はじめに
昨年(2024年)後半から、いわゆる「103万円の壁」をめぐる議論が国民的な関心事になっている。
きっかけは、「国民の手取りを増やす」をスローガンに、2024年秋の総選挙を戦った国民民主党が、国民の支持とくに若い世代の支持を得て、議席を選挙前の4倍に増やしたことだ。一方、この総選挙では、与党の自民党と公明党は、両党の議席数を合わせても衆議院の過半数に満たないという結果になった。石破内閣は「少数与党」のもとに国会運営をすることを余儀なくされることになった。
政府は、総選挙後に開催された臨時国会において、経済対策のための補正予算案を年内に成立させなければならなくなった。少数与党であるために、野党の一部の支持を得なければ、国会での成立が難しい。そこで、国民民主党の協力をあおぐという戦術をとることになった。国民民主党からすれば、総選挙のスローガンである「国民の手取りを増やす」ため、「103万円を大幅に引き上げる」ことに関し、与党が賛成するのであれば、補正予算案の成立に協力するというスタンスをとった。政権の中に入るのではなく、個別政策の協議・合意により与党に協力するという戦術である。
この「103万円の壁」問題であるが、実は、20年以上前から問題になっていた。後述するが、当時は女性の社会進出を阻むものとして「103万円の壁」が問題視された。それが今回は、こうした視点からの問題提起はなく、労働者の手取りを増やすために「103万円の壁」を見直すことが必要という提案になった。この視点の変化は、20年前からこの問題を論じてきた筆者には興味深いことである(注1)。
本稿では、「103万円の壁」問題をめぐる歴史的経緯を説明するとともに、今回の「103万円の壁」の見直しに関して、その課題や解決の方向について解説する。
「103万円の壁」問題とは
パート労働者など事業主から給与を受け取る労働者は、所得税の算定にあたって、基礎控除額48万円に給与所得控除額55万円を加えた合計103万円までは、所得税がかからない。逆に、103万円を超えると、所得税負担が生じてくる。そこで、パート労働者の中には所得税が非課税となるように仕事の量を調節する人が生じる。これが「103万円の壁」と呼ばれている問題である(注2)。
基礎控除や給与所得控除は、税制において所得控除と呼ばれるものである。
基礎控除は、課税所得金額を算定するときにすべての対象者に対して総所得金額から一定の金額(48万円)を控除する(2020年以降、合計所得金額が2,400万円超の人は基礎控除額が減額され、2,500万円以上の場合はゼロになった)。基礎控除について、納税者本人の生活維持のための最低限の生活を守るもの、と説明する人がいるが、年間48万円で最低限の生活を送ることは到底困難である。国税庁のホームページでは、基礎控除は前述の説明のとおりで、最低生活を守るもの云々の説明はない。
給与所得控除は、給与所得者の年収に応じて控除できるもので、年収にあわせて最低55万円から195万円が上限となっている。これは、自営業者に認められる必要経費を、給与所得者に対しても一定金額を必要経費として認めるという性格のものである。
ところで、昨年の「103万円の壁」問題の議論の中で、この水準は1995年以来変動していないということが明らかになった。ただ、基礎控除と給与所得控除の金額には変化があった。2018年の税制改正により、2020年から、基礎控除額が10万円引き上げられて48万円になった。一方で、給与所得控除額の見直しも行われ、最低額は10万円引き下げられ55万円になった。その結果、「103万円の壁」の103万円自体には変化はなかった。
ちなみにこのときの税制改正では、基礎控除の引上げは減税につながるが、他方で給与所得控除の引下げは増税につながる。年収が700万円程度の人までは、所得税に変化はなかった。しかし、給与等の収入金額が1,000万円超の人の場合、給与所得控除額は220万円から195万円に引き下げられたので増税となった。一般に、増税に対しては国民の反発が強いが、1,000万円超という高所得者に対する増税は、反発が表面化することなく実施された。
「103万円の壁」は女性の社会進出を阻むものという議論
冒頭の「はじめに」で述べた通り、この「103万円の壁」は、長い間、「女性の社会進出を阻むもの」として批判を受けてきた。批判者には女性の研究者が多く、その際、配偶者控除の存在とセットで批判された。
長い間、日本の家庭は、夫が家計の主たる稼ぎ手であり、妻はパートなどで家計を補助するものというのが一般的な姿であった。この場合、妻の所得を103万円以下にすれば、妻に所得税はかからない上に、夫は配偶者控除(38万円)という所得控除を受けることができ、夫の所得税が減額された。そこで、妻はパート労働で所得を103万円以下に抑える行動をとる。このことが女性の社会進出を阻害することになるので、配偶者控除は見直すべきである、という意見になる。
政府内でも配偶者控除の見直しはしばしばテーマになり、たとえば、2014年3月、当時の安倍首相は、経済財政諮問会議と産業競争力会議の合同会議で、専業主婦家庭の税負担を軽くする配偶者控除の見直しを検討するよう指示をした。
しかしながら、各種調査をみると、女性のパート労働者の場合、収入が103万円を超えないように就業調整をしている人ばかりではない。また、配偶者控除という名称から配偶者を特別扱いしているように見えるが、配偶者控除額は、扶養控除額と同額であって、配偶者を特別に優遇しているものではない。筆者は、「103万円の壁」や配偶者控除が女性の社会進出を阻害しているという見方は偏っているのではないか、と考えている。
また、「103万円の壁」については、一般に誤解している方が多いのではないかと思う。仮に103万円を1万円超えた場合、所得税はかかるがその金額は500円に過ぎず、手取りは増える。
103万円を超えると、配偶者控除の適用はなくなるが、今度は配偶者特別控除の制度がある。所得が150万円までは配偶者控除と同額の38万円の配偶者特別控除があり、さらに所得が増える場合、控除額は小さくなるけれども所得が約201万円までは配偶者特別控除を受けることができる。
このようにみると、103万円は税負担面では「大した壁ではない」ということもできる。ただ、会社で、家族手当として配偶者手当を給付している場合、その条件として配偶者が所得税非課税としていることが多いので、この場合は「103万円の壁」が意識される。
「178万円」と「123万円」の綱引き
国民民主党は、非課税基準の123万円が1995年以来見直されてこなかったことから、当時から現在までの最低賃金の伸び率(1.73倍)を反映させて、103万円から178万円への引上げを選挙公約とした。
基礎控除額と給与所得控除額をどのように引き上げて178万円とするのかははっきりしないが、基礎控除の引上げは全ての人に関係するし、給与所得控除の引上げは非課税基準すれすれの人ばかりでなく全ての給与所得者に関係する。したがって、国民民主党の主張は「103万円の壁の引上げ」であると同時に、国民全体に大幅な減税をもたらす「減税要求」でもある。
103万円から178万円と控除額が75万円も増加するのだから減税効果は大きい。国民民主党によれば、年収200万円の人は8.6万円、年収600万円の人は15.2万円の減税になるという。年収が多いほど減税額は大きくなる。これは働く人すべてに関係するから、減税額を総計すると巨大な額になる。
この結果、仮に国民民主党の主張どおりに「178万円」に引き上げるとしたら、国と地方であわせて7〜8兆円の減税になるのではないか、ということが言われるようになった(注3)。
国民への減税は、国や地方からみれば、所得税収入や住民税収入の減少を意味する。
自民、公明、国民民主党の3党協議の中で、自民党は、減税分の財源確保策を明らかにすべきと主張した。地方団体からも、地方税の減収は、福祉や教育、少子化対策などで地方自治体が独自に行ってきた政策が税収減により継続できなくなる、仮に減税を行うとしたら国からの財政支援策が必須という声があちらこちらであがった。
一方、国民民主党は、国の税収が年間で7兆円前後増加している状況では減税も可能ではないか、また、減税により消費が拡大されれば結果的に税収増につながると主張した。ただし、この点は確証がないし、仮にあったとしてもタイムラグが生じるので税収減をすぐにカバーするものではない。
結局、2024年12月、自民・公明は、与党税制改正大綱において、「103万円の壁」を「123万円」にすることを決定した。123万円という数値は、1995年からの物価上昇率を配慮したものだという(注4)。123万円への引上げによる国・地方の減収は、6,000〜7,000億円と見込まれる。
具体的には、基礎控除を現行の48万円から58万円に引き上げる、給与所得控除の最低保障額(55万円)を10万円引き上げて65万円にする。住民税の所得割については、2026年度分から給与所得控除の最低保障額(55万円)を10万円引き上げ、住民税の基礎控除(43万円)は据え置く。
この結果、所得税の課税最低限は、従来の103万円から123万円に引き上げられる。給与所得控除額の引上げは年収190万円までの人を対象にする。仮に年収150万円であれば、課税所得が基礎控除と給与所得控除の引上げの計20万円減少するので、1万円の減税になる。住民税でも1万円の減税となるので、あわせて2万円の減税になる。
一方、年収190万円以上の人は、給与所得控除の額は変わらず基礎控除だけ10万円上がる。年収によって減税額は異なるが、年収500万円の人は1万円、年収800万円の人は2万円の減税となる。住民税には変化がない。
今後どうなるのか
国民民主党の「178万円への引上げ」主張が与党を動かし、30年ぶりに所得税の課税最低限が123万円に引き上がることとなった。
自民、公明、国民民主の3党の幹事長は、与党が税制改正大綱をまとめる前に、「178万円を目指して来年から引き上げる」という合意文書を交わしていた。税制改正大綱のあとも、3党の幹事長は、「合意した内容の実現に向け、引き続き関係者間で誠実に協議を進める」と文書で確認した。
当然のことながら、国民民主党は、今回の123万円への引き上げでは不満であり、引き続き178万円の実現をめざしていくとしている。
NHKが本年1月に行った世論調査によれば、「103万円の壁」の見直しについて、「123万円が妥当」が28%、「さらに引き上げるべき」が50%、「引上げ自体に反対」が10%という結果であった。
世論の動向としては、123万円への引き上げでは不十分というところである。
本年1月24日から始まる通常国会における令和7年度予算案の採決にあたって、国民民主党は与党が決定した123万円を178万円に引き上げることを主張するだろう。しかし、さらなる引き上げについては、これによる減税分をカバーする安定的な財源の確保が不可欠である。国民民主党は最近の税収の上昇分をあてることを主張するが、もともと日本の財政は税収だけでは賄えず、国債収入に依存していることが周知のとおりである。税収の上昇分を減税にあてることは、財政の不安定さが増すばかりとなる。
税制の技術論的な面では、123万円をさらに引き上げるには、基礎控除と給与所得控除をそれぞれどのくらい引き上げるかが焦点になる。基礎控除は、すべての人々を対象としているのでこの大幅な引き上げは、減税額を拡大させる。給与所得控除については年収に応じたものなどで、給与所得控除の最低保障額だけを引き上げることにすれば、減税額の拡大を抑制することができる。
103万円というのは、日本の所得税の課税最低限である。日本は課税最低限が欧米に比べて低いとされる。また、一般にアメリカをはじめ主要国では、課税最低限の年収基準は物価上昇率に連動して動かすことが主流になっている。最低賃金の変化で調整している例はない。
とすれば、ここ2年間の物価上昇率が高いことや、課税最低限をもう少し引き上げるという政策的見地から、140万円から150万円の間が調整可能な数値ではないか。また、その場合でも、年収が高い層の給与所得控除額を現状のままにすれば減税規模を抑制でき、現実的な対応が可能になるだろう。
(注1)増田雅暢「配偶者特別控除の廃止論に疑問」(週刊社会保障2208号、2002)、増田雅暢「配偶者控除見直しに異議あり」(週刊社会保障2777号、2014年)、これらの論文は増田雅暢社会保障研究所のホームページに掲載
(注2)住民税の基礎控除は43万円なので、98万円以上103万円以下の人は、所得税負担はないが、住民税負担は生じる。
(注3)政府は「7〜8兆円の減税」というが、その積算内容は公表されていない。たとえば給与所得控除について一定収入以上の人に対して上限をつければ減税額は縮小するが、そうした議論をするためにも詳しい積算内容が必要である。
(注4)物価上昇率といっても複数の指標がある。消費者物価指数(総合)とするのか、その中の生活必需品とするのか、あるいは食料品とするのかで、上昇率は変わってくる。