構造変容に直面し漂流する日韓関係:過去・現在・未来

構造変容に直面し漂流する日韓関係:過去・現在・未来

2015年6月8日

1.日韓国交正常化交渉をどう評価するか 

 日韓国交正常化交渉に関していうと、現在、韓国政府の外交文書がほぼ公開され、日本の外交文書もかなりの部分が公開されている。そしてある意味でこの交渉の「影の主役」とでもいうべきだったのが米国であった関係上、米国の外交文書もよく精査しながら、現代史の対象として日韓国交正常化交渉を扱い実証研究ができるようになった。
 1965年の日韓国交正常化から今年で50年になるわけだが、人々の記憶は薄れては行くものの、外交文書などの歴史的記録を研究することによって、この交渉がどのような性格のものであり、あるいはどのような可能性がありながらもその可能性が閉ざされたのかなど、歴史的評価ができるようになった。
 今、「日韓国交正常化」をめぐっては、現在進行中のできごととして問題になっている部分もあるから、単に歴史的対象としてだけ見ることに限界があることも事実である。しかし日韓国交正常化の歴史的評価について私なりに位置づけてみたいと思う(詳細は、李鍾元・木宮正史・浅野豊美編著『歴史としての日韓国交正常化ⅠⅡ』法政大学出版局を参照)。

(1)東アジアにおける冷戦体制の出現
 一般的には、日本が朝鮮半島を植民地化(1910-45年)し、1945年日本の敗戦と共に韓国が植民地支配から解放され、南北に分断された後、48年に大韓民国が建国されたわけだが、その両国が国交を正常化したのが1965年日韓基本条約の締結である。そこには植民地支配と脱植民地化の問題を何らかの形で処理をするという課題を抱えていた。ところが、実際の日韓国交正常化交渉は、日本の植民地支配と韓国の脱植民地化という問題がメインのテーマとして必ずしも扱われた交渉ではなかった。
 それでは何がメインのテーマとなったのか。主な課題を列挙すれば、次のようになるだろう。
 ①地政学的課題:日本にとっては「反共の防波堤」としての韓国
 ②脱植民地化(歴史の清算):35年に及ぶ日本の植民地支配に対する清算
 ③冷戦体制:冷戦体制下、反共自由主義陣営の結束強化
 ④経済協力:日韓の経済協力により、日韓の経済発展・政治的安定を図る
 戦後まもなく韓国と北朝鮮という分断国家が形成され、1950年には朝鮮戦争が起きた。この戦争では、(占領下の)日本の米軍基地から米軍が朝鮮半島に向けて出撃したほか、国連軍の要求を受けて日本の海上保安庁の特別掃海隊が機雷の掃海活動を行った。このようなアジアの冷戦体制の中で、日本と韓国は米国を盟主とする反共自由主義陣営の一翼として位置づけられるようになった。そしてその陣営の結束と関係強化を図るために、日本と韓国はどのような関係を構築するべきかということが、その間に立った米国にとっての課題として出てきた。その結果、米国が仲介する形で日韓国交正常化交渉が始まったのである。つまり、植民地支配・脱植民化問題という以上に冷戦体制の中での関係構築が、メインのテーマになったことは、否定できないと思う。このように、上述の4つの課題の中で日韓両国にとって現実に一番重要視された課題は③であった。
 とはいえ、韓国にとってもそうだが、日本にとっては平和憲法の制限もあって、日本が韓国に関与する方法・手段は限られたものとならざるを得ない。すなわち、経済協力によって日本が韓国の反共自由主義政権をてこ入れし、韓国の経済発展を促すことで(同時にこれは日本の経済的利益につながるが)韓国の政治的安定も確保されるようになる。
 南北分断体制の中で、韓国は北朝鮮と体制競争を展開せざるを得ない環境にあり、韓国が体制競争の中で不利にならないようにすることが、日韓交渉のメインのテーマとなったと思う。
 1950-60年代は北朝鮮の方が、韓国と比べ経済優位、かつ独裁体制下にあるとはいえ政治的にも安定していた。当時日本では、「釜山赤旗論」が唱えられた。これは、「韓国南端の都市・釜山に赤旗(共産主義勢力)が立つと日本にとっての重大事だ」という意味である。日本国内でも共産主義勢力が活発化する中、共産主義勢力が対岸まで迫ると大変だという認識の下、日本としては冷戦体制下において韓国にてこ入れすることで南北体制競争を日本にも有利に導いていこうとした(⇒韓国の共産化を防御するとともに韓国が北朝鮮を凌駕するようにする)。1970年代に入ると、韓国と北朝鮮の経済力は逆転し始め、80年代になると南北の経済格差は歴然としたものとなった。

(2)国交正常化交渉妥結に向けたやり取り
 日本が経済協力をするときに、その名分をどうするかという問題が出てきた。日本が(ODAのように)善意で経済協力をするというわけにもいかない。一方韓国は、日本の35年に及ぶ植民地支配の中で生じたさまざまな経済的関係を清算し処理するという視点に立って、当然日本から「もらう権利」があると考えて交渉に臨んだ。
 当時、それに関してさまざまな構想があった。一つには、賠償請求の考え方である。大韓帝国が日本に植民地化された後、大韓民国臨時政府が上海で設立され(1919年)、その後、重慶に移動したが、それは一種の亡命政権であった。この亡命政権は枢軸国・連合国双方から国際的承認を得ることはできなかったが、ある面では日本に対して宣戦布告を行い対抗したことをもって、日本とは「戦勝国」の立場で交渉に臨むことが可能だという考え方である。
 もう一つは、韓国では、日本は植民地支配によって韓国にあった富を収奪したと考えているので、日本の植民地支配に対しての何らかの補償を求めるという考え方である。
 ところが、韓国にとって最大の制約条件は、米国がサンフランシスコ平和条約によって韓国のそうした考え方を基本的に封じ込めることにしたことだった。そのような枠組みの中で、日本との交渉をしなければならなかった。
 もう一つが、請求権問題という問題設定の方法だった。請求権を行使するに際しては、何らかの証拠を提示しなければならない。例えば、韓国人が戦時中に徴用され強制労働させられながらも、その賃金が未払いだとしたときに、その財産的価値を要求する権利である。この点に関して日本側からは「逆請求権」(戦後日本が引き揚げた後、朝鮮半島に残したままになった日本の財産に関する請求)を主張したこともあった(この主張は、韓国の請求権の総額を相殺しようとの動機から出たようであった)。
 証拠の提示に関して韓国側にとっての難点は、当時の日本政府がすべての情報を公開したわけではなかった上、韓国に残っていたであろう証拠資料にしても朝鮮戦争によって焼失したものが多かったことだった。ゆえに証拠を積み上げていくやり方で請求権を行使することは現実になかなか難しかった。この点については日韓両政府とも理解するようになり、米政府が背後から両政府にアドバイスすることによって、交渉の妥結を促した。
 日本から韓国に対して何らかの財産的価値を移すことに関しては合意があったが、60年代に入りその名目と量に関して交渉が行われた。結果としては、無償3億ドル、有償2億ドル、商業借款3億ドルプラス・アルファで決着した。
 名目に関しては、あいまいな形で決着した。韓国側は請求権を主張したが、日本側はその名目では(証拠資料もないままに国の予算からは)支出できないとし、「経済協力」の名目で提供することにした。しかも経済協力を提供することによって請求権の問題は「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」ことで妥結を見た(「日韓請求権協定」第二条第1項)。従って、植民地支配の経済的清算については、一応お互いに「解決済み」としたのである(ただし、最近になってその点もぐらついているが)。

(3)玉虫色の解決
 このようにして1965年6月22日に日韓基本条約が締結された。日韓国交正常化交渉では、請求権の問題のみならず、次のような項目も議論された。
 ①日本にとっての韓国の「地位」
 ②日本から韓国へ移転する財産的価値の名目と量
 ③日韓併合条約(1910年)およびそれに至る諸条約の法的問題
 ④文化財返還、船舶返還
 ⑤漁業問題(李承晩ラインと漁業協力問題)
 ⑥在日韓国人の法的地位に関する問題
 ⑦竹島(独島)の領有権
 ⑧韓国の管轄権の範囲に関する問題(北緯38度線以北の管轄権)
 ③も重要な争点だった。韓国政府は一貫してこれらの諸条約は「強制によって結ばれた違法なものであるから、(条約締結)当初から既に無効だった」と主張した。つまり日本の植民地支配は「不法占拠が35年間続いた」という理解である。一方、日本政府は、法的には合法かつ有効であったが、1945年に韓国が独立して諸条約は(そのときから)無効になったと主張した。
 これに関しては「もはや無効」(日韓基本条約第2条)という文言を用いたが、日韓両政府ともそれを各々都合よく解釈して国会に報告し批准を済ませた。日韓基本条約は日本語と韓国語で作成し、互いの解釈の違いは英文で行うとしたが、英文もあいまいな文言が使われた(英文ではalready null and voidと表記され、互いに都合よいように解釈できた)。
 決着がつきにくい問題に関しては知恵を出して、お互いが国内向けには自分の政府に都合のように解釈して説明し、一種の「棚上げ」によって「解決」を図り、国交正常化を急いだように思う。
 日韓国交正常化、日韓基本条約の締結は、日本の植民地支配を清算したのかという点が重要な問題となるはずだったが、当時の状況としては、そのような問題よりは、冷戦状況が深刻化する中で日韓関係をどう構築し、どう協力するかを優先した交渉になった。ゆえに、日本の植民地支配に関する問題が必ずしも十分に議論されなかったことは確かである。それに関して、当時の韓国政府(朴正煕政権)も、この決着について十分満足したとは言えないまでも、当時の韓国のおかれた状況の中で日本から資金を引き出して経済発展を進め貧困をなくして北朝鮮との体制競争に打ち勝つためには「やむを得ない」決断であり、それを優先させたのである。それは一種の「政治的決断」だった。
 そこには不十分に残された問題もあったが、それに関して日韓両政府とも分かっていた上で妥協したのだと思う。最近の韓国側からすると、議論が不十分だった問題だけではなく、(慰安婦問題のように)当時全然議論されなかった問題もあるとの主張が出てきている。全く議論さえされなかった問題を未解決であると主張するのはある程度理解できるが、それ以外の問題に関して、当時の韓国政府がそうした点を十分に理解しつつ合意した点は重いと考える。

2.1650年以降今日までの日韓関係

 日韓国交正常化の後、1970年代に入ると、東アジアの冷戦状況が劇的に変化した。中国(中華人民共和国)が、米中和解(1972年2月)と日中国交正常化(1972年9月)を契機に、国際社会に復帰し、冷戦の東西対立関係から一種のデタント(緊張緩和)へと移行し始めたのである。米国はベトナム戦争が泥沼化すると、米軍のベトナム撤退を始め、1973年パリ和平協定によって完全に撤退した。また、ニクソン政権は1969年グアム・ドクトリンにしたがって在韓米軍を削減し、さらにカーター政権は在韓米軍の撤退政策を発表した。
 この国際情勢の変化は日韓関係にも影響を及ぼした。中国(中華人人民共和国)が(中華民国=台湾に代わって)国連に復帰しながら(1971年)国際舞台に登場し始めた。日本は、日中国交正常化後、(中国をバックとする)北朝鮮との関係改善を、経済関係を手がかりに模索する動きが見られた。とくに野党の積極的働きかけがあった。
 朝鮮半島では南北対話が始まった。1971年の赤十字会談から始まり、1972年5月には韓国中央情報部(K-CIA)の李厚洛部長がピョンヤンを極秘訪問して金日成と会談。続いて北朝鮮の朴成哲・第二副首相がソウルを極秘訪問して朴正煕大統領と会談。その結果、自主、平和、民族大団結という祖国統一三原則を定めた「南北共同声明」が発表された(同年7月4日)。
 日本から見ると、南北対話が進行するのを横目で見ながら、日本としても北朝鮮と関係を改善していくことは許容されると見た。ただし韓国から見ると、日朝関係の改善はある種困ることでもあった。なぜか。
 韓国は、朴正煕政権の経済政策によって70年代に入るころには北朝鮮と肩を並べる経済力を持つようになった。韓国はこれから本格的に北朝鮮と政治、外交、経済などの面で競争していく態勢に入る中、1973年6月23日、統一のための新しい外交政策、すなわち「六・二三平和統一外交宣言」を表明した。それまで北朝鮮を傀儡政権として、その存在を認めてこなかったが、「六・二三宣言」によって韓国は「二つのコリア」を認める立場に変化した。国連や国際組織において北朝鮮が入ることに必ずしも反対はしないし、北朝鮮が関係していた東側陣営や北朝鮮と国交のある国々とも国交を結ぶ用意があるとした。逆に言えば、これは北朝鮮が韓国の同盟国である米国や日本など西側諸国と関係改善に向けて動くことを、少なくとも公式的には妨げないという意味でもある。
 南北対話は、従来の対決から対話をしながら競争をする関係になった。それでも当時、韓国が中ソとの関係改善を図ろうという可能性は(既にその動きはし始めてはいたが)まだ希薄だったと思う。
 その背景には中ソ対立があった。北朝鮮が中ソに対する交渉能力を高めることによって、中ソが韓国との関係改善になかなか踏み出しにくい雰囲気があった。そういう状況の中、北朝鮮と日本の関係改善のチャンスが出てきた。韓国からみると日朝関係の改善が進むことは、南北の外交競争の中で一番困ることだった。韓国は「二つのコリア」を認め、北朝鮮と韓国の同盟国が関係を改善することを必ずしも公式的には妨げないとしながらも、日朝関係改善には非常に敏感に反応した。
 ちょうどそのころ、金大中拉致事件(1973年)や在日韓国人・文世光による朴正煕大統領狙撃事件(1974年)が起こり、日韓関係が非常に緊張が高まった。韓国は対日断交をする寸前まで行く状況だった。この時期の日韓関係緊張の背景には、そのような事件と共に、北朝鮮をめぐる日韓の立場の乖離、つまり冷戦対立からデタントへと向かう情勢変化の中で、日韓にはある種の立場の違いが存在したように思う。
 ところがその後、ベトナムと米国の動きが不透明になる中で(75年にベトナムが共産化統一され、70年代後半には米国でカーター政権が在韓米軍の撤退を決定)、日韓の懸念が共有される面が再び現れて、日韓関係は修復の方向に動いた。在韓米軍撤退も結局「無期限延期」された。
 80年代に入ると、レーガン政権、中曽根政権、全斗煥政権が誕生して、米国を挟んだ日韓の協力関係が60年代と同じように復元されるようになった。その一つの表れが、対韓40億ドル援助という「日韓安保経済協力」であった(1983年)。これは第二の国交正常化とも呼ばれた。
 80年代には南北体制競争において、韓国の政治的民主化、先進国化、北方外交の成果などによって韓国の圧倒的な優位がはっきりしてきた。
 90年代に入ると、東西冷戦体制が崩壊するとともに、南北体制競争もほぼ韓国の優位として決着した。そして韓国とソ連、中国との国交回復がなされ、ずっと拒否してきた北朝鮮が折れて南北の国連同時加盟が実現(1991年)。90年から南北高位級会談も始まり、南北基本合意書も交わされた。それによって冷戦終結の恩恵が「平和の配当」として朝鮮半島にももたらされるかに見えた。日朝間でも金丸訪朝(1990年9月)、三党共同宣言を受けて日朝国交正常化交渉がようやく始まった(1991年~)。
 ところが、北朝鮮は、南北体制競争において劣勢になり、経済、外交、政治においても不利な状況になり孤立感を深めた。その中で北朝鮮は生き残り戦略をどう構築したのかというと、北にとっての有利な外交交渉を進めるために、核ミサイル開発を本格的に外交手段として使い始めた。90年代以降の朝鮮半島は、北朝鮮の核開発(第一次、第二次核危機)をめぐって緊張が高まった。そのたびに緊張と緩和の局面が交互に現れた。
 冷戦以後の日韓関係は、北朝鮮による核開発を日韓両国とも重大な問題と認識することで、どう取り組むべきかをめぐって冷戦期と同じく、米国を間に挟んだ日米韓の協力関係が展開された(2000年代前半ごろまで)。

3.最近の日韓関係:構造的変容

 最近の日韓関係は、90年代ごろの関係とは次元の違った関係に変化している。そこにはいろいろな原因があると思うが、私の認識では日韓関係が構造的変容を遂げたことがあると考えている。ゆえに、一政治家としての朴槿恵大統領や安倍首相だから問題化しているとは考えない。別の政治指導者であったとしても、現在の日韓関係の急激な改善は難しいだろうと思う。
 それではどのような構造的変容があったのか。

(1)水平化
 それまでの日韓関係は、経済的関係にしても垂直的分業関係だった。例えば、韓国は日本から工業の素材や部品、機械などを輸入、それを加工し工業製品化して輸出し、貿易立国でもうけてきた。韓国経済は、輸出依存が高く輸出が伸びれば伸びるほど対日貿易赤字が膨らむという構造で、80年代までは対日赤字が大きな問題だった。ゆえに「日本がくしゃみをすると、韓国は風邪を引く」とも言われた。
 経済力を中心に日韓のパワーの格差が相当あったが、90年代以降の韓国経済が持続的に発展する一方で、日本はバブル崩壊後の経済の停滞によって相対的な衰退が見られ、日韓が相対的な<対等化=水平化>の関係に移行していった。この結果、どのような現象が現れたか。
 日本は、「先進国に仲間入りした韓国は、そのパワーに応じた責任ある対応をすべきで、例えば、一度合意した約束は守るべきだ」などと主張。つまり韓国に対して以前は(途上国として下に見て)寛容だったのが、厳しい目で見るようになったのである。一方、韓国は「不均衡な日韓関係下では十分に要求できなかった対日要求を今こそ貫徹すべきだ」と主張するようになった。

(2)均質化
 私が韓国に留学していた当時の87年に民主化が起こり、その後の民主化の進展によって、民主主義、市場経済などの基本的価値観において日韓は共有することができるようになった。それ以前の日韓は、文化的な類似性は別にすると、日本は戦後民主主義が定着する一方で、韓国は軍事独裁の発展途上国という側面があったから、政治・社会の違いは顕著だった。
 このように日韓が均質化してきたのだが、日本から最近の韓国の動きを見ると、産経新聞ソウル支局長をめぐる問題や韓国の「中国傾斜」など、同じ価値観を共有しているのかと疑問をもつような行動を選択していると感じる。最近、日本の外務省のHPから「(韓国とは)基本的な価値を共有する」という文言がなくなったとして話題になった。また韓国から見ると、歴史認識問題を中心として日本と価値観を共有しているとは言いがたいと感じている。

(3)多様化・多層化
 従来の日韓は近い関係にあったことは確かで、70年代には「日韓癒着」ということがよく言われたが、そのころは政治・経済のエリート層が主導した日本語を共通語とする日韓関係だった。その後の韓国の経済発展と民主化の進展によって、政治・経済中心の日韓関係が社会・文化にも領域が拡大すると共に、エリート層だけではなく一般市民社会、地方政府同士の関係など多層な関係へと変わっていった。この結果、政府が日韓関係に関する世論をうまくコントロールすることができなくなった。

(4)双方向化
 韓国におけるかつての日本のプレゼンスは、米国に次ぐもので大きな位置を占めていた。一方、日本における韓国のプレゼンスは低く、不均衡だった。モノ・情報など価値の移動に関しても、日本から韓国にはいろいろなものが相当流れていくが、逆に韓国から日本へのモノ・情報などの移動はあまりなかった。
 しかし近年、韓国に中国からのヒト・モノ・情報が相当流入するようになって中国のプレゼンスがかなり高まった反面、それに比べると相対的に日本のプレゼンスが低下したことは否めない。それに対して日本における韓国のプレゼンスは、むしろ相対的に上がる傾向も見られる。「韓流」はまさにその典型であろう。このように日韓の価値の流れが双方向化してきた。
 このように双方向化が進んだ結果、韓国に関するありとあらゆる情報が入ってくるようになって、中には日本をけなすようなものもあり、それがリアルタイムで入ってくると、感情的に反応する人も出てくる。日本の対韓国認識が急速に悪化した背景の一つに、このような事情がある。相互認識が双方向に進むことで、「突出した認識」が誇張されて相互の社会に伝達されることがしばしば見られ、それによって相互不信が増幅されるのである。

(5)中国をめぐる日韓関係
 中国をめぐる日韓の距離感である。日韓とも米国と同盟関係にありながらも、日本からすると韓国は中国を警戒・牽制するどころか、「中国寄りの姿勢」を露骨に示すことに対する不満をもつ。韓国は、北朝鮮に対する影響力や経済面での強い結びつきを考慮して中国は重要なパートナーだと考えるのであって、それを「中国寄り」だと日本が言い立てるのは、韓国の立場を理解していないのではないかとの不信感がある。

4.閉塞する日韓関係をいかに打開するか

(1)「もう一つの日韓関係」の可能性
 このような構造的変化があるために、現在の日韓関係はやむなしとする意見もあるかもしれないが、構造的変容にどう対応すべきかをめぐってもう少し違った可能性があるのではないかと考える。
 先述した四つの変化と中国の大国化に対する対応について、日韓の違いから論ずるのではなく、もう少し日韓がお互いの立場を理解しあって、構造変容にうまく対応するような可能性があるのではないか。今の状況は、その可能性を活かしきっていない結果ではないかと思う。前節で指摘した5つについて若干の例を挙げて説明する。
1)水平化
 以前の垂直関係下で合意された「約束」を水平化という条件変化に対応するように調整することで、関係の深化を図るという選択も可能ではないか。たとえ垂直関係下で不満を持ってやむを得ず合意せざるを得なかった「約束」であっても、それを修正する場合には、最低限、自らの過去の選択を十分に「自省」することを伴うという「責任ある立場」で取り組むこともできるのではないか。
2)均質化
 相互に自ら設定した価値観を普遍化して、相手がそれに合致していないことを嘆き、「諦める」のではなく、その価値観の共有部分を相互に認識し、それに基づいて問題解決を探ることも可能ではないか。例えば、慰安婦問題に関して、「日本vs韓国」という図式で設定するのではなく、正真正銘に「戦時下における女性の人権侵害」という問題意識として共有し、その解決をそれ以外の問題も含めて共同で取り組むというアプローチも可能ではないか。「日本が加害者で韓国は被害者」という厳然たる歴史的事実に基づくことは重要であるが、それを「正義vs不正義」という問題として設定してしまうことは、そうした歴史的事実をむしろ「希釈」してしまうことを認識すべきではないか。
3)多様化・多層化
 日韓両政府が相互に妥協可能な結論を導出することは容易ではないが、「多様化・多層化」は、網の目のように張り巡らされたネットワーク形成という別の側面を持つ。国会議員ネットワークから自治体間のネットワーク、さらに民間のネットワークまで含めると、日韓の間には実に種々のネットワークが複合的に形成されている。こうしたネットワークは、日韓関係が極限的な対立関係にエスカレートすることを相当程度抑制することを可能にする機能を果たす。
4)双方向化
 情報の流通を規制することはもちろんできないし、すべきではないが、相互において、「民主主義体制下における情報流通の自然淘汰」に信頼を置き、国境を超えた相互のコミュニケーションをより一層密にすることによって、相手の情報が、自国だけで都合よく消費されてしまう状況を回避し、相互に発する情報が、相手国にどのように受け入れられるか、そしてそうした情報が流通することが、結果として、どのような効果を持つのかを考慮するという相互戦略をpublic diplomacyの名の下に構築することも可能ではないか。
5)中国の大国化への対応
 大国化する中国をどのように東アジア秩序に馴化させ、そのために共有する対米同盟をどのように活用するかに関して、日韓にはそれほど大きな利害の乖離は本来ないはずである。問題は、そうした課題に日韓とも単独で取り組むことが困難だということ。上記のような対応は、対中政策をめぐる日韓の協力が元来困難であるということを与件としているが、果たしてそうだろうか。

(2)「外部不経済」「国際公共財」としての日韓関係
 日韓関係は直接的には二国関係ではあるが、現在のような日韓関係は(北東アジア)地域にとってもあまりよくないと思う。それを「外部不経済」「国際公共財」という概念を使って説明したい。日韓の政治指導者、政治勢力、国民もこの点を認識する必要がある。
1)対米同盟の効率的利用とコスト軽減
 米国は日韓関係がよくないことを心配している。日韓双方とも「米国詣」をしながら、互いの悪口を米国に言いつけて相互に在米ロビー活動を非難し合っている。とくに韓国の場合、米韓同盟は日米同盟の後塵を拝してきたという思いがあるために、日米同盟に負けないものにしたいという対抗心が強く作用しているようだ。
 そもそも、対米同盟をめぐって互いに競争し合うことが、同盟の効率的利用に関して果たしてよいものか。同盟には「利益」がある一方で、他方には「コスト負担」がある。だから如何に少ないコストで多くの利益を得ることができるかを考えるわけで、今の状況では日韓ともコストだけ相当負わされる状況に追い込まれている。これも日韓の対米同盟を与件として、自動的に帰結されるものではなく、選択的なものであるはずだ。
2)大国化する中国にどう対応するか
 対中関係についても、日韓はあまりにも違ったような対応に見えるが、この課題を日韓が共有することは間違いない。問題はどのようなアプローチを採用するかである。
 現状を単純に図式化すると、日本は対米同盟強化による「バランシング(balancing)」戦略を軸に対応しているように見える。それに対して韓国は、「安全保障は米国、経済は中国、対北朝鮮は米中」との表現に見られるように、ある程度良好な米中関係が維持されることを与件として、対北朝鮮政策に関する中国の影響力行使に期待をかけるという意味で、「ヘッジング(hedging)」戦略と「バンドワゴン(bandwagon)」戦略の双方を追求しているように見える。
 大国化する中国をどのように東アジア国際秩序に馴化させるか、換言すれば、東アジア国際秩序の形成を主導する「責任ある大国」としての役割を中国に担わせるために、共有する対米同盟をどのように活用するかに関しては、日韓にはそれほど大きな利害の乖離はないはずである。問題は、そうした課題に日韓とも単独で取り組むことが困難だということだ。対中政策をめぐって日韓の協力が元来困難だと考える向きもあるが、果たしてそうだろうか。
 また中国は歴史問題を利用して日韓の離間を図っており、現状の日韓の選択は、そうした中国の術中にはまっているとの意味で中国の「思う壺」であるとの見方もある。しかし、こうした状況は、中国にとっても、また東アジア全体にとっても、それほど望ましいことであるのか。東アジアの国際秩序を公正で透明なものにするためにも、中国の影響力だけが突出するよりも、その周辺諸国の影響力がある程度担保される方が望ましい。そのためには、そうした役割を担い得る存在として、日韓がいかに協力して中国に対する発言力を持ち得るかが重要である。
3)北朝鮮問題への対応
 対北朝鮮政策に関して、(核大国、軍事大国である)米中と比較して、韓国の立場に最も近く、そして共感できるのが日本だと考えるが、この点をよく韓国の方にも話しているが、なかなか理解してもらえない。北朝鮮の脅威を最も痛感する国は日韓であるし、軍事的方法で北朝鮮問題を解決するというのは日韓とも困ることである。
 東アジアの攪乱要素・脅威である北朝鮮をいかに秩序に馴化させるか、そして韓国にとっては、念願の国家目標である韓国主導の南北統一をいかに実現するかという問題にも取り組む必要がある。
 平和的手段で韓国主導の南北統一を達成するという目標、手段に関して日韓は、他国に比べて相対的に共通する。さらに日本は、日朝国交正常化に伴う日朝経済協力、韓国は南北経済協力という手段に関して、例えば、中国の対北朝鮮経済支援と比較しても、相互競争的側面もあるが、それ以上に相互補完的、相互促進的な側面を持つので、相互に役割分業を通した協力が可能ではないか。
 北朝鮮に核開発とその軍事利用をいかに断念させ、韓国主導の南北統一へと誘導するかに関して、日韓は戦略的な共有度が他国に比べて高い。しかも日韓が協力しなければ、それぞれの手段の効果は低い。ゆえに日韓関係が現在のような状況が続くことは、東アジア国際秩序にとってマイナスである。逆に言うと、日韓関係は日韓だけの二国間の問題ではなく、東アジアにおける「国際公共財」的な役割を果たし得るものになっているにもかかわらず、それが果たせていない現状である。

(2015年5月13日「21世紀ビジョンの会」における発題を整理してまとめた)

《主な参考文献》(主として著者に関係するものを中心に)
1)李鍾元・木宮正史・浅野豊美編『歴史としての日韓国交正常化Ⅰ東アジア冷戦編』『同Ⅱ脱植民地化編』法政大学出版局,2011年.
2)太田修『日韓交渉:請求権問題の研究』クレイン,2003年.
3)吉澤文寿『戦後日韓関係:国交正常化交渉をめぐって』クレイン,2005年.
4)玄大松『領土ナショナリズムの誕生:「独島/竹島問題」の政治学』ミネルヴァ書房,2006年.
5)木宮正史「岐路に立つ日韓関係:摩擦を超えた「進化」に向けて」『ニッポンドットコム』,2012年9月.
6)木宮正史「日本の対朝鮮半島外交の展開―地政学・脱植民地化・冷戦体制・経済協力」,波多野澄雄編『日本の外交 第2巻 外交史戦後編』岩波書店,2013年,pp.193-216.
7)木宮正史「米中関係と朝鮮半島」『国際問題』日本国際問題研究所,No.628,2014年1/2月号,pp.15-23.
8)木宮正史「「競争」し合う日韓のナショナリズム:ナショナリズムを「鍛え直す」ために」『生活経済政策』生活経済政策研究所,No.211,2014年8月,pp.21-25.
9)木宮正史「序論 構造変容し漂流する日韓関係」「日韓外交協力の軌跡とその現在的含意」木宮正史・李元徳編『日韓関係史 1965-2015 1政治』東京大学出版会,2015年(近刊).
10)木宮正史「序論:アジアパラドックスと日本パラドックス(仮題)」「日本の安全保障と朝鮮半島:安全保障における非対称性」木宮正史編『朝鮮半島と東アジア シリーズ 日本の安全保障6』岩波書店,2015年(近刊).

政策オピニオン
木宮 正史 東京大学大学院総合文化研究科教授
著者プロフィール
1983年東京大学法学部卒、東京大学大学院法学政治学研究科および韓国・高麗大学大学院政治外交学科博士課程修了。政治学博士。その後、法政大学助教授、東京大学大学院総合文化研究科助教授などを経て、現在、同大学院総合文化研究科教授。この間、同大学現代韓国研究センター長、ハーバード大学訪問研究員などを務めた。専門は、朝鮮半島の政治・国際関係。主な著書に『韓国―民主化と経済発展のダイナミズム』『朴正煕政府の選択:1960年代輸出指向型工業化と冷戦体制(韓国語)』『国際政治の中の韓国現代史』、編著に『歴史としての日韓国交正常化』他。

関連記事

  • 2015年11月20日 平和外交・安全保障

    日韓信頼構築への提言 ―文化理解の視点―

  • 2022年2月25日 平和外交・安全保障

    比較文明論から見た日韓「戦略的協調関係」構築への提言

  • 2021年9月29日 平和外交・安全保障

    韓国経済の現状と日韓経済依存度

  • 2015年12月12日 平和外交・安全保障

    新時代に向けた日韓関係構築への提言

  • 2016年2月5日 平和外交・安全保障

    隣国とどうつきあうか ―歴史の中の日韓関係と現代―

  • 2020年1月16日 平和外交・安全保障

    朝鮮半島の軍事的安全保障の現状と日韓協力のあり方