はじめに
昨年12月に米国のトランプ政権は第2期政権発足後初となる「国家安全保障戦略(National Security Strategy: NSS)」を公表したが、その内容が世界に大きな衝撃を与えている。今年1月早々に米軍が実施したベネズエラの大統領拘束のための奇襲作戦も、この文書に示す戦略を実行に移したものである。
そこで、今回の国家安全保障戦略の内容を分析、その特徴やこれまでの米国の戦略との相違や問題点、そしてトランプ政権が進めつつある世界戦略は如何なるものか、これまでの経緯や実態、それに今後の動向を眺めるとともに、同戦略の構想が日米関係や日本の安全保障政策に及ぼす影響とそれに対し日本が採るべき政策についても触れてみたい。
まず初回は、国家安全保障戦略が戦略上最も重視する「西半球」に対するトランプ政権の政策について取り上げることにする。
1.2025NSSのポイント
米国のトランプ政権は2025年12月4日、外交、軍事政策の指針となる「国家安全保障戦略」(2025NSS)を公表した(図表1参照)。「国家安全保障戦略」は、時の米政権が外交、経済、軍事などさまざまな分野にまたがる安全保障上の優先事項を包括的に明示するもので、大統領のもと国家安全保障担当の補佐官と国家安全保障会議(NSC)のスタッフが取り纏めるとされ、米国の戦略に関する最上位の文書に位置づけられている。2025NSSは第2期トランプ政権の発足後初の国家安全保障戦略である。トランプ政権による安保戦略策定は、第1期政権下の2017年以来で2回目。
2025NSSは全文29頁からなるが、各論に踏み入る前に、まずNSS全体を通しての特徴を指摘しておきたい。それは以下の5点に集約できるが、いずれも「米一国主義」とも呼ばれるように何よりも米国の国益を最優先するトランプ大統領の政治信条を踏まえたものである。
①同盟国に負担分担割合の拡大を強く要請
②米国の政治的伝統であるモンロー主義の継承・発展
③戦略の最優先順位が「インド太平洋」から「西半球」に変化
④イデオロギーや価値観よりも経済利権の獲得を重視
⑤中国に対する政策姿勢の変化:敵対・勝利から抑止・現状維持に
まず①については、「戦略の優先事項」において「負担分担と負担転嫁」を掲げ、「米国がアトラスのように世界秩序全体を支えてきた時代は終わった。 我々の数多くの同盟国・パートナーには、数十もの富裕で洗練された国家が含まれており、それらは自地域に対する主要な責任を担い、集団防衛への貢献を大幅に増やさねばならない」と述べ、欧州やアジア太平洋など特定の地域に限らず、世界的なレベルにおいて、同盟各国に対し負担の増大を強く求める方針であることを明確に宣言している。
②については、2025NSSではモンロー主義への「トランプの系論」という表現を用いているが、米国の政治的伝統であるモンロー主義を継承しつつ、現在の政治状況を踏まえトランプ政権として新たな政治目標を付与している。トランプ版モンロー主義の宣言と言える。
それを具体的に述べたのが③である。即ち「米国がこれまで、同盟国の防衛コストを過度に担い続け、国益に無関係な紛争にまで巻き込まれてきた」として、まずは自国の防衛に立ち返ると指摘したうえで、モンロー主義的な立場から、米本土と並び近隣の西半球の安定を維持する必要があるとして、軍事力の配置見直しや麻薬対策の強化に取り組むなど南北米大陸に対する他国の干渉を許さないとの考えを強調している。即ち、これまでの国家戦略において最も重要な地域としていた「インド太平洋」が今回の2025NSSでは「西半球及び本土」に置き換わったのである。
④については、これまでの「国家安全保障戦略」をはじめとする米国の外交や安保政策に関わる文書においては、自由と民主主義の政治理念や自由貿易の重視、開放的な国際秩序の維持構築など国際社会の在り方や目指すべき世界の方向について米国の価値観を高く掲げ、その実現を目指す考えであることが強調されるのが常であった。
しかし、2025NSSではそのような政治の理念や理想、価値観に関わる記述が見当たらない。それに代わるように、経済的な利益や利権の獲得を重視する考えが各所でみられる。
⑤の中国に対する認識にもそのような傾向が表れており、共産主義への警戒心や敵対意識には触れられていない。そして従来のNSSのように「敵対すべき国」、そして「米国が勝利すべき国」として共産中国を捉える視点が後退し、軍事経済的に大国となった中国の脅威を「抑止する」ことに力点が置かれ、台湾問題の現状維持を図るなど安定的な関係の構築に戦略の目的が移っている。以下、各論においてそれぞれの詳細に触れて行こう。
2.西半球とドンロー主義
2025NSSは「非西半球の競争国は、現在における我々の経済的不利を招くだけでなく、将来的に戦略的損害をもたらす可能性のある形で、我々の半球に大きく進出している。こうした侵入を真剣な反撃なしに許容することは、ここ数十年における米国の・・・重大な戦略的過ちであ」り、「米国の安全保障と繁栄の前提として、米国は西半球において卓越した地位を維持しなければならない」と西半球に対する中露の進出に強い警戒感を示している。
そのうえで、米国の国家戦略において西半球を最優先するという方針を明確に示しているのが以下の記述である。
「長年放置されてきた西半球において、米国はモンロー主義を再確認し、その実施を通じて米国の優位性を回復するとともに、自国本土及び地域内の重要地域へのアクセスを保護する。 我々は、非西半球の競争相手が、我々の西半球に軍隊やその他の脅威となる能力を配置したり、戦略的に重要な資産を所有・ 支配したりする能力を否定する。このモンロー主義への“トランプの系論(The Trump Corollary to the Monroe Doctrine)”は、米国の安全保障上の利益 と一致する、米国パワーと優先事項の常識的かつ強力な回復である。」
では、トランプ政権が「再確認し、その実施を通じて米国の優位性を回復する」と規定したモンロー主義とはどのような政策をいうのだろうか。
モンロー主義
モンロー主義とは、1823年、第5代米大統領ジェームズ・モンローが議会演説で示したもので、未だ国力劣勢な米国は「欧州に干渉しない」が、同時に欧州諸国が「西半球(米本土および新大陸)に(帝国主義的)干渉することを許さ」ないという選択的孤立主義の外交方針である(図表2参照)。米欧の相互住み分けを提唱した政策といえよう。

これによって米国は欧州における紛争や植民地争奪戦に巻き込まれることを回避し続ける一方、欧州各国の米大陸への介入を排除し、自らの勢力圏を開拓していくようになる。即ち、西部開拓がほぼ終了するや、米国は近隣の中南米諸国に度重なる介入を行うようになる。まず1845年、米国はメキシコから独立したテキサスを併合した。その後、メキシコとの戦争(米墨戦争)に勝利しニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニア州などの広大な南部・西部地方を併合した。1867年には、帝政ロシアからアラスカを購入している。
そして19世紀後半、後期産業革命の成功で国力を伸ばした米国は、中南米地域への干渉を繰り返すようになり、それに伴ってモンロー主義は帝国主義的な米国の中南米支配を正当化する論理ともなった。まず1889年には中南米諸国間の政治的・経済的結合を緊密化するという名目で第1回汎アメリカ会議を開き、中南米への介入強化の足掛かりを築いた。
さらにマッキンレー大統領は高関税政策で国内産業を保護する一方、独占資本の発展を背景に帝国主義政策を採り、海外進出を積極化させた。1898年にスペイン領のキューバで独立戦争が起きた際、独立戦争を支援するという名目でスペインと戦い(米西戦争)、表向きはキューバの独立を認めながら実質的にはキューバを保護国化し、合わせてスペイン領のプエルト・リコも領有した。これにより米国は、中南米諸国に対する軍事的、経済的支配を強化するための前進基地を獲得した。マッキンレー大統領は1898年にハワイも併合している(図表3参照)。

マッキンレーが暗殺された後、大統領に就任したセオドア・ルーズベルトは、英独伊によるベネズエラ干渉の調停(1902年)、パナマ独立への介入(1903年)、ドミ二カの保護国化(1905年)など“こん棒外交”と呼ばれる帝国主義政策を展開した。その中で最も重要なのがパナマ運河の獲得だった。パナマ独立を支援し保護国化するとともに、パナマ運河の建設権と運河地帯の租借権を獲得、1904年に運河建設に着工した(完成は1914年)。大西洋と太平洋を結び付ける重要な流通航路であるパナマ運河の開通によって、米国は南北米大陸における航海権・通商権を完全に掌握し、中南米諸国に対する支配と圧力を一段と高めた。
その後、ウィルソン大統領は“宣教師外交”、フランクリン・ローズヴェルトは“善隣外交”を展開するが、いずれも米国による中南米への圧力や干渉という本質は変わることが無かった。さらに冷戦時代にはモンロー主義の名の下にソ連による共産主義の浸透阻止が掲げられた。
ドンロー主義
トランプ政権はこうした歴史を持つモンロー主義を同政権の西半球政策の基本方針に据えるというのだが、実はトランプ氏がモンロー主義を継承する考えを示したのは2025NSSが最初ではない。
第1期政権当時の2018年9月25日、ニューヨークの国連本部での一般討論演説でトランプ大統領は「我々はグローバリズムを拒絶し、愛国主義に基づき行動する」と述べ、持論である「米国第一主義」をさらに加速し、国際協調に背を向ける姿勢を明確に打ち出した。そのうえでトランプ大統領は
「西半球において、我々は拡張主義的な外国勢力の侵入から独立を維持することに取り組んでいる。モンロー大統領以来、外国の国家がこの半球や我が国の問題に干渉することを拒否するのは我が国の正式な政策になっている」
と述べ、既にこの段階でモンロー主義を採る考えを示している。この日の演説では、「米国の孤立主義」の代名詞でもある19世紀のモンロー大統領にも触れ「米国や西半球の問題への干渉を拒絶するのが、わが国の政策だ」とまで言い切っているのだ(図表4参照)。

現に昨年末の2025NSS発表以前、つまり第2期政権の発足前後からトランプ政権はウクライナ問題への深入りを避ける一方、ベネズエラやパナマなど中南米諸国への政治介入や武力行使の威圧を重ねてきた。このことからもトランプ氏が早い時期からモンロー主義を自身の政治信条に据え、それを実行に移していたことは明らかである。
ただ、これまでのモンロー主義とは異なり、トランプ政権が西半球への脅威としてその進出浸透を排除しようとする対象は中国、そしてロシアという権威主義勢力である。米国の裏庭と呼ばれた中南米や西半球を権威主義勢力に踏み込ませないとの宣言が今回の2025NSSの核心部分である。
かっては米国の「裏庭」と呼ばれた中南米も、いまや域内各国の貿易相手は米国よりも中国が上位を占めるようになっている。この現状に対し2025NSSは「非西半球国家(中国)が我々の不利益、害悪となるような侵入を既に行って」いると対抗意識を露にし、そのような「勢力が我々の西半球に脅威となる軍事力等を配備したり、戦略的な重要な資産を所有・支配することを拒否する」と述べている。
西半球への外部勢力の関与介入を退ける点ではモンロー主義と同じであるが、国力が劣勢であった当時の19世紀前半と異なり、トランプ政権の米国は強者である。ただ強者でありながらも、一国主義を打ち出し、他地域への関与は控える半面、西半球の権益や自国領土の防衛を最優先することを宣言したもので、それを「モンロー主義に通じるトランプの系論」という表現で表し、南米を含む西半球への安定と安全保障に米国が注力する姿勢を示したのである。モンロー主義のトランプ的系論を、新モンロー主義、あるいはトランプ氏のドナルドの頭文字Dをとり、「ドンロー主義」とも呼ばれるようになった。
3.ドンロー主義の発動 1:ベネズエラ奇襲作戦
親中派マドゥロ大統領を拘束
ベネズエラは伝統的に米国と協調する親米路線をとってきたが、1999年から14年間にわたり政権を担当した社会主義統一党のチャベス大統領がそれまでの親米路線を否定、「21世紀の社会主義」建設を標榜し、ベネズエラ石油公社(PDVSA)の掌握など経済活動の国家管理等を行い強権体制を強めた。チャベス大統領が2013年に死去すると、その腹心であった副大統領のニコラス・マドゥロ氏が政権を継承。マドゥロ大統領も反米の急先鋒として度々米国批判を展開してきた。
マドゥロ氏は2024年7月に実施された大統領選挙で勝利を宣言、25年1月に3期目の政権を発足させた。しかし野党側は選挙の不正を糾弾、第2期トランプ政権もマドゥロ政権の正統性を認めず、25年8月には米国への麻薬流入阻止をめざしベネズエラ周辺海域に米軍艦艇を派遣してマドゥロ政権包囲網を築いた。さらに9月以降米軍は米国に麻薬を運んでいるとしてベネズエラの麻薬運搬船とみなした船に攻撃を繰り返すようになった。
そして年明け早々、2025NSSで示したドンロー主義は最も顕著な形で実践に移された。26年1月3日、米軍はベネズエラの首都カラカスなどに大規模な奇襲攻撃を実施した(図表5参照)。そして同国の反米左派ニコラス・マドゥロ大統領とその妻を拘束、ニューヨークに移送しメトロポリタン拘置所に収監したのである(図表6参照)。
中国排除と石油利権獲得
トランプ大統領はベネズエラへの軍事介入に踏み切った目的について、マドゥロ氏は米国への麻薬の密輸に関与したとして2020年に米国で起訴されており、国外に逃亡した者を逮捕し、裁判にかけるための法執行行為であり、国連憲章にいう武力の行使には当たらないと主張している。しかしこれは表向きの理由に過ぎず、実際の狙いとして第1に挙げられるのはベネズエラの石油利権の確保である。
ベネズエラは原油埋蔵量が世界一と推定され、もともと米国の石油大手各社が権益を押さえていたが、反米左派のチャベス政権時代に国有化で大半が撤退している。インフラは老朽化し生産量が激減、米国の制裁や原油価格の一時下落もあり、マドゥロ政権のもと経済が破綻、豊かな天然資源に恵まれた国でありながら、およそ800万人が国外に逃れる惨状に陥った。トランプ大統領は、ベネズエラの石油産業を立て直すため米国の石油大手各社に再進出を呼びかけ、政府から補助金も出すとしている。ベネズエラ産の原油は、粘度の高い「重質油」で米国内の製油所にも適合している。ただ政情不安が続く限り、再建の行方はなお不透明である。
第2の狙いは中国やロシア、特に中国の排除である。米企業がベネズエラを去ったあと、この国に急接近したのが中国だった。中国はベネズエラに巨額の資金を貸し付ける見返りに原油を安価で供給され、いまやベネズエラの原油輸出先の8割以上を中国が占めるようになった。1期目のトランプ政権で、大統領補佐官を務めたジョン・ボルトン氏は、回顧録の中で「2019年の元日に、トランプ大統領は、ロシアと中国の進出を憂慮しているとした上で、『指をくわえて眺めるつもりはない』と述べ、軍事的対応を選択肢に加えるよう指示し、『ベネズエラは実質的に米国の一部だ』と言っていた」と記している。このほか、秋の中間選挙をにらんだ支持率挽回も理由の一つに挙げられよう(図表7参照)。
コロンビア・キューバに対する威圧効果
ドンロー主義の下、西半球を米国の最優先の勢力圏”と位置づけて、中国やロシアの干渉を排除しようとするトランプ政権の動きはベネズエラ一国だけに留まるものではない。ベネズエラ奇襲作戦の合法性については国際法上の疑義が強いが、トランプ大統領は米軍の破壊力や展開能力の高さを誇示することによって他の中南米諸国に対する米国の影響力拡大を狙っている。特に反米に立つキューバやコロンビアを威嚇恫喝し、あるいはキューバへの石油供給を阻止するなど孤立化を図ることで譲歩を迫り、両国に対する中露の影響力を排除しようとしている。そしてその効果は表れている。
ベネズエラ奇襲作戦が発動される前、コロンビアのペトロ大統領はトランプ大統領を「野蛮人」などと罵倒していたが、トランプ氏からコロンビアを次の標的にすると威嚇されるや反米姿勢は影を潜めた。さらに首脳同士の電話協議を機に態度が軟化、2月3日にはトランプ氏とホワイトハウスで首脳会談に臨み「率直な米国人が好きだ」と擦り寄るなどそれまでの対立から対話基調へと姿勢を大きく変化させた。ペトロ氏は記者の取材に対し、マドゥロ氏と同じ運命を辿ることが怖かったと認めている。
キューバも米軍のベネズエラ攻撃直後には「帝国主義をむき出しにした侵略だ」と強く反発したが、その後は事態を静観。石油不足が深刻化する中、ディアスカネル大統領は2月5日、米国との交渉に応じる用意があると明言、譲歩の姿勢を見せ始めている。
4.ドンロー主義の発動2:パナマ運河問題
パナマ運河に迫る中国の影
さらにトランプ政権は、第二期政権の発足直後からパナマ運河に対する中国の影響力拡大の阻止に動いている。パナマは米国の支援で1903年に独立したが、米国はその見返りとしパナマ運河の管理権を握った。1977年の両政府の合意に基づき、99年に運河の管理権がパナマに移された。
しかし、トランプ大統領は中国がパナマ運河の管理について影響力を及ぼしていることに強い警戒感を示した。25年1月の就任演説でトランプ大統領は「パナマ運河は中国が支配している」と批判。通航料が高すぎることにも不満を示し、米国は運河の管理権返還を求めると主張し、早速ルビオ国長官をパナマに向かわせた。国務長官が就任後最初の訪問先に中南米を選ぶのは、1912年以来のことだった。
25年2月、ルビオ国務長官はパナマでムリノ大統領と会談、トランプ大統領が中国の「影響と支配」をパナマ運河に対する脅威と見なしていると伝え、パナマ運河から中国の影響力を排除するよう強く求めた。ルビオ氏は「早急な変化がなければ、米国は必要な措置を取る」と警告、軍事力の行使も示唆した。
パナマ運河の5つの港のうち2つの港は、香港の複合企業(コングロマリット)CKハチソン・ホールディングス(長江和記実業)の子会社ハチソン・ポーツが運営している。ハチソン・ポーツは、パナマ政府の認可を受け、大西洋側はクリストバル港を、太平洋側ではバルボア港の運営を1997年から行っている。また自動更新条項などにより2047年までは運営権を所持している。
米政府の圧力を受け、3月初め、CKハチソン・ホールディングスはパナママ運河の両端にある2つの港を含む世界各地の港の運営権を、米国の資産運用大手・ブラックロックが主導する企業連合に228億ドルで売却する計画を発表し、4月に合意文書の締結が行われることになった。だが中国当局が「経済的威圧」と批判してこれに反対の構えを示し、香港側へ圧力をかけたため、7月になるとCKハチソン・ホールディングスは売却取引の交渉期間を延長すると発表、また売却先の企業連合に中国の投資家を参加させる意向を表明した。
パナマ運河から中国企業を排除
米中双方から圧力を受ける中、パナマ政府は中国と距離を置き、対米寄りの姿勢を強めていった。そして年が明けた26年1月には米軍とパナマの警察隊がパナマ運河防衛を目的とした共同訓練を実施。またパナマの監査当局はハチソン・ポーツの不正を理由に、国益を損なう利権の無効化を求める訴訟を提起した。
パナマ最高裁は26年1月29日、パナマ運河の両端にある2港の運営をするハチソン・ポーツと政府との契約を違憲とする判決を下した。これを受けパナマ政府は、新たな事業者を選定するまで二つの港湾はデンマークとスイスの海運企業の子会社によって運営され、1年6カ月の移行期間を経て、国際入札にかけられる予定だと発表した。
この判決は運河からの中国排除を強く求めていた米国の意向に沿うものであり、米国はパナマ運河の管理から中国を締め出すことに成功、ルビオ米国務長官は最高裁の決定を「歓迎する」とX(旧ツイッター)に投稿した。
一方、判決に不満な中国は「パナマ当局が覇権に屈し、迎合していることは明らかだ」とし「法治原則と契約精神を踏みにじった」と強く反発し、「主張を貫けば、政治的にも経済的にも重い代償を必ず払うことになる」とパナマ政府に警告した。しかしパナマのムリノ大統領は「政府から独立した司法機関の決定を尊重する」と中国の主張を退けたため、中国は報復としてパナマでの新規事業を巡る協議を停止する方針を打ち出しており、数十億ドルに上るパナマの投資計画が影響を蒙る恐れが出ている。
5.ドンロー主義の発動3 :米本土とカナダ
米本土の安全保障
ドンロー主義は、ベネズエラやパナマなどの中南米諸国だけに発動されるものではない。その対象地域は「西半球及び米本国」であり、米本国の防衛体制を強化することも重要な目的である。
2025NSSは「不法移民その他の望ましくない移民の阻止(移民管理)」や「人身取引・麻麻薬流通の阻止」、「国境の安全確保」を達成すべき戦略目的として明記している。トランプ政権が政権を挙げて取り組んでいる「不法移民の摘発と国外への追放・排除」や「フェンタニルなど麻薬の米国内への流通阻止及び流通ルートの壊滅」のための施策は、民生や治安の維持といった内政上の要請だけでなく、ドンロー主義においても重要な施策として位置づけられているのだ。
さらにいえば、「DEI目標の廃止」や「反ユダヤ主義の蔓延阻止」の取り組みも、トランプ大統領が米国社会に害を及ぼすものと受け止めている危険な思想やイデオロギーを米国から締め出すという意味で、米社会の思想の安全を守るためのドンロー主義の発露と捉えることも可能であろう。
「防衛」や「安全保障」の概念を広く捉えての措置だけでなく、本来の軍事的な防衛力の強化もドンロー主義の求めるところである。その代表的な政策がトランプ大統領が掲げる次世代ミサイル防衛システム「ゴールデンドーム」の開発計画である。ゴールデンドームは中国やロシアの抑止を念頭に、ミサイルを検知し、迎撃する手段を宇宙空間に配備する構想で、総費用は1750億ドルに上る見通し。
トランプ大統領は2028年までの完成を目指しているが、政府機関閉鎖の影響や所要経費の大きさなどがネックとなり計画は遅れ気味だ。そこでトランプ大統領は、ゴールデンドームが完成すればカナダは無償でその恩恵に預かることになるとし、カナダが「独立した国家」としてゴールデンドームに参加する場合は610億ドル(約8兆8千億円)を支払うよう求めた。巨額な開発費用の一部をカナダに負担させようとの思惑だ。
一方、自身の交流サイト(SNS)でトランプ大統領は「カナダが米国の51番目の州となれば、費用はゼロだ」と書き込み、カナダの独立を否定するような発言を繰り返すようになる。トランプ大統領は西半球に位置するカナダもドンロー主義の対象として扱い、カナダを米国の支配下に置こうとする動きを見急いているのだ。当然ながら米加両国の関係は悪化の一途を辿っている。
カナダを51番目の州に
2024年11月の大統領選後にマール・ア・ラーゴの別荘でカナダのトルドー首相と会談した際、トランプ大統領はカナダが「51番目の州」になるべきだと発言した。カナダ政府は当初「ジョークだ」と聞き流していたが、大統領就任後もトランプ氏は同様の発言を繰り返すばかりか確定された米加国境にも疑問を呈し、さらにトルドー前首相を揶揄して「知事」と呼ぶなどカナダ領有に強い拘りを見せている。
そして25年3月には米国への不法移民流入や合成麻薬フェンタニル密輸への対策が不十分だとして、カナダからの輸入品に25%の関税を課し、8月にはフェンタニルの米国流入を阻止できなかったことを理由に35%に引き上げた。これに対しカナダも米国に報復関税を課し対抗する事態となった。
中南米からの不法移民の増大というと中南米諸国が頭に浮かぶが、米加国境での逮捕者も増えており、2023年10月から2024年9月までの間に行われた逮捕件数は2万3721件で、前年の1万21件から大幅に増加している。カナダに一時的なビザで滞在するインド国籍の人々が不法入国の大部分を占めているという。またメキシコと同様にカナダからも中国の原材料を使った合成麻薬フェンタニルが流入し、深刻な問題となっている。
こうした状況を改めさせるため高関税やカナダ併合の脅しをかけているのではとの見方もあるが、国境警備強化に13億カナダドル(約1330億円)を投じることや麻薬密輸に対抗するため合成麻薬「フェンタニル」問題担当官を設けること、さらに(米国とカナダが共同運用する)北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)近代化への資金提供などをカナダ政府が提案しても、カナダ併合の話は立ち消えになっていない。
3月に就任したカナダのカーニー首相は、翌月の総選挙では「対米依存からの脱却」を掲げて勝利した。5月6日、初めてトランプ大統領と会談した際、カーニー首相は「カナダは売り物ではない」と繰り返したが、トランプ氏は「まだ(併合の)可能性はある」と軽口をたたき、併合への意欲を撤回しなかった。
対米関係の悪化を踏まえ、カーニー首相は同盟国との関係強化に動く。6月にはカナダと欧州連合(EU)がブリュッセルで首脳会合を開き、「安全保障・防衛パートナーシップ」を締結。装備の共同調達や軍の合同演習などを通じて協力を深め、ともに過度な対米依存からの脱却を目指している。
一方、トランプ大統領は関税を批判するカナダ・オンタリオ州の広告を「虚偽」だとし、大リーグのワールドシリーズの放送でも使用されたことを非難。10月にはカナダに10%の追加関税を課すとSNSで表明した。この上乗せでカナダには45%の関税が課されることになった。
そのためカーニー首相は米国に次ぐ2番目の貿易相手である中国との繋がりを強め対米依存の低減を図るため、2018年に中国通信機器大手・華為技術(ファーウェイ)幹部をカナダが拘束して以来冷え切っていた両国の関係改善に動いた。26年1月、カーニー氏はカナダ首相として約8年ぶりに訪中し習近平国家主席と会談。両首脳は経済や貿易分野での関係改善で一致。中国製電気自動車に対する関税を100%から6.1%に引き下げることなどを軸に暫定合意に至った。さらなる関税の引き下げを見据え、二国間協議を継続する方針も示している。
またカーニー氏は1月20日、世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)の演説で、トランプ政権を念頭に「ルールに基づく国際秩序はもはや機能しない」と指摘し、経済統合や関税を武器として利用し始めた大国に対処するためには、ミドルパワー(中堅国)が結束すべきだ」と訴えた(図表8参照)。

この演説に対しトランプ大統領は「カナダが存続できているのは米国のおかげだ」と憤りを露にした。カナダに対する不満を強めたトランプ大統領は1月24日、カナダが中国と合意した関税引き下げを履行した場合、全ての輸入品に100%の追加関税を課すと表明。自らが主導するパレスチナ自治区ガザ地区の暫定統治機関「平和評議会」へのカナダの招待も撤回した。さらにトランプ米大統領は2月に入り、米国とカナダを結ぶ新しい橋について「開通を許可しない」とSNSに投稿したほか、北米の貿易協定である米国・メキシコ・カナダ協定(USMCA)からの離脱を視野に入れている。
かような経緯から、カナダの対米感情は過去1年の間に著しく悪化し、カナダから米国への旅行者は400万人の減少(前年比22%減)と大幅に落ち込んでいる。同盟関係に与える悪影響も計り知れないものがある。それほどまでにしてトランプ大統領はなぜカナダの併合に拘るのか。政権1期目に最高戦略責任者を務めたトランプ氏の側近スティーブ・バノン氏は、トランプ氏のカナダ併合発言は単なるハッタリや駆け引きではなく真剣なものであること、その狙いはパナマ運河や後述するグリーンランドの支配を求めるのと同様、米国の安全と利益を確保し、北極から南米大陸まで西半球の全域で米国が優位な立場を占めることにあると説明している。
6.ドンロー主義の発動4 :グリーンランドの領有
米国とカナダの対立は、民主諸国の同盟関係に深刻な傷を与えたが、さらにトランプ大統領は、ともに大西洋条約機構(NATO)加盟国であるデンマークの自治領グリーンランドの領有を主張、軍事行動の可能性さえ示唆し同盟内に一層大きな衝撃を与えている。
デンマークの自治領であるグリーンランドの面積は日本の約6倍。8割が氷におおわれ、沿岸部に約5万6千人が暮らす。その約9割が先住民だ。18世紀初頭にデンマーク系の宣教師が移住して以来デンマークの統治下にあったが、1979年に自治権を獲得し、独自の議会と政府を持つ。高福祉国家のデンマークと同様に税金は高く、また過去の統治政策への反発からデンマークからの独立を訴える住民も多い。世論調査では8割以上の住民が独立を望んでいる。
トランプ大統領がそのグリーンランドを買収しようと言い出したのは、政権2期目になってからのことではない。既に2019年、当時、就任間もないメッテ・フレデリクセンデンマーク首相にグリーランドを買いたいと提案。驚いたフレデリクセン首相は『ばかげている』と一蹴している。
しかしトランプ大統領は真剣だった。24年11月の大統領選で当選を決めると、翌月には早速、グリーンランド購入の話を蒸し返し、駐デンマーク大使任命にあたって自身のSNSトゥルースソーシャルで「国家安全保障と世界の自由のために、米国はグリーンランドを所有し、支配しなければならないと考えている」と述べている。
グリーンランドの高い戦略的価値
我々日本人からすると、なぜトランプ大統領はパナマやベネズエラと同じように、北極圏にあるグリーンランドに拘るのか不自然に思えるが、地図を見ればわかるように、グリーンランドは西半球の延長上に位置しているのだ(図表9参照)。

しかも北米と欧州結ぶ最短ルート上にある戦略的要衝で、米国の弾道ミサイル警戒システムにとっても重要な地点である。そのため米国はこれまでから同島に関心を示してきた。第2次世界大戦中には基地を建設。デンマークと防衛協定を結び、現在も島の北西部に米国の宇宙軍基地がある。またロシアの潜水艦はグリーンランド、アイスランド、英国間の海域を頻繁に航行しており、米国は同島にある既存の軍事的プレゼンスを拡大し、グリーンランドとアイスランド、英国の間の海域を監視するレーダーの設備を配備することなどを検討してきた。地下資源も豊富で、鉱物資源に加え石油や天然ガスも埋蔵しているとされ、グリーンランドは戦略的位置と埋蔵資源の両面で米国に利益をもたらし得る島である。
さらに近年、グリーンランド北側の北極海では地球温暖化の影響で海の氷が減少し、船が通航できる期間が長くなっていることから、欧州とアジアを短い距離で結びつける北極圏航路の活用が注目されている。特にロシアと中国が航路開発に積極的だ。また温暖化でグリーンランドの地下に眠る希少鉱物採掘の可能性が高まっており、既に中国は2010年代にグリーンランドの資源調査に向けた投資を拡大させている。そのため米国は中露両国に重要航路やグリーンランドの地下資源が握られることを警戒している。
米国領有に強く反対するデンマークとグリーンランド
主権国家の領土は不可分であるが、その一方、米国には外国から領土を購入してきた実績がある。米国はデンマークから現在のバージン諸島を1917年に2500万ドルで購入しており、1946年には当時のハリー・S・トルーマン大統領がデンマークに対し、1億ドル相当の金での購入を打診している。米国よるグリーンランド購入計画は過去にもあったのだ。
このほか米国は19世紀初めにもルイジアナ、フロリダなどをフランス、スペインから購入。クリミア戦争で窮したロシアから1867年にわずか720万ドルでアラスカも買収している。
しかし、トランプ大統領がグリーンランドを購入しようと欲しても、当然のことながらデンマークは強く反対しており、グリーンランド住民の多くもグリーンランドが米国領となることを望んではいない。なお2009年制定の法律によってグリーンランドの自己決定権と独立の手続きが定められ、将来を決める権利はグリーンランド自身に委ねられておりデンマークにはグリーンランドを売り渡す権限はない。
25年3月11日に行われたグリーンランド議会選挙では、デンマークからの独立に慎重な民主党が第一党となり、独立と対米関係の強化を求める中道右派は第二党に留まった。グリーンランド自治政府を率いることになったニールセン新首相は「グリーンランドが米国のものになることはない」と述べ、デンマークのフレデリクセン首相も4月上旬、グリーンランドを訪問、「他国を併合することはできない」と米国の主張に反発した。
だがトランプ政権は領有に向けた動きをゆるめない。バンス副大統領は25年3月28日、グリーンランド北西部のビドフィク米宇宙軍基地を視察した。現地での演説でバンス副大統領はグリーンランドの安全保障に「デンマークが十分に投資していない」と批判、「この島が中国共産党に左右されれば、米国の安全保障が大きく弱体化する」として、グリーンランドは「デンマークより米国の安全保障の傘下にいた方がいい」と述べ、米国が防衛面での影響力を強化する意向を示した。
トランプ大統領は翌5月、「米国は安全保障上グリーンランドを強く必要としている」とし、NBCテレビのインタビューで、同国を手に入れるためには「あらゆる可能性を排除しない」と述べ、軍事力行使の可能性も仄めかした。
またトランプ政権はグリーンランド住民にデンマークからの独立を望む声が強いことに乗じ、グリーンランドに独立を促したうえで、米国がグリーンランドの安全保障や防衛の権限と責任を負う「自由連合協定」の締結を提案することも検討しているとメディアは報じている。米国はマーシャル諸島、ミクロネシア連邦、パラオと自由連合協定を締結している。3カ国はいずれも国連加盟国で米国と対等な関係とされるが、米国に領域の軍事利用を認め、財政支援を受けている。3カ国の国民は米国での居住や就労にビザ(査証)は必要ない。グリーンランドもこの三国と同じような扱いで取り込もうという狙いだ。
グリーンランド巡り米欧の対立強まる
25年12月21日、トランプ大統領は自身のSNSでルイジアナ州のジェフ・ランドリー知事(共和党)を「グリーンランド担当特使」に任命すると表明。「グリーンランドは米国の国家安全保障にとって極めて重要であり、米国と同盟諸国の国益を増進させる」考えであり、ランドリー氏は「その先頭に立つ」と書き込んだ。そして年が明けベネズエラ奇襲作戦に成功した直後の26年1月4日、トランプ大統領は再び「安全保障のために我々にはグリーンランドが必要だ」と発言、「デンマークにはグリーンランドの安全性を高めることはできない」と述べ、改めてグリーンランド領有に意欲を見せた。
ベネズエラに続きグリーンランド領有に向けた動きを加速させるのではないかと警戒したデンマークや英仏独など欧州の7カ国は1月6日「グリーンランドとデンマークの問題は住民らのみが判断する」との共同声明を発表した。
同時に欧州諸国はグリーンランドの警備を強化することで米国が獲得する必要はないことをトランプ氏に示し説得するため、独仏、スウェーデン、ノルウェーなどがグリーンランドに自国の軍隊を派遣することを決定(1月14日)。一方、トランプ政権はグリーンランド住民に対し1人当たり最大10万ドル(約1500万円)の一時金支給を検討しているとメディアは伝えた。
1月14日、デンマークと同国の自治領グリーンランドの外相は米国のバンス副大統領やルビオ国務長官とホワイトハウスで会談、グリーンランドの米国への売却を拒否すると伝え、領有を強く求める米国との協議は平行線に終わったが、グリーンランドの扱いを話し合う作業部会の設置では合意した。
またホワイトハウスのレビット報道官は欧州諸国が表明しているグリーンランドへの部隊派遣は、領有を目指しているトランプ大統領の意思決定には「影響を与えない」とコメント、さらにトランプ大統領は1月16日、米国のグリーンランド領有に反対し、軍を派遣した欧州の8か国を対象に2月1日から「10%の関税を課す」とSNSに投稿した。今年6月1日には関税率を25%に引き上げ、グリーンランドの「完全かつ全面的な買収合意」が成立するまで継続する方針を示した。
米欧の「決定的な関係悪化」ひとまず回避
米欧の対立が強まる中、1月21日にスイスで開催された世界経済フォーラム(WEF)の年次総会(ダボス会議)で演説したトランプ大統領は、グリーンランドの領有に向け、買収交渉に直ちに応じるようデンマーク政府に要求した。ただ、領有のために武力を行使することは否定した。さらにルッテNATO事務総長と会談した後、SNSに投稿し、NATOとの間でグリーンランドを含めた北極圏全体に関する新たな枠組みを設置することで合意したとし、来月から欧州8か国に課すとしていた新たな関税措置は実施しないと明らかにした。
今後、NATOと米国の間でどのような話し合いが行われるか、現時点では見通しにくいが、グリーンランドだけでなくカナダとの関係についても同様、トランプ氏の領有、併合に対する意志は強いと見るべきである。グリーンランドを領有するデンマークは北大西洋条約機構(NATO)の加盟国である。しかしながらグリーンランドは西半球の北限にあり、デンマークよりもカナダや米国との近接性が高い。即ち、グリーンランドとデンマークは直線距離にして約3,500km離れているが、カナダのヌナブト準州に属するエルズミーア島はネアズ海峡を挟んでグリーンランドとは至近の距離にある。ネアズ海峡の最も狭い所では僅か30kmほどしか離れていない。また米国とグリーンランドの距離は約300キロで、グリーンランド〜デンマーク間の十分の一。グリーンランドの首都ヌークはデンマークの首都コペンハーゲンよりもニューヨークに近いのだ。
デンマーク領とはいえ米加に近く、北米大陸の延長上にある戦略的要衝グリーンランドが中露の勢力圏に取り込まれることをトランプ大統領は容認できないのである。それゆえ、防衛力に限界があるデンマークに代わり米国が直接グリーンランドを支配し、併せて米国よりも北に位置するカナダも支配下に置くことで、中露の進出に対抗し、北極及び西半球の北の守りを固めようとトランプ大統領は考えているのだ。
もっとも、実際にグリーンランドやカナダを米国が領有することは至難である。そこで領有併合の意志の固さを強調し、時に武力行使も匂わせながら威嚇によって交渉を有利に運び、米軍基地の使用権限拡大や新たな基地の設置、さらに有利な条件でグリーンランドやカナダの領域を利用し得る特権の獲得をトランプ大統領は狙っているものと思われる。
最後に
2025NSSで強調したように、トランプ大統領は南北米大陸やグリーンランドなどを含む「西半球」を米国にとって最も重要な勢力圏と見なし、中露両国を排除して安全保障体制を強化するとともに、経済的な利権獲得をめざす「ドンロー主義」を実際の外交政策において実践している。
他国に対する一方的な武力の行使や領土の併合を強いるなど、トランプ氏の行動は国際法を公然と無視し、力づくで強国の主張を押し付けようとするまさに弱肉強食の論理によるもので、戦後、米国が築いてきた国際秩序を米国自らが破壊する暴挙と非難されている。しかも中南米だけでなく、意表をつくかのように同盟国であるカナダやデンマークにまで見境なく恫喝を加えるトランプ氏の態度にも世界は衝撃を受けた。それは傍若無人であるばかりか、あまりの異常さ故に衝動に駆られての場当たり的な動きとも受け止めらえた。
だがそうではない。トランプ氏の発言の内容や手法には問題が多いが、西半球の支配強化と中露の排除という戦略目的達成のために冷徹に計算されたもので、トランプ大統領の発言の背後には計画性や一貫性が認められる。
またドンロー主義はかって西欧列強が挙ってアジアアフリカ諸国を自国の支配下に組み込んだ帝国主義の再来にも映る。だが植民地の統治に乗り出した当時の欧州列強とは違い、トランプ政権はマドゥロ大統領を拘束したが、ベネズエラの内政に干渉することは避けている。米国が主導してベネズエラの民主化や民生の安定を実現する意欲も意識もない。2025NSSは、自由や民主主義の普及拡大といった価値観外交には触れておらず、ベネズエラに対する政策姿勢にもその特徴が表れている。
イラク戦争に勝利しサダム・フセインを処刑したものの、イラクの民主化などその戦後統治に失敗、さらに対テロ戦争が勃発、当時のブッシュジュニア政権は米国衰退の大きな原因を生み出した。その反省もあって、トランプ政権は石油利権の確保には動いているが、独裁者追放後のベネズエラの国家復興には無関心なのである。米国の負担をなるべく小さくしながら影響力の拡大を目指すというトランプ流のドンロー主義がかっての帝国主義と相違する点である。
一方、カナダやグリーンランドに対しては、領有を実現するためには武力の行使を躊躇わないと威嚇を重ねているが、実際には軍事力の発動には踏み切らず慎重である。米国から攻撃を受けることや同盟が分裂に陥る事態を恐れ相手側が譲歩するように仕向け、交渉(ディール)によって基地の設置拡大など米国の特権を認めさせ、また両国に軍事力及び監視体制の強化を促そうとしている。べネズエラの場合とカナダ、グリーンランドに対するトランプ大統領の姿勢は、武力発動の有無では相違するが、米国の関与や負担を極力回避しつつ目的の達成をめざす点では共通している。
トランプ大統領にとってドンロー主義は、費用対効果上、最も効率的に西半球の支配を強化し得る手法であるが、その荒々しい政策に対する国際社会の非難や反発は極めて強い。またNATOという重要な同盟体制を分裂・危機の状態に追い込んでしまった。北極圏への中露の排除を目指すのであれば、カナダやデンマークをはじめ多くのNATO諸国と協議し、共同して北極圏監視の体制を構築するアプローチも十分可能なはずだ。
中南米諸国に対しても、軍事力行使の脅しをかけて表面的に米国に従わせることが出来たにせよ、それが長期的な関係の改善や安定に結び付くとは思えない。しかも米国が威圧的な政策を進める程、域内各国の不満に付け込んで中露が進出拡大に動く恐れも強い。詰まるところドンロー主義は、短期間かつ軽負担での政策実現に寄与する便利な手法に思えても、長期的な視点で捉えれば、効果より弊害が上回る危険な政策ではなかろうか。
(2026年2月28日、平和政策研究所上席研究員 西川佳秀)





