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IPP分析レポート

歴史認識でもめる日韓関係、対立の原点は何か


外交・安全保障研究部会

2013.11.28

 歴史認識で日韓がもめている。現在、両国関係は最悪と言っていいだろう。先進国としての自信をつけた韓国が、「弱くなった日本」に対して「今だから言える」という側面があると指摘する声もある。
 

はじめに

 歴史認識で日韓がもめている。現在、両国関係は最悪と言っていいだろう。先進国としての自信をつけた韓国が、「弱くなった日本」に対して「今だから言える」という側面があると指摘する声もある。しかし、それは本質ではない。両国間によこたわる一致できない「歴史認識」があるのだ。

 それは何か。その原点のようなものが日韓国交正常化交渉の中に如実にあらわれていた。2015年は日韓基本条約締結50周年となる。両国関係の再構築のために覚悟を固めて向き合う時である。

 

一、原点としての日韓国交正常化交渉

 

(1)国交正常化の肯定面と否定面

 日韓国交正常化が歴史的に高く評価されるべきものであることは論を待たない。しかし、そこには、肯定的側面と否定的側面があった。肯定的側面として一般的に言われているのは次の二点である。①韓国の近代化・工業化が促進され経済発展がもたらされたこと②日韓は同じ自由陣営の一員として連携することができたこと。しかしもう一つ付け加えるべきことがある。それは韓国の北方政策の戦略的条件となる基盤造成につながったことである。北方政策とは韓国が中国、ソ連(当時)と国交を結ぶことであり、それが北朝鮮に最も大きな影響を与え、南北共同宣言(1991年)や6者協議実現へと結びついている。韓国の経済・技術力は、中ソが韓国と国交を結ぶ重要な要因となったのである。

 否定的側面とは、日韓の歴史認識問題が棚上げされて国交正常化がなされたため、今日のようなさまざまな問題が生ずる背景となっているのである。

(2)交渉14年-なぜ難航したのか

 国交正常化は1965年6月22日に日韓基本条約の署名(東京にて)をもって実現した。そのための具体的な日韓の外交交渉は1952年2月から始まっているので、14年間もかかったことになる。

 日韓国交正常化は日本にとっても非常に重要な外交課題だった。東西冷戦から朝鮮半島での熱戦(朝鮮戦争)となり、同じ自由主義陣営下において両国が連携することは安全保障上重要な課題であり、防衛体制の強化にとって不可欠なのである。

 韓国にとっても重要課題だった。朝鮮戦争によって焼け野原となった状況を回復させ政治的安定をもたらすためには経済発展が重要な課題であり、日韓国交正常化により供与される資金は大きな意味を持つことになるのである。

(3)韓国が求めた「戦勝国」の立場

 日韓両国にとって大きな政治的、経済的にメリットがあるのに交渉は難航を極めた。それは歴史認識問題で頓挫したためである。日本のよる植民地支配(1910年から45年まで)に対する認識である。

 1948年、独立した韓国は『対日賠償要求調査』という報告書を作成して賠償政策を推し進めた。日本に対して植民地支配の補償というより、米国と同じ「戦勝国」の立場を主張して賠償要求を求めたのである。1910年からの36年間にわたる植民地支配の補償も、謝罪をともなう賠償方式で処理したいと考えたのである。戦後処理における賠償請求は戦勝国が敗戦国に行うものなのだ。

 サンフランシスコ平和条約によって独立を回復する日本に対して、韓国は署名国として講和会議に参加したい旨を米国に打診している。その理由として韓国は海外に臨時独立政府を作り独立運動を展開してきたので、連合国、戦勝国の一員として参加できる資格があると主張した。

 これに対して、米国は冷戦が進展する中で、日本や韓国がアジアの不安定要因にならないようにすることが基本方針であった。そのためには日本や韓国の経済復興や国際的地位を高めることが重要であるという認識から、日本に対する賠償請求も最終的には無賠償方針へと転換され、また韓国の講和会議への参加にも米国は必ずしも反対ではなかった。しかし韓国の講和会議への参加に反対したのが英国と日本であった。

 英国の反対理由は、①朝鮮半島の片方の韓国のみ参加させることは、中国(中華民国と中華人民共和国)の参加問題と密接にかかわってしまうこと。②韓国の旧宗主国は日本であることから韓国の地位は日本に準ずるという植民民地をもった英国ならではの考え方によるものであった。

 日本の反対理由は、①韓国が日本の交戦国ではなかったこと。②韓国が賠償の対象(戦勝国)となったら在日韓国朝鮮人が連合国民としての地位を占めることになり、日本としては耐えられないというものであった。1

 最終的には米英の協議によって、第二次大戦中、韓国は日本とは交戦状態にはなかったと判断され、また米国が上海の臨時政府を承認した事実はなく、連合国の出発点である連合国共同宣言(1942年1月1日)に韓国が署名した事実もないことをもって承認されず、韓国は署名国に入れなかったのである。

 韓国は突然、李承晩ラインの設定(1952年1月18日)という強硬策にでた。その背景となったのは、①サンフランシスコ平和条約において戦勝国、署名国から除外されたこと。②竹島(独島)を韓国領とする韓国の要求を米国が拒否したこと(1951年8月)などがある。米国は、韓国の独島領有権の実体はなく、領有権は日本にあるとして拒否したのである。結果として多数の日本漁船が拿捕され、漁民が抑留される事件が発生した。

(4)日本はどう考え行動したのか

 韓国側の交渉要求に対して、日本は韓国と戦争をしたわけでもないのになぜ謝罪をし、国交回復交渉をする必要があるのかと考え、当初、交渉要求を拒否している。しかし、日本政府は韓国との国交回復交渉に応じざるをえない状況が生まれてしまった。それが李ラインによって生じた日本漁民拿捕、抑留問題である。

 米国の仲介もあって、1952年2月に第1回日韓会談が行われた。韓国側は、日本の植民地支配に対する謝罪を要求した。主張の要点となったのは、植民地支配は「不法」によるものであるから、それに対して補償を請求する権利があるというものであった。

 日本側は、韓国を「合法」的に領有して統治したものであり、謝罪をして賠償にあたる補償をするという立場ではないというものであった。さらに韓国側の請求権の主張に対しては、それを言うのであれば韓国独立に伴い1945年以降日本が遺棄した在韓日本資産の返還請求権が日本にもあるとして逆請求権を主張したのであった。交渉はもめにもめ、会談は決裂した。このように日韓の歴史認識問題の原点は韓国併合条約をどのように解釈するかにあったのである。

 ここでもう一度両国の主張を整理しておこう。

 韓国の主張は、併合に至るまでにいくつかの条約があったが、それらは武力を背景にして強圧的に締結されたものであるから、当初から「全く無効」で、条約は「不法」である。韓国は不法な支配に対する補償を請求する権利を有するというものである。韓国は独立当初から『対日賠償要求調書』(1949年9月)を作成して対日賠償政策を推し進めていたが、韓国は戦勝国として認められなかったことから、賠償請求ではなく被害請求権としたのである。

 日本の主張は、韓国併合条約は合法的なものであり、それによってもたらされた35年間の支配も合法的なものであり、謝罪するのはおかしいというものである。

(5)交渉の中断と再開-岸信介氏が果たした大きな役割

 第3回会談(1953年10月)に臨んだ久保田貫一郎日本側首席代表の発言が韓国側の逆鱗に触れ、交渉は四年間中断することとなった。発言内容は次のようなものである。

 「日本の統治は悪いことばかりではなかったはずだ。鉄道、港、道路を作ったり、農地を造成したりもした。当時、大蔵省は多い年で2000万円も持ち出していた。相当日本から投資した結果、韓国の近代化がなされた。もしそれでも被害を償えというなら、日本としても投資したものを返せと要求せざるを得ない。韓国側の請求権とこれを相殺しよう。当時、日本が韓国に行かなかったら、中国かロシアが入っていたかもしれない。そうなったら韓国はもっと悪くなっていたかもしれない」

 この状況に困惑したのが米国である。急がれる対共産主義の戦略上、冷戦体制下の自由主義陣営の結束強化が、安全保障上重要な課題であった。日韓の国交正常化は特に重要だった。そこで米国は日韓の間を取り持つ役割を果たすこととなる。その結果、日本は、久保田発言の撤回と在韓日本財産請求権を撤回(1957年12月)した。ここで岸信介首相(当時)が果たした努力の大きさを指摘しておきたい。米国との新安保体制を強化し、反共防衛体制の構築を目指していた。米国との連携で事態の収拾をはかり、国交正常化に向けて両国を動かしたのである。岸信介氏は、大アジア主義の理想を掲げ、日本の国際的地位を高めることを目指していた。そのためにはアジア諸国への善隣外交重視であり、特に重要な柱が日韓国交正常化との認識に立っていた。また地元山口県としては漁民が李承晩ラインによって、韓国釜山に多く抑留されており、その解決のために地元からの多くの陳情があったことも要因であった。

(6)被害補償請求要求について

 賠償請求から被害補償請求に転換した韓国であったが、会談において、特に個人被害補償問題が中心的となっていった。

 日本側の主張は次のような内容である。

 韓国側の考える補償が被害者個人に対して日本が直接支払うことになるのかどうか。韓国人被害者に対して可能な限り処理しようと思うが、韓国側で被害者の具体的な調査を行い、被害者の人数、金額、被害程度は、具体的にしなければならないと思う。被害個人の具体的申告を受けてから日本が支払うの

が妥当であるとおもう。

 対する韓国側の主張は、我々としては国として請求している。個人に対しては韓国内で処理する。もちろん調査をすることは考えられるが、被害者に対して補償金を払うのは、日本から金を受け取った後で韓国の中で処理すべき問題である。被害程度を具体的にすることは不可能であり、政治的な決断によって日本が相当な金額を払う方法が妥当と考えるというものだった。この点は極めて重要な内容である。

 このような「被害者に対する個人補償は韓国政府がその義務を負う」とされたことについては、2005年1月に韓国政府が公開した日韓条約に至る関係文書で明らかとなった。これによって韓国国民がこれまで日本政府に対して行っていた個人補償を求めた訴訟が取り下げられる契機となったのである。(写真1)韓国外務部内部文書

 しかし当時、日本側の主張にも隠された意図があった。日本側は韓国側が個人補償の根拠を示すことが出来ないことを知りながらそれを要求したのである。その狙いは証拠論争によって韓国側に請求権を放棄させ、謝罪を含まない「経済協力」という形で決着を図ろうとしたのである。それは、外務省の内部文書に明確に記されている。   

 「財産請求権問題は一種の‘棚上げ'にするほうが適当である。その一方で日韓会談妥結のために、韓国に何らかの経済協力を行う必要がある。我が国にとっても過去の償いということではなしに、韓国の将来の経済に寄与するという趣旨ならば、かかる経済協力を行う意義があると認められる」(写真2)外務省内部文書

 経済協力方式は第6次日韓会談(1961年10月)で提案された。日本側は、韓国の独立を祝うために経済援助をするという形なら日本の国民は納得するだろう。もし韓国側が請求権を放棄するなら、ある程度の金額は出せる。(謝罪を含む)請求権という名目で払う場合は、事実関係を一つ一つ究明しなければならず難しいと主張した。

 それに対して韓国側は、これまで10年間も主張してきた請求権を今更放棄することはできない。今になって無償経済援助だけにしろというのは問題の解決を難しくすると強く反発したのである。韓国側にとって、これは民族の尊厳にかかわる問題であった。

 

二、政治決着という「あいまい決着」

 

(1)政治決着へ―朴正煕議長が果たした大きな役割

 ここで、重要な役割を果たした人物が朴正煕大統領であった。日本統治下において、満州国陸軍軍官学校を首席で卒業し、日本陸軍士官学校を三位で卒業した満州人脈であった。ここで同じ満州人脈の岸信介氏とコンタクトを取ながら日韓会談を妥結に導いたのである。

 国家再建最高会議議長の立場に立っていた朴正煕議長は、外資導入による国家経済の再建を最優先に考えていたのである。

 再び米国が動き出すことになった。日韓会談の政治決着に向けての動きを加速させたのである。自由主義陣営の結束を課題としていた米国は、日韓交渉の長期化を懸念していた。まず、1961年6月、池田勇人首相とケネディー大統領が会談し、そこで米国は東アジアの安定のため日韓交渉を早期に妥結し、韓国の経済再建に協力するように要請した。同年11月、朴正煕議長(国家再建最高会議議長)が訪米し、ケネディー大統領と会い、経済復興のための援助を要請したが、日韓国交正常化を進めるように要請されている。当時の米国務省東アジア課高官は「日韓正常化に取り組まなければ、米国は経済援助を断ち切る」とまで述べている。

 1961年11月、朴正煕議長が訪日し、池田勇人首相と会談した。そこで池田勇人首相は「請求権というとどうしても相殺思想がでてきてうまくいかない」と語り、朴正煕議長は「請求権と言わないで、何か適当な名義でも結構である」と妥協したのである。決着に向けて動き出した。その後、金鐘泌部長と大平正義外相による会談が2回開かれて具体的な内容が決定されたのである。

(2)問題をはらむ決着内容

 「金・大平会談」による合意内容は、①日本が韓国に対して無償3億ドル、有償2億ドルを供与すること。②請求権に関する扱いは明文化せず、互いに自国の立場を主張できる余地を残したことである。

 まず、支払い名目については、日本側は「経済協力」を主張し、韓国側もあくまで請求権に対する「補償」という立場を譲らなかった。しかし、両者は供与の総額(5億ドル)を考慮して、最終的に「経済協力」で合意するものの内容は明文化せず、韓国側が「請求権」として受け取ったと国内で説明することを了承することで互いに譲歩したのである。日本側は5億ドルの供与によって今後、韓国が請求権の請求を一切行わないことに合意するならば、韓国側の立場を理解するとして譲歩したのであった。したがって、日韓協定の名目は「日韓財産および請求権問題の解決と経済協力に関する協定」という双方が主張する文言を明記しながらも曖昧な表現で決着することになったのである。これによって韓国は、国会で「謝罪を含む請求権の対価として受け取った」と説明し、日本では「経済協力金」として支払ったと説明した。

 日韓基本条約及び協定には重要な内容が二点含まれている。一つは、「請求権に関する問題が・・・・完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」という内容であり、これによって韓国側はあらゆる請求ができなくなったことである。

 もう一つは、「大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約および協定は、もはや無効であることが確認される」という韓国併合条約の解釈についての文言である。結果として、「もはや無効」という形でのあいまい決着となったのだ。いつから無効なのかで日韓の解釈の差が残った。日本側は、併合条約は、当時は有効だったが韓国の独立(1948年)をもって無効となったと解釈し、韓国側は、当初から無効であると解釈した。韓国側にとって「もはや」は意味のない言葉であったが、「無効」が入っていることで妥協したのである。これは、日本の統治を謝罪するかいなかの問題にかかわる内容である。法的に日本は謝罪をする立場にないことを明記したことになる。すなわち韓国併合条約は当初は有効であり、独立後無効となったと解釈しているからである。しかし、韓国側からすれば当初から「無効」の条約は不法であるので謝罪すべきであると主張する。

 1965年2月、日韓の国交樹立の地ならしのために椎名悦三郎外相が訪韓し、「両国の長い歴史の中に不幸な期間があったことは、まことに遺憾な次第でありまして、深く反省するものであります」とのべ、韓国の支配に対する反省とお詫びを表明した。しかしこの文言においても、「不幸な期間」や「深く反省する」など、その主体者が誰で、その期間が支配なのかどうか具体的な内容にはふれない曖昧な表現にとどまった。これは日本が謝罪すれば、請求権問題が惹起することを危惧したためであった。

 その後の村山談話(1995年8月15日)では、これらの内容が具体化され、小渕恵三首相の日韓共同宣言(1998年10月)にも継承され、韓国支配の反省とお詫びが繰り返されている。しかし、未だに歴史認識の原点が解消されていないのである。日韓の真の和解のために新たな知恵が要求されている。

 

〔参考文献〕

・金東祚『回顧録三〇年韓日会談』(日本語版『韓日の和解日韓交渉一四年の記録』サイマル出版会,1993年

・太田修『日韓交渉-請求権問題の研究-』 2003年3月,クレイン

・吉澤文寿『戦後日韓関係-国交正常化交渉をめぐって-』2005年8月,クレイン

・李鍾元『東アジア冷戦と韓米日関係』1996年3月,東京大学出版会

・金斗昇『池田勇人政権の対外政策と日韓交渉-内政外交における「政治経済一体路線」-』2008年2月,明石書店

・李鍾元・木宮正史・浅野豊美編『歴史としての日韓国交正常化Ⅰ-東アジア冷戦編-』2011年2月,法政大学出版局

・李鍾元・木宮正史・浅野豊美編『歴史としての日韓国交正常化Ⅱ-脱植民地化編-』

2011年2月,法政大学出版局

・板垣竜太「植民地支配責任を定立するために」(岩崎稔ほか編『継続する植民地主義』

2005年2月,青弓社)

 

〔映像文献〕

・NHKスペシャル「調査報告アジアからの訴え-問われる日本の戦後処理-」

1992年8月

・NHKBSドキュメンタリー「日韓条約-知られざる交渉の内幕-」2005年6月

・NHKスペシャルシリーズ日本と朝鮮半島(第5回)「日韓関係はこうして築かれた」2010年8月

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