はじめに
敗戦後の日本において、独立の回復と戦後復興を成し遂げるまでの、あくまで便法の措置として吉田茂は軽軍備と経済中心、そして国防を米国に大きく依存する政策を進めた。吉田が政界の表舞台から去った後、自主国防と憲法改正をめざす反吉田路線の政権が誕生するが長くは続かず、その後を受け吉田の弟子にあたる官僚出身政治家が政権を握る時代が続いた。
そのような過程のなかで、吉田流の便法路線がいつしか、日本国憲法の理念に基づく戦後日本の不動の外交・安保政策として定着していった。今日でも、我が国の軽武装・経済中心の政策は日本国憲法に起源を持ち、戦後一貫して堅持されてきた国策と信じ込んでいる者も多い。
なぜ独立と復興を成し遂げるまでの当座の政策であったものが、あたかも戦後日本における崇高な国家理念であり、確たる国家戦略であるかに虚飾、格上げされることになったのか。第4回は、この謎を取り上げてみたい。
1 反吉田路線の時代
警察予備隊は保安隊に改組され、さらに1954年7月には陸・海・空の3自衛隊が発足する等漸進的再軍備が進むなか、戦後日本政治・外交の基本的進路を決定づけた吉田時代が終焉し、54年12月に嶋山内閣が誕生した。
吉田路線を対米従属と批判してきた鳩山一郎は、自主的再軍備を進めるための憲法改正をめざしたが、55年2月の総選挙、56年7月の参議院選挙のいずれにおいても憲法改正の発議に必要な2/3以上の議員数を確保できず、議席獲得を目的に国会に提出した小選挙区制法案も廃案に追い込まれ、改憲構想は挫折に終わった。
改憲を果たせなかった鳩山は、代わって日本の国連加盟に途を開くため、ソ連との国交回復を政権の最大課題として取り組んだ。北方領土問題をめぐる日ソ間の対立から平和条約の締結は断念したが、日ソ共同宣言(1956年)によりソ連との国交は回復され、同年待望の国連加盟が実現する。だが、日本の中立化や対ソ接近を恐れていた米国は、自主外交を唱える鳩山の姿勢を評価せず、対ソ交渉や鳩山の自主再軍備論に支援を与えることもなかった。
この間、社会党の躍進とその動きを警戒した財界の圧力によって保守合同が実現する。社会党は講和と安保条約の批准に際して左右が対立、分裂に陥ったが、1955年の総選挙では両派とも統一を公約し、合わせて1/3を越える議席を獲得、鳩山の改憲意図を挫くとともに、同年10月には左右の統一を実現した。こうした社会党の攻勢に対抗し、政局の安定をはかる唯一の途が、1955年の自由党と日本民主党の合体による保守合同であった。
鳩山の退陣後、石橋湛山が政権を担当したが、病気のため2か月の短命内閣に終わり、その後を継いだのは戦前派官僚の岸信介であった。1956年の経済白書が「もはや戦後ではない」と述べたように、独立を回復し、また朝鮮特需を契機に、日本経済の復興は順調に進み、国民の間にも自立への自覚が芽生えていた。そうした時、第五福竜丸事件や砂川事件をはじめとする米軍基地問題が表面化し、保守・革新を問わず広く国民の間には反米ナショナリズムや政府の姿勢を対米従属だと非難する声が高まり、安保条約の不合理性を指摘する世論も強まっていった。
こうした国民意識を踏まえ、岸は日米安全保障条約(旧安保条約)をより双務的な内容のものへと改定することに努力し、これを為し遂げた。対米交渉を重ねた結果、1960年1月、日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)が調印された。新条約では米国の日本防衛義務が明文化され、さらに付属文書で在日米軍の日本および極東での軍事行動に関する事前協議の制度が定められた。
しかしながら、岸の強圧的な政治姿勢が国民の反発を生み、また米国の対外戦争に我が国が巻き込まれるのではないかとの懸念も強まり、安保反対の闘争が激化した。鳩山も岸もともに改憲、自主軍備論者であったが、両者の間には相違点も大きかった。吉田への対抗心に燃える鳩山が、いわば反吉田のスロ−ガンとして自主外交を強調したのに対し、岸がめざしたものは日米協調を前提とする中での改憲、自主軍備であった。二人の違いは日米関係、ひいては政権の安定度に影響を及ぼした。米国の鳩山に対する評価が終始低かったのとは対照的に、東京裁判で戦犯容疑をかけられていたにも関わらず岸への信頼は極めて高いものがあり、この差異が安保条約改定の成否となって現れた。
一方、鳩山は戦前派に属するが、軍部の暴走は憲政に抵触するとの理解があり、軍国主義への反発はあった。これに対して岸の場合、国民に対する敗戦責任はあっても、戦争責任、つまり軍国主義への反省は感じられなかった。この体質の違いが、ともに保守反動と批判されながら、岸への世論の反発が安保騒動として暴発した根底にあった。
もっとも、“政争は水際まで”という言葉にも拘らず、日ソ国交正常化も安保改定も国内の政治抗争、特に自民党の内紛によって大きな影響を被った点は共通であった。国民的エネルギーの前に岸が政権の座を追われたことで、憲法改正、自主再軍備を唱える反吉田路線は戦後政治の主流とはなり得ず、政治のバトンは池田、佐藤という吉田直系に引き継がれることになる。
2 高度経済成長の時代:パイの拡大とハイリシーの封印
岸の後を継いだのは経済官僚出身の池田勇人であった。吉田路線の正当な継承者を自負する池田は、安保闘争再燃への危惧から、話合いや妥協を重視する低姿勢のスタンスに徹し、憲法改正を事実上断念、イデオロギ−や安全保障問題といった政治的争点が表面化することを回避しつつ、所得倍増計画に代表される経済優先の路線を打ち出した。
その外交も、安保騒動で拗れた日米関係の修復と、日本経済発展のための環境作りに重点を置くものであった。池田政権誕生とほぼ同じ時期に発足した米国のケネディ政権も、日本の中立化を防ぐという見地から、こうした池田の経済重視政策を支持し、それがもたらす政治的安定効果に期待を寄せた。
この池田と激しい総裁争いを演じた末、後に病に倒れた池田の後を継いだのがやはり吉田スク−ルに属する佐藤栄作であった。当初、経済偏重の池田政権の姿勢を批判し、外交面でも自主性の確保を掲げた佐藤であったが、彼も結果的には池田の高度経済成長路線を踏襲した。占領初期を担った幣原、吉田、芦田の外交官出身者や、独立後の鳩山、岸という戦前派とも異なり、池田、佐藤という戦後派の経済官僚が1960〜70年代の政権を担当したことは極めて象徴的であった。
その佐藤が日韓基本条約の締結(65年)に続き、政権の命運を賭けて取り組んだのが沖縄の返還であった。1965年8月、沖縄を訪問した佐藤は「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国にとって戦後は終わっていない」と演説、67年11月のジョンソン大統領との会談で「両三年の間」に沖縄が返還されることとなり、さらに69年の佐藤・ニクソン会談で、72年中の核抜き本土並みによる返還合意が成立、そして72年5月、悲願の沖縄祖国復帰は遂に実現した。
この間、佐藤は武器輸出三原則や非核三原則を打ち出したほか、70年には日米安保条約を自動延長する等吉田ドクトリンをより精緻なものへと発展させた。経済政策の成功や大野、池田、河野という有力者が相次いで死去したこともあり、佐藤政権は戦後最長(7年8か月)の記録を残した。
こうして池田、佐藤の両政権(60年7月〜72年7月)が12年にわたって経済優先の政策を進めた結果、60年代、日本経済はめざましい発展を遂げた。1960年当時449億ドルだった日本のGNPは70年には4倍以上の1962億ドルと、年率15.9%の高成長を記録、67年にはイギリスとフランスを、翌68年には西独を抜いて日本のGNP(1428億ドル)は米国に次ぐ世界第2位となり、日米貿易も65年以降は日本側の対米出超のパターンに転じた。世界のGNPに日本が占める割合も十年毎に倍増し、1950年代の1.5%が60年には3%に、さらに70年には6.2%に達した。
この間、東京オリンピック開催・新幹線開通(64年)、名神高速道路開通(65年)、大阪万博(70年)、新宿高層ビル建設開始(71年)等社会資本の充実も進み、国民生活は日々向上を続けた。その結果、経済成長は国民の8割に中流意識を植えつけ、民生の安定は安保騒動後の革新勢力の跳梁を防ぐとともに自民党政権の長期安定化をもたらした 。「経済優先・軽武装」の路線を推し進めた池田・佐藤時代とは、「政治」から「経済成長」の一点に国民のエネルギーが凝集した、まさに経済大国実現の12年であった。また池田、佐藤とも親米路線を堅持したため、日本中立化の不安も米国から払拭され、日米関係は戦後最も安定した時期を迎えた。
だが、佐藤政権も後半に入ると、沖縄返還交渉にあたって領土と繊維(糸と縄)の取引が噂されたように、早くも日米の間に経済摩擦問題が生まれるようになった。日米の相対的な力関係の変化に対する日本政府の対応は敏ではなかった。佐藤が政権を担当した時期、日米関係には沖縄の返還、安保条約の延長、貿易不均衡、そして中国の扱いと幾つかの難問が横たわっていた。佐藤は前二者を巧みに解決したが、後二者への対応に躓き、その政権寿命を終えたといえる。
また池田・佐藤の両政権は、安保・防衛問題を明けてはならぬ“パンドラの箱”であるかのように扱い、その政治争点化を極力回避し続けた。こうした問題の先送りや軍事の封印化は、日本及び日本国民の国際政治に対する関心や参加意識を削ぎ、我が国の危機対処・管理能力を大きく低下させた。さらにその過程で、経済的豊かさを基盤とする戦後ナショナリズムの発露として、吉田ドクトリンなる神話を誕生させたのである。
こうして、経済成長というパイの拡大とハイポリシーの回避を基に保守がその基盤を安定化させていったのとは反対に、革新勢力は教条的な安保反対論を繰り返すだけで、いわば“野党の野党化”が定着し、政権交代の可能性は日増しに遠ざかっていった。そうした事態への反省と危機感から、社会党内部でもイデオロギーからの脱却をめざす試みが生まれ、江田三郎はトリアッチ理論を模して、資本主義体制下の部分的改革の積み重ねによって社会主義への条件を作るという構造改革路線を唱えた。しかし、江田の現実主義路線は党内の主流とはならず、社会党は長期低落による政治的衰退の途を辿っていく。
衆議院選挙による社会党の得票率は、29%(1963年)から27.9%(67年)そして21.4%(69年)と低下していった。但し、戦後保守政治が確立するこの時期、実は自民党の長期低落化も始まっており、1960年の総選挙で296議席、得票率57.6%を獲得して以後、議席の減少が始まり、63年選挙を最後に得票率は常に50%を下回るようになった。それにも拘らず自民党の優位が続いたのは、公明、民社、共産三党進出による多党化現象と、イデオロギー論争に明け暮れる社会党の衰退に助けられた面が大きかった。
ところで、戦後日本政治における“保守本流”とは、新憲法、サンフランシスコ平和条約、そして日米安保体制(対米協調優先)の枠組みを重視し、この三本の柱がもたらした経済立国路線(経済優先の現実主義路線)に対する肯定勢力と捉えることができる。これに、吉田直系(自由党系)であることをその条件に加えると、改進党〜日本民主党に連なる系譜の鳩山、岸(彼らは自由党から離れて日本民主党を作る)は保守榜流で、池田〜佐藤こそが保守本流となる。
池田に仕えた伊藤昌哉が述懐しているように、「軽武装と経済中心主義という吉田茂の作った戦後の日本の生き方の原型は、池田勇人によって定着させられたのであった。そのことは、『保守本流』という言葉が、池田内閣の頃から一般化していったことにも現れている。そして池田勇人は日本の国民に自信を与え」た(伊藤昌哉『池田勇人とその時代』)。
池田・佐藤の両政権を通じて、吉田以来の戦後日本の保守政治はその完成期を迎えたといえる。それは同時に、官僚主導政治が頂点を極める時期でもあった。内田健三の以下の総括は正鵠を得ている。
「もともと、明治国家が世界有数の絶対主義的な官僚制国家だったわけですが、それが戦後も占領政治の便宜上官僚が温存され、それを吉田が政界の人材不足を埋めるために意識的に導入していく。したがって本来、吉田政治は官僚政治であるわけです。そしてその官僚が、いま見るような圧倒的な力をもつようになったのは、やはり池田から佐藤の時代ですね。」
3 吉田ドクトリン神話の誕生
池田と安保効用論
池田は、安保騒動で割れた国論を経済によって安定一本化させた。師の吉田が世論を重視しなかったのとは異なり、池田は経済の効用を国民に説き、パイの拡大による政治の安定をめざした。それゆえ、池田の政治は何といっても内政重視であり、かつ、民意の支持の得られにくい分野の取り組みは避ける傾向が強かった。
特に安保、防衛問題が政治争点化することを極力回避し、陸上自衛官の18万人体制達成に難色を示し、あるいは2次防を1年先送りする等その沈静化に努めた。外交においては、日米関係の修復・安定をめざし、米国の要求に応じる努力を示しながらも、そうした対外姿勢とは裏腹に、国内向けにはヨーロッパやアジアとの関係を重視する姿勢を見せ、対米追随の印象を国民に与えぬよう巧みに使い分けた。
さらに安全保障に対する認識も、自主独立の論理やイデオロギ−を避け、日米安保条約が存在するがゆえに日本は軽武装で経済成長に邁進することができるという「安保効用論」を全面に押し出した。池田蔵相の秘書官として、その後、自らも政界に転じ、池田のブレーンとして、また池田内閣で閣僚を歴任した宮沢喜一は次のように述べる。
「安保体制によって、この十数年間日本の平和と安全が守られてきたということが第一の効用です。・・・・安保条約の結果として、日本は非生産的な軍事支出を最小限にとどめて、ひたすら経済発展に励むことができたわけです。これが第二の効用です。この二つは過去十数年間、日本にとって非常に大きな恩恵だったと思います」(宮澤喜一『社会党との対話』)。
本格的な再軍備を避けることができ、経済成長に専念できるから日米安保は有効だという訴え方は、安全保障問題のイデオロギー論争化を防ぎ、安保支持者を増やしはしたが、他面、日米安保条約の意義が国家の安全保障そのものの効用で論ぜられるよりも、経済発展を実現する限りにおいての有用性が突出し、日本の安全保障に関わる本質的問題の軽視、内政の延長としての外交、さらに対米任せの風潮を生み出した。日米安保条約の体制も豊かさの追求に従属するもの となったのだ。自衛隊の存在についても、国民的行事や災害派遣での活動は評価されても、国防や安全保障という本来の意義が正面から論じられ、正当な処遇が自衛隊に与えられることはなかった。
その結果、池田内閣になってから、自衛隊の日本国内における地位が相対的に低くなった。吉田茂も池田の自衛隊封印化を批判している。
「自衛隊に対する政府その他責任当局の態度に、不徹底にして自信を欠くもののあるやに見えることは特に遺憾である。たとえば、自衛隊に天皇陛下の行幸を仰ぐことを殊更に遠慮申し上げたり、来日外国元首の儀杖兵閲兵に当たり、陛下の御同向をお願いしないように取計らったり、何故に然るかを理解し難いことが多い。立派に国家の機関に奉仕する同胞であるに拘らず、自衛隊員だけが天皇陛下の親臨を戴けないことは、公平を欠く意味からだけでも失当である。もしこれが一部の世評に遠慮し、迎合するものであるならば、当局自らの国家機関を軽んずるものといわねばなるまい。最近、自衛隊が風水害、雪害などの災害救助に出動し、関係地方民からはもちろん、一般国民からもその功と労とを多とされていることは、自衛隊に対する大方の理解と敬意を増大する所以であって、誠に喜ぶべきことである。だが、・・・災害出動は自衛隊の任務の一つではあっても、それは決して自衛隊存在理由の本筋ではない。このことが、忘れられ勝ちとなりはせぬか、私はむしろ恐れるのである」(吉田茂『世界と日本』)。
この吉田の懸念は池田、佐藤の時代を通してそのとおりになった。
佐藤政権の残したもの
佐藤が政権を担当した1960年代後半から70年代始めにかけて、我が国における高度経済成長の路線は完全に軌道に乗った。米国の対日防衛要求が大きくなかったこともあり、岸、池田の両政権で定着した対米協調路線は一層深まっていった。こうして自民党政権の長期安定化を背景に、経済中心、対米関係重視という戦後保守の体制は佐藤政権の下でその確立期を迎えた。池田の経済重視路線を踏襲したが、池田程に実利的ではなく、岸の政治主義にも理解を示し−むしろその本質においては岸により近い−佐藤は、保守内部に存するこうした二つの流れを巧みに吸収することによって、戦後日本の保守政治を完成せしめたということができる。
政権発足直後、米原潜の寄港実現や日韓条約等を強引に成立させたこと等から、池田の低姿勢に対して佐藤には政権初期、タカ派、高姿勢のイメージが生まれた。しかし、これらの案件は全て前政権からの持ち越しであり、低姿勢の池田政権が野党側の抵抗を恐れてあと伸ばしにしていた懸案を一気に処理することで、池田に対する独自色を打ち出し、また自らの実行力を印象付ける狙いがあった。
むしろ、7年8か月というその長期政権中、安定多数を誇りながら、佐藤が党内タカ派の期待に答えるようなことはほとんどなかった。池田と同じく吉田の愛弟子であった佐藤の政治路線も、基本的には池田のそれを踏襲するもので、経済的繁栄を最優先とし、安全保障を米国に委ねるという吉田以来の路線から踏み出すことはなかった。
それゆえ、池田時代と同様に、改憲は相変わらずタブーであり、安全保障問題でも現状維持の姿勢が目立った。中曽根防衛庁長官による「国防の基本方針」改正の試みには消極的だったし、自衛隊の沖縄移駐や4次先取り、三矢研究問題の際も野党の追求回避を最優先とした。佐藤が手がけた3次防は、支出額では2次防に比して倍増したが、政府予算及びGNPに占める防衛費の比率は低下し、日本の防衛費は他の諸大国に対し、絶対額でも総予算比においても大きく下回った。
逆に佐藤は、非核三原則や武器輸出三原則を打ち出し、米国の核の傘に自らの安全を依存しながらも、日本国内からは武備の匂いを消し去るという一国平和主義をさらに発展せしめていった。
もっとも、池田が経済に特化したことへの対抗心に加えて、池田程には没イデオローグでなかった佐藤は、吉田のやり残した政治的側面の完成を意識してもいた。その現れが沖縄返還であり、さらには返還実現の交渉過程において、いまや経済大国となった日本の国際責任について彼は思いを巡らした。
1960年代後半という時期についてマイヤー駐日大使は、「米国にとってはニクソンドクトリンを実行に移すことが課題だった。日本にとっては、東アジアならびに世界における日本の役割を模索するうえでの、時には苦痛を伴う過程の一端であった」と述べているが、佐藤はニクソン政権のアジア政策変更を受け、東アジアにおける日本の政治的役割の増大と安保関連地域の拡大という要請を受入れ、国内では防衛の気概を積極的に論じた。
こうした佐藤の姿勢は、米国の理解を得、沖縄返還を為し遂げるための戦術としての面を確かに持ってはいたが、本質的には日本を取り巻く国際環境の変化が求めたものであり、また、寡黙なナショナリストであった佐藤の信条と本質的に共鳴する主張でもあった。そして、こうした安保への自覚と芽生えは、いまや経済大国となった日本が、それまでの戦後復興最優先の戦略を見直し、国力の変化に見合った新たな外交・安全保障戦略を構築すべき過程において、十分に咀嚼し取り込まれるべきものであった。
だが、1970年代デタントの到来による国際緊張の緩和、対中脅威の減少は、我が国の東アジア安全保障への目配せを再び虚ろなものとさせた。また冷戦の緊張が緩み、それに伴い日本の行動の自由を拡大させるような国際関係の変化は、多くの国に日本への不安を再燃させることになった。日本の経済力増大にこの行動の自由が新たに加わり、日本軍国主義復活への不安を広範に引き起こしたことも日本の対外政策の展開を慎重にさせた一因であった。さらに、日米繊維交渉の拗れや米国の政治的混乱も突っ込んだ日米協議を不可能にした。
そのうえ、佐藤退陣後、長期間にわたり続いた自民党内部の政争も、国際国家日本にとって相応しい外交戦略の樹立を大きく阻害することになる。「人事の佐藤」の異名がある程に党内の人事操縦に長けていたこと、河野一郎の死去等ライバルの不在、そして、経済の持続的拡張が、佐藤の長期政権を可能にした。だが、人事の佐藤でありながら、自身の後継者問題を明確にさせなかったことは、彼の残した大きな汚点となった。以後、“角福戦争”と呼ばれた福田と田中の怨念の伴った凄まじい政治抗争が長きにわたって日本の政治・外交の停滞を招来したからである。
戦後復興期の、国際秩序からの恩恵を享受するだけの立場から、応分の義務や貢献、より対等な同盟関係が求められ始めたこの時期、我が国はそうした環境変化を機敏に読み取り、新たな時代に相応しい戦略の構築と国家システムの改革に着手すべきであった。しかし、怨念が怨念を呼び起こす保守内部の凄まじい派閥抗争が、そうした政治的取り組みと努力を妨げたのである。
結局のところ、1960〜70年代前半にかけて、日本は内政優先の時代であった。そこでは、政財官の連携をはじめとする内政重視の政治構造が形成された一方、外交や安全保障の非争点化が徹底されたことによって、それが本来帯びている政治的重要性への認識や感覚を低下・麻痺させ、国家が外に向かって対応し、一層の発展を期するための術と能力、そして意欲の減退を生ぜしめた。その間、経済の規模とパイだけは膨脹を続け、1955年からオイルショックに至る1973年の間に、名目GNPは13倍、鉱工業生産指数は9.6倍、総発電量は7.2倍、粗鋼生産量は13倍、乗用車生産量は223倍、輸出は18倍、輸入は15という驚異的な伸びを示した。
日本の安全がアジア全体の安全と不可分であり、日本政府がアジアの安全保障問題へのコミットを我が国が真剣に考え始めるようになるのは、東西関係に再び緊張感が漂い出したことを背景に、78年に「日米防衛協力の指針」、所謂ガイドラインが策定され、「米軍が自衛隊を補完する構造から極東の安全保障に関して「自衛隊が米軍を補完する構造への転換」が図られ始めるまで待たねばならなかった。しかも、大国となった日本が国際社会で果たすべき役割や新たな国家戦略の模索は、冷戦終焉後の今日まで続いている。
4 70年体制と吉田便法路線の固定化
吉田茂の手法は、その愛弟子だった池田勇人に受け継がれた。「トランジスタラジオのセールスマン」とフランスのド・ゴール大統領に揶揄された池田は、吉田の精神を忠実に継承した。それに続く佐藤栄作も吉田の愛弟子であった。池田に反発して当初、政治スタイルを変えたけれども、基本的には吉田の手法を逸脱することなく、師のやり残した沖縄返還を実現させた。1970年初期までの日本は、吉田の考え方を受け継いだその弟子たちによって運営されたといえる。そして、日米関係を機軸とする外交路線、非軍事・経済中心主義、官僚主導の政治・行政システム等戦後日本政治の基本的枠組みが形成・定着していった。
かようにして、池田、佐藤の両政権を通して、戦後日本政治における保守体制が確立した。
だが、この体制には構造的に重大な問題点を抱えていた。それを簡潔に述べれば、「パイの拡大による政治争点の回避・先送り」であり、特に「安保・防衛問題の沈静・非争点化」であった。それは、日米安保効用論に依拠しつつ、経済成長に軸足を固定させながら、イデオロギ−論争を回避する形で平和国家(非核三原則や武器輸出三原則)化の定着をはかろうとするもので、軍事の封印化と呼ぶこともできよう。
さらにそうした過程において、吉田茂流の日米安保条約を核とする対米依存主義を前提とした軽武装・経済中心主義が踏襲されることになった。当面の経済復興を目的とした敗戦直後における吉田の暫定的便法的な路線を、さも戦後日本がめざすべき国家戦略であるかに装い、格上げさせ、その恒久化と正当化を進めたことにより、吉田“ドクトリン”なるものが存在するかのような神話を生み出したこと、その反面、日本自身の立場をも含めた国際環境の変化を直視、あるいは展望し、大国日本にとって必要な、そして日本に対する世界の期待や要請に応え得るような、新たな国家戦略や外交方針の構築を怠ったことである。
他方、野党第一党である社会党においてもこの時期、いわゆる非武装中立論が纏めあげられた。「非武装中立」の言葉が社会党の党是として定着したのは、1966年の大会で決まった同党の綱領的文書「日本における社会主義の道」においてであった。社会党は「憲法前文と9条の完全実施として自衛隊の解散を目的とする」ことを掲げ、過渡的措置として、国土開発や災害対策等を行う「平和建設部隊」への自衛隊の再編成をうたったのである。しかも、国民の大多数が中流意識を抱いているにもかかわらず、大衆窮乏化論を母体にしたこの「道」の評価をめぐって左右両派の果てしない対立は続き、政権政党としての資格を失っていった。野党第一党がいつでも政権を担える力を備えていることで、政治に緊張間が生まれる。その不在が、自民党内の政争や派閥争いを一層激化させ、結果的に日本外交の混迷と、国民的かつ国際的な国家ビジョンの提示を妨げることにもなったのである。
一方で教条的な非武装中立論が存在し、他方で、正面きって安保・防衛問題を論ずることなく、いわば軍事を封印し、国民の関心を向けさせぬ格好で、なし崩し的な自衛隊の定着を図ろうとする吉田以来の現状維持的防衛論が国全体を覆い尽くすことになった。安保自動延長の平穏さは、国民のハイポリシ−に対する無関心さを象徴する出来事に他ならなかった。この時代の原風景には安全保障が完全に抜け落ちていた。そこにあるのはただ、経済的豊かさの獲得という“坂の上の雲”を求めて、ひたすら働く日本人の姿だけであった。かような政治と社会の構図を、55年体制の枠組みの下における70年体制と名付けたい。
5 吉田ドクトリン神話の二重性
池田、佐藤の60年代、軽武装、経済優先の吉田路線が継承、踏襲され、国家の進むべき新たな方向性が打ち出されなかったこと、70年代初頭、佐藤は主に沖縄返還交渉の過程において、経済大国となった日本に必要な新たな安保外交政策の構築に向けた動きを見せたが、佐藤政権の政治的指導力の低下や緊張緩和の国際情勢、さらに自民党の派閥抗争等が重なって、そうした戦略転換の試みが挫折したこと、他面、既存の枠組みの下で未曾有の経済発展と平和の享受が実現したこと、さらに高坂正堯が『宰相吉田茂』を著すなど吉田茂再評価の動きが論壇で現れたことも影響して、本来ならば国力国情の変化に対応して、新たな戦略を打ち出さねばならぬこの時期に、戦後復興期における暫定的な政策でしかなかった吉田の政治手法が、何時しか戦後日本における恒久的な国家戦略としての“吉田ドクトリン”なるものへと格上げ、制度化されることになった(吉田ドクトリン神話の誕生)。
右肩上がりの持続的な経済発展を前提に、ハイポリシーへの関心を封じられてきた国民の間に、こうした既存路線へのコンセンサスや支持が生まれていたことも神話生成に深く関わっていた。なんといっても“吉田流”は、繁栄の果実を伴っていたし、いまや経済発展を為し遂げ、自身を取り戻しつつあった日本人にはナショナリズムに対する希求が生まれていた。
しかし、戦後の日本人にとって依然「戦前」はタブーであり、しかも「安保・軍事」は封印化されていた。そのため、戦後ナショナリズムの向かうべき先は、一方においては明治中期以前の日本を描いた司馬遼太郎の作品であった。他方、ハイポリシーへの関与やコミットが御法度である以上、一国平和の経済中心路線の枠中で新たなナショナリズムの対象を見出さねばならぬ必要から生み出されたのが、軍事を否定することで戦後の発展を導いたという吉田茂英雄論であり、吉田ドクトリンなるものであった。国民にとって「商人国家論」や“吉田ドクトリン”なるものは、戦後ナショナリズムへの希求とその発露、さらに戦後路線の自己正当化を確認する行為でもあったのだ。
しかし、何度も指摘したように、本来の“吉田流”は、独立回復、復興実現までの応急的な処置であったことを見落としてはいけない。それは、大国日本が将来にわたってめざすべき路線として打ち出されたドクトリンなどではなかったし、吉田以後、“吉田流”を新たな国際環境の下に適応・発展させるための知的な営みも十分にはなされてこなかった。つまり、暫定措置でしかなかった経済中心、なし崩し再軍備の手法が70年代初頭まで暫定的なし崩し的に継承されたのであり、その過程で、あたかもそれが戦後日本の確たる政治・外交ドクトリンであり、かつあり続けるべきであるかのような装いを纏うことになっていったのである。
かように、本来、暫定的なものでしかなかった当座便法の政策が、長く、そして今後も堅持されるべき普遍的な戦略であるかのように流布していった点をもって、吉田ドクトリンなるものは“神話”と呼ばれるべきであるが、もうひとつ、これを神話と称する理由が存する。それは、池田、佐藤、そして吉田自身もこれを心底自身と誇りをもった戦略として能動的に受け止めてはいなかったという事実に由来する。
そもそも吉田が自らの路線に普遍的な価値観や信念を抱いていなかったことは既述したが、池田や佐藤においても、吉田の手法を継承しつつも、それを心底支持していたわけではなかった。例えば1958年5月頃、西独の防衛問題に関する新聞記事を読みながら、池田は「日本も核武装しなければならん」との考えを側近の伊藤昌哉に漏らしたことがある。かねてから池田は『日本の国は日本人の手でまもらなければならない』と考えていたので、なにかのとき、うっかり失言されてはたまらないと伊藤はあわて、『広島は世界ではじめて原爆の被害を受けたところです。その地区からの選出議員が核武装を提唱するなどとは、とんでもないことですよ』と池田に発言を自重するよう促している。
政権を長く担当し、諸外国との接触を重ねていくにつれ、そして、日本の国際的地位の変化を目の当りにして、経済中心の池田の考えにも変化が現れ、軍事力や国防の重要性に対する認識が深まっていったのである。そのあたりの経緯も伊藤は解説している。
「池田は、精神の独立は、なによりも自分自身の国を愛するところから生ずると考えた。自分が生をうけ、そこで生きている国を他の国に守ってもらっている状態では、愛国心は生まれようにも、生まれえない。池田はそう考えた。・・・
62年の秋、ヨ−ロッパを訪問した時、・・・マクミランと会ってきた池田は、クラリッジ・ホテルに寛いで、私にこう言った。
『日本に軍事力があったらなあ、俺の発言権は恐らく今日のそれに10倍したろう』。
・・それから数ヵ月して、池田は信濃町の私邸でこう言った。
『日本は宦官のようなものだ。キンタマをぬかれた男というところか・・・』。
また、米誌タイム・ライフの編集局長がきて、池田にこう聞いたことがある。
『あなたが意志決定する場合、経済的条件と、政治的、軍事的条件のうち、どれがもっとも重要だと考えますか』。
池田は即座に、『文句なしに軍事的条件です』と答えた。池田は日本国の権力の頂点にたって、諸外国の首脳と接触し、日本の国力の限界をはっきりと知らされたのだろう。」(伊藤昌哉『池田勇人とその時代』)。
中曽根康弘も、池田について同じような述懐をしている。
「あの人(池田)がド・ゴールに『タランジスタ売りの商人』といわれた直後でしたよ。『やっぱり中曽根君、軍事力を強化して、強い軍隊を持っていないと国際政治はできないね。情勢によっちゃ核兵器も必要だ』
と、二人だけの酒の座でいいました」(中曽根康弘『天地有情』)。
池田の本音に度々触れた伊藤昌哉は「だから、池田は憲法改正論者だ」とまで断言しているが、池田の発言は日本の国力の限界を知ったというよりは、国力上昇に伴う軍事力の無さが、日本の発言力の無さに通じていることへのフラストレ−ションと見るべきであろう。それは、防衛力の強化という直載的な形をとることはなかったが、愛国心や「人作り」への関心を強めることとなる。62年夏の参議院選挙における全国遊説の頃から、池田は「人作り」を強調するようになり、翌63年8月14日、部分的核実験停止条約に調印したその日、池田は総理の私的諮問機関として「人づくり懇談会」を発足させ、「期待される人間像」を探求させている。
経済優先路線を展開した池田自身が既に経済外交に限界を感じ始めていたのと同様、あとを継いだ佐藤も、いつまでも経済オンリーで行くことが日本にとってベストの選択だと確信していたわけではない。首相就任直後の1964年12月、佐藤はライシャワー駐日米大使との会談で「英国のウィルソン首相と同様に、相手が核兵器を持っているのなら、自分も持つのは当然だと考えている」と述べ、また「日本は今後数年以内に防衛問題を根本から考え直さなくてはならず、今はまだ時期が熟していないが、改憲は必要だ」と何度も繰り返している。
核に関する前者の発言は、沖縄返還交渉や日本の核不拡散条約調印問題等を意識し、核を持たない日本の防衛を米国に確約させるためのバーゲニングの面も強いと思われるが、後段の発言は、内心の思いを押し殺し、池田以来の安保・軍事の非争点化、先送り路線を継承している佐藤の自身に対する嫌悪感の表出と見ることはできまいか。
佐藤が国防の気概を訴えたのは、沖縄返還のための戦術としてのみならず、安全保障を米国に依存し続けたことで、何時しか日本人に国防意識や独立国家としての意識が希薄化したことへの不満の表明でもあった。吉田流に心酔していたわけでは決してなかったのである。
内面では不満とその手法としての限界を意識しながら、表向き平和国家の意義とそれまでの経済中心路線を評価し、それを継承し続けるという矛盾・分裂の所為が指導者に存在する限り、その安保、外交政策に自信や正当性といったものが根づくはずはなく、しかも、吉田流を真に日本の国家戦略へと発展・昇華させ、平和国家としての意味を深化・具体化させ、日本外交に理念を吹き込むことも不可能なことである。
6 戦後日本外交の手詰まり
結果、吉田ドクトリン神話は、従前路線の安易な継承を許容、正当化し、国際国家日本として必要な新たな外交理念の構築を怠らしめた。理念なき外交の延長である。しかも、一見先進的なものに映る経済中心外交には大きな落とし穴があった。山本満は次のように述べる。
「伝統的な外交戦略ゲームの思考に馴染んだ戦前派政治家や職業外交官からすれば、経済外交はゲーム参加者の要件である軍事力を欠いた日本が仕方なしに韜晦する一時の代償行為、あるいは経済力という手段に一面的に頼らざるを得ない外交の片肺非行であった。これに対して内政志向型の戦後派政治家や経済官僚、財界指導者らにとっては経済外交とは外交よりもむしろ国内経済政策であり、あるいは賠償や経済協力という金の卵を生んでくれる鵞鳥であった。外交は経済の召使にほかならず、安保条約や軍備の問題さえ経済上の利害得失から判断すべきものと考えられる傾向があった。
経済外交を動かしたのはこの二つの一見相反する態度の混合だったが、共通していたのは両者とも本来の意味の外交政策に取り組んでいるという意識が乏しかったことである。・・・日本がおかれた地位についての無力感がそこに働いていたのだが、その心理的政治的雰囲気はそのまま所与の国際構造に消費者あるいは受諾者としてのみ関わる姿勢を生んだ。そこにみられるのは行動の自由を拘束されたものの被害者意識と秩序の一方的受益者の自己中心主義との重なりあいであった。高度成長が“国民的悲願”である以上その追求は対外的にも当然正当化されるという無邪気な論理が経済外交の根底を貫いて(おり・・・日本の成長が他国の利益や国際経済のゲーム全体に対してどんな影響を及ぼすか、あるいは経済力の国際政治上の作用について、経済外交は切実な関心を向けなかった。そこに外交政策としての致命的な欠陥があったのである。
この欠陥・・・が潜在的なものに留まっていたのは次の二つの条件が存在したからであった。一つは日本の経済力の国際的比重が小さかったこと、もう一つは戦後世界の政治と経済におけるアメリカの指導権が機能していたことである。この二つの条件に変化が現れた時、経済外交の欠陥が顕在化し、これに代わることのできる理念を持たなかった戦後外交そのものの行き詰まりが必然になったのである」(山本満『日本の経済外交』) 。
そして、当の吉田すらも晩年、弟子たちが彼の手法を踏襲する様を見て、危惧と悔悟の念を深めていったのである。池田時代の1963年に著した『世界と日本』の中で吉田は、次のように語っている。
「当時の私の考え方は、日本の防衛は主として同盟国米国の武力に任せ、日本自身はもっぱら戦争で失われた国力を回復し、低下した民生の向上に力を注ぐべしとするにあった。然るに今日では、日本をめぐる内外の諸条件は、当時と比べて甚だしく異なるものとなっている。経済の点においては、既に他国の援助に期待する域を脱し、進んで後進諸国への協力をなし得る状態に達している。防衛の面においていつまでも他国の力に頼る段階は、もう過ぎようとしているのではないか。私はそう思うようになったのである。・・・立派な独立国、しかも経済的にも、技術的にも、はたまた学問的にも、世界の一流に伍するに至った独立国日本が、自己防衛の面において、いつまでも他国依存の改まらないことは、いわば国家として未熟の状態にあるといってよい。国際外交の面においても、決して尊重される所以ではないのである」。
さらに吉田は、
「今日、一流先進国として列国に伍し且つ尊重されるためには、自国の経済力を以て後進諸国民の生活水準の向上に寄与する半面、危険なる侵略勢力の加害から、人類の自由を守る努力に貢献するのでなければならぬ。そうした意味においては、今日までの日本の如く、国際連合の一員としてその恵沢を期待しながら、国際連合の平和維持の機構に対しては、手を藉そうとしないなどは、身勝手の沙汰、いわゆる虫のよい行き方とせねばなるまい。決して国際社会に重きをなす所以ではないのである」
と述べ、このような「国策の在り方に関しては、私自身自らの責任を決して回避するものではない。・・・むしろ責任を痛感するものである。それだけにまた日本内外の環境条件の変化に応じて、国策の方向を改める必要をも痛感する。日本は政府当路も、国民も、国土防衛というこの至上の問題について、すべからく古い考え方を清算し、新しい観点に立って再思三考すべきであろうと思う」
と、日本外交の方向転換を訴えたのである。
外交評論家の加瀬俊一は、最晩年の吉田の防衛問題に対する考え方を明かしている。
「亡くなる2、3年前くらいから再軍備問題については考えがまったく変わってきました。それは当時は食えないから、食えないままで鉄砲かついだらよろめいてしまうではないかという意味で反対した。今日のように日本の国力が隆々として復興して、世界でも何番目の実力国といわれるようになったならば、日本がどうして自分の国の国防を他国にまかしていてよいものであろうかという気持ちにはっきりとなっていました。
ある時、日米協会の晩餐会か午餐会のときに、吉田さんは協会会長でしたから演説をされた(が・・・・)途中でやめて、『もうみなさん、日本も核武装の一つもするべきときではありませんか』といったので、その翌日の新聞は大変なことで、吉田反動という非難で埋まりましたが、これなどはそういった批評が加えられることは百も承知の上で、問題提起をしているのですね。」
平和主義が信用回復の手段であった時代は過ぎ去り、今の日本が国際社会で信用を勝ち得るには、政治・軍事面を含めた全般的な貢献が求められている。この吉田晩年の認識を彼の弟子たちが(共有しつつも)実際の政策において活かすことはなかった。それどころか、吉田ドクトリンなるものが吉田の遺訓実現を逆に阻害することにさえなった。吉田が自らの路線に悔悟の念を抱いた、まさにそのような時期に吉田ドクトリン神話が誕生し、彼の路線は戦後保守の普遍的外交方針としての正当性を獲得し、日本の方向転換を妨げたのは、まさに歴史の皮肉というほかない。

