1.あるチベット人の死
今年2月、インド東部・西ベンガル州カリンポンで一人のチベット人が亡くなった。名をギャロ・トゥンドゥプという。多くの日本人にとっては聞きなれない名前だが、この人物はインドに亡命中のチベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世の兄である。1991年から93年にかけて、インド北部ダラムサラにあるチベット亡命政府議会の議長も務めていた。
ギャロ・トゥンドゥプは単にダライ・ラマ14世の実兄というだけではない。弟とチベット政府を守るため、中国や米国、インドなどと水面下の交渉役を果たすとともに、ダライ・ラマ14世がラサから秘かに抜け出しインドへの亡命を果たす命がけの逃避行を成功させるためにも奔走した(図表1参照)。

弟とは対照的に、ギャロ・トゥンドゥプは終始黒子役に徹した。聖職者ダライ・ラマ14世には相応しくない話だとして、大国との駆け引きや諜報機関との連携など闇の仕事の詳細を弟に語ることは終生無かったが、中国の迫害からダライ・ラマ14世とチベット仏教を守り続けた影の功労者である。彼の人生はダライ・ラマ14世とチベットがこれまで辿ってきた苛烈な軌跡とオーバーラップしている。
ではその苛烈な軌跡とはどのようなものであったか、そして現在、チベットの亡命政府如何なる課題や危機に直面しているのか。歴史を振り返りつつ眺めてみたい。
2.ダライ・ラマ14世の即位
中国南西部、崑崙山脈やヒマラヤ山脈に囲まれたチベット高原に吐蕃と呼ばれた統一国家が成立したのは7世紀の半ば。その後、イスラム教やヒンズー教に押され消えつつあったインド仏教を受け継ぎ、8世紀には仏教を国教化する。
だが9世紀半ばに吐蕃は分裂、衰退し、勢力を伸ばしたモンゴルの影響下に入る。そして13世紀に元朝がチベットを傘下に収めて以降、中国は「チベットは中国の一部である」と主張するようになる。清朝はチベットを藩部と位置づけ、自治を認めて間接的に統治した。
その後19世紀末には、清や英国、ロシア帝国の勢力争いの渦中に巻き込まれ、1904年には英国、1910年には清の軍隊がチベットに侵攻している。辛亥革命によって1912年に清が滅亡するや、ダライ・ラマ13世はチベットの独立を宣言、チベット西南部(西蔵)を実効支配するとともに、チベットが中国とは別個の国家であることの確認や、雍正帝に奪取されて以来清に分属せしめられていた東部の回復を目指して中華民国と対決した。
チベットは祭政一致の国であり、ダライ・ラマはチベット仏教の最高宗教指導者であると同時に政治権力も併せ持っている。チベット仏教で「ダライ・ラマ」は観音菩薩の生まれ変わりとされ、生きている仏(活仏(かつぶつ))と位置付けられている。
ダライ・ラマ14世は、1935年7月6日、チベット東北部のアムド地方(現在の青海省)の小さな村の農家に生まれた。両親は彼をラモ・ドンドゥプと名づけた。1939年、4歳になる前に先代ダライ・ラマ13世の死去に伴いダライ・ラマ14世に認定され、1940年に法王に即位している。
3.平和解放協定締結と中国のチベット併合
その後、1949年10月1日に中国共産党が中華人民共和国を建国するや、その6週間後に人民解放軍がチベット東部への侵攻を開始した。毛沢東は台湾の攻略を先にと考えていたが、ソ連のスターリンがチベット制圧を強く求めたことが背景にあった。翌50年3月には人民解放軍が国境を越えてチベット領内に進出、10月には中国がチベットとの境界と主張するラサの東方100kmの位置まで進出し、東チベットを制圧する。
翌1951年、人民解放軍は東トルキスタン(新疆)、青海、チャムドの3方面からラサに進出、さらに軍事力の威嚇の下、ダライ・ラマ14世が北京に派遣した使節団に17か条の平和解放協定締結を強要した。この施設団はチベットからの人民解放軍撤退の交渉権限しか付与されていなかったが、中国は彼らにチベット政府との連絡を許さず、しかも偽の印璽を作り強引に協定書に署名押印させたのである。平和な宗教国家として僅か8500人の国境警備隊しか持たないチベットは、中国の軍事圧力に屈するしかなかった。
この協定は、チベット中央政府(ガンデンポタン)を「チベット(西蔵)地方政府」と規定し、チベットを中華人民共和国に「復帰させる」ことと定めていた。しかも中国政府のいう「西蔵」にはチベットの東部は含まれていなかった。米国はダライ・ラマ14世に対し、亡命して協定の無効を訴えるよう呼びかけたが、多くの僧侶の希望に従いダライ・ラマ14世は51年9月、避難先のヤトゥンからラサに戻った。その直後、3千人の人民解放軍がラサに進駐し、事実上チベット全土を掌握する。
4.チベット動乱
17か条の平和解放協定を締結、チベットの自治、ダライ・ラマとパンチェン・ラマの地位と職権の維持、チベットの宗教・風俗の保護、ラサへの人民解放軍の駐屯などを条件としてチベットは中華人民共和国に併合された。だが、中国は平和解放協定の撤回と人民解放軍の撤退を求めるチベット人の強い抵抗にあう。
そこで中国はチベット人の一部を取り込み、住民からの武器回収に当たらせた。また「闘争集会」という名の会合を開かせ、中国の統治に不満を持つ者を私的裁判にかけた。なかでも名家の人間には罪の自白を強要し、処刑も行った。他のチベット人は闘争集会にかけられている被告を罵倒しなければならず、それを拒否した者は次の闘争集会にかけられた。 当時、中国は中央チベットと中国を結ぶ道路の建設を進めていたが、工事に従事させられたチベット人労働者には賃金を支払わず強制労働を強いたうえ、闘争集会で彼らに共産主義教育を受けさせた。
一方、漢人の東チベットへの入植が進められ、1954年には農業改革、55年には土地共有化の促進が民主改革として着手された。それは共産主義思想に基づいて領主や寺院や富裕層から土地を取り上げ共産党が没収するものであった。チベットの元貴族や高僧が人民裁判にかけられ、公開処刑で銃殺された。中国は1950年以前のチベットの状況を未開で不平等な奴隷制社会と位置づけ、中国共産党によって当該地域が発展するようになったと主張する。
平和解放協定では、チベット政府の独立性を否定するが、解放後も現行制度の継続や高度な民族自治を保障していた。しかし、中国は協定を無視し、社会主義化政策を推し進めていった。このような中国の支配に対し、チベット東部に住むチベット人の多くは強く反発し、54年頃から大規模な反乱や武装蜂起が相次いで勃発(チベット動乱)。チュシ・ガンドゥクは統一抗中組織を結成し、人民解放軍に対するゲリラ攻撃を開始、米国のCIA(中央情報機関)から訓練や資金、武器の供給を受けるようになる。
チベットの抵抗運動を中国は武力で徹底的に弾圧していった。中国は「チベットは元来中国領土の一部であり、封建農奴社会を解放した」(西蔵和平解放)と主張するが、チベット政府(カンデンポタン)は「チベットは独立国であり、侵略を受け平和な暮らしが破壊された」と反論する。中国はチベットを併合した後、今日に至るまで一貫して独立運動や亡命政府を分離主義として強く非難し、自らの侵攻や併合および虐殺を正当化している。
5.ダライ・ラマのチベット脱出と亡命政府の成立
チベット動乱が首都ラサに波及した1959年3月1日、当時23歳だったダライ・ラマ14世のもとに、ラサ郊外にある人民解放軍司令部で観劇をしないかという珍しい誘いが中国側から届いた。ダライ・ラマ14世は当初会合の延期を申し出たが、最終的には3月10日に日付が設定された。
3月9日、人民解放軍の将校らはダライ・ラマ14世が観劇の際に武装警備隊を同行させないこと、宮殿から駐屯地に移動する際にも公式な儀式を行わないことをダライ・ラマの側近に強く要求した。この話を知ったラサのチベット人たちは、法王ダライ・ラマ14世を拉致するための罠ではないかと懸念した。東部チベットでは、高僧が人民解放軍の司令官からパーティに招待され、殺害、あるいは、投獄されるケースが相次いでいたからだ。彼らは法王を人民解放軍の手に渡すまいと決意する。
3月10日、約30万人のチベット人が、法王が連行されることを防ぐため、ダライ・ラマ14世の夏期の離宮であるノルブリンカ宮殿を取り囲んだ(図表2参照)。これが、中国人民解放軍のチベット領内への駐留に対する抗議行動へと発展。ラサの街頭に集まった抗議者たちはチベットの独立を宣言し、ラサの通りにバリケードを築き人民解放軍と対立。抵抗運動の中心は、社会主義化の進行を恐れたチベット仏教の僧侶や貴族らであった。

その間、人民解放軍の大砲はダライ・ラマ14世のいるノルブリンカを射程に収めていた。3月17日、ノルブリンカ宮殿の近くに2発の砲弾が着弾、このまま宮殿に留まり続ければ人民解放軍と群衆の対立がさらに激しくなると考えたダライ・ラマ14世は亡命することを決意。その夜、一兵士に変装し、秘かに宮殿を脱出する(図表3参照)。

法王の脱出に気づかぬまま人民解放軍は、3月19日午後、宮殿に向け一斉に砲撃を開始した。3日間で1万から1万5千人のチベット人が殺害された。宮殿の内外が死体で埋め尽くされる中、人民解放軍は法王の死体を探し回ったという。さらに人民解放軍は反乱を鎮圧するためチベット全土に戒厳令を敷き、23日までにラサだけで4千人を逮捕した。その後10月までにラサおよびその周辺地域で8万7千人のチベット人が殺害されたという。
3月28日、中国は周恩来首相の名で、チベット政府の解散とその職権を「チベット自治区準備委員会」に移すと発表した。そして不在のダライ・ラマ14世に代わりパンチェン・ラマ10世を準備委員会主任代行に任命した。パンチェン・ラマは法王に次ぐ宗教的権威を持ち、ダライ・ラマを助ける立場にあるが、パンチェン・ラマ10世も中国の傀儡にはならなかった。
1964年にラサで催された大祈願祭で「法王は必ずやチベットに復帰されるであろう。ダライ・ラマ法王万歳!」と演説。これが中国共産党の激怒を買い、自己批判を強要されたほか、文化大革命では10年も投獄され、出獄が許された後も1982年まで北京で軟禁された。そして1989年には中国政府の用意した演説原稿を無視し「チベットは過去30年間、その発展のために記録した進歩よりも大きな代価を支払った。二度と繰り返してはならない」という歴史的な声明を発表し、そのわずか4日後、謎めいた不慮の死を遂げている。
一方、法王の一行は兵士らに守られ、徒歩でラサから道なき山岳地帯を南南東に進み、ヒマラヤの連峰を横断してインドへ向かった。途中の村で、中国側がチベット政府を解散させたと知ったダライ・ラマ14世は臨時政府を立ち上げ、その宣言文をチベット全土に送った。
2週間かけて一行は無事インドに到着、インドのネルー首相はダライ・ラマ14世への支持を表明し中国を批判した。そのためともに平和五原則を掲げていたインドと中国の関係は一挙に悪化し、両国の対立は1962年の中印国境紛争へとエスカレートしていく。ダライ・ラマ14世は、インドのテズプルに到着後まもない4月18日に声明を出し、17か条協定は強迫下で調印されたこと、中国政府が故意に協定の条項を破っていたことを明らかにした。この日を境にダライ・ラマ14世は17か条協定の無効を主張し、チベットの独立回復に向けて取り組んでいくと明言するようになる。法王の亡命後、約8万人のチベット人がダライ・ラマ14世を慕い、同じようにヒマラヤを越えてチベットからインドへと逃れている。
6.ダライ・ラマ亡命を背後で支援した米国
チベット動乱やダライ・ラマ14世のインド亡命事件の背後では、中国の影響力拡大を阻もうとする米国情報機関の動きがあった。1950年に中国人民解放軍がチベットに進駐するや、チベット人の中国に対する抵抗運動が始まったが、この時ダライ・ラマ14世の兄ギャロ・トゥンドゥプはインドに移り、インド政府や米政府と接触、チベットへの支援を求めた。また長兄のタクツェル・リンポチェは日本を頼って来日し、東京の築地本願寺に滞在していた。
ギャロ・トゥンドゥプらと接触した米国のCIAは、チベット人をゲリラ兵として訓練し中国の人民解放軍と戦うことを提案する。ギャロ・トゥンドゥプがゲリラ志望者を募ると、千人の募集枠に数千人の応募があった。彼らはサイパン島やコロラド州のキャンプヘイル、沖縄の嘉手納基地などでゲリラとしての訓練を受けたあと、最新式の武器と通信機、大量の資金を持ってチベットに空輸され、パラシュート降下して人民解放軍との戦いに参加した(セイントサーカス作戦)。CIAはゲリラ兵だけでなく支援物資や軍需品、CIAの工作員もチベットに空輸(セイントバーナム作戦)、さらに反中のプロパガンダ工作(セイントベイリー作戦)も行っている。
その後、1959年にダライ・ラマ14世一行がラサを脱出し亡命の為インドに向かった際には、米軍の武器と通信機を持ったチベット人ゲリラが途中から合流、必要な資金も提供するなど支援を行った。CIAの支援を受けたチベットゲリラは法王のインド脱出後もチベットで中国との戦いを続けている。
ダライ・ラマ14世が無事インドに辿りつくや、ギャロ・トウンドウプはネルー首相はじめインド政府との連絡係として奔走、亡命政府樹立の重要な役割を担った。後にギャロ・トウンドウプは「兄の脱出成功に果たした役割が、自身の長い人生における最大の功績かもしれない」と語っている。
冷戦下、朝鮮戦争で中国と戦った米国は、東アジアへの中国や共産主義の影響力拡大を阻むため、中国の背後に当たるチベットでの反中運動を積極的に支援していたのだ。またダライ・ラマ14世のインド亡命や亡命政府の樹立を手助けすることで、米国は中国とインドの間に決定的な誤解と不和を作り出すことにも成功した。
だがその後、ニクソン政権が誕生し米中の和解が進むと、CIAのチベット支援は取り止めとなり、1974年までにゲリラ兵訓練プログラムも終了する。CIAの軍事支援を失ったチベットゲリラは次第に劣勢となり、ネパールに追い詰められていった。中国がネパール政府に手を回したため、チベットゲリラは、人民解放軍だけでなくネパール軍にも包囲された。ダライ・ラマ14 世は特使を派遣してゲリラに抵抗を止めるように説得。ネパール軍に投降したゲリラたちは逮捕拘束され、ある者は降伏を拒み自決して果てた。米国の支援停止でチベット人の対中武力抵抗は大きく挫折する。
米国の支援を失った亡命政府は中国との関係改善を視野に入れるようになり、ギャロ・トゥンドゥプが法王ダライ・ラマ14世の非公式特使として幾度も訪中し、中国共産党政権との交渉役を担った。1979年、彼との会談に応じた鄧小平は「独立以外はすべて交渉可能だ。すべては議論できる」と答えたことから、ダライ・ラマの公式特使と中国指導部の間で一連の正式な交渉が行われ、2010年に中断するまで交渉は続いた。
7.亡命政府VS中国政府:パンチェン・ラマ11世選定問題
中国はチベットの分離独立運動を抑えるために、1965年にチベットを自治区とした(図表4参照)。中国に5つある自治区の一つだが、自治区はそれぞれ自治行政政府を持ち、省と同等の自治権を有するが、あくまで中国国家の枠内での自治体に過ぎず、国家としての独立を認めていない(図表5参照)。

だがダライ・ラマ14世のインド亡命は、彼の国際的な影響力を高めることになった。非暴力の訴えが評価され、ダライ・ラマ14世は1989年にノーベル平和賞を受賞。チベット国内での直接的な政治的影響力は失ったものの、世界的な人権と平和の象徴となり、中国によるチベット弾圧やチベット問題への関心を世界に呼び起こした。中国が彼の存在を否定し続けるのは、そのカリスマがチベット人の団結を促し、中国の支配を脅かすことを恐れているからである。
チベットの独立問題が続く中、1989年にパンチェン・ラマ10世が死去し、11世の選定を巡っても亡命政府と中国の対立が起きた。チベット仏教では、高位の僧は代々生まれ変わる(転生)と信じられている。最高位のダライ・ラマは観音菩薩、それに次ぐパンチェン・ラマは阿弥陀仏の化身として崇拝されている。そして17世紀以来、ダライ・ラマとパンチェン・ラマは、一方が死亡した場合、もう一方が転生者を認定する習わしになっており、死亡から49日以内に受胎した赤ん坊の中から何年もかけて適性等を見極め占いも駆使して後継者を選び出してきた。
チベット亡命政府にとっては、自治区内での影響力を維持するためには自らがパンチェン・ラマ11世の承認を行う必要がある。一方チベットの実質統治を続ける中国も、中国人との同化政策や経済開発を進める上で、中国の息のかかったパンチェン・ラマを擁立する必要があった。ダライ・ラマに対抗する勢力としてパンチェン・ラマを利用し、互いを牽制させてチベットの支配体制を固めようとするのが従来からの中国の手法でもあった。
1995年5月14日、ダライ・ラマ14世はチベットに住む当時6歳だったゲンドゥン・チューキ・ニマをパンチェン・ラマの転生者(生まれ変わり)と認定した(図表6参照)。だがニマはその3日後に失踪する。そして同年11月、中国はギェンツェン・ノルブを独自に転生者と認定した(図表7参照)。当初、中国当局はニマ失踪への関与を否定していたが、翌年5月には「保護目的」で連行、軟禁したことを認めた。以後、中国はニマとの面会を現在まで一度も許可せず、彼の詳しい消息は不明なままだ。中国政府は2020年、「少年は大学を卒業し就職している」と発表したが、詳細は「本人と家族が望んでいない」として明らかにしていない。

人権団体はニマが「世界最年少の政治犯」になったとして、中国政府を非難している。欧州議会はチベットに対する中国の人権侵害に懸念を表明する決議や行方不明となっているパンチェン・ラマ11世の即時釈放を求める決議を採択している。2020年5月、ポンペオ米国務長官は、ニマの居場所を「直ちに」公表するよう中国に要求。チベット亡命政府もパンチェン・ラマであるニマの「健康状態と居場所」を公表するよう中国に求めており、2025年5月にも米国務省はニマの釈放を求める声明を発表している。
8.チベットを隔離・同化政策を進める中国
1980年代に入り鄧小平政権が改革・開放政策を導入したことから、チベットでも経済の自由化が進んだ。だが中国人の経済的進出が活発となり、現地のチベット人は逆に経済的に不利な立場に置かれ、不満が高まることになった。1989年にはラサで暴動が起こり、戒厳令が出される事態となった。鄧小平政権は政治・言論の自由を認めず弾圧を強化した。
2008年には北京オリンピックを控え、世界の注目が中国に集まったが、その中で3月に再びチベットで大きな暴動が起きた。3月14日、区都ラサで、中国の統治や信仰の自由への抑圧に不満を持つ僧侶や市民が政府機関などに放火、破壊した。騒乱は四川、甘粛省などのチベット族居住地域に拡大し、当局の鎮圧には軍も動員された。チベット亡命政府によると、死者は200人以上に上ったという(図表8参照)。このチベット暴動の背景には、2006年に北京・ラサを結ぶ高速鉄道が開通し、チベットに入植する中国人が急増し、チベット人の土地や資源、労働機会を漢民族に奪われたためチベット人の不満と反発が一段と強まったことが挙げられる。

この間、2002年から2010年の間に約7回にわたりチベット亡命政府と中国政府の公式な対話が行われた。亡命政府は完全な分離独立問題は留保して自治権の拡大を要求したが、中国政府は一切の妥協を拒否した。そのため強硬派のチベット青年会議はダライ・ラマ14世の自治権拡大路線を批判し、完全独立を勝ち取るため中国との対決姿勢を強めていく。チベット青年会議は1970年に設立された亡命チベット人社会の民間組織で、ダライ・ラマ14世と共に亡命したチベット族貴族の子孫を中心に組織された。現在のメンバーは3万人程で全世界 に約70カ所の支部を持つ。中国はチベット青年会議をアルカイダなどと同様の過激派勢力と見做し、排除摘発に動いている(図表9参照)。

中国で暮らすチベット族は約700万人(うちチベット自治区は320万人強)で、中国はチベット族が多数居住するチベット自治区(区都ラサ)や青海省などで交通インフラや観光業の整備を進めている。ダライ・ラマ14世がインドに亡命し、またチベット動乱を鎮圧した中国がチベットの完全な統治を宣言してから60年を迎えた2019年、中国は「チベット民主改革60年」の白書を発表し、「共産党の指導の下、チベットの発展は新時代に入った」と宣言。「信仰の自由は保障」され、「住民の生活満足度は97%を超えた」と自賛した。同年行われた全国人民代表大会で、チベット自治区トップで漢族の呉英傑・党委員会書記は「チベット人民たちは共産党がもたらした幸せな生活に感謝している」と強弁した。
また2023年11月、中国は過去10年にわたるチベット自治区の経済・社会などの発展ぶりをまとめた白書を公表した。中央政府の積極的な財政支援で域内総生産は2012〜22年の間、年平均8.6%増と1.28倍に増え、15年以降は住民1人当たりの可処分所得が全国1位になったとアピールし、共産党政権によるチベット統治を正当化した。
たしかに「中国の経済発展のおかげで暮らしが良くなった」との声も聞かれるが、一方で、チベット族の海外旅行や移動は厳しく制限されており、外部の者との会話も認められていない。寺院や街のあちこちには無数の監視カメラが設置されており、徹底した監視と抑圧の下にチベット族は置かれている。
中国はチベット自治区の民生向上をアピールする一方、漢民族との「同化政策」を推し進めている。国連人権理事会の23年の報告によれば、チベット族の子ども100万人が強制的に寄宿学校に入れられ、寄宿学校では中国語のみの授業が大半で、チベット語や文化の教育が排除されているという。国連人権高等弁務官は24年3月、人権侵害の是正を勧告している。中国政府が23年に公表したチベット自治区に関する白書の英語版では、自治区の地名をこれまでの「チベット(TIBET)」ではなく、チベットの中国語「西蔵」の発音に当たる「シーザン(XIZANG)」に改めている。24年6月に同省西寧市で民族学校の寄宿舎を視察した習国家主席は、政治思想の授業を参観した上で「中華民族共同体意識を幼い頃から子供たちの心に植え付ける必要がある」と「同化」政策の重要性を強調した。
25年3月、チベット亡命政府は、中国指導部がチベット人のアイデンティティーと基本的人権を奪う政策を進めていると非難する声明を出した。亡命政府はチベット人が政治的に「下層民」として扱われ監視下にあるほか、チベット人の子どもたちが中国語と共産主義思想を学ぶことを強制されていると主張。中国共産党政権は「チベット人と中国人の歴史的友好関係に取り返しのつかない損害を与え続けている」と非難した。
チベット亡命政府で行政を担うペンパ・ツェリン首相によれば、中国は、チベットを「楽園」とうたってきたにもかかわらず、2009〜22年に157人のチベット人が焼身自殺を図っている。その多くは17〜34歳の若者。中国当局の統制が強まり、チベット仏教への弾圧や伝統的なチベット文字の使用を禁止するなど自由を奪われチベット人としてのアイデンティティーが破壊されていることが自殺者増加の大きな原因という。
チベット仏教の教義よりも共産党の指導を優先する「宗教の中国化」も進められ、チベット族への統制は強まっている。ダライ・ラマ14世をチベットの独立をたくらむ「分裂主義者」と激しく非難。チベット仏教寺院内でダライ・ラマ14世の写真は掲示出来ず、中國青海省の省都西寧市郊外の農村地域にあるダライ・ラマ14世の生家も、かっては観光客が訪れることが出来たが、今では「聖地」化を警戒してか立ち入りが厳しく規制されている。
今年2月、ダライ・ラマ14世の兄ギャロ・トゥンドゥプ氏が亡くなった際、中国外務省の郭嘉昆副報道局長は記者会見で、「政治的な主張や行為を反省し、誤りを正す」ようダライ・ラマ14世に求めた。また死ぬ前にチベットに戻りたいとの意向をダライ・ラマ14世が示していることを踏まえ、そのためには「祖国分裂活動をやめ、チベットと台湾が中国の一部であり、その唯一の合法的な政府は中華人民共和国であることを認める必要があると述べた。
現在、中国外にいるチベット人は約13万人で、そのうち10万人弱がチベット亡命政府があるインド北部ダラムサラで暮らしている。既に孫やひ孫の世代も誕生しており、チベットを知らないチベット人は確実に増加している。以前はチベットからヒマラヤを渡りネパールを経てインドに亡命するチベット難民は毎年2千人以上いたが、 2008年の北京オリンピック以来、中国がチベット自治区とネパール国境の警備を厳しくしたことやネパールが中国の顔色をうかがうようになり、亡命者の数は減少している。
9.ダライ・ラマ14世の後継を巡る駆け引き
チベット人の多くは、ダライ・ラマ14世の死去を議論することは不吉だとして避けたがるが、一方、中国が自分たちに都合のいいダライ・ラマを勝手に擁立しチベットの統治に利用するのではないかとの懸念も強い。実際、中国は亡命政府側が認定したパンチェン・ラマの生まれ変わりを連れ去り、代わりに自分たちに都合のいい人物を後継者として擁立した悪しき過去がある。この問題についてダライ・ラマ14世自身は2011年の声明で、90歳くらいになった時に高僧や一般のチベット人らと相談し、制度を継続するか決めるとしていた。また制度の廃止に言及したこともあった。
その後、25年3月に発売した新著『声なき者のためへの声 わが国土と国民のための70年以上に及ぶ中国との闘争』の中で、「新しいダライ・ラマは伝統的な使命、すなわち普遍的な慈悲心の代弁者、チベット仏教の精神的指導者、チベット人の願望を体現するチベットの象徴となることが継続されるよう、自由な世界に生まれるだろう」と書き、後継者は中国以外で生まれるとの見解を示した。それまではチベット以外、おそらく自身の亡命先のインドで生まれ変わる可能性があると述べるに留めており、中国以外の「自由世界」で誕生すると表明したのはこれが初めてであった。
この声明に対し中国外務省の毛寧報道局長は「ダライ・ラマ14世は宗教の衣をまとって反中分裂活動に従事する政治亡命者で、チベット人民を代表する権利はない」と反発。さらに中国は25年3月末に「新時代におけるチベットの人権事業の発展と進歩に関する白書」を発表。「中央政府は多額の財政や物資、人的資源を投入してチベットの経済、社会、文化の発展を促進した」と述べ。これは「中国共産党の指導力によるものだ」と自賛した。
さらに6月、中国が認定したパンチェン・ラマ11世が習近平国家主席に面会、習近平はチベット仏教の愛国愛教の伝統を継承し、中華民族共同体意識の強化、宗教の中国化の促進を要望した。パンチェン・ラマを取り込むことでチベットの東西全体を取り込むことが中国の狙いだ。こうしてダライ・ラマ14世の後継者を巡る亡命政府と中国の駆け引きは次第に活発化していった。
10.ダライ・ラマ14世、「輪廻転生」制度の継続を表明
ダライ・ラマ14世は25年7月6日に90歳の誕生日を迎えたが、それを前にした7月2日、当日開かれた高僧らの会合にビデオメッセージを寄せる形で、自身の死去後に生まれ変わりを探す600年の伝統を持つ「輪廻(りんね)転生」制度を今後も継続すると表明した(図表10参照)。中国がダライ・ラマ後継者の選定に関与する意向を示しており、これをけん制するため14世が生前に後継者を指名する可能性も取り沙汰されていた。しかしダライ・ラマ14世は声明で「チベット亡命政府議会の議員や中国を含むアジアの仏教徒たちから、継続を求める要望が寄せられた」ことを挙げ、変更しない考えを明らかにした。制度の変更がかえって中国に介入の口実を与える危険性もあった。

さらにダライ・ラマ14世は次期ダライ・ラマの選出について「転生の認定とその責任を担うのはダライ・ラマの法王庁だけであ」り「他者が干渉する権限はない」ことを改めて声明し中国の干渉を否定した。3月刊行の自伝で「新たなダライ・ラマは「自由世界」から生まれる」と断言しており、15世が中国国内から選ばれる可能性はない。
これに対し中国外務省の毛寧報道局長は同じ7月2日の会見で、ダライ・ラマの転生は「中国政府に承認されなければならない」と強く反発している。中国は2007年に制定した「活仏転生管理規則」で、「いかなる域外組織や個人の干渉も受けない」と定め、転生者を申請できるのは「法に基づいて登記されたチベット仏教の活動場所」と規定しており、将来チベット側が選定した15世をこの国内法に則って承認せず、独自に選定するものと思われる。そうなれば2人のダライ・ラマ15世が並び立つ恐れがある。
中国は自らが選定した15 世を「民族融和」のシンボルとして利用することでチベットと亡命政府の分断を図るであろう。だが中国が認定したパンチェン・ラマ11世が有名無実化しているように、中国が独自のダライ・ラマを認定しても亡命政府や世界に強い影響力を与えることは難しい。
声明発表から4日後の7月6日、ダライ・ラマ14世の90歳の誕生日を祝う式典がダラムサラで行われた。式典にはインド政府の高官や米政府の外交団などのほか、俳優のリチャード・ギアも出席し「ダライ・ラマは世界の宝であり地上の最も素晴らしい存在だ」と祝辞を述べた。また米国のクリントン、ブッシュ、オバマの元大統領がビデオメッセージを寄せたほか、台湾の頼清徳総統のメッセージも読み上げられた。
11.米中両政権の対応
米政府は中国の介入に苦しむチベットを密かに支援し、ダライ・ラマ14世のインド亡命も手助け、亡命政府への支援も継続した。しかし米中の関係改善に伴い支援は打ち切られた。米国はチベットの独立やチベット仏教の存続よりも、国際政治の駆け引きのいわば駒としてチベットを利用したと捉えることもできる。
やがて冷戦が終了し、一時は同盟国かと見間違う程に米中は緊密な関係に入るが、中国の大国化やその軍事的脅威の増大に伴い、2010年代以降、再び米中関係は悪化に向かっている。それに連動して米国の人権外交も活発化し、再びチベットに対する中国の同化・抑圧政策への非難を強めるようになった。
では現下のトランプ政権は、亡命政府への支援を惜しまないのだろうか。第1次トランプ政権では、チベット問題を担当する特別調整官がなかなか指名されず、予算も減額された。その後、政権末期の法王の2020年12月、法王の後継者選びは純粋に信仰に関する行為であり、ダライ・ラマ14世や信者たちによって決められるべきだとし、中国政府が介入した場合は、関係者に制裁を加えることも盛り込んだ「チベット人権法」を成立させている。
24年7月にはバイデン政権が「チベット・中国紛争解決促進法」を成立させた。同法は米国がチベットに関する政策を強化し、中国政府の主張に対抗することを目的とするもので、チベットが古代から中国の一部であったという中国政府の主張を否定し、チベットの地位を巡る紛争が未解決であるとする米国の立場を明らかにしている。 チベットの歴史や人々に関する「偽情報」に対抗するための資金を振り向けることも目的としている。さらに同法は米国の政策として「チベット」が中国政府が定義するチベット自治区だけでなく、甘粛省、青海省、四川省、雲南省のチベット地域も含むことを明確にしている。
最近では、ダライ・ラマ14世の誕生日前日の7月5日、ルビオ米国務長官が誕生日を祝福する声明を発表し、「米国は引き続きチベットの人々の人権や自由を尊重する取り組みに強く関与する」と強調するとともに、チベットの人々が「宗教指導者を干渉されることなく自由に選択し崇拝することを支援する」として、後継者問題で対立している中国政府を牽制した。
もっとも二期目のトランプ政権は中国との「取引」を重視しており、トランプ大統領がどこまでチベット問題に重きを置いているかは疑問だ。また米国は、対外援助を担う国際開発局(USAID)を廃止し、亡命政府への資金援助も停止させている。その後亡命政府のペンパ・ツェリン首相は、700万ドル(約10億円)の支援が復活したと明らかにしたが、米中関係の推移如何で米国の対チベット政策も変動することが予想される。ダライ・ラマ14世も2019年にトランプ氏について「倫理的な原則を欠いている」と述べ、「米国第一」の姿勢を批判。こうした事情も米国との関係に影響する可能性がある。
一方、中国の動きを見ると、8月20日に習近平国家主席がチベット自治区ラサを訪れ、チベット自治区成立(1965年9月1日)60年を祝う行事に出席した。習氏が国家主席としてチベットを訪問するのは2021年7月の訪問以来2度目だが、中国の最高指導者が自治区の祝賀行事に出席するのはこれが初めて(図表11参照)。

習主席は、自治区の幹部らを集めた会議で「経済発展において世界が注目する重大な成果を上げた」と強調。 ダライ・ラマ14世の後継者問題を念頭に、信仰よりも中国共産党への忠誠を優先させる「宗教の中国化」の重要性を改めて強調するとともに、「チベットを統治するうえで政治的安定と民族団結を維持することが重要だ」と述べた。また式典では序列4位の王滬寧政治局常務委員が演説し、「チベットの生産総額は1965年の3億2700万元(約67億520万円)から2024年には2765億元へと154倍に増加した」と経済成長を自賛したうえで「チベット問題は中国の内政であり、いかなる外部の干渉も容認できず、祖国を分裂させ西蔵(中国のチベット名称)の安定を損なおうとするいかなる試みも失敗するだろう」と強調した。
中国のチベット政策が強権的だと国際社会から強く批判される中、トップ自ら行事に出席することで自治区の経済発展と共産党統治の正統性をアピールする必要が中国にはあった。そして次のチベット仏教の最高指導者も、あくまでチベットを支配する中国が認定する姿勢を改めて示すことで、輪廻転生制度の継続を表明したダライ・ラマ14世を牽制、その影響力を削ぐ狙いも込められていた。チベットはいまもなお中国や米国など大国の思惑によって翻弄される宿命を背負っているのだ。
12.冷たい日本政府の対応
国家レベルではなく市民レベルの動きを見ると、中国の自治区になったチベットの独立と自由を求める人々によって1987年に設立されたNGO団体「自由チベット(自由チベットキャンペーン)」が亡命政府のあるインドをはじめ世界各国で中国によるチベット人への弾圧や、チベット人の人権、チベット文化の破壊に対する抗議活動や社会運動を積極的に展開している(図表12参照)。

日本でも、天台宗や日蓮宗など仏教団体の一部が中国のチベット政策に抗議している。しかし、米政府以上にチベット及びダライ・ラマ14世に対し冷たいのが日本政府の姿勢だ。宗教への弾圧やチベット人の意思を無視した漢族との同化、徹底した管理抑圧の政策などチベットに対する人権を無視した中国の姿勢に対し世界中から非難が起きている。しかし、日本政府は中国政府への刺激を恐れてか、この問題から意図的に目を逸らしているのが現状だ。米英仏独など主要国の指導者は、中国からの抗議を受けながらもダライ・ラマ14世と面会している。一方、ダライ・ラマ14世はこれまで30回以上も日本を訪れているが、首相との面会は一度も実現していない。
日本で暮らす亡命チベット人は約100人。ダライ・ラマ14世が健在なうちにチベットに戻ることが出来るよう日本政府の支援を期待している。2025年6月チベットの人権や支援策を話し合う国際会議「世界国会議員会議」が東京で開かれ、中国によるチベット人の人権侵害を非難し、チベット政府への精神的・物質的支援などを求める「東京宣言」が採択された。
平素アジアの民主大国を自認し、また民主主義や人権など普遍的価値の実現をめざすと幾度も日本政府は国際社会の場で繰り返しアピールしている。それならば、同じ仏教を信仰し、また親日的なチベットの人たちのために日本政府は支援を躊躇することなく、より積極な行動に出るべきではなかろうか。
(2025年9月30日、平和政策研究所上席研究員 西川佳秀)



