする北朝鮮の考えと、すべてを個人に還元するアメリカの考えとの対立は、そもそもヨーロッパに内在したふたつの世界観の代理対決であるということができる。ここでも、年老いた狡猾なヨーロッパは、自らが生んだふたつの世界観の対決を、若くて元気な別の国家が代理してくれる様子を、遠くの高みから見物するだけに徹しようとしているのだ。

(3)アメリカとアメリカ

 さらに、ほかの視点から考えることもできる。
 現在の北朝鮮とアメリカの対決は、ある意味でいえばアメリカとアメリカの対決なのである。このことは、北朝鮮の正式名称が朝鮮民主主義人民共和国であって、あくまでも民主主義を標榜していることから考えなくてはならない。
 北朝鮮を民主主義国と認めたくない人びとは、民主主義のあり方にあらかじめ特定のバイアスをかけすぎている。藤原書店の『環』第五十号(特集「アメリカとは何か」)で私はこのことに関連して短く論じたことがある。それはアメリカの歴史学者チャールズ・ビーアドのルーズベルト批判をめぐる論考であった。
 ビーアドは、ルーズベルト政権が日本との戦争を遂行するために、そしてその条件として日本にアメリカを先制攻撃させるために、アメリカ国民を欺いたと批判した。具体的には、日本の卑劣さをアメリカ国民に印象づけようと、ルーズベルト政権は情報を隠蔽し、また操作したと主張する。私の解釈では、ビーアドは「民主主義が大義を掲げると必ず腐敗する」という批判を展開したのである。なぜなら、大義の遂行のためには国民を動員せねばならないが、国民は自分や自分の子どもたちが国家の大義に動員されることを、ほぼつねに嫌悪するからである。したがって、戦争遂行国家は、自分たちの敵がいかに邪悪であるか、この邪悪な敵を打倒しなければ自国および世界がいかに悲惨な暗黒状態に陥るかを、自国民に説得しなければならない。そしてその説得のためには、ほぼ必然的に、情報の隠蔽や操作、場合によっては捏造が伴うのである。こうして、大義を標榜する民主主義は腐敗する。
 このように考えると、北朝鮮とアメリカの対決は、反民主主義と民主主義の対決という側面だけでなく、大義化した民主主義どうしの対決である、という解釈も成り立つであろう。大義化したアメリカが邪悪な国家としての北朝鮮と対決するとき、北朝鮮もまた自国の大義化を最高度に実現している。北朝鮮にとって北朝鮮は民主主義国であるから、これは極度に大義化した民主主義国どうしの対決となる。アメリカは邪悪な反民主主義国と対決しているのではなく、鏡に映った自分の似姿と対決しているという側面を持っている。

(4)アメリカと北朝鮮が代行する政治思想

 このように考えてみると、北朝鮮という国家は、欧米や日本が忘却しようとしたり、またとっくの昔に捨て去ってしまったものを、純粋培養させながら保守しているのだということがわかる(ただもちろんそれだけではない。北朝鮮のチュチェ思想は、第三世界におけるその独創的な意味も持つ)。
 これは倫理的かつ論理的な姿勢であるともいえるのではないか。なぜなら、日本やヨーロッパが自らの失敗や挫折によって途中で放棄してしまった世界観を、北朝鮮は妥協せずに一貫して実践してきたからである。日本やヨーロッパは、かつては自らが全面的に追求した有機体国家論や国体論や大義的民主主義などという世界観を、その論理的な清算という作業を経ずに中途半端に放棄してしまった。そしてその世界観の実践を、より若くて一途な北朝鮮とアメリカに代行させている。
 このような観点から考えれば、北朝鮮が倫理的かつ論理的であるという意味において、アメリカもまた倫理的かつ論理的なのだといえる。逆に日本およびヨーロッパこそ、最も非倫理的かつ非論理的な存在であるといえよう。日欧は何のためにそうなったのか。戦争から逃避するためであり、国民の個人としての生命を保全するためである。

3.依存と恐怖の東北アジア

(1)東北アジア三国の「恐怖」

 さて次に、日本と北朝鮮の関係について考えてみよう。
 戦後の東北アジアにおいては、「恐怖」という感情が、強固に支配している。
 それは、日本が過去を清算してしまうことに対する恐怖である。
 この背景には、中国および北朝鮮は建国の理念自体が打倒日本帝国主義であったという点、および韓国もまた北朝鮮に正統性の点で負けることはできないので、打倒日本帝国主義が建国時の国家の根幹であったと認識されているという事実がある。東北アジア三国はいずれも、建国という起点が抗日・反日であるという点で、日本に全面的に依存しているという事情を十分に理解しなくてはならない。つまり国家の根幹が日本なしには成立しえないのである。
 解放・建国後の長いあいだ、東北アジア三国は「日本=大日本帝国+日本国」への依存をつづけた。日本が完全に新しい国家となって、歴史を断絶させてしまうと、自分たちの国家の存立基盤が崩壊してしまうのである。したがって新生日本国に対しても「日本帝国」とか「日帝」などという呼称を使うことによって連続性を強調しつづけた。さらにまた、戦後の日本国が、一九四五年以前の中国への侵略戦争および朝鮮への植民地統治に関してその清算をしてこなかったという不作為が、東北アジア三国による「日本国=日帝」という表象の力を強化しつづけ、正当性を与えつづけた。
 つまり中国、韓国、北朝鮮のナショナリズムは抗日ないし反日がその土台となっており、その意味で日本依存型であって、日本が過去を清算してしまうことにより自己の存在基盤が消滅してしまうという恐怖が伴う感情なのである。このことは、日本がこの三国の中で韓国に対してもっとも熱心に過去の清算を試み、歴代の首相が植民地支配に対して何度も謝罪しているが、韓国は決して日本のその態度を評価しないことに、十分に表れている。韓国はまた、日本との過去を清算することに恐怖しているだけではない。中国や北朝鮮との関係においても恐怖している。なぜなら北朝鮮との国家の正統性の競争において、韓国がいち早く日本をしてしまうことのリスクは巨大であり(このことは後述する)、また中国との関係においては、かつて一九三〇年代から一九四五年まで併合植民地の朝鮮人が中国国民政府を徹底的に否定し蔑視した事実を暴かれることを恐怖しているのである。

(2)恐怖と正統性

 このような「恐怖」の存立に関しては、次のような矛盾がある。
 まず、現在の東北アジア三国は、大日本帝国の消滅後に、大日本帝国の打倒を国是として建設された国家である。したがって、その国是がもし正当なものであるなら、すでに自国によって大日本帝国は打倒されたのだから(打倒されていないのであれば当該国家の正当性は崩壊する)、東北アジアの太平洋上に浮かぶ列島は大日本帝国=日帝ではありえないはずだ。自分たちの打倒運動(抗日革命・抗日運動)によって大日本帝国が消滅したのでなくては、論理的な整合性が破綻する。
 だが他方で、大日本帝国が消滅してしまったなら、自分たちの国家の運動性はその使命を終えたことになってしまい、国家の正当性がここでも破綻してしまう。このことはひとえに、先述したように、東北アジア三国が一九四七年五月三日(日本国憲法施行)以降に建国されたという歴史的事実にまつわる困難さから来ている。つまりこれら三国は、抗日運動に勝利したから建国したのか(その際は打倒すべき対象としての日本帝国主義はすでに消滅していなくてはならない)、それとも抗日運動の過程で建国したのか(その際は日本国憲法の成立および内容を無視ないし否定しなくてはならず、また日本国憲法を成立させた国際的条件であるサンフランシスコ講和条約をも無視ないし否定しなくてはならない)、どちらであるのかが曖昧なのであり、またどちらにしても東北アジア三国は論理的に窮地に陥るのである。
 この曖昧さを解消するために、「一九四七年五月以降の日本国にも、大日本帝国の残滓が濃厚に存在している」という認識が重要になってくる。このことをもって東北アジア三国は、「大日本帝国は打倒されたが、打倒日本帝国主義の運動は終わっていない」と規定することができるからである。
 しかし現実には、大日本帝国と日本国とのあいだには(連続性があるので完全にではないが)断絶がある。このことを認めることは自国の運動を終止ないし弱体化させることにつながるので、この一九四七年における日本の断絶を自国において国民に積極的には知らせられない。たとえば日本国憲法には前文、第一条、第九条、第二十条などという、重要な断絶の根拠があることを、東北アジア三国では自国民にほとんど知らせていない。さすがに最近では憲法九条の存在は知られるようになったが、私の知るかぎり、一九九〇年代までの韓国では憲法九条は見えず、聞こえぬ存在であった。できるだけそれに触れぬようにしていたのである。なぜなら自国の存立にかかわる恐怖の淵源であったからだ。

(3)恐怖と痛みのあいだの矛盾

 以上のように整理してみると、東北アジアにおける歴史認識問題がいかに複雑な矛盾を抱えているかがよくわかる。
 東北アジア三国にとっては、まずは自国の建国の理念からして、日本国が大日本帝国との連続性を持っていなくてはならない。これは中国と台湾、北朝鮮と韓国が体制間の競争をする際にも絶対に譲歩できない条件である。体制間の競争があるかぎり、つまり中国および朝鮮半島が完全に統一されるまでは、国家存続の条件として必要なのである。日本が大日本帝国の残滓を完全に払拭してしまったら、体制間の競争の大きな部分に意味がなくなり、国家の存立自体が危うくなる。
 またもうひとつは、東北アジア三国が持っている儒教的な世界観によって、その普遍主義を時間的に拡張する際に、歴史の痛みを克服して過去を清算することが必ず求められるという事情がある。そのようにしてこそはじめて未来の共有ができるのであるという点では東北アジア三国は一致している。
 ここに矛盾が生じることが、東北アジアの最大の問題なのである。
 つまり、もういちど整理していうと、東北アジア三国は一方で、自らの存立基盤の根幹として、日本が邪悪な帝国主義でありつづけているという事態を求める。そして日本が帝国主義を清算してしまうことを恐怖する。
 だが東北アジア三国は他方で、儒教的な善の世界を希求するから、「邪悪な日本」に対しては性善説的な干渉をして歴史を反省させ、普遍的な善に向かわせようとする。
 このふたつのヴェクトルがまったく逆方向に向かっていることが、東北アジアにおける歴史認識問題の解決を難しくしているのである。
 その背景にはもちろん、日本がこの問題に決然たる態度で取り組んでこなかったこと、外交舞台での十分に有効な発信力が欠如していることによって日本の「過去の未払拭イメージ」が世界中で増幅されてしまっていること、そしてそのことが東北アジア三国の著しい経済的・外交的利益と連結していることなどがある。
 そして、もし過去の清算がなされてしまったら、その後の未来への時間的拡張主義は、一体どのような方向に向くのかという問題が増大化する。過去の清算がなされていないからこそ、東北アジア三国および台湾は共存できているのだが、日本が過去の清算をしてしまうと、中国と台湾、北朝鮮と韓国は未来の共有に向かって不可逆的に動き出さねばならない。このことへのリスクと恐怖をどう管理するかという課題に対しては、いまだに生産的な解は出ていないのである。

(4)体制の競争

 このような矛盾は東北アジア三国が共有しているものだが、特に朝鮮半島においては、「体制の競争」という事態がその矛盾を増幅させている。
 韓国は北朝鮮に対して、正統性という観点から著しい恐怖心を抱いている。それは、①併合植民地支配された時期に金日成一派が満州だけでなく朝鮮においても抗日闘争を行ったのに対し、後に大韓民国政府をつくった勢力は併合植民地時代に朝鮮内で直接的な抗日闘争ができなかったこと、②建国の前後に北朝鮮は親日派を粛清したのに対し、韓国は国家建設のために親日派を粛清できなかったこと、③政治・経済・防衛において自主的・自立的な立場を貫いている北朝鮮に対し、韓国はそのすべてを米国に依存していること、の三点がもっとも重大な論点である。この三点のみを取り上げれば、国家の正統性という意味で大韓民国は朝鮮民主主義人民共和国に敗北してしまう可能性があるのである(ただし親日派の粛清に関しては、最近、北朝鮮におけるそれが組織的でも体系的でもなく、恣意的なものであったという韓国の歴史家からの批判がある)。
 これら三点は大韓民国の弱点とされている。しかし韓国側はこれに対し、①北朝鮮は一九五〇年六月二十五日に突然南侵し朝鮮戦争を始めたこと、②北朝鮮は国民を飢餓から脱出させえず、経済的な問題を解決できていないこと、③北朝鮮は民主化できておらず、独裁体制を続けていること、という三点をもって論駁する。③の論点は特に重要である。韓国は自力で民主化を達成し、世界に冠たる民主主義国家になったという自負と誇りが、その背景にはある。民主化の達成をもって、韓国は北朝鮮との体制の競争に勝利した、というわけである。
 だが正統性という意味でもっとも重要な国家の起源の部分(抗日闘争、親日派の粛清)において、大韓民国が朝鮮民主主義人民共和国に対して強い劣等感を抱いていることはたしかである。
 このことが歴史認識問題にも大きな影を落としている。
 すなわち、慰安婦問題や徴用工問題などに関して、北朝鮮が日本との和解を進めないうちは、韓国は決して先走って日本との和解はできないのである。日本が植民地支配に関して過去に韓国に対して何回も謝罪しているにもかかわらず、韓国側はつねにそれを忘れたかのように振る舞う一因も、そこにある。慰安婦や徴用工など未解決の問題があるにもかかわらず、日本が韓国にのみ勝手に謝罪してしまうのは、韓国にとって迷惑なことなのである。それらの問題を解決しようとしない不道徳な日本がその不道徳性を糊塗するために口だけで謝罪してもらっても信用できない、という理由のほかに、韓国だけが日本を赦してしまったら、北朝鮮との道徳的正統性競争において圧倒的に不利になる、という側面があるわけだ。
 日本はこれらのことを十分に理解しなくてはならない。すなわち、もし植民地支配に対して謝罪する気があるのなら(実際、日本は謝罪を繰り返してきたが)、韓国だけではなく北朝鮮に対してもしなくてはならないのである。そしてそのことをもっとも明確に述べることができる場は、日朝国交正常化の瞬間以外ではないだろう。日本と北朝鮮との間で過去の清算が進展し、歴史問題の解決が進行すれば、韓国側としても恐怖から脱してもっと堂々と日本との歴史和解ができるはずなのである。
 いずれにせよ、イニシアティブは日本側にあるのである。

(2022年8月4日)

政策オピニオン
小倉 紀蔵 京都大学大学院教授
著者プロフィール
東京生まれ。東京大学文学部ドイツ文学科卒,電通勤務を経て,韓国ソウル大学校大学院東洋哲学専攻博士課程単位取得退学。現在,京都大学大学院人間・環境学研究科教授。専門は東アジア哲学。主な著書に『韓国の行動原理』『群島の文明と大陸の文明』『入門 朱子学と陽明学』『新しい論語』『朝鮮思想全史』『朱子学化する日本近代』『創造する東アジア』『<いのち>は死なない』『韓国は一個の哲学である』他多数。
北朝鮮をどう認識し、理解するかということは、日本認識と密接に関連しているのに、その実践において日本は自らのすべきことを放棄し続けてきた。いまこそこの国をまともに認識し、まともに関係を構築するべきではないだろうか。

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