日韓国交正常化後50年を振り返って

日韓国交正常化後50年を振り返って

2015年5月1日

はじめに

 今年2015年は、日韓国交正常化50周年目に当る年であり、これまでこの問題にかかわった経緯もあり、歴史を振り返りながら今後の日韓関係を展望してみたい。
 日韓基本条約は1965年6月22日に東京において正式署名され、同年12月18日にソウルにおいて批准書交換がなされた。このとき東京においても、ソウルにおいても大規模な反対デモが起きて騒然としていた。実はこの交渉が始まったのは1951年で、約14年にわたる難交渉の末のことだった。ただしこの期間ずっと交渉が続いていたわけではなく、途中何度も交渉が中断するという山あり谷ありの苦節14年だった。
 65年6月に正式署名したのは日韓基本条約のほかに関連協定が4つあった。すなわち、日韓請求権並びに経済協力協定、在日韓国人の法的地位協定、日韓漁業協定、文化財及び文化協力に関する協定の4つで、それに加えて紛争の解決に関する交換公文の約定(竹島領有問題が念頭にあったが、交換公文には竹島は明示されていない)が結ばれたのである。
 近年の日韓関係は最悪の状況である。隣国関係は、歴史や国民(民族)感情が絡み合い、とかく難しいことは当然としても、現在の日韓関係の状況は「異常」だと思う。ゆえに少なくとも「普通の関係」に戻して、何とか「近くて近い国」にしたいものである。
 とくに歴史認識が目下の日韓関係の大きな争点になっている。歴史事実は一つだが、歴史認識は現在の時点で、それぞれの国家なり個々人が行うものであるから同じというわけにはいかない。できることはお互いの歴史認識を理解し合い、できる限り共通点をみつけ、認識の相対化に努めることではないかと思う。
 本稿においては、日韓国交正常化後50年を中心に考察するわけだが、それに先立つ李承晩時代(1948-60年)も含め、戦後の韓国現代史を大きく4つに分けて振り返るところから始めたい。

韓国現代史を振り返る

(1)李承晩時代(1948-60年)
 李承晩(1875-1965年)はもともと反日を信念として生きてきたところがあるので、李承晩政権は反日政策を掲げ、北朝鮮に対しては徹底的な反共政策を取った。そのため彼は、朝鮮戦争(1950-53年)の南北休戦協定にもサインしておらず、「北進統一政策」を押し進めた。しかし米国はそれを押さえようと動いた。
 日本との関係では、日本海の公海の一部を含む軍事境界線「平和線」(いわゆる、「李承晩ライン」)を設定して、そこに入り込む日本漁船を拿捕し、漁民を抑留するなど強硬策を展開した。このような中の日韓関係は厳しい緊張関係の連続だった。
 一方、米国は日韓両国とも米国の傘下の同盟国として認識していたので、両国が合い争うのは困るから一刻も早く日韓国交正常化交渉を進めるよう促した。しかし李承晩大統領は頑として聞く耳を持たず、日本側からも「久保田発言」問題(日本の植民地支配は多くの利益を韓国人にもたらしたという趣旨の発言、1953年10月)が起きるなどして、国交正常化交渉は再三中断して漂流状態だった。

(2)朴正煕時代(1961-79年)
 朴正煕(1917-79年)は日本の帝国陸軍士官学校出身であり、日本とも縁が深かったので、「親日派」とも言われたが、私自身は本当に彼が「親日派」だったかどうかはわからない。むしろ実務型政治家であったことは確かで、日本をうまく利用して祖国韓国の経済発展を推し進めようとしたと思う。そのような実利の動機から彼は日韓国交正常化交渉に前向きに取り組んだ。
 韓国国民の中には日本統治に対する歴史的な「恨(ハン)」が厳然と存在していた。朴正煕大統領は、そのような国民感情を力で押さえ込んで、あくまでも経済利益優先で祖国の経済発展を目指した政治運営を行い、その一環としての日韓国交正常化交渉を進めたのだった。
 そのような大目的を達成するために、結果的に歴史問題等多くの日韓の対立点は玉虫色の妥協を行うことになった。そのいくつかの例を挙げてみる。
 日韓交渉で大きな問題になったことの一つは、1905年、1910年の日韓併合条約等の有効性に関する見解の相違であった。すなわち、韓国はそもそも同条約は「意思(民族の総意)に反して行われたものであるので遡って無効としなければならない」と主張したが、日本は「旧大韓帝国が国際法上の主体として消滅している以上、大韓民国は別個の国でcontinuityはなく、すでに消滅した条約の無効をいまさら問題とすることは意味がない。しかも(同条約は)法律的には合法だった」と主張し対立した。
 結果的には、「これらの条約及び協定は、もはや無効であることが確認される」と表記して決着した。日本側は、「もはや」を「韓国が独立し、サンフランシスコ条約が成立した時点で無効になった」と解釈し、韓国側は「最初から無効だった」と解釈し、それぞれ別個の説明を条約の批准国会において行った。
 もう一つは、「唯一合法政権(管轄権)に関する確認条項」の問題だった。韓国側は、「現在の韓国は北緯38度線以南しか実効支配していないが、本来朝鮮半島全体の唯一合法政権は大韓民国である」と主張したが、日本は「大韓民国が実効支配しているのは朝鮮半島の南半分だけだ」と考えた。
 これに関しては、国連決議を援用して、韓国は「大韓民国政府が朝鮮半島全体を支配する」とし、日本は「南半分は大韓民国が支配するが、北半分は白紙状態だ」と解釈して合意をとりまとめたのである。
 竹島(独島)領有権に関しては「棚上げ」とし、交換公文において、島の名称は記載せずに玉虫色の文書とした。
 またこの条約には日本側からの「謝罪的ことば」はなく、唯一、1965年2月17日に椎名外相が韓国を正式訪問したときに、ソウル空港到着声明時の「大変不幸な時期があった」という発言だけだった。
 こうした玉虫色の文書によって日韓基本条約を締結したのであり、朴正煕政権時代の日韓関係は「小康状態」であった。
 ただ、その後日韓関係を揺るがす二つの事件が起きた。一つは、金大中拉致事件(1973年8月)である。この問題は解決が難しく、最終的には政治決着、すなわち深追いせず(韓国側の捜査打ち切り)、日本もそれでよしとした。もう一つは、陸英修(朴正煕大統領夫人)を射殺した文世光事件である。これは74年8月15日、光復節の記念行事において、在日韓国人・文世光が大阪の交番から盗んだ拳銃をもって訪韓し、キャデラックに乗って式典会場に入り込み、朴正煕大統領を狙撃しようとしたが、弾が外れて隣の陸英修夫人に命中したのであった。
 このとき韓国のマスコミは、「第二の国母殺害」(第一の国母殺害は閔妃殺害事件、「乙未事変」=1895年)と騒いだ。一方、日本では、交番の銃管理の甘さを指摘しつつも、犯人が在日韓国人であったこと、会場の警備の甘さを指摘するなど、双方で相当騒がしく報道が繰り広げられた。しかし、この事件もなんとかうまく政治決着して収まった。
 そして1979年10月26日、朴正煕大統領は彼の部下で古い友人でもあった金載圭・韓国中央情報部長(KCIA)によって暗殺され、この時代が幕を閉じた。
 この時代までは、韓国側の政治家や外交官の多くは日本語が非常に上手で、当時外交の実務を担当していた私自身も、韓国側カウンターパートの外交官と日本語で交渉のやり取りをしたことを記憶している。そしてよしあしは別にして、このころまでは政治決着による解決ができた時代であったが、その後はこういうことはできなくなってしまった。

(3)全斗煥・盧泰愚時代(1980-92年)
 この二人の大統領はともに軍人出身で、朴正煕時代と共通する要素も持ち合わせていたが、時代の様相として違った点は民衆の力が次第に伸長してきたことである。
 1980年5月の光州事件発生後に、戒厳司令部が騒擾の背後操縦や不正蓄財の嫌疑で金大中などを逮捕した。その後同年9月に韓国戒厳普通軍法会議は金大中に死刑判決を言渡した。それに対して日本の朝野から異議申し立てがあるなど、日本での反韓感情が駆り立てられた。また第一次歴史教科書検定問題が起き、これをきっかけに大規模な反日デモが起きた。
 一方、国のトップ(政治家)の関係では、全斗煥大統領と中曽根康弘総理の仲がよく、相互公式訪問を行い、さらに日本から40億ドルの円借款の供与も行われた。この関係改善の背後には、瀬島龍三などの大物が大きな働きをしたと言われる。
 そして盧泰愚大統領は、直接選挙により初めて選ばれた大統領で、このころから韓国の民主化がさらに一層進行して行った(民主化宣言、1987年)。戦後世代が次第に国政の舞台にも登場するようになった。
 この二人の大統領の時代は、日韓両国の政権・統治エリート同士の関係が比較的良好で、事態を何とかコントロールできていた。

(4)金泳三・金大中・盧武鉉・李明博・朴槿恵の時代(1993年~)
 旧型タイプの政治家の時代は金泳三・金大中の時代で終わり、民主化が進展すると共に国民の声を押さえ込んで政治を進めることが難しくなっていった。ここを境に政治エリートの交代が始まるとともに、(盧武鉉大統領以降)大統領が民衆の力を利用するような傾向(ポピュリズム)が出てきた。李明博大統領が政権末期に竹島(独島)を突然上陸したことや朴槿恵政権のやり方などもその線上のことではないかと思われる。
 市民レベルの発言力が強まると、政治の力はポピュリズムに迎合する傾向が顕著となり、日韓間のトラブルがコントロールの効かないまま増幅する傾向が見られる(とくに1990年代以降、歴史認識問題、従軍慰安婦問題。歴史教科書問題など)。

(5)日韓関係の背景の総括
 戦後の日韓関係は、繰り返し緊張に見舞われてきた。それでも最初のころは、そのつど「政治的に修復」(政治決着)されるという過程を辿ってきた。しかし近年はそうした修復機能が効かないままに緊張状態が継続している。日韓関係は小康状態、良好な状態にあったのは、朴正煕時代、それに続く全斗煥時代、盧泰愚時代、金大中時代くらいであった。
 日韓関係で緊張状態が繰り返されるのは、歴史問題に由来するところが大きい。韓国には、過去日本が韓国に対して行ってきた経験から底流に根深い不信感(「恨(ハン)」)がある。かつ韓国側が、内政上の理由からそれをむしろ利用するきらいすら見られる。
 近年に至り、関係悪化を修復する力が弱まっている。韓国では、民主化の進展と共に市民の発言力が強まり、統治エリート(政治・官僚)のコントロールが効かなくなっており、むしろ世論に迎合する傾向が強くなっていることもその背後にあるだろう。
 他方、日本側にも、過去の植民地支配に関して、韓国にもプラスの面がなかったわけではない云々という認識を開陳したり、あるいは要人の中にその種の「妄言」を吐く面が見られる。植民地統治の実態に対する認識が浅く、韓国人の意識に対する配慮、反省が薄いきらいがある。そして統治エリートの世代交代が進み、両者のパイプが弱くなってきていることを指摘したい。
 また韓国の貿易構造が大きく変化している面も見逃すことができない。かつては韓国の貿易パートナーとして日本と米国が貿易額においても大きな割合を占めていたが、今では中国が最大の貿易相手国となり、日米の貿易額の合計を超えるほどになっている。このように日韓の経済・貿易関係は、もちろん今でも重要なことは重要なのだが、その比重がかつてと比べて大幅に低下している。
 ただ、日韓関係の悪化は政治・外交面できわだっているのであり、市民レベルでの関係(観光、文化、市民交流など)はそれほど低下しているわけではない。人の往来で近年、日本人の韓国訪問者数が減ってはいるが、それでも200万人くらいが出かけている。政治・外交と市民レベルの実態交流との間にパーセプション・ギャップが見られるように思う。
 いずれにしても日韓間には、歴史認識問題(歴史教科諸問題、従軍慰安婦問題、徴用工裁判問題、竹島両流問題など)が大きく存在していることは確かであり、その解決・処理は容易なことではない。

今後の日韓関係改善に向けた提言

 日韓両国は、歴史的に一衣帯水の隣国として、また価値観を同じくする隣国として、「近くて近い」あるいは「近くてもっと近い」国になるように努めるべきだと思う。近年の厳しい東アジア情勢に鑑み、日米韓の連携の必要性は一層強く求められている。
 しかるに、最近の日韓関係は非常に悪く、修復の見通しが立たないほどである。確かに、外交上のパーセプションと市民実態との乖離はあるにしても、パーセプションが実態に影響を及ぼす恐れが少なくない。
 日韓関係の「トゲ(棘)」は、歴史認識に基づく感情である。(日本として)日韓関係を良くするには、韓国人の感情を理解することであって、少なくともこの感情を逆なでするような言動(とくに要人の「妄言」)は慎むべきだろう。過去に対する反省なくして、未来志向はない。ヴァイツゼッカー・ドイツ大統領(故人)の「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目になる」との発言は至言である。
 歴史認識、ことに従軍慰安婦問題はその象徴的存在になっており、さらにこじれにこじれている。この解決なくして、日韓関係の改善はない。だが、韓国側の言う、「関係者が納得できる前向きな措置」とは一体何であろうか。
 日本はいつまでも韓国に謝り続けなければならないのか、といった感情を抱く日本人は少なくない。これは韓国人の「恨」を考えれば、ある程度は仕方がないと観念しておくべきだろう。日本人は我慢してでも日韓関係の背景にある感情の問題を解決するように努力していかなければならない。
 他方、韓国側も反日を内政上の目的に使うべきではなく、かつ外交とは所詮、妥協、ギブ・アンド・テイクであるということを国民に周知徹底すべきである。
 韓国の民主化と共に、日韓間のトラブル処理が以前より難しくなってきているし、また世代交代により統治エリート層における日韓のパイプが細くなってきている。共通語である英語を通じて隣国のパイプを太くしてゆかなければならない。
 日韓関係の修復のために「やれることは(何でも)やっていく」と考えるのだが、首脳レベルはさておき(韓国は大統領の権限が非常に強いので、首脳レベルの対話は不可欠だ)、実務レベル、経済レベル、市民レベル等の交流は活発に行われており、これを益々広げていくべきだろう。

(2015年3月25日に開催された「21世紀ビジョンの会」での発題を整理してまとめた)

《主な参考文献》
・李東元『韓日条約締結秘話』PHP研究所,1997年.
・李東祚『韓日の和解―日韓交渉14年の記録』サイマル出版会,1993年.
・『時の法令別冊―日韓条約と国内法の解説』大蔵省印刷局,1966年.
・李庭植『戦後日韓関係史』中公叢書,1989年.
・李鍾元『東アジア冷戦と韓米日関係』東大出版会,1996年.
・木村幹『韓国現代史―大統領たちの栄光と蹉跌』中公新書,2008年.
・大西裕『先進国・韓国の憂鬱』中公新書,2014年.
・木村幹『日韓歴史認識問題とは何か』ミネルヴァ書房,2014年.
・服部龍二『外交ドキュメント 歴史認識』岩波新書,2015年.
・沢田克己『韓国「反日」の真相』文春新書,2015年.
・小倉和夫他(編著)『日韓関係の争点』藤原書店,2014年.

政策オピニオン
遠藤 哲也 元日朝国交正常化交渉日本政府代表
著者プロフィール
1935年徳島県生まれ。58年東京大学法学部卒。同年外務省入省。89年ウィーン国際機関日本政府代表部初代大使。93年日朝国交正常化交渉日本政府代表、95年朝鮮半島エネルギー開発(KEDO)担当大使、96年駐ニュージーランド大使等を歴任。その後、原子力委員会委員長代理、福島原発事故独立検証委員会委員等を経て、現在、日本国際問題研究所特別研究員、一橋大学大学院客員教授。専攻は、国際政治、外交、原子力。名誉法学博士 ( 米国デポー大学 )。主な著書に、「 北朝鮮問題をどう解くか 」など。

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