第5回 安全保障政策の変容と国力の衰退、見出せぬ新たな国家目標

第5回 安全保障政策の変容と国力の衰退、見出せぬ新たな国家目標

はじめに

 今回は、昭和100年の後半、時代区分でいえば1970年代の冷戦後半期から冷戦終焉後の現在に至るまでの情勢を取り上げてみたい。この時期は、“吉田ドクトリン神話”がなおも機能し続けてはいたが、国際環境の変化から我が国の安全保障政策は大きな変化を見せた。それだけではなく、経済大国の時代が過ぎ去り、さらに少子高齢化の急激な進行など日本を取り巻く経済、社会構造も激変した。敗戦後の特徴であった“右肩上がりの時代”から“日本の衰退”が論議される時代へと遷移したといえる。そのような時代変化について、安全保障政策の変貌を中心に眺めていきたい。

1 米ソ対立の激化

デタントから新冷戦の時代へ

 デタントが揺らぎ出す1970年代後半、日本国内では田中角栄と福田赳夫の怨念の政争が繰り広げられていた。自民党総裁再選をめざした福田が田中の支援を受けた大平正芳に破れ、78年12月大平政権が誕生した。
 同月、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻し、世界は新冷戦の時代に突入する。ソ連の軍事脅威が高まる中、防衛庁は択捉、国後両島にソ連軍が地上部隊を配備し、基地建設を行なっていると公表(79年1月)、翌月山下防衛庁長官は衆議院予算委員会で「ソ連軍の極東方面の勢力は、潜在的な脅威である」と答弁した。大平政権は日本が「西側の一員」であることを明言し、それまでの全方位的なスタンスから日米関係強化に外交の基軸を鮮明化させた。79年5月、訪米した大平首相は日米首脳会談において、戦後初めて米国を“同盟国”と呼んだ。
 この間、日米安保条約の具体的運用の姿を明確化させ、自衛隊と米軍の連携を深める目的で日米の防衛協力を巡る論議が日米の間で動き出した。日本有事(ソ連の侵略を想定)の際の自衛隊と米軍の協力の在り方や役割分担を決める「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」の策定(1978年10月)はその成果といえる。

シーレーン防衛とGNP1% 枠撤廃

 日米同盟関係の強化をめざした大平首相は、自民党内の政争の末に急死する。政権を継いだ鈴木善幸は81年5月訪米し、レーガン大統領との首脳会談後の共同声明において、日米両国が民主主義と自由という価値を共有する「同盟関係」にあることを明記するとともに、日本周辺海・空域の防衛力改善や在日米軍の財政負担軽減を約した。
 さらに鈴木首相は周辺海域数百海里に加え、シーレーン千海里の防衛も公約(ナショナルプレスクラブでの会見)したが、その姿勢が軍事突出と日本国内の報道で批判されたことに驚き、首脳会談直後、日米同盟関係に「軍事的側面は含まず」と述べ日米関係に大きな混乱を与えた。だが鈴木個人の意思とは無関係に、この日本政府の公約を受けて対潜・防空能力(3海峡封鎖を含む)を主とするレーガン政権の対日防衛力増強の要請は激しさを増していった。
 そのような中で鈴木首相は突然辞意を表明し、82年11月、中曽根康弘が政権を引き継いだ。中曽根内閣は新冷戦のなか、わが国の西側の一員としての位置付けを一層鮮明化させ、日米の関係緊密化と日米同盟の強化を推し進めた。ロン・ヤスと呼び合う等レーガン大統領との厚い信頼関係を基盤に、武器輸出三原則の例外として対米武器技術供与(83年)に踏み切り、86年にはSDI 研究への参加方針を打ち出した。
 また防衛庁限りの中期業務見積もり(59中業)は政府計画としての「中期防衛力整備計画(86〜90年度を対象)」(85年9月国防会議及び閣議決定)に格上げし、本土防空及びシーレーンの安全確保能力の向上を重視したほか、 防衛費の増額を進め、87年1月には防衛費の対GNP1%枠を撤廃した。このほか中曽根政権は内閣機能の強化をめざし、従来の国防会議を安全保障会議に改組した(86年)。
 デタントから新冷戦へと国際環境が次第に厳しさを増していった70年代後半から80年代にかけて、日本は米国からの防衛力増強圧力に応えた。先のガイドラインが新冷戦期における米国の対日防衛負担要求の根拠となり、日米の役割分担を協議する際の根本規範ともなった。
 しかしこの間、歴代の政権は米国からのさらなる防衛力増強圧力をかわすため、デタント期に作成された防衛計画の大綱そのものには一切変更を加えず、基盤的防衛力の構想も維持されたままであった。専守防衛や非核三原則等60〜70 年代に形成された基本的な安全保障政策の再検討もなされなかった。

2  冷戦の終焉

自衛隊の海外展開

 冷戦末期の1987年、イラン・イラク戦争の激化によりペルシャ湾を通過するタンカーの航行が危険に曝されるようになった。この時米国のレーガン政権は空母機動部隊を派遣するとともに、米海軍が米国籍を得たクウェートタンカーの護衛を実施し、西側各国にも安全航行の確保に協力を求めた。
 英仏等が自国船護衛のためにフリゲート艦、掃海艇等を派遣するなか、中曽根首相は国会で「日本近海に限らず、ペルシャ湾での掃海も法的に差があるわけではない。武力行使にも海外派兵にも当たらない」(87年8月、衆議院内閣委員会)と答弁し、海上自衛隊掃海艇のペルシャ湾派遣に踏み切ろうとした。しかし野党だけでなく側近の後藤田官房長官も強く反対したため、安全航行システムの無償供与や中東諸国への経済援助等の支援策に留まり、自衛隊の海外派遣は見送られることになった。
 その後、80年代末〜90年代初頭にかけて東欧革命やベルリンの壁の崩壊、そして東西ドイツの統一が実現し、さらにはソ連が崩壊(91年12月)することで冷戦体制は終焉し、世界は新たな時代に入った。そうした激動の最中、イラクが隣国のクウェートを侵略する事件が発生した(90年8月)。米国のブッシュ政権は日本に対し“目に見える貢献”として掃海艇や給油艦の派遣、あるいは兵員、物資、弾薬等の輸送協力等を求めてきた。中東の石油に経済活動の基礎を置く日本にとって、湾岸地域の平和回復は自らの国益に関わる問題であった。
 海部政権は米側の求めに応じ協力の姿勢を示した。だが海部俊樹首相は、日本は米国と一緒に「汗を流す」ことは出来るが「血を流す」ことは極力回避したいとの立場に固執し、兵員、物資の輸送などに協力する可能性を中心に検討し、「国連平和協力隊」の創設を内容とする国連平和協力法案を国会に提出した。それはサウジアラビアに展開している多国籍軍に協力し、輸送、建設、医療等の後方支援に携わるが直接戦闘には参加しない組織を編成、派遣しようとするものであった。
 海部が頭に描いた国連平和協力隊は、民間からスタッフを公募し医療等の分野で協力する海外青年協力隊近似の文民組織で、自衛隊の派遣には終始否定的だった。 しかし、混乱と危険の中での任務遂行は自衛隊以外不可能との軍事常識や、自衛隊と別の新組織を設けることの経費と時間の無駄が問題視され、政府部内で自衛隊の活用が検討され始める。ただその段階でも、協力隊はあくまで自衛隊とは別の文民組織とし、自衛官個々人が文民となって参加するもので、自衛隊を軍隊として組織的に海外に派遣するものではないとの解釈・位置づけに固執する外務省(栗山外務次官)と、自衛官の身分がなければ船や飛行機、武器は扱えないことを根拠にあくまで自衛隊の組織参加を求める防衛庁(依田智治防衛事務次官)が鋭く対立した。結局、自衛官に協力隊員の身分を併任させ、自衛隊の制服ではなく協力隊の制服を着用し、協力隊の旗の下で任務に当たることで妥協が図られた。
 だが国会審議では、自衛隊を部隊として組織的に参加させず性格の曖昧不明瞭な協力隊の形で派遣することの是非や、軍隊の派遣と受けとられぬための辻褄合わせで難渋な国内向けの理屈、多国籍軍に対する協力行為の憲法解釈上の疑義等が相次いで提起され、同法案は衆議院を通過できず廃案に追い込まれた。
 国連平和協力法案の国会審議の際、答弁に立った外務官僚がマイクのコードに足をとられ転びそうになる一幕もあった。それはこの時の日本政府の動揺と混乱ぶりを象徴するエピソードであった。結局、この時もわが国は人的貢献を行うことができず、国際協力の在り方や体制の未整備が大きく問われる事態となった。
 その結果、湾岸戦争の際、日本は総計130億ドルという膨大な資金提供や物資面の貢献をしながらも、人員の派遣は行うことが出来なかった。また米国の資金要求に小刻み五月雨式に対応した日本の姿勢は、“小切手外交”あるいは“too little,too late” と揶揄された。さらに提供資金が「戦費」と扱われることを嫌い、武器・弾薬の購入には充てぬよう使途を制限したことも各国の顰蹙を買った

PKO 協力法制定とUNTAC 参加

 この教訓から、人的面も含め積極的な国際貢献を果たすべきだとの意見が俄かに強まった。戦争終結後の91年4月、ペルシャ湾での機雷除去のために海上自衛隊の掃海艇が派遣され、米独仏等の部隊とともに掃海任務に当たり、イラクが敷設した34個の機雷を除去した。これが自衛隊による平和協力活動の事実上の鏑矢となった。 同年9月、宮沢内閣は国会に「国際連合国連平和維持活動等に対する協力に関する法律案」(国際平和協力法案)を提出した。自衛隊の海外派遣に対する根強い反対を受け、同法案の審議は3 国会に及んだが、難産の末、92年6月に国際平和協力法が成立した。
 92年9月〜93年9月にかけて、自衛隊は初のPKO 活動として国連カンボディア暫定機構(UNTAC) への参加を果たした。 カンボジアでのPKO 活動には、陸上自衛隊の施設部隊で編成される約600 人の隊員が半年交代で派遣され、長期にわたる内戦で破壊された道路や橋などのインフラ整備を主として実施した。UNTAC 参加以降、自衛隊は国連モザンビーク活動(ONUMOZ)(93年5月〜95年1月) やゴラン高原における国連兵力引き離し監視隊(UNDOF)(96年2月〜) 、国連東ティモ−ル暫定行政機構(UNTAET、02年5月からは国連東ティモ−ル支援団UNMISET)(02年2月〜04年6月)のPKO に参加した。

社会党が自衛隊合憲へと立場を転換

 自衛隊のカンボジア派遣を実現した宮沢内閣であるが、93年7月の総選挙での敗北で自民党が下野し、55年体制は崩壊した。新たに連立政権を誕生させた細川護熙首相は、冷戦下に策定された『防衛計画の大綱』を見直す必要があると考え、94年2月、首相の私的諮問機関として「防衛問題懇談会」を設け、その検討を依頼した(60)。 しかし8党派連立の細川政権は8か月で倒れ、次の羽田政権も2か月で崩壊し、94年6月、自民、社会、さきがけの三党連立政権が発足し、社会党党首村山富市が首相に就いた。
 社会党を首班とする内閣の誕生は、実に47年ぶりの出来事であった。日米安保反対・自衛隊違憲・非武装中立を説く社会党主導内閣の出現で、安全保障政策の整合性が危惧されたが、94年7月20日の衆議院本会議で村山首相は「日米安保体制は、国際社会における広範な日米関係の政治的基盤となっており、アジア・太平洋地域の安定的要因として米国の存在を確保し、この地域の平和と繁栄を促進するために不可欠となっている」こと、「専守防衛に徹し、自衛のための必要最小限度の実力組織である自衛隊は、憲法の認めるものであると認識する」と述べ、それまでの同党の基本姿勢を180度転換させた。
 また村山政権は1995年11月、新たな「防衛計画の大綱」(俗称07あるいは95大綱)を策定した。基盤的防衛力構想はこれを継承しつつも、新大綱では旧大綱にあった「限定的かつ小規模な侵略」の独力排除という表現が削除された。これは対処すべき事態が多様かつ不透明化しつつある情勢を踏まえての変更といえる。 そして冷戦の終焉に伴い現有防衛力の規模・機能の見直しを行いその合理化・効率化・コンパクト化を進めるとともに、質的充実を図り多様な事態に有効に対応し得る防衛力の整備を目標に掲げた。要すれば全体として部隊の規模は縮小させるが、装備の近代化によって機動力や火力等の向上を図ろうとするものであった。

高まる北朝鮮の脅威ミサイル防衛システム導入

 冷戦体制が崩れ、旧ソ連、中国との関係が疎遠化したことにより、経済的に行き詰まりを見せた北朝鮮の挑発的な行動が相次ぐようになった。93年5月には北朝鮮が日本海中部に向けてノドン(推定射程〜1300㎞)と思われる弾道ミサイルの発射実験を実施した。98年8月31日には、テポドン1号(推定射程1500㎞以上) と見られる弾道ミサイルを日本に向けて発射。ミサイルは日本列島の上空を横切り、三陸沖の太平洋に落下した。これは、日本が戦後初めて経験した国土侵略への直接的な脅威となる事件であった。
 さらに99年3月23日には、能登半島沖で北朝鮮の不審船2隻が海上保安庁の巡視船の停船命令と威嚇射撃を無視して逃走を図った。01年12月には、奄美大島沖で再び北朝鮮の不審船が発見された。巡視船による船体への威嚇射撃で被弾炎上しながらも逃走を続けた後、東シナ海で自沈した。
 日本は98年にミサイル防衛に関する米国との共同技術研究の実施で合意し、翌年から海上配備型迎撃ミサイルの主要構成品(ノーズコーン、第2弾ロケットモーター、キネティック弾頭、赤外線シーカー)の共同研究を開始したが、米国の配備決定や北朝鮮ミサイル脅威の増大に対処するため、03年12月、共同研究とは別に、米国が既に開発したBMD システムの導入を決定した。

冷戦の終焉と日米安保の再定義

 ソ連の崩壊によって冷戦構造は終焉し、わが国に対する大規模侵略の可能性も低下したが、湾岸危機の際の人的貢献問題や経済摩擦の激化によって日米の信頼関係は大きく揺れた。また94年には北朝鮮の核開発による朝鮮半島危機が、96年には台湾海峡危機が発生する等アジア太平洋地域が極めて不安定な状況にあることが明らかになった。しかも日本周辺での危機や有事に対して日本が十分な対米協力を行えない実態も問題視された。
 外交重視のブッシュ政権とは対照的に、クリントン政権は内政、特に米国経済の再生を政策の最優先課題に据えた。戦後、日米の間では経済摩擦問題が繰り返し発生したが、冷戦期の米国は日米同盟の維持を個別経済問題の処理よりも優先したため、経済対立には一定の歯止めが掛けられていた。しかし、対ソ脅威の希薄化、米国の経済的苦境と日本の経済大国化という事情が重なり、米国では急速に対日警戒心が台頭した。いまや日本の経済的脅威がソ連の軍事的脅威よりも米国の将来にとってより大きな脅威と感じる米国民の数は増加した。
 かくして日米包括経済協議は戦後における日米経済摩擦の中でも最も激しいものとなった。共通脅威の消滅や経済対立の激化を背景に、冷戦の産物である日米安保体制はもはや不要ではないかとの声が日米双方から持ち上がるようになった。 日米安保のレゾンデ−トルが揺らぎ出したことに加え、日本における55年体制の崩壊も米側には不安材料となった。冷戦の終焉を受けて、日本でも新たな安全保障構想の構築に向けた動きが出始めていたが、非自民勢力によるこうした作業の中に米国は日本の「米国離れ」を感じ取ったのである。
 細川首相が設けた防衛問題懇談会は細川首相退陣後の94年8月、村山富市首相に「日本の安全保障と防衛力の在り方—21世紀へ向けての展望」と題する報告書(通称樋口レポート)を提出した。この報告書の特色は、多角的安全保障戦略を提唱したことにあった。そこでは、自衛隊の役割を「自国の防衛という本来的な役割」に止まらず、国連の平和維持活動への協力等多角的なものとすることが強調された。そして、世界的・地域的軍備管理の推進、地域的安全保障対話の促進等幅広い視野から安全保障政策を確立すべきことが論じられたが、 この「多角的安全保障協力のための防衛力の役割」が「日米安全保障協力関係の充実」の前に記載されたために、日本がそれまでの基軸であった日米安保から多角間安保ヘ安全保障の重点をシフトさせ始めたのではないかと、米側の安保専門家の目には映ったのである。
 さらに、冷戦後の脅威である地域紛争への対処に際しても、これまでの日本の防衛政策では、東アジアの安全保障に対して同盟国日本の貢献に期待が持てないことへの不満も米側には強まった。折から93〜94 年にかけて北朝鮮の核開発疑惑が持ち上がり、朝鮮半島情勢は俄かに緊張の度合いを強めたが、自民党政権の崩壊以降、不安定な政治状況が続く日本では、自国の危機管理政策も纏め上げられなければ、半島有事に備えようとする米国への有効な支援体制を打ち出すことも不可能であった。
 こうした現状を踏まえ、冷戦後の日米の安全保障関係の在り方について両国間で検討が加えられた。それは1996年4月の橋本龍太郎首相とクリントン大統領による「日米安全保障共同宣言」の発表という形で結実した。この宣言は、日米安保条約を基盤とする日米の安全保障関係が、

(1)21世紀に向けたアジア太平洋地域の平和と安定を維持する基礎であること
(2)米国がこの地域に10万人の前方展開兵力を維持し続けることを再確認する
とともに
(3)日本がわが国周辺地域の安全保障に寄与する意思を明らかにした。
 しかも、単なる二国間の関係としてではなく、多国間協力やグローバルな枠組みの中で日米関係の意義を捉えたこと(「世界の中の日米安保」)等この宣言は、それまでの日米安保条約の「日本防衛」(第5条)と「極東の平和と安全のための米軍への施設・区域提供」(第6条)という枠組みが、「アジア太平洋地域の平和と安定の維持」や「地球的規模での協力」へと拡大され、同条約の事実上の改定にも等しい重要な意義を帯びたものであった。

新ガイドラインと周辺事態安全確保法

 日米安保共同宣言を受け、日米両政府は冷戦下の1978年に制定された「日米防衛協力の指針(ガイドライン)」の見直し作業を開始し、翌97年9月、日米安保協議委員会によって新ガイドラインが了承された。新ガイドラインは「平時(平素から行う協力)」、「日本有事(日本に対する武力攻撃に際しての対処行動等)」 、「日本周辺有事(日本周辺地域における事態で日本の平和と安全に重要な影響を与える場合の協力)」 の3分野について日米の役割分担を示したが、最大の特徴は、防衛協力の重点を安保条約第5条事態(日本有事)から6条事態(周辺有事)にシフトさせた点にある。
 自衛隊は国土防衛に徹し、在日米軍は日本の防衛とともに極東の平和と安全の維持のために活動するというのがそれまでの日米安保条約に基づく役割分担であったが、新ガイドラインの制定によって、日本には極東を含む日本周辺地域で有事が発生した場合に、米軍を後方支援する役割が求められるようになった。そして新ガイドラインを実効あらしめるため、日本政府は99年5月に周辺事態安全確保法を制定。米軍に対する「後方地域支援」および「後方地域捜索救助活動」が規定された。

米国の戦争と相次ぐ自衛隊の海外派遣

 2001年9月に米国で同時多発テロが発生すると、ブッシュ大統領は直ちに報復を宣言し、日本はじめ各国に対テロ戦への協力を呼びかけるとともに、事件の首謀者とされるイスラム原理主義者のウサマ・ビン・ラディンを支援・庇護するアフガニスタンのタリバン政権に対する攻撃を開始した。
 10月29日、米軍等に対する協力支援、捜索救助、被災民救援の三つの活動を実施するための「テロ対策特別措置法」が成立、 これを受け海上自衛隊の補給艦等がインド洋に派遣され、米英等10か国艦艇への燃料補給を実施した。またアフガニスタン被災難民のための生活関連物資を自衛艦がパキスタンまで輸送したほか、航空自衛隊の輸送機が国内及び在日米軍基地からグアム方面への国外輸送任務にあたった。戦闘下の米軍に自衛隊が支援を行うのは、これが初めてのことであった。
 翌03年3月20日、大量破壊兵器の拡散を懸念するブッシュ政権はイラク攻撃に踏み切った。米国の単独行動主義に国際世論が割れるなか、小泉政権は直ちに「攻撃への支持」を表明し、7月にはイラク人道復興支援特別措置法が成立した。同法に基づき、イラクにおける人道復興支援や安全確保支援の活動を行うため、12月以降自衛隊の部隊が順次イラクに派遣された。人道復興支援活動とは、イラク住民の救援や被害復旧、またはイラクの復興を支援するための活動で、具体的には医療・給水・学校等の公共施設の復旧・整備や復興関連物資の輸送業務等である。安全確保支援活動とは、国連加盟国がイラク国内で行う安全・安定回復活動を支援するための実施措置で、医療や輸送、給水活動等である。 しかし「非戦闘地域」での活動が派遣の前提とされながら、戦後イラクの治安状況は悪化、テロの続発等改善が見られず派遣に反対する世論が支持を上回った。

北朝鮮の脅威とミサイル防衛システムの導入

 国際テロの脅威に加え、東アジアでも緊張が高まった。冷戦体制が崩れ、旧ソ連、中国との関係が疎遠化したことで経済的に行き詰まりを見せた北朝鮮が挑発的な動きを見せるようになった。日本周辺では北朝鮮の不審船が活発に行動し始める。
 99年3月、能登半島沖で北朝鮮の不審船2隻が海上保安庁の巡視船の停船命令と威嚇射撃を無視して逃走を図った。海上保安庁による対処では不十分と判断した政府は戦後初めて海上自衛隊による海上警備行動を発令し、護衛艦とP-3Cが警告射撃や爆弾投下等を行った(不審船は逃走を継続し補足できず)。01年12月には奄美大島沖で再び北朝鮮の不審船が発見された。この時、海上保安庁の巡視船が船体への威嚇射撃を実施、不審船は被弾炎上しながらも逃走を続けた後、東シナ海で自沈した。
 また北朝鮮はミサイル開発を進め、93年5月には日本海中部に向けてノドンと思われる弾道ミサイルの発射実験を実施。98年8月31日にはテポドン1号 と見られる弾道ミサイルを日本に向けて発射。ミサイルは日本列島の上空を横切り、三陸沖の太平洋に落下した。これは日本が戦後初めて経験した国土侵略への直接的な脅威となる事件であった。
 北朝鮮のミサイル脅威に対処するため、03年12月、政府は米国が既に開発したBMD システムの導入を決定した。日本のMDシステムは、飛来する弾道ミサイルを大気圏外(ミッドコース)段階では海上配備(イージス艦)のSM3ミサイルで迎撃し、撃ち漏らしたものは着弾直前(大気圏再突入時) のターミナル段階で、地上配備(航空自衛隊高射部隊) のPAC3ミサイルで迎え撃つ2段階からなり、07年3月には航空自衛隊入間基地に最初のPAC3が配備された。

有事対処の体制整備

 北朝鮮の脅威の増大や第三次台湾海峡危機の発生など日本周辺における国際情勢が緊迫する中で、有事を想定した法令の整備がほとんど手付かずのままである実態が問題視された。
 そのため2003年6 月、いわゆる武力攻撃事態対処関連3 法(武力攻撃事態対処法、安全保障会議設置法一部改正法、自衛隊法等一部改正法)が国会で成立した。 武力攻撃事態対処法は、武力攻撃事態等への対処について、基本理念、国と地方公共団体等の責務、国民の協力その他の基本事項を定め、武力攻撃事態等への対処態勢を整備したものである。また武力攻撃事態等への対処に関して必要となる法制の整備事項を定めており、これを受けて04年6月に有事関連7 法案が成立している。

抑止から対処重視の自衛隊へ

 07大綱の策定後、世界規模の武力紛争が起きる可能性はさらに遠のく一方、国際テロの活発化や大量破壊兵器拡散の危険性、民族・宗教を因とする地域紛争の激化等新たな脅威が高まった。日本周辺でも、北朝鮮の核・ミサイル脅威の増大に加えて中国の軍事大国化が懸念さるようになった。こうした環境の変化に対応すべく04年12月に策定された新たな「防衛計画の大綱」では、抑止効果を重視する従来の基盤的防衛力構想を見直し、国内外の様々な事態への「対処能力」がより重要視されることになった(抑止重視の「存在する自衛隊」から対処重視の「より機能する自衛隊」へ)。
 そのため、既存の装備・要員の抜本的な見直しと縮減を行うとともに、弾道ミサイル攻撃、ゲリラや特殊部隊による攻撃、島嶼部への侵略、領空侵犯や武装工作船の跳梁、大規模・特殊災害等新たな脅威や多様な事態に対応することのできる「多機能で弾力的な実効性のある防衛力」(即応性、機動性、柔軟性および多目的性を備え、高度な技術力と情報能力に支えられた防衛力)の整備に重点が置かれた。
 また統合幕僚監部の創設など自衛隊の統合運用体制の強化が進められた。さらに自衛隊の管理からその運用・活用へと業務の主体が変化するなかで、防衛政策の企画・立案能力の強化や増大する業務量に対応すべく、防衛庁に代わり防衛省が創設された(07年1月)。

3 高まる中国の脅威

安倍内閣の防衛改革

 2010年代に入ると、経済力を背景に軍備の拡大を続ける中国の脅威が顕在化するようになった。そのため2012年12月に発足した第二次安倍内閣の下で、それまでの安全保障政策の枠組みが次々に改められていった。まず2013年には国家安全保障会議が設置され、特定秘密保護法が成立、また外交政策と防衛政策を中心とした国家全保障の基本方針を示す「国家安全保障戦略」が初めて策定された。
 翌2014年には「武器移転三原則」を見直した「防衛装備移転三原則」が閣議決定された。さらに、従来は「国際法上有するが、日本国憲法から行使することができない」と解されてきた集団的自衛権の限定的な行使を容認する憲法解釈の変更が閣議決定された。
 その変更を受け、2015年4月には新たな「日米防衛協力の指針(ガイドライン」が了承され、同年9月に平和安全法制が成立した。平和安全法制は、集団的自衛権の行使の要件を盛り込んだ改正武力攻撃事態法など10本の一括法改正と自衛隊の後方支援について定めた新法の「国際平和支援法」からなるもので、その主な内容を列挙しておく。

<集団的自衛権の限定行使容認>

 これまで武力の行使は日本が直接攻撃された場合に限定されていたが、武力攻撃及び存立危機事態法を制定し、必ずしも日本が攻撃されていない場合でも攻撃できるケースを認めた。戦後日本の安全保障政策を大きく転換するものである。集団的自衛権の限定的な行使が認められるのは、以下の「新たな三要件」を満たす必要がある。
(1)我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は 我が国と密接な関係にある他国に対する武力 攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅か され、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が 根底から覆される明白な危険があること(=存立危機事態)
(2)これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を 守るために他に適当な手段がないこと
(3)必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

<重要影響事態における後方支援活動等の実施>

 周辺事態安全確保法を改正する形で、重要影響事態安全確保法が制定された。「重要影響事態」とは、「そのまま放置すれば我が国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態」をいう。この事態において戦闘活動を行う米軍などの外国軍隊に対し、自衛隊は後方支援活動、捜索救助活動、船舶検査活動の三つの支援活動を行うことが可能で、米軍以外の外国軍隊等への支援も可能になった。支援メニューも拡大され、物資の補給や輸送、整備などに加え、新たに弾薬の補給や発進準備中の航空機への給油が可能となった。この改正に伴い「周辺事態」という地理的概念が撤廃された。

<国際平和支援法制定>

 これまで自衛隊はインド洋での補給支援活動、イラクでの輸送支援等の活動に従事してきたが、いずれも事案が生じるたびに個別に時限法を成立させて対応してきた。そこで事態発生後速やかに対処できるよう恒久法として国際平和支援法が成立された。この法律では「国際平和共同対処事態」という新たな概念を設定、協力支援活動、捜索救助活動、船舶検査活動をその内容とする。

<PKOの武器使用基準の見直し>

 国連平和維持活動(PKO)に参加する自衛隊はこれまで、自分や近くにいる人の身を守る正当防衛や緊急避難の場合に限って武器を使うことができた。武器を使う相手に、武装集団以外の「国や国に準ずる組織」がいれば、憲法9条が禁じる海外での武力行使にあたるとされたからだ。平和安全法制では、国際平和協力法を改正し、住民の保護や検問などの治安維持を目的とする「安全確保活動」や、離れた場所で武装集団に襲われた他国部隊を助ける「駆けつけ警護」が可能となった。東西冷戦終結後、PKOの任務は多様になり、国連は自衛隊の活動分野拡大に期待していた。それに応える措置といえる。
 また国連が統括しない「国際連携平和安全活動」にも参加できるようになった。国際連携平和安全活動とは、国連総会や国連安保理の決議やEUなどの地域機関の要請によって行われる活動を意味し、人道復興支援や停戦監視、選挙監視、統治組織の設立・再建援助などの活動が含まれる。

安保関連3文書の改定と反撃能力の規定、高市政権の発足

 その後、国際情勢の緊迫などに対処すべく2022年12月に「国家安全保障戦略」など安全保障関連3文書が改定され、併せて従来の「防衛計画の大綱」は「国家防衛戦略」に、「中期防衛力整備計画」は「防衛力整備計画」に改められた。
 「防衛計画の大綱」は1976年(昭和51)に初めて作られ、これまでに6回策定された。今回の改定では、米国と同じ名称となる「国家防衛戦略」に改め、戦略的な側面が重視された。さらに、防衛装備品の5年間の調達計画を定めた「中期防衛力整備計画」は対象期間を10年間とし、名称を「防衛力整備計画」に変更された。
 2013年の「国家安全保障戦略」では、安倍元総理が提唱した「積極的平和主義」の概念が前面に打ち出され、またそれを具体化するための施策が体系的に記載されていた。それに比して22年に改定された「国家安全保障戦略」では、安全保障政策に対する特徴的な哲学やコンセプトは影を潜め、それに代わり「反撃能力」の保有を強調したものとなっている。
 「他に手段がない時に誘導弾などの敵基地を攻撃することは自衛権の範囲」で憲法上許されるとの政府解釈(昭和31年の国会答弁)は既に固まっていたが、これまでは政策的判断からそのための防衛力の保有は見合わせてきた。22年の3文書改定では、敵基地攻撃能力を反撃能力と言い換えたうえで、そのための防衛力の保有を初めて認めたもので、戦後防衛政策の大きな転機を為すものといえる。
 反撃能力の行使時期について政府は、武力行使の三要件を満たして初めて行使出来もので、武力攻撃が発生していない段階での先制攻撃は許されないとし、国際法に違反する先制攻撃を禁じている。もっとも相手が攻撃を開始していなくても、攻撃に「着手」している段階で攻撃発生と解し、反撃能力を行使できるとの立場をとっている。
 22年の改定では、ミサイル攻撃に対する効果的な防御が難しくなったことを理由に、ミサイル攻撃に対する反撃能力の保有を認め、反撃能力を構成する防衛力の内容については「相手の領域において我が国が有効な反撃を加えることを可能とするスタンドオフ防衛能力」とし、具体的には国家防衛戦略で長射程ミサイルを挙げている。つまりミサイル攻撃に対してミサイルで反撃するケースを念頭に反撃能力を論じている。
 冷戦終焉後、日本の防衛予算は抑制を強いられてきた。しかし日本の防衛予算が低い水準で推移しつつあった時期、中国は軍事費を急増させてきた。また北朝鮮の核・ミサイル脅威も強まっている。こうした増大する脅威に対処するため、22年の改定では防衛力の抜本的強化に乗り出し、防衛費の対GDP比を2%に引き上げる方針も打ち出された。
 さらに改定された「国家安全保障戦略」では、衛装備品の海外への移転は、力による一方的な現状変更を抑止して、我が国にとって望ましい安全保障環境の創出や、国際法に違反する侵略や武力の行使又は武力による威嚇を受けている国への支援等のための重要な 政策的な手段であるとして、防衛装備移転三原則や運用指針を始めとする制度の見直しについて検討することとされた。
 また2023年度末には大規模災害や台湾有事といった事態に備え、部隊の即応性を高める狙いから 陸海空3自衛隊の各部隊を一元的に指揮する防衛省の常設組織である「統合作戦司令部」が設けられた。3自衛隊をまたぐ指揮権限を持つ司令部はこれまでなく、2006年の統合幕僚監部の設置後は制服組トップの統合幕僚長が指揮権を持つ防衛相を補佐する形で東日本大震災などの大規模災害時に統合任務部隊を臨時編成して対応してきた。
 今後は統合作戦司令官が宇宙やサイバーなどの新領域を含む各部隊の状況を平時から把握。有事の際には戦力配分から作戦指揮まで幅広い権限の下、領域横断作戦を展開する。それに伴い統合幕僚長は防衛相の補佐が中心的な職務となる。米軍も現在、在日米軍司令部の権限を強化して「統合軍司令部」に再構成する計画を進めており、日米の部隊の指揮・統制の向上が図られることになる。
 さらに2025年10月に発足した高市政権は、安保関連3文書の2026年中の改定を目指とともに、防衛費を2027年度に国内総生産(GDP)比2%に増額する目標を25年度中に前倒しする方針を打ち出している。また自民党と日本維新の会との連立政権合意書では、原子力潜水艦の保有や防衛装備移転三原則の運用指針の5類型撤廃、自衛隊の階級呼称を国際標準に改めることなどが政策実現加田とされている。さらに高市首相は非核三原則の改廃を検討していると報じられており、政権幹部からはオフレコながら日本の「核武装」を肯定する発言さえ飛び出している。

4 安全保障政策の変容:総括

 戦後80年の前半期は平和憲法の制定に始まり、高度経済成の時代を通して次第に「吉田ドクトリン」なる神話が形成され、定着していった時代であった。それに対し今回取り上げた昭和100年かつ戦後80年の後半期は、「吉田ドクトリン」の原理を超えようとする動きが強まっていった時代と捉えることが出来よう。ここで確認のため、所謂「吉田ドクトリン」の特徴を次のように整理し、纏めてみた。

日本防衛を米国に委ねつつ、米国の対日防衛圧力を極力回避する 
米国の防衛力増強要求をかわすための対米交渉の取引材料が自衛隊
そうした性格の下で成長を遂げた自衛隊の規模・能力と憲法規範との乖離が強まる
そのため憲法解釈の間隙と限界を縫うような複雑難解な行動指針が定められる

 その結果、自衛隊の行動原則は下記のように一般の軍隊には見られぬ制約や特異性を帯び、かつ歪な国防組織となっていった。

国防原則 専守防衛 行動原理は自衛権の行使 米軍が槍・自衛隊は楯の役割分担
装備品  攻撃用や航続距離の長い兵器は保有できず 武器輸出3原則の堅持
行動範囲 日本の領土及び周辺海空域が中心

 これに対し戦後80年の後半期、我が国の安全保障施策はめまぐるしく、かつ大きな変化を遂げた。その様変わりの状況をポイント的に整理するならば、次のように纏められる。

自衛隊の海外展開が一般恒常化し、PKO等における活動の幅も次第に拡大されたこと  
憲法上認められないとされていた集団的自衛権の行使が米国、さらに米国以外の国との関係でも部分的に容認されたこと
事実上のヘリ空母やオスブレーのような航続距離の長い航空機、さらに反撃能力を有する装備品を保有するようになったこと
米軍及び米軍以外の外国軍隊に対する後方支援態勢が拡大強化されたこと
陸海空自衛隊の統合及び米軍との一体的運用が本格化し始めたこと
防衛装備品の輸出が大幅に緩和されたこと

さらに

原子力潜水艦の保有や非核三原則の改廃も政策の視野に入ってきたこと

 こうした安全保障政策の変化に伴い、“自衛隊は楯、米運は鉾あるいは槍”というこれまでの日米の防衛における役割分担も変化を遂げつつある。いまや自衛隊は欧米諸国の軍隊と変わりなく、部分的にはそれを凌ぐ程の武装組織へと拡充強化された。しかも権威主義諸国との対立など厳しい国際情勢や米一国主義を唱えるトランプ米政権が同盟国に対し防衛負の大幅拡大を求める動きの中で、防衛費の増大や自衛隊の強化が今後も継続される状況にある。
 そのため、自衛隊・防衛力の歯止めをどうするかという戦後一貫して問われ続けてきた課題が依然として生き続けており、その重要性はこれまで以上に増している。もっとも中国やロシア、北朝鮮の脅威の増大と米国の東アジアへの関与低下への懸念から、防衛力増強論が力を得て、歯止めの論議を抑え込む傾向にある。
 また事実上「吉田ドクトリン」は死滅状態に近づいているが、それにも拘らず顕教的には「吉田ドクトリン」は日本社会において今日もなお生き続けている。平和憲法の下で自衛隊の存在を容認するための論理に用いられてきた「吉田ドクトリン」であるがゆえに、平和憲法の改正そのものが論議の俎上に載せられねば「吉田ドクトリン」の放棄廃止は宣言できないからである。日本国憲法の改正問題は相当な年月を経ながらも、そして日本を取り巻く国際環境が戦後最も厳しさを増す中でも、未だに憲法改正に向けての大きな動きは出ておらず、改憲の具体的な政治日程も白紙のままである。
 防衛力の適正規模やその拡大に対する歯止めの議論は、最高法規である日本国憲法の規定の在り方だけに矮小化すべきではないが、敢えて憲法との関係に問題点を絞れば、仮に護憲の立場から日本国憲法の平和主義や第9条の改正に躊躇し、また今後も反対を続ければ、憲法規範と防衛力の実態の乖離が益々大きくなっている現状を放置、黙認することになってしまう。もっとも、憲法に自衛隊の存在を明文化すべきとの改憲論に拠れば、結果的に日本国憲法が防衛力増大の歯止めの機能を喪失してしまうのではないかとの恐れや懸念も生まれよう。
 健全な防衛力の保有を肯定しつつ、その規模や権能に適正な歯止めをかける、その両方の課題を憲法規定の改正作業を通して実現することを目指すと、改正すべき条項の既定の仕方や条文案の文言を巡り改憲議論が長びき、混迷の期間がさらに延びることが予想される。そうなれば、その間はこれまでと同じように、なし崩し・状況対応型の防衛力整備や安全保障政策が今後も継続されることになろう。
 国際情勢が厳しさを増し、また米国の影響力の後退や米一国主義の台頭などで日米の同盟関係にもこれまでとは異なる変化の様相が強まっている。そうしたなか、自衛隊の位置づけや防衛力の歯止め問題など、日本の安全保障政策はこれからも曖昧なまま漂い続けることで良しとするのか。果たしてそのような態勢で我が国は東アジアの危機に対処できるものだろうか。

5 日本の国力・国情の変化と存在感の低下

経済の衰退と社会構造の変化

 防衛力及び防衛政策が大きく変容したばかりでなく、昭和100年、そして戦後80年の後半期にあっては、日本を取り巻く内外の環境も大きく変化した。まず日本経済の落ち込みが顕著となった。一時は世界第2位の経済大国であったが、現在は4位に後退、今後さらに順位を下げることが確実だ。世界経済における日本の名目GDPのシェアは1995年の17.8%から2024年には3.7%にまで縮小した。
 経済力の低下が進んだだけでなく、日本社会の構造も大きく変化した。急速な高齢化と少子化に伴う労働力人口の減少が経済成長の大きな足枷ともなり、もはや国力の衰退が避けられない段階に入っている。そうした経済・社会構造の変化に国民の意識は必ずしも追随出来ておらず、いまだに経済大国であるかの錯覚も根強い。危機感に乏しく、世界の中で低下を続ける日本の立ち位置やその影響力の後退を正しく把握されていないことは由々しき問題である。

国家目標の長期喪失

 バブルの崩壊からまもなく半世紀を迎えようとしているが、日本は過去の停滞から抜け出せていない。「失われた40年」が「失われた50年」へと推移しつつあるなか、21世紀の日本が目指すべきビジョンの提唱や提起は為されていない。バブル崩壊の1990年代初頭はおろか、二度のオイルショックで「高度経済成長」の時代が終焉して以降、今日にいたるまで、国家として目指すべき目標やナショナルゴールを打ち出せない状況が続いているのだ。
 昨年、自民党はその結党から70年目を迎えた。それを記念して2025年11月15日の結党70年の記念日に合わせ、新たな「国家ビジョン」の策定を予定していた。だが結局、構想は纏まらず、「国家ビジョン」の取りまとめを延期せざるを得なくなってしまった。政権政党が次の世代、世紀に向けた国家のあるべき方向性やビジョンを提起できないのが今日の日本の行き詰った窮状をまさに示していると言えよう。
 しかも、深刻な少子高齢化のなか、冷戦終焉後におけるグローバル化の進展や新自由主義の横溢で格差の拡大が進み、日本社会に纏まりと安定感を与えていた豊かな中流層は消失してしまった。難題は増える一方で、それを解決するためのビジョンや施策は底枯れの状態なのである。

政治の混迷

 そのため、国家としての凝集力や成長に向けての躍動感が生まれず、国力衰退が続く中、社会の閉塞感ばかりが強まり、生活苦や移民問題への不満が保守・排外・極右の政治信条を勢いづかせている。
 そのような問題に対処し、解決を図るのは政治の力であり、かつ政治の責任でもある。だが政治への期待感は乏しい。かって日本は官僚主導の政治構造にあった。しかし戦後80年の期間を通して官僚の影響力が徐々に低下し、現在の日本の官僚や官僚機構には高度成長期のような力はとうになくなっている。
 その穴を埋めるのが政治家であり政治の役割であるはずが、55年体制が崩壊したものの、それにとって代わるべき政治の新たな枠組みが未だ定まらず、政治そのものも混迷の状況から抜け出せないでいる。
 冷戦の終焉後、自民党が野に下り、細川連立政権の下で政治・選挙制度改革が進められた。そして健全な政権交代や二大政党制の実現を目指し、それまでの中選挙区制に代えて小選挙区制が導入された。しかし2009年に民主党が選挙で大勝し、一度だけ政権交代が実現したものの、その後、野党が自民党に代わり政権を担える状況は生まれていない。
 二大政党制は誕生せず、以前よりも多くの少数政党が乱立するようになった。自民党も議席を減らし、その長期低落に歯止めが掛かっていない。安定的な保守政権も存在せず、与野党間の政権交代も起きず、多党化現象が強まる中、乱立する野党の一部との連立政権という流動的な政治状況が常態化している。
 多様な民意を政治に組み上げられるような政治の枠組みを整備する。また国際情勢の激変や日米関係の変質に鑑み、それに対応し得る安全保障政策をまず確立し、拡大を続ける防衛力をどのように位置づけ、どの程度の規模をゴールとするのか、その方針を明確化させるとともに、そのための防衛体制整備を急ぐ。
 さらに国力の低下に歯止めをかけ、日本を再生復活への軌道に乗せる。その実現に際し、新たな日本像を提起し、21世紀のナショナルゴールやグランドデザインを国民に示す。こうした一連の課題が総て手つかずのまま、いまの日本は今日も漂流を続けている。

西川 佳秀 平和政策研究所上席研究員
著者プロフィール
1978年大阪大学法学部卒。防衛庁入庁、防衛研究所研究室長、東洋大学教授等を経て、現在、東洋大学現代社会総合研究所研究員、(一社)平和政策研究所上席研究員。法学博士(大阪大学)、国際関係論修士(英国リーズ大学)。専攻は、国際政治学、戦略論、安全保障政策。主な著書に『ポスト冷戦の国際政治と日本の国家戦略』『ヘゲモニーの国際関係史』『日本の外交政策―現状と課題、展望』『特攻と日本人の戦争』『日本の安全保障政策』他多数。

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