政治の安定と政治エリートの育成 ―英国に学ぶ日本政治のあるべき姿―

政治の安定と政治エリートの育成 ―英国に学ぶ日本政治のあるべき姿―

2018年3月20日

はじめに

 最近、日本と英国の間において、「新」日英同盟の復活や両国の外交・安全保障戦略についての議論が話題に上っていたが、現代においても英国から学ぶべきことは多々あるのではないかと思う。
 明治維新以降、日本はさまざまな面で英国から学び近代化を成し遂げた。いま再び「新」日英同盟への気運を一つの契機として、これまでのように米国にだけ目を向けるのではなく、もう一度英国から学んでみることは意味のあることと考える。その一つとして、近年政治改革が叫ばれる折、英国の政体について目を向けることは、現代日本が直面する政治上の苦境と混迷を打開するヒントになるのではないかと思う。
 英国というと「近代民主主義の発祥の地」と言われるが、不思議なことにいくつかの矛盾を抱えている。その一つが、近代民主主義が生まれた国であるのに、他方、王室だけでなく、貴族という階層が今でも存在し、世界でも有名な階級社会を形成している点である。
 19世紀英国の偉大な政治家ベンジャミン・ディズレーリ(1804~81年)は、小説家でもあるが、その小説『シビル、または二つの国』(原題:Sybil, or The Two Nations)の中に次のようなくだりがある。
「英国はひとつだが、中にはふたつの国が在るのだよ。すなわち、上流階級以上とそうでないもの。このふたつは言葉は通じれども別の国だ」。
 すなわち、――大英帝国は一つの国のように見えるが、実際には二つの国、上流社会と下級社会がある。それらはまるで別の国のようでまとまりがなく、まったく別個に存在していると、嘆いているのである。
 19世紀の後半、英国は階級社会へと変質していった。19世紀末から20世紀前半の重化学工業を中心とする二度目の産業革命に英国が乗り遅れ、その後の衰退につながったが、その原因の一つとして、英国が階級社会化したことが指摘されている。そして今日でも英国は、貴族が存在する階級制社会である。近代民主主義揺籃の地英国が、未だに階級社会、貴族制を抱えているという点は、真の民主化・平等を実現できなかったという負の側面といえるかもしれない。
 他方、英国の政治制度における正の側面は、あまり日本では知られていないので、指摘しておく必要があるだろう。英国の政体は、立憲君主政(王政)、貴族政(貴族の存在)、民主主義の三つの政治システムが併存・混在している。これはいかにも民主主義の不徹底に見えるが、むしろこれこそが、英国を大国、あるいは覇権国家としての寿命を長からしめている要因の一つになっているのではないか。そこでこの問題について考察してみたい。

1.戦後日本に強い絶対的な民主主義礼賛思考

(1)民主主義妄信の戦後日本人
 戦後、米国の占領政策の影響もあって、日本は米国型民主主義について全く疑いをはさむ余地がないような教育をしてきた。その結果、民主主義をどれだけ取り入れたかの度合いによって日本の近代化の程度が測れるというような「常識」が、日本社会を覆うようになった。
 一方、ヨーロッパのインテリ層の考え方をみると、それほど民主主義に対して楽観的なとらえ方をしていない。彼らは、民主主義も政治システムの一つにすぎず、120%完璧な素晴らしいものだとの認識をもっているわけではない。むしろ懐疑的なとらえ方をしている。ここに民主主義に対する妄信的な信仰心を持っている日本人と、ヨーロッパのインテリ層との違いがある。
 これに関連してチャーチルは、次のような言葉を残している。
「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」。
 つまり、他の制度と比べれば(民主主義は)少しはましだという認識であり、民主主義であれば全く問題ない、民主主義制度をとっていれば国は安泰だなどという認識は全くもちあわせていないのである。
 もう一つは、ヨーロッパの議会制・代議制・立憲主義などの政治システムと(近代)民主主義は、必ずしも同義語ではないということである。例えば、議会制についていえば、中世時代には「三部会」(聖職者・貴族・平民)という(身分制)議会があったが、これは(近代)民主主義とは直接関係がない。
 われわれは、よく「議会制民主主義」のようにそれらを一体のものとして考えているが、正確に言えば決してそういうことではない。近代民主主義制度が定着する以前から、議会制度は存在していたし、マグナカルタや国家規範に相当するような根本法規は、民主主義制度が始まる以前から存在していた。
 日本人一般の傾向として、憲法秩序や政治システム、議会制度、それらをみな一括して民主主義制度として理解しているために、それを変えることに対して非常な抵抗感がある。ここに大いなる誤解があるように思う。そもそも議会制度は、13世紀以来の(近代民主主義より)長い伝統があるわけで、近代民主主義以降のものではない。憲法についても同様で、憲法=民主主義というわけではなく、改憲行為=民主主義への挑戦や否定でもないので、憲法改正に対してむやみにおびえる必要はない。むしろ改憲や議会制度の在り方を検討することで、日本の身の丈に合った政治制度を生み出していくべきではないか。そのような時が来ているのではないかと思う。

(2)ヨーロッパにおける政体論
 ここでヨーロッパ文明の根に当たるギリシア・ローマ文明において、民主主義がどのように理解されていたかについてみてみよう。
 その代表的なものは、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの考え方であるが、この三者の認識は共通してみな民主主義に対して肯定的ではない。
 ソクラテス(前469~前399年)は、ギリシアの直接民主政が貴族政となり次第に変質して僭主政になったころ、それを批判的にコメントしたことを理由に死に追いやられた。彼は、悪法も法なりと、従容として死地に赴いたといわれるが、その悪法を作ったのは僭主政であって、ソクラテスは僭主政を生んだ民主政に否定的な見解を持っていた。結局ソクラテスは衆愚政の犠牲者となったのであった。
 ソクラテスの弟子であったプラトン(前429~前347年)は、『国家』という本を著したが、その中で彼は哲人王の政治を理想とし、非常に賢く優秀な一人の王が統治するのが最もよい国政だと説いた。王政が最もよいのであるが、やがて経済の発展とともに政治参加の主体が拡大して貴族政となり、さらにその範囲が広がると民主政に移行する。やがてそれは衆愚政に陥って国が滅ぶが、再び優れた王が現われて王政を行い、同様の変遷をたどって歴史は流れていくという政体崩壊論を説いた。
 民主政は、衆愚政の一歩手前の政体であるから、非常に危険な政治システムであるとの認識である。プラトンは、政治参加の範囲が狭ければ狭いほどよいと考え、王政がベストだと説いたのである。
 もっとも、晩年になるとプラトンは考え方を変え、哲人支配(王政)がベストだとしながらも、次善の政体として君主政と民主政の混合政体がいいと考えるようになった。
 この考えをさらに進めたのがアリストテレス(前384~前322年)であった。王政が優れているとはいっても、その国の中で最も賢く啓蒙的な人物が王になるとは限らないので、ある程度政治参加の範囲は広い方がよいが、広すぎてもよくない。そこで寡頭政(貴族政)に民主政を混合させた政体(中庸)を推奨したのである。
 ソクラテス、プラトン、アリストテレスの三人を総合すると、それぞれ民主政には懐疑的であり、貴族政・民主政などいくつかの政治システムを抱き合わせるのがよいのではないかと考えた。
 こうしたギリシアの考え方をさらに一歩発展させたのが、ローマのポリビオス(Polybios、前203頃~前120年頃)であった。ローマの歴史家ポリビオスは『歴史』という本を著し、その中でローマが覇権国家として長期間にわたり繁栄を遂げた要因を探った。そして彼は、ローマの繁栄の要因は混合政体にあると結論付けた。その要点は次のとおりである。
 ローマは、都市国家から発達し(王政の一時期を経て)共和政となり、最後は帝政となった。共和政時代と帝政時代では微妙に政治システム上の違いはあるものの、基本的にローマは、王政、貴族政、民主政のミックスチュアとしての混合政体という政治システムをとっていた。
 この三つを抱き合わせることによって、それぞれの長所をうまく生かせる政治システムとなるのである。短い時間内で思い切った政治決断をするときには<王政>の原理を用い、英知を集めた政治を行おうとするときには<貴族政>の原理を用い、大衆が考えていることと政治指導者の考え方の間にずれが出てくると国の崩壊につながりやすいので、大衆が何を考えているかを吸い上げるためには<民主政>(ローマには民会あるいは平民会と呼ばれる立法機関があった)の原理が必要になる。そしてこれらの三つの機能を兼ね備えている政治システムこそが最強だとしたのである。
 ローマはこれら三つの機能を持つ政治システムを兼ね備えており、これがローマの繁栄の要因だと説いた。キケロもその著書『国家論』の中で、ポリビオスの混合政体論を評価した。民主政をたたえる声は多いが、古代ギリシアのアテネが栄えたのはせいぜい50年、それに対して混合政体を採ったローマは5世紀近い繁栄を誇った事実を見落としてはいけない。

2.史例にみる混合政体の輝き

 ローマ時代500年とベニス千年の繁栄を支えた統治システムについて、混合政体の視点から簡単にまとめると表のようになる。


 混合政体の視点に加えて、ローマの長き繁栄を支えた要素として、つぎの三つのKを上げることもできる。
 1 混合政体
 2 寛大性
 ローマは異民族(の統治)に対して非常に寛大だった。あれほど広大な領地をあまり苦労しないで統治することができたのは、そのためだった。
 3 公共性(寄付・名誉・愛国心)
 ローマは、水道橋や道路をつくるなどインフラ土木工事で栄えたともいわれるが、ローマの大きな建造物の多くは、有力な貴族や資産家の寄付で作られた。彼らは、自分の名前を建造物に刻んでもらい、自分の財力がいかにローマの繁栄に寄与・貢献したかを示そうとした。
 日本の学校の歴史教育では、ギリシアの民主政の意義はよく教えられるが、ギリシアの繁栄はせいぜい50年足らずだ。一方、ローマは都市国家から始まり西ローマ帝国が滅びるまで5世紀にわたり繁栄した。直接民主政がいい制度であるのならば、なぜそれを取り入れたギリシアが50年で滅び、ローマの政治が悪いのになぜ5世紀も栄えたのか。その違いは、直接民主政だけを取り入れたギリシアと混合政体をとったローマというところにあったのではないか。
 迅速柔軟な意思決定(王政)、叡智を結集できるシステム(貴族政)、政治権力者と民意が乖離しない民主政という、三つのシステムを抱き合わせているがゆえに、ローマは長い繁栄を享受することができたのではないか。
 ヨーロッパ中世の後半から近世にかけて栄えた都市国家にベニスがある。伝説によれば、北イタリアの都市住民がゲルマン民族のイタリア侵略によってその地を追われ、行き場を失った人々は一時の避難場所としてラグーン(干潟)などの湿地帯に出ていって暮らし、ゲルマン民族がいなくなると再び陸地に戻るということを繰り返していた。そのうちに杭、ワラや粘土などでラグーンの上に居住地を作り、やがて都市国家となっていったといわれる。ベニスはローマとは対照的に支配地域は非常に狭い。しかしローマとの共通点は、ベニス千年の繁栄といわれるように、ローマ以上に長期間にわたる繁栄を謳歌した点だ。
 このベニスの政治システムをみてみると、ローマ同様に三つの政治システムの混合政体であることがわかる。一つは、王政に相当する「総督(ドージェ)」、次に貴族政に相当する「10人委員会」(総督が悪いことをしたときにはそれを牽制し、思い至らない時には知恵を授けるために優秀な貴族から選抜された人により構成された)などがあり、そして民主政に相当する、貴族全員が参加する民主的議会である「評議会」というように、三つの政治システムを取り入れそれらが併存していた。これらの混合政体が、ベニス千年の繁栄の要因であったのではないかと考える。
 やがてベニスは、オスマン帝国の支配とポルトガルのインド航路開拓といった大航海時代の幕開けによって、ベニスがそれまで独占していた香料貿易が奪われ衰退していった。しかし、その衰退は後世の英国と同様、極めて緩やかなものであり、ナポレオンの侵略で都市国家ベニスは消滅するものの、大航海時代からさらに300年近い繁栄を続けていたことを我々は知らねばならない。それが可能になったのは、激動する国際情勢にその都度敏感に反応し、柔軟に対応できる政策決定システムをベニスが有していたからであった。
 さて、大航海時代以降、ヨーロッパの覇権はポルトガルに続いて、スペイン、オランダへと移っていき、英仏覇権戦争を経て、最後は英国の世界支配へとつながっていった。ポルトガルやオランダなどの繁栄は比較的短期間であったが、英国のそれは18世紀から19世紀にかけて2度の覇権大国として世界に君臨することとなった。
 英国は、フランスとの新大陸やアジアでの植民地争奪戦に勝利し覇権を獲得、「パクスブリタニカ1」を築いた。ところが米国がフランスの助けを得て独立することによって、「パクスブリタニカ1」は終わる。その後英国は、ナポレオンを打倒した後、アメリカに代わってインド支配を実現することで、19世紀のビクトリア時代に代表されるような「パクスブリタニカ2」という未曽有の繁栄の時代を迎えた。その後二つの世界大戦を経て英国は、覇権国家の座を米国に譲り渡すことになるが、現在でも英国は国連常任理事国という国際的な地位など、日本の座とは比べものにはならないほどの圧倒的な存在感がある。
 このように英国は、18世紀から21世紀にかけて、3世紀以上にわたる繁栄を享受している。同じ大航海時代に世界に進出したポルトガル、スペイン、オランダに比べると、なぜ英国だけが繁栄できたのか。フランスと比べても、なぜ英国が覇権国家の最終的勝者になり、これほど長い繁栄を続けられたのか。
 英国の政治システムをみると、ローマやベニスと同じく三つの政治システムを併存させていることがわかる。一つは、立憲君主政という王政。二つ目が貴族政。英国の上院は終身制の貴族によって構成される貴族院(The House of Lords)。彼らは無報酬であるが「ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」の責務を果たす。三つめが下院の庶民院(The House of Commons)で、平民の代表が集まり彼らの意見を聞く場となっている。このように英国は、混合政体をとっている。一方、フランス革命で「自由、平等、博愛」を高らかに掲げ、国王や貴族を廃し、完全な民主主義を実現したはずのフランスが、その後、1世紀にわたり政治的混乱に陥り、社会の安定を失った。英国に肉薄し、その覇権に挑戦しながらも、最終的に英国にフランスが敗れたのは、この両国の政治制度の違いに一因があるといえる。
 以上のように、混合政体をとっている国が、長きにわたる覇権国家として繁栄を享受できた。この政治システムをとっていない国は、覇権の獲得に失敗するか、一時的に栄えたとしても、比較的短命に終わっているのだ。

3.米国にみる政体の危機

 では、現在の覇権国家米国の政治システムは、どうなっているだろうか。米国は混合政体をとっているのかという点について検討してみたい。
 米国議会において、各州の人口比に従って議員を選出する下院(The House of Representatives)は、民意を代表し、民主政を表わす。日本人にはなかなか理解しにくいところであるが、米国の下院議員は選挙区民のために政治をする。日本では、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」(憲法第43条)と定めた憲法の規定により、国会議員は「全国民の代表」だとされるので、地元への利益誘導はいけないと考えられている。ここに日米両国の下院議員・国会議員の違いが表れている。
 米国はThe United States of Americaという国名に見られるように、州の連合体である。そのため同じ地元といっても、米国のバージニア州と埼玉県の法的な位置は全く違う。健国の理念から言えば、バージニア州という「国(state)」から選ばれた下院議員は、その「国」のために働くことが要請されることになるのだ。一方、埼玉県選出の国会議員が、地元に利益誘導することは憲法の趣旨に反することになりかねず、その意味が違っている。
 それゆえ米国の下院議員は、民主政の一般的議会を代表しており、住民の数(人口)に応じて代表が選出され、住民の望んでいることのために政治活動をするのである。
 他方、上院(United State Senate)は、人口の多寡に関係なく各州定員2名と決められている。上院議員は、(その選出方法からも分かるように)エリートを選び出し叡智を結集する役割であり、その州の住民の声を聞いて仕事をするというよりは、米国のために仕事をするのである。
 ちなみに、英語で上院議員をsenateというが、この言葉が用いられたのは、上院がローマの元老院(Senatus)を意識し、想定して作られたことを意味している。米国の建国の祖(founding fathers)は、上院議員をローマの元老院のような制度として考えたのである。ゆえに米国の上院は貴族政に相当する。
 こう考えると米国の議会制度は、上下両院という形を通して貴族政と民主政の併存として国が始まったとみることができる。
 問題は、混合政体のもう一つのシステムである王政がどうなっているかである。米国は、国が誕生した時から、民がみな自由で、貴族・上流階級などの階級制がない史上唯一の国だ。米国ほど王政や立憲君主政から遠い国はない。こうみると米国は、混合政体としての条件を欠いているのではないかと考えられる。
 そうであれば、米国はローマや英国の程には長い期間にわたって繁栄を維持できなくなる危険性があるのではないか。それがまた、昨今のトランプ現象や米国内の分裂現象に現れているのではないか。
 王政の長所は、賢い王がいて即断即決することができるところにあるが、立憲君主政における王は「象徴(シンボル)的存在」である。日本の天皇は、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(憲法第1条)である。(国難や混乱など)何かがあったとしても、国がまとまるために立憲君主政がある。バジョットが説いた「権力と権威の分立」の妙味である。
 ところが現在の米国は、国全体がまとまる主軸を欠いている。二大政党である共和党と民主党との間で意見が分かれ、国民の間の意見も分かれている。しかもワスプ(WASP=White、Anglo-Saxon、Protestant)の人口が減少して、いまやヒスパニックの国になろうとしているかのようだ。人口のわずか10%ほどの人たちが、7割の国富(資産)を独占しているというようにすさまじい格差社会になってしまった。人種の面でも、経済の面でも、イデオロギーや価値観の面でも米国は分裂状態になっている。
 もし米国に天皇のような存在がいれば、国内の対立や分裂をまとめそれを防ぐことが可能かもしれない。残念ながら、米国にはロイヤル・ファミリーがない。いろいろな問題を孕みながらも、いまだにあれほど米国でケネディー家が美化されるのは、米国にロイヤル・ファミリーがないからだ。この点は、米国にとっての「恥部」といっていいかもしれない。世界で最強最高の国、ほかの国にあるものはすべて持っている米国が、唯一もっていないもの、それが王室である。米国の弱点は、ロイヤル・ファミリーをもっていないことで、それゆえ米国人は英国や日本に対してコンプレックスをもっているのだ。
 米国に立憲王政(に相当するシステム)がないということ、そして現在の米国の分裂状態が今後も拡大していくとすれば、WASPからヒスパニックへと単に国柄が変わるだけにとどまらず、ひとつの国としてのまとまりをうしなってしまう危険性が非常に高まるのではないだろうか。トランプ大統領を中心として米国民がまとまるのは非常に難しいだろう。
 中国やロシアの脅威が叫ばれる昨今にあって、米国がもう一度再生して活性化するためには、米国が国としてまとまらなければならない。そのためのエネルギーを、対テロ戦争や特定国の脅威をあおることで生み出そうというのでは、本当の統合の力にはなり得ないと思う。
 米国は、混合政体のうち、貴族政と民主政はもっているが、王政に相当するシステムがないということは、米国政治の将来を考えたときに「陰」を生むのではないか。それをどのようにして埋めるかが、今後米国政治の本質的課題であろう。強い個性と卓越した指導力をもち、米国人全体がその人物の下でまとまる、そのような偉大な指導者が現れない限り、相対的な影響力の低下が懸念されている米国の覇権に、さらに陰りが出てくる危険性がある。

4.日本政治の課題

(1)混合政体の必要性
 明治維新以来、戦前の日本には貴族院があったが、本当の意味の貴族政は、明治維新でなくなってしまったのではないかと考えている。明治以前の日本では、武士が貴族の立場であった。「武士は食わねど高楊枝」と言われるように、日本の武士階級は、英国の騎士(knights)と同様に貴族階級を構成していたと考えられるが、明治維新の四民平等によって廃刀させられ、その存在を否定されてしまった。その代り政治の実権を握ったのは、下級藩士の子弟であった。自分たちよりも身分の低い者によって社会から葬られた武士階級の怒りは強大であった。日本の「貴族社会」を支えていた武士が追いやられ、その不満が爆発した事件が、西南戦争(1877年)である。だが西南戦争で武士たちが暴力によって封じ込められてしまったので、それに代わって新たな手段としてペンの力を借りて起こしたのが自由民権運動だった。その系譜を受け継いだ日本のメディアは、権力を批判することがメディアの存在意義と考える傾向が非常に強い。武士の不満が自由民権運動や、議会開設のエネルギーに転化したということである。
 日本は明治近代化によって(武士という)「貴族階級」を壊したが、下級藩士の子弟で形成される維新政府は、それに代わる権威ある上流階級や政権の正統性を十分には持ち合わせていなかった。憲法制定に向けて西欧諸国に調査旅行に出た伊藤博文は、ドイツである法律学者から、「日本には、欧米のキリスト教のような国民宗教はあるのか?貴族はいるのか?」と聞かれ、彼は両方とも日本にはないことを悟った。日本には仏教や神道はあっても、国民宗教と呼べるほどの精神的な求心力はない。維新政府の高官は下級藩士の子弟で占められ、彼らが追放した武士階級からは敵意と蔑みの目で見られていた。そこで、日本にない国民宗教、新政府にない正統性や高貴性を補うために、天皇制を利用することを考えついたのである。
 もともと日本の歴史の中で、天皇が本当の意味で政治の実権を握り政治を行ったことはほとんどなかったのに、あたかも天皇親政という政治が万世一系にわたって実権をもって行われてきたかのような虚構(フィクション)を打ち立てた。そしてそのような虚構に基づいて明治憲法を作り、天皇を崇め奉り、強力な指導者の位置に立てて、その背後で政治の実権を握ったのであった。
 明治以降(天皇を強力な指導者の位置に立てた)天皇親政が生まれたのは、貴族政(武士階級)を壊した明治政府(の構成員)が正統性や高貴性をもっていなかったからだ。
 明治憲法によって、統帥権を天皇の大権事項として内閣の関与する一般国務から独立させ(統帥権の独立)、参謀総長と軍令部総長の輔弼によって行使されるとしたために、軍部と一般行政府とが分離、分裂を起こしてしまった。両者は天皇の一身においてのみ統合されるところ、英国王室を範と仰いだ天皇は、専制や独裁を嫌い象徴的に行動したものだから、天皇が大日本帝国憲法が想定するような強大な政治的指導力を発揮することは少なかったからだ。軍事と政治・行政が分離、分裂するこのような状態で、整合性のとれた国家戦略の策定は不可能であり、真の国家総動員体制を敷くことはかなわず、米国との戦争に勝てるはずもなかった。日本が先の大戦で敗戦となった背景には、元をたどれば貴族政を廃止したこと、そしていわば維新の成り上がり者であった下級藩士の子弟たちが(貴族政をなくしたことによって)自分たちに欠けていた正統性・権威を天皇制によって埋めようとしたこと、それらが近代日本の行く末を誤らせる大きな墓穴となったのである。
 戦後はどうか。戦後米国は日本の貴族政を完全になくすために、憲法のマッカーサー草案(総司令部案)では貴族院を廃止し一院制としていた。しかし幣原内閣の松本烝治国務大臣が、「松本試案」で二院制を主張し、参議院を復活させた。しかし、新憲法の発布から既に半世紀以上の歳月を重ねているにもかかわらず、未だに参議院のレゾンデートルがはっきりせず、参議院は衆議院のコピーとさえ言われる状態から抜け出せていない。
 そもそも二院制とは、貴族政と民主政の併用や混合政体をとってこそ、その本質的意味があるところ、日本では貴族政の廃止を前提に、衆議院と大同小異の参議院を考えるものだから、意義のある議論が期待できない。英国の上院はいまも貴族院であるから、こうした迷いはうまれにくい。もし衆議院とは異なる真の参議院をつくろうとするのであれば、日本でも政治における貴族政的要素の導入やエリートの育成という問題に正面から取り組む姿勢が求められよう。

(2)喫緊の課題:政治エリートの育成
 明治維新による武士階級(貴族政)の廃止や、戦後におけるGHQの徹底的な民主改革によって、日本の社会から貴族政の側面は消え去り、それに伴ってエリートの存在も希薄化した。さらに、高度経済成長に伴う豊かな中間層の発達や、戦後日本社会の中につよまった機械的な平等主義、さらにその派生として生じた相互監視・相互嫉妬の国民意識が、エリートの存在を肯定することは民主主義の否定であるとか、差別主義の容認であるといったエリート及びエリート制度に対する誤解や曲解、捻じ曲げられた感情を生み出してしまった。「エリートは高い身分を持ち、裕福な生活をしながら、安定した職に就くなど名誉と地位、富を独り占めする存在だ。それは四民平等に反するから、エリートは認められない」。このような感覚がこの国には定着している。しかし、これはエリートに対する正しい理解とは言えない。この意識を変えていかないと、国を救い、民衆を導く優秀なリーダーや政治家を育てることはできない。
 それでは真のエリートとは何か。
 利益や地位、名誉を独り占めするものがエリートではない。真のエリートというものは、国家の危難に際して真っ先に自分の命を投げ出し犠牲にしてでも公のために尽くす義務が伴う。ノブレス・オブリージュとよばれるものだ。普段は豊かな生活をして悠々と暮らしているかに見えても、日々の生活に追われない分、長期的な観点から国家や社会の将来に想いを馳せ、いざ国難到来となった場合には、身命を賭しても難局に立ち向かい、必要とあらば戦地にも馳せ参じる。そのような精神と使命感の持ち主であり、そのような行動が実践できる人物こそ、真のエリートである。正しいエリート象とそのようなエリートが社会にとって必要なことを、現代の若者にも教えないといけない。
 エリートにノブレス・オブリージュが伴うこと、一身を国家に捧げる心構えが求めらるということは、実は戦前の日本においても正しく理解されていなかった節がある。例えばそれは、大学生の戦争志願に対する英米と日本の相違にも表れている。
 米国のブッシュ(父)大統領は、全寮制の名門私立高校フィリップス・アカデミーに在学中、真珠湾攻撃の報に接し、予定していたハーバード大学への進学を断念、翌年卒業後、18歳の誕生日に海軍へ志願して入隊、当時最年少の戦闘機パイロットとなり太平洋戦線で戦った。父島上空で撃墜され、パラシュートで脱出、洋上を漂流中、味方の潜水艦に救助されて九死に一生を得たのであった。同乗者は死亡している。
 また英国では、第一次世界大戦、第二次世界大戦に際して、パブリックスクールの在学生やその卒業生であるオックス・ブリッジの大学生たちが自ら軍隊に志願し、その多くが戦死を遂げた。国家危急の際、率先して軍務につくことはエリートとして当然の選択肢であったのだ。
 翻って日本はどうであったか。学徒出陣組の帝大生は「きけわだつみのこえ」で、その犠牲や悲惨な戦争体験が後世に語り継がれるが、帝国大学をはじめとする大学生は一般の成年男子に課せられていた徴兵の義務を最後まで猶予されていた。戦争末期になって、学徒出陣の命が下されたのだ。同年代の若者は、すでに戦地に駆り出されて、その多くが戦死していた。果たして学徒出陣で強制的に戦場に送られた学生とは別に、自ら志願し従軍していった帝大生はどれほどの数いたのであろうか。
 明治以降、近代日本のエリートは、利己的だった。それはなぜか。貴族政のない日本社会に存在するエリートとは、本人限りの「一代エリート」、立身出世の「学歴エリート」でしかなかった。ガリガリ勉強していい大学に入り、卒業後は一流企業や官庁に入って定年後は天下る。そして(一代限りのゆえに)利益も地位も社会的評価も独り占めしようとする。そのような現実の姿を見ている庶民にとって、エリートとはただの嫉妬の対象であり、唾棄すべき対象でしかなかった。これは日本にとって大変不幸なことと言わざるを得ない。
 それではエリート養成のために、どうすればよいか。
 昨今の我が国では、一人一人の個性や価値観の多様化は幾度となく強調されるが、能力や知恵の多様化は主張されることが少ない。人には生まれもった能力に差があることをまず認識することだ。足の速い子もいれば、遅い子もいる。いまだに高度経済成長時代と同じ発想で、誰もがスーツを身にまとって大企業の会社員や公務員になる単線型の途を歩む必要はない。農業や漁業、サービス業、職人(マイスター)などなどその人の特性や能力、選好に応じた人生の選択肢を考える。そのような複線型の職業教育にしないと、エリートは育てにくい。現在の日本には単線型の教育制度しかなく、しかもひと昔の勝ち組評価が生き続け、全ての子弟が高度成長時代と同じようなサラリーマンタイプの一代限りのエリートを目指している。おおいなる時代錯誤と人材活用ならぬ人材潰しのシステムにほかならない。
 複線型教育の導入にあたって、「一代エリート」ではなく、ゆったりとした形で、ガツガツせずに50年、100年先を見通すことができ、何かあれば自己犠牲もいとわない精神を持っ若者を養成するコースを整備すべきである。そしてそのような人の中から、次世代の政治家を育成していく制度も作らないといけない。
 それに類するものとして松下政経塾などがあるが、必ずしも成功したとは言えない。英国では保守党も労働党も、政党が若い政治家を育てるシステムを持っている。英国の知恵に倣い、政治エリートを養成するシステムの整備が焦眉の急である。
 近年は官僚叩きで官僚の人気が落ちており、一代限りの学歴エリート官僚を目指さなくなってきた。それに加え官僚の能力も低下しつつある。一見、政治家のいうとおりに官僚がしっかりやっているように見えるが、キャッチアップの時代ならともかく、成熟社会ともなれば官僚が国を引っ張っていくことには限界がある。官僚の力は今後も相対的に低下し続けていくであろう。その際、これまで官僚が果たしていた職分を政治家が埋めてくれればよいのだが、官僚は委縮し、他方、優秀な政治家が育ってこないようでは、高度成長以後、新たな国家目標を提示できないフローティング状態から日本が抜け出すことはできないだろう。今こそ、優秀な人材を政治エリートとして育成、輩出する仕組みを整えることが国家の急務である。機会的平等から能力に応じた平等主義へ、皆がサラリーマンを目指す単線型教育から多様な才能を多様な方面で開花させられる複線型教育へ、そして立身出世志向の人のための進学塾から長期の視点と自己犠牲の精神を併せ持つ貴族主義的志向の人のための人材塾へと、意識や制度の重点を移し替えていく必要がある。
 最後にウォルター・リップマンの言葉を紹介して、拙稿を閉じたい。
「民主主義の頽廃を救うためには、唯一エリートをつくるよりほかに途はない」。

(本稿は、2018年2月7日に開催した政策研究会における発題内容を整理してまとめたものである。)

政策オピニオン
西川 佳秀 東洋大学教授
著者プロフィール
1955年大阪府生まれ。78年大阪大学法学部卒。防衛庁入庁、その後、内閣安全保障会議参事官補、防衛庁長官官房企画官、英国防大学留学、防衛研究所研究室長等を歴任し、現在、東洋大学国際学部教授、(一社)平和政策研究所 上席客員研究員。法学博士(大阪大学)。専攻は、国際政治学、戦略論、安全保障政策。主な著書に、『現代安全保障論』『国際政治と軍事力』『ポスト冷戦の国際政治と日本の国家戦略』『ヘゲモニーの国際関係史』(国際安全保障学会賞受賞)『国際地域協力論』『国際平和協力論』『紛争解決と国連・国際法』『日本の外交政策―現状と課題、展望』『特攻と日本人の戦争』『日本の安全保障政策』『マスター国際政治学』他多数。

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