1 私と東南アジア
私は、外交官として米国、英国、中国など8カ国の在外公館に勤務したが、そのうち4カ国(インドネシア、タイ、ベトナム、フィリピン)が東南アジアの国々であった。ベトナムとフィリピンでは大使を務めた。また、1977〜78年に外務省南東アジア第一課の課長を務めたが、当時、同課はタイ、ベトナム、ラオス、カンボジアを担当していた。
このように私は東南アジア諸国と関係が深かったが、それを振り返ってみる時に、その中からとくに印象に残るできごとを二つ挙げてみたい。
まず、1977年の「福田ドクトリン」である。これは、福田赳夫総理(当時)がアセアン諸国(当時は5カ国)を歴訪し(1977年8月)、その最後の訪問国、フィリピン・マニラにおいて表明した、今後の東南アジア外交の基本原則である。
その主な内容は、次の三つに集約される。
①日本は軍事大国とならず、世界の平和と繁栄に貢献する。
②アセアン各国と「心と心の触れ合う信頼関係(heart to heart relationships)」を構築する。
③日本とアセアンは対等なパートナーであり、日本はアセアン諸国の平和と繁栄に寄与する。
これは非常に画期的な方針で、以後、日本の東南アジア外交の大原則となり、今日まで引き継がれている。当時、私は外務省の南東アジア第一課長としてかかわったこともあり、印象深いものであった。
もう一つは、私が駐ベトナム大使をしていた時期(1991〜94年)のできごとであるが、日越関係を考える時に非常にエポックメイキングなことであった。
ベトナムは、ベトナム戦争を経て1976年に北ベトナムによって統一されたが(ベトナム社会主義共和国)、1978年12月にベトナム軍がカンボジアに侵攻し、首都プノンペンまで攻め込んで、翌年1月にはベトナムの傀儡政権による支配がはじまった。そのためベトナムは、世界の非難を受け主な国々との関係が凍結され、その状態が10年余続いた。
各国の働きかけや努力もあり、1991年10月にパリにおいてベトナムとカンボジアに関する国際平和会議が開かれ、カンボジア和平合意(パリ和平協定)が調印された。このできごとによって、ベトナムの対外関係は一転し、日本をはじめとした世界各国との関係が好転し始めた。
そこで日本は、この間凍結していた対ベトナムODAを再開したほか、ヴォー・ヴァン・キエット首相(当時、在任1991-97年)を日本に招待し日越首脳会談を開催し協力を推し進めた。今日、日越関係は非常に良好であるが、その嚆矢となるできごとであった。
2 日本にとっての東南アジアの重要性
日本の一般国民の方々にも知っていただきたいこととして、東南アジアの重要性について述べてみたい。
欧米諸国の「重み」とは違うとはいえ、さまざまな面で日本にとって東南アジアは重要な地域である。
まず、貿易立国の日本の対外貿易額で見ると東南アジアは、米国、中国、EUに次ぐ大きな柱になっている。天然資源・食料品の輸入先を見ても、例えば、天然ゴム、パーム油は9割以上、バナナも8割以上を東南アジアが占めている。その他にも東南アジア諸国から輸入される資源や食料は多い。
日本の投資先としても、中国・米国・インドなどと並んで、有望な地域となっている。とくにベトナム、タイ、インドネシアは有力な投資先だ。
また経済安全保障の面でも重要な地域である。日本は中東地域から多くの石油を輸入しているが、その輸送ルートはマラッカ海峡など東南アジアを経由しており、東南アジア地域が平和で安定していて親日的であることは、日本にとって死活問題でもある。
国際政治の面で見ると、東南アジアは親日国が多く、国連での投票等で日本を支持してくれる効果は大きい。
日本の労働力不足を補う上で、東南アジア諸国からのマンパワーは大きな割合を占めるようになっている。
このように、政治、経済面で東南アジアは日本にとってなくてはならない重要な地域になっている。
3 東南アジアの多様性
東南アジア10カ国はみな似たような「アジアの国」と認識している人も少なくないかも知れないが、実際には各国ともさまざまな特徴を持っていて実に多様だ。
人種、言語の違いは言うまでもないが、大乗仏教のベトナム、小乗仏教のタイ、キリスト教のフィリピン、イスラームのインドネシアなど宗教を見ても、多様性に富んでいる。
政治体制で見ても、民主体制、立憲君主制、共産党一党体制などさまざまで、それに伴い経済体制も違っている。
人口でいうと、多い方からインドネシアの2.78億人、フィリピン1.16億人などの人口大国からブルネイの44万人と小国もある。国土面積も同様だ。
国民性もそれぞれ特徴がみられる。一例として、私が大使として赴任したベトナムとフィリピンを比較してみたい。
ベトナム人は、大乗仏教、儒教、(かつて)漢字文化圏、箸文化など、むしろ北東アジア文化圏に近い人々だ。
他方、フィリピン人は「アジアのラテン系」と言われるほど、陽気な人たちだ。かつてNHKで放映した連続テレビ小説『おしん』(1983年)は、中東地域など海外でも人気を博したが、フィリピンだけはうけなかった。艱難辛苦を忍耐するという内容は、フィリピン人の気質に合わないようだ。例えば、2007年のGMA Networkのフィリピンのドラマ「MariMar(マリマール)」は最高視聴率52.6%を記録するほどの人気ドラマだったが、それは一種のシンデレラ物語のような内容であった。その背景には、かつてスペインの植民地であったことがあるかもしれない。
4 アセアンの重要性
このように多様性に富む東南アジアではあるが、現在では、「アセアン」としてまとまっており、国際政治の上でも大きな力を発揮するようになった。
アセアンは、東南アジア5カ国(タイ、フィリピン、インドネシア、マレーシア、シンガポール)によって1967年に設立された。日本には「アセアンは反共の砦だ」と考える人も一部にいるようだが、それは設立目的とは違った見方だ。アセアン設立の目的は、①域内における経済成長、社会・文化的発展の促進、②域内における政治・経済的安定の確保、③域内における諸問題に関する協力だった。
東南アジアに勤務してみるとよくわかるが、アセアン諸国は域内の協力プロジェクトをたくさん作って一体的な運用を推進しようと努力している。決して反共というイデオロギーでまとまっているわけではない。アセアン設立以前、この地域では国境紛争がみられ、その解決とともに、域内の政治的安定と経済成長を確保しようとしたことが出発点となったと思う。
ただ、1970年代に米軍のベトナムからの撤退、インドシナ半島での共産化の動き、中国の台頭、ベトナムによるカンボジア侵攻に伴い、アセアン5カ国はそれに対抗する形で政治的な結束を強化し、安全保障問題にも積極的に関与するようになった経緯がある。
アセアンの本来の目的であった、域内国がまとまって発展を図ろうという方向性に関しては、日本も(ODAを含めて)協力してきた。2015年には、アセアンの中に、アセアン経済共同体、アセアン政治共同体、アセアン社会共同体というプロジェクトを設けて、分野ごとの協力・結束を図ろうとしている。また2023年は日本とアセアンの友好協力関係50周年の記念すべき年であったので、同年12月に東京において日本は、アセアン10カ国の首脳を集めた特別首脳会議を開催した。
もう一つアセアンについて特筆すべきことは、域外大国を呼び込む力を持っているという点である。アセアン首脳会議においては、(日本も含め)米国、中国、ロシアなど域外大国を取り込んでおり、会議期間中には、そうした大国同士の首脳会談など多彩な外交の場も提供している。
毎年開催されるアセアン首脳会議には、このように域外の大国が参加しているが、そのような力(存在感、パワー)をもった共同体はなかなかない。そのような場を利用して、中国に対する働きかけもしている。このようにアセアンは、域内の問題だけではなく、国際政治・経済面でも貴重な存在となっている。
5 これからのアセアンと日本
これからのアセアンと日本は、対等な信頼関係を基調とすべきだろう。かつては日本からODAなどの経済援助や投資をするという、どちらかというとタテの関係の側面が強かったと思うが、アセアンの経済的な地位の向上に伴い、対等な関係を基本とするようになった。よく考えてみると、その内容はいまから半世紀前の「福田ドクトリン」が唱えたことでもあったが、それを現代的な言葉で表現すると、「共創」ということになるだろう。
さらに日本が国際社会でいろいろな役割を果たしていく上で、米国のパワーの相対的な低下という情勢の中、日米関係を基軸としつつも、諸外国と意志疎通を図りながら応分の(独自の)役割を果たしていくことも求められている。いまやインド太平洋(アジア太平洋)の時代を迎え、日本としてはアセアンも重要なパートナーとして再認識し、取り組む必要があるだろう。
再言するが、これからの日本とアセアンの関係を考える上で、「福田ドクトリン」の基本精神を生かしていくことは、非常に価値あることだと痛感している。