日本の海洋政策はどうあるべきか ―海洋文化資源の視点から―

日本の海洋政策はどうあるべきか ―海洋文化資源の視点から―

2016年12月16日

三種類の海洋資源

 グローバルな視点から海洋資源(Marine Resource)を考えるとき、①水産資源(Fishery Resource)、②海底鉱物資源(Deep Sea Mineral Resource)、③海洋文化資源(Maritime Cultural Resource)の三種類がその柱であるとされている。欧米各国や中国では、この考え方がグローバル・スタンダードとなっている。
 日本では伝統的に、海の資源と言えば水産資源の研究が中心であった。したがって、大学を始めとする高等教育機関における海の研究は水産資源の研究に集中していた。しかしながら、その研究内容を見ると、効率的に多数の漁獲を得るための技術や市場流通、養殖などのための魚類の生物学上の分析が行われる一方、漁業それ自体の文化研究や社会科学研究は低調であったと言わざるを得ない。すなわち、水産資源の研究においても、海洋文化資源の視点が欠如していたという事実は否定できない。
 一例を挙げれば、国際捕鯨委員会の会議が開かれるとマスコミが捕鯨について報道する。しかし、それ以外に捕鯨が話題となる機会は非常に少ない。また、こうした場では、日本人がクジラを食するのは「文化」の問題であるとよく言われるが、実際に国際捕鯨委員会で日本を代表しているのは鯨類の生物学者や水産庁の官僚が中心であり、体制として文化的側面を担当するスタッフが不足しているのが現状である。クジラ文化や歴史の研究をおろそかにして、日本の捕鯨が反捕鯨国に認知される可能性は低い。もちろん水産としての捕鯨研究も大切であるが、車の両輪として文化・歴史に根差した捕鯨という視点から国際的な議論に臨まなければ、各国の理解を得るのは困難である。
 次に、海底鉱物資源については、日本は現在、国を挙げて海底ガス田やレア・メタルなどの鉱物資源の探査開発を推進している。しかし、海洋文化資源の問題により、その開発自体が頓挫する可能性がある。こうした危険性については、専門家の間では国際的に認識が広がっているが、わが国の政府内では積極的に議論されていないようである。

海底鉱物資源開発におけるリスク

 それでは、なぜ海底鉱物資源の探査開発が海洋文化資源の問題によって頓挫するのか。これはガス田開発や港湾整備の現場で水中文化遺産が発見された場合、すでに国際法として発効しているユネスコの「水中文化遺産保護条約」により、水中文化遺産の調査や保全が優先されるためである。これは陸上も同様で、例えば、日本でも高度経済成長期に都市部の宅地開発や土地開発が進められたが、その過程において建設現場などで遺跡が発見された場合、「文化財保護法」によって遺跡の発掘調査が最優先された。そして発掘調査が完了したのちに、あらためて土地開発や建物の建設が許可されたのである。
 海についても、21世紀に入ってからこのような状況が国際的に進んでいる。海は広大であるため、ガス田開発や港湾整備をしたときに文化財が発見されるケースは非常に稀ではないかと思われがちである。しかし、実は世界ではこうした事例が頻発している。世界の石油メジャーはすでに石油開発を海底にシフトしてきているが、大西洋やカリブ海でも海底油田を開発している際に水中文化遺産が発見されるケースが少なくない。これらの石油メジャーは、資源開発の費用のうち数パーセントを事前に水中文化遺産の調査・探査のために確保する措置をとり始めている。実際にカリブ海では、16~17世紀のスペイン船が石油メジャーの調査費によって発見されている。
 陸上での調査は比較的容易で、半年から1年後には土地開発を再開できる場合が多いのに対し、海での調査は非常に時間がかかり、仮に日本の周辺でこのようなことが起これば油田やレア・メタルの開発などが数十年間ストップする可能性すらある。ユネスコが「水中文化遺産保護条約」の採択を急いだ背景には、こうした事情もあった。

水中文化遺産保護条約

 「水中文化遺産保護条約」の正式名称は、The Convention on the Protection of the Underwater Cultural Heritageである。ユネスコにおいて2001年に採択され、20カ国以上の批准により2009年に発効した。21世紀に入ってからの新たな海洋秩序を構築する取組みである。
 同条約が採択・発効した背景として、欧州における冷戦の終結も大きな意味を持つ。例えば、冷戦の最中にバルト海はNATOおよびソ連海軍の最前線であり、そのような場所で水中文化遺産の調査・研究を行うことは不可能であった。冷戦終結が、新たな海洋秩序の構築を可能とした大きな理由の一つである。
 「水中文化遺産保護条約」の現在の批准国は50カ国以上に及ぶ。主な批准国は、国連安保理常任理事国としてはフランスだけであるが、欧州の大国であるイタリアやスペイン、ポルトガル、中米ではメキシコ、アフリカでは南アフリカなどが批准している。オランダも現在、国内で手続きを進めており、来年にも批准するとみられる。東アジア、東南アジアからは、カンボジアのみが批准している。世界的に見ると、東アジア地域の批准国がもっとも少ない。別の言い方をすれば、「水中文化遺産保護条約」の締約国会議で発言権があるアジアの国家は、カンボジア一国だけという状況である。
 米英日中韓露などは未批准のままであるが、すでに2009年の発効から5年以上が経過しており、同条約の理念や精神は無視できない国際情勢になりつつある。先日、ある研究会で水中文化遺産保護条約が話題になったが、ある国際法学者は、条約がすでに「慣習法化」していると表現していた。

水中文化遺産とは何か

 では、「水中文化遺産保護条約」が規定する「水中文化遺産」(Underwater Cultural Heritage; UCH)とは何か。第1条第1項aは、「文化的、歴史的、または考古学的な性質を有する人類の存在のすべての痕跡であり、その一部あるいは全部が定期的あるいは恒常的に、すくなくとも100年間水中にあったもの」と定義している。この中の「一部」および「定期的」という考え方が、20世紀までとは異なる概念である。つまり、満潮時は水没していて、干潮時に水面上に出てくるものも水中文化遺産に含まれる。この点は非常に大きな違いである。日本の文化庁は「水中文化遺産」ではなく、「水中遺跡」という言葉を使っている。「水中遺跡」はそのすべてが恒常的に水中にあるものを指す。したがって、「水中文化遺産」と「水中遺跡」は重なる部分もあるが、異なる概念である。
 また、「100年間」という文言も重要である。100年以上前に日本海海戦で沈んだバルチック艦隊の遺構はすでに水中文化遺産であるが、太平洋戦争中に沈んだ艦船は2045年になるまで同遺産ではないということになる。これは非常に重要な点である。
 水中文化遺産は、各国が対象を選択して指定するものではない。同条約第1条第1項aの定義に該当するものはすべて自動的に水中文化遺産となる。したがって、2045年以降は太平洋に沈む旧日本軍の艦船は100%水中文化遺産となる。

【図1 沈没船遺構(熱海市初島沖に沈む17世紀の江戸期の廻船遺構)】

 いくつか具体的な例を紹介する。水中文化遺産の中でもっとも代表的なものは、沈没船の遺構である。ユネスコの試算では、世界に300万隻ほどあると言われている。しかし実際には、この数字は氷山の一角であろう。図1は、熱海市初島沖に沈む17世紀の江戸期の廻船遺構である。江戸城修復用に関西で焼かれた瓦を運んでいた船が、何らかの理由で江戸湾に来る途中で沈んだと思われる。この遺構については、東京海洋大学が中心となって調査を続けている。

【図2 潮間帯の水中文化遺産(鞆の浦西部にある江戸期の港湾遺構(大潮干潮時))】

 図2は、潮間帯の水中文化遺産の例で、大潮干潮時に撮影した鞆の浦西部にある江戸期の港湾遺構である。通常、小潮干潮時あるいは満潮時は水没しているため、陸上の研究者の目に留まることはほとんどない。100年以上経過しているため、ユネスコの定義によればこれも水中文化遺産である。

【図3 漁業関係の水中文化遺産(石干見)】

 図3は、漁業関係の水中文化遺産である。長崎県島原半島の「石干見」(いしひび)と言われるもので、江戸時代に作られた。半円形に積まれている石は、干満の差を利用して魚を獲るための罠である。満潮時には水没しているが、干潮になると石が海面上に現れ、魚が逃げられなくなる。そこに人が入って魚を拾うという非常に単純な漁具である。研究者にも余り注目されないが、ユネスコの定義に適合する水中文化遺産である。
 ちなみに、同じような石積み式の漁具は、韓国南部、台湾、中国にも分布しており、東シナ海周辺の重要な文化的資源といえる。しかし日本では、文部科学省はあまり関心を持っておらず、漁具の一種であるため農林水産省が『未来に残したい我が国の農山漁村の風景』という冊子で取り上げているのみである。当然、「文化財保護法」によって埋蔵文化財包蔵地あるいは国の史跡に指定されているわけではない。

【図4 海底都市(イタリア・ナポリ市近郊バイア海底遺跡):D.Petrella提供】


 このほか、海底都市といわれる水中文化遺産がある。図4のイタリア・ナポリ市近郊のバイア海底遺跡などが有名である。海底遺跡は地震や地殻変動により海底や湖底に陸上建造物が沈降したものである。地震国である日本に例が少ないのは、もともと木造家屋が中心であったため、海底に沈降したものが現在まで残らなかったという事情もある。ちなみに、与那国島沖にあるものは自然岩石群であり、水中文化遺産ではない。強いて言うなら水中自然遺産である。

日本国政府の「水中文化遺産保護条約」への対応

 現在、日本国政府は「水中文化遺産保護条約」の批准に向けた動きをしていない。大きな理由の一つは、関係省庁が多岐にわたっていることである。当然ながら、国際条約は外務省の国際法局が対応する。国土交通省は海洋、沈没船、港湾などを管轄している。農林水産省は海面に漁業権を設定している各地漁業のとりまとめをしているほか、潮間帯の漁具、漁港、水産景観などの所轄をしている。厚生労働省は海没遺骨の問題を扱っているが、これについては後述する。海底鉱物資源の研究において中心的役割を果たしている経済産業省は、海洋文化資源には関わっていない。東京海洋大学も含め、海洋研究を行う国立大学法人や海洋研究開発機構(JAMSTEC)などの研究機関は、文部科学省の所管である。
 日本で文化財を扱うのは文部科学省の外局の文化庁である。文化庁は、日本全国で数カ所の海中もしくは潮間帯にある例外的な史跡と埋蔵文化財包蔵地を「管轄」しているが、実は海洋文化資源について議論する際、ここに課題がある。文化庁は、「文化財保護法」によって動いている官庁であるが、同法の条文に「海」の文言はない。もちろん、「文化財保護法」が制定される過程において、海中に文化財があることをほとんど想定していなかったという事情もある。
 また、研究者のあいだでは日本領海内に沈没船遺構が300隻以上あると考えられているが、その沈没船遺構には「文化財保護法」ではなく、「水難救護法」が適用されることになっている。「水難救護法」は国土交通省の案件である。1890年に串本沖で沈没したトルコのエルトゥールル号の話は有名であるが、その遺構調査が数年前から米テキサスA&M大学海洋考古学研究所などにより実施されている。これは「水難救護法」による調査であり、文化庁や地元の教育委員会はまったく関与していない。
 1890年の沈没船であれば、「水中文化遺産保護条約」の規定ですでに100年以上が経過した水中文化遺産であるが、その遺構調査に文化庁が関与していないのである。さらに言えば、日本の領海内における沈没船遺構の調査に日本の研究者が関与できず、外国の研究員によって行われているという状況も大問題である。トルコ、アメリカの研究者と日本の研究者が共同で研究を行う体制もとられていない。日本の研究者は「蚊帳の外」である。
 一方、「文化財保護法」による水中遺跡の調査としては、鷹島沖元寇遺跡、江差港開陽丸など、特に重要だと認められた数カ所の沈没船遺構に、例外的に同法が適用されているのみである。それ以外は、「水難救助法」による調査である。
 では、日本においてユネスコが定める水中文化遺産はどこが取り扱うべきか。日本は「水中文化遺産保護条約」は批准していないが、1996年に「国連海洋法条約」を批准している。「国連海洋法条約」には水中文化遺産に関する条項が含まれており、少なくとも日本はその条項に沿って対応をしなければならない。「国連海洋法条約」の批准を受け、2007年には国内で「海洋基本法」が施行され、内閣府に海の問題を総合的に取り扱う総合海洋政策本部が作られた。したがって、本来であれば総合海洋政策本部を中心として水中文化遺産の問題も取り扱うべきであろう。「水中文化遺産保護条約」を含めた海の文化資源の問題についての有識者会議などを、同本部内に早急に立ち上げる必要がある。そもそも、接続水域や公海下にある水中文化遺産についての規定もある「水中文化遺産保護条約」を、文化庁だけで取り扱うことはできないのである。

各国で進む海洋文化資源の研究拠点整備

 「水中文化遺産保護条約」第22条には、同条約の監督官庁の設立もしくは強化が謳われている。すなわち、水中文化遺産に関する国の取組みを担える関係省庁、研究を中心的に行う海の文化遺産の博物館や研究所を設立、強化することが推奨されているのである。欧米においてはそもそも各地の大都市に国立海事博物館があり、中には数百年の歴史を持つものもある。博物館は資料の展示施設というより、その分野の研究機関として機能しており、海事博物館は海洋文化資源の研究拠点となっている。英国・グリニッジやオランダ・アムステルダムには、世界有数の国立海事博物館がある。
 「水中文化遺産保護条約」の批准を契機に、各国では新しい水中考古学博物館の整備も急速に進んでいる。スペインは同条約をいち早く批准したが、カルタヘナ市に新たな水中考古学博物館を設立し、同国の海の歴史や海洋文化資源に関する研究を集約し、国としてこの問題に取り組む姿勢を明確に打ち出している。

【図5 韓国・国立海洋文化財研究所(木浦市):同研究所HPより】

 前述のように、アジアで「水中文化遺産保護条約」を批准しているのはカンボジアだけであるが、すでに未批准国各国でも同条約の批准を見越した対応が始まっている。韓国は木浦市にアジア最大の「国立海洋文化財研究所」を整備し、そこを中心としてアジアにおける水中文化遺産研究の主導権を握る勢いである(図5)。水中文化遺産の問題を離れて見ても、現在、アジアにおいて海洋問題は将来の各国の命運を決する問題として認識され始めており、海洋国家としてのアイデンティティー確立を国家政策の中心に据えている国も多い。海洋国家を自任するインドネシアも、ビリトン島に東南アジア最大の国立海事博物館を建設中である。同国はこのプロジェクトによって東南アジアの海の歴史研究の中心地となることを目指している。

中国の海洋戦略

 中国は、水中文化遺産の研究所である「海のシルクロード博物館(Maritime Silk Road Museum)」をすでに広東省陽江に整備している。そのために多数の水中文化遺産の専門家を養成しており、一部は欧米の海洋研究機関に国費留学させるなど、韓国に負けないアジア最大級の研究所に育てようとしている。
 さらに中国は、天津市にもアジア最大の国家海洋博物館を建設中である。そこでは周辺諸国と係争中の南シナ海や尖閣諸島、南西諸島などの展示室も予定されている。展示を通じ、国内外の見学者に当該地域と中国との歴史的文化的関係の正当性を宣伝しようとしているのである。
 「海のシルクロード博物館」の背景には、中国が「一帯一路(One Belt, One Road)」構想のもと、国として推し進めている海洋政策がある。ハーグの仲裁裁判所で今年7月に出された南シナ海をめぐる仲裁裁判判決もすでに織り込み済みである。今後はフィリピンとも協力して南シナ海における水中考古学調査を推進し、当該地域が数千年にわたって中国の影響下にあったことを国際的にも証明しようとしている。
 実際、南シナ海で発見されているほとんどすべての沈没船が中国船であり、歴史的・文化的関係は否定できない。「水中文化遺産保護条約」では、水中文化遺産に歴史的・文化的・考古学的な関係を持つ国(起源国)の権利が認められている。南シナ海では、700年~1300年前の中国船の遺構が発見されており、今後はその遺物が陽江や天津の博物館で展示されることになるだろう。
 水中考古学調査だけではなく、中国政府は東南アジアの大学に莫大な奨学金を支給、東南アジアにおける中国の歴史研究も推進している。今年オーストラリアで開かれたある国際会議でのことであるが、東南アジアの中国系の研究者の一人が、秦の始皇帝の時代に不老不死の薬を求めて日本にやってきたとされる伝説の人物、徐福について発表していた。伝説と歴史を混在させながら、当時から日本列島も中国の歴史的影響を受けていたという論を紹介していた。東アジアの歴史について知識のない研究者が聞けば、事実と受け止めるかもしれない。
 中国の研究者や中国政府の支援を受けた研究者の国際会議への派遣は、海の歴史や文化に関する学会において非常に顕著になってきている。数年前に出席した海の文化に関する学会には、中国政府による大派遣団が参加していた。学会の会場入り口では、中国の海洋進出の正当性を主張する文書を欧米の研究者に配布していた。それに対し、日本人の研究者は、少人数が自費で参加したのみであった。

日本に「国立海事博物館」の設置を

 今は、アジア諸国が海洋国の命運をかけて海洋文化資源の海洋博物館・研究所を整備する時代である。各国は、海の歴史・文化が自国の海洋政策の基礎的な論拠になると捉え、取組みを強化している。それに対し、わが国は世界の潮流に逆行し、海事系の博物館を閉鎖する時代に入っている。日本財団が設立した「船の科学館」は現在、本館の展示公開を休止しており、最終的に閉鎖される予定のようである。大阪市立「なにわの海の時空館」は、2013年に閉館した。そこに展示されていた北前船の復元模型は非常に貴重なものであるが、建物の構造上、解体せずにそのまま外部に移設することができない。ここを訪れた天津市に建設中の国家海洋博物館の関係者は、資金はいくらでも出すので、できることならばこの復元船を引き取りたいと言っていたそうである。
 前提として、このような海事博物館が「国立」でなかったことが大問題と言わざるを得ない。アジアにおいてもヨーロッパにおいても、海の博物館や研究所を地方自治体や民間任せにしている国はない。オーストラリアの国際海事史委員会の会長に、「日本の明治維新以来の商船隊の歴史や和船を含めた海洋工学の技術史について知りたいが、それらが見られる海事博物館は日本にないのか?」と質問されたことがある。残念ながら、日本にはそのような博物館はない。ちなみに、沖縄の海洋博公園に国土交通省が管理する「海洋文化館」があるが、非常に小規模で、海洋文化資源や水中文化遺産の部門はなく、また海事史一般の展示や研究は行われていない。日本が「海洋立国」を目指すのであれば、早急に「国立海事博物館」を設置し、その情報発信の場としての可能性ついて、総合海洋政策本部などで早急に議論を始める必要がある。

海没遺骨の問題

 最後に、海没遺骨の問題に触れておきたい。実は、「水中文化遺産保護条約」第1条第1項(a)iでは、人間の遺骸(human remains)も100年を経過すれば水中文化遺産になると規定している。第二次世界大戦に由来する海没遺骨は30万柱にのぼるとみられるが、2045年以降は自動的に「水中文化遺産保護条約」が適用され、厚生労働省を中心に進めている遺骨収容に支障が出る恐れがある。艦船遺構への適用も含め、関係者のあいだでは「2045年問題」と言われている。
 民主党政権の末期、厚生労働省が政策を転換し、遺骨については全柱帰還に切り替えた。それ以前は象徴的な帰還であり、「遺骨収集」と呼ばれていたが、現在は全柱帰還を前提として「遺骨収容作業」に名称が変化した。安倍内閣もその方針を継承、ペリリュー島や硫黄島周辺で遺骨収容作業を進めている。海没遺骨については、中曽根総理大臣(当時)が1987年(昭和62年)の参議院での答弁で、「沈没艦船内の遺骨収集については、海自体が戦没者の安眠の場所であるとの考え方に基づき、原則としてこれを行わないが、例外的に、遺骨が人目にさらされていて遺骨の尊厳が損なわれるような特別な状況にあり、かつ、その沈没艦船内の遺骨収集が技術的にも可能な場合には、これを行うこととしている」と述べている。

【図6 パラオにある日本海軍給油艦「石廊」の遺構:South China Morning Postより】

 その後、海洋工学技術が急速に進展し、水深1000Mにある戦艦「武蔵」の遺構にもアクセスが可能な時代に入ってきている。こうした状況の中で、太平洋各地で遺骨の尊厳が損なわれるような事態が発生している。図6は、パラオにある日本海軍艦船の遺構の写真である。日本人の海没遺骨が発見されている場所で、民間のダイバーが国旗を掲げている。このようなことが太平洋の各地で行われている。数年前にはマレーシアで、日本の巡洋艦「羽黒」の船体が屑鉄業者によってサルベージされたが、発見された海没遺骨は現場で投棄された。このとき、日本では一部のマスコミが報道したが、大騒ぎになることはなかった。一方、オーストラリアの巡洋艦「パース」の船体がインドネシアでサルベージされ、同じように海没遺骨が現場で投棄された。そのことが明らかになるとオーストラリアでは世論が沸騰し、大きな問題となった。それを受けて、オーストラリア政府はインドネシアに厳重な抗議を行っている。

(本稿は、2016年11月5日に開催した政策研究会における発題をもとにまとめたものである。)

政策オピニオン
岩淵 聡文 東京海洋大学大学院教授
著者プロフィール
1960年東京都生まれ。83年早稲田大学第一文学部史学科卒業。85年東京大学大学院社会学研究科修士課程修了。90年オックスフォード大学大学院社会人類学科博士課程修了。哲学博士。東京商船大学を経て、2005年より現職。専門は社会人類学、東南アジア民族誌、海洋文化学。著書にThe People of the Alas Valley(Clarendon Press)、『文化遺産の眠る海―水中考古学入門―』(化学同人)、共著に『ギリシア世界からローマ世界へ』(彩流社)など。

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