日韓信頼構築への提言 ―文化理解の視点―

日韓信頼構築への提言 ―文化理解の視点―

2015年11月20日

はじめに ~韓国人と「恨」の文化~

 次頁の地図は大陸から日本・太平洋を俯瞰したものである。25年も前のことだがソウルに着任して間もないころ、私に会いにきた中年の韓国人が「世界地図を逆さにすると分かるが、朝鮮半島と太平洋の間には日本列島が覆いかぶさっているため、われわれは日本から心理的な圧迫感だけでなく逼塞感を感じている」、「また日本列島が凸レンズの形をしているために、韓国から外界を見ると実物以上に大きく見えるが、外の世界から眺めた韓国は日本というレンズを通して実物よりも小さく見られてしまう」と文句をつけるような口調で切り出したので、これには唖然とした思い出がある。日韓関係は歴史的な要因だけでなく、地政学的な要因や民族の心理学的な要因が複雑に絡み合っているから、その時々の現象だけを追ってみても本当の姿は見えないのかも知れない。

環日本海・東アジア諸国図 ※富山県が作成した地図を転載したもの(平24情使第238号北朝鮮0502)

 1980年代後半、趙容弼(チョー・ヨンピル)が歌う「恨五百年(ハン・オーベニョン)」という歌が大ヒットした。日本語で「うらみ」というと普通「怨」の文字を使うが、韓国人がよく使う「恨(ハン)」は「怨」とは異なる。「恨」とは、自分に振りかかった過酷な運命や自分自身の行動によって招いた身の破滅のように、責任を他に転嫁できず不満をどこにもぶつけられないで悶々としている心理状態を指すようだ。それは誰かに対してうらみを返すことでは解消できないものである。
 「朝鮮近代文学の祖」といわれる李光洙(イグアンス)(1892-1950年、日本名:香山光郎)の伝記を読んで、私は韓国人の「恨」の感情を痛いほど理解できたように思う。李光洙は日本留学時代から反日運動と関わり、日韓併合後は上海の大韓民国臨時政府樹立にも加わった愛国者である。彼は小説「無常」の発表で一躍有名になり、後に「東亜日報」編集長や「朝鮮日報」副社長を務めるまでになった。朝鮮文化に対する総督府の締め付けが厳しくなるにつれて、彼は親日文学と呼ばれる日本語による創作活動を展開するなど総督府への協力姿勢を明らかにしていった。韓国独立後、彼は「親日派」の烙印を押され論壇を追われた。回顧録『我が告白』の中で、「私は(朝鮮)民族のために親日(的行為)をしました」と述べている。このような錯綜した韓国人の心情について、われわれ日本人は余りに知らなさ過ぎる。
 1910年の日韓併合から10年ほどの間に朝鮮各地では義兵運動が起き、1919年には京城での三一独立運動が全土に波及するなど激しい抗日運動が起きた。これらは官憲によって完全に抑え込まれたが、他方で総督府はそれまでの武断政治から文治主義に大きく舵を切るようになる。韓国の知識人の中にも、武力蜂起や示威運動によって独立を達成することの限界を知り、今は日本の統治に協力し日本人以上に立派な市民(日本人)となることによって日本の朝鮮に対する差別をなくし、最終的に韓国の独立を達成しようと考えて行動した人たちが多く出てきた。それを文学という明確な形で行動したのが李光洙である。
 親日的活動をした動機は、あくまで朝鮮独立のためであった。しかし韓国が独立すると、周囲からは「親日派」の烙印を押され後ろ指をさされる人生を送ることになる。誰に対してこのウラミをぶつけることができるか。日本人に対してか、同胞人に対してか?自分は正しかったのか、間違っていたのか?戦前から戦後にかけて、李光洙と同じような運命に遭遇した韓国人(元日本人)は数多く存在する。この人たちの持って行き場のない無念が「恨」となって沈澱し、戦後長らく韓国人の間に漂ってきたように思われる。
 つい最近の毎日新聞(8月31日)に、90歳の元日本人戦犯、李鶴来氏に関する以下のような記事が載った。
 李さんは戦時中の1942年に徴用され、映画「戦場にかける橋」で有名なタイ・ビルマを結ぶ泰緬鉄道で強制労働に従事する連合軍捕虜の監視員として従軍した。終戦後、元捕虜に告発されてシンガポールで死刑判決を受けたが、後に懲役20年に減刑され巣鴨刑務所に収監された。李さんのように戦場で捕虜監視員を命ぜられた朝鮮出身者は、日本の軍人精神を発揮して連合軍捕虜をしごいたため、その多くが「日本人戦犯」として処刑された。その数は23人に上る。李さんは1956年に出所して韓国に帰国したが、故郷では日本軍協力者として白い目で見られ、結局日本に戻ることになった。しかし最早日本人ではないという理由で、旧軍人に認められた援護や補償の対象外となって厳しい生活を強いられた。朝鮮人元戦犯たちは、1955年に「韓国出身戦犯者同進会」を結成して日本政府に補償を求めたが、結局何も得られずに今日に至っている。
 李光洙氏も李鶴来氏も、日本人以上に立派な「日本人」になることによって朝鮮人への差別を取り除こうと必死の思いで努力したに違いない。戦後70年、「民族のために親日をしました」という思いを抱く韓国人は年老いて、その数もめっきり少なくなった。

1.隣国と善隣友好関係を築くことの難しさ

 一般的に、隣国同士が長期にわたり善隣友好関係を築くことは、日韓関係に限らず歴史上まれである。ヨーロッパの歴史において、英仏両国は1337年の百年戦争の開始から1815年のナポレオン戦争終結まで約500年に亘って断続的に戦火を交えてきた。イスラエルとパレスチナの関係は旧約聖書の時代から対立状態が続いており、またインドとパキスタン、イランとアラブ諸国、ロシアとウクライナなど、現在対立関係にある地域や国々は少なくない。それ故、日韓関係についても、「隣国関係は難しい」という認識から出発することが必要である。「友好」を口にするだけでは友好関係は築かれない。隣国との間のもつれた糸をどう解きほぐすか、これは政治・外交の課題であると同時に国民的課題でもある。

(1)ロシア・ポーランド関係の例
 日韓関係に見る隣国関係の類型(アナロジー)として、ロシア・ポーランド関係が参考になると思う。日本人と韓国人は民族的に同じウラル・アルタイ語族に属し、ロシアとポーランドは同じスラブ系民族である。そのポーランドについては忘れられない思い出がある。1970年のことだが、私は駐ソ連日本大使に同行して初めてポーランドを訪れた。周知の通り、ソ連は第二次大戦末期の1945年、ナチス・ドイツ軍を追撃してポーランドを解放した。戦後ポーランドは東欧におけるソ連の衛星国として主要な位置を占め、ワルシャワにはNATOに対抗して創設されたソ連軍を中核とするワルシャワ条約機構の本部が置かれた。1968年に起きた民主化運動「プラハの春」を戦車で弾圧したのもポーランドに駐留するワルシャワ条約機構軍であった。ポーランドとソ連(ロシア)は緊密な善隣友好関係にあると信じられていた。
 ワルシャワに到着した翌日、我々はポーランド国営旅行社のガイド嬢に市内の案内役を依頼した。彼女が我々を最初に案内したのは、市の中央にそびえ立つ「文化宮殿」だった。この建築物は、モスクワの高台にそびえる「モスクワ国立大学」に代表されるスターリン様式の建物で、ワルシャワの「文化宮殿」は当初「ヨシフ・スターリン記念文化科学宮殿」と呼ばれた。エレベーターで最上階に到達すると、彼女は「ここからはワルシャワ市内が最も美しく眺められます。なぜなら、スターリンの作ったこの非文化的な醜い建物が見えないからです。」と周囲に臆することなく説明した。これには大使も私も驚いた。ソ連のお膝元のポーランドで、しかも国営旅行社のガイドが明らかにソ連批判をぶったのだ。「ソ連国内であれば即刻国家侮辱罪で逮捕されるか、最低ガイドを解雇されるだろう。彼女は大丈夫だろうか」と私は心配したが、ガイド嬢は気に掛ける様子もなく説明を続けた。
 ポーランドは近代から現代にかけて二度国家を喪失している。最初は18世紀末にロシア、プロイセン、オーストリアによって分割され(領土を回復して独立するのは第一次大戦後)、二度目は1939年にナチス・ドイツとソ連によって分割、消滅した(第二次大戦後に独立)。また戦後は前述の通りソ連の完全な影響力の下におかれ、その状態は1990年初めのポーランド労組「連帯」による民主化運動まで続いた。ポーランド分割の悲哀はロマン派の国民的詩人アダム・ミツキェヴィチ(1798-1855)の詩によって国民の記憶に深く刻まれている。
 またロシア人と異なりポーランド人の95%がカトリック教徒であること、ロシア語やウクライナ語、ブルガリア語などがキリル文字なのに対しポーランド語はアルファベットを使用していること、ポーランドから英仏のみならず米国、カナダに大量の移民が流れ込んで市民権を確立していることなどで、ロシアとの違いが顕著である。このことは韓国人の多くが儒教とキリスト教を信奉していること、韓国語が漢字ではなくハングルに特化していること、米国、中国、ロシアに多くのコリアン系が定住し一定の影響力を有していることなどで日本との違いを際立たせているのに似ている。

(2)隣国関係が難しい理由
 国境を接する国々は、お互いに戦争や覇権の歴史を通じて征服者(侵略国)と被征服者(被侵略国)の立場に立つことが多い。侵略した側は侵略の事実を過小評価し、侵略された側は侵略による被害を過大に評価しがちである。
 また国境を接する国々は、民族移動や文物の交流の中で相互の文化に影響を与えてきた。高い文化を有する風上の国とその文化の恩恵を受けた風下の国の関係は、国民の中に優越感や劣等感を生じさせやすい。そして優越感は増幅されて他への蔑視となり、劣等感は時として為政者の強い指導を得て他への征服欲に変貌する。アラビア半島の辺鄙な一地方に起こったイスラム教が高度の文明を誇ったペルシャやローマ帝国を席巻したのも、北狄と蔑まれたモンゴルが絢爛豪華な中華文明が咲き誇る南宋を滅亡に追いやったのも、征服欲のなせる業ではないだろうか。

(3)歴史認識の難しさ
①歴史的「事実」の特定の難しさ
 相互の歴史認識を近づけるためには、まず発生した歴史的事実、即ち史実をいかに定義し特定するかが重要となる。しかし史実を特定することがこれまた困難である。一例をあげれば、日中戦争のさなかに南京市で起きた「南京大虐殺」(1937年)の犠牲者数について、中国側は30万人以上と主張するが、日本政府は「具体的な被害者数については諸説あって認定は困難」としている。このように事件の犠牲者数についてすら共通の認識に至ることは容易でない。
 他方、2015年9月3日、北京で行われた抗日70周年記念式典で、習近平総書記は中国共産党が主導して抗日戦争を行いこれに勝利したと演説した。これに対して台湾当局は、「抗日戦争を主に戦ったのは中華民国の国軍である」と反論している。
 上記の二つの例からも明らかなように、歴史認識の根幹となるべき史実の特定についてさえ見解が大きく異なっている。そこには政治的な意図が左右している。また歴史は勝者によって書かれ、敗者の立場や主張は陰に追いやられることも事実である。国連の例に見られる通り、戦後の国際政治制度は勝者たる連合国によって作られた。国連憲章の「旧敵国条項」の削除に関して、日本はいくら主張しても認めてもらえないもどかしさが付きまとう。
②史実に対する評価の相違
 歴史的事件やそれに関わった人物に対する評価についても、関係者の立場によって相反することが多い。
 1909年にハルビン駅で伊藤博文を暗殺した安重根(1879-1910年)の例を挙げよう。
 周知の通り、安重根は初代朝鮮統監で日韓併合を進めた伊藤博文を暗殺した英雄として、韓国では極めて高い評価を得ている。他方、日本では元勲を暗殺した犯罪者、テロリストという認識だ。なお、安重根を護送した日本人看守に関しては感動的な実話がある。
 ハルビンから旅順まで安重根を護送した陸軍憲兵・千葉十七(旅順監獄看守)は、初めは重罪人の安重根を手荒に扱ったが、次第にその人格・思想に魅了され、処刑される直前に安重根に依頼して「為國獻身軍人本分」(国のために身を献げることは軍人の本分)と大書した揮毫を授かった。安の刑死後千葉は依願退役して故郷の宮城県栗駒村に帰り、安重根の祠を建てて終生その霊を慰めたと言われる。戦後、千葉十七のお孫さんが韓国を訪問して安重根の書を関係者に寄贈、その書は現在ソウル市南山にある安重根義士記念館に納められている。
 史実に対する評価が異なる例は各国に見られる。
 米国独立の最大の功労者であるジョージ・ワシントン(1732-99年、初代大統領)は、英国の教科書では大英帝国の支配に反旗を翻した「反逆者」(traitor,rebel)として記されている。他方、大西洋を行き交うスペインの商船を頻繁に襲って「ドラコ」(悪魔の化身)と恐れられた「海賊」フランシス・ドレイク(Francis Drake,1543頃-1596年)は、英国では後に女王から海軍提督に任命されSir Francisとナイトに叙せられた英雄である。
 このように史実や人物に対する評価は、関係者の利害が錯綜している場合だれが評価するかによって通常一致しない。その意味で日韓関係においても歴史認識を一致させることには多大の困難が伴う。むしろ双方の見解を併記することによって相手の立場に理解を示すことが大切ではないだろうか。

2.「近くて遠い国」から「近くて近い国」への処方箋

(1)古代史を学び現在を知る。
 古代にまで歴史を遡れば、日本には韓国を身近に感じる地名や事例が少なくない。以下にそのいくつかを挙げてみよう。
①高句麗
 埼玉県日高市にある高麗神社では来年「高麗郡建都1300年」を迎える。先日、60代目宮司の高麗文康氏の講演を聞く機会があったが、それによれば668年に高句麗が滅亡すると多くの高麗人が海を渡って日本に渡来したという。716年、大和朝廷は関東一帯に住む2千人弱の高麗人を上野の国(埼玉県)に集めて高麗郡を創設、未開の大地の開拓に当たらせたとの記録がある。高麗神社は、高句麗からの渡来人で当時指導的立場にあった高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)を主祭神としている。因みに、奈良時代には埼玉県から群馬県にかけて多くの渡来人が入植している。群馬県高崎市には711年に設置された多胡郡にまつわる有名な「多胡碑(たごひ)」がある。さらに同じ頃、同県には新羅からの渡来人が入植し、758年に至って新羅郡(後の新座郡)が設置されたという記録がある。
 先月、私は鳥取県米子市を訪れた際、案内してくれた友人の野坂米子市長から興味深い話を聞いた。それは霊峰大山(標高1729m)の麓にある高麗山(孝霊山、751m)にまつわる伝説で、昔々高麗の人々が「日本にはこんな大きな山はないだろう」と言って高麗山をこの地に引っ張ってきた。すると雲に隠れていた大山が姿を現したので、その巨大さに驚いた高麗人は山を置いたまま逃げ帰ったという。その高麗山の麓に、明らかに高句麗系と思われる寺がある。そこから発掘されるものは金製の耳飾りなど、韓国で出土する多くの遺物と瓜二つである。
 日本各地には高麗(高句麗)に由来する地名や名前が多く見られる。例えば、東京の狛江(こまえ)市、玩具の独楽(こま)や狛犬(こまいぬ)など。さらには馬のことを駒(こま)と呼ぶが、駒場、駒沢の地名はそこから派生した。
②新羅
 三国時代の新羅の影響は、日本海に面した山陰地方から能登半島にかけて、また京都の丹後半島から琵琶湖を経て京都盆地に至る地域、さらには瀬戸内海に面した岡山県や広島県など広範な地域に及んでいる。それらの地域には新羅の神々を祭った神社が少なくない。京都祇園の八坂神社に祭られている牛頭天王や武塔神は渡来の神であり、スサノヲも新羅との関係が強い。新羅神社はときに「白木神社」や「白城神社」などと名前を変えて存在している。これらの地域にある古墳からは金製の装飾品が出土しており、慶州にある新羅王族の墳墓からの出土した金製の埋葬品と酷似している。金の装飾品といえば、紀元前8世紀から同3世紀にかけて黒海北岸に栄えたスキタイ文明が有名だが、それが匈奴などの騎馬民族によってモンゴルから満州を経由して朝鮮半島に伝わり、そこから海峡を越えて日本にもたらされたと思われる。辰韓、後の新羅は、北方や西方からの軍事的圧力を受けて朝鮮半島の最東南端に追いやられ、何波にも亘って日本列島に移り住んだのではないだろうか。
 古代の日本に朝鮮半島から伝わったものに鉄がある。歴史上最初に鉄が使用されたのは、紀元前16世紀のヒッタイトにおいてである。鉄の製法は長らく国家機密とされていたが、ヒッタイトが滅亡するや鉄器は瞬く間に周辺に伝播した。歴史的に朝鮮半島における鉄の産地は洛東江の下流で、そこは伽耶と新羅が領有していた一帯であったとされる。日本では出雲から丹後半島にかけて、また兵庫県から岡山県にかけた一帯に鉄器生産の遺構が多く発見されている。この地域は新羅系の渡来人が入植した場所とほぼ一致しているとの有力な説がある。
③百済
 百済については、「古事記」および「日本書記」が高句麗、新羅よりもかなり多くの記事を割いている。このことは、大和朝廷が百済と特別の関係にあったことを示唆している。朝廷は紀元660年に百済救援のため大軍を半島に派遣したが、白村江の戦いで唐・新羅軍に敗れたため、百済から多くの亡命者を連れ帰った。滋賀県東近江市の「百済寺」(ひゃくさいじ)、奈良県広陵町に百済寺(くだらじ)、大阪府枚方市に「百済王寺」(くだらおうじ)など、百済にゆかりのある寺院が大和朝廷の影響が強い近畿地方に集中している。
 2010年10月、「平城遷都1300年記念祝典」に出席された今上天皇は、お言葉の中で次のように語られた。
「平城京について私は父祖の地としての深いゆかりを感じています。そして、平城京に在位した光仁天皇と結ばれ、次の桓武天皇の生母となった高野新笠は続日本紀によれば百済の武寧王を始祖とする渡来人の子孫とされています。我が国には奈良時代以前から百済を始め、多くの国から渡来人が移住し、我が国の文化や技術の発展に大きく寄与してきました。仏教が最初に伝えられたのは百済からでしたし、今日も我が国の人々に読まれている論語も百済の渡来人が持ち来ったものでした」。
④渡来人とその子孫たち
 紀元前3世紀ごろから始まる弥生時代から古墳時代が終わる7世紀末にかけて、朝鮮半島から数多くの渡来人が日本に来たことが古墳などの発掘調査で判明している。これらの渡来人は鉄器や農機具、馬具など大陸の進んだ技術と文物を日本にもたらした。彼らは次第にその経済力と技術力をもって、当時の支配層に喰い込んで行った。一例を挙げれば、関東に移住した高句麗や新羅の渡来人はよく馬を飼育し、これを軍馬として朝廷に献上し中央とのパイプを太くしていった。戦後、江上波夫氏の「騎馬民族国家」論が古代史論争に一石を投じたが、考古学においては馬具や馬の装飾品など韓国での出土品が日本に比べて圧倒的に多いことから、渡来人の馬の知識は倭人の追従を許さなかったろう。
 他方、日本語の起源については様々な研究がなされている。日本語と韓国語はウラル・アルタイ語に属し、言葉の語順や文法は非常によく似ている。その一方で、「米(こめ)」は韓国語で「サル」と発音されるなど、生活基本語で一致しないものも少なくない。日本語学者の大野晋氏は日本語の源流が南インドやスリランカのタミール語にあるとの説を唱えている。確かにイネは南方系の植物であり、縄文時代に中国の江南地方から伝わったという説が有力である。一万年に亘る縄文時代には南方系民族の渡来があったことも各地の貝塚の研究から知られている。さらに一時期、地球が寒冷化し海の水位が下がって日本列島の九州北部と半島南部が対馬と隠岐とで陸続きになった時期もあった。陸続きであるから人の移動は比較的容易であったろう。この回廊を伝って縄文文明が半島に伝播した時期があったかもしれない。
 時計を古墳時代に戻そう。以下は、私が在韓国日本文化院長をしていた際、韓国考古学第一人者のソウル大学名誉教授から直接聞いた話である。同教授は慶州や扶余などの韓国の古墳群のみならず、日本の古墳群の発掘調査も数多く手掛けており、奈良県で藤の木古墳が発見された時も調査に招かれた。日本に到着するや、出迎えの日本の考古学者から「先生にお願いがあります。ファイバースコープで石棺の中を見て頂きますが、遺物を見て『これは韓国のものとそっくりだ』とか『これは天皇家の墓のものと似ている』などと決して言わないで下さい」と念を押されたという。韓国そっくりだと言えば反対運動が起きかねず、また天皇の墓に似ていると発言すれば、直ちに宮内庁から発掘中止の指示が来てしまうというのだ。「そこで『高貴な方のお墓のようだ』とコメントすることになったよ」と老教授は笑って話した。
 日本には韓国の古墳に似た墳墓が本州の日本海沿岸に数多く見られる。他方、2013年12月のNHK「クローズアップ現代」で詳しく報道されたが、近年韓国で日本独自の前方後円墳が次々と見つかっている。韓国の考古学者は「文化の起源は韓国にあり、日本からの流入はありえない」という固定観念があるため、一様に大きなショックを受けたようだ。しかし、若手の中に「前方後円墳を理解するには日本の古代史を勉強しなければならない」と考える学者が出てきており、国家の枠を超えて自由に検討し合うことの重要性が高まっているようだ。
 私は日本でも韓国でもどしどし共同発掘をしたら良いと思う。15年前シリアに勤務した時、今はISによって破壊されたパルミラの遺跡現場で、日本や欧米の考古学者がシリア人と共同で発掘作業を行っていた現場を訪れたことがある。日本、韓国、北朝鮮、中国の遺跡や遺物を共同研究することで、東アジアにおける古代の様子が一層明らかになる。その中で日本の成り立ちについても新しい発見があるかもしれない。日本と韓国との共通認識が広がるのではないかと思う。
 以上述べた通り、我々は古代史を知ることにより日本と半島の交流を身近に感じ、お互いに親近感を持つようになると思う。竹田恒泰氏は著書の中で、一部の日本人が在日コリアンをバッシングするのは古代の渡来人の血が入っている現在の日本人をバッシングしていることと変わらないと書いている。在日コリアンの子孫が数百年後の日本人の一部を形作ることを考えれば、氏の意見は傾聴に値する。

(2)諸懸案の解決を図り50年、100年先の友好協力関係を築け。
①従軍慰安婦問題
 韓国に朴槿恵大統領が初の女性大統領として登場してから3年になろうとしている。日本側の期待に反して、朴大統領は従軍慰安婦問題の解決を対日外交の最優先課題に据え、歩み寄りの姿勢を示していない。
 1965年、日韓両国は14年に及ぶ激しい交渉の末、日韓基本条約、日韓請求権並びに経済協力協定(請求権協定)など一連の合意文書を締結した。その後40年近く経た2003年、盧武鉉大統領の時代になって韓国では請求権協定の見直し論が出てきた。韓国側は、従軍慰安婦問題、徴用工問題および朝鮮人被爆者の問題は、請求権協定交渉で議論されなかった新たな問題であるとして交渉による解決を要求してきた。これに対し日本側は、請求権協定第2条第1項にある通り、「請求権に関する問題は完全かつ最後的に解決された」として交渉に一切応じていない。
 2011年8月、韓国憲法裁判所は、慰安婦問題に関し重要な決定を行った。慰安婦側の訴えに対して裁判所は、韓国政府が日本政府に対して損害賠償を請求する交渉を行わないこと(「不作為」)は、国民の基本的人権を擁護する観点から憲法違反であるとの決定を行ったのである。韓国政府は被告席に立たされ、日本との交渉を法的に義務付けられた。李明博大統領がその任期末期に日本に対して強硬な姿勢に転じたのも、朴槿恵大統領がこの問題の解決に固執するのも、憲法裁判所の決定が大きく影響している。
 日本では三権分立の立場から、外交など高度の政治判断を要する問題は司法になじまないとする「統治行為論」が一般的である。ここに韓国と日本の法制度の違いが顕著に出ている。日本側は、外交に司法が介入する形で決着がつくことになれば、同様の憲法裁判所の決定が次から次と出てくるのではないかという強い懸念がある。また、「完全かつ最終的に解決された」請求権問題に例外を作れば、それを前例として韓国側からさらなる要求が提起される可能性が高い。それではいつまで経っても「未来志向の日韓関係」は築けないとの憂いが日本側には強い。
 私は、議員立法で「新アジア女性基金」を設立することにより、前回応じなかった元慰安婦60数名の救済を図ることができないかと考える。1995年の「アジア女性基金」は政府の権限でできるギリギリの解決策であったが、残念ながら韓国側は国内に十分説明しなかった嫌いがある。韓国は「司法至上主義」の弊害を改め、話合いによる解決を図るべきである。
②戦時徴用工問題
 最近、株式会社・三菱マテリアル(戦前の「三菱鉱業」はその前身)は、戦時中に米国人捕虜を自社所有の炭坑や工場で強制労働に従事させたことに対し元捕虜から補償を請求されていた案件で、被害者に対し補償金を支払うことで元米国人捕虜と和解した。さらに、中国人の戦時徴用工との訴訟に対しても、同様の補償を行うことで解決の道を開いた。これは徴用工に対する補償としては初めてであり、同社の勇気ある決断を称賛したい。朝鮮人徴用工については補償を求めている人数が桁違いに大きく、一民間会社がどこまで応じ切れるか困難な問題が残る。日本政府は、日韓請求権協定によりすべての請求権について「完全かつ最終的に解決した」との立場であるが、徴用工と民間企業との和解を促進するなど国会や政府が動く余地はあるのではないか。
③竹島問題
 竹島問題は「両国のノドに刺さった魚の小骨」のようなもので、いずれ解決されなければならない問題だ。両国のナショナリズムが背景にあるが、領土問題は国際法に基づき解決されるべきであると考える。韓国は歴史的経緯と法的側面から「独島」の領有権を主張している。しかし1951年のサンフランシスコ講和条約で日本が放棄した領土の中に竹島が入るか否かに関しては、米政府はラスク米国務次官補の書簡(いわゆる「ラスク書簡」、1951年)の中で「竹島は1905年以来、島根県の管轄下にある」と明言している。またラスク書簡は、異議があればICJに付託して解決することが望ましいとも付言している。韓国は日本による「独島」の占有を朝鮮の植民地化の始まりと位置付け、竹島に関する日本側のわずかな言動に対しても「妄言」として感情的な反発を示してきた。しかし領土問題は本質的に国際法の問題であり、ICJによる司法判断を拒否すべきではない。竹島問題は1965年の国交正常化交渉において解決を見ず、周辺海域での漁業権の問題のみが話し合われてきたが、その後韓国は一方的に「独島」に警備隊を常駐させるなど既成事実化を図っている。日韓両国は少なくともお互いの主張を冷静に検討しあい、ICJへの付託に関して合意を図るべきだ。
④教科書問題
 教科書問題が原因で日韓関係が冷却化した事例は1、2に止まらない。前記のように、歴史的に隣国同士は紛争や対立が起き易く、それは現代においても民族主義を鼓舞するような教育によって増幅される。このような観点から、ユネスコの勧告に基づいて独仏間では共通の歴史教科書を作成して使用している。日韓の間でも共通の歴史教科書を作成する試みを行うべきだ。歴史認識が異なる事項については両論を併記することにより、少なくとも相手の立場にも関心を払う教育が望ましい。
⑤ヘイトスピーチの防止
 日本は、1995年に留保付きながら人種差別撤廃条約を批准しているが、憲法に定める出版・表現の自由との関係でいまだ人種差別禁止法を制定していない。他方、日本国内では特定の民族に対する人種差別的ヘイトスピーチが近年激しさを増しており、私は条約の精神に則って国内法を制定すべきであると考える。ヘイトスピーチを放置することは国家の体面を失墜させるばかりでなく、相手国民との感情的対立を助長させる。歴史上最初に人種差別撤廃を国際社会に訴えたのは日本であり(1918年、パリ講和会議の国際連盟委員会)、その高邁な精神を引き継いでいくべきだ。
 以上のように、日韓間には解決すべき多くの問題がある。中でも竹島の領有権問題と歴史認識の問題はナショナリズムを極度に刺激するので取り扱いが難しい。しかし、困難な問題でも先送りすることなく、両国民の叡智を結集して解決の姿勢を示すべきだ。
 パリに本部を置くOECD(経済協力開発機構)加盟国は現在34カ国。いずれも世界経済の発展に貢献することが期待される先進民主主義国である。その中で、良好な関係を築いていないのは日本と韓国のみである。GDP世界第3位の日本と第13位の韓国が善隣友好関係を築けないことは、両国国民にとって不幸であるばかりでなく、世界にとっても決して望ましいことではない。
 日韓が基本条約を締結して50年が経った今日、両国は英仏や独仏などのように信頼で結ばれた善隣関係をいまだ築いていない。子供や孫たちに「日韓関係は大丈夫」と自信を持って言えないもどかしさがある。上記に挙げた諸懸案を一つ一つ解決して行くとともに、50年、100年先を見据えて国民的和解を目指した「日韓友好協力協定」(仮称)の締結を真剣に考えるべきではないだろうか。

3.「コリアン・パワー」

 われわれ日本人は、韓国を日韓のコンテキストでのみ捉えがちである。しかし、それでは韓国の真の姿はわからない。
 私が「コリアン・ディアスポラ」(海外に定住する韓国・朝鮮系住民)に関心を持ったのは40年も前のことである。1976年、カナダのモントリオール・オリンピック大会で一人の体操選手が脚光を浴びた。彼女の名前はネリー・キム。朝鮮系ソ連人である。当時、ソ連の中央アジアを旅行すれば、市内の食糧品市場には必ず自家製キムチを売る朝鮮系オバちゃんの姿があった。またモスクワやキエフの外国語大学では、朝鮮系の教師が日本語を教えていた。彼らは1930年代に、スターリンによってソ連極東地方から中央アジアに強制移住させられた朝鮮人たちなのだ。戦後になって、その多くが沿海州やサハリン州に再定住し、今では朝鮮系住民は極東ロシアの経済に欠かせない存在となっている。旧ソ連における朝鮮系の総数は約50万人(内ロシアには12.5万人)を数える。
 米国には、1910年代に日本の植民地支配を嫌って李承晩などの反日活動家が亡命したほか、1950-53年の朝鮮戦争では多くの韓国女性が米軍人と結婚して米国に帰化した。さらにベトナム戦争後、韓国人の米国移住が飛躍的に増加した。その理由は、米議会が米軍と一緒に戦った韓国軍に感謝の意を込めて、軍人とその家族に米国移住の特別許可を出したからである。近年では韓国人の米国留学熱が高まりを見せ、ハーバードなど一流大学への留学生が増加している。今や韓国系米国人の総人口は170万人を超えている。韓国系米国人は自己表現力と団結力に長けており、連邦や州議会へのロビー活動にも熱心で、米国内における影響力は日系米国人をはるかに凌いでいる。スポーツの分野でも全米PGAや大リーグで韓国人選手が活躍しており、また音楽・芸術の分野における韓国系の進出はつとに有名である。
 中国では、東北部(旧満州)の吉林省を中心に朝鮮族の数は約200万人に達しており、その中約80万人が延辺朝鮮族自治州に住んでいる。また北京、上海などの大都市にも朝鮮系が進出している。最近、日本のコンビニで金とか朴という名札を付けた研修生が多く見られるが、出身地を聞くと多くが旧満州で、母国語の中国語、朝鮮語に加えて日本語も上手である。将来、このような若い朝鮮系中国人が活動する分野はますます広がるのではないだろうか。
 最後に、在日コリアンに触れたい。在日韓国・朝鮮人の総数は2014年末で約50万人、また日本国籍を有する韓国系と朝鮮系は合計35.5万人であり、両方を合わせると85万人を越える。「民団」と「総連」は長い間反目してきたが、近年在日コリアンとしてお互いに交流する動きも出ている。また2002年のFIFAワールドカップ日韓共催を機に日韓両国の観光客が激増し、韓国における日本文化の解禁と映画「冬のソナタ」に始まる韓国映画への関心が「韓流」現象を生み出した。国民レベルでの相手国に対する関心の増加は、一部にヘイトスピーチなどの現象はあるものの、全体的には在日韓国・朝鮮人に対する理解の増進にも繋がっていることは明らかである。
 このように、米国、中国、ロシアそして日本では多くのコリアンが市民として活躍しており、その影響力には無視できないものがある。「コリアン・ディアスポラ」で世界に散らばったコリアンは、「世界韓商大会」などの機会に一堂に会して民族の絆を確かめ会っている。日韓関係を良くすることは、韓国国内だけでなく数百万人に及ぶ世界中のコリアンにも間接的に好ましい影響を与える。これが日本の外交にとってプラスに働くことは言を俟たない。

(2015年9月5日に開催された政策研究会における発題を整理してまとめた。)
政策オピニオン
天江 喜七郎 元在韓国日本文化院長
著者プロフィール
1967年一橋大学法学部卒後、外務省入省。駐イラン、韓国、ソ連大使館などの勤務を経て外務省大臣官房審議官、中近東アフリカ局長を歴任。2000年在シリア大使、02年在ウクライナ兼モルドバ大使、05年関西担当大使。退官後、国立京都国際会館館長、同志社大学客員教授等を務めた。現在、日本国際連合協会評議員、裏千家インターナショナル・アソシエーション会長、KDDI社外監査役等を務める。著書に『息子への手紙』(1991年)。

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