保守思想とアメリカ政治の現在 ―ポピュリズムとの相克―

保守思想とアメリカ政治の現在 ―ポピュリズムとの相克―

2019年5月22日

はじめに

 トランプ政権が登場して早3年目に入り、既に次期大統領選に向けた動きが始まっているが、この間の同政権についての見方や評価はいまだに揺れる部分が多い。しかし米国の保守思想史を振り返りながら分析すると、トランプ政権登場の時代的意味がはっきり見えてくる。そこで本稿では、米国保守思想史をたどりながら、現在の米国が直面するさまざまな政治現象の根底に流れる大きな思想潮流を描き出してみたい。
 そもそも「保守」とは何かということについて言えば、人によってそのイメージや意味が違ってくる。注意すべきことは、ナショナリズムと保守主義は全く異なるものであるのに混同されがちだという点だ。また、ポピュリズムと保守主義は違うにもかかわらず、米国ではポピュリズムと保守思想の親和性が見られる背景についても述べてみたい。

 

1.現在は戦後アメリカ思想史の大転換期

 戦後米国思想史を振り返ってみると、保守であれリベラルであれ、今日その大きな転換点にきている。それがわからないと、なぜトランプが共和党を揺さぶり、なぜサンダース(左派)が民主党の中であれほど勢力を獲得しているのかという昨今の現象が理解できない。
 来る2020年の大統領選挙に向けて民主党系からは左派の候補者が次々と登場してきている。昨秋の米中間選挙で、ニューヨークを地盤に共和党候補に圧勝して下院議員に当選したアレクサンドリア・オカシオコルテス(29歳女性)は、民主社会主義組織に属している。彼女が属している「アメリカ民主社会主義者(DSA)」という政治組織はメンバーを急増させているが、そのほとんどがミレニアル世代(1980年代以降の生まれ)だ。
 現在米国で社会主義を支持する人々は、大きく二つに分けられる。一つはサンダースに代表される60、70代以上の年配世代であり、もう一方にオカシオコルテスに代表される30代以下の若い世代があり、それらが同居している状態である。両者の描く社会主義像が異なることは後述する。
 米国では1950年代から自覚的な保守主義思想運動(conservative intellectual movement)が始まった。ジョージ・ナッシュ(George H. Nash、1945-)が、1970年代にその保守主義思想運動に関する包括的歴史をまとめて『1945年以降の米国における保守思想運動』(原題:The Conservative Intellectual Movement in America Since 1945、初版1976年)という本に著したが、このことをきっかけに本格的な保守思想運動が広く知られるようになった。この運動が、1980年代のレーガン政権誕生の原動力となったことは、いまでははっきり知られている。
 この本はナッシュのハーバード大での博士論文を基にしたものだが、当時ハーバード大学など一流大学では、(リベラルなアカデミズムの風潮により)保守的な内容の論文を発表する人は職を得ることが難しい状況にあったため、ナッシュはその後長く在野著述家として著作活動を行ってきた。
 このような保守主義思想運動も、前述のリベラリズムと同様に、現在大きな転換期を迎えている。それはこの運動をリードしてきた、主要な保守思想家たちのほとんどが、21世紀初めまでに亡くなったためでもある。
 この大きな保守思想史の変化・転換によって、保守主義はどこに向かっているのか。ある人は、1920~30年代の保守思想に回帰しているのではないかと指摘する。
 リベラル側から描いた思想史で有名なのは、ハーバード大学のルイス・ハーツ(Louis Hartz、1919-86年)による名著『アメリカ自由主義の伝統』(原題:The Liberal Tradition in America: An Interpretation of American Political Thought since the Revolution、1955)だ。彼は英国のジョン・ロックから始まる本来の「リベラリズム」が米国に渡り(ニューディールの時代に変容した面はあるものの)1950年代までどのように流れてきたかについて、主に自由をめぐって思想が発展してきた局面を分析・考察し、米国が自由主義の国であることを論証した。
 その逆の視点から、ハーツに先行して思想の発展を描いたのがラッセル・カーク(Russell Kirk、1918-94年)であった。彼は、米国には保守主義の流れがあり、その根底には(「保守主義の父」とも称される)英国のエドマンド・バークの思想が流れ込んでいることを、その著書で明確に跡付けて見せたのである。
 米国思想史については大まかに上記二つの物語(narrative)があるわけだが、どちらに与するかでその人の政治的立場が違ってくる。
 それでは現在、米国の思想界では何が起きているのか。まず背景として、1970年代半ばから経済・社会的な<構造的(tectonic)な変化>が起きていることを考えないわけにはいかない(拙著『破綻するアメリカ』参照)。そして9.11米国同時多発テロ(2001年)の発生によって、そうした変化に大きな圧力がかかり<爆発的(volcanic)変化>へと転換した。その余波を受けて保守主義も変質し始めたと考えることができる。
 2017年の国連総会演説で、トランプ大統領はsovereignty (主権)という言葉を何度も使ったが、実は大統領選の早い段階から若手の思想家や論客たちの一部にグローバリゼーションで損なわれた「主権」の回復をめぐる議論が起きて、トランプ陣営に大きな影響を与えていた。そうした若手思想家たちがトランプ政権発足直後の2017年2月に創刊したのがAmerican Affairsという高級論壇雑誌(季刊)である。彼らはこの混乱の時期をとらえて、米国の思想を変えていこうとしているように見受けられる。トランプはそのような思想グループから直接・間接に影響を受けており、それゆえに国連演説のような言葉が出てきたし、現在彼が進めているさまざまな政策も奥深いところで、その影響を受けている。あるいは彼らと連動していると見られる。
 主権を強く前面に出した政治に舵を切るなど米国における保守政治のテーマが大きく変化している一方で、リベラルの方はある種の破綻状況に陥っている。それはリベラル側が1970年代以降に選択した方向性が間違っていた結果でもあった。日本や世界はこれらにどう対応していていくべきなのか。


2.戦後保守思想史の展開

 まず思想史について考えてみたい。現実の政治を下支えしているものは思想である。政治ならば、政治思想である。宗教思想なども含めて考えると、広く社会思想ということになる。思想家たちは社会全体の方向性を言葉で表現し、意識化しようとする。いま社会が変化している、あるいは社会を変化させなければならないと考えたときに、それを言葉に置き換えて、さらにはそうした言葉に基づいて運動を展開していこうとするのが思想家たち(thinkers)である。言葉に置き換えることで意識化するのが、思想家の役割といえる。その新たに生まれた意識から行動が生まれる。
 例えば、戦後保守思想を担ってきたウィリアム・バックリー(William F. Buckley、1925-2008年)やトランプとの関係で有名になったバノン(Stephen Kevin Bannon、1953-)はそうした例である。バックリーは、カークやハイエク等を軸にNational Review(1955年発刊)という雑誌を創刊して、米国全土にちらばっていた保守系知識人を糾合して保守主義運動を展開した。それ以前にも学術的なものなど小さな保守系誌はあったが、広く普通の知識人に読まれる雑誌が初めて登場した。そうした動きが、のちにレーガン政権を生み出す原動力となっていったのである。
 戦後保守思想史の展開について述べるに際しては、さまざまな物語(narrative)があるわけだが、次に挙げるいくつかの書物を参考にして述べたい。
 一つは、先に挙げた、ジョージ・ナッシュのまとめた「公式保守思想史」である『1945年以降の米国における保守思想運動』で、そこに描かれる思想史はほぼ誰もが認める戦後保守思想の展開の姿である。
 もう一つ重要な書物がある。スチュアート・ヒューズ(Stuart Hughes、1916-99年)の『大変貌』(原題:The Sea Change: The Migration of Social Thought 1930-1965、1975年)である。著者によれば、 20世紀中葉に欧州から数多くの知識人がさまざまな理由から米国に移動してきたことによって米国の思想界は巨大な変化を遂げた。とくに、フランクフルト学派のユダヤ系知識人がサンフランシスコにまで移動したのを典型的な例とするユダヤ系知識人の移動が大きな意味を持った。その後ドイツ系は欧州に戻った者もいたが、東欧系はほとんど米国に住み着くことになった。
 その中の巨匠が、レオ・シュトラウス(Leo Strauss、1899-1973年)である。ドイツ系ユダヤ人亡命者レオ・シュトラウスと、フランシス・フクヤマに大きな影響を与えたフランスのユダヤ系哲学者アレクサンドル・コジェーヴ(Alexandre Kojeve、1902-68年)こそが、21世紀を見抜いた思想家だと私は考えている。かつて19世紀のカール・マルクスは20世紀の大混乱をもたらしたが、それと同様に、21世紀に向けて思想を投射しているのが、この2人の思想家ではないかと思う。

(1)リバタリアン運動

 20世紀に最初に起きた米国の保守思想の流れはリバタリアン(Libertarian)の運動であった。米国には(一般に「封建時代」がないと考えられているために)基本的に欧州史でいう「保守思想」(注:王権など旧制度に執着し改革を嫌う守旧派の意味)はないと考えられている。もちろん細かい議論になれば、南部における奴隷制や米国独立以前からの伝統など、封建制に関連するいろいろな見方は出てくるかもしれないが、一般的には米国の保守思想は、ジョン・ロックの自由主義思想からスタートすると考えられている。そこにねじれというか、奇妙さがある。
 1945年までの米国にはどのような保守思想があったのか。欧州でいう自由主義(classical liberalism)こそが守るべき保守思想であった。つまり(著しい経済成長を遂げ「狂騒の20年代」と呼ばれた)1920年代のカルビン・クーリッジ第30代大統領(在任1923-29年)の時代に象徴されるように、企業が規制を受けずに自由に活動をすることができ、それによって企業活動や社会が繁栄を謳歌し、人々はその豊かさを享受できるという「物語」を基礎とする思想である。このような理想が20世紀米国の根源的姿であり、この思想運動を「リバタリアン運動」と呼んでいる。1945年以前に米国に自覚的に存在した保守思想といえば、これであった。
 このリバタリアン運動が「物語」を整えていく過程で、多くの思想家が現れることになる。「リバタリアン」という用語が使われるようになったのは、リベラルという言葉の意味が変容した後であった。つまりニューディール時代に、リベラルという言葉の意味が変わってしまった。そもそも「リベラル」というのは、英国の自由党の流れにみるように、小さな政府で規制を受けない自由な企業活動を許す考え方であった。ところがニューディールの時代に社会主義思想が入り込んできて、今日でいうようなリベラリズムの意味に変容していった。そのために古典的な意味のリベラリズム(自由主義;小さな政府、自由な企業活動、個人主義など)を表す別の言葉が必要になり、リバタリアニズムという本来別の意味を持っていた言葉を借りてきた。
 リバタリアニズムが思想的に整えられる大きなきっかけとなったのが、フリードリヒ・ハイエク(Friedrich August von Hayek、1899-1992年)が米国に移住しシカゴを拠点に活動したことであった。彼は『隷従への道』(原題:The Road to Serfdom、1944年)を英国で著したものの、英国ではあまり売れず、米国でベストセラーになった。転向保守思想家マックス・イーストマンが要約版を作り、Reader’s Digest誌に掲載されたのがきっかけであった。ハイエク自身、後にHayek on Hayek: An Autobiographical Dialogue (1994)というインタビュー本で、「あの要約版は自著『隷従への道』よりもずっといい」と絶賛したほどだ。米国には「リーダーズ・ダイジェスト文化」というのがあって、原作よりも要約版(ダイジェスト)の方が良いという奇妙な現象が、しばしば起きた。
 もちろんハイエクの思想はかなり複雑で広範囲に及ぶものであるが、その内のある面だけが米国の保守思想の形成に大きな影響を与えることになった。ハイエクによって、リバタリアニズムが経済的思想から政治思想へと精緻化される作業がなされ、経済自由主義を求める人々の理論的な支柱となっていく。こうしてリバタリアン運動は思想的に整えられ、今日まで保守思想運動の根底に流れている。

(2)融合主義(fusionism)

 そのような時代思潮の中で、本当の保守思想とはそんなものではないと声を大にして主張したのが、ラッセル・カークであった。彼はバークから文芸批評家T.S.エリオットまでの保守思想を博士論文にまとめて著書『保守主義の精神』(原題:The Conservative Mind: From Burke to Eliot、1953年)として出版した。これがThe New York TimesやTIMEの書評欄に紹介され話題になった。とくにTIMEは書評欄全部を使ってこの本の書評を掲載した。これをきっかけに、それまでほとんど知られていなかったミシガンの田舎出身のラッセル・カークという人物が世に広く知られることになったのである。
 カークが依拠したのは、フランス革命を批判した英国の政治思想家エドマンド・バーク(Edmund Burke、1729-97年)であり、米建国父祖のひとりジョン・アダムズだった。カークは伝統的社会をよしとするだけでなく、リベラリズムすなわち自由主義や個人主義、経済的平等主義に始まり、功利主義やプラグマティズムに至るまで、ほとんどの近代的思想を排撃した。『保守主義の精神』ではバーク以来の、とくに英国の保守思想を核にした流れが米国にも一見隠されてはいたものの存在していたことを、英国の思想と対置させながら一つひとつ掘り起こして見せたのである。このようにしてカークが米国に持ち込んだヨーロッパ的な、ある種の権威主義的な保守主義の本格的な思想を、米国では「伝統主義」(traditionalism)と呼ぶ。この伝統主義は、敬虔な信仰を核にして伝統を守るという宗教的特徴を持つ。
 こうして戦後米国において、ヨーロッパ的な権威主義的面も持つ伝統主義と、リバタリアニズムという保守主義思想の大きな二つの流れが生まれた。しかしこの二つのグループは、そもそも発想が違っていたので、米国の保守主義はどちらを向いていくべきか、その後、大論争が起こることになる。1950年代には、ハイエクを中心にして作られた自由主義経済思想家たちのグループ「モンペルラン協会」(Mont Pelerin Society、1947年設立)のある会合で、ハイエクとカークの大論争が行われたことがあった。
 1950-60年代は、ソ連共産主義との戦いが最大の政治的な意味を持つ時代で、反共主義の思想もあった。これらの思想潮流が渦巻く中に現れたのが、「融合主義」(fusionism)であった。フュージョニズムと呼ばれる運動には、何人かの重要な論客、思想家がいた。バックリーとともにNational Reviewの共同編集者を務めたフランク・マイヤーなどである。
 彼らフュージョニストは、この時代に形を現してきた保守思潮群に共通する一致点を見出し、一体化を目指した。その核になったのが共産主義との戦いであった。そしてこのような(対立点を内包しながら)保守の統合を目指す思想運動の中から、政治運動の場においては戦後初の本格保守候補としてのゴールドウォーターの大統領選出馬へとつながっていくのである。

(3)ネオコンの合流

 ネオコン(neoconservative)こそが、20世紀後半の米国の中核的な思想問題である。彼らの核にはユダヤ移民二世たちがいる。その親たちは、帝政ロシア末期の迫害(ポグロム)を逃れて米国にやってきた、現在のウクライナ・ポーランド国境地帯のユダヤ人が多い。彼らは子どもたち(二世)になんとしてでもユダヤ人としてのアイデンティティを持ってほしいと願い、そのような教育をした。そのため二世たちは米国人とユダヤ人という二重生活を送らなければならなかった。この「二重性」は近代思想として重要な要素だ。
 彼らは、ヨーロッパにおけるスターリニズムの現実を知っていたために、ユダヤ人トロツキーに同情を寄せるようになる。反スターリニストの学生として1930-40年代を過ごした彼らは、主としてアメリカ社会党に加わりリベラルな社会主義的政策を支持するようになった。政治的には微力ではあったが、文学や批評など、ことばを使う分野での活動でやがて圧倒的な存在感を持つようになっていった。
 ネオコンの「ゴッドファーザー」と呼ばれた評論家アーヴィング・クリストル、『イデオロギーの終焉』を著したダニエル・ベル、『孤独な群衆』を書いたディヴィッド・リースマンなどが、その代表的人物である。彼らが戦後米国の社会学の中核を担っていく。この思想潮流の中から生まれてきたのがネオコンであった。ちなみに、世代としては若いが、フクヤマもこのネオコンの流れに含まれ、最初の世代と似た傾向を見せている。
 それではネオコンの思想とは何か。その根底には、革新としてのリベラリズム、さらにラディカリズムさえある。ネオコンは、「近代性」(modernity)に対する強い信頼を持っているので、私は彼らを「モダニスト」と呼んでいる。
 フクヤマも、近代性に対して強い信頼感を持つ。フクヤマの著書を見ても分かるように、近代に対する肯定と建設的批判を見事にやり遂げている。一方、伝統保守主義のラッセル・カークは逆で、近代性に対して強い懐疑心を持っている。
 ところで、共産主義に対抗しながらいくつかの保守主義のグループが融合したわけだが、モダニストであるネオコンと反近代の傾向を持つ伝統主義者との間で激しい確執が起きた。それでも危うい連合が維持されていくのは、外に敵(共産主義)があったからであった。
 ネオコンこそ、「大変貌」と呼ばれる20世紀中葉の米国の思想変化の大きな複合物から生まれた思想運動だ。欧州から逃げてきたユダヤ系知識人たちの動きは、人類史においても希に見る知識人大移動であった。これに匹敵するのは、ビザンチン帝国崩壊のあと、神学者等が西欧に大量に移動したできごとだという見方もある(荒川幾男)。この「大変貌」によって20世紀中葉の米国は大きな変貌を遂げ、それ以前の米国とは質的に全く異なってしまった。これが、戦後保守知識人運動(conservative intellectual movement)の実態である。

(4)大衆運動としてのニュー・ライト運動

 50年代から始まった米国の各保守思想グループが次第に何とか一つにまとまり、黄金時代を築いたのがレーガン政権だった。前節までの思想グループに加えて、70年代になると、ニュー・ライト(new right/religious right)と呼ばれる人々が登場した。
 1970年代の大衆運動はダイレクト・メールを利用して展開した。それまで明白な政治的主張のもとに集まっていたわけではない膨大な人々(白人中産階級)が、道徳的な価値観に基づいて巧みに誘導され、巨大な力をもつようになった。そうした運動を起こした人々がニュー・ライトであり、それを支えていたのが、深いキリスト教信仰を持つ福音派とも呼ばれる宗教右派であった。
 ニュー・ライトの戦略は、ある特定のテーマを取り上げることだ。例えば、中絶の是非というテーマを取り上げ、「中絶を容認しますか?それは神の意志に反しませんか?中絶を容認しない候補に投票してください」というようなダイレクト・メールを送って、共和党候補への票を掘り起こし、政治家と信仰の篤い一般の人々とをつないでいきながら、政治的に利用したのである。
 レーガン政権以降、冷戦に「勝利」した米国に何が起きたか。共通の敵のもとに連合していた保守主義は、ソ連の崩壊によって混迷がもたらされ、分裂の時代に入る。1990年代重要な役割を果たし、思想界を支配した(dominant)のが、ネオコンで、その象徴的出来事が1992年の大統領選挙であった。この選挙における共和党候補争いに右派評論家パット・ブキャナンが立候補した。ブキャナンは冷戦後優位に立とうとするネオコンに闘いを挑んだが敗れた。この共和党内の混迷のため、父ブッシュ大統領は湾岸戦争に勝利した直後にもかかわらず、民主党のクリントンに大敗を喫したのだった。クリントン政権時代の思想動向はネオコン優位と考えるべきだ。
 ネオコン思想家のアーヴィング・クリストル(Irving Kristol、1920-2009年)の著作は、そのほとんどが雑誌論文や新聞記事の集合本だ。体系的著作はない。初期ネオコンで例外的に体系的な著作を出しているのは、ノーマン・ポドレツだ。彼らはむしろ知識人向けの雑誌を作って集まり、それによって知識社会を変えていこうとした人々である。


3.大衆の社会思想とポピュリズム

(1)大覚醒運動

 もう一つ米国思想史においては、論理的に言語化された「思想」の下部構造として、大衆の社会思想の要素を考えないといけない。大衆の社会思想には、もちろん経済問題が大きく作用するが、米国の場合、それと同時に宗教の影響が非常に大きい。特に米国民に宗教的熱狂が起きる「大覚醒」(The Great Awakening)という現象を抜きにして米国史を考えることはできない。
 米国史上、「大覚醒」は少なくとも4回起きたが、宗教的なリバイバルに伴い政治的な変化も起きた。

①1730-50年代
このときは東海岸中心であったが、都市部、農村部を問わず人々が非常に宗教的に熱狂的になり社会全体を覚醒させた。そして米国の(英国からの)独立革命(1775-83年)につながった。
②1800-30年代
第2回目の大覚醒の後、南北戦争(1861-65年)が起きた。
③1890-1900年代初頭
このときは、米西戦争(1898年)があり、クーリッジ大統領に代表される古典的自由主義経済政策から1930年代のニューディールにつながる「改革の時代」(the Age of Reform)が始まった。
④1960-1970年代以降
福音派やキリスト教根本主義など保守的なキリスト教会が伸張し、その後、レーガン革命につながった。

 これらの大覚醒を経験しながら米国の政治は、第1共和政、第2共和政と呼んでもよいほどの劇的な変化を遂げてきた。これはプロテスタント系宗教運動の特徴でもあるが、米国史のこのような宗教的特徴に、フランスの政治思想家トクヴィル(1805-59年)も注目した。彼は、米国史における宗教と民主主義の関係、新聞などメディアの役割などの特徴を当時から見抜いていた。
 こうした宗教の動きが、米国のポピュリズムと密接に関連していると考えている。今日、世界中でポピュリズムが社会現象として注目を集め広く議論されているが、ここでは米国型のポピュリズムについて考えてみたい。

(2)米国型ポピュリズム

 米国の政治運動はその独特な宗教的風土の中から出てきたが、それを思想的に分析した一人が歴史家R.ホーフスタッター(Richard Hofstadter、1916-70年)だ。彼は『アメリカ現代史―改革の時代』(原題:The Age of Reform: from Bryan to F.D.R.、1955年)という書を著して、20世紀初頭の大変革を描き出した。
 そもそもポピュリズムという言葉は、米国で生まれたものだ。19世紀後半になり米国の農民や労働者たちが過酷な資本主義体制下で搾取されていく中で、(米国には社会主義運動はほとんどないが)農民や労働者たちが団結して米国中西部を中心に独特な運動を起こし、1891年に人民党(People’s Party)が結成された。
 この運動から、民主党大統領候補(1896、1900年)にもなったウィリアム・ジェニングス・ブライアンという人物が登場した。彼は大統領にはなれなかったが、米国政治史においては興味の尽きないリーダーだった。彼は(欧州でいえば)社会主義者でありながら、宗教的には熱狂的な原理主義者という、これこそ米国独自の特徴を体現したような人物だった。こうした特徴を抜きにしては、米国政治史を語ることはできない。
 ホーフスタッターは、その著書の中で人民党(people’s party)に関与する人々の運動について論じた。人民党が生まれたころ、その運動に加わる人々を何と呼べばいいのかという議論になり「ポピュリスト」という言葉が生まれた。そこからさらに「ポピュリズム」という言葉も生まれる。では米国型ポピュリズムの特徴は何か。

①中央に対する地方の反感
農民や労働者が中央の大資本およびそれと結託した政治家たちに対する憎悪の感情。
②エリートたち(東部エスタブリッシュメントなど)に対する反抗・懐疑心
③外来の者に対する土着主義/排外主義(nativism)
エリートの多くは欧州に行って学んできた人たちであるため、そのような外来のものに対する激しい拒否感を持つ(排外主義/土着主義)。これが移民排斥にもつながる。
④革新性
ポピュリストたちは、社会変革を企図する革新性をも持っていた。

 ホーフスタッターはまた「(ポピュリズムは)米国の政治風土に特有の現象である」とも述べながら、彼らが「改革の時代」を作っていった経緯についても説明した。彼は、米国に特有の政治風土について詳しく述べていないが、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』(初版1835年)を参考に、私なりにまとめてみると次のようなことを指すのではないか。
・熱狂的でほとんど野蛮な霊的熱狂(スピリチュアリズム)
・ありふれた宗教的狂気
 これらの特徴が米国の政治風土には必ず入っている。いずれも物質的な幸福追求への反動の意味もあった。一般に米国は物質的な豊かさのみを追求している(物質主義)ように思われるが、常にそれに対する宗教的な反動の動きがあって、それが人々の宗教運動となって現象化してきた構造の歴史を持つ。
 以上からいえることは、米国の大衆運動は必ず「大覚醒運動」とリンクさせながら考える必要があること。第3の大覚醒が起きた19世紀末にポピュリズムが生まれた。このあとに(1910年代に第2期の)KKK(Ku Klux Klan:白人至上主義団体)の復活が起きるが、社会主義的な運動の中でポピュリズムの特徴の一つである土着主義・排外主義(nativism)が強まり、その一つの現象がKKKの運動であった。自分たち(白人)の利益だけを守ろうとする激しいnativismが社会現象化したのである。
 こうしたポピュリズム、大衆運動の流れで、戦後、言葉は語らないが米国を動かしている人々、「サイレント・マジョリティ」という考え方が出てくる。ニクソンはサイレント・マジョリティが誰を指しているかは明示しなかったが、ポピュリズム的な動きを指していたのだろうと思われる。
 ニクソン失脚後の1970年代末になると、こうした漠然とした大衆の動きが「ニュー・ライト」(宗教右派、クリスチャン・ライト)と命名されて明確になった。これもポピュリズム運動の一つだ。
 2009年ごろからはTea Party運動が始まった。Tea Party運動は、リバタリアニズムと大覚醒的なニュー・ライトの複合物である。それが、今日のトランプ現象につながる動き、すなわちトランプを応援する共和党支持者の8割を超える巨大なグループの人たちにつながっていく。トランプを応援する労働者(トランピスト)は、みなこの流れの延長線上にある人々だ。こうした民衆運動という「下部構造」の上に、知識人たちが乗って動いていく。これが今日の米国保守思想運動の構造である。


4.疎外された下層中産階級

 前述したような大衆、当時は「サイレント・マジョリティ」と呼ばれた人々について分析したのが社会学者ドナルド・ウォレン(Donald I. Warren)であった。彼はその内容をThe Radical Center: The Middle Americans and the Politics of Alienation(1976)という著書にまとめた。彼の主張のポイントは、右でもない左でもない、疎外された下層中産階級である「ラディカル・センター」が米国を動かしてきたということであった。疎外された下層中産階級に「メディ・ケア(高齢者向け公的医療保険制度)についてどう思うか?」と聞けば、「必要だからやってくれ」と答える。「自分たちの生活を守ってほしい」と言う一方で、「福祉政治は必要だが、大きな政府はいやだ」とも主張する。こうした人々がトランプを応援している。
 彼らはなぜこのような矛盾したことを主張するのか。彼らは、右の政治からも左の政治からも疎外された人々で、下層中産階級に属する人々だ。ウォレンは、70年代にニクソンが「サイレント・マジョリティ」と言ったとき、それが誰を指すのか明らかにするために、包括的な調査を行って分析した。
 この本の冒頭は、この調査に加わった学生たちの手紙から始まる。「自分は初めてこのような人々(疎外された労働者たち)に出会った。これまでなぜそれを知らなかったのか」と、この調査をする中で受けた衝撃を吐露している。
 そこから見えてきたのが、彼らは政治的勢力として動員されておらず、力を持っていないとされながら、実は巨大な力を秘めていること、そして彼らは不当に無視されている、払った税金に見合う見返りを得ていないという強烈な怒りを秘めていることだった。ウォレンはそんな人々をMiddle American Radicals(MARs)と名付け、彼らこそが米国政治を揺さぶる「ラディカル・センター」だと見たのであった。
 この本は長い間忘れられていた。しかしトランプが登場した2016年ごろに何人かの知識人によって再発見されて、米国社会で大議論の発火点となった。ウォレンが描くような人々の中から大衆運動が起きている。
 米国の思想運動は、このような人たちを動員することによって政治を動かす。保守主義思想運動(conservative intellectual movement)が彼らの思いを言葉化し、リードしていった。その一方で、保守主義思想運動は、彼らとつかず離れずの関係で、ときには彼らを冷徹に見捨てたり、切り捨てたりもする。
 そもそも米国の保守主義思想運動は、その最初からそうした大衆運動に悩まされた。まずはマッカーシズムであった。戦後保守思想運動の立役者バックリーはマッカーシズムを支援したが、失敗に終わった。その後「反共は正しいとしても、マッカーシズムのようなやり方は行き過ぎではないか」と考えるようになった。
 こうした反省からバックリーは、ジョン・バーチ協会、KKKをはじめとする白人至上主義、反ユダヤ主義、オルタナ右翼などを排除し、切り捨てていった。こうした動きといっしょにされると、保守主義運動が世の中から尊敬される運動ではなくなってしまうのではないかと危機感を感じたからだった。
 いまやそうした分離プロセスが終わり、下部構造が知識人運動を飲み込みかねない。
 上部には思想運動があり、下には大衆運動がある。それらの基層には、大覚醒運動を起こしたプロテスタンティズムの流れがある。この二つの流れをつなぐ不思議な知識人たちが、このトランプ現象の中でよみがえってきた。オルタナ右翼は、こうした人たちの中から引っ張り出されてきた反近代主義的な知識人グループである。


5.ネオコンの終焉

 簡単にいうと、冷戦末期までネオコンがずっと思想運動を牛耳ってきた。一時世界を席巻するような勢いを持っていた共産主義陣営が、レーガンの登場以降自由主義陣営に巻き返されたが、そうした巻き返しをリードしてきた知恵袋がネオコンであった。しかし冷戦以降、対外関与政策などを主要争点として、ネオコンと伝統主義・リバタリアンとの間で対立が激化した。
 それまでネオコン主導の下、ラッセル・カークのような伝統主義者たちは、きわめて孤独な思いを味わってきた。ラッセル・カークは、冷戦終了前後に保守系のヘリテージ財団に呼ばれていろいろな講演をしているが、圧巻は1988年の大ネオコン批判だった。
「米国保守主義の主敵はマルクス主義者でも、民主党の社会主義的リベラルでもなく、保守主義運動を内部から破壊し、自分たちの身勝手な目的のために利用してきたネオコンだった」。
「(ネオコンは)画一化された退屈な標準化された世界をもたらそうとしている。アメリカナイズされ、産業化し、民主化し、論理化された、飽き飽きするような世界だ」。
 文化の多様性を重んじる伝統的保守主義者にとっては、ネオコンに任せておいたら、民主化・産業化・論理化によって世界は標準化されてしまい、飽き飽きするような世界になってしまう。要するに、モダニストとしてのネオコンを批判したのである。
 ネオコンが追求している、その行き着く先は、「普遍的同質国家」(universal homogenies state、コジェーヴ)だ。また言葉を変えれば、「歴史の終わり」の問題でもある。ラッセル・カークは、そのような状態を作るなと警告した。
 冷戦終結によって西側思想が支配的になった直後の1991年当時、米大統領選共和党予備選へのブキャナン候補の出馬は、象徴的なできごとであった。このときブキャナンは誰と戦ったのか。THE WALL STREET JOUNALの論説委員長を務めたロバート・バートリー(Robert Bartley)は、このことに関して「ブキャナンはブッシュ大統領と戦ったのではなく、アーヴィング・クリストルに立ち向かったのだ」と述べた。つまりブキャナンはネオコンと戦ったのだった。
 「アメリカよ、もう故郷に帰ろう!」「なぜ、エリートたちに牛耳られた政治によって、われわれの息子たちが世界の戦場に出ていって犠牲にならなければならないのか。日米同盟を止めよ。NATOはもういらない」とブキャナンは訴えた。しかし当時ネオコンの力は依然として強かったので、1990年代に繰り返されたブキャナンの挑戦は及ばなかった。
 ちなみに2000年の予備選挙の時にブキャナンと一時行動を共にしていたのが、他ならぬトランプであった。このときトランプはブキャナンから多くのことを学んだと思われる。
 ネオコンへの挑戦はその後も続いた。アーヴィング・クリストルが(9.11を受けて米国がイラクやアフガンに侵攻した後)ネオコンの雑誌Weekly Standard(1995年発刊)2003年8月25日号に、The Neoconservative Persuasionというタイトルのエッセイを書いた。
「現代の民主政治にふさわしいかたちに米国の保守主義を変革した。米国にしかない保守主義をつくった」「ラッセル・カークの王党派的郷愁には知的教導を求めない」などと書いて、ネオコンが勝利したことを高々と宣言したのだった。しかしネオコン主導の対テロ戦争は思ったように進まず、ネオコンの頂点は崩壊の始まりでもあった。
 ネオコンは、1970年代からつい最近まで米国の保守主義運動のみならず、思想界を大きく動かしてきた。世界的に見れば、「大変革」(sea change)がもたらした思想現象である。つまり、ネオコンの隆盛は欧州から米国への知の移動の産物に他ならない。


6.経済格差の拡大と中間層の凋落

(1)民主党の変容と経済格差の進行

 このようにして20世紀後半の米国を思想的に主導したネオコンは最終的に挫折していった。なぜそうなったのか。9.11、アフガン・イラク戦争、リーマン・ショック、これらがある時期に集中して起きたことが、ネオコンの隆盛に大きな衝撃を与えたことは確かであった。それは偶然でもあるし、必然でもあった。その背景には、すでに1970年代から米国社会で「構造的な変化」が進行しており、そうした変化に対し21世紀初頭のさまざまな出来事が爆発的な衝撃を与えたことがある。
 オバマ政権は、そのすさまじい衝撃の中で「何とか(社会を)変えてくれ」という切実な庶民の叫びを受け止めて、「Change!Yes、 we can!」と訴えて誕生した。この点でいえば、オバマ政権誕生はトランプ政権誕生と同じ社会的背景で起きた。同じ庶民の声に応えようとしたのだったが、応えようとする方向性や方法が違っていた。しかし、背景となった現象は同じものであった。
 まず重要なのは、人々がどのような経済的状況に置かれていたかということである。経済構造の大変化が起きる中で中間層の実質所得は、とくに学歴の低い層は70年代から下がりっぱなしであった。人種間の経済格差は解消されていない。オバマ大統領も、公民権法50周年記念の演説(2014)で述べたように、「われわれは法的に平等になったかもしれない。しかし経済的格差で見ると、1964年から相当拡大してしまった」。なぜなのか。
 (黒人初の大統領誕生として)オバマが登場したことで、多くの人々はこれによって人種間対立を実質的に乗り越えていけると期待して拍手喝采した。ところが世論調査はオバマ政権誕生後に人種関係がむしろ悪化したことを物語っている。オバマが登場したことで、むしろ反動が起きてしまったのだ。
 その背景には民主党の変容があった。アイデンティティ・ポリティックスの問題である。70年代後半から産業の「構造的な変化」が始まったが、その時代に共和党はレーガン革命を起こして政権を獲得し、一方、民主党は路線転換を行った。民主党といえば、かつては(労働組合をバックにした)ブルーカラー労働者、マイノリティ、南部保守層などの政党(「ニューディール連合」という)であった。ところがそうしたニューディール連合は維持困難となり、産業政党化(industrial party)していく(民主党指導者会議DLC路線⇒民主党の中道化)。背景には、労働組合の衰退、共和党によるブルーカラーの取り込みなどがあった。クリントンやゴアは民主党改革派の代表的人物であった。若手が主導で80年代から民主党の大改革が進められ、その路線で動いていったのが、90年代の民主党であった。つまり表向きは労働者政党を標榜しつつも、その戦略は経済ではなくアイデンティティ・ポリティックスであり、外交ではネオコンに押され、経済はネオリベラル路線という民主党に変貌したのであった。その行き着くがリーマン・ショックであった。そのような民主党内から新たに起きてきたのが、サンダースに象徴される党内左派と社会主義者の台頭であった。

(2)変化する社会主義への意識

出典:トマ・ピケティ氏による。
出典:共同通信社


 2016年、大統領選挙を前にポピュリズムが大きく勃興した。右からはトランプが出て、左からはサンダースが出てきた。そこには経済的問題が横たわっていた。それを的確に示す二つの文書がある。すなわち、『2015年合衆国の所得と貧困』(Income and Poverty in the United States: 2015、国勢調査局2015.9)と公共宗教調査研究所の世論調査報告(Anxiety、 Nostalgia and Mistrust)である。
 前者の報告書によると、リーマン・ショック(2008年)以来、労働者の実質所得の中央値(物価上昇を除く実質ベース)が下がりっぱなしだった。また貧困率は上昇傾向を示し、貧困者数は4670万人(2014年)に及んだ。失業率は下がったとはいえ、高卒6%、高卒未満9%、修士2.8%で、学籍による格差は歴然だ。ところが株価はこの間3倍に上がった。こうした経済指標は普通の庶民の目にどう映るだろうか。「自分たちは貧困に落ち込み苦しんでいるというのに、いったいどうなっているのか!」。
 その心理状況を調査したのが、後者の報告書だ。その結果によると、支持政党を問わず、約9割の人が「政府は金持ちと大企業を優遇している」と回答した。事実かどうかは別にして、自分たちの生活が苦しくなった理由として、「企業が海外移転して雇用が流出したことが経済困窮の元凶だ」と86%の人が回答した。「政府は少数派や移民の利益ばかり重視してわれわれのことを考えてくれない」と回答した人が、共和党支持者で61%、民主党支持者で32%だった。とくに「ヒスパニックの利益重視」という回答が、共和党支持者73%、民主党支持者41%という結果だった。
 これが2016年のトランプ現象(ポピュリズム)が起きる頃の、大衆の経済状況と心理状況であった。こういう状況をもたらした背景には、過去1世紀間の所得構造の変化があった。典型的な指標として、上位10%の人がどれだけ所得を占有しているかをみると、先進諸国の多くがかつての残酷な資本主義の時代に戻ってしまったということであった。皮肉なことに、もっとも経済格差が小さかったのは世界大戦の時代だった。戦後の産業構造の大きな変化によって、いまや製造業の時代ではなくなり、その産業構造転換の環境の中で中産階級があえいでいるのが先進諸国である。
 近年米国では、社会主義に対する若者層の意識変化がある。2011年12月に調査機関「ピュー・リサーチ・センター」が公表した世論調査によると、18-29歳の若者の資本主義および社会主義に対する見方は次のとおりであった。

<資本主義をどう見るか?>
 否定的:47%、肯定的:46%
<社会主義をどう見るか?>
 肯定的:49%、否定的:43%

 また保守系組織「共産主義犠牲者追悼財団」の年次報告書(2018年10月)によると、ミレニアル世代(1980~2005年生まれ)の46%が社会主義国で暮らしたいと回答し、資本主義国で暮らしたいという40%を上回った。
 ただ、欧州での冷戦終結以降に生まれた彼らは社会主義ソ連が存在した時代を知らない。彼らの描く社会主義像は、北欧の福祉国家や西欧の社会民主主義政党の政治である。
 若者たちがそうした社会主義を求める動機は、アメリカン・ドリームの崩壊だ。これは21世紀のリーマン・ショックだけが原因ではなく、この半世紀近くにわたり進行してきた社会変化の結果である。1940-50年代生まれの米国市民の場合、8-9割以上が親の所得水準を超えることができたが、80年代生まれではそれが5割程度まで落ち込んだ。
 また白人の死亡率増加の問題は近年よく聞くところであるが、その内訳を見ると米国で自殺者が増えている。米国史上例のないことである。低学歴層では若い世代でも自殺者が増えている。
 米国の中産階級男の所得は、グローバリゼーションが始まって以降、実質的に全然上がっていないと言ってよい。先進国のトップクラスは所得をかなり増やしているのだが、それ以外では中国や東南アジアなど新興国では中産階級が所得を増やしたものの、先進国の中産階級は全然増えていない。ここを国際的にどうやって平準化するか。そのためには所得上位者やグローバル企業が租税回避地へと逃している所得への課税などが大きなテーマになってくるのは避けられない。
 いまや米国の資産格差は、20世紀初頭の強欲資本主義の当時と同じレベルに達し、上位10%が富の8割を独占している。その中で、さらに高い学費の返済に苦しむ若者たちは、新規巻き返し、すなわちニューディールを求めているように見える。


(2019年3月20日、政策研究会における発題内容を整理して掲載)

政策オピニオン
会田 弘継 青山学院大学教授
著者プロフィール
1951年埼玉県生まれ。東京外国語大学英米語学科卒。その後、共同通信社ジュネーブ支局長、ワシントン支局長、論説委員長などを歴任し、現在、青山学院大学地球社会共生学部教授。共同通信社客員論説委員も務める。専門は、米国思想史。主な著書に『増補改訂版 追跡・アメリカの思想家たち』『破綻するアメリカ』『トランプ現象とアメリカ保守思想』など、訳書にフランシス・フクヤマ『政治の起源』上下巻『政治の衰退』上下巻など。

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