朝鮮半島の南北統一論とその展開

朝鮮半島の南北統一論とその展開

2016年9月5日

はじめに

 第二次世界大戦後、朝鮮半島に二つの国家が成立して以来、両国家は最終的な国家目標として朝鮮半島の統一を目指して、さまざまな南北統一論を主張しながら、その実現のために政策を展開してきた。朝鮮半島は米国・中国・ソ連(ロシア)・日本という四大強国と利害関係をもっているために、その地政学的な特徴から南北統一に向けた動きも四大強国と連動して展開することになる。それの例として朝鮮戦争があげられる。この戦争は武力により南北統一をはかろうとしたものであったが、それには米国を中心とした国連軍と中国の人民解放軍が参戦する国際戦争となった。このような地政学的特性を考慮すると、朝鮮半島の統一論の分析には、朝鮮半島を取りまく国際情勢の動向を加味する必要がある。そこで米中ロ日などの国際情勢と南北の国内情勢を併せてみながら、南北双方の統一方案とその実現のための政策を分析してみたい。

北朝鮮の統一方案とその展開

「連邦制統一案」
 北朝鮮の統一方案はこれまで一貫して「連邦制統一案」を主張してきた。建国以来、北朝鮮は世襲によって政権が維持されてきたことから、基本的に朝鮮半島の統一政策においても一貫したものであったのがその特徴である。その点では、政権によって統一政策に変化があった韓国とは大きな違いがある。
 北朝鮮が主張する「連邦制統一案」は、これまで3回提案されている。最初に提案されたのは1960年8月であった。この時の「連邦制案」は、「当分の間、南北の政治制度をそのまま据え置き、二つの政府代表からなる最高民族委員会を組織して、南北連邦制を作る」というものであった。そしてその実現のための政策として次の五方案を提示した。①外国の干渉を受けない民主主義的な基盤のもとで南北総選挙を実施、②総選挙の受け入れが難しい場合は、南北の連邦制の実施、③連邦制を受け入れるならば、実業界代表で構成した経済委員会を組織し、経済交流を実施しながら、並行して科学・文化・芸術・体育などの交流も進める、④米軍を撤退させ、南北の兵力を10万、あるいはそれ以下にする、⑤以上の話し合いのために南北代表が平壌、ソウル、板門店で協議する、というものであった。
 2度目の提案は1972年9月であった。「連邦制が実施されれば、南北間に、より広範囲な接触と往来が実現し、経済・文化の交流も一層円滑に実現できる。南北が経済的に合作し交流をおこなえば、共和国北半部の発展した重工業と豊富な地下資源を利用して、南朝鮮の経済状態をすみやかに改善することができ、南北朝鮮人民の生活に有益であろう」として、「連邦制案」が再び提議された。そして1973年6月には「祖国統一五大綱領」により統一政策の骨子を発表した。その内容は、①南北間の軍事的な対峙状態の解消、緊張緩和、②政治・経済・文化・外交・軍事など多方面にわたる合作と交流、③統一のための全民族的な範囲での対話と大民族会議の招集、④二つの体制を当分の間そのままにおき「高麗連邦共和国」という単一国号による南北連邦制の実施、⑤国連(UN)同時加入には反対、UN加入は連邦制実施以降とする、というものであった。
 3度目の提案は、1980年10月の第6回朝鮮労働党大会においてであった。この時、「高麗連邦制案」が提議され、具体的な骨子が発表された。その内容は次のようなものである。

 1 最高民族連邦会議の創設
 2 連邦常設委員会(常任機構)の組織(連邦国家の統一政府)
 3 連邦政府と地域政府との関係を区別する
 4 統一政府の任務は、政治・国防・対外関係など民族の全般的利益にかかわる共通の問題を討議、決定する
 5 地域政府の任務は、連邦政府の指導の下、全民族の利益と要求に合致する範囲内で独自の政策を実施する
 6 連邦国家の性格は、自主・民主・中立

 そして、「自主」とは、 それぞれの国の民族は自主性を保つことによってその民族の利益と願望に沿う政策ができる。「民主」とは、 それぞれ異なる思想と制度を認め合うことを基礎に、連邦形式の統一国家を築くには民主主義的な原則を貫くことが必須条件である。「中立」とは、どのような政治的・軍事的同盟やブロックにも加担しない中立国を意味する、というものであった。
 ところで、「民主」という言葉は、南北でその意味にかなり開きがある。例えば、金日成首相は「北半分に社会主義を建設してはじめて、民主基地をいっそう強化し、祖国の統一独立を促進することができる」(1955年4月、労働党中央委員会総会)、また「アメリカ帝国主義が追い出され、南朝鮮で人民民主主義革命が勝利し、人民が自己の手中に政権をにぎるようになれば、北半分の社会主義勢力と南朝鮮の民主主義勢力との団結した力によって、わが祖国の統一の偉業が達成されるであろう」1と述べているように、「民主」とは社会主義をベースにした「民主」である。また「自主」や「中立」とは、外部勢力に依存しない統一ということを意味するが、結果的にそれは韓国を米韓同盟から切り離すという政治的意図を含まれる点に注目する必要がある。
 さららに、北朝鮮は「連邦制」による統一の前提条件として、「韓国政治の民主化」と「在韓米軍の撤退」を提示していることからわかるように、北朝鮮の「連邦制案」は総じて「南朝鮮革命論」を意味するものであったといえる。

「連邦制」統一の提案と国際情勢
 北朝鮮が「連邦制統一案」を3回提案したが、その提案時期と韓国国内の情勢や朝鮮半島をとりまく国際情勢の変化をみると、そこには連関があることがわかる。

1)李承晩政権の崩壊(1960年4月)と「連邦制」の提案
 北朝鮮が「連邦制統一案」を最初に提案したのは、1960年8月であった。この時、韓国は李承晩政権が学生運動による「四月革命」によって退陣し、政情不安な状態だった。そのタイミングを狙って北朝鮮は、「連邦制統一案」を発表し、「南北総選挙による統一政府樹立」を呼びかけたのである。しかしその後、朴正煕少将が軍事クーデタにより政権を掌握し軍政が敷かれると、北朝鮮は「連邦制」を提案するとはなくなった。

2)米中和解(1972年)と「連邦制」の提案
 1972年2月、米国のニクソン大統領が訪中することで、朝鮮戦争において互いに戦った米中の和解が実現した。北朝鮮の後ろ盾であった中国と韓国の後ろ盾である米国が和解したことは、朝鮮半島における国際的力学関係が大きく変化することになった。
 北朝鮮の後ろ盾であったソ連と中国は、朝鮮戦争以降しだいに対立を深めた。中ソ対立の際、北朝鮮は朝鮮戦争に参戦してくれた中国につくことになるが、その中国がソ連を牽制するために米国と和解したのである。この結果、北朝鮮が国際的に孤立することになった。
 北朝鮮はこのような状況を打開するために、「南北共同声明」(1972年7月)の発表に応じ、韓国に歩み寄る動きをみせた。そして同年9月、北朝鮮は「連邦制統一案」を提議し、翌73年6月には「祖国統一五大綱領」を発表するなど、韓国に対して平和攻勢をかけたのであった。

3)朴正煕大統領暗殺(1979年)と「高麗連邦制」の提案
 1979年10月26日、朴正煕大統領が暗殺されると、直ちに戒厳令が敷かれ、 12月に全斗煥司令官が政権を掌握、翌80年5月の光州事件を経た後、大統領に就任した。(同年9月)。このような韓国の政治的混乱した時期に、北朝鮮は「高麗民主連邦共和国」の提案(1980年10月)をしたのである。
 このようにみれば、北朝鮮は韓国の政治情勢の不安定期、および国際情勢において北朝鮮が不利な状況に陥ったときに、南北統一を提案してきたという特徴があったことがわかる。

韓国の統一方案とその展開

李承晩政権(1948.7-60.4)
 李承晩政権の統一方案は「北進統一論」である。その基本的立場は、韓国政府こそが国連の承認を得た朝鮮半島の唯一合法政府であるというものであった。したがって、李政権は北朝鮮政府の存在を認めず、朝鮮半島北部地域の回復をはかることにあった。このような立場から李承晩大統領は、朝鮮戦争の休戦協定にも批准しなかったのである。

張勉政権(1960.8-61.5)
 張勉政権の統一方案の基本的立場は、①武力によらない平和統一、②まず(朝鮮戦争後の疲弊から)経済発展を優先させてから統一に向かう(先建設後統一論)、③韓国は国連が承認した唯一合法政府との立場から、国連決議による統一志向、というものであった。
 李承晩政権が崩壊した直後、北朝鮮から「連邦制」による統一が提案されたが、それに対して張勉政権は次のような声明を発表(1960年12月2日)して、北の提案を拒否している。
 1 1950年6月25日、韓国への不法な侵略を行って空前の民族的惨禍を招いた金日成の罪悪に対し、どのような処置をすれば、民族内部の敵対感情を緩和させ、統一への契機を促進することができると考えるか。
 2 統一問題は、権威ある国連の決議を尊重し、これに従うことが早道である。それがまた統一韓国のための有効な安全を保障することになるのである。これに対し金日成政権は、従来、一貫して否定的態度をとってきたが、かかる態度を捨てる用意があるのかどうか。
 3 大韓民国は国連の決議によって誕生したものであり、1948年12月9日の国連総会では、韓国における唯一合法政府として確認され、その後も国連によって支持されている。この大韓民国の主権に対し、北の政府が進んで承服することこそ統一を論ずる基本条件であるが、これを実行する用意があるかどうか。

朴正煕政権(1962.3-79.10)
 朴正煕政権の統一論は、米中和解(1972年2月)を前後して、その内容に大きな変化が見られる。米中和解以前は「勝共統一論」を主張して、北朝鮮を凌駕して統一をはかるというものであったが、米中和解を契機に韓国も「南北共同声明」(1972年7月)に応じ、南北が平和的な統一に向かうことを確認した。その後、朴正煕大統領は「敵対行為をとらない共産国家とは関係改善をはかる」という「平和統一外交宣言」(1973年6月)を行い、外交路線を転換して行く。この外交宣言は、後の「北方政策」に繋がる萌芽と見ることができる。
 このような韓国の外交路線の転換には、中国(中華人民共和国)の国連加盟(1971年10月)と米中和解(1972年2月)という朝鮮半島を取りまく国際情勢の変化があった。
 とくに、北朝鮮の後ろ盾の中国が国連の常任理事国になり拒否権を持つことは、国連において「唯一合法政府」と認められてきた韓国の立場を危うくする可能性があるとの認識がはたらいたのであろう。
 しかし、朴正煕大統領は直ちに北朝鮮との関係改善を進めようとしたのではなかった。朴大統領は、「統一そのものが70年代の問題というよりは、むしろ70年代は統一のためのわれわれの準備を完了する年代である」との発言に見られるように、統一のためには、まず韓国の経済力・技術力の発展を達成し、その後に統一を推進するという、いわゆる「先建設・後統一政策」を展開したのである。
 経済発展のためには外資の導入をはかることが必要であるが、当時の韓国は米国から毎年約2億ドルの援助を受けていたことから、それ以上米国からの資金導入は困難な状況であった。そこで日韓国交正常化を進めて、日本から資金を得ることを模索した。これが日韓基本条約締結(1965年)にともなう総額8億ドルの日本からの「経済協力金」であった。とくに日本からの技術支援によって浦項総合製鉄所が完成したことは、韓国の工業化の第一歩となった。これによって自動車の製造や造船が可能となり、韓国の経済発展の原動力となった。
 もう一つは、ベトナム戦争(1964-72年)に参戦することで、その代価として米国からの資金を得ることができた。さらに戦争に関連してベトナム特需が起きると韓国の財閥(三星、現代など)が優先して利益を得る道が開かれて、(韓国の経済発展をリードする)財閥が急激に成長していった。このような朴正煕政権の経済政策によって韓国は「漢江の奇跡」といわれる経済発展を遂げ、国力を蓄積した。その土台の上で、全斗煥政権や盧泰愚政権の統一方案やその実現のための「北方政策」が推進されることになる。

全斗煥政権(1980.9-88.2)
 全斗煥政権の統一方案は、「民族和合民主統一方案」(1982年1月)というものであった。その骨子は次のとおりである。 
 1 統一は民族自決原則に立脚して、民族全体の自由意思が反映される民主的な手続きと平和的な方法によって成就されなければならない。
 2 北朝鮮に対し、南北統一を達成するための統一憲法草案を検討する民族統一協議会設定を提案する。
 3 「南北間基本関係に関する暫定協定」の締結を呼びかける。またこの「暫定協定」の主な内容は次のとおりである。
  1) ソウル・平壌に常駐代表部を設置する。
  2) 互恵平等の原則に立脚した相互関係の維持
  3) 紛争問題の平和的解決
  4) 内政不干渉
  5) 休戦体制の維持
  6) 相互交流と協力
  7) 双務的および多者間の国際条約と協定の尊重

盧泰愚政権(1988.2-93.2)
 盧泰愚大統領は、「韓民族共同体統一案」を提示した。その主な内容は次のとおりである。
 1 北朝鮮は、国が開放へ動き出しながらも、革命路線に執着するという両面性をもつことから、北朝鮮を対話と協商の場に誘導する。
 2 二つの体制が連合して一つになる南北国家連合をめざす。
 3 基本原則は、自主・平和・民主である。
 4 統一国家の目標は自由民主主義体制である。
 そして、「民族共同体」実現に向け次のような三段階の統一過程を構想した。

 <第1段階>南北協力段階
 ・南北二体制が実存する現実を認める。
 ・南北間の交流・協力と平和定着の制度化を協議する。
 ・南北間の相互承認は、南北の頂上による「南北間基本関係に対する暫定協定」を締結することによる。
 ・暫定協定の締結により、双方の閣僚級代表で構成される「南北共同委員会」を設置し、合意事項を実践する。

 <第2段階>南北連合段階
 ・双方が合意する憲章に基づいて南北社会を一つに統合しながら、統一国家樹立のための準備作業を推進する段階。
 ・南北双方の住民代表で「民族統一協議会議」を  構成し統一憲法草案を作成し、諸般の統一への  手続きを協議する。

 <第3段階>南北統一段階
 ・南北が完全統一を実現する。
 ・統一憲法草案は国民投票を通じて確定公布し、この憲法によって総選挙を実施し、統一政府と統一国家を樹立する。
 ・統一国会は上下両院制にする。
 ・共同事務所は非武装地帯内(平和区域を指定)に設ける。

「北方政策」とその成果
 全斗煥政権と盧泰愚政権の統一方案を実現するための国際的環境を造成するために、両政権を通じて行われた統一政策が「北方政策」であった。
 この「北方政策」は外交政策と経済政策の二つの側面からみることができる。外交政策とは、南北の平和的統一を実現するための国際的環境を整える政策であった。これは盧泰愚大統領が発表した「南北統一問題に関する特別宣言」(1988年7月7日)から確認できる。
 すなわち、北方外交とは「朝鮮半島の平和を定着させる条件を造成するために、北朝鮮が日本・米国等、わが友邦との関係を改善するにおいての協力を行なう用意があり、わが方はソ連・中国をはじめとした社会主義国との関係改善を追求する」というものであった。
 これは韓国が、北朝鮮の後ろ盾である中国・ソ連との国交正常化をはかり、北朝鮮を国際的に包囲することによって南北共存体制へ誘導しようとするものであった。(詳細については、「IPP分析レポート」No.4「東アジアと朝鮮半島―南北統一を目指す韓国北方外交の成果と現在」を参照のこと)
 北方政策の経済政策とは、経済力で有利な立場の韓国が南北経済交流を推進することによって、北朝鮮経済の韓国依存化をはかることである。当時、北朝鮮の後ろ盾であった中国とソ連は経済的に厳しい状況にあり、北朝鮮にたいして十分な援助ができなかった。さらに国際的孤立化が進むなかで北朝鮮は、韓国が提案する「南北経済交流」を拒むことができなかった。
 このように韓国は、外交と経済の両面で北朝鮮を韓国との対話の場に引き出すことに成功し、1991年12月、「南北基本合意書」が締結され、南北共存体制が構築されたのであった。
 ところで、この「北方政策」は南北統一のみならず、東北アジア経済共栄圏の構築までも構想したものであった。盧泰愚大統領の回顧録によると、北方政策には3段階の構想があったという。第1段階は、社会主義国(東欧、ソ連、中国)との国交樹立、第2段階は、「南北基本合意」の締結にみられるような南北共存体制を確立する段階、そして第3段階は、韓国民族の生活文化圏を北方に拡大するというものであった。
 第3段階について、盧泰愚大統領は次のように回顧している。
 「仁川国際空港、KTX高速鉄道なども、基本構想はこのような北方政策を元にして用意されたものである。…高速鉄道の基本構想は、釜山からソウルを経て、平壌・新義州・シベリア・ヨーロッパまで連結することである。…私が日本の国会で‘日本から釜山まで海底トンネルで来て私たちがともに肩を並べていこう’と演説したのも、まさにそのような構想を含んでいたのである」2
 盧泰愚大統領は、日韓を海底トンネルで結び、高速鉄道網を通じて日韓の経済力・技術力を北朝鮮に拡大させることで、南北の経済格差を解消し、さらにこれを中国東北地方(旧満州)からロシア沿海州まで広げ、朝鮮半島の統一のみならず、東北アジアの経済共栄圏を築こうとしていたのである。
 さらに、盧大統領は、この構想実現のためには、インフラ整備だけではなく、人材を集積する必要から、この地域(朝鮮半島、中国東北地域、ロシア沿海州、日本など)に居住している韓(朝鮮)民族に注目した。特に、盧泰愚大統領は、かつて沿海州に住んでいたが、スターリンによって中央アジアに強制住させられた30万人ほどの朝鮮族を東北アジア共栄圏建設の人材にすべく、エリツィン大統領との首脳会談(1992年11月)で、中央アジアの朝鮮族の還元移住を提案している。盧大統領の回顧録には次のようにある。
 「満州に200万の韓民族が住んでいるし、ロシア沿海州に元来30万同胞が住んでいたが、中央アジアに追い出されてしまった。これを私が引き集めようとした。この問題をもってエリツィン大統領と談判したが、「それだけは聞いてあげられない。」と言った。なぜか。少数民族が立ち上がって連邦が割れ、今も民族主義を叫んでいるのに、これを許可すれば、他のところに刺激を与えるからだめだということだった。それで、私が「沿海州開発は大韓民国を発展させることではなく、あなたの国を発展させることではないか。豊富な地下資源をもった凍土の土地をそのままにしておくことに何の意味があるのか。我々に何か侵略の意図があると考えているのか。」このような話までした。…「沿海州を発展させるのに人が必要ではないか。技術者と労働者、経済を引っ張ってくれる資本家がいないといけないが、どうするつもりか。そこにいる我々の同胞が必要だ。」と言ったら、あとでエリツィンが「集団ではだめだが、個別に行くことは邪魔しない」と、このようにまで話が進展した。」(「盧泰愚の肉聲回顧録」)
 東北アジアは、中国やロシアなど強国の利害が衝突する地域である。このような地域に共栄圏を築くにあたっては、地域連携の人的媒体として、この地域全体に居住している韓(朝鮮)民族の結集をはかろうとしたことは注目にあたいする。

金泳三政権(1993-98)
 金泳三政権は、「韓民族共同体三段階統一方案」を提唱した。これは南北関係を段階的に改善し、最終的には「一民族、一国家、一体制」の統一国家の樹立を目指すものである。
 第1段階:「和解・協力」
 南北が敵対と不信、対立関係を清算し、相互信頼の中に南北との和解を制度的に定着させる。
 第2段階:「南北連合」
 一つの完全な統一国家建設を目標としてこれを追求していく過程で、南北が暫定的な連合を構成して南北の間で平和を制度化し、民族共同生活圏を形成して、同時に社会的・文化的経済的共同体をなしていく過度的統一体制を築く。
 第3段階:「一民族・一国家」
 南北の合意によって法的・制度的装置を体系化し、南北が共同で構成する機構で国家統合のための多様な法案等を論議する。南北首脳会議・閣僚会議を常設化する。
 この方案は従来、金泳三大統領が提唱してきた「三段階統一方案」を修正して、盧泰愚政権の「韓民族共同体統一方案」を融合させたものであり、盧泰愚政権の統一方案の基盤の上に生成されたと言えるほど共通する部分が多い。しかし、統一方案を実現するにあたっての政策、特に外交政策においては盧泰愚政権とは大きく違っていた。
 彼は、統一実現にあたって、北方政策のような朝鮮半島をめぐる大国の力学関係(国際的枠組み)よりも南北の民族の枠組みを重視した政策に固執した。例えば、北朝鮮による核拡散防止条約(NPT)脱退宣言(1993年3月)を契機として、北の核問題が米朝間のみで交渉が行われることに疎外感を感じ、米朝交渉を阻害するような政策をとったのである。当時、米国の朝鮮半島担当官であったケネス・キノネス氏は「金泳三大統領は、核問題の解決よりも米朝関係の進展を妨げることの方が重要であるかのように振る舞っていた。…彼は、朝鮮半島の緊張が高い時は、米韓防衛同盟に庇護を求め、緊張が緩和すると、米朝交渉に対するソウルの主導権を主張しようとした。」3と回顧している。
 当時、北朝鮮は半島における国際的関係が韓国に有利な状況を打破するために米朝との関係改善を模索していた。核開発問題をめぐる米朝交渉もそれ実現するためのものであり、米国に対して「新しい平和保障体系」構想を提案(1994)したのも米朝国交正常化を目的としたものであった。朝鮮戦争における休戦協定(1953)が平和協定に改変されれば、米朝の国交正常化のレールが敷かれることになるからである。
 このように北朝鮮は米朝の関係改善を模索する中で、米朝交渉の進展を妨げるような政策とる金泳三政権下では南北関係の進展はなかった。また、大国の利害と影響を受ける朝鮮半島にあって外交を重視しない政権では内政も大きな影響を受けることになった。金泳三政権末期、韓国はアジア通貨危機(1997)により国内経済は破綻し、韓国の外貨保有高が39億ドルに対して債務額1,500億ドルにもおよび、国際通貨基金(IMF)の支援を受けることになる。

金大中政権(1998-2003)
 金大中政権の統一方案は、「三段階統一論」である。これは次のような3つの段階を経て統一を実現しようとするものである。
 第1段階:一民族、二国家、二体制、二独立政府
 南北の二つの独立国家が互いに異なる体制を維持したままで国家連合を形成する。
 第2段階:一民族、一国家、一体制、一連邦政府、二地域自治政府
 一つの体制の下に、外交・国防と主要な内政を中央政府が管掌し、それ以外の内政は二つの地域自治政府が担当する。統一憲法に従って連邦大統領を選出し、連邦議会を構成する。
 第3段階:完全統一
 この統一方案は北朝鮮の「高麗連邦制統一案」と非常に酷似しているところが特徴である。

盧武鉉政権(2003-07)
 盧武鉉政権は、「平和繁栄政策」の統一方案を提示した。この方案の目標は、韓国と北韓の共同繁栄を実現し、北東アジア地域の共同繁栄を追求するものである。この政策の推進原則として①対話を通じた問題解決、②相互信頼優先と互恵主義、③南北当事者原則に基づいた国際協力、④国民と共にする政策を掲げ、推進戦略として、①北韓の核問題の平和的解決、②韓半島平和体制の構築、③北東アジア経済中心国家の建設の三つを実現するものであった。

太陽政策の展開とその意義
 金大中政権は、「三段階統一論」による南北統一を実現するための政策として「太陽政策」を推進し、これはまた盧武鉉政権にも受け継がれた。この政策は、南北統一を実現するにあたって、韓国は西ドイツのように経済力が大きくないため、東西ドイツのような吸収統一という形ではなく、漸進的に統一することが朝鮮半島を安定的に統一する方法であるとの考えに基づいている。そのためには南北の経済格差を緩和する必要があり、韓国は平和共存・平和交流・平和統一の原則の下で、北朝鮮を積極的に支援する必要があるという立場から経済支援を推進したのである。
 金大中大統領は2000年6月、南北首脳会談を実現し、北朝鮮の経済再建のために開城工業団地の建設に合意をする。これは韓国企業の経済力と技術力を北朝鮮に移転し、北朝鮮の自立経済を再建するところにあった。そしてこの合意を実践したのが盧武鉉政権であった。
 開城工業団地の操業は、2004年12月に開始され、進出した韓国企業は124社にものぼり、そこで雇用された北朝鮮の労働者は5万人以上にものぼった。2004年から2012年までの工業団地における累積生産は19億7000万ドルとなり、これは北朝鮮の3度の核実験が行われても閉鎖されることはなかった。
 ところで、太陽政策は金大中政権と盧武鉉政権によって推進されたが、金大中政権の太陽政策と盧武鉉政権のそれとは外交政策において大きな違いがあった。
 金大中大統領は大統領就任の演説で「南北問題解決の道はすでに開かれております。1991年12月13日に採択された南北基本合意書の実践がすなわちそれであります。…南北間に交流と協力が成し遂げられた場合、我々は北韓がアメリカ、日本など我々の友邦国家や国際機構との交流・協力を推進するのを支援する用意があります。」と述べている。彼は、北方政策によって実現された南北基本合意書の実践4と盧泰愚政権時に実現できなかった米朝と日朝の国交正常化5を推進しようとした。すなわち、金大中政権の太陽政策は北方政策を継承発展、あるいは補完しようとする形で推進されたのである。さらに、金大中政権の太陽政策の実践にあたっては日米韓の連携が強化されたことが特徴である。金大中大統領は、「世界の歴史をみても文化鎖国をして栄えた国はない」として、韓国において日本の文化開放を実現させるなど日韓関係の連携強化をはかった上で米朝、および日朝の関係改善を試みた。南北首脳会談において、金大中大統領が「アメリカと関係を改善すれば、北朝鮮も韓国のように豊かになれる。そして10年、または20年後にお互いが納得できた時に統一しよう。」と発言したことや、「私が日本の首相と会談したとき、日本は北朝鮮と関係を改善したいと言っていましたと金総書記に伝えると、それは有り難いと伝えてくださいと話していました」6と言うようなやり取りからも、金大中大統領が米朝と日朝の関係改善の斡旋を強く試みていたことがわかる。
 これに対して、盧武鉉政権は太陽政策を推進するにあたって「バランサー国家論」を展開した。これは、韓国が東北アジアの基軸国家として、日米中露におけるバランサーの役割を果たそうとする国家構想である。このような日米中露への均等外交は、結果的に同盟国である米国や友好国である日本との関係悪化を生む要因となった。盧武鉉政権は、南北統一を実現のために朝鮮半島の平和体制の構築を掲げ、その実現のために米朝と日朝の国交正常化の支援を通じた新しい国際環境を造成することを目指したが、「バランサー国家論」外交によって韓米と日韓の関係悪化をまねき、平和体制構築の実現に大きな成果を生むことは出来なかった。

南北統一と中朝関係
 金大中政権は、核開発やミサイル開発を行う北朝鮮になぜ経済支援を推進しようとしたのであろうか。それは南北統一するにあたって中朝関係の動向が無視できない状況であったことがあげられる。
 これまでの中朝関係を見ても分かるように、中国は北朝鮮がいくら核実験やミサイル発射を行っても決して経済支援をやめることはしなかった。そこには中国にとって北朝鮮の存続は自国の安全保障に直結する問題であったからである。これは朝鮮戦争における中国の動向を見ればよくわかる。
 中国が朝鮮戦争に参戦した理由として、柴成文・元駐朝臨時大使代理は「アメリカが38度線を越えなければ、中国は参戦しなかったでしょう。我々は警告したのにアメリカは38度線を越え前進したのです」と述べている。また杜平・元中国義勇軍政治部主任は、「アメリカは朝鮮侵略を通して中国を威嚇していたのです。それはかつて日本が来た道と同じでした。唇滅べば歯寒しという諺通り、朝鮮が滅べば中国の安泰は得られなかったでしょう」と述懐している。7もし北朝鮮が崩壊すれば、中国は鴨緑江を挟んで直接米国と対峙することになり、これは中国の安全保障にかかわる問題と認識したのであった。このような中国の認識は現在もかわらないのであり、それを重視したのが金大中大統領であった。金大統領は、「北朝鮮がアメリカの影響下に入ってアメリカの力が韓国と同時に鴨緑江まで北上したらどうしますか。それは中国の国益にとって深刻な問題です。私は中国が北朝鮮との関係を悪化させることはまずないだろうと思っています」8 という発言はこれを裏付けるものである。
 このような認識から、金大中大統領にとって2000年代に入り急激な経済発展を遂げた中国が北朝鮮との貿易量を急増させている状況は看過できないことであった。中朝貿易が増加すればするほど、北朝鮮経済は経済力の強い中国に依存することになり、やがてそれは北朝鮮が中国の影響圏に吸収される可能性を生み、やがて南北統一の枠組みが崩れることに成りかねないからである。特に、拉致問題や核ミサイル問題に伴う経済制裁の影響によって日朝貿易が2002年以降減少し始めたことは大きい。北朝鮮にとって、この減少分をどこかで補わなければ成らなくなり、それは中国ということであった。これが2002年以降、中朝貿易が急増する要因となった。金大中大政権の太陽政策、すなわち北朝鮮に対する経済支援は、南北間の貿易を増やすことで、北朝鮮経済が中国の影響圏に入るのを食い止め、南北統一の枠組みを維持しようとする意図をもつものであった。しかし、韓国と中国の経済力からもわかるように、南北間の貿易だけで中朝貿易に対抗し、中国を牽制することは現実には困難であった。金大中政権はそれを補うべく米朝関係および日朝関係改善に積極的に乗り出したのであった。当時の丁世鉉統一部長官が「中国が北朝鮮に圧力をかけて、従わせようと考えているのかもしれませんが、北朝鮮がそう簡単に従うとは思えません。また北朝鮮が米国に屈服するようになるまで中国が手をこまねいて見ているということもありえません。そうなると、米国と中国の政治的な摩擦の中で南北の関係も複雑になり、南北統一にも支障をきたすでしょう。不安定な状況が続くのではないかと思っています。だからと言って我が国韓国が、中国と北朝鮮の経済関係を断ち切ることは出来ません。米国と北朝鮮の関係が良くならない限り、南北統一は難しいと考えています。」9と述べていることからも確認できる。

李明博政権(2008-13)
 李明博政権の統一方案は、北朝鮮がまず核を放棄すれば全面的に支援するという「非核・開放・3000」構想というものであった。「非核・開放・3000」構想は、①東北アジアの核廃棄の段階的対応政策、②新東北アジア経済協力構想など資源外交方案を提案、③北朝鮮経済協力の「条件(核廃棄)と対価(経済協力協定締結)」を通じて北朝鮮の核廃棄を最優先で解決などを掲げ、北朝鮮の非核化決断の前提の上で、経済・教育・財政・インフラ・生活向上など5大重点プロジェクトを推進し、10年以内に3000ドル経済を実現させ、南北統一の基盤となる南北経済共同体を造成するという構想であった。しかし北朝鮮にとって「核」は米朝交渉に実現するための切り札であったことから、「核放棄」という前提自体が受け入れられないものだった。したがって、李明博政権おいては南北関係の大きな進展は見られなかった。

朴槿恵政権(2013-)
 朴槿恵大統領は、「北東アジア平和協力構想」を掲げ、韓半島信頼プロセス、北東アジア平和協力構想、ユーラシア協力拡大の三大構想のもとに、旧東ドイツのドレスデンで「平和統一構想」を発表した。「北東アジア平和協力構想」とは「信頼外交を北東アジアに適用し、信頼が不足しているこの地域に信頼を構築していくための取り組みです。北東アジア平和協力構想と韓半島信頼プロセスは、朴槿恵政権が進めている信頼外交の重要な柱です。同構想の推進過程で南北間の信頼が構築され、韓半島に持続可能な平和が定着すれば、統一韓半島は北東アジア地域における安全保障の脅威を緩和させ、周辺国に平和の配当(peace dividend)と経済的利益を提供し、北東アジア地域に莫大な利益をもたらすことになります。北東アジア平和協力構想を通じて域内各国間の信頼が構築され平和が増進されれば、ドレスデン構想が目指す韓半島統一を早めることにも繋がる」10というものであった。
 このように朴槿恵政権の外交の基本は「信頼外交」であった。南北間に信頼が生まれて初めて南北の交流が推進できるというものであり、これは各国に対しても適用されるものであった。ところで、「信頼外交」とは逆に言えば、相手国に信頼がなければ相手にしないということにもなり、それでは関係改善が一歩も進まないことになりかねない。そもそも外交とは、北方外交がそうであったように、信頼のおけない国を信頼できるように誘導し、追い込むことである。朴槿恵政権は日本とは歴史問題で信頼できないとして、長らく首脳会談も行われず日韓関係の悪化を生む結果となった。
 ところで、朴槿恵政権の南北統一政策における外交的特徴は、日韓関係の悪化と中国重視政策をとったことである。朴槿恵大統領は、南北統一のためには北朝鮮に最も大きな影響力を持っている中国との関係を重視した。2015年9月に行われた中国の「抗日戦勝70周年記念式典」に参加したことや中国主導で設立されたアジアインフラ投資銀行への参加をいち早く表明したことがこれを物語っている。また中国にとっても核実験やミサイル発射を行う北朝鮮を牽制するためにも韓国の連携を重視したものと思われる。
 しかし、北朝鮮は1991年以降一貫して、米朝、日朝との関係改善を模索し続けており、このような中国重視の韓国外交を牽制し、かつ米国との対話を引き出すために、2016年1月、2月と4回目の核実験やミサイル発射を行った。この時、朴槿恵政権は中国に対して北朝鮮への圧力を要請したが、中国の態度は消極的であった。この中国の対応は、韓国のこれまでの中国重視の政策を転換させる契機となった。韓国は北朝鮮に圧力をかけるために米国との関係を重視し、中国の反対を押し切って高高度防衛ミサイル(THAAD)の導入を決定(2016年7月)した。また、このことによって中国と北朝鮮の外相会談(2016年7月)がもたれるなど、中国は北朝鮮との接近を模索するに動きをみせている。
 また朴槿恵政権は、北朝鮮に独自の経済制裁を加えるとして開城工業団地の閉鎖を決断した。これは長期的に見れば、北朝鮮経済を中国の影響圏に押しやることになり、金大中政権において危惧された南北統一の枠組みが崩れる恐れがあるのではないか。経済制裁の一方で北朝鮮を日米韓の影響圏へ誘導し、その中で変革させるレールを準備することも重要ではないだろうか。

 

【注】
1 金日成『南朝鮮革命と祖国の統一』未来社, pp404~405, 1970.
2 「盧泰愚の肉声回顧録(1)」(『月刊朝鮮』1999年5月)
3 ケネス・キノネス『北朝鮮』 pp286, 334. 中央公論新社 2000年.
4 金大中大統領は、南北首脳会談(2000年)における南北共同宣言において、基本合意書の有効性を確認し、金大中政権の連合制案と北朝鮮の連邦制案に共通点があることから統一を目指すことで合意している。
5 北方政策は、「南北統一問題に関する特別宣言」(1988年7月7日)の6項に「朝鮮半島の平和を定着させる条件を造成するために、北朝鮮が日本・米国等、わが友邦との関係を改善するにおいての協力を行なう用意があり、わが方は、ソ連・中国をはじめとした社会主義国との関係改善を追求する」に示されたように、韓ソと韓中の国交正常化のみを追求したのではなく、併せて米朝と日朝の国交正常化を実現(クロス承認)することで南北統一の国際的環境を造成しようとするものであったが、盧泰愚政権では米朝、日朝の国交正常化はなされなかった。
6 NHKスペシャル「キム ディジュン 大統領時代を語る 」2005年6月.
7 NHKスペシャル「朝鮮戦争-冷戦の悲劇・38°線-」1990年8月.
8 金大中大統領へのインタビューより,「北朝鮮核実験以後の東アジア」『世界』764号, 岩波書店, 2007年.
9 NHKBS「北朝鮮~中国経済支配の実態~」韓国KBS製作 2006年11月.
10 『北東アジア平和協力構想』MOFA韓国外交部 2013年11月.

政策レポート
浅井 良純 平和政策研究所客員研究員

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