「同性婚」をどう考えるか ―「子どもの健全育成」「家族保護」の視点から―

「同性婚」をどう考えるか ―「子どもの健全育成」「家族保護」の視点から―

2019年4月17日

法的な家族制度全般に影響

 私は、子どもと法という視点から、子どもの健全育成、家庭保護の重要性に関して研究をしている。最近では、アメリカの同性婚の問題についても研究してきた。まず同性婚とは異なる制度とは言え、現在各地の自治体で進められている同性パートナーシップ制度が広がっている状況についても、子どもたちの健全育成、家庭の保護が脅かされるのではないかと大変憂慮している。
 同性婚についていえば、日本では憲法24条において「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し」と規定している。これを素直に読めば、憲法は男性と女性、その両性の合意のみに基づいて婚姻が成立するとしており、憲法上、同性婚は認められていないと解釈するのが自然であろう。
 日本においても一定の割合で同性愛の人々は存在し、彼ら(もしくは彼女ら)への法的な待遇をどうするかという問題は現存する。しかし同性婚を法的に認めるか否かは、単に個人の嗜好や個人の自由権の範囲に留まらない、子どもを含めた法的な家族制度全般に響いてくる問題である。
 事実、同性婚を合法化したアメリカ社会では、「個人の自由だから」「認めないと気の毒だから」では済まない事態になっている。

 

近代法の原則

 「近代法の原則」と「子ども」について言えば、中世法では集団のなかに個人が埋没させられていた。身分制もあり、不自由で不平等な中世法への反発から、近代法では個人主義、自由主義、平等主義の原則が生まれた。
 ただし、フランス革命直後の当時は、家族は当たり前にあるもので、家族をグループ単位と考え、個によって家族が分解するとは考えもしていなかったと思われる。しかし、20世紀に入った頃から、家族を個人の集合体として捉える見方が生じてくる。例えば、現憲法では赤ちゃんも大人と同様の主権者であるとされる。
 しかし、人間は生まれながらに自己決定できるわけではない。自己決定には、判断基準となる基礎的な価値観を身につける必要がある。そのためには当然、子どもは親から価値観を学ぶ必要があり、子どもの健全育成、家庭保護の重要性もそこにある。
 ところが、成長過程を無視して抽象的に物事を考えてしまうと、自己決定や自由主義、個人主義も多様化も、表面だけ尊重してしまうことになりやすい。そのあたりに、法律家が陥りやすい落とし穴があるように思われる。
 さらに子どもの成長過程に即して考えると、子どもには信頼できる大人が必要である。すなわち、できる限り実の両親と継続的で安定した一体的な関係を通して精神的成長を遂げることが重要になる。

 

子どもたちの発育と婚姻制度の意義

 子どもは生まれながらに実の両親が大好きである。自分をみてほしい、認めてほしいという欲求もある。子どもにとって親との精神的繋がりが、何より重要であることは言うまでもない。例えば、アメリカの判例法の解釈では、憲法上の保護に関して、家族の一体性の権利が親と子に認められている。
 これまで、婚姻とは男女の間でなされるものとされてきた。なぜなら、夫婦が社会から承認された制度の中でのみ性的行為をし、責任を持って子どもを生み育てることで、子どもは誰が自分の本当の両親かを知ることができ、血の繋がった両親に育ててもらうことができるからである。それゆえ、基本的には一夫一婦制や貞操義務が夫婦としての当然の前提とされ、そのことが子ども達の健全な発育を助け、そこに婚姻制度の意義があると考えられてきた。婚姻制度は、社会の秩序を確保する最適な方法ともなっていると言える。
 男女による婚姻制度の意義については、もうひとつ、男女と性別が違う以上、父親と母親の子どもへの接し方の違い、厳父慈母といった、接し方の違いが子どもの精神的成長に良いという、これまでの学問的蓄積がある。父2人、母2人という同性同士の関係のもとでは、子どもの成長にとって問題になる可能性が高いということである。

 

アメリカの同性婚合法化の経緯

 次にアメリカの同性婚の流れについて簡単に振り返ってみたい。
 アメリカで初めて同性婚を認めた判決は1993年のハワイ州判決である。これに危機感を感じた連邦政府は、96年に婚姻防衛法という法律をつくり、婚姻の定義を連邦法で規定した。同法では、婚姻は1人の男性と1人の女性で行う行為と規定している。
 しかしその後、同性婚賛成の流れが生まれ、2004年にマサチューセッツ州で初めて同性婚が合法化される。それでも2012年9月の時点で、同性婚を合法化したのは6州とワシントンDCのみであり、残りの30州は州憲法で同性婚を禁止していた。
 ところが2013年、Windsor判決で婚姻防衛法は違憲か否かを巡って連邦最高裁判決で激論となり、結局5対4の僅差で違憲であるとの判決が下される。ただしアメリカは連邦制の国であるから、その時点では同性婚を禁止していた州はそのままで構わないという判決だった。
 しかしその後、多くの州で同性婚を合法とする改正が行われることになる。2015年6月に連邦最高裁判決によって同性婚が完全に合法化されるまでに、判例によって合法としていた州は26州、法律により合法としたのは8州、住民投票で認められたのは3州、禁止の州憲法は13州となっていた。
 そうした状況の中で、同性婚を禁止していたオハイオ州、テネシー州、ミシガン州、ケンタッキー州に住む、14組の同性カップルと同性パートナーを持つ2人の男性が、「婚姻は男女に限る」と規定していた州を相手取り裁判を起こす。自分たちの婚姻の権利を否定することは合衆国憲法修正14条に違反するとして、同性婚を認めるよう州を訴えたのである。そこで連邦最高裁で、これら4つの上訴を統合して審理することになったのである。

 

合衆国憲法の基本的人権

 2015年6月26日、連邦最高裁は5対4の僅差で、婚姻の権利は合衆国憲法上の基本的人権であり、婚姻を異性間に限定する州の規定は同性愛者の自由を侵害し、合衆国憲法修正14条に違反しているとの判決を下した。これがObergefell v.Hodges判決で、その結果、全ての州で同性婚を合法化せざるを得なくなったわけである。
 ここでの論点は、「婚姻の権利は、合衆国憲法の保障する基本的人権の一つか?」ということである。以下の4点が先例により導き出されるとして、婚姻の権利は合衆国憲法上の基本的人権と解釈されている。

①婚姻が2名の個人を支える最も重要な結びつきであること。
②婚姻が個人にとり、アイデンティティや信条を形成するための重要な選択であること。
③婚姻が子どもの養育に必要な各種の社会的・経済的恩恵を得られる制度であり、子どもは平等にその恩恵を受ける権利があること(ただし、子どもの養育は婚姻の条件ではない)。
④婚姻が国の社会秩序の基礎であること。

 現在、連邦最高裁判事9名のうち2名はトランプ大統領が指名している。同性婚に反対するキリスト教福音派がトランプ大統領の支持母体の一つであるから、今後トランプ政権において同性婚合法化がくつがえる可能性がないとは言えない。
 このように、同性婚を認めるか否かという議論の根底には、「婚姻制度」をどのように考えるかという婚姻制度の定義の問題がある。

 

家族の崩壊を引き起こす可能性

 アメリカでも婚姻制度については大きく二つの考え方がある。
 まず、同性婚に賛成する人たちは、「婚姻は本質的には2人の人間によって自らの幸福の為になされる私的で親密で情緒的な関係であり、カップル自身によってカップル自身のためになされるもの」と考えている。従って、婚姻は個人の権利であって当事者同士が同意していれば認められるべきという論理構成になっている。
 一方、同性婚反対派は「婚姻は、子どもや社会の利益のために、カップルによる性行為、出産、子育てを社会的に承認するものであり、子どもと実の両親とのつながりを強くする社会的な制度である」と考える。子どもが生まれるのは男女間だけであるから、婚姻は男女間しかなしえない、同性婚は認められないということになる。
 同性婚賛成派は、自由や自己決定の主張を全面に出しており、一見すればこちらの方が近代法の個人主義の理念に合致しているようにも見える。しかしながら、婚姻の定義を「婚姻の主役はカップル自身であって、カップル自身の幸福のためだけになされる私的な行為」であると規定すれば、家族の崩壊を引き起こす可能性が強くなる。
 なぜなら、本人同士が合意していれば、一夫多妻制でも良いし、貞操義務も必要ないということになるであろう。婚姻中もお互いの了承があれば不倫をしても構わない、結婚したくないカップルは同棲すれば良いし、結婚しても親密な感情がなくなれば離婚をすれば良いという考えにも反論できない。また、結婚相手はいらないが子どもが欲しい場合や、同性愛のカップルで子どもが欲しい場合には、他人の精子や卵子を購入して子どもをつくることも、自己決定の一つと解釈されることになるだろう。

 

子どもの福祉と健全育成の立場から

 以上のように、婚姻の定義に、子どもの福祉、子どもの健全育成という視点をしっかり組み込んでいるのかどうかで家族のあり方が大きく変わってくる。子どもの視点を抜きにすると、当事者本人がよければ何でもありということになりかねない。それでは次世代の子ども達を保護するという婚姻制度の意義は後退し、子ども達の利益が二の次にされることが容易に想像される。
 残念ながら、昨今、「児童虐待」や「子どもの貧困」等、家族に起因する様々な社会問題が生じている。その原因の一つには、家族の大人が自己中心的となり、「子どもを中心とした家族」という感覚が弱くなっているという現実がある。これでは「親の責任感」も育たない。子どもの健全育成の立場から見て、社会の公共的な利益のために婚姻制度があると考えるべきではないか。
 婚姻の当事者は、確かにカップルである。しかし、婚姻の結果、多くの家庭にはその後に、生まれてくる子どもが家庭の構成員に加わる。子どもは、婚姻したカップルとは違って家庭を選べないし、大人へと成熟するには時間もかかる。その間には出来る限り、血の繋がった仲の良い両親と、愛情溢れる継続した家庭が必要である。
 そのためには、婚姻を「社会的な制度」とみなして、「結婚とは子どもや社会の利益のために、カップルにより性行為、出産、子育てを社会的に承認するもの」で、生まれてくる子どもの福祉、実の親との安定した親子関係を保護することを第一義的目的とする制度と解釈すべきではないか。
 このように子どもの観点からみれば、法が同性婚と異性婚を同等にすべきではないと思われる。

 

子ども、社会的弱者に不利益になる可能性

 実際、子どもや社会の視点からみると、家族には世代を越えたつながりがある。当事者の意思だけで家族を確定するという考え方は社会的弱者を危険な状況に追い込むことになるのではないか。子どもや社会的弱者に不利益にならない家族形成の在り方が必要だと考える。
 同性カップルでは、本来子どもをつくることはできない。確かに現代は生殖補助医療で子どもを産むことは可能となっている。養子縁組で親子関係をつくることもあり得る。しかし、同性婚では、少なくとも子どもの情緒的な発育にとって必須とされている母親と父親という存在はなくなってしまう。父親の役割と母親の役割は違うものであって、カップルの一方が母親または父親の役割までカバーできるかは微妙なところである。

 

異性婚カップルにも影響

 では、異性間の家庭でも子どもがいない家庭も多いわけであるから、同性婚カップルが子どもと関係しなければ何も問題はないのか。そうは言えないだろう。
 第一に、同性同士でも結婚できるとなれば、異性婚では当然と考えられてきた一夫一婦制や貞操義務の規範が揺らいでしまうという指摘がある。婚姻の本質を自らの幸福のためになされる私的で親密で情緒的な関係と捉えると、一夫一婦制や貞操義務が社会から排除され、それは子どもがいる異性婚のカップルにも影響を及ぼすことになるのではないか。
 第二に、血縁の両親に育てられるように意図された社会と子どものための婚姻制度の意義が揺らぎ、婚姻制度は当事者の選択によりいつでも解消できる不安定な制度になりかねない。両親の離婚は、多くの場合、子どもにとって心理的なストレスとなる。そのしわ寄せを受けるのは子ども達である。
 さらに、法には一律性と強制力があるため、同性婚を認めることは社会全体に大きな影響がある。「父親と母親の揃った子育てこそ子どもの発育に最善である」という自明の事実さえ公言することも難しくなるのではないか。

 

子どもにとっての家庭、家庭教育

 ところで、現在、子ども達の家庭教育に関する家庭教育支援条例が14自治体で施行されている。
 例えば、熊本県の家庭教育支援条例には、最初に「家庭は教育の原点であり、全ての教育の出発点である。基本的な生活習慣、豊かな情操、他人に対する思いやりや善悪の判断など基本的倫理観、自立心や自制心などは、愛情による絆で結ばれた家族との触れ合いを通じて、家庭で育まれるものである。・・・」とある。法律にもこのような理念を入れて頂けると、子どもにとっての家庭、家庭教育の重要性が理解しやすくなると思われる。
 条例だけでなく家庭教育支援法案も提起されており、ぜひ成立させて頂きたいと思っている。ただ残念なのは同法案をみる限り、子どもたちの視点からの家庭、家庭教育の重要性があまり感じられないことである。
 近代法は、「個人主義、自由主義、平等主義」を概念として打ち出している。そうなると家族も単なる個人の集合体、一時的で自己決定が優先される産物と捉えられてしまいやすくなる。論理的にはその方向に流れていかざるを得ないであろう。
 しかし、家族は助け合いのシステムである。夫婦間だけで構成されているのではなく、高齢者、障害を持った人、特に子どもにとっては成長していく上で欠くことのできない場である。
 だからこそ、子どもの精神的な成長を考慮し、実の親とできる限り引き離さない努力、子どもたちが愛情による絆で結ばれた家族との触れ合いを通して、自己決定に向けた判断力、価値観を身に付けることの重要性をしっかりと法に明記すべきであろう。

 

子どもを第一に考える婚姻制度に

 同性婚を認めるか否かという問題の本質は、婚姻制度をどう定義するかにある。当事者の権利と自由の問題と見ると、子どもの福祉・家族の保護の問題と見るかの選択の問題とも言える。子どもの健全な成長にとって欠くことのできない家族の保護という視点に立ち、子どものことを第一に考える婚姻制度を今後も守っていくべきではないだろうか。

(本稿は、2019 年1 月23 日に開催された研究会における発表に加筆してまとめたものである。)

政策オピニオン
池谷 和子 長崎大学准教授
著者プロフィール
神奈川県横浜市生まれ。東洋大学大学院法学研究科博士課程修了。東洋大学非常勤講師等を経て、現職。専門は憲法、未成年者保護法。著書に『アメリカ児童虐待防止法制度の研究』。日米の児童虐待、同性婚問題等に関する論文多数。

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