シンガポールの基礎情報
シンガポールは日本よりずっと小さく、唯一の資源は人である。それゆえに、人材育成、リーダー育成は非常に重要な位置づけになっている。シンガポールがいかにして教育を整備してきたのかを話したい。
シンガポールは、英国の海峡植民地、第二次大戦中の日本の占領期を経て、1963年にマレーシア連邦の一州として参加する。しかし、合流後においてシンガポールの首相だったリー・クアンユーは、民族を問わず能力と努力を重視するメリトクラシー政策を重視しており、マレー人優遇を掲げるマレーシアと折り合わなかった。そのため、1965年には分離独立している。
シンガポールは多民族国家であり、華人系(中華系)がマジョリティで75.6%、マレー系が15.1%、インド系が7.6%、その他(ユーラシア系、アラブ系、ユダヤ系など)が1.7%である。
そのように民族構成が多様であるため、独立時には言語の統一が必要だった。元々英国の植民地だったこともあり、リー・クアンユーは行政言語でもあった英語を全国民の公用語にした。また、それぞれの民族内では多様な言語が話されていたが、華人系は華語(北京語)、マレー系はマレー語、インド系はタミル語が民族の「母語」とされた。
そのため、学校では公用語である英語と母語の両方を教える二言語政策が徹底されている。母語自体の授業と文学、小学校段階における「人格・市民教育」の授業は母語で行われる。
教育への投資と成果
シンガポールでは、教育への投資が大きく、教育省の予算は政府支出の約15%を占めている。元々は国防省に次ぐ第2位の予算規模だったが、少子高齢化の影響で保健省の財政が拡大し、現在は第3位となっている。
教育への投資が大きいためか、近年はTIMSSやPISAなどの国際学力調査で上位を占めてきた。TIMSSは小学4年生と中学2年生の算数・数学及び理科の基礎学力を、PISAは15歳児の数学および科学のリテラシー、読解力とそれらの実生活上への応用を評価する。2019年のTIMSS、2022年のPISAでは、シンガポールは全ての領域で1位であった。
学校制度は、基本的には小学校6年間、中学校4〜5年間、日本の高校にあたる中等後教育が1〜3年間である。義務教育は小学校だけで、中学校は義務教育ではない。学区は存在せず、子供が小さい頃から学校選択制である。ほとんどの学校が国公立で、私立学校には宗教学校が5つほどある。元々私立学校として設立された独立学校(independent school)もあるが、国家の独立時に、教育の一貫性を確保するためにリー・クアンユーがそれらの学校を教育省の管轄下に置いた。一部の名門独立学校では、予算の8割を国が出すが、残り2割は寄付金などで自ら獲得するよう求められる学校もある。こうした独立学校が人材育成の中核を担っている。
能力別コース振り分け
シンガポールの教育制度において最も特徴的なのは、トラッキング制度というドイツの分岐型教育に近い制度を取っていることである。2023年までは、児童は小学5年生から、科目ごとに能力に応じて基準コースと基礎コース(例えるなら「うさぎ」と「かめ」)に振り分けられ、コースごとにある程度決まった進路に進むようになっていた(2024年以降は後述)。小学校卒業時には修了試験があり、その成績によって、中学校では60%がExpress(快速)コースに、40%がNormal(普通)コースに進む。中学校卒業時にはやはり修了試験があり、ExpressコースではGCE ’O’ Levelというテストを、NormalコースではGCE ‘N’ Levelを受験する。
中等後教育の選択肢は、コースとGCEの成績によって変わる。GCE ‘O’ Levelで良い成績を残した場合、大半の生徒は大学進学をめざすJunior College(JC、2〜3年)に進学する。それほど良い成績を取れなかった場合、日本の高等専門学校に相当するポリテクニック(ポリテク、3年)に進学する。成績が悪ければ、日本の専門学校に相当する技術教育校(ITE、1〜3年)に進学する。一方、GCE ‘N’ Levelの場合は、ほとんどの場合ITEしか進路はない。ただし、’N’ Levelで良い成績を修めれば、中学校を1年延長して ’O’ Levelに挑戦することができる。進学者全体で見ると、JCに30%、ポリテクに45%、ITEに25%程度が進学することになる。
JCの卒業時には、大学進学のための資格試験であるGCE ‘A’ Levelを受験する。合格者の9割以上は大学に進学する。ただ、国全体で見ると大学進学率は3〜4割程度である。全員が大学に行く必要はないという考えから、大学進学率は抑えられてきた。ポリテクを修了する場合は就職が主な進路だが、成績が優秀であれば大学の2年生に編入することができる。ITEの場合は、ほとんどの生徒が手に職をつけ、技能職として就職する。小さい国なので、医師や弁護士のような高度専門職ばかりでなく、様々な分野で活躍する人材が必要になるためである。
ただし、一度の振り分けで大学進学の道が絶たれるわけではない。ITEで成績がよければ、ポリテクの2年生に編入できる。そして、ポリテクでも成績が良ければ大学に編入できる。つまり、頑張ればITEからでも最終的に大学に進学できる、袋小路のない制度になっているのである。
ITEへの注力
ITEは以前、学力が低い「かめ」が行く場所として、”Is The End”と揶揄されていた。しかし、教育省のスタンスは、ITEで「終わり」なのではなく、ここからスタートというものである。
ITEでは、国の支援を受けながら技術を身につけ、資格を取得することができる。美容師やパティシエ、シェフや整備士など50以上ものコースがある。また、国家資格が必要な職種の育成も全て担っており、イベントプランナーや栄養士、保育士なども責任をもって育成する。
加えて、国立であるため、日本の私立専門学校のように高額な学費もかからない。校舎も非常に立派で、どれだけ国が投資しているかが分かる。私の調査でも、ITEに入学した人は、国が自分達のことを大切にしてくれていると感じられるという結果が出ている。
このようなITEの取り組みは、世界的にも認められている。ITEは、今から17年前、IBMのイノベーションアワードにて、最も社会に変革をもたらした組織に唯一選出された。OECDの報告書でも、世界で最も優れた技術教育を提供している機関と表現された。
上位層の教育
一方、JCに進学する能力が高い生徒には、日本の普通科高校よりも高度な教育が行われている。JCのカリキュラムで最も難易度が高いのは、最後に論述試験を課されるGeneral Paperという科目である。この科目の試験では、12問程度の問いから一つを選び、90分で500〜800語の小論文を英語で書くことを求められる。テーマも「教育において競争は必要か」や「現代において愛国心は奨励されるべきか」など、決まった正解のない内容に自分の考えを述べていくものになっている。普段の授業は週3コマ程度であり、たいていディベートを行う。
ちなみに、四択問題は小学校までであり、中学校以降は全て記述問題である。だから、英語が苦手な子供は、あえて進学コースであるJCを避けてポリテクに進学し、そこから大学進学をめざす場合もある。自分の適性を考えて進学先を選ぶことも、シンガポールの進路選択の在り方である。
以上のように、シンガポールでは能力が高い子供に高度な教育を施すとともに、低学力であっても充実した人生を送ることができるよう手厚く教育してきたのである。
近年の改革
ただ、近年は一人ひとりの個性をより活かせるような改革も行われている。まず、従来小学校で行われていた科目ごとの能力別クラス編成が、2024年1月から中学校段階まで拡大された。これは、中学校におけるExpressコースとNormalコースの振り分けは行われなくなったということでもある。主要科目は能力別のクラス分け、音楽・体育などの実技科目は同じクラスで行う。これは、それぞれ日本で取り組みが始まった「個別最適な学び」と「協働的な学び」の実践例でもある。
また、他にはない特色を打ち出す中学校も見られるようになった。例えば、スポーツや理工系、ICT教育に特化した中学校などがある。また、全中学校のうち12%が中高一貫校になっており、受験準備にかかっていた時間を全人的教育に充てるようになっている。他に、小学校の修了試験をクリアできなかった生徒向けの特殊な中学校もある。
教員養成と質の保障
このような教育制度を運営するため、シンガポールでは優秀な教員の養成、確保に力を入れ、教育の質を高めている。
シンガポールの大学には教職課程がなく、大学を卒業した者のうち、成績上位3分の1のみが教員養成コースに応募する資格をもつ。その上で、教育省の面接を通過すれば、国立教育学院で訓練を受けることができる。国立教育学院に在学する間も給与が発生する。税金を使って訓練を受けるため、最低でも3年間は教員の職務に従事することが求められる。教育実習は、校種によって異なるが、最短でも半年ほどの期間が設けられている。
校長は学校の総責任者と位置づけられ、大きな裁量権を持っている。校長を対象にした調査では、教員の採用において5割以上、教員の解雇・停職については5割弱の校長が「自身が重要な責任を持つ」と回答した。また、校長は生徒の入学許可にも権限を持っており、学力とは別の才能があると判断した場合は、当該生徒を入学させることができる。学校内の予算配分に至っては、95%もの校長が自分に裁量があると答えている。このように大きな裁量を持った校長の給料は、最低でも月収100万円以上である。そうした裁量の大きさと待遇に見合った質を確保するため、校長になるためには教員養成とは別途訓練を受ける必要がある。
これらの事情を反映してか、教職の社会的地位は高い。OECDが行ったTALISという調査では、「教職は社会的に高く評価されていると思う」と答えた校長が98.4%、教員は72.0%だった。
「しんどい学校」の工夫
ここまで、メリトクラシーに基づいて、国の将来を担う人材を育てる仕組みを見てきた。一方で、シンガポールは、教育格差を縮小するために、「下に手厚く」の原則を最優先にしている国でもある。その具体例として、低学力層が多い「しんどい学校」の様子を紹介したい。
貧困層が多く住む地域にある「マーライオン小学校」も、「しんどい学校」の一つである。「しんどい学校」ではあるが、学習の姿勢をつくるところから教育が行われている。朝は早く、7時20分から講堂で朝礼集会が始まる。講堂のスクリーンには「そっと歩き、速やかに座り、黙って読書し、他人の邪魔をしない」などの「良い習慣」が書かれている。集会が始まれば毎日国家斉唱をする。その後、児童の代表がステージに上がり、「今日のメッセージ」を述べる。この日は、「我々に責任があるとされることになるのは、我々がすることだけではなく、我々がしなかったことも含まれる」という、フランスの劇作家であるモリエールの言葉が引用された。
朝礼集会の後、7時半から授業がスタートする。私は、小学4年生の一番学力が低いとされるクラスを対象に、参与観察をしてきた。小学4年生だが、校長の判断で、能力別のクラス編成を行っていた。教科書は使わず、児童のレベルに合った教材を選んで使っていた。例えば、英語の授業では”Making Ice Cream”という教材を使い、グループで考案したアイスクリームについて英語で発表するということが行われた。また、算数の授業では、図形などの「対称性」を教えるために、視覚的にわかりやすい絵を使っていた。チームティーチングが行われており、理解が難しい子供には教員がつきっきりで指導を行っていた。学力があるクラスだと、言葉で理解できるので視覚的な手法は採らないし、教員も一人で十分である。子供たちの力量に合わせて、教材も教え方も工夫されていた。
教育格差の状況
視察時に、教員や子供たちを対象にインタビューも行っている。そこからは、次のような課題が見えてきた。
①認知能力と集中力の問題:(マーライオン小学校には)学力の低い児童や、特別支援が必要な児童が多い。
②家庭環境の問題:家庭からのケアやサポートが不足している。ボロボロの靴を履かせているなどケアの不十分さ、自殺願望やリストカットの問題などを抱えた児童の存在が指摘された。
③民族格差の問題:学力は民族よりも家庭環境に左右されると述べる教員もいるが、マレー系児童の多くが貧困層に属していると指摘された。また、マレー系の人々の「勉強しなくても平気」なところや「気まま」な気質、華人系とは異なる「価値観と人生観」を学校教育と調和させることに苦心している様子がうかがわれた。
④外国人児童の問題:自分の仕事は教えることだから、児童の出身国は関係ないとする教員もいる。一方、異文化とのふれあいを肯定的に捉えながらも、結局本国に帰ってしまうことに徒労感を感じる教員もいた。
⑤母語に関する問題:子供たちは母語よりも英語に接する機会が多い。そのため、小学5年生になっても十分に母語を読めない児童もいる。家で母語を話していても文法的に正しくない場合も多いと指摘されている。また、子供もその親も、母語を話すことはクールでないというイメージを抱いていることがある。
⑥英語に関する問題:家で英語を話していても文法的に間違いだらけだったり、簡単な英文の質問も理解できなかったりする児童がいる。また、英語の辞書を見たことがない子供も多い。国勢調査によれば、英語を話す家庭は未だに5割を超えていない。子供たちにも成績が良くない理由を聞いたところ、「先生の質問が分からないから」という答えが多く、学校で不利になっていることがうかがえた。
⑦性差に関する問題:男子には「遅咲き」が多く、小学5年生から行われてきた習熟度別クラス編成で不利になりがちであることが指摘された。学習内容がより薄い基礎レベルに振り分けられるのは、男子児童のほうが多いという。
分厚い教員層
教育省も「しんどい学校」の状況を理解しており、「しんどい学校」には「最強」の校長が赴任する。マーライオン小学校の前任校長(2012年12月〜2017年12月)は、優秀な成績で修士号を取っただけでなく、その後、教育省の本部の部長になっている。彼の後任(2017年12月〜)は、シンガポールの校長育成コース(Leaders in Education Program)において首席(Valedictorian)で卒業した女性である。
また、マーライオン小学校の教員には、中途採用者も多い。社会経験のある教員は歓迎される。教員になる前の職業をみると、ビジネスマン、銀行員、看護師など多様である。これらの教員は、元の仕事をやめた後、国立教育学院を経て免許を取得している。新卒者よりも大人であり、シンガポール社会における様々な階層差や格差を理解している中途採用の教員こそ、「しんどい学校」で教えてほしいと考えられている。
教員になった理由を聞くと、教員のほうが無給・有給の休暇が多く、かつ取りやすいこと、金融業などの一般企業と比して苛酷でないという答えがあった。シンガポールの教員も決して暇ではないが、日本ほどの長時間労働の問題はない。さらに、校外学習費の集金などの事務仕事は、電子化されているか別の職員が担当し、教員はプロとして教えることに専念している。
「下」に手厚い支援
家庭環境などによる格差はどうしても存在する。それゆえ、格差の存在を前提にして、それを是正する手段を講じるかというのが、シンガポールの教育における姿勢である。
その一つが、経済的に厳しい層への支援である。「経済的な理由で進学を断念せざるを得ない国民が1人でもいてはいけない」が教育省のポリシーになっている。ほぼすべての学校は国公立であるため、授業料は低く設定されている。また、世帯月収がS$3000以下、もしくは一人当たり所得がS$750以下の場合、学費・雑費全額免除、教科書・制服は無料となる(2024年1月現在S$=約110円)。また通学定期支援、食費、助成金などが提供される。
授業料の高い独立学校の場合、本来は月額S$350かかるが、1人当たりの世帯月収に応じて学費や雑費が変わる。世帯月収がS$7500以下の場合はS$49.50、S$10000以下の場合はS$234.50である。
また、学習支援も取り組まれている。基本的に塾に行かなくても学校がしっかりと教えるが、準政府機関や民族ごとの自助組織が安価な塾を提供している。華人系の自助組織を例にとれば、それぞれ月収から500円が天引きされ、自助組織の資金となる。これが嫌な場合は、オプトアウトすることができる。ただ、大体の国民は500円くらいなら構わないと考えている。そして、国民から拠出された金額と同額のお金を、国も投資する。そうして、毎月数億円を使い、低階層への支援が行われている。
このほか、全ての子供にEdusave Accountという教育貯蓄口座が与えられ、小学校から高校まで毎年入金される。年次の入金に加えて、①Achievement(成績)、Good Leadership and Service(優れたリーダーシップの発揮)、②Good Progress(著しい成績向上)、③Character(成績が悪くても、良いことをする模範生)、④Skill Awards(ITEに入学し、高い技術を身につけること)といった基準に応じて追加入金がある。
Edusave Accountに入金されたお金は、子供のためにしか使えない。例えば、学校の研修旅行や、特別な書籍の購入などに使われる。担当教員と校長のサインが無ければ、親は勝手に使うことはできない。
これらの取り組みにより、家庭環境などによって格差が存在しても努力すれば能力を伸ばせる環境を整えている。
日本への示唆
日本の教育制度は、皆が同じ教育内容で学ぶことができるという意味で平等である。それ自体は良いことだし、日本の平均学力は高い。しかし、画一的な教育によって能力差や格差がなくなるわけではい。シンガポールでは、格差を前提に、それぞれの能力をそれぞれのペースで伸ばし、国も個人も幸せになろうという発想をしている。互いに学び合い、よりよい制度設計をしていくことが重要だろう。
(本稿は2024年2月2日に開催された政策研究会の発題を整理してまとめたものである。)