宗教間対話運動と日本のイスラーム理解 —日本社会におけるムスリムとの共生に向けて—

宗教間対話運動と日本のイスラーム理解 —日本社会におけるムスリムとの共生に向けて—

2023年8月17日

本稿で引用したクルアーンの日本語訳は、宗教法人日本ムスリム協会発行の『日亜対訳注解聖クルアーン』に依拠しているが、筆者が独自に訳した箇所もあることをお断りする。

1.問題提起:イスラームフォビア(イスラーム嫌い)

 日本ではイスラーム世界との歴史的つながりが薄いために、イスラームは理解しにくい宗教だと思われることが多く、イスラームに関する客観的な知識を持つことは難しいと考えられている。しかし、今日の世界で最も緊急性を要するものは、イスラームとの対話に関する問題であるという点については、異論はないと思われるが、イスラームを理解することは、私たち日本人にとってその他の宗教を学ぶことに比べれば、かなり様相の異なったものになるであろう。
 イスラームが外側の世界から偏見と誤解をもたずに眺められるということは、この宗教が西暦六一〇年に始まって以来、ほとんどなかったからである。今日まで執拗に繰り返されてきたキリスト教世界からの非難中傷にもかかわらず、イスラームは世界に広がりつづけた。歴史的事実からみても、一九二二年のオスマン帝国の滅亡時まで、イスラームはある意味で世界の中心に位置していた。
 イスラームの外側では、あたかもイスラームが劣等な宗教として後進性や貧困、政治的混乱などと同義語のように語られるが、イスラームの内側では、イスラームの教えと戒律のもとで多くの人々が穏やかに暮らしてきた。しかも、イスラーム世界は八世紀から一六世紀にいたるまでの長い期間、周辺諸国の伝統や技術を柔軟に取り入れて、近代科学につながる輝かしい文明を発展させ、今日の科学技術の礎を作ってきた。この地域の後進性や貧困、政治的混乱が問題視されるようになったのは、オスマン帝国の滅亡以降のことで、もっと厳密にいえば、一九四八年のイスラエルの建国によるパレスチナ問題の発生以降のことである。
 このような、イスラームの内と外とで相反する意識が、現代社会の政治的、経済的混乱の背後に横たわっており、しばしば複雑な民族紛争や宗教対立の引き金になっている。したがって、イスラームは、現在の時点で信徒数が一八億人から二〇億人に迫るという世界第二位の宗教勢力を擁しながら、あたかも非人間的で反社会的なカルト集団に対するような扱いを受けているといっても過言ではない。 
 そもそも日本に伝えられるイスラームに関する情報の多くは、欧米のメディアを通してもたらされるものであり、イスラームとイスラーム教徒、ムスリムに対する偏見や蔑視、無理解などを含んでいることが少なくない。このような欧米からの情報によって増幅されたイスラームフォビア(イスラーム嫌い)は日本人にも大きな影響を与えている。
 最近では、二〇一五年一月にフランスの週刊誌シャルリー・エブド社で起きたテロ事件はムスリムの犯人たちによって記者ら一二人が殺害されるという悲惨な結果となった。この事件は「イスラームはあらゆる偶像作成を禁止している」ことが原因であり、「表現の自由」は、いつ、いかなる場合であっても守られなければならない金科玉条であるとして、イスラーム批判が広がった。シャルリー・エブド社の過去の誌面には、他の宗教の指導者や政治家などの風刺画も見られるが、預言者ムハンマドを描いたものは、誰よりも不道徳で醜悪な姿に描かれていた。民衆の不満を風刺画に託す伝統を持つフランスであっても、特定の人物を批判するために描かれる風刺画は、少なくとも人間としての尊厳が守られたものであってしかるべきであろう。テロは決して許されるものではないが、多くの信徒から篤く尊敬される預言者が性的に不潔で汚い不道徳的な姿に描かれることは、ムスリムでなくても目を背けたくなる。
 そもそもイスラームは肖像画の作成を禁止していない。禁止されているのは、絵画や像を「崇拝する」こと、つまり偶像崇拝であり、イスラームの教えの原点であるクルアーン(コーラン)には、どこにも「絵を描いたり像を作成したりしてはならない」とは記載されていない。イスラーム世界ではモスクやマドラサ(高等宗教教育機関)などの宗教的施設では絵画も像も用いられないが、王宮や個人の住宅などでは絵画や肖像画が飾られ、歴史書などにはムハンマドの顔や姿も描かれてきたのである。
 欧米のメディアからの受け売りによるこのような偏見だけでなく、日本人研究者の中にも、声高に非論理的なイスラーム批判を繰り返すことで高い知名度を得ている識者もあり、そういった意見が「分かりにくいイスラームについて、とてもわかりやすい解説である」として世間的にもてはやされる風潮も根強い。日本も欧米に負けずイスラームフォビア(イスラーム嫌い)が蔓延している国の一つであるということができよう。
 人口統計学者のエマニュエル・トッドはイスラームフォビアがイスラーム教徒の若者を過激派の戦士として送り出す要因となっているとその危険性に言及している。

 理解すべきは、仮に一部の若者が「意味」に飢え、「宗教的なもの」に飢えているとすればイスラム教[原文のまま]を罪あるものとして標的にするのは、その若者たちにイスラム教を現実からの理想的な脱出口のように見せるだけだ、ということである(『シャルリとは誰か?』堀茂樹訳、文春新書、二〇一六年、二八二頁)

 しかも、フランスの内務大臣の発言によれば、イスラーム過激派を志願する若者のうちの二〇%はキリスト教徒出身者である(前掲書二四六頁)という。「自由と平等」があるはずのヨーロッパでキリスト教徒の若者まで「意味」に飢えているということは、何を意味するのであろうか。
 イスラームは日本人にとって最も遠い宗教であるといわれるが、実はイスラームの教えのなかには、日本古来の伝統的な道徳や社会的倫理と同様の教えが多くみられる。例えば長幼の序を守ること、隣人との相互扶助が義務として奨励されること、相手の宗教を問わず旅人に親切にすること、正直な商売を心掛けることなどの倫理規範は、古きよき時代の日本に息づいていた公共道徳を彷彿とさせる。それだけでなく、イスラームの掲げる一神教と、日本の神道にみられる多神教や、仏像という偶像を崇拝する仏教は、その信仰形態において相容れないといわれるが、実際には表現の方法が異なるだけで、同じことを象徴していると思われる。
 日本人の多くは、第二次世界大戦中の国家神道政策の失敗によって大きな痛手を受けた苦い経験から、宗教そのものに対して一種のアレルギーを持っている。宗教と国家の結びつきによる最悪のケースを経験したことによって、人々は特定の宗教的態度を避けるようになった。公共の教育現場や芸術にさえ、宗教の影は排除される傾向がある。政教分離の優等生であるかのような環境の下にある日本では、神の道に身を捧げるという大義名分のもとに自爆テロを決行するムスリムの若者たちの姿はどのように映るのであろうか。
 イスラームにおいても、現今の政治的混乱と宗教的教義とは、全く別の次元で考えなければならないが、戦闘的なイスラーム集団によるテロの報道に接する日本人の多くが、イスラームに対する嫌悪感や拒絶意識を持ったとしても、それを単なる誤解だとして非難することは、難しい。

 アル・カーイダやISIS(いわゆる「イスラーム国」)が起こす暴力的戦闘行為は、彼らが宗教を大義名分としていても、まさに政治的権力闘争である。これらの戦闘は宗教とは次元を異にして国際政治の中で論じられるものであり、早急な終息のためには軍事力だけでなく国際的な協力が必要である。イスラームの教義に「ジハード」思想があることを理由として、彼らの暴力をイスラームの教義に由来するものであると批判する知識人も多いが、宗教的に定義されている郷土防衛のためのジハードは歴史上、一度も実施されたことがない。

 特に、中東地域におけるこのような破壊的な暴力行為は、一九四八年のイスラエル共和国の成立に端を発し、二〇〇三年のアメリカを中心とした有志連合によるイラク戦争で拡大し過激化したものである。ムスリムの戦闘員たちは、自らの行為を正当化するためにイスラームの旗を掲げて大義名分を主張しているのである。
 しかし、その背景にはイスラーム社会の外側から加えられた政治的圧力に起因する問題が横たわっている。一九二二年のオスマン帝国滅亡以降の世界で、中東イスラーム地域は急速に過去の栄光を失い、欧米列強の植民地や委任統治領として宗主国からの支配下に置かれた。それまで自由に行き来できた広大な領土は、西洋列強によって恣意的な国境線で分割されてしまい、人々の共同体も文化や伝統、言語まで徹底的に分断され、苛烈な搾取や抑圧を受けてきたという屈辱の歴史も横たわっている。その際の苦悩の歴史は、独立以降もいまだに何ら解決を見ないまま、パレスチナ問題をはじめ、イラクやシリアの内戦などが次々と発生して、人々をますます苦しめている。こういった歴史的背景が今日の紛争を引き起こし、継続させていることを忘れてはいけない。イスラーム過激派への対応も、イラクやシリア、リビア、アフガニスタンなどの内戦や紛争を解決するための道筋も、このような歴史的背景を考慮することから始められなければならない。
 ところが、近年、これらの内紛は、国際社会の無謀な「再介入」によって、ますます泥沼化しており、解決の糸口さえ見つからない。これらは中東という遠い地域での紛争であるとして、日本は無関係だなどと深刻な事態を無視することは、グローバル化の時代を生きる私たちには、不遜な考えである。こんにち、日本でも外国からやってきたムスリムの人口が増え続けていることと、日本人の中にも信仰を持つ人が出てきていることによって、イスラームが社会の中でますます身近になってきており、日本人のイスラーム理解の重要性が高まっている。また、日本だけではなく、今日の世界全体を覆う近代主義の行き過ぎによる後退と、それに基づく複雑な政治的かつ経済的な問題がイスラーム蔑視と同一視される危険性を避けるためでもある。

2.キリスト教を受け継ぐイスラーム

 預言者ムハンマドは自らが興した宗教がユダヤ教やキリスト教とは異なる新しい宗教であるとは考えていなかったが、先行する二宗教は歴史の過程で歪曲されてしまったので、イスラームは一神教の改革運動、あるいは復興運動として啓示されたと主張するようになり、アラビア半島に居住していたユダヤ教徒やキリスト教徒から対立し非難されるようになった。その後、十字軍運動を通じて、ヨーロッパにはイスラームはキリスト教の異端であり、ムハンマドは反キリストであると非難され、イスラームのほうではヨーロッパのキリスト教徒だけでなく、中東地域で共存していた東方教会のキリスト教徒にも不信感を抱くようになっていった。
 このような情報下にあると、人々には、イスラームがユダヤ教とキリスト教の伝統上に成立した宗教であり、これらの3宗教には相互に関連しあう教義やよく似た戒律が存在することによって、過去にも共存が可能であったということを知るすべがなくなる。クルアーンでは、イスラームがユダヤ教、キリスト教の伝統を受け継いで建てられていることが明示されている。イスラームの支配下では、ユダヤ教徒もキリスト教徒も共に「啓典の民」として保護の対象となり、保護民(ズィンミー)として一定の税金を納めれば信教、職業選択、移動などの自由が与えられた。その制度が最も機能的に運用されていたのは、一二九九年から一九二二年まで続いたオスマン帝国の時代であった。
 オスマン帝国では、帝国支配の当初から啓典の民を保護するために「ミッレト」制度が設置され、同じ宗教を信奉する共同体に分けた区域、ミッレトが設置された。オスマン帝国のミッレト制度がどの程度、効果的に運営されたのかについては議論があるが、ユダヤ教徒、キリスト教徒、ムスリムを「啓典の民」とする共存思想が、帝国が滅亡した一九二二年まで機能的に運用されてきたことは評価される。

 言え、「わたしたちは神を信じ、わたしたちに啓示されたものを信じます。またイブラーヒーム、イスマーイール、イスハーク、ヤアクーブと諸支部族に啓示されたもの、とムーサーとイーサーに与えられたもの、と主から預言者たちに下されたものを信じます。かれらの間のどちらにも、差別をつけません。神にわたしたちは服従、帰依します。」(クルアーン第2章一三六節)

 ここで述べられているイブラーヒームは聖書ではアブラハム、イスマーイールはイシュマエル、イスハークはイサク、ヤアクーブはヤコブ、ムーサーはモーセ、イーサーはイエスのことである。したがって、イスラームでは最も聖なる聖典は神の言葉クルアーンであるが、同時にモーセの律法(トーラー)、ダビデの詩篇、イエスの福音書も聖典に指定されている。また聖書に登場する預言者のうちイエスを含む二〇名の預言者の存在を信じることも義務とされている。

 イスラームの基本的な教義は六信五行と呼ばれるが、六信とはその存在を信じなければならない事柄で、神、天使、聖典、預言者、来世、予定であり、預言者の存在を信じることは四番目に置かれている。クルアーンには最後の最大の預言者であるムハンマドを含めて、二五名の預言者の名前が記されているが、そのうちのヘブライ語聖書と共通の預言者が二〇名である。イエスも尊敬すべき立派な預言者であったとされている。
 ムスリムにとっては、ヘブライ語聖書から受け継いだ多くの預言者の存在を認めることは、基本的な信仰箇条「六信」(その存在を信じなければならない信仰箇条で、神、天使、啓典、預言者、来世、予定)のひとつでもあり、また最後の最大の預言者であるムハンマドは人間としてもっとも尊敬される人物として信者の模範となっている。したがって神の啓示を預かる「預言者」の存在を認めるか認めないかという点に、ムスリムの学者たちがイスラームと仏教の最大の争点をおいたことは、充分に理解できる点でもあり、また興味ぶかい点である。

 日本人は一般にイースターやクリスマスなどの行事を通じて、あるいは、教会での結婚式の影響やキリスト教系の学校を卒業した人も多いことなどから、キリスト教については親近感を感じることは珍しいことではなく、西洋の学術や文化はある意味であこがれをもって親しまれている。したがって、キリスト教であれば学びたいという気持ちを持つが、キリスト教とほとんど同じ教義をもつイスラームについては、後進的で野蛮な宗教であるという誤解から、イスラームを学ぼうとする人の数はかなり少ない。つまりキリスト教に対しては、何かしらの尊敬の気持ちをもって接するが、イスラームに対しては非人間的な宗教であるという蔑視、つまりイスラームフォビアが先に立ってしまうのが現状であろう。
 そのような環境下で日本人のイスラーム理解を進めるためには、新しい視点から構成される、相互に効果的な対話の試みが実施されることが重要であるが、それは、たんにイスラームとはなにか、を知ることだけでなく、日本では多数派である仏教徒との効果的な対話も提案されるべきである。一部の仏教徒の中には、イスラームは、正しく理解したり学んだりすることが難しい宗教で、自分たちとは無関係で奇妙な宗教であると蔑視的に見られる傾向があるからである。
 イスラームにはキリスト教のような「原罪思想」は見られないが、人間は本来、誘惑に負けやすい弱い存在であるとされているので、この対比をイスラームに重ねてみることも可能であろう。イスラームでは、いかにして神が定めた倫理的秩序に従って正しい道を歩むことができるか、という点が主題となる。

3.一神教と多神教は区別できるのか:風土説の弱点

 日本でのイスラーム理解を進めるうえで避けて通れない問題がある。それは、一般に多神教的世界である日本で、ユダヤ教、キリスト教、イスラームのような一神教を理解したり評価したりすることは難しいという姿勢である。その理由として、我が国では、世界の宗教を語る際に、風土の影響を取り上げる人が多い。たとえば、全般的に乾燥地で砂漠がひろがる地域には、峻厳で絶対的な一神教が興り、温暖で降雨の多い地域には、多神教が興りやすい、と主張される。自然環境が厳しい中東の砂漠からはユダヤ教、キリスト教、イスラームという一神教が生じたが、アジアや日本のように自然に恵まれた緑豊かな地域では、あらゆるものに神性を求めて崇拝するアニミズム的な多神教が発生したという。
 これに関連して、西洋的な一神教的世界観と、アジア、とくに日本的な多神教的世界観とを対比して、最近、後者のほうが平和的で自然保護の観念からみても優れている、という主張が強くなってきている。
 このような「風土説」は一見、まともなような感じがするが、決して正しい見解ではない。 世界宗教史を概観すれば、一神教か多神教かという区別を自然環境に起因するものと考えることには、根拠が乏しいからである。自然環境が峻厳な地域には一神教が発生しやすい、とすれば、インド亜大陸に多神崇拝のヒンドゥー教が発生したことについて明確な説明ができない。一神教が興ったとみられている中東の砂漠地域でも、じつは多神教と偶像崇拝はユダヤ教やキリスト教、イスラームという一連の一神教が発生したのちも、強固に分布していたことは、聖書やクルアーンの記述からも読み取れるが、考古学的研究からも証明されている。
 また、世界の歴史を概観してみただけでも、一神教はつねに他者に対して排他的で不寛容であり、多神教が寛容で平和的であったとは、言い切れない。ローマ帝国の支配が多神教時代に寛容であり、一神教のキリスト教を国教として採用した後に、一転して厳格で不寛容となったとは言いえないであろう。歴史上のどの帝国であっても、支配者は排他的で不寛容であり、反乱者に対しては極めて野蛮であったことは、容易に理解できることである。我が国でも、戦前の国家神道という政策が自国民に対しても対外政策においても、寛容で平和的であったとはいえない。

4.一神教の中の多神教性:一神教と聖者崇拝

 ユダヤ教、キリスト教、イスラームという三つの一神教は、その教義や宗教儀礼においても一貫して一神教的な性格を堅持しているであろうか。じつは、これらの中でも最も厳格な一神教であるイスラームにも、根強い民間信仰として聖者崇敬が存在する。聖者崇敬は、イスラーム世界各地でそれぞれの地域の独自性をもって広く根づいている民衆的信仰であり、これを正統的ではないとして否定的にとらえる指導者がいることも事実である。
 イスラームでは、人々の尊敬と信頼を集めた宗教指導者や神秘主義の導師がその死後、聖者と認められることが多いが、興味深いことに、聖者のリストには勇名を馳せた将軍と並んで誰ともわからない漂着死体、生前に大泥棒であった人などまで幅広く含まれる。シーア派では歴代のイマーム(最高指導者)も聖者とされる。聖者は特別な覚者でなくとも、その死後、墓などに超自然的な霊力の発出が認められると、現世利益を求める民衆の崇敬を集めることになる。
 人類史を通して、宗教の歴史は多神教の歴史でもあるが、その中で「一神教革命」とも呼ばれる困難な事業を遂行したのが、同一のセム的一神教の系譜につながるユダヤ教、キリスト教、イスラームである。この厳格な一神教も、創始者が生きているうちから多神教時代の多くの風俗習慣を取りこんで体制化されていくことになった。もちろん、イスラームの儀礼として採用された多神教の残滓は、イスラームのもとに新しい意味と儀礼を与えられており、以前の多神崇拝のままで取り込まれたものではない。しかし、そこに明らかに多神崇拝の要素が残っているのは、否めない事実である。
 キリスト教を例にあげれば、私たちがもともとキリスト教の祭りだと信じて疑わない世界的な行事、クリスマス、イースター、最近ではハロウィーンも含まれるかもしれないが、これらは、実はローマや北欧の異教文化がキリスト教と習合したものである。聖者や聖遺物の存在を公式に認めるカトリックや正教の教会では、イエスの像よりも多く華々しく聖者の像やイコンが飾られている。世界各地でいまなお盛んに行なわれている聖者崇敬は、一神教・多神教の区別なく存在し続けているのである。
 これらの現象を見ていくと、一神教と多神教を明確に区別することはできないのではないかと思われる。一神教を掲げるユダヤ教もキリスト教もイスラームも、多神教の伝統や風俗習慣を、このように安易に大量に儀礼に導入していることを考えると、これらの三つの一神教は歴史の過程の中で唯一の創造神との契約に基づいて、「一神教」を標榜しているに過ぎないと考えることもできる。結局、日本人が神社や寺院で神々や仏に向かって祈るとき、その祈りの対象は、一神教の信徒が祈る唯一神と異なるものではなくなるのである。
 前にも述べたが、一般にイスラームは日本人の宗教観からは遠い宗教だと考えられやすいが、イスラーム思想の中には、道徳や社会的倫理の観点のように、仏教や神道に近い多くの教えや教訓が見つかる。このように考えると、多神教である日本の伝統宗教と、一神教のイスラームは、ともに同様の宗教的真髄を表象しており、日本の伝統宗教とイスラームとの相互理解も共存も不可能ではないように思える。人間も含めた森羅万象がすべて神の被造物であると同時に、神の存在を証しするものであるというクルアーンの教えと、神殿を宇宙の中心と位置づけ、自然界の営みに神性を見ようとする神道の教えとは、相互に矛盾しない。また、神を立てない宗教である仏教においても、不変で永遠の絶対者を崇拝し、それに全身で従うことは、まさに一神教の神への信仰と変わりはない。
 魂の救済を求める人々にとって、「神あるいは神々あるいは仏との応答」の場が、宗教であることを考えると、日本に生きるイスラームにとって、日本の伝統思想を互いに理解しあうことを通じて宗教の新しい地平が開けてくるように感じられるのである。

5.イスラームの他宗教観

 一般に仏像を崇拝する仏教は、イスラームではもっとも嫌悪される「偶像崇拝」にあたり、多神教徒として排除される対象になると考えられてきた。しかし、イスラーム支配下では、初期から他宗教には寛容な政策がとられていたことは歴史的に明らかにされている。特にアッバース朝期のイスラーム世界では、現実には多くのヒンドゥー教徒や仏教徒が商取引の関係上、インドや中国などから入り込み定住して暮らしていたことが知られている。またムスリムも遠征や商取引のために近隣諸地域へ赴くことが多かった。ヒンドゥー教徒や仏教徒、ゾロアスター教徒などは、文言上は「啓典の民」でもなく、異端の多神教徒であるが、実際には「啓典の民」と同様の扱いを受け、イスラーム支配下では定住や信教の自由も保障されていた。特にアッバース朝期のユダヤ教徒は、保護民としての扱いを享受し、イスラーム政府の支援を受けて、今日に続くラビ・ユダヤ教の伝統を築き上げている。
 たとえば、アッバース朝期のバグダードでは、イェシヴァとよばれるユダヤ学院が三校、イスラーム政府からの資金援助を受けて運営されており、膨大なバビロニア・タルムードの研究も行われ、後世のラビ・ユダヤ教の基礎となる高度なユダヤ哲学を展開させていた。
 中世のイスラームと仏教との相互関係については、世界的にもまだほとんど研究されていないが、このような交流については当時の数少ない文献からも読み取れる。イスラーム神学者たちは、インド仏教を「偶像崇拝の多神教」として批判するのではなく、「預言者の存在を認めない、理性主義的な宗教」として、むしろ評価を与えていたことが理解できるのである。今日、イスラームはアジアの宗教と呼ぶことができるほど、アジア地域に信徒数が多いが、国民の九〇%近くがムスリムであるインドネシアやイスラームを国教としているマレーシアでも仏教とイスラームは共存している。

6.宗教間対話の可能性へ向けて

 多元化とグローバル化した世界において、イスラームとはなにか、どのような意味をもつのか、どのような役割を果たすのか、どうすればムスリムとの平和的共存が可能となるのか。日本国内でも増えてきたムスリムとともに、これらのイスラームについての諸問題を、私たちは日本人として改めて考えることが必要である。今日、急激に変化する世界においては、それぞれの思想を、偏見を排して客観的に学ぶことは重要なことである。
 宗教というものは、哲学や倫理思想も同様であるが、じつにさまざまな解釈ができる。イスラームに限ったことではないが、聖典や戒律は、時として非人間的な解釈をもたらすことがある。イスラームについても、どの解釈が正しい、あるいは正しくないと決めつけることはできない。しかし、宗教としてのイスラームは決して好戦的でも、非人間的な教えでもない。この私の考えは、世界の優れた宗教学者たちも主張している立場であり、多くのムスリムの考えにも共通していると思われる。そうでなければ、情報や交流の技術が発達した現在、イスラームの信徒数が激増するという現象は説明がつかないことになる。ムスリムの若者が参加する過激派の問題は確かに深刻であるが、その背景には国際関係の根深い要因があり、短絡的に宗教教義の問題に帰することはできない。
 私たちは一神教と多神教といった枠を作ってしまうことなく、人間としての共通性を基盤として、イスラーム世界と日本との対話を続けていきたい。お互いに良く話し合い、理解しあうことは、効果的な宗教間対話を実施し、グローバル化したこの世界に平和的な共存関係を築き上げるために、極めて重要なことである。

(本稿は、2023年6月22日に開催したIPP政策研究会における発表をもとにまとめたものである。)

 

イスラームの基礎知識(2023年6月版)

塩尻和子作成

1 イスラームの概要

興亡の略史
 イスラームはアラビア半島の商業都市マッカ(メッカ)で興った一神教である。商人であったムハンマドが神の召命を受けて預言者となり、宣教活動を始めた西暦610年から、彼が死ぬ632年までに神から授かった啓示をもとにして展開した。ムハンマドが、生地マッカでの迫害を逃れるためにマディーナ(メディナ)へ移って本格的に教団を設立した西暦622年の元日7月16日をヒジュラ暦(イスラーム暦)元年とする。
 この移住、ヒジュラは、イスラームが名実ともに世界宗教となる大転回点となった。ムハンマドは宗教的指導者であるばかりでなく、政治的指導者としても能力を発揮し、宗教集団は同時に政治集団ともなった。その後、イスラームの支配地域は急速に拡大した。641年に当時ビザンティン帝国の支配下にあったエジプトを征服し、661年にダマスクスを首都とするウマイア朝、749年にバグダードを首都とするアッバース朝が相次いで成立した。711年にはイスラーム軍がスペインへ侵攻し、755年にコルドヴァに後期ウマイア朝が成立すると、1492年にキリスト教徒側の領土回復運動が成功するまでのほぼ800年間、イスラームはアンダルシア地方を中心にスペインを支配し、ヨーロッパの文明形成に大きな影響を与えた。1922年、オスマン帝国が滅亡するまで、イスラームは、ある意味で政治的にも文化的にも世界の中心にあった。

アブラハムの宗教
 イスラームは、共通の祖アブラハムに由来する宗教として、ユダヤ教、キリスト教と同一の「セム的」伝統を持つ兄弟宗教である。イスラームでは、ユダヤ教徒とキリスト教徒を神が啓示した同種の聖典をもつものとして「聖典の民」と呼び、イスラームの支配地域では一定の税金(人頭税、ジズヤ)を科して信教、居住、職業の自由を保障した。
 近年までイスラーム国家内では教育、文化、金融業などの担い手としてユダヤ教徒、キリスト教徒が活躍した。現在でもイスラーム国・地域にキリスト教徒も多く住む。ユダヤ教徒とは2000年にわたる「父祖伝来の仇敵」であるという表現は歴史的にも宗教的にも根拠がない。実際に1948年のイスラエル共和国の建設まではユダヤ人との平和的共存が続いていた。「右手にクルアーン(コーラン)、左手に剣」という西洋的な誤解と偏見は現在でも根強いが、イスラームが武力を背景に改宗を迫った事実は、ほとんど見られない。初期イスラームの急速な拡大の理由としては、イスラームの支配が、当時のビザンティンの支配に比べて政治的な抑圧が少なく、税金の率も低かったということが挙げられる。また前述のように信教の自由を認めており、宗派間の論争には関与しなかったので、中東地域のキリスト教徒がイスラームによる支配を支持したことも大きな理由である。

世界第2位の宗教勢力
 創唱者がアラブ人ムハンマドであるためにアラブ人に固有の宗教と思われがちであるが、成立当初から共存と融合を掲げた世界宗教である。イスラームは当時のアラビア半島に根づいていた頑迷な血縁主義や部族主義を打破して、人種、国籍、身分にかかわらず、あらゆる人間は全知全能の神の前では絶対的に平等であると主張した。また、基本的な教義を崩しさえしなければ、大幅な土着化が許容されたために、瞬く間に世界中に広まった。
 イスラーム教徒のことをアラビア語でムスリムという。
 現在イスラームは、世界中で18∼20億人ともいわれる信徒を抱える、世界第2位の宗教勢力である。アフリカの大西洋岸から東南アジア、ヨーロッパ、中央アジア地域、中国の西北部まで分布している。インドネシアは約2億の人口の80〜90%がムスリムで、世界最多のイスラーム教徒数を抱えている。アジアではほかにマレーシア、バングラデシュ、パキスタンなどがイスラーム教国である。当然ながら、アラブ諸国、つまり北アフリカや中東の国々はほとんどがイスラーム教国である。最近ではヨーロッパに1800万人以上のムスリムが住んでおり、北アメリカでもユダヤ教徒の人口を抜く勢いで成長している。

在家の宗教——政教一致的な理想
 「イスラーム」の意味は「服従、平定、平和」などで、ここから神に全てを委ねることという意味が生じて「唯一なる神への絶対帰依」という用語となった。宗教の名称なのに「教」をつけないのは、イスラームという言葉に「道、教え」などの意味が含まれているからであるが、日本語で「イスラム教」と呼んでも間違いではない。
 イスラームで信仰の対象となる「神」は「アッラー」と呼ばれるが、これはアラビア語で「神」という意味の語であり、アッラーという名前の神ではない。「アッラーの神」という表現は間違いである。本稿ではすべて「神」と表記する。
 イスラームは、人間の霊的な側面のみを高位におくことをせず、精神的にも社会的にも普通の日常生活の中にこそ宗教的な修行の場があるとする在家の宗教である。政治や経済にまで直接の指示を与え、いわば「政教一致」を理想としているので、一般的な宗教の枠内には納まらない多様性がある。
 シーア派のイマーム崇敬、土着の聖者崇拝などの例外を除いて、原則として聖職者を認めず、出家や隠遁生活を評価しない。教会や本山にあたるような教団組織を持たないために、共同体(ウンマ)の決定事項については、信徒ひとりひとりの見解の一致が重要視される。しかし、実際にはウラマーと呼ばれるイスラーム法学者の見解の一致が実効力をもっている。ウラマーはイスラーム社会の指導者として、ある意味では聖職者の役割も果たしているが、彼らの見解や発言には「神聖性」は認められていない。

2 イスラームの教義(イスラームの多数派スンナ派の教義)

ムハンマドは普通の人
 イスラームには、全信徒の90%以上を占める多数派のスンナ派と、残りの約10%のシーア派諸派がある。ここではおもにスンナ派の教義を説明する。
 イスラームの根本的な思想は、信仰告白の「神のほかには神はない。ムハンマドは神の使徒である」という言葉に要約されるように、唯一の神と人間が向き合う単純で明快な教義である。キリスト教のように神と人間を仲介する「神の子」や「メシア」など、救世主の思想はない。ただし、シーア派にはイマーム崇敬があるが、これはムハンマドの娘婿のアリー(第4代正統カリフ)とその子孫を無謬のイマームとして神格化したものである。
 創唱者のムハンマドは最後の最高の預言者として尊敬されるが、「飯を食べ、市場を歩く人」というまったく普通の人間であるとされる。生涯に数度結婚をし、子どもも儲けた。ムハンマドの人柄や生き方は信徒の模範とされているが、神格化は行なわれなかった。

 基本的な教義は「六信五行」にまとめられる。

六信
 「六信」とはムスリムがその存在を信じなければならないもので、神、天使、聖典、預言者、来世、予定、である。
①神——神とは、天地の創造主、宇宙の支配者である永遠なる唯一絶対の神であり、全知全能の人格神である。神は人間による一切の表象を禁じており、旧約聖書にみられるような「神の似姿」という考えはない。したがって偶像崇拝を厳格に拒否するために、宗教的な場では音楽、肖像画、彫刻なども否定される。
②天使——天使は神によって光から作られ、神の手足となって働く存在であり、神と人間の連絡役を果たす。ムハンマドに神の言葉クルアーンを運んできたのは大天使ジブリール(ガブリエル)である。クルアーンには超自然的存在として、ほかにジン(幽鬼)、悪魔も認められている。
③聖典——イスラームは神が天地を創造した時から人間に与えられた宗教である。神はそれぞれの民に預言者と言葉をセットで与えたので、モーセの律法、ダビデの詩篇、イエスの福音書も神の言葉、つまり聖典である。しかし、以前に言葉を与えられた民は、それらを正しく理解せず歪曲してしまったので、ムハンマドには特に選ばれた言語アラビア語で記された最後の最高の言葉、クルアーンが与えられた。
④預言者——クルアーンには、原初の人間アダムをはじめとして新旧聖書の預言者とアラブ人の預言者、計25名が紹介されているが、ムハンマドは預言者の封印、最後の最大の預言者である。預言者の中でも、特に神の言葉を授かった者を「神の使徒」と呼ぶ。モーセ、ダビデ、イエス、ムハンマドが使徒である。
⑤来世——神が創造したこの世界はいつかかならず終って、時間のない永遠に続く来世がやってくるという終末論であり、人間の死後の復活を信じることである。来世は個々人の責任が厳密に問われる賞罰の場である。そこでは、生前の人間が自ら選んで行なった行為に応じて審判が実施され、善人には楽園が、悪人には火獄が用意されている。
⑥予定——世界は神の計画と意思によって動いていると考えられることで、いわば宿命論である。ここでは神の全知全能性が強調されており、人間の意志や責任論の入り込む余地はない。クルアーンには絶対的な神の予定と、人間の自由意志と責任というあい反する立場が併存しているが、この考えは宗教思想にはよくみられるものである。

五行
 「五行」とはムスリムが行なわなければならない基本的な宗教儀礼のことで、信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼、である。
①信仰告白(シャハーダ)——「神のほかには神はない。ムハンマドは神の使徒である」という二つの言葉をアラビア語で唱えることである。入信儀礼では成人男性二人以上の証人の前でこの言葉を唱える。また毎回の礼拝時にも必ずこれを唱える。「神のほかには神はない」だけでは、ユダヤ教、キリスト教の信仰告白にも通用するので、イスラームの独自性を示すものとして第2文のムハンマドに関する文章が加えられた。
②礼拝(サラー、サラート)——義務の礼拝は、日没、夕べ、暁、昼、午後の一日5回、マッカの方角をむいて行なわれる。金曜日の正午にモスクで行なわれる集団礼拝はもっとも価値がある。礼拝は、定式に基づいて身を清めた後で、決まった手順と方法で行なわれる。
③喜捨(ザカー、ザカート)——自主的な布施ではなく義務の献金であり、「定めの喜捨」ともいわれる。一定の税率が決まっているので、宗教税ともよばれる。用途は、寡婦や孤児、乞食や貧しい巡礼者などの困窮者の救済や信者の相互扶助などである。モスクやモスク付属学校などの建設や維持に費やされる費用は「ワクフ」という自発的な寄進制度からの運用である。
④断食(サウム)——イスラーム暦(ヒジュラ暦)第九月(ラマダーン月)の一ヶ月間に、日の出から日没まで、飲食を絶つとともに喫煙、性交などの人間的な欲望から身を清めることで斎戒ともいう。信者は喉の渇きを耐え忍びながら、神の日ごろの恩恵への感謝と、貧者への思いやりを涵養する。ほぼ10歳までの子ども、病人、妊婦、旅人、戦闘中の兵士などは断食を免除される。
⑤巡礼(ハッジュ)——これまでの四つの行はすべての信徒に義務づけられているが、義務としての巡礼は「そこに旅をする能力のある者」に課せられる義務で、肉体的、金銭的にマッカまで旅行することが可能な者が一生に一度行なえばよい。義務の巡礼とは、第12月(巡礼月)の8日から13日までに、決められた方法でマッカのカーバ神殿に参詣することである。現在では毎年、2,300万人ものムスリムが世界の各地から集まり、ほぼ同時に一定の儀礼を行なうが、その光景はじつに壮観である。マッカとマディーナは特別な聖地であり、ムスリムでなければ訪れることはできない。

3 聖典クルアーン

神の言葉
 イスラームの聖書であるクルアーンは、神がアラビア語で人類に下した啓示をそのまま書き留めたものである。クルアーンのすべての章句は一言一句、紛れもない永遠の神の言葉であると考えられている。これが他の宗教の聖典や経典と比べてもっとも異なる点である。いわば著者は神であり、外典や偽典などは一切ない。
 神がムハンマドに語りかけた言葉は、そのまま信者に語りかけられる神の言葉である。ムハンマドの死後はもはや神の言葉が下ることはなくなったが、信者はクルアーンを朗誦することによって、神と向き合い神の語りかけに接することができる。アラビア語の「クルアーン」とは、本来「声に出して詠まれるもの」という意味である。聖典を日々、声に出して読誦することが信仰上の根幹ともなる。

クルアーンの音楽性
 クルアーンは全部で114章であり、前半にはおもに後期のマディーナ時代の啓示が、後半には前期のマッカ時代の啓示が纏められている。内容は唯一の神への服従の命令、終末の警告、宗教儀礼から、社会生活や家庭生活上の法規範、慣習、政治的理想などにまで及ぶ。しかし、クルアーンの記述は日常的な会話表現と商売用語で綴られており、月並みな道徳訓や断片的な警句などの繰り返しが多く、物語性に欠けている。
 クルアーンが1400年にわたって世界中の人々をひきつける秘密はアラビア語にある。クルアーンはアラビア語の韻を重視した散文学の傑作であり、アラビア語で朗誦することによって音楽性や芸術性が表現される。また同じ文章の繰り返しは、聞く者を陶酔の境地へといざなう力をもっている。クルアーンは神に選ばれた聖なる言語アラビア語でしるされているために、原則として翻訳が認められていない。しかし、翻訳不可のひとつの理由は、外国語に翻訳すればその独特の音楽性が失われることである。実際には内容を知るために各国語に翻訳されているが、儀礼には使うことができない。

4 イスラーム法(シャリーア)

 イスラームでは人間に原罪はないと考えられている。クルアーンにも原初の人間アダムとエヴァの物語が見られるが、旧約聖書の記述と最も異なる点は、楽園で彼らが犯した罪は地上に降ろされる際に許されたことである。原罪思想のないイスラームでは、キリスト教のような贖罪思想も見られない。しかし、人間は本来、道に迷いやすい弱い存在であり、神の導き、つまり神の法シャリーアがなくては、地上に正当で倫理的な社会秩序を作り上げることができない。もともと「シャリーア」とは水場に至る「道」のことであり、人間が生きるための「命の道」のことである。イスラーム法、シャリーアとは、信者が遵守しなければならない神の法であり戒律であるが、同時に、終末論的な救いに至る道でもあり、絶対的な神と被造物としての人間を結びつける絆でもある。

神の法
 イスラーム法は、クルアーン、スンナ(預言者ムハンマドの生前の言行録ハディースから得られる知識)、イジュマー(信徒の見解の一致、現実には法学者の見解の一致)、キヤース(法学者による類推)の4点を法源として制定される厳格な道徳規範である。神が決めた法であり、その原理は改変することは不可能である。しかし、成文法ではなく、法学者が原理に則って個々の事例を判定する不文法である。この法は9世紀の中頃までに成立した四法学派(ハナフィー派、マーリク派、シャーフィイー派、ハンバル派)の学説を固定して遵守する体制を、現在まで採っている。しかし、実際には個々の法学者の判断によって運用されるので、時代や地域に即した柔軟な対応が見られる。その意味では、現代はこれまでの歴史の中で最も厳格にイスラーム法の遵守が主張される時代でもある。
 イスラーム法について重要な点は、特にスンナ派では法学者は平信徒であり、聖職者ではないということと、法判断を採用するかしないかは、実は信徒に委ねられているということである。最終的な判断の主体が信徒であるという事実は、あまり知られていない。
 イスラーム法は宗教儀礼のみならず、日常生活、社会生活、経済活動、政治や国際関係にいたるまで、人間活動の全般に深く関わる戒律である。政教一致的な社会が理想とされるために、現在でもサウジアラビアやスーダンなど、宗教的保守派の国はこの法を国家の法として採用している。近代的な市民法を敷いている国.地域でも社会的日常的にはイスラーム法が大きな力をもっている。特に結婚、離婚、子弟の養育、遺産相続などの家族法の分野では、ほとんどのイスラーム教徒がシャリーアに従って生活している。
 食物規定として一般的に知られているものには、規定に則って屠殺処理されていない食肉、アルコール類や豚肉および豚由来の食品摂取の禁止があげられる。なお、シーア派(ジャアファリー法学)では、うろこのない魚全般がハラームとして禁止されている。ただし、この場合のうろこのない魚介類は特には貝とカニで、特例的にエビは魚に入れられている。

5 人間と社会 

ウンマ 
 クルアーンでは、人間は地上における「神の代理人」として創造されたとしるされている。そのため人間は神の導きに従って、この世に道徳的秩序を作る責任を負っている。ここでは、人間は霊的な側面と肉的な側面の双方をもった自然な包括的な存在として認められているので、人間の自然な欲求や社会的活動を卑しいとする考えは見られない。個人と社会とは、はじめから相関関係にあると見なされており、個人としてムスリムになることは、同時に共同体ウンマの成員となることである。前述のように、イスラームは成立当初から在家の宗教であり「政教一致」的な理想をもっているからである。
 イスラーム法の四法源の3番目に信徒の見解の一致である「イジュマー」が挙げられていることからわかるように、原則として教団組織をもたないイスラームでは、宗教上の決定権は一般信徒にある。つまり、ウンマ自体がイスラーム社会の進路について責任を負うことになる。「ウンマ」はムスリムの意識が精神的にも社会的にも集中する中心点である。

イスラーム神秘主義——伝播の担い手
 絶対者である神との神秘的合一を究極的な目標として独自の修行を行なう神秘主義が、イスラームにおいても8世紀頃から発生した。神秘主義に参加する者は、共同で修行をする必要性から、修道場を建設したり、優れた神秘家(スーフィー)を指導者として教団を形成したりしてきた。彼らは儀礼や修行方法に各地の伝統文化を積極的に取り入れ、イスラームの土着化を促進した。神秘主義教団は現在でも世界各地で活発に活動し、「イスラーム復興運動」運動とともに思想運動の担い手として、信徒や社会に影響を与えている。
 公式には教団組織や宣教制度をもたないイスラームがアフリカの奥地や、遠く東南アジアまで伝播したのは、イスラーム神秘主義集団の地道な草の根的活動によるものである。

イスラーム復興運動と「ジハード」
 現在、深刻な問題となっている「イスラーム原理主義」は、世界的な宗教復興運動の一環としてイスラームに起こった宗教復興運動のひとつである。地域や国、その目標によってさまざまな形態をもって展開するので、一概に危険であると判断することはできない。
 イスラーム復興運動は、現在の不安定な政治・経済情勢のもとで起こされた社会改革運動や市民運動である。西欧的な自由主義や民主主義とは異なる思想基盤であるものの、イスラームの教えに基づいた独自の民主主義や社会正義の実現、富の公正な分配、人権の擁護、言論の自由、道徳の回復などを目指す活動である。多くは理科系のエリート集団を中心として一般市民の支持を得た穏健な草の根的な運動である。テロや武装闘争に訴える戦闘的集団の動きが世界の耳目をひいているが、彼らはごく少数派である。イスラーム世界でも、彼らの過激な運動は市民的社会運動から区別され、一般信徒からも批判されている。
 過激な武装集団がその行動を正当化するために掲げる「ジハード」(聖戦)とは、本来は「努力」を意味しており、精神的努力や修養を指すものである。戦闘的な意味合いで用いられる場合も、異教徒の外敵に対抗する防衛戦争に限定されていて、非戦闘員や女性や子供、さらにはキリスト教やユダヤ教の聖職者、などに危害を加えてはならない、という厳しい条件がつけられている。今日の戦闘的集団の用いる「ジハード」は本来のジハード思想を悪用したものであることに注意しなければならない。なお、原理主義とは本来キリスト教の聖書中心主義を指す用語で、イスラーム原理主義という使い方は間違い。

政策オピニオン
塩尻 和子 筑波大学名誉教授
著者プロフィール
1944年岡山市生まれ。東京大学大学院人文社会科学研究科博士課程単位取得退学(博士(文学)東京大学)。筑波大学教授、同大北アフリカ研究センター長、同大理事・副学長(国際担当)、東京国際大学特命教授、同大国際交流研究所・所長を経て、現在、筑波大学名誉教授、アラブ調査室室長。専門分野は、イスラーム神学思想、比較宗教学、宗教間対話、中東地域研究。最近の主な著書・論文に『イスラーム文明とは何か:現代科学技術と文化の礎』(明石書店、2021年)『リビアを知るための60章【第2版】』(明石書店、2020年、編著)、「公共宗教としてみたイスラームの世俗性と普遍性」(『ピューリタニズム研究第13号』日本ピューリタニズム学会、2019年)、「イスラーム・ジェンダー論の行方」(『いま宗教に向き合う』第4巻、岩波書店、2018年)、「宗教間対話運動と日本のイスラーム理解」(『宗教と対話――多文化共生社会の中で』教文館、2017年)、『イスラームの人間観・世界観』(筑波大学出版会、2008年)、ほか多数。
今日の世界で最も緊急性を要するものは、イスラームとの対話に関する問題である。イスラームの内と外とで相反する意識がしばしば複雑な民族紛争や宗教対立の引き金になっている。日本国内でも増えてきたムスリムとともに、これらのイスラームについての諸問題を、私たちは日本人として改めて考えることが必要である。

関連記事

  • 2022年3月18日 グローバルイシュー・平和構築

    イスラームにおける女性観