はじめに
今年(2015年)初めに、後藤健二さん、湯川遥菜さんが「イスラム国」によって殺害された(と見られる)事件があった。この事件以前にも、欧米人ジャーナリストが同じように頚動脈を切られて殺害される事件があったが、「イスラム国」が用いる斬首というやり方は、21世紀に生きる現代人にとっては非常にショッキングなものである。結果として、こうした映像を目にした日本人の多くが「『イスラム国』のやっていることはイスラームなのか?」という素朴な疑問を抱いたようだ。
こうした疑問について、特に日本に住むイスラーム教徒の間から「あんな所業は(正しい)イスラームではない」という主張が広範になされたこともあり、最近では日本政府も「イスラム国」がイスラームの代表であるかのように誤解されてはいけないということで、彼らを「ISIL」(Islamic State in Iraq and the Levant)と呼ぶことに決めたという。もともと「イスラム国」は国際的に承認された国家ではないことから、マスコミ等は以前からカギカッコつきで「イスラム国」と表記していたが、いまや彼らが国なのかどうかだけでなく、イスラームなのかどうかも問われている状況である。
とはいえ、言うまでもなく当事者(ISIL)は自分たちこそがイスラームの代表だと思っているから「イスラム国」を名乗っているのであり、しかも世界中から人が集まってくる現実を見ると、「ISILはイスラームではない」という言説を日本人がにわかに信じがたいのも確かだろう。
そこでここでは、ISILの思想はイスラームなのかという点について、イスラーム思想史の観点から解明してみたい。結論を先取りすれば、学問的に彼らの思想を「イスラームではない」と言い切ることは誰にもできないが、たとえそれが17億のイスラーム教徒のせいぜい1%以下に過ぎない、非常にマイナーな存在だとしても、ISILの現実が「衝撃的なイスラーム像」である以上、それをどう理解するかは重要であろうし、ISILの登場によって、イスラーム世界が新しいフェーズ(局面)に入ってきていることも事実と言える。
と言うのも、イスラームは大きくスンニー派とシーア派に分かれており、両派は今日でも対立を続けているように見えるが、専門家はこの状況を次のように説明してきた。すなわち、二つの宗派は互いに宗派が違うから対立する「不倶戴天の敵」なのではなく、実は対立の原因は別のところにある。例えばイラクの場合、オイルマネーの分配をめぐる地域間の争いがあり、たまたまそれが両宗派の多く住んでいる地域と重なり合っているために、一見すると宗派対立のように見えてしまう。けれども、対立の根底にあるのは経済問題等の利害対立であって、今日、両派の思想的な違いはほとんど対立の原因にならない、と。
ところがISILはいま、あえて宗派間の対立を煽ろうとしている。つまり、スンニー派のISILは、「シーア派は許せない」とあからさまに相手の宗派を憎むところからスタートするのである。もっとも、歴史的に見れば、今から数百年前のイスラーム原理主義運動に起源を持つサウディアラビアという国にはISILと共通する思想があり、これまでもスンニー派とシーア派の対立をエスカレートさせてきた。そこで話の最後では、サウディアラビアという「先輩」「同志」を引き合いにして、ISILの意味を再考してみたい。
1.ISILの思想はイスラームではないのか?
(1)ISILの特異性
図1は、ISILが出している電子マガジンDABIQの表紙だが、この写真はヴァチカンの教皇庁広場にISILの旗を立てることで、いずれヴァチカン・イタリアを含め、世界を征服するという彼らの意志を表現したものと思われる。
実はこの点が、9.11米国同時多発テロ事件を引き起こしたアルカーイダとISILの大きな違いで、アルカーイダはああいうテロを通して世界制覇を目論んでいるなどと誤解されたが、実は彼らの思想は、かつてイスラーム教徒が支配していた土地をもう一度自分たちのもとに取り戻そうというものでしかない。イスラームが歴史的にローマやイタリアを征服したことはないし、日本も同様で、ゆえにアルカーイダにはイタリアや日本を占領しようという発想はないのである。けれども、ISILは違う。
ISILは2014年6月29日に「カリフ制」の復活を宣言した。ほとんどのイスラーム法学者の一致した考えによれば、カリフがいないと侵略戦争はできない一方、カリフが指揮をとれば侵略戦争も可能になる。カリフ制を復活させなかったアルカーイダは、この思想に従って「防衛戦争」しか志向して来なかった。
例えば、スペイン(イベリア半島)はかつてイスラーム教徒が700年余りにわたって支配した地域であるが、その後キリスト教徒によって奪われたので、彼らはそれを奪回しようとする。ゆえにスペインで起こすテロは、アルカーイダにとっては(意識上は)「防衛戦争」という位置付けになる。
ところがISILはカリフを立てたがゆえに、(イスラーム教徒が一度も征服したことのない)イタリアまで征服しようという考え方が出てくる。ISILを見るときの政治思想上のポイントは彼らがカリフを立てたことで、それによって今までとは全く違った理屈で、自分たちの活動を正当化できるようになったのである。
(2)イスラーム原理主義とは何か
1)イスラーム法の大前提
イスラームは他の宗教と違って、政教分離を謳わない。イスラーム世界の大国で公式に政教分離を唱えているのはトルコとインドネシアくらいで、それ以外の大半の国は自称「イスラーム国家」である(例えば、憲法でイスラームを「国教」と定めたり、国家元首はイスラーム教徒でなければならないといった規定を置いている)。実態が政教分離に限りなく近かったとしても、大半の国々は自国を決して「政教分離国家」とは言わない。イスラーム原理主義を「イスラームを政治に反映させる運動」と定義するなら、イスラーム世界のほとんどの国々はイスラーム原理主義を自称していると言うことすら可能である。
イスラームの教えの根本である聖典クルアーン(コーラン)には、「親を敬え」などの道徳・倫理規範以外に、刑罰規定などの法規範も含まれている。それが、他の宗教とは違うイスラームの特徴だ。
ところで、クルアーンに定められた刑罰には2種類ある。
<固定刑(ハッド)>
・姦通⇒既婚者は石打(=死刑)、未婚者は鞭打100回、立件には証人4人が必要。
・中傷⇒他人の姦通を訴え出て証人4人を立てられない場合は、鞭打80回。
・飲酒⇒鞭打(40回?)。
・窃盗⇒右手、左足、左手、右足の順に切断。
・追いはぎ⇒斬首刑、磔刑、手足の交互切断、国外追放。
*背教&反乱(クルアーンに記載はなく、後の世に定められた)⇒撤回しなければ死刑
<同害報復刑(キサース)>
「目には目を、歯には歯を」
⇒殺人罪・傷害罪に適用。「血の代償(賠償金)」で済ませることも可。
もっとも、この同害報復刑は日本の「あだ討ち」とは違う。あだ討ちは当事者同士で行うが、イスラームの場合は、被害者あるいは(被害者に代わって報復できる立場の)遺族が加害者を捕まえる必要はなく、犯罪者の逮捕はイスラーム共同体の責任で行う。となれば、犯人逮捕のために何らかの組織が不可欠となるのであり、イスラームは宗教の理屈からして警察組織を必要とするのである。加害者を捕まえるのは警察で、刑罰の執行は、固定刑なら警察、同害報復刑なら被害者が行う。さらに言えば、警察組織を持つのは国家だから、イスラーム法を施行しようとすれば必然的に「イスラーム国家」体制が要請されるというのが古典的なイスラームの発想なのである。
西洋には、そもそもどうして国家などというものが必要なのかという政治論があるが、イスラームではそれを議論する必要がなかった。神の命令である刑罰を執行するために国家が必要なことは自明であり、政教分離という考え方は生まれる余地がなかったのである。
しかしながら19世紀以降、西洋列強が世界に進出するなかで、多くのイスラーム諸国でも西洋法が導入された結果、2015年7月現在、古典的なイスラーム刑法を一部でも実施している国は、サウディアラビア、イラン、スーダン、パキスタンの4カ国に限られる(イスラーム協力機構=OIC加盟国57のうちわずか4カ国)。これに加えて、国家以外ではターリバーンとISILが古典的なイスラーム刑法を施行している。
このようにイスラーム法がないがしろにされ、国家と社会が世俗化されてしまった現状を見て、イスラーム原理主義者は「それはクルアーンに反するのではないか」と疑問を呈する。言い換えれば、ISILが1400年前に定められた残酷な刑罰を今なお実行しているのは時代錯誤かもしれないが、それを「イスラームでない」と言うなら、サウディアラビアなどの4カ国も同列になり、イスラームではないことになってしまうという問題があるのだ。
2)非国家「イスラーム原理主義」の目的
非国家のスンニー派「イスラーム原理主義」が目的とするのは、次の二つである。
①古典的イスラーム法(の精神?)が支配するイスラーム国家の建設
前節で述べたように、イスラーム原理主義は基本的に、古典的なイスラーム法(クルアーン)の規定をそのまま実行する国家を目指すが、そこから少し退いて「イスラーム法の精神だけでも」と考える原理主義者もいる。と言うのも、例えばクルアーンの規定にある、姦通(=不倫)で死刑という量刑は現代の感覚からすると非常に重すぎると今日ではイスラーム教徒の多くが考えるため、なかなか支持が集まらないからである。
そこで一部のイスラーム原理主義者は、西洋法に姦通罪はなく、「売春罪として女性だけが処罰の対象となり、男性が処罰されないのは公平でない。神の定めた法に従って、男女とも処罰の対象とすべきだ。ただし死刑という量刑は重過ぎるので、そこは考慮する。罰金刑でもいいだろう」と主張する。「イスラーム法の精神だけでも」というのは、そういう考え方で、基本的には神の言葉であるクルアーンに従いながらも、刑罰と量刑については時代に合わせて変えていく。こうした解釈はある程度多くの信徒に受け入れ可能だろう。
図2は、ヨルダン大学の戦略研究所が2004年に実施したアラブ5カ国の世論調査で「イスラーム法(シャリーア)が唯一の法源であるべきだ」と回答した人の割合を示しているが、かなりの割合で支持されている。さらに「法源の一つであるべき」と考える人も含めると、どの国でも大半を占めることになる。
図3は同じ世論調査で、法の解釈は閉じられていると考える人(例えば、姦通罪は死刑という量刑は絶対に変更できないと理解している人)の割合は、非常に少ない。一方、先述したように時代にあわせて量刑などを解釈し直すことが可能だと考える人は非常に多い。
これらの調査から、イスラーム法の精神を活かしつつ、柔軟に時代の変化に適応していくという思想がアラブ社会に広く共有されていることが分かる。
②1924年にトルコが廃止したカリフ(預言者ムハンマドの代理人・後継者)制の復活
OICに加盟している57カ国がみな一致してこれを実現した場合には、世界の広大な地域を支配する、イスラーム教徒による強力な国家が出現することになる。
図4はISILが近い将来に支配しようとしている版図を示していると言われるものである。
ここでカリフの歴史を簡単に振り返ってみる。
632-661年 正統カリフ(都:マディーナ)
661-750年 ウマイヤ朝カリフ(都:ダマスクス)
750-1258年 アッバース朝カリフ(都:バグダード)
1261-1517年 アッバース朝カリフ(都:カイロ)
18世紀末-1924年 オスマン朝カリフ(都:イスタンブル)
632年にムハンマドが亡くなって以来、カリフ制はずっと続いてきたと言われる。もっとも、1517年にオスマン朝がカイロを征服して以降、「カリフ」は歴史史料にまったく出てこなくなる。カリフが再び史料に現れるのは、18世紀末にオスマン朝が戦争に敗れ、属国だったクリミア半島をロシアに奪われた後のことで、この時期から突然オスマン朝がカリフを名乗り始めた。すなわち、「1517年にエジプトを征服した際、アッバース朝カリフからカリフ位を禅譲された」と主張し、イスラーム教徒の多くはそれを信じてきたのである。
とはいえ、カリフになるにはいくつかの条件が具備されていなければならず、その中で最も重要な条件がクライシュ族出身ということなのだが、実はオスマン朝カリフはクライシュ族ではなかったため、この点で致命的な欠陥を抱えていた。
10世紀にイスラーム国家法の権威であるアル=マーワルディーという人が著した『統治の諸規則』(湯川武訳、慶応義塾出版会、2006年)には、次のように記されている。
「イマーム(カリフ)に選ばれるべき人々に課せられた条件は7つある。・・・・
(7)(正しい)血統(ナサブ)をもっていること。すなわちイマームは、クライシュ族の出身でなければならない。(中略)預言者ムハンマドは言われた。クライシュ族を指導者とせよ。汝らがクライシュ族を指導するなかれ」。
ちなみに、カリフを名乗るISILのA.B. アル=バグダーディー(1971- )は、真偽は別にして、「自分はクライシュ族だ」と主張している。他方で、サウディアラビアの王家は、アラビア半島出身であってもクライシュ族ではない。サウディアラビアはイスラーム世界の盟主として振舞ってはいるが、クライシュ族ではないのでカリフにはなれないのである。
3)ISILのイスラーム
ところで、ISILが主張する内容で、前述した「イスラーム原理主義」以外には何があるだろう(なお、ここでは宗教思想以外のISIL成立の背景については省略する)。
【参考】
①ISIL成立までの経緯
2003年にイラク戦争が始まった頃、アルカーイダ系のグループに属するヨルダン人のアル=ザルカーウィー(A.M. al-Zarqawi)らがイラクに入ってきて、後に「イラクのアルカーイダ」を名乗るようになった。彼らは元々外国人部隊だったが、米軍の爆撃によって徐々に幹部が殺されていく中、イラク旧フセイン政権の官僚(元バース党)や軍人が合流し始め、彼らがリーダーになっていった(イラク人の反米活動家中心の組織に衣替え)。
その後、米国の後押しでイラクにシーア派の移行政府および正式政府が誕生し、旧フセイン政権のスンニー派が排除されていく中で、反米・反シーア派色が前面に出てきた。
ところが2011年から13年にかけて、大きくフェーズが変わっていく。この時期、ISILは「反米」をほとんど主張しなくなり、むしろ反シーア派色を鮮明にしていった。シリアのアサド政権をシーア派と位置づけ、シリアに「イラクのイスラーム国」(「イラクのアルカーイダ」から名称変更)を名乗る人々が入って行き、反政府・反シーア派運動を展開。この段階では、米国はイランとの関係が悪く、シリアのアサド政権を倒そうとしており、ISILにとってもシーア派は敵であるから、米国と共闘しようというほどに反米色を後退させた。
2014年になってISILがイラクに侵攻し始めると、イラクでシーア派政府を後押ししていた米国との対立が再び始まる。こうした点をみても、ISILは反米一色のアルカーイダ系とは違い、反米、反シーア派の色を揺れ動きながら伸びていったのである。
②カリフ職復活宣言の意味
2014年にイラク国内で急速に勢力を拡大すると、6月29日にISILは建国宣言、カリフ職復活・就任宣言を行った。この時点でも、彼らの基本的なターゲットはシーア派だったと言える。
しかしながら、スンニー派でもISILに同調する国はなく、中には有志連合の一員として米国とともにISILを攻撃する国もあったことから、ISILにとっては、この戦いをどのような理屈で正当化するかが問題になった。彼らもイスラーム原理主義である以上、イスラーム法に基づいて戦争を正当化する必要があるからだ。そこで、彼らがカリフを立てたことが大いに役立つことになる。ISILは「カリフに従わないイスラーム教徒は反乱罪だ」という論理でスンニー派同胞の殺害を正当化できる唯一のイスラーム原理主義組織なのである。
ISILに身を投じようとする人間にとって、ISILがイスラーム法的な正当化もできずに、むやみに殺害ばかりするのでは、単なる「殺人者集団」になってしまい、その活動に共感することは難しい。しかしISILはカリフの復活によって戦いを正当化する理論を持つことができ、「われわれは正しいカリフのもとで、正しくイスラームを実践する団体だから集まれ」と呼びかけることが可能になった。イスラーム教徒はイスラーム教徒を傷つけたり殺してはいけないし、そういうことをすれば当然、傷害罪・殺人罪に問われる。イスラーム教徒を傷つけたり殺したりしても許されるのは刑罰を実行するときだけなのである。イスラーム法はもともと、イスラーム教徒同士の戦争を想定していなかったが、歴史の中で現実に戦争が起きたとき、それを正当化した理屈が<反乱罪>の適用だった。
「もしこのような叛徒の一団が、イマーム〔カリフを指す〕への服従を拒否し、彼らに課せられる諸義務を遂行せず、税を勝手に取り立て、独自に法を施行している場合、(中略)叛徒にたいする戦争が行われる。それは彼らが分派を作るのを防ぐためである」(前掲出『統治の諸規則』p.140)。
「もし彼ら(叛徒)が正しい人々を包囲し、正しい人々が滅ぼされる危険があるときは、正しい人々は自らを守るためできることは何をしても、たとえば彼らを殺したり投石器を使ったりしてもよい。なぜならば、正しいムスリムが自分の生命を狙われたとき、殺す以外に自らの命を守る方法がないときには、生命を狙う者を殺すことによって自らの生命を守ってよいからである」(前掲出『統治の諸規則』pp143-144)。
③奴隷制の容認
1400年前に下された聖典クルアーンには、当時の状況を反映して奴隷が登場するが、奴隷制は20世紀半ばには(イスラーム世界でも)完全に姿を消した。奴隷についてクルアーンに記されていても、それは未来永劫変わらないイスラームの教えではないと大半のイスラーム教徒が合意した結果だが、2014年頃からISILは奴隷制について言及し、導入まで始めたらしい。時代錯誤の印象は免れないが、それをもってISILは「イスラームではない」と決め付けることもできないのがイスラームの難しいところである。
なぜかと言うと、実はイスラームには宗教会議がなく、これがまたイスラームを分かりにくくさせている要因の一つでもある。宗教会議があれば、ある集団が正統かどうかについて明言することができるが、それが存在しないがゆえに、イスラームでは公式に異端(イスラームではないこと)が宣告されることはない。「イスラーム教徒ではない」と見なされて、墓地への埋葬を拒否されるのは、当事者が六信(注:イスラームの基本的信仰箇条で、アッラー、天使、啓典、預言者、来世、運命の六つの実在を信じること)を否定した場合くらいである。
④一夫多妻制について
イスラーム=一夫多妻制と考える人が多いが、宗教会議がないので、実はイスラーム教徒の間で、イスラームは一夫多妻を認めるという合意があるわけではない。
一般に一夫多妻の根拠とされるのはクルアーンの4章3節で、次のように記されている。
「もし汝ら(自分だけでは)孤児に公正にしてやれそうもないと思ったら、誰か気にいった女をめとるがよい。二人なり、三人なり、四人なり、だがもし(妻が多くては)公平にできないようならば一人にしておくか、さもなくばお前たちの右手が所有しているものだけで我慢しておけ、その方が片手落ちになる心配がなくてすむ」(クルアーン4章3節)。
これを根拠に、神は4人妻を認めているとされるのだが、実はこれには条件がついており、「公平にできないようであれば、一人にしておくか、さもなくばお前たちの右手が所有しているもの(=女奴隷)だけで我慢しておけ、その方が片手落ちになる心配が少なくてすむ」とも言われている。
他方でクルアーンには、「おまえたちがいかに切望しても、女たちを公平に扱うことはできない」(4章129節)とも書かれており、この両方をつなげて考えると、結局女たちを公平には扱えないという結論になることから、妻は一人だけにしておけという意味にも解釈できる。それゆえトルコやチュニジアなどでは、神の真意は一夫多妻制ではないとしてこれを禁止している。
また、日本ムスリム協会が出版している日亜対訳の『クルアーン』でも、4章3節の注釈で、イスラームは一夫多妻制ではないと述べられている。
ところが現実には、多くのイスラーム諸国では一夫多妻制を容認している。「神は完全・完璧であり、神が言い忘れたり無駄なことを言うはずはない」と考えるため、神がこれだけくだくだと述べていることの意味は、本当は4人まで妻をもらってもいいけれども、公平に扱うのは非常に難しいので、二人以上妻を持つ場合には、心して努力せよという警告であると解釈するからである。つまり4章129節は男性に対する警告のことばとして受け止め、一夫多妻制度を認めるのである。
⑤ジャーナリスト殺害の理由
2014年の夏頃からジャーナリストの殺害がISILによってなされているが、これに関する彼らの理屈はこうだ。世界はイスラームが支配する地域とそうでない地域に分かれていて、両者は基本的に対立関係にある。非支配地域の住民がイスラームの支配する地域に入るためには、「アマーン」という、今日でいえば入国ビザにあたる許可が必要になる。それを持たずにイスラームの支配地域に入った者は「不法入国者」に他ならず、その人の身の安全は保障されない。
ちなみに、1997年に日本人を含む60人ほどの外国人観光客がルクソールで殺害された事件があったが、そのときエジプトの過激派も同様の主張をしていた。
結局、欧米ジャーナリストが有効な(ISILの)アマーンをもっていなければ、ISILにとっては不法入国者の扱いとなる。不法入国者を有無を言わさず死刑にすることには問題があるが、今年1月の後藤さんたちのケースでは、当時の安倍首相の発言をISILに対する宣戦布告と見なして、彼らを法的に戦争捕虜扱いにしたと思われる。異教徒の戦争捕虜の扱いは、処刑または自分たちの捕虜との交換などの選択肢がイスラーム法に規定されているので、ヨルダンに捕われているISILの捕虜と交換することを選択したものの、それが拒否されたので処刑したという理屈なのだろう。要するに、イスラーム法的に処刑の大義名分を得たということだ。
このように見てくると、ISILは時代錯誤的なことをやってはいるものの、彼らなりにイスラーム法に則った手続きを踏んで行動していることが分かる。こうしたことからも、ISILがイスラームではないということは難しい。
2.どうしてイスラーム原理主義に惹かれるのか
ISILのやっていることは一見すると時代錯誤だが、神の言葉であるクルアーンの言葉を字義通り実行しているという点では、周囲に分かりやすいイスラームだと言える。イスラーム教徒の大半は、イスラーム生誕以来1400年以上が経過する中で、時代の変化に応じてさまざまな解釈を新たに産み出しながら進んで行こうとしているが、そういう解釈の革新に対して疑いの目を向けざるを得ない状況が、過去150年くらいの間に起こっている。
イスラーム教徒は19世紀に至るまで、基本的に欧州と互角かそれ以上の優勢な立場で戦ってきた歴史がある。すなわち、千数百年以上にわたってイスラーム教徒は、(キリスト教世界に対して)勝ち組だった。ところが、19世紀になると、欧州が帝国主義的な拡大をして世界を支配するようになる。そのとき彼らは、「どうしてイスラームは負けてしまったのか」と自問し、今後進むべき道を考えた。その答は大きく三つに分かれる(近代化への三つの道)。
(1)近代ヨーロッパのように政教分離を進める
主として欧米に留学したエリート・イスラーム教徒たちの考え方である。イスラーム教徒は伝統的に、神の命令に従えば栄え、逆らえば没落すると考えてきたが、彼らがヨーロッパに留学して分かったことは「欧米は神の命令に従っているわけではない。むしろ政教分離して(近代化して)いるから繁栄している」ということだった。そこから類推すれば、「神の命令に従っていれば栄える」というイスラームの信仰自体が間違いであり、(公言はできないが)イスラーム世界も欧米のように(近代化して)政教分離を進めようという路線が生まれた。
(2)「真のイスラーム」の発見と解釈の革新
イスラームの信仰を図式化して説明すると、神の啓示(クルアーン)は預言者を通してイスラーム教徒に伝達され、それに服従すれば報酬があり、不服従の場合は天罰を受けるという構造になっている。報酬とは、個人の場合「来世における永遠の天国」だが、共同体が神の命令に従えば繁栄し、逆らえば没落するとも考えられてきた。イスラーム誕生以来1200年ほどの間、イスラーム世界はキリスト教やユダヤ教勢力に大負けすることなく、おおむね勝ち組だったために、19世紀までこの考え方が揺らぐことはなかった。
神の言葉を最も忠実に記録しているのがクルアーンで、(ユダヤ教やキリスト教の聖典である)聖書は人間の解釈や手が入っているとイスラームでは考える。神はユダヤ教徒やキリスト教徒にもイスラームと同じメッセージを与えたが、聖書を作るときに人間の言葉を入れてしまったために間違いが生じた。しかるに、クルアーンには一切人間の言葉が入っておらず、啓示を完璧に保存しているがゆえに最大報酬がある。ユダヤ教、キリスト教の保存している神の命令は完璧ではないので、いくら真面目に命令に従ってもイスラームには勝てないと19世紀までは素直に信じられてきたのである。
ところが近代になって、イスラーム世界はキリスト教世界に負けてしまった。そこでその理由を考えた結果、得られた結論の一つが、この敗北は神の命令(意思)を勘違い、誤解したための天罰に他ならないという思想だったのである。そこから、もう一度イスラーム解釈をやり直して、「真(本当)のイスラーム」を発見すべきだという主張が生まれた。
(3)イスラーム原理主義
もう一つの結論は、これまで神の命令をさぼってきて、その罰としてキリスト教世界に敗れたのだから、反省してまじめにイスラーム法に従おうという考え方だった。イスラーム法を忠実に実行していこうとすれば、「イスラーム原理主義」になっていく。
これら三つの道の中で実際に力を持ったのは、ヨーロッパ化したエリートが推進した政教分離政策であった。ただし、それをストレートに表現すると国民の反発が予想されたため、エリートたちは政教分離さえも、イスラームを再解釈した結果新たに発見された「真のイスラーム」なのだと主張したのである(イスラームの政治利用)。
実は預言者ムハンマドが啓示を受け始めた初期に賜った神の言葉は、道徳的な内容ばかりだった。その後、マディーナに移って(ヒジュラ)、ムハンマドが政治や裁判をも司るようになると、政治や裁判にかかわる具体的な啓示を受けるようになる。この事実をもとに考えれば、イスラームはもともと政治をやるはずではなかったという解釈も可能なのである。「後にムハンマドがたまたま、政治や裁判をやらざるを得なくなったがゆえに、そういう法規定が入り込んだのであって、それらはイスラームにとって本質的なものではなかった。ゆえにイスラームの本当の目的は政教一致体制などではなく、むしろ政教分離こそ真のイスラームなのだ」と政教分離主義者は主張する。だが、このような主張に対しては、イスラームをなし崩しにするのではないかという疑念を抱く人たちも多い。
前二者の考え方に疑いを持った人々の中には、イスラーム法に忠実に従っていこうという真面目な考えの人も出てきて、それがイスラーム原理主義へと繋がっていった。ISILもその流れの一つと言えよう。
「イスラーム原理主義」というと、イスラームの初期に回帰していくようなイメージがあるが、必ずしも昔ながらの運動ではないということである。実際には、近代化を十分意識したイスラームの運動で、大塚和夫の言葉を借りれば次のように表現できる。
「イスラーム主義者とは、早いところでは19世紀後半から開始された西洋主導の『近代化』(多くの地域では「植民地化」という形をとった)の流れを十分に意識し、それからの影響をさまざまな形で被りながら、それでもあえてイスラームをみずからの『政治的』イデオロギーとして選択し、それに基づく改革運動を行おうとする人々」である(大塚和夫『イスラーム主義とは何か』岩波新書,2004年)。
3.サウディアラビアという先輩(影の同志)
シーア派を敵視する政策をもつという意味では、歴史的にISILにはサウディアラビアという先輩がいる。もちろん数百年という時代差があるから、同列に扱うことはできないが、ISILについて考える上で参考になるので、最後にサウディアラビアについて見ておこう。
サウディアラビアの歴史は、今日的な感覚で言えば「イスラーム過激派」以外の何者でもないムハンマド・ブン・アブドゥル=ワッハーブ(1703-92年)という法学者が18世紀にアラビア半島中部のナジュド地方でイスラーム純化闘争を開始した(1740年)ところにまでさかのぼる。彼らはクルアーンのいわゆる「勧善懲悪」思想に基づいて、実力行使を行った。
「神は、おまえたちが正しい道に導かれることをお望みになって、もろもろのみしるしを明らかにしたもうのである。人々を善に誘い、正しいことを勧め、醜悪なことを禁ずるよう、おまえたち一団(ウンマ)になって努めよ。これらの者こそ栄えるのである」(クルアーン3章103-104節)。
この聖句には解釈の幅がかなりあるが、特にイスラーム原理主義者は、悪いことをしている人を見たら実力を行使してでも止めさせるべしという意味にとらえ、そのためならある程度の暴力・武力行使は容認されると解釈する。
イスラーム純化を目指したワッハーブもそうした立場に立って、イスラームに反する行いをしていると彼が考えた人々に対し、実力を行使してでも止めさせるという運動を始めた。もっとも彼自身は、もともと一法学者でしかなく、二人の弟子とともにそうした運動を始めたものの、逆に命を狙われることもあったという。
1744年、彼らはリヤード郊外のダルイーヤ・オアシスの小豪族サウード家と同盟し、以後、武装闘争はサウード家が担当した。そして73年にはリヤードを征服し、さらにイラクに侵攻して、シーア派の指導者たちの聖廟を破壊する。ワッハーブに連なる人々はそれ以来、今日までシーア派に対する激しい憎悪と敵意を維持しているのである。
1932年にサウディアラビア王国を建国すると、同国政府はワッハーブ派の「過激派」色を薄め、スンニー派諸国とある程度協調していく道を選びつつ、ワッハーブ派宣教国家として各地の「原理主義」運動を支援する。一方、当時発見された原油を破格の好条件で買ってくれた米国との間でも親密な関係を構築してきた。この蜜月関係を反映して、1991年の湾岸戦争後には、米軍がサウディアラビアに駐留するようになったが、他方で9.11テロの実行犯の多くがサウディアラビア国籍だったという事実は、米国人に衝撃を与えるとともに、サウディアラビア政府と国民の間に横たわる、米国への意識のギャップを白日の下に晒すことになった。それは、サウディアラビアの歴史を象徴しているようにも見える。
そして今日もなお、サウディアラビアの外交の柱は、民主化の阻止とシーア派の敵視にある。例えば、チュニジアやエジプトの「アラブの春」に際しては、民主化の阻止に力を貸す一方、シリアとイラクにおいては、シーア派政権に対する武装闘争を支援している。
まとめ
ISILは基本的に、同志といってもいいほどサウディアラビアと(イスラーム思想的に)似た側面を持っていたが、2014年6月29日に建国宣言、カリフ職復活宣言をした時点で、カリフの資格を持たないサウディアラビア王家(非クライシュ族)と決定的に対立することになった。クライシュ族を自称するバグダーディーを中心とするISILは、カリフを奉ずるISILへの移住(ヒジュラ)を推奨している。さらにISILはカリフへの忠誠を推奨する。結果として、他のイスラーム原理主義者たちはカリフに従うか、ISILのカリフを否定して別の行動を取る(ISILと対立する)か、いずれかの対応を迫られることになった。
ISILが今後、劇的に支配地域を拡大していくことは考えにくい。現状をどれだけ維持できるかが、現実的な注目点だろう。とはいえ、米軍などによる軍事作戦でISILが滅びれば、それで即問題が解決するわけではない。シリアやイラクは、ISILが仮になくなったとしても、簡単に国がまとまるとは思えず、以後の平和構築、国家再建の道が極めて不透明でしかないからだ。そこに権力の空白地帯が生ずれば、またISILと同じようなイスラーム原理主義過激派組織が生まれないとも限らない。軍事作戦ばかりでなく、根本的な宗教的・思想史的なアプローチ抜きでは、真の解決は見えてこないと思う。
(2015年7月4日に開催された「平和政策フォーラム」における発題を整理してまとめた)